僕はこの世界の人間ではない。
生まれは日本だったし、お母さんも、お父さんもいた。
でもここは、お母さんもお父さんもいないし、日本じゃない。
十二歳の夏、僕はこの世界に迷い込んだ。
夏休みに、友達と映画館に行こうとして電車に乗った。
いや、乗ったはずだった。
前を歩く友達の背中を追うように車両の入り口を跨いだところでいつの間にか、景色が変わっていてこの世界に来ていた。
僕は、ボロボロの小屋の中で起きて外に出る。
外から小屋を見ても小屋とは言えないほどにボロボロで腐っているところも多いけれど、皆はここを小屋と言った。
まだ、少し薄暗い時間、顔を洗って水に移る自分を見た。
すっかり、伸びきった髪をたらす僕の顔。
昔から女の子に間違えられることが多かったけれど、一層そうみられてしまいそうだ。
しかし、そうもたもたとしてはいられない。
僕は急いで支度をした。
まずは水をバケツに汲んで運ばなきゃいけない。
次は、空になったバケツに水を汲んでを持ち上げる。
「……っ」
重いけどもう慣れた。このままなら間に合うだろう。
そう思ったのだが──
「まだやってなかったのかよ!さっさとやらないと父上に言いつけるぞ!」
背中から蹴られて転倒した。
今日は運のない日だ。
僕は、一瞬だけ蹴って来た少年を視界に入れて立ち上がってバケツを持ち直した。中にはほとんど水が残っていない。
急いで水を汲みなおした。
それから何往復かして水を運んで、他にも指示されていた最後の荷物を運ぶ途中、何度目かの座る少年の前を通ろうとして足を引っかけられた。
気付いていても、クタクタで枷のついた足では避けることもままならなかった。
僕はまた転んだ。これくらいの時間になるとこの辺りの人は多い。
少年に笑われるだけでは済まない。
「おい、さっさと運べ!」
案の定、大人に怒鳴られる。こんな声も一年は聞いている。
急いで立ち上がって荷物を担ぐ。
「たく。喋れねぇし仕事も出来ねぇしで使えねぇなあ!」
「ダット。それはねえぜ。こいつを喉無しにしたのはお前だろうが」
「ああ?リッヒ、それはこいつが言葉も喋れねえ阿呆だからだろうが。「言語の禁」で聞けるようにしているだけ感謝してもらいたいくらいだ」
「ひでぇ。でも、こいつも少しは喋れるんだぜ。「あーあー」ってな」
男たちが嗤う。少年も僕を見て笑みを浮かべる。
僕は、気にせず足を進めた。
ここに来てからずっとそうだ。
もう慣れた。
言語の禁とか言うので、僕は言葉を喋れなくする代わりにこの世界の人たちの言葉が聞き取れるようになった。
この世界には、そう言った元の世界では考えられない力がある。
誰も僕に教えてくれる人はいないけれど、一年もここで過ごしていれば分かることもある。
そして、僕がここから抜け出せないことも。
日本に居た時の僕の世界は、家と学校と塾と公園と……。
だけどここでは、学校に通っていた時よりももっとずっと少ないだけの空間が世界のすべてだった。
そんな世界に見知らぬ人物が現れたのは、そんな日々を過ごしていた時だった。
始めに、一人の少年の声が上がった。
ここに居る子供は僕ともう一人だけ。
僕によく突っかかってくる少年、トロイだけだ。
彼はリッヒと言う男たちの中でも多分偉い方の人の息子で、僕とは随分と待遇が違った。
皆、彼には優しい。
「剣士だ。すげぇ」
その声につられてみた先に居たのは、彼の言う通り剣を携えた男だった。
だが、妙に僕の目が惹かれるのは彼の携える剣が「刀」であるせいだろうか。
この世界に刀がないとは断言できない。
だけど、僕の目に映るそれは日本の物で、この世界の物として認識が出来なかった。
「リッヒ殿のご子息か。珍しかろう、この剣は、「
見惚れていると軽く頭を叩かれる。
慌てて振り向くと、一人の男がいた。
「小僧。さっさと働け」
無精ひげを生やした粗暴そうな男、ゼイン。
特別僕に優しくしてくれることはないけれど、他の大人のように強く僕を叩くことはない。
あくまで手が止まっているときだけに軽く制す存在だった。
そうした日々を過ごして僕は小屋で眠る。
そして寝る前に隠してあったそれを取り出した。
僕がこの世界に来るときに身に着けていたものだ。
なくしたものは多いけれど首にかけていた
今はこれだけが僕のよりどころだ。
ぎゅっと握って見つからないようにもう一度隠した。
朝も早いから早く寝よう。
◆
自分が奇特な体験をしたのだと、直感的に感じたのはあの電車のドアを潜った時だった。
浮遊感と、曖昧になる意識。
そこで僕はバラバラになった気がした。
そして、もう一度くっついて、それで何かが混ざった。
何かは分からない。
けれども、銀の刃が脳裏に焼き付いて離れなくなったのは、この世界に来てからだった。
今日も、そんな夢を見た。
僕はいつものように働く。
少し違うのは、男たちの集団に剣士の男がいること。
煌びやかな刀を振る。素振りを傍目に見て僕はどうにも刀に目が引きつけられた。
しかし、剣士の男がこちらを振る向く前に労働に戻る。
ここに居る男たちは剣を振るう。
日本ではありえないことだけどこの世界では普通なのだろうか。
昼間から酒を飲んで、剣を振り、そして時々いなくなる。
暫くして帰ってくると、彼らはまた酒を飲んだ。
「おい!喉無し!酒とってこい!」
そして、彼らは酒がなくなると僕にとらせに行く。
「返事をしろよ!」と居合わせたトロイに絡まれて蹴られるが、僕は抵抗せずに仕事をこなした。
酒を取ってくると男たちが剣を交えていた。
どうやら、剣士の男とゼインが対決をするらしい。
両者は酒を賭けて。そして周りの人間も金を賭け始めた。
僕は酒をさっさと渡して、隅に寄った。
止まっていると殴られるが、この辺りに居て男たちの要望をすぐに聞くことが出来なければもっと酷いことになる。
刀を構える剣士は、やはりどこか男たちとは違う。
対するゼインも隙がない。
「ゼイン、負けんなよ!」
「お前に賭けてんだぞ!」
野次が飛んで、二人はお互いを見据える。
先に動いたのは、剣士だった。
いや、同時に動いたが、初速が剣士に分があったと言うのが正確だろう。
剣士の刃や、空を切るようにしてゼインに迫る。
だが、入ったと思った瞬間に、ゼインの剣は首元で剣士の剣を止めていた。
「ジルさん。惜しい!」
ジル。剣士の名前だろうか。
その名前を呼んで悔しがるのは、トロイだった。
大人たちの大半は、ゼインを応援しているのに対して、僕と同じくらいの背丈の彼は剣士のジルに勝ってほしいらしい。
だけど、多分あれは、ギリギリでゼインが攻撃を止めたと言うより……。
「……ッ」
瞬間、剣を刀が滑り、その隙を狙った足払いがジルを襲った。
ゼインは足を刈り、しかし、ジルは体勢を立て直して刀を振るった。
「マジかよ。ゼインとまともに打ち合ってるぜ」
「いや、逆だろ。山賊堕ちとは言え名のある剣士と互角にゼインがやってるってことだろ」
男たちの中では、両者に評価が付いているらしい。
結局、僕は決着を見る前にここを離れることとなったが、どうにもジルが本気でやっている方には見えなかった。
僕がこの世界に来てから頻繁に見るようになった夢。
それは、銀の刃を連想するそれと、もう一つある。
学校の休み時間の何気ない友達との会話。
僕が何とか隠し持っているものが
それに関わる内容の夢をよく見た。
よくある話だけど、小学校の流行は結構コロコロ変わる。
そして、学校と言う限られた空間なだけあって、ちょっとしたことが流行になる。
丁度僕がこの世界に来る前くらい。
その時流行っていたのが、
大縄跳びの練習とか徒競走の練習とかで使う奴で、その延長で休み時間に持ち出すことが出来た。
僕のクラスは「6-B」でそれがテプラで貼ってあった奴で、何処にでもあるような見た目だった。
タイマーの機能は学校で使っているノートPCにはあるけれど、大きさの使いづらさと
僕は、特段目立つタイプではなかったから、クラスの中心の人たちが奪い合いをしてそれを皆で交代で使っていた。
始めは、画面を見ずに10秒ピッタリで止められるかと言うのが流行った。
僕らは順番にそれをやって僕も結構惜しかったと思う。
それからしばらくして、一度ブームは過ぎたけれど一人が、どれだけ早くスタートして止められるかと言うゲームをしだしてからまた皆がこぞって関心を向けた。
それで、僕も順番を待ってやった時、そこで意外な才能を発揮した。
大人からすれば大したことはないだろうけれど、早押しに僕に勝てるものはいなかった。
それで、なんだか僕もクラスの中心にいることが増えた気がする。
そして、大縄跳びの大会が近くて休日に皆で校庭に集まって練習をしようと言う話になった時、当日校舎に入れないだろうと
「横瀧にしようぜ!」何気ないその言葉が、何だがとても嬉しくて少し強く
それで、練習は午後からだからと午前中に皆と映画の約束をして電車に乗った矢先に、この世界に来た。
そんな夢を今日も見て、僕は仕事をする。
そして、日が暮れて僕は小屋へと返る。
後から知ったけれど、此処は元々納屋だったらしい。
しかし、それは些細なことで、体を丸めて眠っても、今の僕の寝床に変わりない。
「……」
ただ、小屋に戻る途中、一つの剣に目が惹かれた。
立てかけるように置かれた剣。
いつの間にか手に取っていた。
そして、引き出そうとすれば月の明かりに銀が輝いた。
どこまでも、引き込まれてしまいそうな気がして目が離せない。
何かが、僕の中の混ざった何かが途方もなく──
「何をしている」
「……っ!?」
背後からの声と僕の腕を抑える手。
それに身体をはねさせた僕は失態に気付いた。
剣はどう考えても男たちの持ち物だ。それを勝手に触ればただ済まない。
ただ、落ちて来たのは拳ではなく静かな声だった。
「ダットの奴も大概だ。酒に酔って剣を置いてくるなど。喉無し、お前にはこれは無用だ」
長く連ねられた声はゼインの物だ。
彼は僕に特別厳しくしない。それでも、小突くことすらせずに剣を持ち上げた。
そして、僕はどうすればよいか分からなくなっていると、彼はおもむろに僕に剣を押し付けた。
先ほどの剣ではない。もっと、短い、短剣と言えるものだろう。
僕が、反応できずにいるとゼインは言葉を続けた。
「仕事に刃物がないのは不便だろうが、お前にダットの剣は必要ない。それをもっておけ」
「……」
どう言葉を返してよいか分からなかった僕は、初めて喋れない今の身体に感謝しそうになる。
僕がボケっとしている間にゼインは、その場を去った。