光が強くなれば、陰の実力者はより際立つ。ので、僕が天に立つ 作:あばなたらたやた
シドとゼータは、大聖堂の正面から堂々と歩いていった。
「さて。犯罪に加担している聖女様の顔を見に行こうか」
「公的な組織なんだから、抑えて、抑えて」
ゼータの軽い制止に、シドは楽しげに笑った。
大聖堂の中へ足を踏み入れる。
朝陽がステンドグラスを透かし、床に七色の光を落としていた。祭壇に掲げられた黄金の十字架が淡く輝き、数十本の蝋燭が静かに炎を揺らしている。
香油と古い石の匂いが混じった空気は冷たく、歩くたびに靴音が高い天井へ吸い込まれていく。
表向きは、治安維持総監としての視察。
だがシドにとっては、それだけではない。
荘厳な大聖堂も、聖女との対話も、これから始まる一連の出来事さえも――ひとつの舞台装置に見えていた。
少し後ろを歩くゼータは、明らかに機嫌が悪い。
白髪のショートヘアを揺らし、金色の瞳を細めて祭壇の奥を睨んでいる。猫獣人の耳は落ち着きなく動き、マントの下の尻尾も不規則に揺れていた。やがて、祭壇の脇から小さな足音が響く。
現れたのは、黒い目隠しをつけた少女だった。
肩まで伸びたアッシュブロンドの髪。純白の聖衣。幼い体躯には不釣り合いなほどの、静かな威厳をまとっている。
ウィクトーリア。
彼女は祭壇の前で立ち止まり、二人へ向き直った。
「ようこそ、治安維持総監シド・カゲノー卿。そして……ゼータ様」
鈴を転がすような声だった。
彼女は胸元で両手を組み、深々と頭を下げる。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます。神の御許へ導かれたこのご縁を、心より感謝いたします」
「こちらこそ、聖女ウィクトーリア殿。お時間をいただき恐縮です。街の秩序を守る立場として、教会のお考えを伺うことは重要ですから」
「シド卿のお言葉、ありがたく存じます」
ウィクトーリアは静かに頷いた。
「人を守り、導く立場にある者同士。こうして言葉を交わす機会は、貴重なものですね」
「ええ」
シドは微笑んだ。
「ウィクトーリア殿も、民衆の心を癒し、導く立場だと伺っています。私も、治安維持の名の下に、できる限り多くの人を守りたいと思っています」
二人の会話は驚くほど穏やかだった。互いに相手の言葉を遮らず、丁寧に受け止める。相手を傷つけないよう慎重に言葉を選びながら、それでも自分の信念は曲げない。
似ている。
シドはそう感じた。
――いや。
相性がいい。遊びの延長ではなく、一人の人間として真っ当に対話できる相手だった。だからこそ、シドには興味深かった。
これほど穏やかな人物が、ディアボロス教団との癒着に関わっている。
ウィクトーリアは祭壇の横へ移動した。背後から差し込むステンドグラスの光が、彼女の金髪を七色に染める。その姿は、まるで宗教画そのものだった。
「今日は、皆さまに少しお話をしたくて」
彼女の声が、大聖堂に静かに響く。
「古い物語をご存じでしょうか。『魔王と女神』……そして、その裏で起きていた、もう一つの戦いを」
シドは黙って耳を傾けた。
「魔王は世界を闇に染め、女神は光を掲げて立ち上がりました。しかし、その戦いの影で、もう一つの恐ろしい災厄が生まれていたのです」
ウィクトーリアの声から、わずかに温度が消えた。
「魔人ディアボロス。かの者の呪いは、人も獣もエルフも、種族を問わず肉体を蝕み、魂を砕きました」
ゼータの尻尾が、ぴたりと止まる。
「そんな中、三人の英雄が立ち上がりました」
ウィクトーリアは両手を胸元で重ねた。
「人、獣、エルフ。異なる種族の三人です。彼らは互いの違いを否定しませんでした。憎むこともしなかった。ただ、対話したのです、互いの痛みを聞き、言葉を交わし、考える機会を共有した。それこそが、神が人類に与えた最大の救いだったのです」
シドは静かに聞いていた。
「対話とは、肯定することでも否定することでもありません。ただ相手の言葉を受け止め、自分の言葉を返すこと。その繰り返しによって、新しい考えが生まれ、理解が深まる」
ウィクトーリアは微笑んだ。
「種族の壁を越え、呪いの闇を打ち破ったもの。それが――対話だったのです」
静かな余韻が残った。
シドは一度息を吐き、頷く。
「……真っ当な話ですね。対話がすべてを解決するわけではありません。でも、争いを減らし、互いを理解するための手段としては、正しいと思います」
シドは穏やかに続けた。
「私も治安維持の現場では、できる限り対話を重視しています」
「ありがとうございます、シド様。私も同じ思いです。神の御心は争いではなく、理解と慈しみにあると信じています」
二人の言葉が、静かに交わる。
相性がいい。
シドは改めてそう思った。表の顔だけなら、これほど噛み合う相手も珍しい。
「今日はお話を聞かせていただき、ありがとうございました。……また機会があれば」
「いつでもお待ちしております。神の御許に」
二人は穏やかに別れた。
大聖堂を出る。外にはまだ朝霧が残っていた。潮風が頬を撫で、湿った石畳の上を白い霧がゆっくりと流れている。
ゼータは無言だった。耳は伏せられ、尻尾だけが苛立たしげに揺れている。
シドは彼女の隣へ並んだ。
「苛立っている理由は、少しわかるよ」
ゼータは答えない。
「僕も、全部が対話で解決するなんて思ってない」
その言葉を聞いて、ゼータの耳がほんの少し動いた。しかし、すぐに低い声が返ってくる。
「……対話が救い?」
彼女は霧の向こうを睨んだ。
「ふざけないでよ」
声は抑えられていた。だからこそ、そこに込められた怒りがよくわかった。
「苦しいときは、『今すぐ助けてほしい』って思うんだよ。考える暇なんてない。呪いで体が溶けていくとき、対話なんか待ってられない。救われない人がいる。それが現実なんだよ」
短い言葉が、鋭く刺さる。
「それを『対話が足りなかったから』みたいに言われたら……腹が立つ」
シドは黙って聞いていた。
もしウィクトーリアなら、きっと優しくこう答えるだろう。
――あなたの痛みは理解しています。
――神はすべての人に救いの手を差し伸べています。
――その手を取るかどうかは、あなた自身の心に委ねられています。
だが、ゼータには、それでは届かない。
「そんな綺麗事で、死んだ奴らは帰ってこない」
ゼータは唇を噛んだ。
二人は霧の残るオルムの街を歩き続ける。湿った石畳には小さな水溜まりができ、朝陽を細かく反射していた。港からは魚市場の呼び声が聞こえ、焼きたてのパンと海藻の匂いが潮風に混ざって漂ってくる。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
聞こえるのは足音と、遠くから響く波の音だけ。
やがて――
「……お腹減った」
ゼータがぽつりと呟いた。
シドは思わず笑った。
「なら、何か食べようか。何がいい?」
「最近、迷うんだよね。栄養バランスを考えると何を食べればいいのかわからない」
彼女は少し考え、それからシドを見上げた。
「そうだ。主が決めてくれないかい?」
一拍置いて。
「……我が主」
わざと甘えるような声だった。
シドは苦笑する。
「魚。確か好物だったよね」
「魚?」
「魚を軽く食べられる店があるかは、わからないけど」
「いいね」
先ほどまでの不機嫌が嘘のように、彼女の表情が明るくなる。
「お腹は減ってるし、シドと一緒に探すのも悪くない」
ゼータはシドの袖を軽く引いた。二人は港に近い市場へ向かった。市場へ入った瞬間、魚の焼ける香ばしい匂いが強くなる。鉄板の上では串焼きが音を立て、蒸した貝から白い湯気が立ち上っている。干物が風に揺れ、商人たちの声が飛び交う。
ゼータは鼻を動かしながら辺りを見回した。
「あれ、あの串焼き。魚の脂が乗ってて美味しそう」
炭火の前では、老婆がサバを焼いていた。
シドは頷き、財布を取り出す。
「二本でいい?」
「三本!」
即答したあと、ゼータは少し考えた。
「……いや、四本。シドも食べるでしょ?」
「もちろん」
シドは四本の串焼きを買い、二本をゼータに渡した。
ゼータは待ちきれないように、一口かじる。
「……んっ。うまい。主ありがとう」
尻尾がゆっくりと揺れる。
シドも自分の串を一口かじった。
「美味しいね。栄養バランスは……まあ、今日はこれでいいよ」
「うん、主が決めてくれるなら、何でもいいよ」
二人は市場の喧騒の中を歩いていく。朝陽が少しずつ霧を溶かし、オルムの街が本来の色を取り戻していく。
さっきまで胸に残っていた重い話も、今は遠いものに感じられた。
魚の串焼きの熱。
潮風の匂い。そして、隣を歩くゼータ。
そんな些細なものだけが、今のシドの朝を満たしていた。