アイリ「私がいなくなれば、みんな自由になれますよね」 作:すーぱーりっかちゃん
原作:ブルーアーカイブ
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ヨシミ「聞いてないんだけど!?」
潮風に揺れるカーテンの向こうで、夏の海が白く輝いている。
トリニティ自治区から少し離れた海岸沿い。放課後スイーツ部が夏合宿のために借りた貸別荘へ到着して、まだ十分も経っていなかった。
玄関先には人数分の荷物と、大型のクーラーボックス。そして、腕を組んで頬を膨らませたヨシミがいる。
その視線の先で、ナツは悪びれることなく大きな段ボール箱を抱えていた。
ナツ「言っていなかったからね」
ヨシミ「堂々と言うことじゃないでしょ! 何よ、その箱!」
ナツ「夏という季節に、我々は何を求めていると思う?」
カズサ「涼しさ」
ヨシミ「限定スイーツ」
先生「休暇かな」
ナツ「ロマンだよ」
カズサ「聞く必要あった?」
ナツは箱を床に置き、仰々しい手つきで蓋を開いた。
中から出てきたのは、手回し式のかき氷機だった。しかも、どう見ても業務用に近い大きさである。
ナツ「見てほしい。この鋼鉄の質感、無駄のない曲線、そして氷を削るためだけに存在する潔さを。これはもはや、夏を具現化した彫刻と言っても過言ではない」
ヨシミ「過言よ! それに、氷はどうするのよ!」
アイリ「氷なら、近くのお店に予約してありますよ~」
一斉に視線が集まる。
アイリは旅行用のバッグを胸の前で抱え、少し照れたように笑った。
アイリ「ナツちゃんから、もしかしたら必要になるかもしれないって聞いていたので。製菓用の透明な氷を、明日の朝に届けてもらえることになっています」
ナツ「さすがアイリ。ロマンの伴走者だ」
ヨシミ「待って。アイリは知ってたの?」
アイリ「はい。でも、ナツちゃんが内緒にしてほしいと言っていたので……」
カズサ「それで本当に内緒にできるの、アイリらしいね」
アイリ「えへへ……驚いてもらえたなら、よかったです」
ヨシミ「まあ、驚いたけど……」
ヨシミはまだ不満そうだったが、箱の中を覗き込む目には早くも興味が浮かんでいた。
カズサはそれを横目で見て、小さく息を吐く。
カズサ「ヨシミ、やる気になってるでしょ」
ヨシミ「なってないわよ。ただ、せっかくならシロップにもこだわらないと、氷がもったいないと思っただけ」
ナツ「素晴らしい。既に次なるロマンが生まれようとしている」
ヨシミ「だからロマンって言えば何でも通ると思わないで!」
先生「到着してすぐ元気だね。私はまだ靴も脱げていないんだけど」
カズサ「先生、そこに立ってると荷物が通らない」
先生「あ、ごめん」
先生が慌てて玄関の隅へ移動すると、ヨシミが呆れたように肩をすくめた。
ヨシミ「もう。引率なんだから、しっかりしてよね」
先生「そのつもりではいるよ。ただ、今のところ私が一番引率されている気がするな」
カズサ「気のせいじゃないと思う」
軽い笑いが起こる。
その真ん中で、アイリも口元を緩めた。
けれど一瞬だけ、バッグの外側にある小さなポケットへ手を添える。
そこには、この貸別荘の鍵とは別の、古い真鍮の鍵が入っていた。
放課後スイーツ部の部室の鍵。
普段はアイリが預かっているものだった。
◆
部屋割りを決め、荷物を片付けた後、五人は海の見えるリビングに集まった。
大きなテーブルの上には、アイリが作った合宿のしおりが人数分並んでいる。
表紙には丸い文字で『放課後スイーツ部・夏のスイーツ研究合宿』と書かれ、端には小さなアイスクリームの絵まで添えられていた。
ヨシミ「すごい。ちゃんと冊子になってる」
アイリ「必要なことを書いていたら、少し長くなってしまって……」
カズサ「近くのお店の営業時間、バスの時刻表、病院の場所……避難経路まである」
先生「準備がいいね。私が持ってきた資料より詳しいかもしれない」
ヨシミ「先生の資料は?」
先生「緊急連絡先と、みんなを無事に連れて帰るという強い意志が書いてあるよ」
カズサ「二行?」
先生「二行だね」
ヨシミ「なんで自信ありげなのよ!」
先生が笑いながらしおりを開く。
一日目は周辺散策と海の家の調査。二日目はかき氷と冷菓の試作。三日目は自由行動と試食会。最終日は片付けと帰宅。
余白には、各自が提案したいことを書き込めるようになっていた。
ナツ「ふむ。自由時間が多いね」
アイリ「はい。せっかくの合宿ですから、みんなが好きなことをできるようにしたくて」
ヨシミ「でも、合宿なんでしょ? 何か一つくらい、みんなでやる企画があってもいいんじゃない?」
アイリ「そうですね。でしたら、明日のスイーツ作りを――」
ヨシミ「それは元からある予定でしょ。そうじゃなくて、もっと夏っぽいこと」
ナツ「肝試し」
カズサ「却下」
ナツ「まだ内容を説明していないが?」
カズサ「説明されたら、断るのが面倒になるから」
ヨシミ「花火は? 夜にみんなでやったら楽しそうじゃない?」
アイリ「いいですね。花火ができる場所を管理人さんに確認してみます」
カズサ「アイリ。今すぐ決めなくてもいいんじゃない?」
アイリ「え?」
カズサ「ヨシミが言ったことを、全部予定に入れなくてもいいってこと。せっかく余白を作ったんだし」
ヨシミ「ちょっと。私がわがままを言ってるみたいじゃない」
カズサ「違うの?」
ヨシミ「違うわよ!」
ナツ「それでは、アイリ自身は何がしたい?」
不意に問いかけられ、アイリはしおりへ目を落とした。
海。かき氷。散策。花火。みんなで食べるスイーツ。
どれも楽しそうだった。
どれも、みんなが喜んでくれそうだった。
アイリ「私は……みんなが楽しければ、それで」
カズサ「そうじゃなくて」
カズサの声は強くなかった。
責めるような響きもなかった。
それでもアイリの指は、しおりの端を少しだけ強くつまんだ。
アイリ「えっと……チョコミントアイスを食べたいです」
ヨシミ「それ、いつもと同じじゃない」
アイリ「そ、そうですよね。せっかく海に来たのに……」
ヨシミ「あっ、違う! 駄目って意味じゃなくて!」
ナツ「いつも好きなものを、いつもと違う場所で味わう。それもまた旅の本質だよ」
カズサ「ナツがまともなこと言ってる」
ナツ「失礼だね」
先生「私はいいと思うよ。海辺で食べるチョコミントアイスが、普段と同じ味かどうかも気になるし」
アイリ「先生……」
先生「せっかくだから、明日みんなで探してみようか」
アイリは少しだけ迷ってから、頷いた。
アイリ「はい。ありがとうございます」
ヨシミ「じゃあ決まりね。この辺りの限定アイス、私も調べておく」
カズサ「ヨシミが一番乗り気になってない?」
ヨシミ「調査よ、調査!」
賑やかな会話が再び始まる。
アイリも笑っていた。
窓の外では、真昼の海がきらきらと輝いている。熱気で揺らいだ水平線は、実際よりもずっと近くに見えた。
手を伸ばせば届きそうなのに、決して届かない。
蜃気楼みたいだと、アイリは思った。
◆
夕方、五人は海岸沿いの通りを歩いた。
ヨシミは限定スイーツの看板を見つけるたびに足を止め、ナツは貝殻や流木に勝手な物語をつけ、カズサは二人が車道へ飛び出さないよう何度も服を引っ張っていた。
先生はその少し後ろを歩き、アイリは全員の間を行き来していた。
ヨシミ「見て、塩キャラメルのソフトクリーム! この地域限定だって!」
ナツ「海の塩と、焦がした砂糖。相反するようでいて、互いの輪郭を深め合う組み合わせだ」
カズサ「食べたいなら普通に食べたいって言えば?」
ナツ「食べたい」
カズサ「急に素直」
アイリ「先生も食べますか?」
先生「いいのかな?」
ヨシミ「五人で別々の味を頼んで、少しずつ交換すればいいんじゃない?」
カズサ「ヨシミがそういう提案するの、珍しいね」
ヨシミ「何よ。私だって大人なんだから、独り占めしたりしないわよ」
カズサ「誰も大人かどうかの話はしてないけど」
ヨシミ「カズサ!」
ヨシミが追いかけ、カズサが笑いながら逃げる。
ナツは二人を眺めつつ、屋台のメニューを真剣な表情で吟味していた。
アイリはその光景を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分が声をかけて集まった四人。
自分が作りたかった、スイーツを食べながら一緒に過ごせる場所。
それは今、目の前にある。
店員「ご注文はお決まりですか?」
アイリ「あ、はい。塩キャラメルと、レモンミルクと、マンゴーと……」
アイリは振り返った。
アイリ「カズサちゃんは、何にしますか?」
カズサ「私は別に、何でも」
ヨシミ「またそれ? カズサもちゃんと選びなさいよ」
カズサ「ヨシミに言われたくないんだけど」
ナツ「チョコミントがあるね」
アイリ「本当ですか?」
メニューの隅に、小さく『数量限定・海色チョコミント』と書かれている。
淡い青色のアイスに、細かなチョコチップ。貝殻形のホワイトチョコまで添えられていた。
アイリ「わあ……きれいです」
先生「アイリはそれにする?」
アイリ「はい。でも、数量限定なら……」
店員「残り一つですよ」
アイリは言葉を止めた。
次いで、全員の顔を見る。
アイリ「みんなで分けませんか?」
カズサ「アイリが食べたいんでしょ」
アイリ「でも、せっかくですし」
ヨシミ「一口ちょうだいって言うかもしれないけど、アイリが頼みなさいよ」
ナツ「独占する喜びも、時には必要だ」
アイリ「そうでしょうか……」
先生「欲しいって言ってもいいと思うよ」
アイリはもう一度メニューを見つめた。
胸の奥で、何かが小さくざわつく。
自分のためだけに、最後の一つを選ぶこと。
それは、どうしてこんなにも難しいのだろう。
アイリ「では……チョコミントを、一つお願いします」
店員「かしこまりました」
アイスを受け取ると、ヨシミがすぐに覗き込んできた。
ヨシミ「写真撮っていい?」
アイリ「もちろんです」
カズサ「溶ける前に食べたほうがいいよ」
ナツ「夏はあらゆるものの輪郭を曖昧にする。アイスも、時間も、決意も」
ヨシミ「食べる前に不吉なこと言わないでよ」
アイリは小さなスプーンで、青緑色のアイスをすくった。
口に含む。
チョコレートの甘さの後から、ミントの涼しさがすっと広がった。火照っていた口の中が、一瞬で別の季節へ入れ替わったようだった。
アイリ「おいしいです」
先生「よかったね」
アイリ「はい。先生も、一口どうぞ」
先生「アイリが食べたかったものなのに、いいの?」
アイリ「おいしいものは、一緒に食べたほうがおいしいですから」
それは嘘ではなかった。
アイリにとって、スイーツは誰かと一緒に食べるものだった。
甘さを分け合い、感想を言い合い、次はどこへ行こうかと相談する。そうしている時間が何よりも好きだった。
先生が一口食べる。
続いてヨシミ、ナツ、カズサへとアイスを差し出す。
戻ってきたカップには、まだ半分以上残っていた。
アイリ「みんな、少しずつしか食べていませんね」
カズサ「そりゃ、アイリのだから」
ヨシミ「ちゃんと味見はしたわよ」
ナツ「爽やかさの奥に、確かな苦みがある。まさに青春の味だね」
カズサ「チョコチップじゃない?」
また笑いが起こる。
けれどアイリは、自分の手元に戻ってきたカップを見つめていた。
自分のもの。
その言葉が、なぜか少しだけ寂しく聞こえた。
◆
夜。
貸別荘の明かりが落ちた後も、波の音は途切れなかった。
アイリはベッドの中で目を開けたまま、暗い天井を見つめていた。
隣のベッドからは、ヨシミの静かな寝息が聞こえている。反対側では、ナツが布団を半分蹴り落としていた。カズサは壁際で、こちらへ背を向けている。
三人とも、それぞれ違う。
ヨシミは自分の好きなものを見つけるのが上手だった。言いたいことをはっきり言って、怒って、笑うことができる。
ナツは誰にも思いつかない考えを持っている。周りを振り回すことさえあるのに、不思議と最後にはみんなを巻き込んでしまう。
カズサは冷静で、何でも器用にこなす。必要な時は頼りになって、誰かが困っていることにもすぐ気づく。
では、自分は何だろう。
予定を作って、予約をして、みんなの希望を聞く。
それは、誰にでもできることではないだろうか。
むしろ自分が細かく予定を決めるせいで、みんなは好きなように動けなくなっているのではないか。
カズサが言っていた。
全部予定に入れなくてもいい。
ナツも尋ねていた。
アイリ自身は何がしたい。
ヨシミは、もっと夏らしいことがしたいと言っていた。
きっと三人とも、もっと自由に楽しみたいのだ。
なのに、自分が中心にいるから、みんなは気を遣っている。
アイリは音を立てないよう、ベッドから抜け出した。
バッグを開き、外側のポケットに触れる。
真鍮の鍵が、指先に硬く当たった。
その下には、昼間には入っていなかった一枚の紙がある。
消灯前。みんなが入浴している間に書いたものだった。
上部には、少し震えた文字でこう記されている。
『脱退届』
まだ日付も、署名も書いていない。
ただ、理由の欄だけが埋められていた。
『みんなが、もっと自由に活動できるようにするため』
アイリは紙を取り出さず、ポケットのファスナーを閉じた。
明日になれば、きっと考えが変わる。
海を見て、スイーツを食べて、みんなと笑えば、こんなことを考えた自分が恥ずかしくなる。
そう思いながら横になる。
けれど眠りに落ちる直前まで、ポケットの中の鍵が、ひどく重く感じられた。
◆
ヨシミ「どうしてこうなったのよ……」
翌日の昼。
貸別荘のキッチンには、甘い香りではなく、微妙に焦げた牛乳の匂いが漂っていた。
作業台には切り分けられた果物、数種類のシロップ、製菓用の氷、砕かれたクッキー。そして、用途を失ったミントの葉が並んでいる。
その中心で、業務用かき氷機のハンドルが空回りしていた。
カズサ「ナツ。これ、本当に使えるの?」
ナツ「昨日までは使えた」
ヨシミ「昨日は氷を入れてないでしょ!」
ナツ「空回しでは、実に滑らかだった」
カズサ「氷を削れないかき氷機って、何のためにあるの?」
ナツ「美しい」
ヨシミ「捨ててきなさい!」
アイリ「あ、あの、もう一度説明書を見てみませんか?」
カズサ「説明書、あるの?」
ナツ「もちろん」
ナツが箱の底から取り出したのは、湿気を吸って波打った一枚の紙だった。
文字は半分ほど擦れている。
ヨシミ「読めないじゃない!」
先生「図なら何とか分かるかな。ここに部品を取りつけるみたいだけど」
カズサ「その部品は?」
全員が箱を見る。
底には、緩衝材と空のビニール袋だけが残っていた。
ナツ「なるほど」
ヨシミ「何が、なるほど、よ!」
ナツ「旅には忘れ物がつきものだ」
カズサ「今からナツを荷物ごと送り返したら、忘れ物じゃなくなるかな」
ナツ「カズサは時々、発想が大胆だね」
カズサがナツの頬を無言で引っ張る。
ナツは抵抗しないまま、むに、と形を変えた。
アイリ「だ、大丈夫です。近くのお店で、別のかき氷機を借りられないか聞いてみますね」
アイリが端末を手に取る。
だが、ヨシミがその手を止めた。
ヨシミ「待って。借りに行く時間がもったいないわ」
アイリ「でも、このままでは……」
ヨシミ「氷を細かくできればいいのよね?」
カズサ「嫌な予感がする」
ヨシミは物置にあった金属製のハンマーへ視線を向けた。
先生「ヨシミ。それは製菓器具じゃないと思うよ」
ヨシミ「キヴォトスで製菓器具と武器を分けて考える意味ってある?」
先生「あるんじゃないかな」
カズサ「少なくとも先生は下がってたほうがいい」
ナツ「氷と鋼鉄の対話。これもまたロマンだ」
ヨシミ「ナツは氷を押さえてなさい」
ナツ「任せてほしい」
先生「二人とも、一度落ち着こうか」
先生が止めるより早く、ヨシミがハンマーを振り下ろした。
鈍い音がキッチンに響く。
大きな氷の塊は真っ二つになり、その片方が作業台を滑った。
アイリ「あっ」
アイリは反射的に受け止めようと手を伸ばした。
しかし、横からカズサの腕が伸び、氷の塊をつかむ。
カズサ「危ない」
アイリ「ご、ごめんなさい」
カズサ「アイリが謝ることじゃないでしょ。ヨシミ」
ヨシミ「何よ。ちゃんと割れたじゃない」
カズサ「床も割れそうだったけど」
ナツ「床に走った亀裂もまた、夏の記憶として――」
先生「それは管理人さんへ説明することになるから、記憶だけでは済まないね」
ヨシミはハンマーを置き、気まずそうに目を逸らした。
ヨシミ「……次は弱めにするわ」
カズサ「次もやるんだ」
先生「せめて外でやってくれるかな」
結局、氷は庭へ運ばれた。
ヨシミが大まかに砕き、カズサが布で包んだ氷をさらに細かくする。ナツはそれを冷やしたボウルへ移し、先生は飛び散った欠片を拾った。
作業は予定とはまるで違う形になった。
それでも、思ったより早く進んだ。
ナツ「見たまえ。完全なかき氷とは言えないが、これはこれで荒々しい魅力がある」
ヨシミ「グラニテって言えば、それっぽくなるわよ」
カズサ「便利な言葉だね」
先生「実際、果汁を凍らせて削ればグラニテになるんじゃないかな」
ヨシミ「そうよ! 最初からそれを作る予定だったの!」
カズサ「無理があるでしょ」
ヨシミとカズサが言い合いながら、シロップの配合を調整する。
ナツはガラスの器を日光にかざし、氷の輝きについて語っている。
先生は笑いながら片付けを続けていた。
アイリは、少し離れた場所からその様子を見ていた。
自分が電話をかけなくても、解決した。
自分が準備した計画が崩れても、みんなは楽しそうだった。
むしろ予定通りではないからこそ、三人は生き生きしているように見えた。
カズサ「アイリ?」
アイリ「はい」
カズサ「ミントのシロップ、これでいい?」
差し出された小皿には、淡い緑色のシロップが入っている。
アイリは味見をした。
爽やかな香りの後に、少し強い甘みが残る。
アイリ「おいしいです。でも、もう少しだけ甘さを抑えてもいいかもしれません」
ヨシミ「やっぱり? 私もそう思ったのよ」
ナツ「甘みが強いからこそ、ミントの冷たさが際立つ可能性もある」
カズサ「じゃあ二種類作れば?」
ヨシミ「それね。アイリは甘さ控えめのほうをお願い」
アイリ「分かりました」
言われた通りに砂糖の量を調整する。
作業を任されたことは嬉しい。
自分の意見が採用されたことも。
それなのに、胸の奥にある空洞は埋まらなかった。
自分がいなくても、きっとヨシミは同じことに気づいただろう。
カズサなら、別の方法を提案できた。
ナツは突拍子もないことを言いながら、場の空気を明るくする。
先生は危険がないよう見守りながら、必要なところだけ手伝っている。
では、自分は。
砂糖を少し減らしただけ。
それだけだった。
◆
完成したグラニテは、五つのガラス容器に盛りつけられた。
マンゴー、レモン、塩キャラメル、いちご、チョコミント。
窓際のテーブルへ並べると、光を受けて宝石のように輝いた。
ヨシミ「見た目は完璧ね」
カズサ「かき氷じゃなくなったけど」
ナツ「我々が求めていたのは、名称ではなく体験だよ」
先生「最初にかき氷機を持ってきた人が言うと、説得力が違うね」
ナツ「称賛として受け取っておこう」
アイリ「では、いただきましょうか」
五人で手を合わせる。
アイリが選んだのは、当然チョコミントだった。
細かく砕いた氷へ、ミントシロップとチョコソースをかけたもの。昨日食べたアイスとは違い、舌の上ですぐに溶けていく。
アイリ「冷たくて、おいしいです」
先生「頭が痛くならないよう、ゆっくり食べるんだよ」
ヨシミ「先生じゃあるまいし、そんなに急いで食べないわよ」
先生「どうして私が頭痛になる前提なのかな」
カズサ「先生、もう食べ終わりそうだけど」
先生「あれ?」
ナツ「刹那の快楽に身を委ねた結果だね」
先生がこめかみを押さえる。
ヨシミが呆れ、カズサが水を差し出した。
アイリは笑った。
けれど、先生の視線がこちらへ向いた瞬間、無意識に目を伏せた。
先生「アイリ」
アイリ「はい?」
先生「いや……おいしいね」
アイリ「はい。みんなのおかげです」
先生「アイリも作ったでしょ」
アイリ「私は、ほんの少しですから」
先生は何かを言おうとしたようだった。
しかし、ヨシミが身を乗り出す。
ヨシミ「ねえ。これ、明日の試食会で出せるんじゃない?」
カズサ「試食会って、私たちだけじゃないの?」
ヨシミ「管理人さんとか、近所のお店の人にも食べてもらえばいいじゃない。材料を分けてもらったお礼もしたいし」
ナツ「地域とスイーツでつながる。悪くない」
ヨシミ「でしょ?」
カズサ「数を増やすなら、果物が足りない」
ヨシミ「買い出しに行けばいいわ。まだ夕方前だし」
アイリ「あの、明日は自由行動の予定で……」
アイリが言うと、三人がこちらを見た。
しまった、と感じた。
否定するつもりではなかった。ただ、せっかく全員が自由に過ごせるよう空けた日だったから。
ヨシミ「別に、全員でやらなくてもいいわよ。参加したい人だけで」
アイリ「そういう意味では……」
カズサ「私は手伝うよ。予定もないし」
ナツ「私も構わない。新たなロマンの気配がする」
ヨシミ「じゃあ決まりね」
話が進んでいく。
アイリは慌てて笑顔を作った。
アイリ「私も手伝います」
カズサ「アイリは自由行動にしたかったんじゃないの?」
アイリ「いえ。みんながやるなら、私も」
ヨシミ「無理しなくていいわよ。アイリ、昨日からずっと準備してたでしょ?」
アイリ「大丈夫です」
ナツ「休息もまた、合宿における重要な工程だよ」
アイリ「本当に大丈夫ですから」
思ったより強い声が出た。
テーブルの上へ、短い沈黙が落ちる。
アイリ「……ごめんなさい。せっかくの提案なのに」
ヨシミ「謝らなくていいけど」
カズサ「アイリ、疲れてる?」
アイリ「少し眠れていないだけです。心配しないでください」
先生「それなら、今日は早めに休もうか」
アイリ「はい」
アイリは笑った。
いつもと同じように。
けれどカズサだけは、しばらくその顔を見つめていた。
◆
夕方の買い出しは、ヨシミ、カズサ、ナツの三人が行くことになった。
先生は管理人へ明日の試食会について相談するため、別荘に残っている。
アイリはキッチンの片付けを引き受けた。
先生「本当に一人で大丈夫?」
アイリ「はい。洗い物だけですから」
先生「私も手伝おうか」
アイリ「先生は管理人さんのところへ行くんですよね?」
先生「戻ってからでもできるよ」
アイリ「それでは、遅くなってしまいます。私は大丈夫です」
先生「……分かった。でも、無理はしないでね」
アイリ「はい」
先生を見送り、玄関の扉を閉める。
途端に、別荘の中が広くなった。
水道の音だけが響く。
アイリは器を洗い、布巾で拭き、棚へ戻した。使った調理器具を並べ直し、床に落ちた氷の跡を拭く。
手を動かしている間は、何も考えずに済んだ。
最後のボウルを棚へ戻そうとした時、玄関の外から声が聞こえた。
買い出しへ行った三人が、何か忘れ物を取りに戻ってきたらしい。
ヨシミ「だから、アイリに任せすぎなのよ」
自分の名前が聞こえ、アイリの手が止まる。
カズサ「ヨシミも頼んでたでしょ」
ヨシミ「私は、アイリが全部やるなんて思ってなかったの!」
ナツ「アイリは頼まれると断らないからね」
カズサ「断らないっていうか……先回りして、何でも合わせようとする」
ヨシミ「そう。それが困るのよ」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
アイリは声を出せなかった。
玄関へ向かうこともできず、キッチンの陰へ立ち尽くす。
カズサ「アイリが悪いって話じゃない。ただ、アイリが何でもいいって言うから、こっちもどこまで好きにしていいのか分からなくなる時がある」
ヨシミ「そうなのよね。アイリが笑ってると、本当は嫌でも合わせてるんじゃないかって思うし」
ナツ「優しさは、ときに透明な壁となる。見えないからこそ、越えていいのか分からない」
ヨシミ「ナツにしては分かりやすいわね」
ナツ「私はいつも分かりやすいよ」
カズサ「それはない」
玄関の扉が開く。
けれど三人は廊下まで入らず、靴箱の上にあった買い物リストだけを持って、再び外へ出た。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
アイリは、棚に手をついた。
指先から力が抜けていく。
――それが困る。
――どこまで好きにしていいのか分からない。
――透明な壁。
聞き間違いではない。
三人は自分を嫌っているわけではない。
それくらいは分かっていた。
優しいから、言えないだけだ。
自分が傷つくと思っているから。
昨日、カズサが言ったことも。
ヨシミが自由な予定を求めたことも。
ナツが自分の希望を尋ねたことも。
全部、同じところへつながっていた。
アイリがいると、みんなは自由になれない。
アイリが笑っていると、その向こうにある本音を探さなければならない。
アイリが何でもいいと言うから、好きなものを好きだと言いづらくなる。
放課後スイーツ部を作ったのは自分だ。
みんなで一緒に過ごせる場所が欲しかったから。
けれど今は、その場所そのものが、自分のために三人を縛る檻になっているのかもしれない。
アイリは濡れた手を拭き、部屋へ戻った。
バッグのポケットを開ける。
真鍮の鍵を取り出す。
続いて、折り畳んだ脱退届を取り出した。
空欄だった日付を書く。
署名欄に『栗村アイリ』と記す。
ペン先が止まる。
インクが一点へにじみ、黒い染みになった。
アイリ「これで……」
誰も困らなくなる。
みんなが、もっと自由になれる。
そう言おうとした。
けれど声は喉の奥へ引っかかった。
窓の外には、夕日に照らされた海がある。
水平線の近くで光が揺らぎ、もう一つの海が空に浮かんでいるように見えた。
蜃気楼。
そこにあるように見えて、本当はないもの。
自分が作った居場所も、最初からそうだったのだろうか。
◆
買い出しから戻った三人は、明日の試食会について楽しそうに話していた。
ヨシミ「ミントは多めに買ってきたわよ。アイリが好きだと思って」
アイリ「ありがとうございます」
カズサ「あと、海辺の店でチョコミントのチョコバーも売ってたから」
カズサが小さな箱を差し出す。
昨日のアイスと似た青緑色の包装だった。
アイリ「私に、ですか?」
カズサ「うん。みんなで食べようと思って」
ナツ「夜のデザートだ」
ヨシミ「今日は先生に全部食べられないようにしないとね」
先生「信用がないなあ」
カズサ「昨日、アイスを三口で食べてた人が言っても」
先生「あれは暑さのせいだよ」
ナツ「夏はあらゆるものの輪郭を――」
ヨシミ「その話、昨日も聞いた!」
笑い声がリビングに満ちる。
アイリも一緒に笑った。
チョコバーを一つ受け取り、口に含む。
薄いチョコレートが割れる。
中からミントクリームの爽やかさが広がった。
甘く、冷たく、少しだけ苦い。
ヨシミ「どう?」
アイリ「おいしいです」
カズサ「よかった」
自分のために選んでくれた。
そのことが嬉しくて、胸が痛かった。
優しい三人だから。
自分がいなくなった後も、きっと傷つく。
だからこそ、早いほうがいい。
長引かせれば、もっと言い出せなくなる。
アイリは笑顔のまま、ポケットの上から折り畳んだ紙を押さえた。
その夜。
みんなが眠った後、アイリは部室の鍵と脱退届を持ち、別荘を抜け出した。
◆
夜の海は、昼間とは別の場所に見えた。
砂浜を照らすのは、貸別荘から漏れる遠い明かりと、月の淡い光だけ。
黒い波が寄せては返し、そのたびに白い泡が短い線を描いて消える。
アイリは靴を脱ぎ、波打ち際を歩いていた。
足の裏へ触れる砂は、昼の熱をもう残していない。
一歩進むたび、足跡がつく。
次の波が、それを消していく。
自分がいなくなった後の放課後スイーツ部も、こんなふうに続いていくのだろう。
ヨシミが新しい限定スイーツを見つける。
ナツが突拍子もない提案をする。
カズサが呆れながら二人についていく。
きっと、今より自由に。
予定を決める人もいない。
笑顔の裏を気にする必要もない。
食べたいものを、食べたいと言える。
行きたい場所へ、好きに行ける。
アイリはポケットから部室の鍵を取り出した。
月明かりを受けて、真鍮の表面が鈍く光る。
この鍵を持っているのは、部室を一番早く開けることが多かったからだ。
放課後になれば、アイリが先に部室へ行く。
窓を開け、テーブルを拭き、お湯を沸かす。
やがてヨシミがやってきて、今日はどこへ行こうかと話し始める。
ナツが菓子の袋を抱えて現れる。
カズサが少し遅れて、何でもない顔で席につく。
何度も繰り返した時間。
鍵はその始まりを知っている。
そして今度は、終わりを告げるためのものになる。
アイリ「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
鍵へ向けてか。
部室へ向けてか。
眠っている三人へ向けてか。
声は波音にさらわれた。
ポケットから脱退届を取り出す。
紙は潮風にあおられ、指の間でかすかに震えた。
理由の欄へ書いた言葉を、月明かりの下で読む。
『みんなが、もっと自由に活動できるようにするため』
それは正しいはずだった。
正しいと、思いたかった。
アイリ「私がいなくなれば……」
唇が震える。
アイリ「みんな、自由に……」
最後まで言えなかった。
喉の奥から、押し殺し損ねた音が漏れる。
波音がそれをかき消してくれる。
だから、もう我慢しなくていいと思った。
涙が落ちた。
一粒では止まらなかった。
アイリは脱退届を胸元へ押しつけ、その場にしゃがみ込んだ。
アイリ「嫌です……」
本当は、辞めたくない。
アイリ「辞めたく、ないです……」
明日も一緒にいたい。
試食会をしたい。
失敗したスイーツを笑い合いたい。
ヨシミが見つけた限定メニューを食べに行きたい。
ナツのロマンに振り回されたい。
カズサに呆れられながら、一緒に帰りたい。
部室の鍵を開けたい。
みんなが来るのを待ちたい。
そんな自分の願いが、ひどく身勝手なものに感じられた。
自分が残れば、三人はこれからも気を遣う。
自分がいるだけで、自由を奪ってしまう。
ならば、辞めたくないという気持ちこそ、捨てなければならない。
アイリ「私さえ、我慢すれば……」
先生「その答えを、一人で決めるつもり?」
波音の向こうから声がした。
アイリは肩を跳ねさせる。
振り返ると、数歩離れた場所に先生が立っていた。
急いで来たのか、呼吸が少し乱れている。片手には懐中電灯を持っていたが、光はアイリの足元から外されていた。
アイリ「先生……どうして」
先生「目が覚めたら玄関の扉が開いていたから。みんなを起こす前に、少し探しに来たんだ」
アイリ「そう、だったんですね」
先生「隣に座ってもいいかな?」
先生は近づいてこなかった。
アイリが頷くまで、その場で待っている。
拒むこともできた。
何も話さず、帰ることもできた。
けれどアイリは、小さく頷いた。
アイリ「はい」
先生は少し距離を空け、砂の上へ腰を下ろした。
アイリの手元にある紙が見えているはずだった。
それでも、すぐには尋ねなかった。
波が寄せる。
泡が足元近くまで届き、引いていく。
先生「夜の海って、思ったより音が大きいね」
アイリ「はい」
先生「昼はあんなに明るかったのに、今は何も見えない」
アイリ「……怖いですか?」
先生「少しね。でも、見えないだけで海がなくなったわけじゃない。明るくなれば、また同じ海が見えるんだと思う」
アイリは返事をしなかった。
涙を拭う。
けれど潮風に濡れた頬は、すぐには乾かなかった。
先生「無理に話さなくてもいいよ」
アイリ「先生は……私を連れ戻しに来たんですか?」
先生「一緒に帰れたらとは思ってる。でも、腕をつかんで連れていくつもりはないかな」
アイリ「みんなには?」
先生「まだ何も話してないよ。アイリがここにいることも、その紙のことも」
先生の視線が、脱退届へ落ちる。
先生「それが何なのか、聞いてもいい?」
アイリは紙を握りしめた。
隠そうと思えば、まだ隠せた。
けれど、もう一人で抱える力が残っていなかった。
アイリ「脱退届です」
先生「そうだったんだね」
否定も、驚きも、すぐには返ってこなかった。
先生はただ、アイリの言葉を受け取った。
そのことが、かえって苦しかった。
アイリ「止めないんですか?」
先生「止めてほしい?」
アイリ「……分かりません」
先生「うん」
アイリ「怒らないんですか?」
先生「怒ってはいないよ。ただ、どうしてそう決めたのかは知りたい」
アイリ「私がいると、みんなが自由にできないからです」
先生「そう思ったんだね」
アイリ「思っただけじゃありません。みんなが話しているのを聞きました」
声が震える。
アイリは昼間に聞いた言葉を、途切れ途切れに説明した。
何でも合わせようとすること。
本当は嫌でも笑っているのではないかと心配させていること。
どこまで好きにしていいのか分からなくなること。
自分の優しさが、透明な壁になっていること。
アイリ「三人が悪いんじゃないんです。私に聞かせるつもりもなかったと思います。だから……たぶん、本当の気持ちなんです」
先生「そうかもしれないね」
先生は安易に否定しなかった。
聞き間違いだとも、勘違いだとも言わなかった。
アイリは脱退届へ目を落とす。
アイリ「先生も、そう思いますか?」
先生「アイリが何でも引き受けようとするから、心配になることはあるよ」
アイリ「やっぱり……」
先生「でも、それと脱退したほうがいいかどうかは、別の話だと思う」
アイリ「同じです。私がいるから、みんなは気を遣うんです」
先生「アイリがいなくなったら、三人は自由になる?」
アイリ「……はい」
先生「それは誰が決めたのかな」
アイリ「私が考えました」
先生「ヨシミたちに聞いた?」
アイリ「聞けません。そんなことを聞いたら、三人はきっと止めます。優しいですから」
先生「止めると言うのも、三人の自由じゃないかな」
アイリは息を止めた。
先生「アイリは、みんなを自由にしたいんだよね」
アイリ「はい」
先生「でも今、ヨシミたちが何を選ぶかを、先に決めてしまっている。三人は本当は引き止めたいかもしれないし、話し合いたいかもしれない。それとも、本当に距離を置きたいのかもしれない。私は答えを知らないよ」
アイリ「そんな……」
先生「私にも分からない。だから、ちゃんと聞く必要があるんだと思う」
アイリ「聞いて、辞めないでって言われたら……私は、きっと残ってしまいます」
先生「残りたいんだね」
その言葉が胸に刺さった。
アイリは首を横へ振ろうとした。
けれど、できなかった。
アイリ「残りたいです」
声にすると、涙がまた溢れた。
アイリ「本当は辞めたくありません。みんなと一緒にいたいです。でも、それでは、私のせいで……」
先生「自分をいなくすることでしか、みんなを自由にできないと思ったんだね」
アイリ「はい」
先生「それは、アイリだけが傷つく方法に見えるけど、三人が傷つかない方法なのかな」
アイリ「時間が経てば、きっと」
先生「それも、アイリが決めるの?」
責める言い方ではなかった。
だからこそ、逃げられなかった。
アイリは脱退届の端を握る。
アイリ「では、どうすればいいんですか?」
先生「私は答えを決められないよ」
アイリ「先生なのに……」
先生「先生だから、代わりに決めたくないんだ」
先生は海を見つめた。
先生「脱退すること自体が、絶対に間違いだとは言わない。部活を離れる自由もある。アイリが考えて、話して、それでも離れたいと思うなら、その選択は尊重する」
アイリ「……はい」
先生「でも、自分が消えれば全部解決する、という考えを正しいとは言えないよ。少なくとも、他の可能性を確かめる前ならね」
アイリ「他の可能性……」
先生「例えば、嫌な時は嫌だと言う。分からない時は待ってほしいと言う。みんなに合わせる前に、自分がどうしたいか考える」
アイリ「できなかったから、こうなったんです」
先生「うん。すぐにはできないと思う」
アイリ「だったら……」
先生「だから練習するんだよ。一度で変われなくてもいい。失敗して、また話して、それでも難しかったら別の方法を探す」
アイリ「三人に迷惑をかけてしまいます」
先生「友達に迷惑をかけないことだけが、友達でいる条件なのかな」
アイリは答えられなかった。
ヨシミも、ナツも、カズサも、迷惑をかけたことがないわけではない。
ヨシミとカズサの言い合いに巻き込まれたこと。
ナツの提案で遠くまで歩くことになったこと。
カズサが一人で何でも片付けようとして、後から大変だったと知ったこと。
それでも、嫌いにはならなかった。
困った。
怒った。
心配した。
けれど、その時間も含めて一緒にいたかった。
先生「アイリは、三人が迷惑をかけたら部活を辞めてほしいと思う?」
アイリ「思いません」
先生「それなら、三人がどう思うかも聞いてみないとね」
波が足元まで届く。
アイリの指先から、少しだけ力が抜けた。
先生「明日の朝、その紙を三人へ渡す?」
アイリ「止めるんじゃないんですか?」
先生「止めてほしいなら止めるよ。預かってほしいなら預かる。でも、アイリが自分で決めて書いたものを、私が勝手に破ることはできない」
アイリ「渡したら、全部終わってしまうかもしれません」
先生「終わるかもしれない。終わらないかもしれない」
アイリ「怖いです」
先生「怖いよね」
アイリ「先生は、一緒にいてくれますか?」
先生「もちろん。ただ、話すのはアイリ自身だよ」
アイリ「……はい」
アイリは脱退届を折り直した。
ポケットへ戻そうとした時、指先が小さな包みに触れる。
夕食後、食べきれずに持ってきたチョコミントのチョコバーだった。
少し溶けている。
アイリ「先生」
先生「どうしたの?」
アイリ「これ、食べますか?」
先生「今?」
アイリ「はい。少し、甘いものが欲しくなりました」
包みを開ける。
二つに割ろうとすると、柔らかくなったチョコレートが歪んだ。
先生「きれいには割れなさそうだね」
アイリ「夏ですから」
先生「ナツなら、溶けることにも意味をつけそうだ」
アイリ「きっと、長いお話になりますね」
小さく笑う。
アイリは形の崩れたチョコバーを先生へ半分渡した。
自分の分を口に含む。
ミントの爽涼感が、泣きすぎて熱を持った喉へ広がった。
甘い。
冷たい。
少し苦い。
胸の痛みは消えなかった。
それでも呼吸は、先ほどより楽になった。
先生「そろそろ戻ろうか」
アイリ「はい」
立ち上がり、砂を払う。
歩き出す前に、アイリはもう一度海を振り返った。
夜の水平線は見えない。
昼間に見た蜃気楼もない。
けれど見えないからといって、海がなくなったわけではない。
アイリは部室の鍵を握りしめた。
そして先生と並び、貸別荘へ戻った。
◆
玄関の明かりが見えたところで、扉が勢いよく開いた。
ヨシミ「アイリ!」
ヨシミが裸足のまま飛び出してくる。
その後ろから、カズサとナツも現れた。
カズサ「どこに行ってたの」
ナツ「夜の海へ一人で赴くのは、ロマン以前に危険だよ」
アイリ「ごめんなさい」
ヨシミ「ごめんなさいじゃないわよ! 起きたらいないし、先生までいなくなってるし!」
先生「先に書き置きを残すべきだったね。ごめん」
ヨシミ「先生もよ! 勝手に一人で探しに行かないで!」
カズサ「二次遭難って知ってる?」
先生「はい。反省してるよ」
ナツ「大人もまた、時に判断を誤る生き物だ」
先生「本当にその通りだね」
ヨシミはまだ怒っていた。
けれど、その目の端は赤い。
カズサは腕を組み、アイリの顔をじっと見ている。
ナツは普段と変わらない表情に見えたが、握った拳だけが固い。
アイリ「みんな……」
ヨシミ「何?」
アイリ「明日の朝、話したいことがあります」
ヨシミが何か言いかける。
しかしカズサが、その肩へ手を置いた。
カズサ「分かった」
ナツ「朝でいいんだね?」
アイリ「はい」
ヨシミ「今じゃなくて?」
アイリ「今は、うまく話せないと思います」
自分の希望を言った。
待ってほしいと、初めて言えた。
ヨシミは納得していない顔をしていた。
それでも最後には、小さく頷いた。
ヨシミ「……分かった。朝まで待つ」
アイリ「ありがとうございます」
カズサ「でも、今日は同じ部屋で寝るから」
アイリ「いつも同じ部屋では?」
カズサ「アイリのベッドを真ん中にするって意味」
ナツ「左右と足元を固めよう」
ヨシミ「私は右」
カズサ「じゃあ左」
ナツ「私は足元だね」
アイリ「あの、少し狭いような……」
ヨシミ「嫌なの?」
アイリは一瞬、いつものように「大丈夫です」と言いそうになった。
けれど考える。
狭い。
きっと眠りにくい。
それでも今夜は、一人になりたくなかった。
アイリ「少し狭いですけど……今日は、そうしたいです」
ヨシミ「最初からそう言いなさいよ」
ヨシミはまだ泣きそうな顔で、少しだけ笑った。
アイリも笑い返した。
ポケットの中には、まだ脱退届がある。
何も解決していない。
朝が来るのが怖い。
それでも今は、自分の足で別荘の中へ戻った。
◆
朝の食卓には、誰も手をつけていないトーストが並んでいた。
海側の窓から差し込む光が、テーブルの中央を白く照らしている。
先生、ヨシミ、ナツ、カズサ。
四人の視線が、アイリへ向いていた。
アイリはポケットの中で、部室の鍵を握っている。
隣には、折り畳まれた脱退届。
夜の間に何度も目が覚めた。
そのたび、左右にいるヨシミとカズサの気配を確かめた。足元ではナツが丸くなり、途中から布団を全部奪っていた。
眠れなかった。
けれど、逃げなかった。
アイリ「昨日は、心配をかけてしまってごめんなさい」
ヨシミ「それは後でいいわ」
ヨシミはテーブルの下で両手を握っていた。
ヨシミ「話したいことって、何?」
アイリは息を吸った。
ポケットから紙を取り出す。
四人の前で開き、テーブルへ置いた。
上部に書かれた『脱退届』の三文字が、朝日を受ける。
ヨシミ「……何、これ」
ヨシミの声が低くなる。
カズサは何も言わなかった。
ナツの視線が、紙からアイリへ移る。
先生だけが、昨夜と同じように待っていた。
アイリ「放課後スイーツ部を、辞めようと思っています」
ヨシミ「ふざけないで」
間を置かず、ヨシミが言った。
椅子が大きな音を立てる。
ヨシミ「何よ、それ。昨日いなくなったのも、そのため?」
アイリ「はい」
ヨシミ「勝手に消えて、勝手に辞めるって決めて、それで終わりにするつもりだったの!?」
アイリ「ヨシミちゃん」
ヨシミ「答えて!」
ヨシミの声が震えている。
怒りだけではない。
恐怖を隠すように、アイリをまっすぐ睨んでいた。
アイリ「……そのつもりでした」
ヨシミ「最低」
カズサ「ヨシミ」
ヨシミ「だって最低でしょ! 私たちに何も言わないで、いなくなろうとしたのよ!」
先生「ヨシミ。怒るのは分かるけど、最後まで聞こう」
ヨシミ「先生は知ってたの?」
先生「昨夜、アイリから聞いたよ」
ヨシミ「どうして止めなかったのよ!」
先生「私が紙を破っても、アイリがそう考えた理由は残るから」
ヨシミ「でも……!」
アイリ「先生を責めないでください。私が、自分で決めました」
ヨシミは唇を噛んだ。
椅子へ座り直す。
けれど腕を組み、横を向いた。
カズサ「理由を聞いてもいい?」
アイリ「私がいると、みんなが自由にできないと思ったからです」
カズサ「どうして?」
アイリ「昨日、みんなが玄関で話しているのを聞きました」
ヨシミの顔色が変わる。
カズサもわずかに目を見開いた。
アイリ「私が何でも合わせようとするから、どこまで好きにしていいのか分からなくなる。私が笑っていると、本当は嫌なのに合わせているのかもしれないって、心配になる。私の優しさが、透明な壁になっている……」
ナツ「聞いていたんだね」
アイリ「はい。ごめんなさい」
カズサ「それで、辞めようと思った?」
アイリ「それだけではありません。前から、少しずつ思っていました」
アイリは膝の上で手を握った。
アイリ「ヨシミちゃんは、自分の好きなものを好きだと言えます。ナツちゃんは、自分の考えを持っていて、みんなを新しいところへ連れていけます。カズサちゃんは、何でもできて、誰かが困っていたらすぐに気づきます」
カズサ「何でもはできないけど」
アイリ「でも、私よりずっとたくさんのことができます」
カズサは反論しようとした。
しかし一度口を閉じ、続きを待った。
アイリ「この合宿でも、私は予定を作っただけでした。かき氷機が使えなくなっても、みんなだけで解決できました。明日の試食会も、ヨシミちゃんが考えてくれました。買い出しも、準備も、私がいなくても進みます」
ヨシミ「そんなの……」
アイリ「私は、みんなのために何かをしているつもりでした。でも本当は、自分がみんなと一緒にいたいだけだったんです。自分が寂しくないように、予定を作って、みんなを集めて……」
声が震え始める。
けれど止めなかった。
アイリ「それでみんなが不自由になるなら、私はいないほうがいいと思いました」
ヨシミ「違う!」
ヨシミが立ち上がる。
今度は怒鳴るというより、悲鳴に近かった。
ヨシミ「違うわよ! なんでそうなるのよ!」
アイリ「ヨシミちゃんたちが、困っていると……」
ヨシミ「困ってるわよ!」
アイリの肩が揺れる。
ヨシミ「アイリが何でもいいって言うの、本当に困る! 食べたいものを聞いても、私たちに合わせる。行きたい場所を聞いても、みんなが行きたいところでいいって言う!」
アイリ「やっぱり……」
ヨシミ「最後まで聞きなさいよ!」
ヨシミは目元を乱暴に拭った。
ヨシミ「困るからって、いなくなってほしいなんて言ってない! 私は、アイリが何を食べたいか知りたいの! どこへ行きたいのか聞きたいの! 嫌なら嫌って言ってほしいの!」
アイリ「でも、それは……」
ヨシミ「それが面倒なら、昨日アイリのためにチョコミントなんて買ってないわよ!」
テーブルの端に置かれていた空箱を、ヨシミが指差す。
ヨシミ「私たちが何を選ぶか、アイリが勝手に決めないで!」
昨夜、先生にも言われた言葉だった。
止めることも、傷つくことも、話し合うことも、三人の自由。
アイリは何も返せなくなる。
カズサ「私は、ちょっと違う」
カズサが静かに言った。
ヨシミが振り返る。
カズサ「アイリに、嫌なら嫌って言ってほしいのは同じ。でも、全部話してほしいわけじゃない」
ヨシミ「どういうこと?」
カズサ「言いたくないことは、言わなくていい。考える時間が必要なら、待ってって言えばいい。昨日の夜みたいに」
カズサはアイリを見る。
カズサ「私たちだって、全部正直に話してるわけじゃないから」
ナツ「カズサには、人に言えない秘密が多いからね」
カズサ「今それを言う必要ある?」
ナツ「場を和ませようと」
カズサ「和んでない」
わずかな沈黙の後、ヨシミが鼻をすすった。
ほんの少しだけ、張り詰めていた空気が緩む。
カズサ「私は、アイリが何でも合わせようとするのを見て、時々息苦しいと思ってた」
カズサは言葉を選ばなかった。
アイリの胸が痛む。
それでも視線を逸らさずに聞く。
カズサ「本当は嫌なんじゃないかって、いちいち考えるから。私たちが勝手に楽しんだら、アイリだけ我慢するんじゃないかって」
アイリ「……はい」
カズサ「でも、それはアイリに消えてほしいって意味じゃない。ちゃんと面倒をかけてほしいって意味」
アイリ「面倒を……?」
カズサ「何か食べたいなら言う。疲れたら休む。ヨシミがうるさかったら、静かにしてって言う」
ヨシミ「どうして私だけ具体的なのよ」
カズサ「実際うるさいから」
ヨシミ「カズサ!」
カズサ「そういうこと。意見が違ったら、言い合えばいい。私とヨシミだって、いつもそうしてるでしょ」
ヨシミ「いつもじゃないわよ」
カズサ「昨日もしたけど」
ヨシミ「昨日は昨日!」
カズサ「今もしてるし」
ヨシミ「もうっ!」
いつもの言い合い。
けれど今日は、それが少し違って聞こえた。
自由とは、何もぶつからないことではないのかもしれない。
違う意見を持ったまま、それでも同じテーブルへ戻ってこられること。
自分が避け続けてきたものだった。
ナツ「では、私からも話そう」
ナツが両手をテーブルへ置いた。
ナツ「アイリ。君は、自分が予定を作っただけだと言ったね」
アイリ「はい」
ナツ「昨日、かき氷機が壊れた」
ヨシミ「最初から壊れてたのよ」
ナツ「細部は置いておこう」
カズサ「重要なところだと思うけど」
ナツ「予定通りにいかなかった我々は、予定外のスイーツを作った。そして、楽しかった」
アイリ「だから、私がいなくても……」
ナツ「だが、その氷を予約したのはアイリだ」
アイリは言葉を止めた。
ナツ「材料を揃え、場所を探し、我々が試行錯誤できる余白を作ったのもアイリだ。舞台がなければ、予定外は生まれない」
アイリ「でも、それは誰にでも……」
ナツ「誰にでもできることと、アイリがしたことは両立するよ」
アイリ「え?」
ナツ「歩くことは誰にでもできる。だからといって、目的地まで歩いた人の価値がなくなるわけではない」
ナツは珍しく、比喩を重ねなかった。
ナツ「放課後スイーツ部を作ろうと言ったのも、アイリだった」
アイリ「それは、私がみんなと一緒にいたかったからです」
ナツ「その願いの何がいけない?」
アイリ「私のために、みんなを集めたことになります」
ナツ「私も、みんなとロマンを共有したいから提案をする。ヨシミは限定スイーツを食べたいから我々を連れ回す。カズサは――」
カズサ「私は連れ回してないけど」
ナツ「我々に付き合いたいから、毎回ついてくる」
カズサ「……まあ、それは」
ナツ「自分の願いから始まったからといって、その時間が偽物になるわけではないよ」
アイリの視界がにじむ。
昨夜の蜃気楼を思い出した。
そこにあるように見えて、本当はないもの。
自分たちの居場所もそうなのだと思った。
けれど今、ナツは違うと言っている。
願いから始まった。
自分が欲しかったから作った。
それでも、四人で過ごした時間は存在している。
偽物ではない。
ヨシミ「そもそも、アイリがいなくなったら、放課後スイーツ部じゃないでしょ」
アイリ「そんなことは……」
ヨシミ「あるわよ。部長がいないから、全員同じ立場って言ったの、アイリじゃない」
カズサ「一人が抜けても同じ、とは言ってないね」
アイリ「でも、三人でも活動はできます」
カズサ「できるかできないかで言えば、できると思う」
カズサは率直に答えた。
ヨシミが抗議するように見る。
カズサ「嘘を言っても仕方ないでしょ」
そして再び、アイリへ向き直る。
カズサ「でも、したくない」
アイリ「……え?」
カズサ「三人で活動できる。でも、私は四人がいい」
ヨシミ「私もよ」
ナツ「同じく」
短い言葉だった。
胸の奥へ、真っすぐ落ちてくる。
アイリは耐えきれず、俯いた。
アイリ「どうして……」
ヨシミ「どうしてって、友達だからに決まってるでしょ!」
アイリ「私が、何も言えなくても?」
ヨシミ「それには腹が立つけど」
カズサ「練習すればいい」
アイリ「また、みんなを困らせても?」
ナツ「困ることも、青春の味わいの一つだ」
ヨシミ「ナツの困らせ方と一緒にするのは嫌だけど……まあ、そうね」
アイリ「すぐには、変われないかもしれません」
カズサ「すぐに変わったら、そのほうが心配」
ヨシミ「でも、いなくなるのは駄目」
アイリ「駄目、ですか?」
ヨシミ「少なくとも、私たちのためなんて理由で勝手に決めるのは駄目。辞めたいなら、アイリが本当に辞めたい時にしなさい」
ヨシミの視線が脱退届へ落ちる。
ヨシミ「それで、アイリはどうしたいの?」
同じ問いを、昨日も聞かれた。
あの時は、チョコミントアイスを食べたいと答えた。
それは本当だった。
けれど、もっと大きな願いを隠していた。
アイリは顔を上げる。
涙で滲んだ三人の姿は、蜃気楼のように揺れていた。
それでも、そこにいる。
アイリ「私は……」
怖い。
自分の願いを口にして、拒まれるのが怖い。
けれど三人は待っている。
先生も答えを言わず、アイリが選ぶのを待っている。
アイリ「まだ、みんなと一緒にいたいです」
声が震えた。
それでも、はっきりと言えた。
アイリ「放課後スイーツ部に、残りたいです」
ヨシミが大きく息を吐いた。
ヨシミ「本当に、遅いのよ……」
次の瞬間、ヨシミがテーブルを回り込み、アイリへ抱きついた。
小さな身体からは想像できないほどの勢いだった。
アイリ「ヨ、ヨシミちゃん?」
ヨシミ「昨日から、どれだけ心配したと思ってるの!」
アイリ「ごめんなさい」
ヨシミ「今は謝っていい!」
背中へ回された腕が震えている。
アイリも、そっとヨシミの背中へ手を置いた。
カズサは安堵したように目を閉じる。
ナツは満足そうに頷いた。
先生は少し離れた席で、その様子を見守っていた。
先生「アイリ。その紙はどうする?」
テーブルの上には、脱退届が残っている。
ヨシミが身体を離す。
ヨシミ「破りなさいよ」
アイリは紙を手に取った。
両端を持つ。
少し力を込めれば、破ることができる。
けれど指は動かなかった。
カズサ「破りたくない?」
アイリ「忘れたくないんです」
ヨシミ「え?」
アイリ「私が、みんなの気持ちを聞かないまま決めてしまったことも。自分がいなくなればいいと思ったことも。今日、みんなが話してくれたことも」
アイリは脱退届を折り直した。
アイリ「これは、部室にしまっておきます」
ヨシミ「縁起が悪くない?」
ナツ「過去の決断を保存することには意味がある。砂糖菓子も、乾燥させれば長く形を残すからね」
カズサ「脱退届を砂糖菓子と同じにしないで」
先生「アイリが持っておきたいなら、それでいいと思うよ」
アイリは頷く。
続いて、ポケットから部室の鍵を取り出した。
アイリ「それから、これも」
鍵をテーブルの中央へ置く。
ヨシミの表情が再び強張る。
ヨシミ「返すの?」
アイリ「いえ。合鍵を作りたいです」
カズサ「合鍵?」
アイリ「今まで、私が部室を開けなければいけないと思っていました。でも、誰が先に行ってもいいと思うんです。ヨシミちゃんが開けても、ナツちゃんが開けても、カズサちゃんが開けても」
ナツ「先生にも?」
先生「私は生徒の部室へ勝手に入る趣味はないよ」
カズサ「たぶん」
先生「たぶん?」
ヨシミ「先生の分はいらないわね」
先生「信用を取り戻すところから始めようかな」
少しだけ笑いが起こる。
アイリ「それに……私が疲れている日は、先に休んでもいいようにしたいです」
カズサ「うん」
アイリ「行きたいお店が違う日は、別々に行ってもいいように」
ヨシミ「後でちゃんと感想を聞かせるならね」
アイリ「食べたいスイーツが最後の一つしかない時は……」
アイリは少し迷った。
それでも続ける。
アイリ「私が食べたいなら、私が食べたいって言います」
ヨシミ「そうしなさい」
ナツ「もちろん、時には分けてくれてもいい」
カズサ「ナツは遠慮を覚えたほうがいいね」
アイリ「それから、かき氷機は、今度から持ってくる前に相談してください」
ナツが目を見開いた。
ヨシミが吹き出す。
カズサも口元を押さえた。
ナツ「アイリ。それはつまり、今回のかき氷機には不満があったということかな?」
アイリ「はい。大きくて、重くて、部品も足りませんでした」
ナツ「そうか」
アイリ「捨ててほしいとは思いません。でも、次はちゃんと動くか確認したいです」
ナツ「承知した。次なるロマンは、事前の動作確認から始めよう」
ヨシミ「ナツが素直に聞いた……」
カズサ「明日は雨かも」
ナツ「私を何だと思っているんだい?」
ヨシミ「トラブルメーカー」
カズサ「同じく」
先生「私も、その認識かな」
ナツ「三対一は公平ではない。アイリは?」
全員の視線が集まる。
以前なら、アイリは曖昧に笑っただろう。
けれど今は、少しだけ考えてから答えた。
アイリ「私も、ナツちゃんはトラブルメーカーだと思います」
ナツ「四対一になってしまった」
ナツは胸へ手を当て、大げさに天井を仰いだ。
ヨシミが笑う。
カズサも笑う。
先生もつられて笑っていた。
アイリの胸には、まだ痛みが残っている。
昨夜泣いた跡も消えていない。
これからも、うまく言えないことはあるだろう。
また相手の気持ちを先回りして、自分だけで答えを決めてしまうかもしれない。
それでも今、自分の言葉で一つの意見を伝えられた。
小さくても、確かな一歩だった。
◆
午後の試食会は、予定よりずっと賑やかなものになった。
管理人や近所の店員だけでなく、海水浴帰りの生徒たちまで集まり、庭に並べたグラニテは次々となくなっていった。
ヨシミ「塩キャラメル、残り三つ!」
カズサ「レモンは?」
ナツ「今、最後の一つが旅立った」
ヨシミ「詩的に報告しないで! 売り切れって札を出して!」
アイリ「チョコミント、追加できました!」
アイリが冷やした容器を運ぶ。
ヨシミが手早く盛りつけ、カズサがミントの葉を飾る。
ナツは客へ味の説明をしていたが、話が長くなりすぎるたびにヨシミから止められていた。
先生は氷を砕く係を任されている。
先生「アイリ、これくらいで大丈夫?」
アイリ「もう少し細かくお願いします」
先生「了解」
ヨシミ「先生、食べないでよ!」
先生「味見だよ」
カズサ「さっきから味見が多くない?」
先生「品質管理も大人の仕事だからね」
ヨシミ「次に食べたら、先生の分はなし!」
先生「それは困るな。真面目に働くよ」
庭に笑い声が広がる。
海からの風が、ミントの香りを運んでいく。
最後の客を見送った頃には、五人ともすっかり疲れていた。
ナツ「完売だね」
ヨシミ「当たり前でしょ。私たちが作ったんだから」
カズサ「最初は壊れたかき氷機から始まったけど」
ナツ「壊れてはいない。部品がなかっただけだ」
ヨシミ「同じよ!」
アイリ「でも、楽しかったですね」
三人がアイリを見る。
その視線に身構えそうになる。
けれど今度は、逃げずに続けた。
アイリ「予定と違って、途中で大変でした。でも……私は、今日の試食会をしてよかったと思います」
ヨシミ「私も」
カズサ「うん」
ナツ「予定外の先にこそ、ロマンはある」
先生「その言葉は、忘れ物を正当化するために使わないでね」
ナツ「もちろん善処しよう」
カズサ「しない言い方だ」
片付けを終えた後、五人は残ったチョコミントのグラニテを持って海岸へ向かった。
夕暮れの砂浜には、長い影が伸びている。
水平線の上では、熱気に揺らいだ景色が淡く浮かんでいた。
ヨシミ「蜃気楼?」
先生「そうみたいだね」
ナツ「手の届かない場所に、もう一つの景色が見える。まさに夏のロマンだ」
カズサ「今度は本当にそれっぽい」
アイリ「きれいです」
アイリはグラニテを一口食べた。
氷が舌の上で溶ける。
ミントの爽涼感と、細かなチョコレートの甘さが残った。
昨夜、同じ味が胸を刺した。
今も、あの痛みを忘れたわけではない。
けれど味は、一つではなかった。
同じチョコミントでも、泣きながら食べる時と、みんなで食べる時では違う。
ヨシミ「ねえ、アイリ」
アイリ「はい」
ヨシミ「次の活動、どこへ行きたい?」
また、その問いだった。
アイリは海を見た。
ヨシミを見た。
ナツとカズサ、先生を見る。
答えを譲りそうになる。
みんなの行きたいところでいいと、いつもの言葉が喉まで上がる。
アイリは一度息を吸い、それを飲み込んだ。
アイリ「新しくできた、チョコミント専門店へ行きたいです」
ヨシミ「またチョコミント?」
アイリ「はい。私は、チョコミントが食べたいです」
はっきりと言う。
ヨシミは一瞬だけ驚き、すぐに笑った。
ヨシミ「いいわ。じゃあ次はそこね」
ナツ「異議なし」
カズサ「私も」
先生「私も参加していいのかな?」
ヨシミ「先生が一人で全部食べないなら」
先生「努力するよ」
アイリ「だめです」
先生「え?」
アイリ「努力する、ではなくて、食べないでください。みんなの分ですから」
沈黙の後、ヨシミが声を上げて笑った。
カズサは肩を震わせ、ナツは感慨深そうに頷く。
先生「分かった。ちゃんと一人分にするよ」
アイリ「はい」
夕日の中で、アイリも笑った。
水平線の上に浮かんでいた蜃気楼は、少しずつ形を失っていく。
けれど隣にいる四人は消えない。
手の中には部室の鍵がある。
合宿から戻ったら、四つの合鍵を作る。
誰かが最初に扉を開けてもいい。
誰かが遅れてきてもいい。
時には別々の場所へ行ってもいい。
それでもまた、同じ部室へ帰ってくる。
アイリは鍵を握り、今度は自分から一歩を踏み出した。
アイリ「みんな。帰ったら、私が部室を開けますね」
ヨシミ「合鍵を作るんじゃなかったの?」
アイリ「作ります。でも、次は私が開けたいんです」
カズサ「そっか」
ナツ「では、最初のお茶はアイリに任せよう」
アイリ「はい。チョコミントアイスも用意しておきます」
ヨシミ「それ以外も用意してよね」
アイリ「それは、ヨシミちゃんが選んでください」
ヨシミ「任せなさい!」
四人の声が重なり、波音の向こうへ広がっていく。
口の中にはまだ、チョコミントの涼しさが残っていた。
今度のそれは、胸を刺さなかった。
夏の終わりまで消えない、小さな約束のように、いつまでも爽やかだった。