一日の講義がすべて終了し、誰もいない女子寮の廊下を経て自室へと戻った瞬間、ユーリアは厳重に鍵を締めた。それと同時に、他人の前で見せていた理知的でクールな「万象」の仮面は完全に崩壊した。彼女は髪をしなやかに揺らしながら、振り返ってライへと駆け寄り、その両手を胸の前で握りしめた。
「さすがライ様です! あの見ず知らずの異界の少年をも瞬時に懐柔し、無駄な衝突を避けるばかりか、絶大な信頼を勝ち取るなんて……! 前世で多くの将兵を率い、ラウンズにまで上り詰めた貴方様の手腕、ハルケギニアに舞台を移しても些かも衰えておりませんわ!」
頬を上気させ、興奮気味に瞳を輝かせるユーリア。普段の凛としたお嬢様姿からは想像もつかないほど熱烈に称える彼女の姿に、ライは苦笑しながらも、ふと少し真面目な表情を浮かべて彼女を見つめた。
「あはは、ありがとうユーリア。でも、僕のほうから一つだけ、君に聞いておきたいことがあるんだ」
「は、はい! 何なりとお命じください、ライ様!」
背筋をピンと伸ばす副官に、ライは静かなトーンで問いかけた。
「君自身は……サイトの存在が気にならなかったかい? 別の世界から来た少年だとは分かっていても、君にとっては、日本人、つまりイレヴンはかつて戦場で激しく敵対していた人種のはずだろう?」
ライの言葉には、どこかユーリアの心情を思いやるような、繊細な気遣いが含まれていた。その問いに対して、ユーリアは一度だけ瞬きをすると、すぐにいつもの冷静沈着な、しかしライへの深い親愛を込めた笑みを浮かべて首を振った。
「元の世界の事情を、こちらの世界にまで持ち込むつもりはありません……まあ、ルイズを蔑称の『ゼロ』という単語の響きだけは、生理的にどうしても受け入れられませんけれど。ですが、平賀才人が私たちとは全く別の、戦火のない世界から来た人間だと分かった以上、彼に対して余計な感傷を抱くことはありません」
ユーリアは一歩ライへと近づき、かつてブリタニア軍人として戦場を潜り抜けてきた、理知的で毅然とした眼差しを向けた。
「それに、私が敵として認識しているのは、黒の騎士団や超合衆国のようなブリタニアの平和に仇なす者達たちだけです。枢木卿のことは一人の戦士として尊敬していましたし、ブリタニアに恭順する他の名誉ブリタニア人の方々に対しても、私は一切の敵対心を持っていませんでしたから」
ユーリアのいた世界線では、枢木スザクもまたナイトオブセブンとして多大な功績を挙げ、ライと共に帝国の双璧として戦っていた。彼女にとって、人種の違いそのものが憎悪の対象だったわけではなく、あくまで祖国を脅かす存在か否かが判断の基準だったのだ。
「ですから、あの純朴で我々の国すら知らない少年を、イレヴンだからという理由で白眼視するような真似はいたしません。何より、ライ様が彼を助けようとしているのですから、私の答えは最初から決まっています」
最後にはにかむような甘い微笑みを添えてそう断言したユーリアの言葉に、ライは心からほっとしたように息を吐き、胸をなでおろした。
「そうか……それを聞けて安心したよ。ありがとう、ユーリア。君がそんな風に柔軟に考えてくれて、本当に救われたよ」
「ライ様のお役に立てたのなら、これ以上の誉れはありません」
ライの安堵した笑顔を見て、ユーリアの胸は甘やかな幸福感で満たされていく。お互いの世界線の違いや前世の因縁という懸念点がまた一つ消え去り、二人の絆は、この異世界の狭い私室の中でより一層深く、強固なものへと変わっていくのだった。
◇
そして翌日の朝、トリステイン魔法学院の広大な食堂は、あまりにも対照的な二つの光景によって奇妙な熱気に包まれていた。
「ちょっと! 何よその不満そうな顔は! 使い魔なんだから、大人しくそれを食べなさいよ!」
食堂の一角から、ルイズの鋭い怒声が響き渡る。彼女の手元には、どう見ても犬用にしか見えない干し肉とスープが載った皿があった。それを突きつけられているサイトは、顔を真っ青にして激しく首を振っている。
「ふざけんな! 俺は犬じゃねえ、人間だぞ! こんなの食えるかよ!」
「うるさいわね! 使い魔は主人に逆らっちゃいけないの! 貴方は私の使い魔なんだから、贅沢言わないで!」
朝から激しい火花を散らすルイズとサイト。周囲の生徒たちはいつものことだと笑いながら見物していたが、そんな騒がしい空間のなかで、完全に別の世界の空気を醸し出している一角があった。
「――はい、ライ。あーん、して」
「えっ……? いや、ユーリア様……?」
結い上げた金髪を小さく揺らし、クールな微笑みを浮かべたユーリアが、スプーンですくい上げた自身の高級な温スープをライの口元へと運んでいた。彼女の前のテーブルには、貴族用の豪華な朝食がずらりと並んでいる。それどころか、彼女は自分の食事を、当然のように傍らに控えるライに食べさせようとしていた。周囲の目を気にして、完璧な「主人と使い魔」の距離感を保とうとしていたライは、あまりに大胆なユーリアの行動に目を丸くして困惑した。
「ユーリア、さすがにそれは不自然だ。周りの生徒たちも見てるし、僕は使い魔なんだから……」
「(ライ様に犬用の餌だなんてっ、与えられるわけないじゃないですか……!!)」
ライが小声で宥めようとした瞬間、ユーリアは他人に聞こえないほどの蚊の鳴くような声で、涙目になりながら必死に訴えかけてきた。その瞳には自分の最愛の上官、かつて高貴なナイトオブラウンズであった男性に、あのような無礼な扱いなど万が一にもできるわけがないという副官としての烈しい義務感と、純粋な恋心が渦巻いていた。あまりの必死さと可愛らしさに、ライはそれ以上拒むことができず、ただ苦笑するしかなかった。
「……分かったよ。僕も流石に、犬用の餌は勘弁してほしいと思っていたところだったから……ありがとう、ユーリア」
ライが観念して口を開き、彼女の差し出したスープを大人しく受け入れると、ユーリアの顔には一瞬にして華やかな喜びの笑みが咲いた。しかし、その甘やかな主従の光景を、隣のテーブルから引きつった顔で見つめている少女がいた。サイトに干し肉を叩きつけていたルイズである。
「ちょっと、ユーリア! な、何してるのよ貴女は!? いくらなんでも使い魔に自分の食事を、しかもそんな……『あーん』だなんて、貴族の令嬢として破廉恥すぎるわ!」
頬を赤くしたルイズの至極真っ当なツッコミが飛んでくる。すると、先ほどまでライに対して涙目で懇願していたユーリアは、瞬時にいつものクールで冷静沈着な「万象」の表情へと切り替えた。彼女は優雅に背筋を伸ばし、凛とした態度でルイズに向き直る。
「あら、ルイズ。貴女の方針に口出しする気は無いけれど、これが我が家の方針よ。優秀な使い魔には、それ相応の待遇でもてなすの。いざという時に、飢えや不満のせいで本領を発揮できなければ、主である私が困るから」
教本にでも書いてあるかのような、一分の隙もない毅然とした物言いに、ルイズはぐっと言葉を詰まらせた。
「それは、まあ、確かに一理あるかもしれないけれど……でも、甘やかしすぎじゃないかしら?」
「甘やかしているのではないわ。これは未来への投資よ。ルイズも、あまり使い魔を追い詰めすぎると、いざという時に守ってもらえなくなるわよ?」
ユーリアの理路整然とした反論に、ルイズは渋々といった様子で「う、うう……分かったわよ」と口を尖らせ、納得せざるを得なかった。
隣でそのやり取りを聞いていたサイトは、ユーリアとライの姿を羨望の眼差しで見つめ、心の中で「格差が酷すぎる……!」と激しく咽び泣いていた。ルイズの追及を完璧に退けたユーリアは、再びライの方を向くと、誰にも見えない角度で、どこか悪戯っぽく、そして嬉しそうに小さく微笑むのだった。