光が強くなれば、陰の実力者はより際立つ。ので、僕が天に立つ 作:あばなたらたやた
夜のミドガル王国首都。
空は爛々と燃え盛っていた。それは天体の営みではなく、理の崩壊を告げる魔力の奔流であり、星々の光を無慈悲に塗り潰す終焉の炎に他ならない。
石畳の路面は高熱に溶けかけ、都市の防衛を担うべき精鋭たちの残骸が血の海に浮かんでいた。静寂など存在しない。
そこにあるのは、世界が音を立てて自壊していく絶望の残響のみであった。
「……嘘……?」
焼けただれた噴水の縁に崩れ落ちた少女――第二王女アレクシア・ミドガルは、自身の無力という現実の前に立ち竦んでいた。
その銀色の髪は煤に汚れ、誇り高き制服は鮮血に濡れている。
彼女のトレードマークである紅い瞳は、ただの恐怖ではなく、世界の理から見放された者だけが抱く絶対的な絶望に大きく見開かれていた。
目の前に立つのは、神話の模造品にして災厄の化身、魔人オリヴィエであった。
かつて英雄と謳われた肉体は、今や理性を完全に剥ぎ取られ、殺戮という純粋な本能の塊へと成り果てている。その存在自体が圧倒的な大気の圧変動を引き起こし、アレクシアの肺からすべての酸素を奪い去っていた。
――死とは、かくも無惨な不可避なのだろうか。
ここで何の爪痕も残せず、歴史の片隅で犬死にするのだという冷酷な予感が、彼女の心臓を凍りつかせた。
震える指先が剣の柄を握りしめるが、恐怖に縛られた肉体は半歩すらも前に進まない。迫り来る死の気配を前に、彼女はただ唇を噛み締めることしか許されていなかった。
――その静寂を裂くように、陰が降り立った。
「――酷いな」
それは圧倒的な絶望の只中にありながら、どこまでも冷徹な調和を孕んだ澄んだ響きであった。
燃え盛る炎と舞い散る灰の向こう側。崩壊した回廊の柱の上、常人の感覚では認知し得ぬ死角に、そいつは立っていた。
漆黒のロングコートが、夜風と業火の熱量に煽られて大きく波打つ。
深いフードに隠された表情は一切の光を拒絶し、その全身から漂うのは、魔人が放つ狂気とは異なる、世界を統べる王者のような「静謐」という名の特異点だった。
シド・カゲノー。
そこに顕現していたのは、夜の闇そのものが人型を取ったかのような、世界の法則から遊離した孤高の英雄そのものであった。
「……貴方は……?」
アレクシアの喉から、掠れた疑問が零れ落ちる。
シドは彼女を一瞥すらせず、ただ重力を祝福するかのように優雅に地面へと降り立った。
その足音は、終焉の轟音に満ちた死の都において、なぜか世界の秩序を正す鐘のように鮮明に響き渡った。
「今日は観光に来ただけだった」
シドは呟いた。
「家族と共にご飯を食べて、これからの未来について考える。そういう日だった。太陽が昇り、沈むように。平穏な日常のはずだった」
それは誰に向けたものでもなく、独り言の皮を被りながらも、世界の理そのものを一方的に断じる救済者の宣言に等しかった。
「僕は面倒は嫌いなんだ。消えてもらう」
彼の右手が、腰の柄に気高く滑らかに添えられる。刹那、ミドガルの空からすべての雑音が消え失せた。
魔人オリヴィエが、その異形の首を異様な角度へとねじ曲げた。目の前の闖入者を生存を脅かす新たな異物と認識したのか、あるいは自身の完全性を阻む唯一の障壁と断じたのか。
大地を粉砕する凄まじい踏み込みとともに、魔人が跳ねる。音速の壁を容易く超えた突撃が、周囲の空間を物理的に引き裂いた。
だが――。
「……遅い」
シドの姿がかき消えたのではなく、彼の運動速度があまりにも世界の基準から乖離していたため、地上の視覚がその軌跡を捉えきれなかったのだ。
すれ違う瞬間、闇夜を両断した金属音――それは研ぎ澄まされた魔力が大気を限界まで圧縮し、世界を護る盾と化した不可視の断層であった。
ガァァァァァァンッ!!
衝撃波が全方位へと四散し、辛うじて原形をとどめていた半壊の建造物群を、音もなく微細な砂塵へと還元する。
アレクシアは大きく見開いた瞳のまま、息を呑むことすら忘れていた。
魔人の放った世界を穿つほどの渾身の一撃が、片手で――それも、雑に抜かれたスライム製の安っぽい模造剣の一閃によって、完全に、そして圧倒的に受け止められていたからだ。
「……っ……!」
魔人の巨体がわずかにたじろぐ。オリヴィエの赤い瞳が、目の前の少年の存在論的な不可解さに微かに揺らいた。
シドは冷ややかに、暗いフードの奥からその怪物を俯瞰している。その背中は、絶望に染まった王都の夜景の中で、奇妙なほどに巨大であり、同時に世界を背負う者だけが持つ孤高の気高さを湛えていた。
「……ふっ」
闇の中、シド・カゲノーは誰にも届かない声で小さく吐き捨てた。
彼の精神の深淵では、神話の主役たる者が纏うべき「圧倒的な強者としての孤独」という名の劇薬が、静かに沸騰していた。
――今こそが、舞台の中央。世界が最も美しく歪み、自らの存在証明が最大化される瞬間なのだ。
――世界が、白く焼けた。
シドが解放したのは、都市という局所を超え、概念すらをも圏内とする大規模殲滅攻撃『アイ・アム・アトミック』であった。
極限まで圧縮された魔力が一点から解き放たれた瞬間、王都ミドガルの中心部は一瞬にして絶対零度の光の牢獄に包まれ、次いで超高温のプラズマの奔流へと相貌を変えた。
爆心地の表象にいた魔人オリヴィエの巨体は、断末魔という生物的な営みすら許されることなく、光の粒子へと強制的に分解され、四散したかに見えた。だが、理は容易に屈しない。
「耐えた? いや、そういう感じじゃない。次の個体か」
光の収束の果てにそこに立っていたのは、無傷のオリヴィエだった。彼女は魔力障壁という物理的防壁によって直撃を防いだのではない。
その身に纏うおぞましい瘴気の原初そのものを盾とし、アトミックの放つ超高熱と世界の熱量を相殺し、その隙に生き残っているクローン個体と切り替わった。
魔人オリヴィエはクローンであり、在庫は無限にある。
自分は死んでも、別の自分へ託すという暴力的なまでの意志をもって、シドのアトミックを潜り抜けた。
魔人オリヴィエの赤い瞳が、純粋無垢な殺意を宿してシドの生存を捉える。
「嘆かわしいな。いや、クローンがここまでやるのは技術発展の点を見れば好ましいが」
シドは微かに口元を歪めた。だが、その精神の底にあるのは恐怖ではなく、究極の「強敵」に出会えたことへの歓喜に他ならない。
――そうだ。自らの全力を全霊でぶつけてなお、目の上に立ち塞がる壁こそが、物語を成立させる唯一無二の舞台装置なのだから。しかし、代償は厳正であった。
先の一撃でシドの魔力回路は極限まで酷使され、肉体を支える出力は急速に低下していた。
オリヴィエの追撃は、慈悲という概念を一切持たない。
漆黒の瘴気を纏った剣閃が、音速の余韻を置き去りにしてシドの防御の隙間を穿った。
――ブスリ。
鈍い肉の裂ける音が、戦場の静寂を切り裂く。
「……ぐ、は……」
シドの視界が、急速に深紅へと染まっていく。オリヴィエの剣は、彼の生命の源泉である心臓を完全に貫いていた。背中から突き出した冷たい刃先が、虚空の月光を反射して残酷な光を放つ。
心臓の鼓動が急速に減衰し、肉体から温もりが奪われていく。意識の深淵が、底なしの闇へと彼を引きずり下ろそうとしていた。
――ここで、終わるのか?
いや、否である。
シド・カゲノーという存在は、運命という名のシナリオの予定調和に屈するような矮小なモブではない。
彼の脳裏に構築された「最強の陰の者」の哲学において、死の淵ですらも、鮮やかなる逆転劇のための周到な伏線にすぎなかった。
――心臓が停止したのなら、自らの意志で再起動させればいい。
仮死状態に陥りかけた肉体の奥底。
シドは枯渇したはずの全魔力を、強引に心臓という一点へと凝縮させた。
それは魔力による強制的な生体電気信号の発生――すなわち、自らの内なる魔力を用いた暴力的な心臓マッサージとなる。
死の門前において、彼の心臓は不可逆的な拒絶を押し切り、再び強引に脈動を刻み始めた。
ドクン、ドクン、ドクン。
それと同時に、肉体の修復が異次元の速度で加速する。ゾンビじみた異端の再生治療。常人であれば苦痛のあまり精神が崩壊するほどの激痛を、シドは「強敵と渡り合う代償として支払うべきコスト」として、冷徹な快感へと変換してい
一方、オリヴィエは目の前の少年が「確実に死に至った」という客観的事実を認識し、その背中を任せるようにわずかに視線を逸らした。
彼女が次なる標的――瓦礫の陰で震えるアレクシアへと矛先を向けた、その瞬間。
「瞬殺」
死の底から這い上がった背後から、凍てつくような冷徹の声が宣告された。
――ザシュッ。
シドの振るった剣が、背後からオリヴィエの肉体を深々と穿っていた。スライム製の模造剣は魔人の心臓を的確に貫き、そのまま背中へと突き抜ける。そしてシドは、その冷酷な抱擁の形をとって魔人の耳元に唇を寄せ、静かに囁いた。
「――『アイ・アム・アトミック・ガンマレイ』」
それは、先ほどの空間全体を焼き払う大技ではない。対象の肉体の内部、その細胞のミクロの宇宙へと直接魔力を浸透させ、内側から崩壊させる超近接・高密度の必殺技。
彼の魔力は、かつて彼がいた世界の記憶の片隅にある――放射能分裂光という名の禁忌の性質へと意図的に変換されていた。
「――アァァァァァァァァッ!!」
魔人の喉から、人間としての形を失った断末魔が迸る。外皮に目立った傷はない。しかし、オリヴィエの体内で、目に見えない死の光が幾重もの泡のように弾けていた。
細胞の一つ一つが遺伝子レベルで分解され、存在そのものが塵へと還元されていく。幾重もの瘴気も、神話級の肉体も、強大な魔力も。ガンマレイの奔流の前には、ただの無力な幻影にすぎなかった。
音もなく崩れ落ちる魔人オリヴィエ。
体は、最後には眩い光の粒子となり、ミドガルの夜空へと溶けて消えていった。シドは、血に濡れたコートの裾を翻し、静かに地面へと着地する。
その瞳の奥には、自己満足の成就と、いつものような言い知れぬ虚無感が静かに湛えられていた。
背後では、アレクシア王女が言葉を失い、ただ呆然と彼の背中を見つめている。その紅瞳には、恐怖の残滓と、人間という枠組みを超越した存在に対する測り知れない畏敬が焼き付いていた。だが、シドは彼女を振り返ることはない。
真の英雄は、賞賛を浴びる舞台の表舞台ではなく、物語の幕が下りた後の闇へと静かに姿を消すのだから。
「……帰ろう。私のシャドーガーデンへ」
独り言とともに、シド・カゲノーは夜の闇の境界線へと溶け込み、その足音を完全に消し去った。王都を焼き尽くした炎の名残だけが、静かに、しかし誇高く燃え盛っていた。