ソードアート・オンライン ――或いは仮想世界のアンティフォン 作:ありさかいずも
Господи, Божественный Огонь, помилуй.
――主よ、神なる火よ、憐れみ給え。
第一層の扉が開いてから、四か月が過ぎていた。
攻略の最前線は、すでに二十五層を越えている。
ルカは特定の攻略隊やギルドには加わらず、開かれた階層を一人で歩いていた。
ときおり攻略へ参加し、戦いが終われば離れる。
危険な場所で立ち往生している者を見つければ、街道まで送り届けた。
その日、ルカは第十一層の森にいた。
低い木々の間を進んでいると、前方から武器のぶつかる音が聞こえてきた。
音を追って斜面を下る。
木々が開けた先で、数人がモンスターの群れに囲まれていた。
剣や槍を持っているものの、互いを守ろうとして動きが固まり、包囲を抜けられずにいた。
その外側を、黒い影が走った。
長剣が青い光を引き、モンスターを一体ずつ切り裂いていく。
最後の一体が光となって砕けたとき、ルカは短弓へつがえた矢を下ろした。
黒い外套をまとった剣士が、彼女に気づいた。
「あんた……第一層のボス戦にいた弓使いか」
ルカも彼を覚えていた。
「……黒い人だ」
「キリトだ」
黒髪の剣士――キリトは、少し不満そうに名乗った。
助けられた者たちは五人いた。
ルカは五人の顔色と、武器を握る手の震えを順に見た。
目立った傷はなく、乱れていた呼吸も次第に落ち着いていた。
装備には使い込まれた跡があったが、キリトと比べると、戦い方にはまだ危うさが残っていた。
「知り合い?」
両手剣を背負った少年が尋ねた。
「第一層で見かけただけだよ」
キリトが答えると、少年はルカに向き直った。
「僕はケイタ。こっちはササマル、ダッカー、テツオ。それから、サチ」
最後に名を呼ばれた少女は、長い槍を両手で抱えていた。
ルカと目が合うと、控えめに頭を下げた。
「僕たちは〈月夜の黒猫団〉。キリトに助けてもらったところなんだ」
「黒猫……」
「格好いい名前でしょ」
仲間の一人が言うと、別の一人が笑った。
「決めたときはな。いま聞くと、ちょっと恥ずかしいけど」
「お前も賛成しただろ」
先ほどまで死にかけていたとは思えない調子で、彼らは言い合っていた。
ケイタはキリトとルカを見比べた。
「助けてもらったお礼もしたいし、よかったら街で一緒に食事しない?」
ルカは断る理由を考えたが、何も浮かばなかった。
「……分かった」
第十一層の主街区タフトに戻ると、六人は宿屋の食堂へ入った。
狭い卓を囲み、黒猫団の者たちは料理を次々に注文した。
現実では同じ学校に通い、同じ部活動に所属していたのだという。
誰かが失敗を話すと、残りの者たちが当時の様子まで付け加えた。
ルカは彼らの会話を聞きながら、パンに焼いた肉を挟んで食べていた。
彼らの笑い声を聞いていると、白い壁とたくさんの机が、一瞬だけ意識に浮かんだ。
大勢の学生が椅子を並べ、紙の束を前から後ろへ送っていた。
隣に座っていた誰かが、小さな声で何かを言った。
そこで情景は途切れ、記憶の底へ沈み直した。
「ルカさん?」
呼ばれて顔を上げる。
向かい側で、サチがルカを見ていた。
「どうかしたの?」
「……何でもない」
ケイタは黒猫団の目的を話していた。
仲間全員で強くなり、いずれ攻略組へ加わりたいのだという。
そのためには、先ほどのような危険を減らす必要があった。
ケイタはキリトへ向き直った。
「キリト、もし決まった仲間がいないなら、黒猫団に入らないか」
キリトはすぐには答えなかった。
卓を囲む五人を順に見たあと、短く頷いた。
「分かった。よろしく」
歓声が上がった。
さっそく役割を決めようとする者や、歓迎の料理を追加しようとする者もいた。
キリトは困ったように笑っていた。
その表情は、第一層で憎しみを引き受けたときとは違っていた。
「ルカもどう?」
ケイタが尋ねた。
ルカは首を横に振った。
「工房には入らない」
「工房? ギルドのこと?」
「……たぶん」
黒猫団の者たちは顔を見合わせ、それから一斉に笑った。
「変わった人だなあ」
不思議と、悪意のある笑いには聞こえなかった。
食事が終わり、ほかの者たちが会計を巡って騒ぎ始めると、サチがルカの隣へ移ってきた。
「ルカさんは、戦うのが怖くないんですか?」
声は、周囲に聞かれないほど小さかった。
「怖い?」
「死ぬかもしれないのに、迷わず前へ出られるから」
ルカは答えを探した。
「死ぬのは、もう怖くない」
サチの表情が曇った。
それを見て、ルカは自分の言葉が間違っていたことに気づいた。
「でも、怖いのなら逃げたらいい」
「逃げてもいいんですか?」
「狩りは、生きて帰るまで終わらない。逃げ道を忘れないで」
サチはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
ルカが宿を出る頃には、空が夕暮れの色に変わっていた。
「また会えますか」
背後からサチに呼び止められた。
ルカは振り返った。
「……たぶん」
「それなら、また」
サチは笑った。
扉が閉じたあとも、黒猫団の笑い声は通りまで聞こえていた。
ルカはしばらく宿の前に立っていた。
それから、夕暮れの街を一人で歩き始めた。