南へ出て二日目、偵察に連れてきたガトリンが地面に這いつくばった。
何の前触れもなかった。さっきまでエリアフの少し前を歩きながら、昨日食った肉が固かっただの、南の村の女は香油がきついだの、どうでもいいことを喋り続けていた男が、途中でぴたりと止まった。そのまま腰を落とし、両手を土につける。エリアフはもう驚かない。後ろを歩いていた連中も、その横を普通に通り過ぎた。
ガトリンは道端へ顔を寄せ、鼻を鳴らしていた。頬が土につきそうなくらい低い。馬の蹄に踏まれて固くなった泥を爪で崩し、指先で擦る。それを鼻へ持っていき、何度か吸い込んだところで、いつものように口の端が上がった。
なにか見つけたような顔だ。
エリアフは少し戻った。
「いた?」
「いるな。昨日ここ通ってる。馬が六……いや、七だな。一頭、右の後ろ脚がおかしい。蹄が少し欠けてんのかもしれねえ。人間は十人より多いな。こいつら臭えから分かりやすい」
エリアフには馬の足跡がいくつか重なっているようにしか見えなかった。しゃがんでみたところで何も変わらない。土は土だった。鼻を近づける気にはならない。
ガトリンはまだ指先の泥を見ている。
「人間、何人?」
「知らねえよ。十かもしれねえし十五かもしれねえ。ただ何人かずっと同じ服だな。汗が混ざってる。それと血。誰か怪我してる。脚じゃねえかな」
そう言いながら親指を舐めた。
エリアフはたまらず顔をしかめた。
「それ舐める必要あんの?」
ガトリンは少し考え、それから道端へ唾を吐いた。
「ない。口に入った」
わざとに決まってる。
三年前に入ってきた時から、こいつは何でも嗅ぐ。土も、服も、汗も、死体も、馬の尻も変わらない。最初の頃、エリアフは面白がって何度もついて回った。途中までは本当に面白かった。草を嗅いで鹿の通った時間を当てたり、同じ道を歩いた人間を別々に追い分けたりするのは、固有術でもないのにちょっとした魔術みたいだった。
ただ、そのうち嫌になった。
ガトリンは人間も嗅ぐ。
しかも嫌がると喜ぶ。
エリアフも昔、寝ているところへ鼻先を首に押しつけられたことがある。それ以来、ガトリンが後ろに立つと少し気になってしまう。
本人の話では、父親が猟師だったらしい。子供の頃から猟犬と一緒に山へ放り込まれ、獲物を追わされた。犬が死んだ時には代わりに自分が走らされたとも言っていた。どこまで本当かは分からない。ガトリンは昔の話をするときまでニタニタしているので、エリアフには判断がつかなかった。
立ち上がれば見た目は普通の男だった。痩せ気味で腕が長い。鼻も別に大きくない。犬に似ているわけでもない。ただ口元がいつも少し緩んでいる。何かが面白いのを我慢しているような顔をしていて、それが追跡になると露骨になる。
「もう少し東だな。一回道外れてる。水場寄ったんじゃねえか」
ガトリンは立ち上がり、しばらく歩いた。十歩もしないうちにまた止まる。今度は一本の木に近づいて、幹の下を嗅いだ。
「ここで小便してるな」
ドバンが振り返った。
「分かったから追え」
「急ぐ?」
「日が落ちる前に場所だけ見る」
ガトリンの口がさらに広がった。
汚い歯茎まで見えて、エリアフはさらに嫌な気持ちになった。
次の瞬間、ガトリンの両手が地面についた。
そのまま走り出す。
何度見ても、人間の走り方には見えない。手と足を交互に地面へ叩きつけ、身体を低くしたまま斜面を上がっていく。腕が長いせいで妙に速い。尻が上下し、服の下で肩甲骨が大きく動く。
初めて見た時は笑っていたが、もう笑えなくなった。
ガトリンはかなり先まで行ってから、四つん這いのまま振り返った。歯が見えている。苦しそうなのではない。本当に笑っている。
「こっちだぞ!」
「分かってるよ!」
エリアフも走った。
脚へ少し魔力を流す。昔ならここで一気に入れすぎて、数分後には息が上がっていた。今は必要な分だけ回せる。ガトリンほど速くはないが、森の中でも置いていかれることはなくなった。
ドバンが後ろから何か怒鳴った。
エリアフは少し速度を落とした。
一人でガトリンについていくとろくなことがないということを、これまでの経験で学んでいた。
そこから一刻ほど森へ入った。
道らしい道は途中でなくなったが、ガトリンには関係なかった。何度か立ち止まり、葉を嗅ぎ、木を嗅ぎ、たまに地面へ這いつくばる。途中、低い枝に赤黒いものがついていた。
ガトリンはすぐ見つけた。
指で触る。
血だった。
エリアフも横から覗いた。乾いている。量は少ない。
「さっき言ってた奴?」
「たぶんな」
ガトリンは血のついた指を鼻へ持っていった。今度は舐めなかった。しばらく嗅いでから、少し残念そうに口を歪める。
「まだ腐ってねえな。昨日か一昨日だ。傷もそんな深くない。面白くねえ」
エリアフは思わずガトリンの顔を見た。
「何が面白くねえんだよ」
「腐ってたらもっと臭う」
そう言って、ガトリンは血のついた指を自分の服で拭いた。
エリアフは三年一緒にいるが、いまだにこいつが分からない。相手が怪我をしているから嬉しいのか、追いやすくなるから嬉しいのか、その両方なのか。聞いたところで、どうせ本人にも違いがないのだろうとも思う。
しばらくして、ガトリンが初めて口を閉じた。
さっきまで勝手に喋っていた男が何も言わなくなると、それだけで周りも止まる。
鼻を上げた。
風を嗅いでいる。
「近い」
ドバンが全員を止めた。
そこからは一列になった。馬はかなり手前に置いてある。エリアフはドバンの後ろを歩き、ガトリンは先へ出た。四つ足にはならない。身体を低くし、時々立ち止まっている。
やがて木々の向こうに細い煙が見えた。
ガトリンが指を差す。
古い採炭道が斜面を横切り、その先に小屋が三つあった。一つは屋根が崩れかけている。残り二つには人が出入りしていた。
五人で斜面の上へ回った。
腹ばいになって下を見る。
エリアフは人を数えた。
まず七人。
小屋から二人出てきた。
九。
見張りらしい奴が一人いるが、座って何か食っている。馬は六頭。奥に荷が積まれている。ネイヴァンから見せられた印の箱もあった。
思っていたより普通だった。
もっと砦みたいなものを想像していたが、ただの古い作業場だ。屋根の下に人が住みつき、盗んだ物を積んでいる。
これならいけるんじゃないか。
エリアフがそう思ったところで、隣のガトリンが鼻を動かした。
「まだいるぞ。中に五、六。もっといるかもしれねえけど、飯の臭いが邪魔だな。脂焼きすぎだろ。鍋焦がしてんじゃねえか」
エリアフは横を見た。
「ここから分かんのか?」
「風こっちだからな」
ガトリンは一度こちらへ顔を向け、今度はエリアフの肩あたりを嗅いだ。
「お前も臭くなったな。汗かいたろ」
エリアフはすぐ顔を押し返した。
「俺嗅ぐなよ」
ガトリンは押されても笑っている。
「前は平気だったじゃねえか。十五にもなると嫌なんだな。お前、最近女の前だとちょっと臭い気にしてるだろ」
「黙れよ」
「図星?」
エリアフはもう一度押した。
ガトリンは抵抗せず、気色悪い笑みを浮かべたまま小屋へ顔を戻した。
その時、一番奥の建物から大柄な男が出てきた。
上着を脱いでいる。
胸も腕も太い。長い髭の左側だけ色が薄く、頬から顎にかけて皮膚が引きつれている。
焼け髭のガルザ。
ネイヴァンが見せた似顔絵より、ずっとまともな顔をしていた。あの絵では太った間抜けにしか見えなかったのに、実物は立っているだけで周りより大きい。
ガルザは壁際に立ててあった斧を取った。
近くの薪を足で転がし、切り株の上へ置く。
一振り。
太い木が割れた。
エリアフは最初、腕力しか見ていなかった。ボッカと同じくらいあるかもしれない。
ガルザはもう次の薪を置いていた。
斧を振り下ろす。
割れる。
そのまま柄を引き上げ、身体の向きを変え、足元に転がった木を蹴って寄せる。
また振る。
動きが止まらない。
力任せに叩いているように見えるのに、斧を振り終えた後で身体が流れない。腰も足も次の位置に収まっている。
エリアフは少し身体を起こした。
「強そうだな」
ドバンはガルザを見たまま答えた。
「鉄門流だな」
「何それ」
「剣術」
「斧じゃん」
「身体の使い方が同じだ。昔、傭兵やってたって話だしな」
エリアフはもう一度ガルザを見る。
ちょうど斧を振り下ろしたところだった。
木が割れる。
ガルザは斧を引き抜きながら一歩ずれ、次の薪を置いた。
確かに、いちいち構え直している感じがしない。
「強いのか?」
「お前よりはな」
エリアフはドバンを見た。
「それじゃ分かんねえよ」
ドバンは返事をしなかった。
エリアフはまた下を見た。
ガルザは三本目を割ったところで手を止めた。
斧を肩へ担ぐでもなく、だらりと下げたまま周囲を見る。
その立ち方まで妙に崩れていなかった。
何か気づいたのかと思い、エリアフも少し頭を下げた。
ガルザは近くの男を一人呼び、何か言った。男は頷き、森へ入っていく。
隣でガトリンの鼻が動いた。
「怪我してんの、あいつだな」
エリアフが横を見ると、ガトリンはもう少し身を乗り出していた。
口が笑っている。
ドバンが先に言った。
「追うなよ」
ガトリンはゆっくりドバンを見る。
「まだ何も言ってねえじゃん」
「じゃあその顔をやめろ」
ガトリンは声を出さずに笑った。
その日は手を出さなかった。
エリアフには少しもったいなく思えた。
場所も分かった。人数も大体分かった。見張りも大したことがない。ガルザは確かに強そうだが、こちらは五人だけではない。宿へ戻ればもっと人がいる。
それでもドバンは帰った。
森を出る途中、エリアフは何度か振り返った。
ガトリンも振り返っていた。ただし理由は違うだろう。
あいつは、逃げていく獲物でも見ているような顔をしていた。
宿へ戻ると、ミナは先に帰っていた。
食堂の机に地図を広げ、南の村三つで聞いた話を書き込んでいる。エリアフは椅子を引いて座り、ドバンが採炭道の位置を書き足すのを横から見た。
ガルザの連中が村へ来たのは二か所。多くても十人ほどで動く。食料と金を取る。抵抗した男が一人、腕を折られた。ただ、今のところ死者はいない。
そこは少し意外だった。
ネイヴァンの話を聞いた時は、村へ降りて好き放題やっている連中を想像した。実際に盗んではいるし、人も殴っている。ただ、何でも殺して燃やすような連中でもないらしい。
「十五から二十ってとこか」
ドバンが言った。
「見えたのは九。中にまだいた」
エリアフが答えると、ガトリンが椅子の背に顎を乗せた。
「五人くらいな。あと別の臭いもあったけど、あれは前の日の奴かもしれねえ。小屋の中まで入れば分かるがー」
「入るなよ」
ドバンが言った。
「まだ入らねえよ」
そこへボッカが皿を持ってきた。
焼いた肉と芋が載っている。
ガトリンが鼻を動かした。
エリアフは先に気づいた。
ボッカはまだ気づいていない。
ガトリンの口元がじわじわ上がっていく。
ボッカが近づいたところで、ガトリンが腹のあたりへ鼻を寄せた。
ボッカが止まった。
「何だよ」
ガトリンはもう一度嗅いだ。
「お前、昨日腹下しただろ。朝から少し臭かったんだよ。まだ治ってねえな。肉食わない方がいいぞ。あとたぶん今も少し屁我慢してる」
ボッカは黙って皿を机へ置いた。
ガトリンはニタニタしている。
次の瞬間、椅子を蹴られた。
ガトリンは椅子ごと床へ倒れた。
それでも笑っていた。
エリアフも笑った。
ボッカが睨んできたので、すぐ顔を戻す。
ガトリンの言う事を真に受けないというのは、この一味ではある種の決まりごとのようになっていたからだ。
リグが戻ったのは二日後だった。
夕方、食堂へ入ってきた時から酒臭かった。エリアフでも分かるくらいなのだから、ガトリンには相当前から分かっていたはずだ。
案の定、部屋の隅にいたガトリンが鼻を動かした。
リグはすぐ気づいた。
「来んなよ」
ガトリンはもう立っていた。
リグの横を通る時、首筋へ顔を寄せる。ほんの一瞬だった。
リグは露骨に嫌な顔をした。
ガトリンは席へ戻りながら、ずっと笑っていた。
「女変えたな。前のはもっと安い香油使ってた。今度のは甘いのつけてる。酒場もいつものとこじゃねえな。煙草の臭い違うし、朝までいたろ。仕事より長かったんじゃねえか」
リグは荷物を机へ置いた。
ガトリンを見ない。
無視するようだ。
「ドバン呼んでこい。話あるから」
誰もガトリンの話を拾わなかった。
エリアフはこの三年で知った。
ガトリンは嫌がられるのが好きだが、完全に無視されるのは嫌いだ。
しばらくニタニタといつもの笑みを浮かべていたが、誰も何も言わないので、そのうち水を飲み始めた。
リグが掴んできた売り先は二つだった。
南の町の古物商と、街道沿いの宿屋。
古物商は盗品と知らずに買っている可能性が高い。宿屋の主人は知っている。
リグは宿屋へ行き、ガルザの荷を今後も買うなら、ドバン一味とは取引できないと伝えたらしい。
宿屋の主人はかなり嫌がった。
それでも、考えると言った。
古物商の方にはネイヴァンから話を入れる。
盗品を持ち込まれても買わせない。
ドバンがやろうとしていることが、そこでようやくエリアフにも分かった。
先に売れなくする。
そうすればガルザたちは動く。
森の中へ殴り込みに行く必要がない。
「場所分かってんだから、今行けばいいじゃん」
エリアフが言うと、ドバンは地図を見ながら首を振った。
「逃げる奴が出る」
「出たら追えばいいだろ」
「何人も別々に散ったら面倒だ。向こうから出てくるなら、その方が楽だ」
それは分かる。
分かるが、待つのは嫌いだった。
エリアフは椅子を揺らしながら地図を眺めた。
昔なら、こういう時にドバンへ何度も食い下がっていた気がする。今は一応、待った方が得だということくらいは分かる。
それでも早くガルザとやってみたかった。
薪を割っていた腕を思い出す。
どれくらい強いのか気になる。
三日目の夕方、ガルザ側が動いた。
最初に知らせに来たのはガトリンだった。
宿の扉が乱暴に開く。
袖も膝も泥だらけで、口を大きく開けて笑っていた。
「出たぞ。焼け髭もいる。十一人。馬七。荷いっぱい積んで南行った。あいつら機嫌悪いぞ。朝から二人喧嘩してたし、一人まだ脚痛めてる。昨日より臭くなってる」
ドバンはすぐに立った。
十二人出る。
エリアフも剣を取った。
ボッカ、リグ、ミナもいる。ガトリンは当然のようについてきた。
森を出たガルザたちは、まず古物商へ向かった。
こちらは距離を取ってついていく。
町の外から見ていると、しばらくしてガルザたちが店から出てきた。
荷は減っていない。
店先でガルザが怒鳴っている。
店主も中から何か返している。
最後にガルザが扉を蹴った。
本当に効いているようだ。
こちらはまだ何もしていないのに、向こうだけ勝手に苛立っている。
次にガルザたちは宿屋へ行った。
そこでも断られた。
今度は主人が出てすらこなかった。
ガルザはしばらく扉を叩いていたが、部下に止められた。
その頃にはもう日が傾き始めていた。
仕方なく森へ戻る。
帰路は二本ある。
短い方は、両側を斜面に挟まれた古い谷道だった。
一部が先へ回り、一部が斜面を上がった。
エリアフはドバン、ボッカたちと後ろからついた。
ガトリンだけ途中で道を外れた。
「どこ行くんだよ」
エリアフが聞くと、ガトリンは森へ入りながら振り返った。
「右から回る。谷入ったら後ろの奴が逃げるだろ。そいつ追う。あいつら疲れてるし、たぶん一人くらい絶対逃げる。逃げる奴追う方が面白いから」
口元がもう笑っている。
ドバンが止めるより早く、木々の中へ消えた。
エリアフはその方向を見た。
「いいの?」
「止めても行く」
ドバンはそれだけ言った。
それもそうだ。
ガルザたちが谷道へ入った。
先頭に二人。その後ろに荷馬が続き、ガルザは真ん中あたりにいる。全員が狭いところへ入るまで、ドバンは動かなかった。
エリアフは木の陰から身体を少しだけ出した。胸が速い。待っている時間がやけに長く感じる。森で薪を割っていたガルザの腕を思い出した。
あの時、帰り道でドバンから聞いた。
ガルザは鉄門流を修めている。
兵や傭兵の間で使われる剣術で、長剣を使うことが多いらしい。名前くらいはエリアフも聞いたことがあったが、どんなものかは知らなかった。
それがずっと気になっていた。
ガルザが谷の中央まで来ると、ドバンが手を上げた。
上から矢が飛んだ。
先頭の馬が悲鳴を上げ、前脚から崩れる。すぐ後ろの馬がぶつかり、横へ逃げようとして荷を斜面へぶつけた。道が詰まった。怒鳴り声が重なる。
ボッカが最初に飛び出した。
馬上の男へ正面からぶつかり、腰を掴んで引きずり落とす。
エリアフも走った。脚へ魔力を流す。距離が一気に縮まり、目の前の男が慌てて剣へ手を伸ばすのが見えた。
遅い。
手首を蹴る。半分抜けた剣が鞘へ戻った。胸へ肩をぶつけ、そのまま腹へ拳を入れる。男が折れたところを越えた。
次はもう抜いていた。
横から刃が来る。
エリアフは一歩下がった。切っ先が服の前を通る。振り切ったところへ踏み込み、剣を持つ手首を両手で押さえた。膝を腹へ一度、もう一度。腕が緩んだところで剣を奪い、後ろへ放る。
身体がよく動く。
何年か前なら、最初の男を倒した時点で次が見えていなかった。今は違う。どこに人がいて、どこが空いているかがなんとなく見える。
その中で、一人だけ動き方が違った。
ガルザだった。
長剣を両手で持っている。
相手の剣を受けた。
普通ならそこで一度止まるはずだった。
止まらない。
受けた刃を外へ押しながら前へ出て、柄頭を相手の口へ叩き込む。相手が仰け反ったところへ肩を入れ、身体を回した勢いのまま長剣を横へ振る。別の一人が慌てて下がった。
一つずつやっていない。
ずっと動いている。
エリアフはそちらへ走った。
ガルザが気づいた。
横薙ぎが来る。
エリアフは身体を沈めた。
刃が髪の上を抜けた。
ここだ。
振り切った側へ踏み込む。
腹が空いている。
拳を入れようとした瞬間、ガルザの左足が前へ出た。
膝が胸に入った。
息が全部なくなった。
エリアフは後ろへ飛ばされ、地面を二度転がった。
何で膝が来る。
起き上がる。
ガルザはもう目の前にいた。
剣が上から落ちる。
横へ転がった。刃が土へ入る。
今度こそ。
地面から剣を抜くところへ入った。
だがガルザは剣を無理に引かなかった。柄を押し下げ、そのまま石突きの側をエリアフへ突き出してくる。
腹へ入った。
また下がらされた。
腹が立った。
剣を振った後にも何か来る。
避けても終わらない。
あれが鉄門流なのか。
ガルザが剣を抜いた。
エリアフは今度は自分から行った。
一歩目を大きく見せる。
ガルザが横へ振る。
まだ入らない。
身体を引いて刃を外し、その後を見る。
やっぱり足が出た。
今度は膝ではなく、そのまま踏み込んできた。
肩。
エリアフは横へずれた。
初めてガルザの身体が自分の横を通った。
脇腹へ拳を叩き込む。
身体強化も乗せた。
手に固い感触が返ってくる。
ガルザが少し曲がった。
入った。
そう思った瞬間、肘が飛んできた。
頬へ掠る。
エリアフはすぐ離れた。
まだ続く。
どこまでが一つなのか分からない。
「大声か」
ガルザが言った。
エリアフは胸を押さえながら笑った。息をするとまだ痛い。
「俺のこと知ってんの?」
「名前だけな。もっとガキだと思ってた」
ガルザはそれ以上喋らなかった。
剣を立てる。
さっきまでと構えが変わった。
刃を真正面へ置き、少し腰を落としている。
今度はガルザから来た。
上。
エリアフが外へ避ける。
そのまま刃が返ってくる。
横。
さらに柄。
休む場所がない。
エリアフは下がった。
もう一歩。
ガルザが追う。
長い剣なのに、近づいても楽にならない。遠ければ刃が来て、近づけば柄と肩と膝が来る。
エリアフは剣ではなく身体を見ることにした。
右足。
肩。
腰。
どこに力が移っているのか。
ガルザが踏み込む。
剣が斜めに落ちた。
避ける。
次は柄が来る。
分かっていた。
頭を下げる。
柄頭が耳の横を抜ける。
その次に肩が来た。
そこまで見えた。
エリアフは一歩だけ横へ出た。
ガルザの肩が空を切った。
今だ。
顔へ拳を出す。
ガルザが首を引いた。頬を掠る。
エリアフはそのまま離れなかった。
腹へもう一発。
今度は入った。
ガルザが腕を下ろし、エリアフの肩を掴んだ。
引き剥がされる。
そう思って、逆に前へ出た。
額を顎へぶつける。
歯が鳴った。
掴んでいた手が緩む。
エリアフは離れた。
ガルザが口の中の血を吐いた。
少し笑っている。
エリアフも笑っていた。
やっとまともに当てた。
もっとやれる。
もう少し見れば、まだ分かる気がした。
その時、森の中から悲鳴が上がった。
エリアフは一瞬だけそちらを見た。
男が一人、斜面から転がり落ちてきた。
その後ろから、低いものが飛び出してくる。
ガトリンだった。
四つ足で男を追っている。歯を見せて笑っていた。
「待てって! まだ全然追ってねえだろ!」
逃げている男は振り返らない。
ガトリンはさらに速くなった。男が足を滑らせたところへ飛びつき、二人でもつれて転がる。ガトリンの方が先に起き、背中へ膝を乗せた。
気持ち悪い。
そう思った瞬間、ガルザが動いた。
エリアフは目を戻した。
遅い。
刃が来る。
身体を捻ったが、完全には外れなかった。
上着が裂け、脇腹が熱くなった。
血が出ている。
深くはない。
でも今のは危なかった。
ガルザは追撃へ来る。
そこへボッカが横から突っ込んだ。
真正面から肩をぶつける。
さすがのガルザも大きくよろめいた。
エリアフもすぐ戻った。
ガルザが二人の間で向きを変える。
上から矢が飛んだ。
肩へ刺さった。
ガルザの身体が揺れる。
二本目が来る前に、ガルザは森へ走った。
エリアフも追おうとしたが、ドバンに腕を掴まれた。
「上に行くな!」
ガルザの背中が木々の間へ消えた。
エリアフは舌打ちした。
あれだけやって逃がすのか。
だが、すぐ森の奥からガトリンの笑い声が聞こえた。
少しして枝が鳴った。
ガルザが戻ってきた。
肩には矢が刺さったままだった。
その後ろを、ガトリンが四つ足でついてくる。
飛びかかってはいない。ただガルザが右へ行けば右へ回り、斜面へ上がろうとすれば先へ出る。あれを後ろからやられたら、エリアフでも嫌だった。
「もう一回走る? 俺はいいけど。上もいるし、下もいるし、どっち行ってもまた追えるぞ」
ガルザが振り返る。
ガトリンは鼻を鳴らし、ニタニタしていた。
「お前、さっきより汗すげえな。逃げ道なくなると臭い変わるんだよ。分かりやすいな」
ガルザが剣を向けた。
「犬が」
ガトリンの笑みが深くなった。
「それ、もっと近くで言えよ。俺、鼻はいいけど耳は弱いんだ」
嘘をつけ。
ガトリンは、目も鼻も耳もいい。性格だけが悪い。
ガルザが踏み込んだ。
長剣が横へ走る。
ガトリンは後ろへ跳ばなかった。
身体を地面へ落とし、刃の下を四つ足で抜ける。
ガルザの剣が空を切った。
ただ、エリアフはもう飛び込まなかった。
さっき学んだ。
鉄門流はここから来る。
ガルザの左足が動く。
身体が回る。
ガトリンを追うように柄が下がった。
その分、こちら側が空いた。
今だ。
エリアフは入った。
ガルザもすぐ気づいた。
剣を戻そうとする。
エリアフは刃が戻る前に剣腕へ組みついた。
ガルザの肩がぶつかってくる。
それも分かっていた。
頭を下げる。
肩が耳の上を掠めた。
そのまま腰へ腕を回す。
持ち上げようとした。
びくともしない。
ガルザが笑った。
「何してんだ」
拳が背中へ落ちた。
一発で息が詰まる。
もう一発来る前に、ボッカが突っ込んだ。
今度は二人まとめて押すような体当たりだった。
ガルザが二歩下がった。
それでも倒れない。
矢の刺さった肩から血が流れているのに、足がまだ生きている。
エリアフは一度離れた。
ガルザは肩へ手を伸ばした。
矢を掴む。
一気に抜いた。
血が溢れた。
矢を捨て、また長剣を両手で持つ。
エリアフは少し息を呑んだ。
まだ構えが崩れない。
ボッカも隣で息を整えている。
ガトリンは少し離れたところで低く構え、笑っていた。
ガルザが三人を見た。
「来いよ」
エリアフの口が勝手に上がった。
胸も脇腹も痛い。肩も少し切れている。
それでも、まだ終わらせたくなかった。
自分から出た。
ガルザの右足が開く。
横薙ぎ。
もう分かる。
身体を沈める。
刃が頭の上を抜ける。
すぐには入らない。
次。
左足が出る。
柄が来た。
それも外す。
次は肩。
そこへ逆に踏み込んだ。
ガルザの身体が近い。
拳を顎へ入れる。
浅い。
もう一発、腹。
ガルザの肘が降りる。
腕で受ける。
痛い。
でも止まらない。
エリアフは剣を持つ右腕へ身体を絡めた。
ガルザが振りほどこうとする。
そこへボッカが反対側から組みついた。
二人でもまだ動く。
ガルザが身体ごと回った。
エリアフの足が浮きかける。
ボッカも引きずられる。
長剣がまだ手にある。
まずい。
エリアフはガルザの手首へさらに体重をかけた。
「ガトリン!」
返事はなかった。
低いところからガトリンが入った。
ガルザの右脚へ両腕を絡め、膝の裏へ肩を押し込む。
一瞬、噛みつくかと思ったが、さすがに噛まなかった。
ガルザの右膝が落ちる。
それでも倒れない。
左脚一本で踏ん張った。
エリアフは歯を食いしばった。
こんな状態でも立つのか。
脚へ魔力を流す。
残っている力をまとめて使った。
肩から押す。
ボッカも押した。
ガトリンが脚を引く。
ガルザの足が土を滑った。
巨体が傾いた。
それでも最後に剣を振ろうとした。
エリアフにはそれが見えた。
手首を両手で押さえる。
刃が上がり切らない。
ボッカがもう一度体当たりした。
ガルザが倒れた。
地面が大きく鳴る。
剣が手を離れた。
エリアフはすぐ胸の上へ乗った。
ガルザの拳が飛んできた。
頬へ入る。
頭が揺れた。
それでも退かなかった。
ボッカが右腕を押さえる。エリアフは左肩へ体重をかけた。ガトリンはまだ脚にしがみついている。
ガルザは三人をつけたまま、本気で起き上がろうとした。
背中が浮く。
エリアフの身体まで持ち上がる。
また落ちる。
もう一度。
腕が震えてきた。
ガルザの方も息が荒い。
それでもしばらく力は抜けなかった。
やがて背中が地面についたままになった。
ガルザが大きく息を吐く。
エリアフもしばらく動かなかった。
終わった。
やっとそう思えた。
横からガトリンが這ってきた。
ガルザの顔へ鼻を近づける。
「近い近い、お前はいい!」
エリアフが怒鳴った。
ガトリンは退かなかった。
「血と汗でわけ分かんなくなってきたな。酒もかなり飲むな、こいつ。昨日も飲んでる。安いやつ。それと右の奥歯腐ってる」
「今それどうでもいいだろ!」
ガトリンはニタニタしている。
ガルザが地面に寝たまま、少し笑った。
「……二人がかりかよ」
エリアフは息を整えながらガルザを見下ろした。
腕がまだ震えていた。
「三人だろ。ガトリン数えろよ」
「俺ほとんど嗅いでただけだけどな」
ガトリンが言った。
ガルザは一度だけ声を出して笑った。
そこへドバンが近づいてきた。
ガルザの目が動いた。
笑いが消えた。
さっきまで三人を振り落とそうとしていた男が、急に静かになる。
エリアフにも分かった。
何かある。
「……半耳か」
ドバンは返事をしなかった。
ガルザが口の中の血を地面へ吐いた。
「お前も売ったのか?」
エリアフはガルザからドバンへ目を移した。
何のことだ。
ドバンの顔には何も出なかった。
「何の話だ」
ガルザはしばらくドバンを見ていた。
それから鼻で笑った。
「ならいい」
ドバンはそれ以上聞かなかった。
「縛れ」
ガトリンが一番先に腕を取った。
わざわざ矢が刺さっていた方の肩を捻った。
ガルザの顔が歪む。
ガトリンの口元が上がった。
エリアフはそれを見た。
絶対わざとだ。ただ、ガルザもさっき自分を斬ったし、まあいいかと思った。
戦いはそこから長く続かなかった。
最初に前後を塞がれた時点でガルザ側は崩れていた。売り先を潰され、丸一日荷を持って動き回った後でもある。捕まえた者が六人。死んだ者が二人。逃げたのが三人。
その三人のうち二人をガトリンが追った。
一人はミナたちが捕まえた。
もう一人はかなり遠くまで逃げたらしい。
ガトリンが戻ってきた時、口の周りに血がついていた。
エリアフは一瞬、噛んだのかと思った。
さすがに聞いた。
「お前それ何?」
ガトリンは自分の口元を舐めた。
「ん? ああ。枝で切った」
本当かどうか分からなかった。
聞かない方がよかった気もした。
帰り道、ガトリンは捕まえた男のすぐ後ろを歩いた。
男の両手は縛られている。
ガトリンは何も言わない。
ただ時々、鼻を鳴らす。
そのたびに男が振り返る。
ガトリンは笑う。
三度目くらいで、男が耐えきれなくなった。
「何だよ」
ガトリンはすぐ答えなかった。
それがわざとなのはエリアフにも分かった。
しばらく歩いてから、男の背中へ少し顔を寄せる。
「別に。お前、俺が嗅ぐたび汗増えるから面白くて。最初よりだいぶ臭くなったぞ」
男は何も言わず前を向いた。
ガトリンはまた笑った。
エリアフは少し距離を取った。
仲間でよかったと思うことはある。
同じ部屋では寝たくないとも、ずっと思っている。
宿へ戻る頃には夜だった。
ねぐらへ残っていたガルザの仲間も別働隊が押さえていた。荷もかなり残っている。ネイヴァンの分を返しても、十分取り分になる。
食堂では早くも酒が開けられていた。
エリアフは脇腹の傷を洗われ、布を巻かれた。浅い。胸の方が痛い。ガルザの膝が入ったところだ。
それでも気分はよかった。
ガルザは強かった。
自分もちゃんと戦えた。
昔みたいに、相手が何をしているか分からないまま突っ込んだわけではない。避けて、入って、何度か当てた。
勝ったのは自分一人の力ではない。それも分かっている。
売り先を潰して、向こうから動かし、道を選ばせて、そこで叩いた。
前なら盗むところしか見ていなかった。今は、盗る前も、盗った後も、逃げた先も見る。
それを一番やっているのはドバンだった。
エリアフは少し離れたところにいるドバンを見た。
酒を飲んでいない。
ちょっかいでもかけようかと思ったが、リグが酒の入った器を押しつけてきた。
「飲めよ」
「不味いんだよ、これ」
「もう一杯飲めば分かんなくなる」
エリアフは少し迷って受け取った。
確かに二杯目は一杯目よりましだった。
向こうではボッカが誰かに傷を見せている。ミナは椅子に座ったまま眠そうにしている。
ガトリンは捕まえた連中の近くに座り、何かを喋っていた。
何を言っているかまでは聞こえない。
ただ、捕まった男の一人がひどく嫌そうな顔をしている。
ガトリンだけが楽しそうだった。
エリアフは少し笑った。
その夜は遅くまで騒いだ。
翌朝、焼け髭のガルザはいなくなっていた。
捕まえた連中もいない。
庭には縄の切れ端だけ残っている。
エリアフは寝起きのままドバンを探した。
厩の前にいた。
馬具を見ている。
「焼け髭どこ行った?」
「引き渡した」
「誰に?」
「ネイヴァンのところ」
「もう?」
ドバンは鞍紐を引いた。
「置いといて何になる」
エリアフは少し黙った。
早い気がした。
昨日の夜まではいた。
自分が寝た後に連れていったらしい。
「昨日さ、あいつ何か言ってたじゃん。お前も売ったのかって」
ドバンの手が止まるかと思った。
止まらなかった。
「言ってたな」
「何のこと?」
「知らん」
「本当に?」
ドバンがやっとエリアフを見た。
「俺に分かると思うか?」
分からないならそれまでだった。
エリアフは少し待ったが、ドバンはもう別の男を呼び、馬具の話を始めた。
仕方なく宿へ戻る。
食堂ではリグが昨日の酒を飲みすぎて机に突っ伏している。ボッカは普通に朝飯を食っていた。ミナは奪った荷の一覧を見ている。
ガトリンは床に座り、何かの骨を噛んでいた。
エリアフはその横を通り過ぎ、ボッカの向かいへ座った。
腹が減っている。
エリアフはボッカの皿から焼いた芋を一つ取った。
「自分で取れよ」
「近かったから」
そのまま食った。