「アニキ、入るぞ」
ノックから時間を置かず、啓介は荒々しい足取りで部屋へと踏み込んだ。
デスクに向かい、静かにノートパソコンのキーボードを叩いていた涼介は、一瞬だけ指を止めて弟のほうへ顔を向ける。
その浮かない表情を一目見て、すべてを察したかのように涼介は口元をわずかに緩めた。
「どうだ啓介、一晩寝たらスッキリしたか」
「全然だアニキ。夢の中まで軽トラに追い回されたぜ」
「ふふ…重症だな」
「笑い事じゃねえよ」
啓介は吐き捨てるように言うと、苛立ちを隠そうともせずに椅子にどかりと腰掛けた。
乱暴に扱われた椅子がギチリと悲鳴を上げる。
大きな溜め息。
兄の顔を見て落ち着いたのか、啓介は探るような様子で水を向けた。
「なあアニキ…あのキャリイの事なんだけどよ」
「どうした」
「なんで負けたのか分かんねえんだ。軽トラってのはそもそも峠を走るクルマじゃねえ。重心が高いからフラフラしてるし、パワーだってしょぼいだろ」
「そうだな。それはオレも気になっていたところだ」
涼介はカタカタと叩いていたパソコンのキーボードから手を離すと、画面から視線を外して啓介に向き直った。
「啓介。お前、
「あ、ああ。長いほうが速度出したとき安定するんだよな」
「そうだな。一方で、あのキャリイのような極端な短さの場合、回頭性が著しく良くなるという特徴がある」
涼介は顎に手を当て、思考を巡らせるように一瞬だけ間を置いた。
やがて何かを思いついたように、机に視線を向ける。
「例えばだ。バットのような長い棒を手のひらに立ててバランスを取るのは難しくない。一方で……」
机の上にあったペン立てから1本のペンを取り出すと、啓介の目の前へ差し出した。
「啓介。このペンを指でも手のひらでもいい。立てた状態でバランスを取ってみろ」
「ええ? 無理だろそんなの」
「いいからやってみろ」
言われるがまま指の上に立てる啓介。そして一瞬も持たずにペンはバランスを崩し、コロコロと床の隅まで転がっていった。
「……と、まあこのような結果になる」
「なあアニキ。バットとかペンとか、一体何のことを言ってるんだ?」
「これこそがお前のFDが負けた理由だ」
話に付いていけず、怪訝な目を向ける啓介。
そんな普段と変わらない弟を見て、涼介は薄く笑った。
「FDはバランスが良い一方、安定性があるせいでレスポンスに時間が掛かる。一方でキャリイは不安定だが、レスポンスは比較にならないほど早い。
背もたれに身体を預け、指を組んだ腕を膝上に置く。
「しかし軽トラは重心が高く
わずかな間。
涼介は組んだ指に視線を落とし、低く静かな声でつぶやいた。
「速いマシンの素養は持ち合わせているだろう。だが、一度姿勢が崩れたら、立て直すことは不可能になる。レスポンスの速さと安定性はトレードオフだからな。
あのドライバーは時速100キロを超える極限状態で、常に破綻寸前の綱渡りを続けていることになる。つまり、一手損なえば……」
涼介はそこで言葉を切り、床の隅に転がったペンを見つめた。
釣られて啓介もペンを見る。白くてツルツルした安っぽいペンが、どうしてもあの軽トラを連想させた。
指という崖から転がり落ち、地面に投げ出された哀れなクルマ。それがあのペンの正体。
軽特有の薄いボディが崖にぶつかるたびに折れ曲がり、極端に不揃いな重量のせいでハンマーのごとく叩きつけられたドライバーズシート。
あの気に入らない女が、血の池に沈む様子が、いやに鮮明に思い浮かんだ。
ゾっとする寒気が背筋を這い上がる。
隣で見ていただけでも想像つくようなことが、ドライバーに分からないはずがない。
「イカれてるぜ、あの女……」
啓介は心底から恐怖した。
■■■
「ねーねー
「ハァー? ひとの名前間違えるやつに見せる技なんかあっかよ! 冷やかしなら帰んな! シッシ!」
「ジャガイモとニンジンとタマネギくーださい!」
「ほーらくるくる回すやつだぞ~」
「うお~すっげ~!」
上得意様にはサービスしねえとな!
おれはエプロンに刺してたボールペンを手に取り、バスケットボールみたいに人差し指の上に乗せバランスを取っていた。
ガキからオッサンまで大人気なこの技は、おれの108ある特技のうちの1つにすぎない…なんちゃって。
「ごめんください。……お前なにやってんだ?」
「見てわかんねえか? 億菜様主催の手品ショーだよ」
指の上で回転し続けるボールペン。ガキどもが喜ぶもんでドンドン追加していってたら、拓海がやってきた。
小指から人差し指にかけて乗っていた4本のペンを回収し、ガキどもにサービスタイムは終わりだと散らす。
おらブー垂れるな! 散れ散れ! 明日は5本乗せてやるよ!
「おっす拓海。なんかうちに用か」
「プチトマトと、なんか旬の野菜とか欲しいんだけど、あるか」
「オクナとかどう?」
「はぁ?」
「ネバネバしたもんは身体にいいんだぞ」
「……ああ、オクラのことかよ」
ため息まじりに呟く拓海。ガキの相手したせいでちょっと間違えちゃったじゃんか。
あ、そうだ。聞きたいことが2つあったんだよな。
「イツキから聞いたんだけどよ。日曜に女の子と海に行ったんだって?」
「げ……」
面倒なことになったと顔を顰める拓海の肩に、おれは腕を回した。
身長がちょっと足りなくて、まあちょっとヘッドロックみたいになったかもだが。
「イツキ泣いてたぜ~? 親友に裏切られたってなぁ」
「べつにそんなつもりじゃ…」
「で、その子は可愛いのか」
頭をウリウリしながら問いかけると、拓海は分かりやすく顔を逸らして赤らめる。
「ほー! ほうほうほう! この超プリチーなおれになびかねえ拓海のお眼鏡に適う子か!」
「お前は言動がダメなんだよ」
「それ以外ならオッケーみたいな言い方じゃん。
まあ、お前の初恋の相手だもんなぁ?」
「ブッ」
噴き出して固まった拓海に、おれは畳みかけるように追い打ちの言葉を浴びせた。
「小学生入ってすぐの頃だっけなぁ。何処に行くにも付いてくるお前は可愛かったぜぇ。た く み くぅ~ん?」
「くっ……過去の事を掘り返すのは卑怯だろ」
「ぎゃはは! この過去のせいでお前は一生おれに勝てねえんだよ」
「くっそ……お前のそういうところ、ほんとに羨ましいよ」
白旗を上げた拓海を見て、おれは満足げに鼻を鳴らした。
拓海を解放したあと、気分よくプチトマトとオクラをビニール袋に入れ、差しだす。
「ほい257円。……260円な」
「そこはおまけするだろフツー」
「四捨五入は計算の基本だからな。あと1円玉の整理めんどくせーし」
「この店大丈夫かよ」
「あ。拓海、もうひとつ聞きてえことがあるんだけど」
夜。ガソリンスタンド。
閉店時間のそこに、おれはキャリーで凱旋していた。
スッと客用レーンに入り、クラクションを鳴らして店員を待つ。
閉店準備をしていた店員が、アッとした顔になって駆け寄ってきた。
「ああっ、やっぱり! 億菜ちゃんじゃないか!」
来たのは、頭の包帯が目に付く池谷のニイちゃん。
おれの車を見て、パッと顔が明るくなる。
キャリーの窓から顔を出すと、帽子をとってサッと頭を下げる池谷。
「ありがとう億菜ちゃん! キミと、拓海のおかげで秋名の走り屋には意地があるってことを証明できたよ!」
ほぉーん?
拓海から聞いてた話とちょっと違うなぁ。
秋名の最終兵器! 謎のハチロクと軽トラ! みたいな感じで浮かれまくってるって話だったけど。
「うんうん、そりゃよかった。それでな、その件でお礼してもらおうと思って」
「へ……? あ、ああもちろん! オレにできることならなんだってやるよ!」
言ったな?
「だったらメシおごってくれよ。行きつけのファミレスとかあんだろ?」
そう言い放つおれに、池谷のニイちゃんは「えっ」と目を丸くした。
「…そんなのでいいのかい?」
「じゃあレギュラー満タンも付けてもらおっかな」
「や、藪蛇だったかぁ~っ」
そんなこんなでガソリンを入れてもらった後、クルマがない池谷を隣に乗せてスピードスターズがよく使っているというファミレスに案内してもらった。
アツアツのチキンステーキ。ほくほくのドリア。ちょっとベッチャリ気味のナポリタンに、ケチャップ多めのオムライス。
そうそう、ファミレスってのはこうじゃないと。濃くて雑な味付けがいいんだよ。
「ず、ずいぶん食べるんだね……」
最初はなんかスケベそうな目つきで乳をチラ見していた池谷は、テーブルに並んだカラの器を見て引いていた。
あっそうだ、シャーベットも頼んじゃお。花火ついてるやつね。
無言で財布の中身を確認し始めた池谷に、付け合わせのポテトをスーッと差し出す。
「ほれ、あーん」
「え、え、え」
困惑している池谷の口に押し込む。うぎゃ、と声が漏れた後に、なんか鼻の下が伸びた感じの面白い顔になった。
ポテトをもう一個差し出してまた押し込む。今度は感激で笑顔に。
こいつオモシレ~~。
自分では真面目な顔してると思ってるんだろうけど、全然スケベ心抑えきれてないぞ。
「あー食った食った」
「ほんとによく食べたね……」
ファミレスのすぐ外にある駐車場。久々のドカ食いに、おれは腹をさすって大満足の笑みを浮かべていた。
隣には財布を振って悲しそうな顔をしている池谷。ちょっとかわいそうになるくらいショボくれている。
うーん。さすがに事故起こしたばっかの奴から金を巻き上げるのはやり過ぎたか。
「そういえば池谷のニイちゃんは何で事故ったんだ?」
ふと事故のことが気になって質問してみる。すると池谷はスッと真面目な顔になった。
「その、笑わないで聞いてくれるかい」
「内容による」
「あ、あはは…億菜ちゃんは正直だね」
池谷はちょっとモジモジしたり居心地悪そうに辺りを見回したりした後、意を決したように語り始める。
「その……オレさ、秋名の走り屋がレベル低いって思われるのが嫌だって話をしたよね?」
「ん」
「その数日前、少しでも速く走れるようにならないかってタイヤ変えたり、ウデを磨くために峠をがむしゃらに走ってたんだ」
ああ、なるほど。
そういうことか。
「限界いっぱいまで攻め込んでるときに対向車がやってきて、避けることはできたけど……。クルマの操作が追いつかずに、ガードレールにぶつかって……」
誰に責められているわけでもないのに、池谷は俯いて、拳を握っている。
後悔。
そんな二文字がありありと表れていた。
ハッと顔を上げた池谷が、取り繕うように笑う。
「ご、ごめんね億菜ちゃん。こんな、意地張ってバカみたいな事故おこした情けない話で」
「情けなくない」
その言葉に、おれは直ぐに否定を返した。
池谷の表情が固まる。
じっと目を見る。池谷は驚いた顔でおれを見つめ返していた。
「おれな。正直ニイちゃんのこと、小っちゃい子に縋る情けない奴って思ってた所、あったんだけどよ」
「……」
「あるじゃん、根性」
拳を池谷の胸にぶつけて、笑う。
池谷の表情が、少しだけ晴れた。
しかし、そうか。
少しでも速くなりたい。走り屋は誰だってそう思うものだよな。
なら、うん。そうだな。
「なあニイちゃん。今からおれの峠の走りを隣で見てみないか」
「!!」
池谷の顔が急激に青くなる。
ん~? なんか反応がおかしいな。事故がトラウマになってんのかな。
安心させるように優しく微笑む。
「大丈夫、事故は起こさねぇよ。隣に乗ってるだけでも勉強になるぜ」
「そっそ……そうだね…!」
「どうだ、行くか」
「い、行く……!」
二人でキャリーに乗り込み、秋名まで車を転がす。
しかし上っている途中、なんか祈るようにずっとブツブツ言ってるな。
コーナー3つ? せめてそれ以上?
なんのことだか皆目見当つかん。
なお、池谷はダウンヒルのコーナー2つで失神した。
やっぱり腰抜けの情けない男なのか……?
やっぱりTS娘はボディタッチが多いほうが健康にいいと思います