ソードアート・オンライン ――或いは仮想世界のアンティフォン 作:ありさかいずも
天に升らんか、爾彼処にあり。
地獄に降らんか、彼処にも爾あり。
――第百三十八聖詠 第八節
彼女が悪夢に閉じ込められたのは、学校を卒業し、働き始めて間もない頃だった。
家族と暮らしていたことは覚えていた。
朝になれば家を出て、日が暮れれば同じ屋根の下へ帰った。
けれど、それがいつのことで、どのような様子だったのかは、記憶の中でひどく曖昧になっていた。
最後の夜についても、残っているのは途切れた光景だけだった。
暗い空から降り注ぐ火。
息ができないほどの煙と、遠くで誰かを呼ぶ声。
次に意識を取り戻したとき、彼女は見知らぬ街にいた。
そこでは夜が明けることなく、人々は獣を狩り、やがて獣へと変わっていった。
終わりのない夜を歩くうち、彼女の心は、自我を守るために耐えきれない記憶を人格の底へ沈めていた。
終わりのない夜を歩き、獣を狩る。
それが何日続いたのか、あるいは何年に及んだのかは、彼女自身にも分からなかった。
ある晩彼女は、獣に裂かれ、血に濡れた石畳に倒れた。
(……人のまま、死ねるのだろうか)
次第に薄れていく痛みと意識の中で、彼女はそんなことを考えていた。
気が付くと、ひどく明るい場所にいた。
周囲から聞こえるのは、幾千もの人間が交わす話し声と笑い声だった。
靴底には、乾いた石畳の硬い感触がある。
彼女は見知らぬ広場に立っていた。
広場の中央には大きな時計塔があり、その向こうには石造りの街が続いていた。
周囲には、剣や斧、弓などの武器を携えた者たちがひしめいていた。
誰にも緊張した様子はなかった。
初対面らしい者同士が挨拶を交わし、互いの装備を見せ合いながら、これから始まる出来事への期待を口にしていた。
彼女はその場から動かずに、周囲を見回した。
金属と革の匂い。
そして、大勢の人間が集まった場所に特有の汗の匂い。
街に染みついた腐臭も漂う血の臭気もなかった。
誰も彼女に特別な注意を向けなかった。
黒褐色の古風な服や金属製の短弓を珍しそうに見る者はいたが、この場所では少し変わった装備にすぎない。
服装も武器もまちまちな人波に紛れれば、彼女の姿は容易に見失われた。
やがて時計塔の針が重なり、広場が鐘の音に満たされた。
光の文字が頭上に描かれる。
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周囲から歓声が上がった。
光の花が空中へ打ち上げられ、幾つにも分かれて散っていく。
その名前を知らない彼女には、何が始まったのかも分かっていなかった。
ほどなくして音楽が止まり、光が崩れて消えた。
その跡に、半透明の若い男の顔が浮かび上がった。
広場では再び拍手が起こったが、男が口を開くより先に、獣の兆候を捉えたときと同じ違和感が、彼女の鼻腔の奥を掠めた。
彼女は無意識に短弓の柄を握った。
男は、茅場晶彦と名乗った。
茅場は言う。
この世界からは、自分の意思で退出することはできず、外部から接続を切っても正常な意識の回復は行われない。
ここから抜け出すには、この世界――浮遊城を最上層まで攻略しなければならない。
説明が進むにつれ、広場から声が消えていった。
最後に茅場は、この世界で死んだ者は蘇生されず、その意識は現実に戻ることなく失われると告げた。
それをきっかけに、均衡が破れた。
悲鳴を上げる者、茅場を罵る者。
広場の歓声は混乱に変わった。
彼女だけは、別の意味で茅場の言葉を聞いていた。
死ねば、終われるの?
人のままで死ねるの?
もし、それが自分にも当てはまるのなら――
茅場の顔が光の粒となって消えると、広場には泣き声と怒声だけが残された。
彼女はしばらく頭上を見つめたあと、短弓から手を離した。
二〇二二年十一月六日、新しいVRオンラインゲームの正式サービスが始まった。
その日、はじまりの街に集められた者たちの中に、人のまま終わることを望んだ者がいた。