ソードアート・オンライン ――或いは仮想世界のアンティフォン 作:ありさかいずも
廊下を行き交う足音が増え、階下から話し声が聞こえ始めた。
宿屋の一階には、十人ほどの客が集まっていた。
誰も食事には手をつけず、二人の若者を囲んで話を聞いていた。
「本当に名前が消えてたんだ。黒鉄宮にある大きな碑から」
「消えたんじゃない。線を引かれたんだろ」
「同じことだよ。横に死んだ時間まで出てた」
ルカは足を止めた。
「……死んだの?」
若者は、驚いたように彼女を見た。
話しかけられるまで、気付かなかったのだ。
「うん。昨日のうちに何人かが」
「最初の一人は、街の外周から飛び降りたらしい。落ちたら外に出られるって言ってたそうだよ」
「……出られたの?」
若者は返事に詰まり、隣にいた男が代わりに答えた。
「分からない。ただ、碑に名前が残ってた。茅場の言ったことが本当なら、現実には戻れてないと思う」
それを聞いた誰もが黙り込んだ。
静まり返った宿屋をあとに、ルカは街へ出た。
黒鉄宮がどこにあるかは、通りを歩く人々の流れを追うだけで分かった。
黒鉄宮は時計塔の広場から少し離れた場所にあった。
黒い金属で覆われた入口から中へ入ると、広い空間の正面に巨大な碑が立っていた。
表面には、数え切れないほどの名前が隙間なく刻まれていた。
碑の前には大勢の人がいた。
自分の名前を探す者、知人の無事を確かめる者、線を引かれた名前を前に泣いている者もいた。
ルカは人の肩越しに碑を見上げた。
名前の一つに横線が刻まれ、その脇に短い記録が添えられていた。
死亡した時刻と場所。
周囲の話によれば、最初に死んだ男の名前だった。
「こんなの、茅場が勝手に表示してるだけだろ!」
近くで少年が叫んだ。
「本当に死んだ証拠なんかない。向こうでは目を覚ましてるかもしれないじゃないか!」
「だったら、もう外から助けが来てるはずだよ」
「まだ一日も経ってないだろ!」
言い争う声が広間に響いていた。
ルカは横線が引かれた名前を見つめた。
この男がどこへ行ったのかは分からない。
現実へ戻ったのか、意識を失ったのか。
それとも、夢に送られたのか。
少なくとも、この世界から消えたことは確かだった。
「……戻らないの?」
傍らにいた少女が、ルカの声に振り返った。
少女の目は赤く腫れていた。
「誰が?」
「この人?」
「戻らないよ! 死んだんだから!」
少女は大声でそう言うと、怒ったようにその場を出て行った。
(そうか、戻らないんだ……)
ルカは〈LUKA〉の文字を探した。
しかし、あるはずの場所には、その名前はなかった。
入口の近くでは、別の言い争いが起きていた。
「ベータテスターは、もう街を出たって話だぞ。安全な狩場も、金になるクエストも、あいつらだけが知ってるんだ」
「僕たちは置き去りかよ」
その声に、額に赤い布を巻いた男が振り返った。
周囲には、彼と同じような年頃の男たちが数人集まっている。
「まだ始まったばかりだろ。顔も知らねえ連中を責めてる暇があったら、できることを探そうぜ」
「でも、外に出たら死ぬかもしれないんだぞ」
「だから一人で行くなって話だ。俺たちは一緒に動く。まずは街の近くで、武器の使い方から覚えようぜ」
仲間の一人が何か言うと、赤い布の男はその肩を軽く叩いた。
「大丈夫だ。危なくなったら全員で逃げりゃいい」
根拠のない言葉だったが、それを聞いた者たちの表情はわずかに緩んだ。
ルカは彼らの横を通り、黒鉄宮を出た。
街には朝の匂いが満ちていた。
通りの店が次々に扉を開き、パン屋の窯から白い煙が上がっていた。
自ら死を選んだ男は、この世界へ戻ってこなかった。
それが自分にも当てはまるのかは分からない。
だが、昨夜はよく眠ることができた。
追い立てるような鐘の音も、血を求める怨嗟も聞こえなかった。
この世界は、どこか心地よかった。