※この話は、もともと第4話に入れる予定だった内容です。
ただ、さすがに本編に組み込むには話が大きくなりすぎたことと、ストーリー上かなり扱いづらかったため、こちらに分離しました。
内容としては、鋼の錬金術師の錬金術を、現実の物理学を持ち込んで無理やり考察してみる、というパートになります。
あくまで作中設定を使った思考遊びのようなもので、原作の錬金術を物理学的に正しく説明しようとするものではありません。物理についても、話を成立させるために単純化したり、かなり都合よく解釈したりしている部分があります。厳密には正しくない説明や、意図的に無視している条件もあります。
また、原作設定についても私なりの解釈をかなり含んでおり、本編の設定・描写と矛盾している箇所があるかもしれません。原作について「実際にはこういう仕組みである」と主張する意図もありません。
そのあたりも含めて、物理っぽい話を使った与太話として流せる方向けです。細かいところは、なんでもありくらいの気持ちでお読みいただければ幸いです。
そのあたりを含めて、流せる方向けです。なんでもありくらいの気持ちでお読みください。
ここすき、感想、評価、お気に入り ありがとうございます。
ある日の昼下がり。
ソファに腰かけ、外した眼鏡を指先でもてあそんでいたヘレシアが、ふと思いついたように口を開いた。
「ねえねえ、どうして人を作るのって禁止されてるんだろうね?」
あまりにも唐突な問いに、エドワードは手元の本から顔を上げ、露骨に眉をひそめた。
「……また急に何の話だよ」
「いや、国家錬金術師の禁止事項を改めて見ててさ。金とか、価値のあるものを大量に作るなー、とか、軍に忠誠を誓え、とかいうのは、まあ分かるんだよね。そういうのは、禁止する理由がちゃんと見えるじゃない?」
「それ、だいたいお前のせいで増えたんだろ。そこまで分かってるなら守れよ」
「失礼だなあ。ちゃんと書いてあることは守ってるよ。だからこの間も、金や白金は駄目だって書いてあったから、セントラル中央駅の建物をヘレニウムに変えてみたんだし」
エドワードは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「……ちょっと待て。今さらっととんでもねえこと言わなかったか? 中央駅の建物を、何に変えたって?」
「ヘレニウム*1……って私の名前からつけたんだよ。タングステンなんかに近い感じの元素でね。周期表を見ると、この辺にまだ何かあるだろうとは考えられてるみたいなんだけど、科学者の間ではまだちゃんと発見されてないみたいでさ。だから当然、貴金属錬成禁止の一覧にも名前が載ってなかったんだよね」
「そういう問題じゃねえだろ! まだ発見されてもいない元素を、なんでお前が普通に知ってんだよ!」
「たまたま思いついたからやってみただけ。でも面白かったよ。最初は誰も何の金属か分からなかったのに、やたら重いし、見た目もそれなりに綺麗だからって、どこから聞きつけたのか業者が集まってきてさ。壁の端とか柱の裏とか、目立たないところを少しずつ削って持っていこうとする人まで出てきたんだよ」
ヘレシアは、その光景を思い出したのか楽しそうに笑う。
「一回牢屋にぶち込まれろ!」
ヘレシアはエドワードの怒鳴り声など気にも留めず、ソファの背に深く身体を預けた。
「あー、前は何人……いや、何十人か入ってたよ。今度は千人送りつけるっていったら逆に解放されちゃった。でも、どう見ても私より人の顔を見るたびに仕留めようとしてくる、あの爆殺仕事人みたいなキチガイ錬金術師の方を捕まえるべきだと思うんだけどね。この前なんて、怪我の治療のついでに脚を腕に変えて、ついでに腕を二本追加してやったのに、その姿のまま六本の腕でカサカサ近づいてきたんだよ。さすがの私もちょっと気持ち悪かった。
それが人間に対して行った錬成の話であることも、そもそも相手がそんな姿になってまで追ってきた原因も、本人には大した問題ではないらしい。ヘレシアは面倒そうに片手を振ると、その話を脇へ追いやった。
「まあ、それはそれとしてさ。そういう禁止事項って、少なくとも理由は分かりやすいでしょう? 金を大量に作るな、なら経済が壊れるから。軍に従え、なら国家錬金術師が勝手なことをすると困るから。危険なものを作るな、っていう規則があるなら、それも人が死ぬからって説明できる」
そこで少し間を置き、ヘレシアは首を傾げた。
「それに比べると、人間を作っちゃいけないっていうのは、なんだか妙に理由が曖昧なんだよね。危険だから、っていうなら、人体錬成よりよっぽど危ないものなんていくらでも考えられるのに、なぜか人間を作ることだけは最初から特別扱いされてる。そこが、ちょっと不思議じゃない?」
「お前みたいな危険人物が集団になって襲ってきかねないからだろ。アメストリスがぶっ壊れるわ」
エドワードが吐き捨てるように言うと、ヘレシアは心外そうに眉を寄せた。
「えー、そんなの、人間を作らなくても簡単だよ。たとえばさ、錬金術を辛うじて使えるくらいの、ものすごく単純な生物を作るとするでしょ。高度な思考なんてできなくていい。ただ周囲から材料を集めて、自分と同じ構造の個体を錬成する。それだけできればいい」
ヘレシアは何でもないことのように指を一本立て、その隣へもう一本を並べた。
「最初の一体が二体になって、それぞれが一体ずつ作れば四体になる。次は八体、その次は十六体。増えた個体が全部同じことを繰り返すから、作る速度を少し遅くしても、放っておけばすぐに数え切れなくなる。材料は土でも石でも木でもいいし、足りなくなったら建物を分解させればいい。人間みたいに教育する必要も、命令を理解させる必要もない。自分を増やせっていう一つの目的だけで動くんだから、人間の軍隊を作るよりずっと簡単で――」
そこまで聞いたところで、エドワードは頭の中に浮かんだ光景を振り払うように、片手を大きく横へ振った。無数の小さな生き物が地面を覆い、家も道路も呑み込みながら際限なく増えていく。考えただけで背筋が冷える。
「いや、それは許されてるんじゃなくて、お前以外にできないか、そもそも誰もそんなものを思いついてねえだけだろ」
エドワードが呆れたように言うと、アルフォンスも横から小さく頷いた。
「僕もそう思います。そんな生物が実際に作れるって分かったら、たぶんすぐ禁止されますよ」
ヘレシアはソファの背に身体を預ける。
「金を大量に作るのが駄目なのは、経済が壊れるから。今みたいな自己増殖生物が駄目なのは、放っておけば世界が埋まるから。どっちも、何が困るのかはすぐ説明できるでしょう?」
「まあな」
「でも、人体錬成になると急に話が変わるんだよ。危険だから駄目っていうだけじゃなくて、『人を作ることそのものがいけない』みたいな言い方になる。でも、子供だって国の許可を取って生まれてくるわけじゃないでしょう?」
ヘレシアはそこで一度言葉を切り、エドワードと自分を交互に指差した。
「私たちみたいな若い男女が二人で作るなら許可はいらないのに、錬金術師が一人で作ったら禁止される。生まれてくる人間が同じなら、作る人数で扱いが変わるのも変じゃない?」
「おまっ……そういうことを人前で平然と言うな!」
意味を理解したエドワードの顔が、一気に耳まで赤くなる。ヘレシアはなぜ怒られたのか分からない様子でしばらく瞬きをしていたが、やがて何かに気づいたように、納得顔で手を打った。
「あっ、もしかして組み合わせが逆の方がよかった? 大丈夫だよ。性別くらいなら変えられるから、女の子にしてあげようか。顔立ちも悪くないし、身体も小柄でまとまってるから、たぶんかなり似合うと思うよ。骨盤から作り直せば、機能的にも問題なく……」
「絶対にやめろ!考えただけでもおぞましい。そして誰がクソチビだ!」
「そこまでは言ってないけど」
なおも食ってかかろうとする兄を横目に、アルフォンスは小さく息をついた。
そして、話を戻すように少し考えてから口を開いた。
「僕たちが言うのもなんですけど、なんでもかんでも人を生き返らせるようになったら、いろいろ問題はあるんじゃないですか? 人が死ななくなれば、人口は増え続けますよね。世代交代もしなくなるし、いずれ食料や土地も足りなくなるかもしれません」
アルフォンスの指摘を聞き、ヘレシアは素直に頷いた。それから膝の上で指を折り、一つずつ問題を数え始める。
「人口、食料、土地、それから世代交代か。でも、それって『人を生き返らせてはいけない』理由じゃなくて、『無制限に人を生き返らせてはいけない』理由だよね?」
ようやく顔の熱が引いてきたエドワードが、今度は訝しげに眉を寄せた。
「……どう違うんだよ」
「全然違うよ。人口が増えすぎるなら、その分だけ食料生産を増やす方法を考えてもいい。住む場所が足りないなら、新しい土地を作ればいいし、必要なら世界をもう一つ作ってもいい。それでも解決できないなら、蘇生できる人数を制限すればいいだけでしょう?」
あまりにも軽い調子で世界を一つ増やされたため、エドワードはしばらく何も言えなかった。隣ではアルフォンスも、反論すべき箇所が人口問題なのか世界の新造なのかを決めかねたように沈黙している。
「たとえば、若くして死んだ人だけ。事故や病気で、本来ならもっと生きられた人だけ。一人につき一回までとか、一定年齢以下だけとか、人口が減っている地域だけとか。無制限に生き返らせるのが問題なら、制度として条件を付ける方法はいくらでもあるでしょう?」
続けて二本、三本と指を立てていくヘレシアを見ながら、アルフォンスはその言葉を自分なりに整理するようにゆっくりと頷いた。
「つまり、人口が増えすぎることが問題なら、それは蘇生そのものの是非とは分けて、人口の問題として考えればいいってことですね」
「そうそう。人口の問題からいきなり、『死者を生き返らせる行為そのものが人の道に反する』って話になるのが、私にはよく分からないんだよね。社会に問題が起きるから制限するというのなら分かるけど、死者は死者だから戻してはいけないと言われても、どうしてそうなるのかが途中で抜けてるでしょう?」
エドワードは腕を組み、しばらく黙ってその話を聞いていた。だが、どうにも納得できないらしく、やがて眉間に皺を寄せたまま低い声を漏らした。
「理屈が途中で抜けてるっつってもな。死んだ人間を無理にこっちへ戻すってのは、それだけで普通じゃねえだろ……俺が言うのも変だけどな」
ヘレシアはソファの背から身体を起こし、組んでいた手を解いた。
「なんかさ、みんな死ってやつを高尚にしすぎてる気がするんだよ。死は特別で、厳粛で、一度受け入れたら決して戻しちゃいけないものだって、最初から決まっているみたいに扱う。もちろん、生死が大事じゃないとは言ってないよ。人が死ぬことが軽いとも思ってない。ただ、私から見ると、死も身体が取り得る状態の一つなんだよね。心臓が動いているか、止まっているか。脳が働いているか、働いていないか。組織が維持されているか、崩れているか。その違いはものすごく大きいけど、どれも身体に起きている変化でしょう?」
アルフォンスはその言葉を聞いて、わずかに身を乗り出した。空洞の鎧の中で、自分の失った肉体を思い浮かべているのかもしれない。
「じゃあヘレシアさんは、死も病気や怪我と同じようなものだと考えているんですか? 今は治せないだけで、治す方法が見つかれば戻してもいい状態だって」
「もし本当に戻せるならね。今までは誰にも戻せなかったから、死は絶対だった。でも、技術的にそこから戻せるようになったなら、それは『絶対に越えてはいけない境界』じゃなくて、『昔は越えられなかった境界』になるだけじゃない? 昔は治せなかった病気が治せるようになっても、それを自然の摂理に反するとは言わないでしょう。それなのに、死だけは戻せるようになっても戻すべきじゃないと言われるなら、そこには身体の状態とは別の理由があるはずだよ」
即答したヘレシアは、そのまま少し遠くを見るように視線を上げた。
「人間って、楽しく生きられるなら本当はできるだけ長く生きたいでしょう? 百年で死ぬより二百年生きられるなら、少なくとも選べる方がいいと思う人は多い。若くして死にたい人だって、そんなに多くないし、大切な人にはできるだけ長く生きていてほしいと思う。でも今までは、どれだけ望んでも、最後には死ぬしかなかった。だから人間は、避けられない死を受け入れるために、いろんな考え方を作ったんじゃないかなって思うんだよね」
エドワードは嫌な予感がしたように眉をひそめたが、ヘレシアは構わず先を続けた。
「限りがあるから人生は美しいとか、死があるから今を大切にできるとか、永遠に生きても幸せにはなれないとか。どれも間違ってはいないのかもしれないし、実際にそれで救われた人もたくさんいると思うよ。でも、それが本当に死そのものの価値なのか、それとも死を避けられなかった人たちが、自分を納得させるために見いだした価値なのかは、分けて考えなきゃいけないでしょう?」
そこでヘレシアは両手を広げ、少し困ったように首を傾げた。
「だって、永遠に生きることのできない人が『永遠に生きてもろくなことにならない』と言って、死者を生き返らせることのできない人が『死者は生き返らせるべきじゃない』と言ってるんだよ。もちろん本当にそう考えているのかもしれないけど、手に入らないものを諦めるために、最初から価値のないものだったことにしているようにも見えるんだよね。それに、限られた生ってなら、今の寿命から伸ばしたり縮めることは別にいいだろうし」
「お前、それはさすがに言い方が悪いだろ。大切な奴の死をどうにか受け入れて生きてきた人間に向かって、できないことを正当化してるだけだなんて言えるのかよ」
エドワードが険しい表情で言い返す。ヘレシアは否定も反論もせず、少しだけ目を伏せた。その横で、アルフォンスは兄の言葉にも頷きながら、しばらく考え込んでいた。
「でも……言いたいことは、なんとなく分かります」
「アル?」
「死を受け入れる考え方が必要だったことと、もし本当に死を克服できるようになったときにも、その考え方を絶対に守らなきゃいけないかは別、ってことですよね?」
ヘレシアの顔がぱっと明るくなる。
「そう、それ。さすがだね」
ヘレシアは笑い、それからエドワードを見る。
「私は別に、全員生き返らせろって言ってるわけじゃないよ。危険なら規制すればいいし、社会が維持できないなら条件をつければいい。失敗するなら技術が成熟するまで禁止するのも分かる」
そこで一度、言葉を切った。
「でも、『死者は死んだままでいるべきだ』っていうなら、それはそれで理由が欲しいんだよね。死を特別で厳粛なものとして遠ざけるのは、むしろ死を正面から見ていないように、私には思える」
ヘレシアはそこで少し考え、言葉を選ぶように視線を上へ向けた。
「死から目を背けずに、前を見て進まないと。私はね、『あの人、この間死んでたっけ』『そうだっけ。まあ、今は元気なんだからいいよね』って、いつか忘れられるくらいがちょうどいいと思うんだ。だって、昔ひいた風邪のことを、治った後までずっと覚えていたりはしないでしょう?」
エドワードは答えず、腕を組んだ。
「まあ、それは言い過ぎだとしても、死が戻せないものだったから尊重してきたのか。それとも、本当に戻せるようになってもなお、戻しちゃいけない理由があるのかそこ、全然違う話だと思わない?」
ヘレシアは楽しそうに笑う。
「……お前の場合、その疑問を実験で確かめようとするから怖えんだよ」
「大丈夫だって。最近は、生き物の生死ばっかり研究してるわけじゃないから」
エドワードの表情が少しだけ緩む。
「そうなのか?」
「うん。最近はもうちょっと根本的なところを調べてる」
「根本的なことってなんですか?」
アルフォンスが聞き返すと、ヘレシアは嬉しそうに頷いた。
「そう。人体錬成がどうとか、生命とは何かとか、そういう話をずーっと突き詰めていくとさ、結局その下にあるものが気になってくるんだよね。そもそも錬金術は、なんで錬成できるのか。物質を組み替えるとき、何が起きてるのか。等価交換って、本当に何と何が等価なのか。そして、錬金術は普通の物理法則を超越しているのか……」
エドワードが僅かに身を乗り出した。
先ほどまでの死生観の話とは違い、今度は明らかに錬金術師として興味を引かれたらしい。
「……錬金術そのものの仕組みを調べてんのか?」
「そうそう。錬金術の限界、とでも言えばいいのかな」
ヘレシアはそう言って立ち上がると、棚から木でできた小さな球を取り出した。
「こっちはこっちで面白いよ。人体なんて比べものにならないくらい、分からないことだらけだからね。少なくとも人体なら、分からないなりに何が分からないのかは見えてくる。でも、錬金術そのものとなると、そもそも何を保存して、何をどこから持ってきてるのか、それすら怪しいんだよ」
ヘレシアはそう言って、机の端に腰を預けた。
「たとえば、水から鉄を錬成して、錬成前と錬成後で同じ質量だったとする。錬金術ではごく普通のことだよね。材料が一キロなら、出来上がるものもだいたい一キロ。少なくとも、何もないところから急に二キロになったり、半分になったりはしない。それが等価交換だって、みんな何となく思ってる」
エドワードもそこまでは異論がないらしく、黙って続きを待った。
「でも、原子核まで考えると、これが全然きれいじゃないんだ。水は水素と酸素でできていて、鉄は鉄でできてる。当然、原子核の中にある陽子と中性子の組み合わせも違う。それだけなら、単に並べ替えればいいように思えるでしょう?」
ヘレシアは指先で机を軽く叩いた。
「ところが、陽子と中性子って、どんな原子核に入っているかで全体としての重さが少し変わるんだ。正確には、原子核が結びつくときのエネルギーの分だけ質量が減る。鉄はかなり強く結びついた原子核だから、陽子と中性子一個あたりで見れば、水素や酸素の中にあるときより軽い」
エドワードの眉がわずかに寄った。アルフォンスも首をひねる。
それを見て、ヘレシアは少し言葉を選び直した。
「だから、元の水に入っていた陽子と中性子の総数をそのまま保存して、それだけを材料に無理矢理に鉄を作るなら、出来上がった鉄は元の水より少し軽くなる。その軽くなった分は消えるわけじゃない。エネルギーになって外へ出る」
そこで一度言葉を切る。
「しかも、その『少し』が質量の話になると全然少しじゃない。一キロの水を全部そんなふうに鉄へ変えれば、放出されるエネルギーは途方もない。普通に周囲へ出てくるなら、この街で実験していい規模じゃないね。下手をすれば街そのものが吹き飛ぶ」
「やめろよ。お前の場合、冗談で済まない」
エドワードが低い声で言った。
「今のところ予定は未定だよ。ここで言いたいのは、錬金術以外では変化しないとされている、陽子と中性子の合計数が、錬金術では日常的に増えたり減ったりしているってこと。だったら、もっと根本的なところでも、私たちが当たり前だと思っている保存則が破れているんじゃないかって疑うのは当然でしょ」
ヘレシアは机の上に木の球を置いた。
「ところでさ。二人は熱力学っていう学問、知ってる?」
「熱力学って、蒸気とかのやつですか?」
アルフォンスが首を傾げる。
「そう、熱とエネルギーを扱う学問。これがなかなか面白くてね。いくつか基本法則が提唱されてる。しかも困ったことに、実験すると恐ろしくよく当たるうえに、破れていると私たちの見ているような世界は成り立たなくなるかもしれない」
ヘレシアは指を一本立てた。
「まず第一法則。エネルギー保存則」
「ああ、それなら分かる」
エドワードが頷く。
「錬金術でいう等価交換と似たようなもんだろ」
「そうそう。運動でも、熱でも、光でも、高いところにある物体でもいい。姿を変えることはあっても、エネルギーそのものは勝手に生まれたり消えたりしない。まあ、そういうエネルギーというものを物理量から定義することができるって感じかな」
「だったら別に変じゃねえじゃん」
「ところが、ここで一つ妙なことがある」
ヘレシアは椅子にもたれた。
「エネルギーがなくならないなら――なんで私たちは炭鉱を掘って石炭を集めてるんだろう?」
エドワードが露骨に嫌そうな顔をした。
「何言ってんだ。石炭がなきゃ蒸気機関車が動かねえだろ」
「でも蒸気機関車を走らせても、エネルギーそのものは消えないんだよ?」
「……あ?」
「石炭を燃やす。機関車が走る。最後には止まる。でも第一法則が正しいなら、最初に石炭が持っていたエネルギーは、この世から消えたわけじゃない。だったら、その辺に散らばったエネルギーをもう一回集めて、石炭に戻せばいい」
エドワードとアルフォンスが顔を見合わせる。
アルフォンスが恐る恐る言った。
「……でも、それはできませんよね」
「そう。できない」
ヘレシアは笑った。
「そこが面白いんだ」
机の上の木球を持ち上げる。
「これを落とす」
手を離す。
球は床にぶつかり、二度、三度と跳ねて……やがて静止した。
「最初、この球には高さがあった。落ちれば仕事ができるエネルギーだ。でも今は?」
「止まってる」
「エネルギーは?」
エドワードが球を見る。
「……床とか空気とか球そのものの振動になって、最後は熱になった?」
「正解。流石だね!」
ヘレシアは球を拾い上げ、机に戻した。
「じゃあ逆は?つまり、床と空気から、ほんの少しずつ熱を集める。それが勝手にこの球へ集まって……ぽん、と天井まで飛び上がる」
ヘレシアは球を指で弾いた。
「んなこと起こるわけねえだろ」
ヘレシアは楽しそうに頷いた。
「でも第一法則だけなら、起きてもいいんだよ。エネルギーの収支は合ってるんだから」
アルフォンスが少し考え込む。
「……つまり、エネルギーには『使いやすさ』がある?」
「その通り。いや驚いた。そう、そうなんだよ」
ヘレシアが二本目の指を立てた。
「それが第二法則の話になる」
ヘレシアは黒板に一本の線を引いた。
「高い温度のものと低い温度のものを接触させると、熱は高い方から低い方へ流れる。放っておけば温度差はなくなる。でも、ぬるい物体が勝手に二つに分かれて、片方だけ熱く、片方だけ冷たくなるなんてことは起こらない」
「まあ……そりゃそうだろ」
「私たちはそういうものを『当たり前』だと思ってる。でも物理学者は、その当たり前を定量化して、数にしようとしてる」
黒板に文字を書く。ENTROPY
「エントロピー?」
アルフォンスが読み上げた。
「ものすごく乱暴に言えば、エネルギーがどれだけ散らばっているか。あるいは、ある状態を実現する方法がどれだけたくさんあるかを表す量だと思えばいい」
「乱雑さ、ってやつか?」
「入門としてはそれでいい。ただし本当はもう少し厄介」
ヘレシアは木球を指した。
「球が机から落ちるのは簡単だ。位置エネルギーが床や空気や球の細かな運動――つまり熱に散っていく。実現できる状態の数が圧倒的に増えるからね。でも逆は起こらない。何億何兆という分子が偶然示し合わせて、散らばった熱を全部一個の球に集めて、同じ方向へ動かすなんてことは、理屈の上ではともかく、現実には期待できない」
エドワードが腕を組んだ。
「だから石炭を燃やした後の熱を、そのまま全部石炭に戻せねえってことか」
ヘレシアは頷いた。
「そういうこと。エネルギーはなくならない。でも、仕事として使いやすい形から、使いにくい形へ散っていく」
少し間を置く。
「そして重要なのは、熱そのものが悪いわけじゃない。温度差があれば熱も仕事に使える。ただし、全部を仕事に変えることはできない。必ずより低温のどこかへ熱を捨てる必要がある。エントロピーは必ず増加するから……少なくとも、閉じた世界全体ではね。逆に、この法則を自由に破れるなら、世界中のエネルギー問題は即座に解決する。極端な話、太陽がなくても生きていけるだろうね。要するに、熱力学というのはこの世界の前提をキチンと述べただけで一見当たり前のことを言ってるんだよ」
そこでヘレシアは黒板の一部を消した。代わりに、簡単な化学式を書き始める。
「ここから錬金術の話」
エドワードの表情が変わった。
「例えば、炭素、水、アンモニアみたいな単純な材料があるとする」
ヘレシアは、その横にアミノ酸の構造式を描いた。
「錬金術で、そこから特定のアミノ酸だけを選んで組み上げる」
「できるだろ、そのくらい」
エドワードは何気なく応えた。これまでのヘレシアの生化学講義でも何度もやっていることだった。
「そう、できる。だから困ってるんだよ」
「……何が?」
「考えてみて。最初は原子や分子がいろんな配置を取れた。それを錬成陣が一瞬で選別して、『この炭素はここ、この窒素はここ、この水素はここ』と、一つの決まった構造へ押し込める」
アルフォンスが目を見開く。
「……エントロピーが下がる」
ヘレシアがにやりと笑った。エドワードが口を挟む。
「待てよ。じゃあ錬成すると、その分どっかのエントロピーが増えてるはずだろ」
ヘレシアは頷いた。
「そのはずなんだ。対象を整然とした状態へ押し込めるなら、その代償として周囲を乱雑にする。廃熱を出す。別の物質を分解する。何かを消費する。とにかく、どこかで帳尻を合わせなきゃならない」
ヘレシアの声色が変わった。
「等価交換が気にしてるのは、主に物質とエネルギーの帳尻だ。鉄一キログラムから鉄十キログラムは作れない。エネルギーも同じ。それは第一法則の話」
黒板の ENTROPY を指で叩く。
「でも第二法則は、もう一つ別の帳簿があると言ってる」
「……エントロピー」
エドワードが頭を捻る。
ヘレシアは机の引き出しから分厚いノートを取り出した。
「だから測った。錬成前と錬成後の熱量。周囲への放熱。気体の発生。圧力変化。副生成物。できる限り全部」
アルフォンスがノートを見る。びっしりと数字が並んでいた。
「密閉容器でもやった。断熱もした。単純な混合物を、特定の結晶に変えた。溶液から選択的に一種類だけ取り出した。分子を組んだ。壊した。それを何十回も」
「結果は?」
ヘレシアはしばらく黙った。そして言った。
「帳尻が合わない」
部屋が静かになった。
「エネルギーはだいたい合う。質量も合う。そこは驚くほど几帳面だ、錬金術ってやつは。でも、こっちが合わない」
ヘレシアは黒板に書かれた ENTROPY を指した。エドワードの眉間に皺が寄った。
「測り落としてんじゃねえのか?」
「最初は私もそう思った。錬金術がエネルギーを取り出している地下へ、ついでに熱でも捨ててるのかなってね。地下深くの方がずっと高温だった。少なくとも、あそこを都合のいい廃熱先にはできない。まあ、ちょっと地下に変な構造があるけど、そんなに大きくない。今度しらべてみるけど、そこにも熱を捨て続けるのは不可能だろうね」
一気に語ったヘレシアは呼吸を整えた。
「ないんだよ。少なくとも、私が測れるこの世界の中には」
ぴしゃりと言った。
「それって……」
アルフォンスが小さく言った。
「うん、錬金術は、第二法則を破ってる可能性がある」
ヘレシアは妙に明るい声で答えた。
「ただし、もう一つ考え方がある。錬金術が法則を破ってるんじゃない」
ヘレシアは人差し指を立てた。
「私たちが『この世界だけで閉じている』と思ってることの方が、間違ってる」
エドワードとアルフォンスの表情が変わった。
「錬成するとき、私たちの知らないどこかへエントロピーを逃がしている。そう考えれば、第二法則そのものを捨てなくても説明はつく」
アルフォンスが息を呑む。
「……門」
ヘレシアは答えなかった。ただ、口元だけで笑った。エドワードが低い声を出す。
「つまり……真理の扉が、熱力学のゴミ捨て場だって言いてえのか?」
「そこまでは言ってないよ」
心外そうにヘレシアが呟く。
「顔が言ってんだよ!」
「仮説。あくまで仮説だからね。それに、逆に真理の向こう側から自由エネルギーを取り出しているって考えることもできる。扉がこっちのエントロピーを引き受けているのか、向こう側の自由エネルギーを消費しているのか、それとも両方なのか。今のところ、そこまでは区別できないけど」
楽しそうに手を振ってから、ヘレシアは黒板の中央に大きな人型を描いた。
「で、人体錬成を例にすると分かりやすい。人間っていうのは、とんでもなく限定された状態なんだ。同じ元素を同じ質量だけ集めても、人間にはならない。炭素がどこにあるか、カルシウムがどこにあるか、どの分子がどの向きで結合しているか。細胞膜を構成する脂質がどう並んでいるか、タンパク質がどう折り畳まれているか、細胞の内外でイオン濃度がどう保たれているか。さらに神経細胞がどことどこにつながっているかまで指定しなきゃいけない。人体っていうのは、材料の種類だけ見れば大したことないのに、配置まで含めた途端、とんでもなく特殊な状態になるんだよ」
黒板の人型の横に、水、炭素、窒素、カルシウムと書き足していく。
「だから、ただの水や炭素や窒素から人間を一気に組み上げようとすれば、第一法則の側から見ても相当なエネルギーが必要になるし、第二法則の側から見てもかなり無茶なことをしている。無数にあり得る状態の中から、たった一つの、ものすごく限定された構造を選んで作るわけだからね。もちろん、錬金術は地下からかなり質のいい自由エネルギーを汲み上げているように見える。地殻の熱だけじゃなくて、圧力差や化学ポテンシャル、岩盤に蓄えられた弾性エネルギーまで利用しているのかもしれない。でも、それだけで全部説明しようとすると、第二法則の帳尻をどこかで合わせなきゃいけなくなる」
ヘレシアは人型の周囲に、炎のような線を何本か描いた。
「普通に考えれば、秩序だったものを作った分だけ、周囲に熱を捨てるなり、副生成物を出すなり、どこか別の場所でエントロピーを増やす必要がある。ところが、私たちは石を壁にしても、鉄を刃物にしても、人間が近づけないほど周囲が加熱されたりはしない。錬成のたびに大量の廃棄物が吐き出されることもない。つまり、第二法則の帳尻が、この場所では見えていない」
そこで一度振り返り、エドワードとアルフォンスを見た。
「言っておくけど、だから人体錬成が失敗するって話じゃないよ。この問題は人体に限ったことじゃない。きれいな結晶を作るときにも起きるし、混ざった物質を分離するときにも起きる。もっと単純に、崩れた石を狙った形の壁に組み直すだけでも同じ。錬金術師は毎日のように、無数にあり得る状態の中から自分の望む状態だけを選び出している。それなのに、私たちはその熱力学的な代価をほとんど意識していない」
エドワードは黒板の門と人型を交互に見て、眉間に皺を寄せた。
「つまりお前は、俺たちが普通の錬成だと思ってやってること自体が、この世界の中だけじゃ完結してねえかもしれないって言いてえのか。人体錬成だけが特別に真理へ触れてるんじゃなくて、普段の錬金術だって、程度の差はあっても向こう側を使ってる可能性がある、と」
「そういうこと。『人体錬成をすると真理の扉が開く』という事実が目立ちすぎるから、みんな人体錬成と扉を直接結びつけて考える。でも逆に考えてみればいい。そもそも錬金術という現象そのものが、世界の外側まで含めて熱力学の帳尻を合わせる技術で、その作用が極端に大きくなったときだけ、私たちにも扉が見えるのかもしれない」
ヘレシアは黒板の端に大きく ENTROPY と書き、その文字から門の向こうへ矢印を伸ばした。
「石を壁にする。鉄を刃にする。混ざった物質を分ける。狙った結晶を作る。全部同じだよ。錬金術師は無数に存在する可能な状態の中から、一つの状態を選び出して実現している。もし、そのときに生じる第二法則上の負担を真理の向こう側に押し付けられるのなら、錬金術は私たちが思っている以上に、とんでもない技術になる」
少し間を置いて、ヘレシアは楽しそうに笑った。
「そして、もっと露骨なのが賢者の石だよ」
エドワードの表情が一段険しくなる。
「もちろん。賢者の石を使った錬成には、普通なら必要なはずの物質やエネルギーの収支が見えなくなることがある。少なくとも外から観測した限りでは、明らかに足りない」
黒板に円を描き、その中に「STONE」と書く。
「そしてこのせいで、とても面白いことができる。賢者の石を使って物質を生成する。その物質から人体を作る。人体錬成で真理の扉を開く。そこでこちら側の物質を通行料として向こう側へ送る。そしてまた賢者の石で物質を引き出す。この循環を組めば、こちら側と向こう側の間で物質とエネルギーを往復させられる可能性がある」
ヘレシアは黒板に円を描き、矢印でつないだ。
「あっ、気が付いたかもしれないけど、賢者の石だけを使い続けて向こう側から物質を持ってくると、こちら側の物質が一方的に増え続けることになる。それはそれで困るでしょう?だから増やした分を巨大な腕とかにして、真理に通行料として回収させる。だから、その心配はしなくていいよ」
そして、少し悪戯っぽく笑った。
「そう考えると、この世界だけでは許されない変化を、世界の外側まで含めて成立させる。私は、それが錬金術の本質なんじゃないかと思ってる」
ヘレシアは自分で口にした言葉をしばらく噛みしめるように黙った。それから、小さく笑う。
「考えてみれば、とんでもない話なんだよ。石を城壁に変える。鉄の塊を一瞬で刃物にする。ばらばらに混ざっていた物質を分ける。何千何万もの分子を、術者が望んだ構造にほとんど一瞬で組み直す。そんなことを私たちは子供の頃から見慣れているから、当たり前みたいに『錬金術』って呼んでる」
黒板に描いた人型へ視線を移す。
「でも、この世界の法則だけでは成立しない変化を、世界の向こう側に手を伸ばすことで実現する力だとしたら、昔の人間なら何て呼んだと思う?」
誰も答えなかった。
「…………神の力だよ」
ヘレシアは静かに続けた。
「少なくとも、そう呼んでもおかしくない。物質の形を変えるだけじゃない。普通なら越えられない物理法則上の制限そのものを、世界の外側を使うことで迂回できるかもしれないんだから」
そう言ってから、ヘレシアは黒板に描いた門を見た。
「それでね、私は真理の扉について、とんでもない勘違いをしてたんじゃないかと思ってる。今までは、あの扉の向こうに『真理』があって、扉に描かれているものも、そこへ至るための知識なんだと思ってた。でも、逆なんじゃないかな」
エドワードが眉を寄せる。
「逆って、何がだ。あそこにあるのが真理じゃねえって言いてえのか」
「真理ではあるよ。でも、あれは世界のすべてを教えてくれる答えじゃない。むしろ、こちら側の世界を成立させている制限なんじゃないかってこと。物質はこう振る舞う。エネルギーはこう移動する。時間はこう進む。原因があって結果が生じる。そういう、この世界が世界として存在するための規則そのものが、あの扉に書かれている」
ヘレシアは門のこちら側を指した。
「もちろん、制限が悪いって言ってるわけじゃないよ。むしろ必要なんだ。物理法則があるから、置いた石が突然消えたり、昨日まで鉄だったものが理由もなく水になったり、街全部が何の前触れもなく吹き飛んだりしない。世界が安定して存在できるのは、何が起こってよくて、何が起こらないのかが決められているからだ」
そこで指を、門の向こう側へ滑らせる。
「でも、あれは壁じゃない。扉なんだよ」
アルフォンスが、その言葉に反応するように顔を上げた。
「つまり……こちら側では、扉に書かれた法則に従わなきゃいけない。でも、扉を越えた先まで同じ法則に従っているとは限らない、ってこと?」
「そう。もし私の仮説が正しいなら、真理の扉は『真理へ到達するための入口』じゃない。真理によって制約された世界と、その制約の外側との境界なんだ」
ヘレシアの声が少しずつ弾んでいく。
「だから、向こう側ではこちら側では許されないことが起こせるのかもしれない。こちらでは作れない魂を扱える。こちらでは閉じないエントロピーの帳尻を合わせられる。こちらだけでは足りない自由エネルギーを引き出せる。賢者の石が本当に向こう側を利用しているなら、物質そのものを持ってくることだってできるかもしれない」
エドワードは黒板の門を睨んだ。
「……お前、『向こう側には法則がない』って言ってんのか。それじゃ何でもありじゃねえか」
「そこまでは言ってないよ。だから調べたい」
ヘレシアはすぐに返した。
「本当に無制限なのか。それとも、こちらとは違う別の法則があるのか。できないことがあるなら、何ができないのか。真理が通行料を取るのも、単なる嫌がらせじゃなくて、向こう側とこちら側を行き来するときに必要な保存則なのかもしれない。今の私たちは、扉を一瞬開けて中を覗いただけで、向こう側そのものについてはほとんど何も知らない」
ヘレシアは嬉しそうに頷いた。
「向こう側でも物質が存在できるのか。時間は流れるのか。距離というものがあるのか。こちらで作った構造は維持されるのか。魂と肉体を結びつけたまま存在できるのか。そして何より――向こう側から、こちらの世界を見ることができるのか」
一度言葉を切り、黒板いっぱいに描かれた門を見上げる。
「もし向こう側が本当に、この世界の法則の外にあるなら、死者を蘇らせるとか、人体を作るとか、そんな話だけで終わる必要はない。こちら側でできないことを、向こう側で成立させてから持ち帰ればいい。新しい物質でも、新しい生命でも、こちらの法則では安定しない構造でもいい」
チョークが止まる。エドワードはしばらく黙っていたが、やがて低く呻いた。ヘレシアだけが、黒板を眺めながら楽しそうに続けた。
「それくらいできるようになって初めて、錬金術を使い切ったって言えるんじゃないかな。死人を蘇らせた程度で立ち止まるには、この力はあまりにも面白すぎる」
振り返った顔には、いつもの笑みが浮かんでいた。
「錬金術には、それだけ先があるんだよ。そして、その先にあるものは、将来的にはみんなが恩恵を受けられるものだよ。世界に国が一つしかないわけじゃない以上、技術の進歩を制限し続けるなんて、原理的に不可能だからね」
そう言ってから、ヘレシアは黒板の門を眺め、何でもないことのように続けた。
「まあ、とりあえずは扉に思いっきり負荷を掛けてみたり、向こう側へ意図的に物質を送り込めるか試したり、こっちから抜け道みたいなものを仕込めないか確かめたりするところからかな。いきなり世界を一個作るのはさすがに準備不足だし」
エドワードはしばらく黙っていたが、やがて額を押さえた。
「お前、さっきから当たり前みたいに言ってるけど、真理の扉に思いっきり負荷を掛けるって具体的に何する気だよ。あれがどういう仕組みかも、どこまで耐えられるかも分かってねえんだぞ 」
ヘレシアは少し考えてから、楽しそうに笑った。
「まあ、ちょっと真理の扉ぶち壊れたらそれはそれで面白いよ。大発見だね」
「面白くねえよ!」
エドワードの声を聞き流しながら、ヘレシアはもう一度、黒板の門を見上げた。
「だって、この世界も、真理も、私にとっては全部が実験室で、全部が実験対象なんだよ」
世界がどうしてこうなっているのか。
物質がなぜ存在し、命がなぜ生まれ、錬金術がなぜ働き、その向こう側にどうして真理などというものがいるのか。
知らないことはいくらでもあった。
そして、知らないということは、それだけ調べることが残っているということだった。
「もし、この世界を誰かが作ったっていうなら、その人にはぜひ一度会ってみたいな。こんなに面白いものを作ってくれたんだから、まずはちゃんとお礼を言いたい。それで、どうやって作ったのか、全部聞かせてもらう」
ヘレシアはそこで笑みを深くした。黒板の上で、描かれた門が彼女を見返していた。
「もし誰にも作られてないっていうなら…………それはそれで最高だよ。だって今度は、この世界そのものがどうやってできたのか、最初から全部調べられるんだから」
その目は、未知を前にした子供のように輝いていた。
書いていたものはこれですべてになります。続きは思い立ったらどこかで書くかもしれません。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。