『なんてこったあ! 啓介のFDが軽トラに抜かれた!』
コースマーシャルの持つ無線機が衝撃的な事実を告げた。
その隣に立つ涼介は、少し興味を持った顔で無線先に問いかける。
「一体何が起きた?」
『啓介がコーナーでちょっと膨らんだんだが、あいつ、インベタのさらにインに食い込んで強引に前に出たんだ!』
「インベタのさらにイン?」
『土手だよ! あんな場所にタイヤを差し込むなんてどんな頭してんだァ!?』
「土手……確かにあの区画はガードレールが短かったが」
ありえない。だが、啓介はそれでやられた。
涼介の口角が僅かに歪む。
「ふっ……ふふふ……土手か。いやまさか、そんなラインを通るバカがいるとは思わなかったな」
『こ……こちら5連ヘアピン!』
コースマーシャルの持つ無線機が、再び音を拾った。
『ハチロクがとんでもねえオーバースピードで突っ込んでく! ブレーキいかれたかァ!?』
「貸してくれ」
「あっ、はいっ」
『見てらんねえ!あいつクラッシュするぞ!』
涼介が隣にいたコースマーシャルから無線を受け取る。その瞬間に2台分のエキゾースト。
「状況を教えてくれ」
『………………啓介が、抜かれちまった』
「なに? 詳しく説明しろ」
『ムリだよ……わかんねーよ……。あのハチロク、とんでもねえオーバースピードで抜かしてったんだ。
車ってのは普通、グリップを超える速度じゃ曲がらねえはずだろ? なのにあっけなく、インからスパーンと……』
『こちら最終ヘアピン前! ハチロクと軽トラが並走! FDははるか後方だ!』
別のコースマーシャルの無線が割り込む。
『あ……!? 軽トラがハチロクの後ろに付いた!』
『なんだぁっ!? 軽トラがべったりとインにくっついてやがる! 何が起こったァ!?』
『ラインがクロスした! ハチロクと軽トラはいまだ並走! イン側に軽トラだ!』
『2台ぴったりくっついてる! サイドミラーぶつかってんじゃねえのか!?』
『こちら最終高速区間! 軽トラとハチロクが並んで走ってくる! すげえスピードだ!』
『FDはまだ見えねえ! 完全にスピードスターズの叩き合いになってる!』
その一言で、無線を聞いていたレッドサンズとスピードスターズの面々は黙り込んだ。
レッドサンズは混乱。そしてスピードスターズは驚愕によって。
『信じられねえっ! 緩いとはいえコーナーがあるんだぞ! あいつら減速しねえーっ!』
『避けろーっ! つっこんでくるぞーっ!』
『うわあああーーっ!!』
男たちがギャラリーを避難させる声が聞こえてくる。それと同時に2台分のスキール音も。
無線が切れて一瞬の沈黙。
そして。
『……こちらゴール前。あ、あいつら、とんでもねえスピードで抜けてった……』
「事故は起きていないか」
『あ、ああ。ギャラリーに混乱が起きただけで、事故はない』
「そうか」
『……今、啓介のFDがゴールした。先頭とのタイム差は、8秒』
8秒。コンマ数秒で10メートル離されるモータースポーツにおいて、これはとんでもない大差だった。
「先頭は誰だ?」
涼介の問いかけに、無線機の向こうで息を呑む音が聞こえた。
『ハ……ハチロクだ……! 確かにハチロクが先行していた! 差はほとんどなかったが、間違いねえ!』
「そうか」
涼介は無線機をコースマーシャルに預け、背を向ける。
煙草を取り出し、火をつけ、煙を胸いっぱいに含み。
そして、今夜の熱を吐き出すように煙を吐いた。
「とんだ誤算だな」
その顔は。啓介の敗北に対する苦々しさを抱えながらも、どこか笑っているようにも見えた。
■■■
このやろう! このやろう! このやろう!
こいつ死にてえのか! 最後の最後までブレーキを踏まなかった! おまけにゴール手前でハナをちょんと出しやがった!
極めつけに
こいつバカか!? バカだった! くそ! うすらトンカチくそボケ拓海ィ! バトルで直帰するやつがあるか! おれの計画がパーになるだろ! 止まれったら!!
「ぐぎぎぎぎ……! こいつのトンマっぷりをナメてた……!」
結局。止まったのは豆腐屋の駐車場。
キチンとバックで車庫入れまでした後、「なんでこの人ついて来てんだろ」みたいな顔をして車を降りてきた。
「たーくーみーぃ!」
「えっ、億菜? なんでお前が」
「うるせー!」
キャリーから飛び出して拓海の腹に飛び蹴りを入れる。が、想像より硬くて跳ね返され、おれは地面にべちゃりと落ちた。
うう、こんなのってあんまりだ。勝てなかったし、拓海は直帰するし、ネタバラシはこんなんになるし。
おれは地面に転がったまま、拓海を見上げて恨み言をぶつける。
「ちくしょー。拓海のアホ、ボケナス、ボンクラ、キチク、マヌケぇ」
「な、なんなんだよ……」
晩夏のセミになって暴れるおれを、拓海は引きつった顔で見ていた。
やがてその顔は呆れたものに変わっていって。最終的にポケットに手を突っ込んで視線をキャリーの方へ。
「なあ、とりあえず車止めてこいよ、話はそのあと聞くからさ」
「ごもっとも星人めえ」
言われるがまま、もそもそ起き上がってキャリーにすっこむ。
そしてそのままバックで車庫へひっこめ、エンジンを切った。
クーラーの止まったエンジンの熱が車内に流れ込み、むわっとした熱気がおれを包む。
「あっつぅ」
服を見ると、しっとり濡れている。すん、と鼻で息を吸うと、汗のにおいがした。
……反省だ。
今回のバトル、拓海の前をブロックして逃げ切りが最適解だったのだ。
キャリーは背が高い。背が高いってことは空気の抵抗をモロに受ける。つまり、高速セクションしか残っていない、ヘアピンを抜けた後にチャンスは転がっていなかった。
相手のミスがあれば──拓海がイモ引いてブレーキを踏めば、先着はおれだったろう。
だが拓海はブレーキなんぞ踏まなかった。奴の度胸を甘く見ていた。
愛車のトランスファーレバーに手を弾かれたときに、この勝負は決まったんだ。
深く息を吐く。
「でもスタートでハンデあったし実質勝ちだろ」
よし! 理論武装完了!
いくぶん足並み軽く豆腐屋まで歩いていくと、玄関前で拓海が待っていた。
「もう暗いから中で話そうぜ」
拓海はポケットに片手を突っ込んだまま、カラカラと引き戸を開ける。
その背中は汗のしみ一つすら見つけられない。
「女連れ込むんか」
「おまえを女と思ったことはねーよ」
「え、でもこのあいだ乳の話したとき」
「それとこれは別だろ……」
家にあがっていく拓海を追いかけて玄関に入る。
夜中の豆腐屋ってなんか新鮮だな。ちょっとホラーな雰囲気あるぜ。
「おやじー、ちょっと部屋で億菜と話してくるから」
「あん? 億菜ちゃんだぁ?」
居間に入ると、いつもの親父さんがテレビを付けて新聞を広げていた。火の付いた煙草と栓の開いたビールも並んでいる。
前々から変な親父だとは思ってたけど、私生活も結構変なんだな。テレビ見ながら新聞は読めねえだろ。
拓海の父親に相応しい変人が訝しげに振り返る。
開いてんのか閉じてんのかわかんねー糸目でおれを見て、拓海を見て、おれを見る。
「お前、億菜ちゃんに粉かけたのか」
「はン?」
思わず変な声が出た。
「お前、明日も出かけるんだろ。遊ぶのもいいけどよ、ほどほどにしておけ」
「そういうのじゃねーよクソオヤジ!」
「何が違うってんだ。こんな時間に汗だくの女連れ込みやがって」
あ、そういや汗を掻いてんだった。
今更恥ずかしくなって、ちょっと縮こまる。
「とにかく! 約束は守れよな!」
拓海は吐き捨てるように意味深な一言を残し、二階へのっしのっし上がっていった。
親父はニヤニヤ笑いを隠そうともせず、そのまま背中を向けて新聞をめくる。
あーあ、拓海こりゃ完全にからかわれたな。
「ふん……勝ったか。拓海」
「はー??? 負けてないが???」
「うおっ!?」
親父の言葉に、おれの負けず嫌いが反射的に口を突く。
だっておれの方が後ろからスタートしたし……着差的にはハンデ分なかったし……実質勝ちだし……。
親父はおれの大声に驚いたのか新聞を取り落とし、煙草から灰をこぼしていた。
交差する視線。なんか気まずい雰囲気。
「おーい、億菜なにやってんだー?」
「あー、ワリ。すぐ行くー」
ちょうど良かった。拓海が階段上からおれを呼んだから、これ幸いとその場を後にする。
目を丸くしている(実際は糸目だが……)親父を尻目に、ギシギシ音の鳴る階段をトントンと駆け上がった。
部屋に入ると拓海は椅子に座って待っていた。おれはベッドの端を拝借、背もたれ側を前にした拓海と向き合うように座る。
「とりあえず、オレからも聞きたいこと、あんだけどさ……」
「ん」
「億菜って、朝四時くらいに軽トラで走ってる?」
「おう。そんくらいの時間に秋名のてっぺんへ毎日配達してるぞ」
「もしかして、山でオレに毎日ちょっかいかけてた?」
「ここ2、3年ならそう」
拓海は両手で顔を覆って、フーーーーッと大きなため息を吐いた。
息を吐き終えた後、拓海は聞きづらそうな顔をして、上目遣いでおれを見る。
「……いつから運転してた?」
「5年以上前だな。中学入ってすぐだったから、よく覚えてるよ」
「…………………………そっか」
ずいぶん溜めたな?
拓海はがっくりと肩を落として、そのまんま動かなくなった。
「で、拓海よォ。おれからも聞きたいことあんだけど」
「んだよ……」
「今日のバトル、楽しかったか?」
「へ?」
意表を突かれたように、拓海は目を丸く(親父とは違って文字通り丸く)して、おれの顔を見返していた。
ぽけっとした顔はボーッとしてるときによく見るそれで、T24(いや、24拓か?)とでも名前が付くような純度の高い表情だ。
「よくわかんねえ」
「わかんねえ???」
今度はこっちが驚愕する番。
「だって、車ってのは仕事で乗るもんだろ? 楽しいなんて考えたこともなかった」
「お、おう?」
「億菜は違うのか? 寝そうになるからオレにちょっかいかけてたんだろ」
な、なんだ? 何かが決定的に食い違っている!
寝そうになる?? 峠を走っている途中で??
こいつのマインドが理解できん!
おれは車に乗りたいからうちの親父の仕事を奪ったのだ!
こいつとおれは、きっと真逆にいる!
ふと、嫌な予感がめぐる。
「と、ところで。拓海はなんで速く走ろうと思ったんだ……?」
淡い確信。
質問の途中で、答えが頭を過ぎる。
秋名を走ることは、こいつにとって、しぶしぶやんなきゃいけないこと。
つまり、面倒な税金の計算とかやってる時のおれのような。
一瞬の間。
「え……。早く帰りたいからだけど」
的中。絶望。
その場にポトリと落ちる。晩夏のセミ第二形態となったおれは、壮絶な独り相撲の予感を前に、すべての理解を拒絶した。
おれの、命を燃やした研鑽が。こいつにとっての「ちょっと帰宅ルート考えるか」くらいの気持ちで。
命を削るようなバトルも、こいつにとっては惰性の延長線にあって。
そんなのって。そんなのって……。
ううーーっ。
「拓海の甲斐性なし、昼行燈、単細胞、爆速帰宅部ゥ……」
「なんなんだよさっきから」
げしげし。ぽこぽこ。
目の前にある拓海の脚を蹴る殴る。だけどやっぱり思ったより硬くて。
おれはセミ最終形態になって、そのまま沈黙することにした。
「いや帰ってくれよ」
「傷心の女の子にかける言葉がソレとか……これじゃ一生彼女できねえな」
「…………」
「えっ」
えっ。