ソードアート・オンライン ――或いは仮想世界のアンティフォン 作:ありさかいずも
茅場晶彦の姿が消えたあとも、広場の混乱は収まらなかった。
その場に座り込んだ者を仲間が取り囲み、何度も名前を呼んでいた。
空中へ向かって怒鳴り続ける者もいれば、人波を押し分けてどこかへ走り去る者もいた。
彼女はその間を抜け、あてもなく街を歩いた。
石造りの建物には、宿屋や道具店を示す看板が掲げられていた。
店先には商品が整然と並べられ、茅場の言葉が届かなかったかのように、店の者たちは客を待っていた。
通りを進むにつれて、広場の喧騒は遠くなった。
彼女は街の西へ続く門の近くで足を止めた。
二人の少年が声をかけてきたからだ。
「ねえ、そこの人」
一人は片手剣と小さな盾を持ち、もう一人は槍を背負っていた。
振り向いた彼女を見て、槍の少年が目を見張った。
「わ、きれいなひと……」
その言葉を自分に向けられたものとして受け取るまでに、わずかな間があった。
「Спасибо……」
「え?」
「ありがとう、と言った」
「外国の人?」
「違う。たぶん」
ルカは二人をもう一度見た。
彼らの装備は真新しく、武器の扱いに慣れているようには見えなかった。
「僕たち、これから少しだけ外へ出ようと思ってるんだ。よかったら一緒に来ない?」
「三人なら、一人より安全でしょ? 君は弓みたいだし」
片手剣の少年が、彼女の短弓を見て言った。
二人とも平静を装っていたが、その目は落ち着きなく門の外へ向けられていた。
死の説明を受けた直後に、二人だけで街を出ることが不安なのだろう。
彼女は門の先を見た。
街道の向こうには草原が広がり、丈の低い草が風に揺れていた。
(見通しがいい。……狭い旧市街よりは)
「……分かった」
少年は、ほっとしたように息を吐いた。
空中へ指を滑らせると、薄い光の板が現れた。
何もない場所に浮かび、触れるたびに形を変える。
彼女は少年の指先を目で追った。
それが何のためのものかは分からなかったが、同じ動きをすればよいことだけは理解できた。
「ここを押せば、パーティーに入れるよ」
示された場所に触れると、視界の端に二人の名前と、横長の色の帯が加わった。
二人はそれぞれ自分の名前を告げたあと、彼女を見た。
「そっちは?」
「……狩人」
「それ、名前じゃないよ、ロールじゃん」
「名前……」
「そう、名前」
彼女は答えようとして、言葉を失った。
かつて呼ばれていた名前は、ほかの多くとともに記憶の底に沈んでいた。
意識を向けると、意味を結ぶ前の言葉や情景だけが浮かび、すぐに手の届かないところへ沈んでいった。
やがて、薄暗い聖堂と、一枚の聖像が浮かんだ。
金色の光輪を戴き、書物を抱いた聖人。その傍らで、誰かが名前を呼んでいる気がした。
「……ルカ?」
「疑問形なの?」
槍の少年が戸惑ったが、片手剣の少年は深く考えなかったらしい。
「ルカだね。よろしく」
彼女――ルカは、小さく頷いた。
三人は西門を出て、街道から少し離れた草原へ向かった。
街の外には、同じように狩りへ出てきた者たちが何組もいた。
剣を振る者、盾を構える者、その後ろから槍を突き出す者。
弓を使う者もいた。
彼らの多くは声を掛け合い、互いの動きを確かめながら慎重に戦っていた。
三人が草原を歩いていると、不意に前方の草が揺れた。
草むらから現れたのは、青みがかった毛に覆われた猪だった。
頭上には細い色の帯と、〈Frenzy Boar〉という文字が浮かんでいた。
ルカは短弓を構えた。
「……獣?」
「獣? モンスターのこと?」
剣を抜きながら、片手剣の少年が聞いた。
「フレンジー・ボア。この辺りで一番弱い敵だよ」
猪が頭を下げ、地面を蹴った。
二人が慌てて武器を構えるより先に、ルカは矢をつがえていた。
弦を引くと、中央の機構部で板ばねが軋んだ。
短弓がガキンと硬い音を立て、放たれた矢は猪の目に突き立った。
頭上に浮かぶ色の帯が大きく減った。
猪は走る方向を変え、矢を放ったルカへ向かおうとした。
しかし、その横腹へ槍が刺さり、続いて片手剣が振り下ろされた。
猪の身体は細かな光となって砕け、草原から消えた。
「今の、狙ってやったの?」
槍の少年が振り返った。
ルカは答えず、猪が消えた場所を見ていた。
「違った……」
「何が?」
「……何でもない」
二人は顔を見合わせたものの、それ以上は尋ねなかった。
狩りを続けるうちに、彼らはルカに細かな指示を出さなくなった。
二人が猪を引きつければ、その動きを妨げない角度から矢が飛んだ。
猪が向きを変えれば脚へ刺さり、頭を下げれば、その目や鼻先へ矢が入った。
矢は一度も二人の近くを通らず、狙いを外すこともなかった。
その動きにはエフェクトも、スキルを放つ前触れも伴わなかった。
ルカは草の傾きと敵の動きを見て、鋼線から指を離しているだけだった。
「君、ベータテストをやってたの?」
休憩の際、片手剣の少年が尋ねた。
ルカは水の入った革袋を受け取りながら、しばらく考えた。
「ベータテスト……? 知らない」
「知らないって……まあ、言いたくないならいいけど」
少年は、それを知識を隠しているという意味に受け取ったらしい。
日が傾くまでに、二人はルカを、ひどく無口だが弓だけは抜群に上手いプレイヤーだと思うようになっていた。
三人は暗くなる前に街へ戻った。
二人は翌日も一緒に狩らないかと誘ったが、ルカは返事をしなかった。
それでも彼らは気を悪くした様子を見せず、また見かけたら声をかけると言って去っていった。
一人になったルカは、夕方の通りを歩いた。
やがて、開いた扉から漂ってきた匂いに足を止めた。
そこは、小さなパン屋だった。
棚には窯から取り出されたばかりのパンが並べられ、白い湯気を立てていた。
ルカは焼きたてのパンを一つ買った。
店を出てから端をちぎると、薄い皮が小さな音を立てた。
中は柔らかく、まだ熱が残っていた。
ルカはパンを口へ運びかけ、ふと手を止めた。
右手が、額と胸、右肩、左肩へ動いた。
その夜は、近くの宿屋で過ごした。
小さな部屋には寝台と机があり、窓から街の屋根が見えた。
ルカは短弓を手の届く場所へ置くと、長いスカートのまま寝台へ寝転がった。
眠れるとは思っていなかった。
窓の外から、街を歩く者たちの声が聞こえていた。
それを聞くうちに、次第に彼女の意識は途切れていった。
次に目を開けたときには、窓から朝日が差し込んでいた。
ルカは慌てて身を起こした。
(朝まで、眠っていた……)
ルカは寝台の端に座り、朝の光が床に差す様子を見つめていた。
穏やかな朝。
街が動き始めても、彼女は呆然としたまま、そこに座っていた。