光が強くなれば、陰の実力者はより際立つ。ので、僕が天に立つ 作:あばなたらたやた
知性魔物リューグナー戦から翌日。
シドは所長室の重厚な机に肘をつき、昨夜シャドウガーデンが集めた資料の束をめくっていた。
薄暗い室内に、ランプの炎が揺れている。
奴隷商人の取引記録、聖教のウィクトーリアが関与した人買いの痕跡、そして裏で糸を引いていた知性魔物の名前。
ページをめくるたび、すべての点と点が繋がり始める。
「次は治安維持組織として、奴隷商人の破壊が可能になる。公的機関が動けば殲滅できる。光は強くなり、影はより暗くなり、陰影の輪郭は見え辛くなる」
呟いたシドの胸に、静かな満足感が広がった。表の顔で正義を振りかざし、裏でより深く闇を操るこの遊びは、ますます面白さを増している。コンコンと、控えめなノックの音が響いた。
「入って」
ドアが静かに開き、アルファが入ってきた。金色の長髪がランプの光を受けて淡く輝き、蒼い瞳はいつものように感情を映さない。
「シド。緊急の仕事よ」
「内容は?」
「聖教の聖女、ウィクトーリアの護衛任務」
一瞬、時間が止まったような静寂が訪れる。
「……それは驚いた」
アルファは無表情のまま、わずかに唇を動かした。
「上層部からの直々の要請よ。ウィクトーリア様が近日中の公の場で、治安維持組織の所長である君に護衛を依頼したいと。断る理由はないわ」
シドは資料を閉じ、ゆっくりと椅子に背を預けた。護衛対象が、まさに今、自身が潰そうとしているネットワークの中心にいる少女だというのに。
面白い。実に、面白い。
「了解した。詳細は?」
アルファが一歩近づき、机の上に新たな封書を置く。
「これに全て書いてあるわ。……シド。ウィクトーリアは、ただの聖女じゃない。あなたが思う以上に、危険な存在よ」
シドは封書に指をかけ、薄く笑った。
「知ってるよ。……だからこそ、楽しみだ」
所長室の空気が、ほんの少しだけ重くなる。光と影の境界で、また新しい舞台が始まろうとしていた。
封書を開いたシドは、簡潔にまとめられた任務内容に目を走らせた。
聖教の精鋭騎士団が最近の知性魔物との戦闘で壊滅し、各地を巡回慰安して民衆の信仰心を繋ぎ止めるためにウィクトーリアが動くことになったものの、護衛が手薄になったという。
そこで治安維持組織の所長であるシドに白羽の矢が立ったわけだが、背景を読む限り、これは明らかに囮だった。
ウィクトーリアを餌に、残党の知性魔物や奴隷商人たちを引きずり出そうという算段である。聖教の上層部は、彼らを囮の護衛役兼、使い捨ての掃除屋として使おうとしていた。笑えるほど露骨だった。
「どうするの?」
アルファの蒼い瞳が、次の言葉を待っている。
シドは封書を閉じ、軽く肩をすくめた。
「やるよ。罠は正面から打ち破る」
「了解。人員はこちらで集めるけれど、それで良い?」
「うん、よろしく。僕も出るよ」
立ち上がり、コートを羽織る。窓の外では薄曇りの空の下、街がいつも通り平和そうに広がっていた。
「シャドウガーデンのメンバーを目立たないように配置する。表向きは治安維持組織の部下として動くけど、必要ならいつでも影から動けるようにしておくわ」
「ウィクトーリアのスケジュールは?」
「三日後に最初の慰安地へ。そこから一週間で三箇所を回る予定よ。道中が一番危ないわね」
「じゃあ、準備を頼む。僕は少し、表の顔で動いておくよ」
「……気をつけて、シド」
「もちろん」
ドアを開けると、廊下の冷たい空気が頬を撫でた。囮の聖女と使い捨ての治安維持組織。すべてを自分の手で握り潰すべく、シドは静かに微笑みながら階段を降りていった。
護衛任務としてウィクトーリアの隣を歩きながら、シドは森の空気を深く吸い込んだ。
木々の間を抜ける風が葉をざわめかせ、遠くで鳥の鳴き音が途切れ途切れに響く。足元は柔らかい土と落ち葉の絨毯で、靴音がほとんど吸い込まれるように静かだった。
十数歩前方ではアルファが周囲の気配を探り、後方ではゼータが木陰に溶け込みながらチャクラムの柄に指を這わせている。誰もが無言で役割を果たしていた。
白いローブの裾が、歩くたびに軽く揺れる。
ウィクトーリアの歩幅は小さく、しかし聖なる行進のように整然としていた。目隠しで覆われた顔は表情を隠しているが、呼吸の微かな乱れはシドに伝わっていた。
シドはゆっくりと、言葉を選びながら口を開く。
「ウィクトーリア聖女殿下……失礼を承知でお伺いします。あなたが聖教に迎え入れられる前のこと、もし差し支えなければ、少しお聞かせいただけますか。スラム街での日々は、どのようなものでしたか」
彼女の足がわずかに止まりかけたが、すぐにまた歩き出す。小さな息が唇の間から漏れた。
「……構いません。むしろ、話すことで、私自身が忘れてしまわないようにしたいのです」
穏やかな声の奥に、遠い記憶の重みが沈んでいる。
「私は親の顔を知りません。物心ついた頃には路地裏の廃屋で、飢えと寒さに震えていました。食べ物は市場の裏で拾った腐った果物やパンのかけら。冬は特に辛く、凍えた指先の感覚が失われるまで縮こまって耐えるだけでした。助けを求めることも怖かった。助けてくれた人が、逆に私を売るかもしれないと思っていたから」
聖女の口から語られる過去は、あまりにも生々しかった。
「そんな日々が何年続いたのか……覚えていません。ただ、ある朝、聖教の巡礼団が通りかかりました。路地の隅で膝を抱えていた私を見て、一人の聖職者が立ち止まり、『この子は神の光に選ばれた子だ』と。それが、私の人生の終わりであり、始まりでした」
彼女は小さく息を吐き、言葉を続ける。
「それからはすべてが変わりました。清潔なベッド、温かいスープ、柔らかい服。文字を学び、祈りを捧げる日々の中で、私は初めて『生きている』と感じました。聖教は私を救ってくれた。だからこそ、私はこの身を捧げたいのです」
シドは静かに頷き、その言葉を胸に刻んだ。
「それは本当に、素晴らしい救済だったのですね。スラム街の闇から光の中に引き上げられ、慈悲があなたをここまで導いた。あなたのような方がいるからこそ、信仰は人々の心を支え続けられる。どうか、その光を失わないでください」
表の所長として聖女を称える言葉の裏で、シドの胸中では別の感情が渦巻いていた。
――知っている。すべてを知っている。
聖教は確かに貧しい者を救う。だが、その救いは無償の慈悲などではない。選ばれた少女たちは「実験体」として扱われ、魔力増幅の呪文や禁断の薬物投与、肉体改造によって現実をねじ曲げる存在へと作り変えられる。そして完成した完璧な聖女は、権力者たちへの人形として、欲望を満たす玩具として捧げられるのだ。
ウィクトーリアはまだ純粋無垢な聖女のままだが、その肉体はすでに常人を遥かに超越している。
首を切り落とされても気合と根性で生き延びるほどの異常な耐久力は、聖教が彼女に注いだ投資の証明にほかならない。そしていつの日か、量産可能な使い捨ての駒として切り捨てられる日が来る。
シドは視線を前に戻し、静かに息を吐いた。
「聖教の教えは正しい。あなたが体現している慈愛は多くの人を救うでしょう。……どうか、これからもその信念を貫いてください」
優しくも冷たく響く声に合わせ、シドの指先が剣の柄にそっと触れた。ウィクトーリアは目隠しの下で柔らかく唇を弧を描き、小さく微笑む。
「……ありがとうございます。あなたのような方にそう言っていただけるのは、本当に嬉しいです」
森の木々が徐々に疎らになり、遠くに最初の慰安地の町の輪郭が浮かび上がってきた。煙突から上がる煙が薄い空に溶けていく。
シドはそっと彼女の背中を見やりながら、静かに微笑みを含んで歩みを進めた。