1999 年 10 月、ある日の早朝七時。
杜王町の空は、まだ薄い水色をしていた。
夜の闇が完全に消え去る前の、穏やかな光が町全体を優しく包み込む。潮風が海から吹き込み、路地裏の木々の葉をそよがせ、寝ている家々の戸袋を、かすかにゆらゆらと鳴らしている。
町の中心部、閑静な住宅街の一角に、他の家々よりも一際高く、白く輝く高級マンションがそびえ立っている。
最上階の、最も日当たりの良い角部屋。
シャワーの音が、静かに響いていた。
透明なカーテンの奥から、湯気がゆっくりと立ち昇る。
水が床に落ちる音が、ただ穏やかに繰り返される。
やがて音は止み、タオルで何かを拭く柔らかな音が、短く響く。
スリッパが、冷たい床を踏む。
台所へと、足音は移動する。
冷蔵庫のドアが開く。
新鮮な野菜が取り出され、まな板の上に置かれる。
包丁が、まな板に当たる。
トントントン —— とても丁寧で、一定のリズム。
少しも乱れることのない、その手つきは、まるで全てを計算し尽くしたかのように、正確で美しい。
フライパンがガスコンロに置かれる。
オリーブオイルが注がれ、温められる。
野菜が炒められ、甘い香りが部屋中に広がっていく。
卵が割られ、牛乳が注がれ、塩と胡椒がふられる。
全ての動作が、無駄がなく、穏やかで、そして——何の気負いもないほどに、完璧だ。
やがて、朝食がテーブルに並べられる。
焼きたてのパン、サラダ、スクランブルエッグ、温かいコーヒー。
どれもこれも、絵に描いたように美しく、誰が見ても羨むような、最高の朝食だ。
椅子が引かれる音。
ナイフとフォークが、皿に当たる小さな音。
コーヒーカップが、ソーサーに置かれる音。
全てが、静かに、完璧に進んでいく。
この部屋には、争いも、不安も、悲しみも、何一つ存在しない。
まるで、人間がこの世で望むことのできる、最高の日常が、ここにはあるかのように——。
食器は、一つ残らず丁寧に洗われ、棚に戻される。
リビングの大きな窓のそばにある柔らかなソファのクッションが、少しだけへこむ。
本が開かれる。
ページが、ゆっくりと、一枚ずつめくられていく。
朝の光が、本の紙面を優しく照らしている。
部屋の中には、本の紙の匂いと、残り香となったコーヒーの香りが、穏やかに漂っている。
その頃、町のあちこちでは、新しい一日の喧騒が、静かに始まりつつあった。
コンビニの駐車場。
古い軽自動車と、新しい高級車が、微妙な接触事故を起こした。
高級車の運転手の男は、最初は少し顔をしかめたものの、すぐに穏やかな笑顔になって、老婆に頭を下げた。
「いや、悪かった。俺も、少しスピードを出しすぎていた。お互い様だ。大した傷じゃあない。このくらい、自分で何とかするよ」
老婆は、ほっとした様子で胸に手を当てる。
「ああ、ありがとうございます。本当に、すみませんでした……」
「気にしないでくれ。争ったって、何も良いことないさ」
男はにっこりと笑い、老婆の肩を軽く叩いた。
「お大事に」
そう言うと、男は何事もなかったかのように自分の車に戻り、運転席に座って、その場を去っていった。
老婆は呆然と立ち尽くしたまま、やがて深くため息をついて、周りにいた人々に笑いかけた。
「ああ、杜王町って、本当に住みやすい町だなぁ~。こんな風に、みんな穏やかで、争い事なんて何もないんだから。引っ越してきたのは正解だった………」
周りの人々も、頷き合って笑う。
「本当だよ。最近、特にそう感じるなあ」
「喧嘩なんて、特に最近は全然見てない気がする」
「平和で、本当に良い町だ」
誰も、男の態度の変化に、疑問を抱く者はいない。
ただ、「この町は本当に平和なんだ」と、心からそう思うだけだ。
町のはずれの空き地。
中学生たちが、サッカーボールを蹴って遊んでいた。
一人の少年が、ボールを奪い合う中で、相手の少年を強く押し倒してしまう。
倒された少年は立ち上がり、少しだけ眉をひそめた —— が、すぐに笑顔になって、相手に手を差し伸べた。
「大丈夫、痛くないよ。お前も、怪我なかったか?」
「あ、悪かった。強く押しすぎた」
「いやいや、俺も悪かった。続けようぜ、サッカー」
「ああ!」
二人は、にっこりと笑い合い、互いの肩を叩いた。
そして何事もなかったかのように、再びボールを蹴り始める。
周りの少年たちも、「ああ、良かった」と安心した顔で、すぐに遊びに戻った。
空き地の脇を通りかかった主婦たちは、その様子を見て、穏やかな笑顔になる。
「見てごらん、子供たちが仲良く遊んでるわ。杜王町の子供たちは、本当に素直で良い子ばかりねえ」
「本当だわ。喧嘩なんて、全然見かけないもの」
「平和な町だから、子供たちものびのび育つのよ」
誰も、その仲の良さに、不思議だと思う者はいない。
ただ、「本当に良い町だ」と、心からそう感じるだけだ。
商店街の魚屋の前。
店員と客が、値段のことで少し言葉を交わした。
「いくらなんでも、これは少し高いかしら……」
「いえいえ、これが今日の相場ですから……」
二人は、少しだけ考え込むような顔をした —— が、すぐに互いに笑い合った。
「……いや、悪かった。このくらいの値段、妥当だよな。新鮮そうだし、買うわ。」
「いえいえ、こちらこそ、もう少しだけ安くしましょう。お客さん、どうですか?」
「ああ、それは助かるわ。ありがとう」
「いえいえ、また来てくださいね」
二人は、穏やかに笑い合い、商談が成立する。
周りの人々も、「ああ、杜王町は本当に平和だなあ」と、そう思って、それぞれの道を歩き去った。
マンションの最上階の部屋。
本のページが、また、ゆっくりとめくられる。
朝の光が、少しずつ角度を変え、部屋の中を明るく満たしていく。
外の町では、今日も、一日が穏やかに始まった。
誰もが笑い、誰もが穏やかに暮らし、誰もが、この町の平和を心から愛している。
争いはなく、悲しみは少なく、不安も、どこか遠くに追いやられている。
杜王町は、今、日本で一番平和で住みやすい町だ —— 近隣の町の人々からも、そう噂されるようになっていた。
誰もが、この平穏が、永遠に続くことを願っている。
本のページが、また一枚、めくられる。
静かな朝は、更に深い静けさの中へと、溶け込んでいく。
町は、今日も、平和だ。
何もかもが、完璧に、穏やかに——。
「あぁ、平穏……だ…………。」
吉良吉影 —— その男が引き起こした一連の悪夢が、幕を閉じてから、ちょうど一か月が過ぎた。
杜王町の表面は、すっかり元の姿に戻っていた。
それどころか —— 最近では、以前よりもずっと穏やかで、平和な町になったように、誰もが感じていた。
朝になれば通学路には生徒たちの笑い声が溢れ、八百屋の店先では店主と客が穏やかに値段を話し合い、踏切の前では車が譲り合って列を作っている。潮風は変わらず町を吹き抜け、秋の陽が木々の葉をあたたかく、そして少し物悲しげに染めている。
喧嘩をする人も、怒鳴り合う人も、最近ではめっきり見かけなくなった。
誰もが穏やかに、笑顔で暮らしている。
まるで、あの悪夢が、町から争いそのものを洗い流してくれたかのように——。
だが―広瀬康一の胸には、どこかほんの少しだけ、違和感が残っていた。
それは言葉にできるような代物じゃあない。
道を歩いているときに、ふと背後に感じる視線。
夜、窓の外の闇を見つめるときに、胸の奥にこびりつく小さなざらつき。
「もう大丈夫だ。吉良もいなくなったんだ。この町は本当に平和になったんだ」と自分に言い聞かせても、どこかで「まだ終わっていない」という予感が、静かに疼き続けていた。
「何もないんだ。全部、終わったんだ……」
康一は、教室の自分の席に座ったまま、静かに窓の外の空を眺めていた。
放課後の教室は、日差しが木製の机の上に優しく射して、埃がキラキラと舞っている。まだ誰も帰り支度を始めていない時間。残っているのは、彼とあとわずかなクラスメイトだけだ。
康一は指で机の縁を、ゆっくりとなぞった。
一か月前の、あの戦いの記憶が、まだ鮮明に彼の中にある。
恐怖も、怒りも、そして仲間たちと共に立ち向かったあの覚悟も —— 時間が経った今でも薄れることなく、心の奥に重たく、だが確かに沈んでいる。
『平和な日常を守る——それが、彼らが戦った理由だった。
そして今、その日常は戻ってきた。いや、それ以上の平穏が、この町にはある。
なのに、なぜだろうあ。康一の胸のどこかが、まだ緊張したままなのは。
「康一ー!まだ座ってんのかー?帰るぞー!」
声が教室の入口から、がさつに響いた。
康一ははっと顔を上げる。
東方仗助が、肩にカバンを引っ掛け、にっこりともしない笑顔でこちらを見ている。その隣には、虹村億泰がいかにも待ちくたびれたというような顔で立って、口をへの字に曲げていた。
「ああ、もう帰る時間だったのか。」
康一は慌てて立ち上がり、自分のカバンを手に取る。
「考え事をしてたんだ……ごめんね。」
「いやいや、別に急いでるわけじゃねえから大丈夫だぜ」
仗助は歩いてきて、康一の肩を軽く叩いた。その手のぬくもりは、相変わらずあたたかくて、力強い。
「ただよ、窓の外をぼんやり見てる康一が、なんだかいっつもより更に小さく見えたもんだからな。また何か、モヤモヤしてるのか?」
「小さいは最初からだろ!」
康一は思わず頬を膨らませる。
「う~ん…そういうワケじゃあないんだ。ただ……」
言いかけて、康一は口を閉じた。
『ただ、この平和が、何だか怖いんだ——そう続けようとして、やめた。
言ってしまえば、それはただの不安だと思われるだけだろう。吉良の事件が終わって、町がこんなに穏やかになったのに、何を不満に思ってるんだ、と笑われるだけだろう。
だが仗助は、康一の言葉を先回りするように、少しだけ目を細めて窓の外を見た。
潮風がカーテンをゆらゆらとなびかせる。
「ああ、分かってるぜ」
「え?」
低い声で、仗助は言った。
「最近、本当に町が穏やかになったよな。喧嘩も見かけないし、みんな笑ってるし。まるで、吉良がいなくなったから、全てが良くなったみたいだ」
「え……え?」
「考えてることぐらいオミトオシだっつーの、康一。」
彼は少しだけ唇を尖らせ、続ける。
「だけどよ……俺もだ。なんか、まだ胸の奥がざらついてるんだ。全部終わったはずなのにな。矢も片付いたはずなのに —— どうしてだか、この町の空気が、少しだけ、何かに包まれてるような気がするんだ」
「……俺もだよ」
億泰が、ぽつりと口を開いた。
「昨日、町を歩いてたらよぉ、自転車同士がぶつかったんだ。普通ならどっちかが怒鳴るとこだけどよ…… 二人ともにっこり笑って、『いや、俺が悪かった』『いや俺が』って、仲良く別れてったんだ。その時は、ああ、平和だなあって思ったんだけどよ……何だか、すごく違和感があったんだよな~。」
康一は二人の顔を順に見た。
自分だけではなかった。
その事実が、少しだけ——だが確かに、康一の心を軽くした。同時に、新たな不安が、静かに胸をよぎった。
「帰ろう」
康一はカバンを肩にかけ、教室の出口へと足を向けた。
「きっと、気のせいだ。事件の記憶が、まだ鮮明なだけだよ。一か月じゃあ、何もかもが消え去るわけないさ。それに、吉良がいなくなったんだ。町が平和になるのは、当然のことだもん」
「そうだといいんだけどなぁ」
仗助はそう言いながら、扉を開けて康一に先んじた。
「ま!何が起こったって、俺たちがいる。だろ?」
その言葉に、康一は頷いた。
「うん。そうだね」
三人は並んで校舎を出た。
陽は傾き始め、通りをオレンジ色に濃く染めている。路地裏からは子供たちの遊ぶ声が聞こえ、自動車の通る音、自転車のベルの音 —— そうした何でもない音たちが、杜王町という日常を、形作っている。
道はいつもの帰り道。
見慣れた家並み、木々の緑、坂の上に見える信号機。
康一は三人で歩く道のりを、心の中でなぞるように確かめながら歩いていた。
この風景が、好きだ。
この、何も変わらない町の、何も変わらない時間が、彼は大好きだ。
だからこそ-—この日常を、いつまでも守りたいと、康一は心の底から思っていた。
「そういえば康一、今度の日曜日どうする? 弁当でも持って海にでも行こうぜェ~」
億泰が明るい声で言う。
「いいな、それ!俺、カツサンド作ってやるよ。母さんに頼めば、一緒に作ってくれるはずだぜ~」
仗助が笑いながら答える。
「いいなぁ~~!なぁ、康一もカツサンド大好きだろ?」
「うん、大好きだよ!」
「だったら日曜、駅前で九時にな。遅れるなよ」
「おう!よぉし……絶対に一番乗りしてやるからなー!あ、そうだ…猫草も連れてきて、いいかァ?あいつ最近光合成できてなくってよぉ~。」
「猫草?…あぁあいつか。いいけど、俺らに危害加えねぇだろうなぁーー」
「そこんところは任せとけ!いい子ちゃんだからよ~~~」
会話は、本当に何でもない。
くだらなくて、あたたかくて、笑い合えるような時間。
康一は二人の話を聞きながら、ほんのりと笑顔になっていた。
そうだ。これが日常なんだ。
このあたたかい時間こそが、彼らが命懸けで守ったものなんだ。
そのとき——。
坂道の途中、先ほどまで確かにそこにあったはずの交差点が、突然、見慣れぬ風景に変わった。
「……え?」
『ん?』
康一は足を止めた。仗助と億泰が首をかしげる。
見上げる。
いつも角にあるはずのコンビニが、ない。
代わりに、そこには一度も見たことのない、古びた木造の家が建っている。
道も —— 三叉路になっているはずなのに、まっすぐな一本道になっている。
電柱の位置も、並んでいる木の本数も、何もかもが——さっきまでとは、わずかに、だが確実に違っている。
「……なんだ、これは……!?」
仗助の声が、低く、そして鋭くなる。
彼も同じものを見ている。
康一は辺りを見回す。家並みも、空の色も、風の匂いさえも——少しずつ、ずれていく。
「おいおいおい……俺たち、どこを歩いてきたんだ?」
億泰が眉をひそめ、カバンのベルトを強く握りしめる。
「道、間違えたのか?こんな道、知らねぇぞ!生まれてから一度も見たことねえぜ!」
「ま、間違えるはずがない!」
康一は唾を飲み込み、胸の鼓動が速まるのを感じていた。
「さっきまで、いつもの通りだった。同じ道を、歩いていただけなのに……一歩、歩いた瞬間に、こうなったんだ!」
まるで、地図がそっと書き換えられてしまったかのように。
一歩、また一歩と進むたびに、見慣れた景色が少しずつずれていく。
それは錯覚でもなければ、記憶違いでもない。
目の前の世界が、確かに——静かに、ひっそりと、歪んでいる。
「間違いねぇ………「スタンド攻撃」だ…!!……ってことはよぉ~どっかにスタンド使いがいるってことだよなぁ~~~」
仗助はゆっくりと右手を挙げ、その指先に、蒼い炎のようなスタンドの姿をわずかに浮かべる。
体の至る所にハートマークがあしらわれている「クレイジー・ダイヤモンド」の輪郭が、夕暮れの光の中で、静かに、力強く輝いた。
だが——何者の気配もない。
襲ってくる様子も、威嚇する気配も、何もない。
ただ、世界だけが、まるで誰かの手によって少しずつ捏ねくり回されているかのように、形を変え続けている。
「はッ!」
そのとき、康一の視線が、道の脇の塀の陰に、ぱちりととまった。
そこには、一人の少年が立っていた。
少年は、とても静かに立っていた。
まるで、自分自身もこの景色の一部であるかのように、塀の陰に溶け込むようにして、佇んでいる。
年齢は康一たちと同じくらいだろう。
少し髪が長めで、前髪が瞳にかかっている。服装はこの町の高校の制服ではない —— 濃い灰色のシャツに、ゆったりとした黒いズボン。特に目立つ装いではないのに、一度目が留まると、その場から視線を外すことができない不思議な存在感があった。
少年は、道の先——歪んだ景色の方を、じっと見つめていた。
その横顔には、驚きも、恐怖も、戸惑いもない。
ただ、澄んだ薄い色の瞳で、景色の歪みを、まるで定規で測るかのように正確に捉えている。
そして——。
「――――――」
少年は、唇をわずかに動かした。
次の瞬間、彼の影が、ゆらりと浮かび上がったのだ。
影は人の形をとり、少年の横に並ぶ。
輪郭は曖昧で、まるで白と黒の絵の具を穏やかに混ぜ合わせたような —— それでいて、どこか温かみのある姿。
スタンドだ。
康一は息を飲んだ。
仗助も、億泰も、言葉を飲み込んで、その少年——そしてそのスタンドを、見つめている。
少年は、歪んだ景色の一点に、指を伸ばすように命じた。
声は、風に消えそうなほど小さかった。
「——戻せ」
短い言葉。
その瞬間 —— スタンドが手を伸ばし、道の先の空間に、そっと触れた。
途端に、ゆがんでいた景色が、まるで古いビデオテープを巻き戻す映像のように、さっきまでの姿に戻っていく。
消えていたコンビニが、ぽっと現れる。
曲がっていた道が、元の三叉路に戻る。
電柱の位置も、家並みも——すべてが、康一たちが知っていた風景へと、たった数秒で修復された。
何もなかったかのように。
ただ、陽が静かに地面を染め、風が木々をそよがせている。
少年は、スタンドを静かに消した。
それから、ゆっくりと —— 仗助たちの方を、振り返った。
前髪の下から、瞳がこちらを見る。
落ち着いた、琥珀色の薄い瞳だ。
その目には、驚きも、当てるつもりも、何もない。
ただ、「見られていた」という事実を認めた、それだけの静けさがあった。
少年は口を開いた。
声は、年齢よりも少し低く、そしてとても静かだった。
「……見てたのかあ」
問いかけるでもなく、ただ事実を確かめるような口調。
康一はその声に、一瞬、言葉を失う。
少年はそれ以上何も言わず、その場を去ろうと歩き始めた。
だが、その背中に向かって、仗助の声が、鋭く響いた。
「待て!なぁお前……スタンド使い、なのかぁ?」
少年は、立ち止まった。
だが振り返らない。
ただ、肩越しに、わずかに顔を傾ける。
「……違う」
短く、そう答える。
「俺は、ただの高校生だ。何も関係ない」
「関係ない?今、明らかに何かをしていただろうがよー。景色が歪んでいたのを、お前が元に戻したんじゃあねぇのか?」
仗助は一歩、前に出る。
その声には、怒りとも、不安ともつかない、強い熱が込められている。
「お前、何者だ?名前は何て言うんだ?」
少年は、ようやくゆっくりと体を向けた。
その瞳は、依然として凪いだままだ。
けれど康一には分かった —— その瞳の奥には、「これ以上関わりたくない」という、強い拒絶の意志が隠されているのだと。
少年は、仗助の瞳を真っ直ぐに見つめて、言った。
「俺は、何も知らない。ただ…… 通りかかっただけだ」
「嘘だ!」
「嘘じゃあない」
少年は、はっきりと言い切る。
「この町には、俺が探しているものがあるわけじゃあない。ただ……一つ!!俺は「平穏に」、「普通に」暮らしたいだけだ。それ以外のことには、関わりたくないんだ」
そう言うと、少年は再び背を向け、ゆっくりと歩き去っていった。
夕暮れの光が、彼の細い背中を、優しく、そして少し寂しげに照らしている。
「おい、お前―」
仗助は追いかけようと一歩を踏み出したが、その背中からは、これ以上踏み込んではならない——そんな空気が、静かに漂っていた。
康一は、少年の歩いていく姿を見送りながら、その胸に去来するものを感じていた。
彼は、悪い人ではない。
それは、なんとなくだけれど、確かにそう感じた。
だが彼は、何かを隠している。
そして、彼の力——あのスタンドは、いったい……。
「……あいつ」
仗助は、まだ少年の消えた角の方を見つめたまま、低い声で呟いた。
「絶対、何かを知ってるぜ。あの感じ。それに…… あのスタンドの能力……」
「ああ」
康一は頷く。
「景色を、元に戻していた。まるで……時間を、少しだけ巻き戻したように……」
「俺の「クレイジー・ダイヤモンド」とは、違うな」
仗助は、指で自分の唇の端をつまむようにして、考え込む。
「壊れたものを『なおす』んじゃあない。『元あった状態に、ただもどす』…… そういう感じだった。似てるようで、全然違う能力だぜ」
「とにかく…… あいつよお、何者なんだ?」
億泰が眉間に皺を寄せて言う。
「明らかにスタンド使いだ。だけど、悪意があるって感じでもなかったし…… むしろ、すごく怖がってるように見えたぜ」
康一は、空を見上げた。
夕暮れの空は、あいかわらず静かに赤く染まっている。
さっきの歪みは、もう跡形もない。
だが、康一の胸の中には、新たな波紋が、静かに広がっていた。
あの少年 —— きっと、彼もまた、自分たちと同じように、スタンドという厄介な力に、囚われているのだろう。
彼は何を隠し、何を恐れ、そして何のために杜王町に来たのか。
そして、先ほどの景色の歪みは、いったい何が原因だったのか。
あの少年が直したものは、一体何だったのか。
康一は、ゆっくりと拳を握りしめた。
「帰ろう。今日は、もう遅くなる」
そう言うと、康一は歩き始めた。
「けれど…… きっと、また会うことになると思う。この町で、また何かが起こる限り——『スタンド使い』は『スタンド使い』といずれひかれ合うから……」
三人は再び、並んで歩き出した。
見慣れた帰り道。
いつもの風景。
だが今、その道のりは、わずかに —— だが確実に、新たな物語の始まりを告げていた。
少年の名は、朝倉透。
スタンドの名は、『タイム・アフター・タイム』。
杜王町の、小さな異変は、こうして静かに幕を開けたのだった。
残り火は、まだ消えていない ——。
STAND NAME タイム・アフター・タイム
STAND USER 朝倉透
能力 ???
破壊力:B スピード:A 射程距離:C 持続力:A 精密動作性:A 成長性:C