いよいよ、今日は卒業試験の日だ。といっても、机に向かって答案用紙を埋めるようなものではない。
ヘレシアがエルリック兄弟に課した最後の試験。
それは自分自身の身体を、自分自身の手で錬成すること。
エドワードは失った右腕と左脚を。アルフォンスは失った肉体のすべてを。
二人がヘレシアのもとで学び始めてから、まだ一年も経っていない。
解剖学、生理学、組織学、生化学、発生学、免疫学。
さらには、その基礎となる電磁気学、熱・統計力学、物理化学、有機化学、無機化学、分析化学……
人体を形作るものを一つずつ学び、最初は指一本だった錬成が、腕になり、臓器になり、ついには人間一人分の身体を組み上げられるところまで来た。
ヘレシア曰く、
「ここまで一年かからないのは、ほとんど君たちの才能だよ。私ほどじゃないけど、なかなかじゃない」
とのことだった。
地下の錬成室には、その成果が文字通り山になって積み上がっていた。
床一面に広げられた錬成陣。その周囲には、それを補助するさらに細かな錬成陣。
束というより、もはや山だ。人体全体の形を指定するものなど、その中ではごく一部でしかない。
ほとんどは細胞内部の構造を指定するためのものだった。
細胞膜。核。ミトコンドリア。各種の受容体。
さらに、それらの細胞を組織として結びつけ、組織を臓器として配置し、血管と神経で全身を接続するための錬成式だけで数冊分になる。
これらの大半は、ヘレシアがリバースアルケミーを用いて人体を解析し、構造を一つずつ錬成式へと落とし込んで築き上げたものだった。それは人体錬成を可能にした設計図であり、ヘレシアの研究の核心そのものだった。
もちろん、錬成式があるからといって、そのまま使えるわけではない。何を指定し、何を変換し、どの式がどの構造に対応しているのか。その意味を理解して、初めて一つの錬成として組み上げることができる。
二人はすでにこれらの錬成式を理解し、扱うことはできる。そうヘレシアは判断していた。
ただし、錬成陣なしでの錬成はまだ不可能だった。ヘレシアが築いた式を読み解くことと、それらすべてを頭の中だけで組み上げて発動することは、まったく別の話だった。
その前には、手足の材料となる炭素や水、アンモニアが置かれている。
エドワードはその山を見て、改めて呆れた。
「……よくこんなの覚えたな、俺」
少し離れたところで、ヘレシアが腕を組んでいた。
「はいはい。喧嘩は身体を生やしてからにしてね」
ヘレシアが手を叩いた。
「それじゃ、始めようか」
空気が変わった。
先に行うのはエドワードだった。
機械鎧を外す。
右腕と左脚。長い間そこにあった金属がなくなると、かえって妙な感覚がした。いつの間にか、自分の体の一部として受け入れていたようだ。
エドワードは深く息を吸う。
「……よし」
錬成陣へ手を置いた。
瞬間、床一面を青白い光が駆け抜ける。
最初に現れたのは骨だった。
肘の断面から白い骨が伸びる。橈骨と尺骨。二本の骨が並行して形を取り、その先に小さな手根骨が一つ、また一つと組み上がっていく。そこから中手骨、指骨へ。五本の指が、骨格だけの手として空中に形を現した。
次いで関節面を軟骨が覆い、靱帯が骨と骨を結びつける。
その上を筋肉が包んだ。骨だけだった指が、一本ずつ人の手の形を取り戻していく。
さらに血管。上腕から続く動脈が枝分かれし、細い血管が手のひらへ、指先へと走る。その隙間を縫うように静脈が形成される。神経束が伸びる。
筋膜がそれらを包み、脂肪と皮下組織が隙間を埋めた。
最後に皮膚と爪が形成されていく。
同時に、左脚でも同じことが起きていた。
途中で失われていた大腿骨が断端から伸び、丸みを帯びた関節面を作る。膝蓋骨が形成され、靱帯が関節を固定する。
その下へ脛骨と腓骨が伸びた。
大腿四頭筋とハムストリング、そのほか無数の筋肉が骨格を包み込み、腱となって膝と足首をまたいで骨へ取りつく。
太い動脈が脚を下り、その周囲を静脈と神経が追う。
足首が作られる。そこから五本の中足骨が扇状に伸び、その先に足指が一本ずつ形成されていく。
筋肉がつき、腱がつき、血管と神経が末端まで伸びる。
錬成光が消える。
そこには、初めから失われたことなどなかったかのように、一本の腕と一本の脚があった。
地下室が静まり返る。
エドワードは恐る恐る右手を開いた。
握る。もう一度開く。
「……動く」
左脚を床につける。
体重をかける。
一歩。二歩。何年ぶりかの、生身の感触。
「おおっ……!」
アルフォンスが声を上げた。
「はい、上手にできました。次いくよー」
ヘレシアがアルフォンスを見る。
「アルフォンス君」
「はい」
アルフォンスは錬成陣の中央へ進んだ。
彼の場合、エドワードとは規模が違う。
必要なのは身体一式。
ただし、魂そのものはすでにそこにある。
鎧に定着している魂を、新しく作った肉体へ移す。さっきよりも大規模なので、ヘレシアが最後に確認する。
「よし」
ヘレシアが笑った。
「じゃあ、自分で帰っておいで」
アルフォンスが両手を錬成陣に置く。
錬成光が地下室を満たす。
床の中央で、人間の身体が形成されていく。
骨格。筋肉。臓器。血管。神経。皮膚。金色の髪。
あっという間に身体が完成する。
そして最後。鎧に刻まれていた血印が光った。
一瞬、アルフォンスの魂が揺らぐ。エドワードが息を呑む。
「アル……」
光が収まった。
鎧が、その場に崩れ落ちる。ガラン、と金属音が響いた。
その隣、床に横たわっていた少年が、ゆっくりと目を開けた。
「……兄さん」
エドワードの顔が変わる。
「アル!」
アルフォンスはゆっくり起き上がった。
自分の手を見る。
指を動かす。胸に手を当てる。心臓が鳴っている。
息を吸う。吐く。
「……息ができる」
自分の頬へ触れる。
「暖かい」
立ち上がろうとして、少しふらつく。エドワードが支えた。
「おい、大丈夫か!」
「うん。ちょっと変な感じ」
「何年も歩いてなかった身体だからな」
ヘレシアが近づき、アルフォンスの瞳孔を確認する。
「平衡感覚は?」
「少しふわふわします」
ヘレシアがアルフォンスの頭に手を当てて、体の状態を確認する。
「想定内。数日で慣れるよ」
アルフォンスが立ち上がる。エドワードと並ぶ。
そして、エドワードが止まった。
「…………」
アルフォンスが首を傾げる。
「兄さん?」
「お前」
エドワードの顎が僅かに上を向く。
「うん?」
「俺より…………高くねえか?」
わずかに。ほんのわずかに。アルフォンスの方が背が高い。
アルフォンスが自分と兄を見比べる。
「あ、本当だ」
地下室に沈黙が落ちた。ヘレシアが吹き出した。
「ぷっ」
「笑うなァ!!」
「だって、ちゃんと成長分も計算したんでしょ?」
「俺だって成長してる!」
「兄さん、僕の方が元々少し――」
「言うなアル!!」
今度こそ地下室に笑いが広がった。
「ヘレシアさん、今までありがとうございます」
「世話になった」
数日のリハビリを終え、二人は揃って頭を下げた。
その腕には、研究所から持たされた本や錬成陣の束が山のように抱えられている。『魂錬成ハンドブック』をはじめ、人体構造の資料、基本的な錬成陣の写しまで、これから必要になりそうなものを一通り詰め込んだ結果だった。
ずり落ちかけた束を、エドワードが慌てて抱き直す。
ヘレシアはそんな二人を見て、少し寂しそうに頬を膨らませた。
「うーん、君たちが帰っちゃうのは悲しいなぁ。もっと人体錬成について語り合いたいのに」
「十分語っただろ。朝から晩まで一年近く」
エドワードがうんざりした顔で返す。
それでもヘレシアはまるで足りないと言わんばかりに首を振った。
「まだまだあるよ。脳だけでもあと三年は話せる」
「勘弁してくれ」
エドワードは笑いながら答えた。
「一応、卒業は認めてあげるけど、もっといい体にしたくなったら相談してね!じゃあ、最後の大仕事も頑張ってね……きっと見守ってるからね」
エドワードは一度、言葉を飲み込むように口を閉じた。それから、アルフォンスと顔を見合わせる。
「……ありがとうございました」
アルフォンスも深く頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
リゼンブールへ戻った二人が、最初に向かったのはロックベル家でも墓地ではなかった。
かつて自分たちの家があった場所。
母と三人で暮らした家。そして、自分たち自身の手で焼いた家だった。今では草の生えた空き地に、焼け残った基礎の一部だけが残っている。
エドワードはしばらくそれを眺めていた。
「……ここからか」
「うん」
アルフォンスが頷く。
二人は地面に手をついた。
青白い光が走る。土が盛り上がる。石が組み上がり、柱が伸び、壁が立つ。
床。階段。屋根。煙突。窓枠。
錬成光が消えた時、そこには一軒の家が建っていた。
「……できたな」
「昔と同じだね」
アルフォンスが玄関を見上げる。
完全に同じではない。
細かなところは記憶が曖昧だった。
けれど、玄関を入った時に見える階段も、居間の位置も、台所へ続く廊下も。
二人の記憶にあるエルリック家そのものだった。
エドワードは腕を組んだ。
「昔、あんなに覚悟決めて燃やしたのにな」
「錬金術師が家を燃やして決意表明するの、あんまり意味なかったね」
「言うな」
二人は笑った。
昔なら、焼いてしまえば帰る場所はなくなると思っていた。今なら家の一軒くらい、数分で戻せる。
けれど、これから戻そうとしているものは、家とは違う。
地下室へ降りる。かつて人体錬成を行った場所も、ほぼそのまま再現していた。
ただし、床だけはまるで違っていた。
膨大な錬成陣。壁際には大量の紙束と本。人体を構成する組織ごと、器官ごと、細胞ごとに分けられた錬成式。
アルフォンスが帳面を開いた。
「材料、もう一回確認しよう」
「ああ」
昔と同じように、一つずつ読み上げる。
「水、三十五リットル」
「ある」
「炭素、二十キロ」
「ある」
「アンモニア、四リットル」
「ある」
「石灰、一・五キロ。リン八百グラム。塩二百五十グラム。硝石百グラム。硫黄八十グラム」
「全部ある」
「フッ素七・五グラム。鉄五グラム。ケイ素三グラム。それから微量元素――」
「確認済み」
エドワードは、山積みになった材料を見つめた。
もっと扱いやすい材料はいくらでもあった。あらかじめ目的の成分に近いものを揃えれば、錬成はずっと楽になる。
それでも二人は、あえて昔と同じものを選んだ。原点から、もう一度やり直す。それが二人の思いだった。
昔も、同じようなものを集めた。市場で買えば、子供の小遣いでも手が届く程度の材料だった。
あの時の二人は思った。人間なんて、これだけの材料でできている。なら、自分たちにも作れる。
今なら分かる。
「……これだけ見たら、昔とあんまり変わらねえな」
「うん」
アルフォンスが苦笑する。
「でも、これはただの材料だよ」
「ああ」
水があっても血にはならない。炭素があっても筋肉にはならない。カルシウムがあっても骨にはならない。必要なのは、それをどこに、どれだけ、どんな構造で配置するか。
二人が一年近くかけて学んだものは、そのための知識だった。
エドワードは右袖をまくった。
骨付きの肉塊を横に置く。腕くらいならこれを組み替えればいい。
「じゃあ、最後の準備」
両手を合わせる。パン、と乾いた音。青い光が右肩を包んだ。
「……慣れたくねえな、これ」
右腕の下。
脇腹に近いところから、もう一本の腕が伸びていく。
骨が形成され。筋肉が付き。皮膚が覆い、その表面に刺青のような模様が彫り込まれていく。やがて、完全な人間の腕が一本、余分に生えていた。最後に頭から薄っすらと錬成光が漏れて終了する。
エドワードは指を握ったり開いたりする。それと同時に、ものすごく価値あるものを手に入れたと感じていた。
「感覚あり。運動も問題なし。おそらく認識もな……クソったれな気分だ」
アルフォンスが確認する。
「錬成陣がある以外、ホントの腕と区別がつかないや……」
魂錬成ハンドブックに視線を落としてエドワードは確認する。
「……これを真理に持っていけばいいんだよな」
エドワードは肩から伸びた腕を持ち上げ、何度か指を曲げ伸ばしした。
「ヘレシアさんの話では、あっちも慣れてるはずだって」
エドワードは余分な腕を見る。
「人体錬成のために腕を失った俺が、人体錬成をするために腕を生やして持っていくのか」
「すごいところまで来ちゃったね、僕たち」
そして二人は錬成陣の中央へ立った。
母親の、トリシャの身体を作る。
今度こそ、何をしているのか理解した上で。
エドワードがアルフォンスを見る。
「行くぞ」
「うん」
迷いはなかった。
錬成陣へ血を垂らす。
赤い雫が線の上に落ちたのを確かめ、二人は同時に手を伸ばした。
そして、その掌を錬成陣へ叩きつける。
光が爆発した。
そして――白。ただ白で溢れている。どこまでも続く空間。
その中央に巨大な扉が鎮座しており、その前に真理がいた。体のほとんどはぼやけているが、右腕と左足だけは生身の肉体になっているように見える。
「…………」
以前と同じ笑顔。ではなかった。頬杖をつき、どことなく疲れた顔で二人を見ている。
エドワードが眉をひそめた。
「……なんだよ」
真理はしばらく二人を見つめていたが、やがて深々と息を吐いた。
「やっと来たか……。毎日毎日、なんなんだ、あの女は」
露骨に疲れ切った様子だった。
エドワードとアルフォンスが顔を見合わせる。
その視線が再びエドワードへ向いた瞬間、真理の表情が変わった。
「――お前、ふざけるなよ。どうして右腕を増やしてきた。俺にあれみたいになれという気か」
コンコンッ。
そのときだった。
背後の巨大な扉から、まるで誰かが外側からノックしているような音が響いた。
「多分こっちで合ってるよねー。おーい、早く開けないと扉ごと壊しちゃうよ!」
聞き覚えのある声だった。
「……ヘレシアだな」
「ヘレシアさんだね」
二人とも今更聞き間違えることもない。混乱しながらも、辛うじて名前だけを吐き出した。
「チッ。お前たち、あれの関係者か」
真理は悪態をつきながら振り返った。
巨大な扉が、ゆっくりと開いていく。
その向こうに立っていたのは、数日前にセントラルで別れたヘレシアによく似た姿だった。
……いや、違う。
人の形をした本体の後ろに、腕や脚、頭部、胴体といった無数の人体の部位が連なっている。中でも腕の数は異様に多く、幾重にも折り重なるように伸びていた。
「あれ、二人とももう来てたの? じゃあ、見ててあげるからやりなよ」
意味不明な状況に一瞬の静寂が訪れる。
「あの、ヘレシアさんはなんで……」
アルフォンスが押し出すように声を紡ぐ。
「あっ、私?」
彼女は自分を指さした。
「私はもともと、私の『真理』だったんだよ。……ああ、これだと分かりにくいな。じゃあ、人間のほうをヘレシアって呼ぶね」
エドワードはますます眉を寄せる。
「どういうことだ?」
彼女は自分の頭を指先で軽く叩いた。
「ヘレシアが昔、実験で私に通行料として脳みそを渡してきたんだ。そのせいで、私の思考もだいたいヘレシアと同じになっちゃってね」
「……そんなことあるのかよ」
「実際なっちゃったんだから仕方ないでしょ。通行料を取ること以外はほとんどがヘレシアの管理下だからね。これでも結構便利なんだよ」
そう言って肩をすくめたあと、何かに気づいたようにぴたりと動きを止めた。
「……って、これもこの脳みそのせい!!だけど、やめられない!!」
そう言ってからヘレシアの真理はすぐに深呼吸をした。
「それで今は、対価さえくれれば、こうしてヘレシアから頼まれた仕事もしてるんだ。そろそろ二人が来るかもしれないって聞いてたから、真理の扉を経由して、こっちの真理君の様子を見に来てたところ」
それに対して、真理が手を握り締めて反駁する。
「毎日毎日来るなと言ってるんだ、俺は」
「まあまあ、これを私以外に使わせるのは初めてだからね。ちょっと見ておこうかなって」
軽く流してから、ヘレシアの真理はエドワードの余分な右腕へ視線を向けた。
「それより、その腕。錬成陣はちゃんと描いてある?」
「ああ」
エドワードは胡散臭げに頷いた。
「なら大丈夫」
彼女は巨大な扉を指さす。
「真理の扉の向こうでは、扉のこっち側と同じ法則の制限は働かない。その腕に描いた錬成陣は、腕そのものが対価として扉に飲み込まれることを利用して……扉の向こう側で、魂を錬成するためのものだよ」
真理の表情から、わずかに残っていた笑みが消えた。
二人が何をしようとしているのか、ようやく理解したのだろう。
「……おい。ふざけるなよ」
低い声だった。
怒っているというより、信じたくないものを理解してしまったような声だった。
エドワードは覚悟を決めたように真理に向かい合う。
「今回は、お前に身体を作ってもらう気はねえよ」
アルフォンスが続ける。
「身体は僕たちが作る。骨も、筋肉も、血管も、神経も、全部!」
エドワードが言う。
「だから、お前に頼むのは一つだけだ」
真理は聞きたくなさそうにしているが、ここまで来てそんなことが可能なはずもない。
「そこの扉を開けてもらおう!」
巨大な扉が、ゆっくりと開いていく。
真理はしばらく黙っていたが、やがてエドワードの右肩から生えた余分な腕へ目を向けた。
その瞬間、露骨に顔をしかめる。
「……ならば、その腕をもらおう」
真理は忌々しげに頭を抱えた。
「ああ、くそ……なんで腕なんかを……」
本来なら、つい先ほど錬成した余分な腕に、それほどの価値などあるはずがない。
だが今のエドワードにとっては違う。
錬成によって一時的に弄られた脳が、その一本の腕を、何にも代えがたいほど貴重なものとして認識している。
そして真理が測るのは、物そのものの価値ではない。本人が、それをどれほどの価値として認識しているかだ。
「分かっててやったな……」
真理が睨む。エドワードはにやりと笑った。
「さて、なんのことだ?」
その瞬間、足元から白い空間に亀裂が走った。
「せいぜい示してみろ」
真理の声が、崩れ始めた世界に響く。
「お前たちが理解した――人間というものを」
黒い手がエドワードの右肩へ伸びる。
増やしたばかりの腕を掴まれた瞬間、脳がそれを何よりも大切なものだと訴えた。失いたくない。渡してはいけない。反射的に抱え込もうとするほどの喪失感が全身を駆け抜ける。
「っ――!」
それでも、腕は容赦なく白い空間の向こうへ引きずり込まれていく。肩から引き剥がされる寸前、腕に刻まれた錬成陣が光った。
「じゃあねー!」
ヘレシアの真理がたくさんの手を振る。
白と黒が入り混じり、上下も距離も分からなくなる。
エドワードはただ、最後まで錬成陣から目を離さなかった。
次の瞬間、世界が反転した。
二人の意識はリゼンプールに引き戻されていた。
錬成陣が激しく発光する。用意した材料が一斉に分解されていく。
しかし、以前とは違う。
黒い塊が無秩序に蠢くことはなかった。最初に形になったのは骨だった。
足先。脛。大腿。骨盤。背骨。肋骨。肩。腕。首。そして頭蓋。
「第一段階、正常!」
アルフォンスが叫ぶ。
「次!」
筋肉が骨格を包んでいく。腱が接続される。心臓が形成される。肺。肝臓。腎臓。胃。腸。副腎に甲状腺のような小さな器官も作られていく。
血管が全身を巡り、神経が枝分かれしていく。脂肪。皮下組織。皮膚。髪。爪。
一つ一つ。二人が理解した通りに人間が構成されていく。
そして、何かが完成した身体へ入った。
どくん。
心臓が鳴った。
エドワードの目が見開かれる。
「……アル」
「うん」
どくん。
もう一度。
胸が動く。空気を吸う。吐きだす。
栗色の長髪が床に広がる。指が僅かに動いた。
そして……ゆっくりと瞼が開く。
「…………」
二人は何も言えなかった。
女性の瞳が天井を映す。ぼんやりと周囲を見回す。
そして二人を見た。
「……エド?」
その一言で。
エドワードの視界が滲んだ。
「……母さん」
女性の視線が、その隣へ移る。
「アル?」
「母さん……」
アルフォンスの声も震えていた。
二人とも、いつの間にか泣いていた。
女性――トリシャは、少し不思議そうに二人を見る。
記憶の中よりずっと大きくなった息子たち。
それでも。間違えるはずがない。ゆっくりと手を伸ばす。
「どうして泣いているの?」
昔と変わらない声。昔と変わらない笑顔。
「二人とも」
エドワードはもう耐えられなかった。
「母さん……!」
身体を抱きしめる。
アルフォンスも続いた。
「母さん……母さん……!」
「まあまあ」
トリシャは驚きながらも、二人の頭を抱く。
「本当に大きくなったわね」
その手の温度を二人とも知っていた。
今度こそ。間違いなく。母親の手だった。
その日の夕方。
ウィンリィ・ロックベルは丘の向こうに見慣れないものを見つけた。
「……え?」
家がある。
いや、見慣れないどころではない。よく知っている家だった。
かつてエドワードたちが暮らしていた、エルリック家。
焼けてなくなったはずの家が、昔とほとんど同じ姿で建っている。
「おばあちゃん!」
「なんだい、騒々しいね」
「エドたちの家が!」
ピナコも外へ出て、遠くを見る。
しばらく黙ったあと、煙草をくわえ直した。
「……やったね、あいつら」
「何を?」
ピナコは答えなかった。ウィンリィは嫌な予感と、それとはまったく違う期待が入り混じったまま、坂道を駆け出した。
エドワード。
そして――
ウィンリィの足が止まった。
「……え?」
アルフォンスがいる。
鎧ではない。
金色の髪をした少年が、普通の服を着て、二本の脚でそこに立っている。
「アル……?」
「うん」
アルフォンスが少し照れくさそうに笑った。
「ただいま、ウィンリィ」
「…………」
ウィンリィは何も言えないまま、今度はエドワードを見る。
そこでまた気づいた。
右腕。
いつもなら機械鎧の金属が覗いているはずの袖口から、生身の手が伸びている。
左脚も同じだった。
「エド……その腕……」
「ああ」
エドワードは右手を握ってみせる。
「戻した」
「戻したって……」
ウィンリィの視線が、アルフォンスとエドワードの間を何度も往復する。
二人とも、目が赤い。
明らかに泣いたあとだった。
「あんたたち……まさか……」
その時。
奥の台所から声がした。
「あら、ウィンリィちゃん?」
ウィンリィの動きが止まった。
手から工具鞄が落ちる。
からん、と床に音が響いた。
ゆっくり。
本当にゆっくりと、顔を上げる。
台所の入口に、一人の女性が立っていた。
まだ少し身体を動かしにくそうに壁へ手を添えている。
茶色のやわらかい髪。優しい顔。子供の頃から何度も見た人。けれど、もう二度と会うことはないと思っていた人。
「…………」
女性は懐かしそうに笑った。
「まあ。ずいぶん大きくなったのね」
ウィンリィの口が開く。
けれど声が出ない。
「……トリシャ……おばさん?」
「ええ」
「…………」
エドワードがぼそっと言う。
「だから、ついにって言っただろ」
「エド」
「なんだよ」
ウィンリィが振り返った。
泣いていた。
「馬鹿ァ!!」
「なんでだよ!?」
思い切り胸を殴られる。
「こんな……こんな大事なこと、何で先に言わないのよ!」
「言ったら止めただろ!」
「当たり前でしょ!」
「だから言わなかったんだよ!」
「威張るな!」
もう一発。
「痛え!」
「生身なんだから痛いに決まってるでしょ!」
「そういう確認方法やめろ!」
アルフォンスが苦笑する。
「ウィンリィ、兄さんの腕、本当に治ったばっかりだから」
「分かってるわよ!」
そう言いながら、今度はアルフォンスを抱きしめる。
「……よかった」
「うん」
「本当に……よかった……」
アルフォンスもそっと抱き返した。
その後ろで、トリシャが微笑んでいる。
やがて玄関から、ゆっくりした足音が聞こえた。
「まったく、年寄りを置いて走っていくんじゃないよ」
ピナコだった。
「おばあちゃん……」
「さて」
ピナコは居間へ入る。
エドワード。アルフォンス。
そして奥に立っている女性を見た。
煙草が止まった。
「…………トリシャ?」
トリシャの表情がぱっと明るくなる。
「ピナコさん」
長い沈黙。
ピナコは目を細めた。
「……あんた」
トリシャが少し申し訳なさそうに笑う。
「ご無沙汰してます」
「ご無沙汰って期間じゃないだろう」
それでもピナコの声は震えていた。
トリシャが近づく。
「エドとアル、大きくなりましたね」
「……ああ」
ピナコは二人を見る。
「馬鹿みたいに無茶ばっかりしてね」
「やっぱり」
「母さん!?」
トリシャがくすくす笑った。
その顔を見て、ピナコはとうとう堪えきれなくなったように眼鏡を外した。
「まったく……」
目元を拭う。
「死人まで帰ってくるようになったら、この世も終わりだね」
「ひでえ言い方だな」
「誰のせいだと思ってるんだい」
エドワードは言葉に詰まった。
トリシャはピナコの前に立つ。
「ピナコさん」
「なんだい」
「二人を育ててくれて、ありがとうございました」
「……」
ピナコはしばらく何も答えなかった。それから、トリシャの肩を軽く叩いた。
「礼を言うくらいなら」
小さく笑う。
「今度は自分で面倒見な」
トリシャも笑った。
「はい」
ウィンリィが鼻をすすりながら思わず尋ねる。
「ねえ……本当にトリシャおばさんなの?」
エドワードとアルフォンスは顔を見合わせる。それは二人が最後まで恐れていた問いでもあった。
けれどトリシャ本人は、不思議そうに首を傾げた。
「どういう意味?」
「だって……」
ウィンリィは言葉を探す。トリシャは少し考えてから、笑った。
「じゃあ、ウィンリィちゃんが小さい頃、エドと喧嘩して泣かされて、そのあとエドの夕飯だけ塩を山ほど入れた話でもする?」
「ちょっ、母さん!?」
ウィンリィの顔が赤くなる。
「トリシャおばさん、それ言わないで!」
アルフォンスが吹き出した。
「そんなことあったね」
「アルまで!」
エドワードだけが首を傾げる。
「俺そんなことされたのか?」
「兄さん、あの日ずっと『今日のスープしょっぱい』って言ってたよ」
「お前知ってたのかよ!」
笑い声が家の中に響いた。
まだ三人とも小さな子供だった頃に聞いたような声が。何年も空き地だった場所に建った家から、もう一度聞こえていた。
感想や高評価いただけると幸いです。