12月24日の決戦まで、残された猶予は1ヶ月を切っていた。張り詰めた空気の漂う一室に、打ち合わせと訓練の合間を縫って術師たちが集まっている。部屋の中央には虎杖悠仁、乙骨憂太、秤金次、星綺羅羅、日下部篤也、そして日車寛見。
「俺は右だぜ!」
虎杖が拳を突き出し、屈託のない声を上げる。踏み込みや間合い、連携時の立ち位置のすり合わせだ。
「僕は左ですね。刀を持つ関係もありますし、基本的に左足を軸にすることが多いです」
「ま、俺はどっちでもイケるが、ツキを呼ぶなら右足から入るのがゲン担ぎだな」
「金ちゃんはノリで動くから、被らないように私が外から合わせる感じ〜」
秤と星が言葉を挟み、日下部は渋い顔で天井を仰いだ。
「おいおい、付け焼き刃で合わせようとしてもボロが出るぞ。各自の癖を頭に叩き込んで、最低限同士討ちを避けるのが関の山だ」
実戦派ならではの指摘に日車も静かに頷く。死滅回游の泥沼を経て、虎杖の真っ直ぐさに救われ、この場に立つことを選んだ日車。かつて自らの罪に溺れかけ、北見遥と共に泥を啜りながら、宿儺を討つ一人としてここにいる。
「……なるほど。立ち位置の優先順位を決めておく必要があるな」
日車が口を開いたその瞬間だった。
バンッ、と前触れもなく引き戸が開く。現代最強の呪術師・五条悟だった。皆の「右」「左」という言葉を拾うと、すべてを察したような顔で親指を自分に向けた。
「ふうん、なるほどね……。チ〇ポジの話か。僕は真ん中だ!だって最強だから!」
部屋の空気が一瞬で凍りついた。虎杖は目を丸くし、乙骨は引き攣った苦笑いで視線を逸らす。日下部はくわえかけた飴を指で挟んだまま固まった。誰もそんな話はしていない。日車は手元の六法の手帳で顔を覆い、深いため息を吐き出した。その時、控えめなノック音と共にドアが開く。書類の束を抱えた補助監督の伊地知潔高だった。
「五条さん、頼まれていた資料をお持ちしました」
「伊地知はさぁ、どっち?〇〇ポジの話。悠仁は右だって」
(〇〇ポジ……?ポジションのことか?虎杖くんが右、つまり前衛なら、左は後衛……?)
元は術師志望、現在は後方支援と結界術をこなす身として、伊地知は極めて真面目に答えた。
「な、なるほど……!私は両方ですね。2つあるので」
静寂。
五条も含め、全員の目が点になり、一斉に伊地知の下半身へ視線が突き刺さる。
((((こいつ……2つあるのか……!?))))
五条の目隠しの奥が見開かれ、乙骨は口元を手で覆った。
「え、ええっと、伊地知さんすごいっすね……?」
「い、いや……そんな大袈裟に褒められるようなことでは。私程度のレベルでは、どちらも中途半端になりがちですから」
恐縮してぺこりと頭を下げる伊地知。『2つあるのが中途半端』。その謙遜が、周囲の思考を更なる地獄へ叩き落とす。サイズか、機能か、二股か、並列か。
「……伊地知、お前……マジで言ってんのか……?」
「え?ええ、まあ……もちろん一級の皆さんや五条さんのように突出したものはありませんが、最低限の仕事は両方でこなせるようにと……」
「突出した……仕事……」
乙骨が耐えきれなくなったように震えながら明後日の方向を向いた。日車は両手で顔を覆っていた。「伊地知は戦闘ポジションの話をしている」と瞬時に見抜いてはいたが、この阿鼻叫喚をわざわざ解説して収める気力は湧かない。
(……くだらない。あまりにもくだらなすぎる。頼むから、北見。今この扉を開けて入ってこないでくれ)
もし彼女が来れば、確実に面白がって全員を奈落へ突き落とす。日車は静かに祈っていた。
だが部屋を満たす重苦しい沈黙の中、秤が息を呑んだ。
――『補助監督の伊地知は、あの五条悟すら凌駕する才能の原石。隠れた特級レベルだ』
かつて囁かれていた出所不明の噂が、秤の脳裏に蘇る。
(まさか……アイツの『規格外』って、そっちの意味だったのか……!?)
秤は星の肩を引き寄せ、小声で囁いた。
「……おい、聞いたことあるか、あの噂」
「え……?物理的にそんなことある?」
「知らねえよ!だが五条の煽りにサラッと『両方ある』って返せる胆力……タダもんじゃねえぞ。隠れた特級って、下半身の呪力出力の話だったのか……?」
実際のところ伊地知が「特級レベル」と評される所以は、五条悟というあまりにも理不尽な最強の男に長年振り回され、鍛え上げられた結果培われた卓越した事務処理能力・スケジュール調整能力・現場統率力の賜物である。伊地知が過労で一日休むだけで、全国の補助監督業務が麻痺し、高専の機能が全滅の危機に瀕するほどの屋台骨――それが彼の真の実力だった。
決してあっちの機能や数の話ではない。
しかし高専の内部事情に疎い日車は、秤たちの本気の怯えを鋭く察知してしまった。
(……待て。俺の推論が、間違っているのか……?)
呪術界は現代科学の常識を踏みにじる異常な世界だ。肉体を自在に変える呪霊や千年前の怪物が受肉する理不尽が罷り通っている。もし――「複数の出力器官を備えた隠れた異能者」が存在するとしたら?
伊地知の「どちらも中途半端」「突出したものがない」という言葉が、日車の脳裏で不気味に結びつく。
現代最強の五条とて例外ではない。六眼が処理する情報リソースが、かつてない無駄な方向へ浪費される。そして、あの五条が直立不動で、両手で資料を受け取った。
「え、えっと……伊地知さん、資料ありがとうございます……」
((((五条が……敬語を使った……!?))))
日下部の顎から冷や汗が滴る。
呪力の源は臍の下、丹田にある。――二系統の出力ポートによる、完全な呪力分散と安定制御。
(帳のあの異常な精度……そういうことだったのか……!?『どちらも中途半端』だと……!?あれでまだ本気じゃねえってのか、伊地知潔高……!!)
「ひっ……!?ご、五条さん、どうされたんですか急に敬語など……!?」
その怯えすら、「真の実力を隠して低姿勢を装う黒幕」のムーブにしか見えない。
「い、いや怒ってない!むしろ尊敬してるから!ね、みんな!?」
五条が話を振ると、虎杖が「伊地知さん、マジパネェっす……!」と深く一礼し、乙骨も「いつもお世話になってます……」と引き攣った笑顔で頭を下げた。
日車は眩暈を覚えていた。
(五条が敬語を使い、日下部がここまで深刻に考え込んでいる……やはり、俺の常識的な推論の方が誤りだったのか……?)
その時、紙コップの乗ったトレーを肘で支えながら、北見遥がゆるりと部屋に戻ってきた。
「やあやあ、北見が帰ってきたよ。……何だねこの雰囲気は」
異様な空気を瞬時に察知し、眉を上げる北見。全員が伊地知の下半身を凝視している構図を見逃すはずもなかった。
「君たちなんで伊地知くんの下半身を……はっ」
北見がポンと手を打つ。その顔に浮かんだのは、極上の悪戯心だった。
「先ほど補助監督の新田ちゃんから聞いたんだ。伊地知さんは、すっごくお強くて一晩中やっても大丈夫なんです♡と」
新田が言いたかったのは徹夜の事務作業への驚異的な耐久力のことだ。伊地知も瞬時にそれを察し、いつもの調子で答えた。
「いえ、私ごときでは1週間程度しか持たなくてですね…」
その言葉を聞き、致命傷を負ったのは大人の男たちだ。日下部(36歳)、五条(28歳)、そして日車(36歳)。現実を知る男たちだからこそ、その言葉の恐ろしさを骨の髄まで理解してしまう。
1週間……ぶっ続けで……一晩中……!?
日下部がポケットの中の飴玉を握り潰しながら、掠れた声で問い詰める。
「お、おい……伊地知……お前、さっき2つって言ってたよな…まさか」
「いえ、私ごときでは同時は難しいですよ!?片方だけですね」
ガタガタと日下部の膝が音を立てた。
2つを交互に使って温存。Aを使い果たしたらBへ切り替え、その間にAを回復させる――永久機関。
「化け物か……?こいつ、本当に人間か……?」
日下部が壁に手をついて項垂れ、五条も「伊地知……僕がいない間にどんな術式を開発してたの……?」と引き攣った声を漏らす。虎杖は純粋なリスペクトの目を向け、乙骨は耳まで真っ赤にして床を見つめた。
(死滅回游で見せたあの冷徹な観察眼を……こいつは今、全力で伊地知を社会的に抹殺するために使っている……!)
日車が北見の意図に気が付き戦慄する横で、北見は極上の笑みを浮かべ、伊地知へ視線を向けた。
「じゃ、伊地知くん。今晩私も頼むよ」
パチン、と軽快にウィンクする。新田から「北見先生が戦後処理の法律論をすり合わせたいと言っていた」と聞いていた伊地知は、完全にその件だと理解した。
「ああ、わかりました。新田さんと喜んでお待ちしております」
ガッシャーーーーン!!!!凄まじい破壊音と共にパイプ椅子が宙を舞い、秤がひっくり返った。新田明と北見遥。女二人を同時に招き入れ、「喜んで」と平然と言ってのけた眼鏡の男。
「新田だけでなく、北見まで……?2つを交互に使い分け、女二人を一晩中……!?伊地知、呪術界の倫理委員会が動くぞ……!」
日下部の悲鳴が響く中、誰よりも激しく動揺していたのは日車だった。事務仕事の話だと頭では理解している。北見が完璧な事実のピースだけで全員を奈落へ突き落としたことも察した。だが、死滅回游の過酷な夜を共に越えてきた唯一無二の共犯者が、他の男と「今晩」を共にするという言葉の響きが、日車の理性を激しく揺さぶる。
「……っ、北見」
日車は思わず一歩踏み出し、低く掠れた声を絞り出した。
「君は……何を軽率な約束をしているんだ。今晩の予定なら、俺との術式解釈のすり合わせが先に入っていたはずだろう」
「んふふ、そうだった。ごめんね、日車くん」
北見は日車のネクタイに指を引っかけ、ぐっと引き寄せると、周囲の視線など意にも介さずその唇を重ねた。
――ちゅっ。
静寂の室内に、甘やかな水音が小さく響く。
「……ッ!?」
日車の思考が完全にショートした。首筋まで一瞬で熱が吹き上がり、言葉を失って縫い止められる。
(日車くんも嫉妬してくれたし、ここまでにしようっと!)
満足げに手を離す北見。伊地知が仕事の優先順位トラブルに怯える横で、日下部は呟いた。
「……新宿で宿儺と戦う前に、高専が内輪の痴情のもつれで崩壊するぞ、これ……」
その日を境に、伊地知潔高の日常は崩壊した。
すれ違う女子補助監督は頬を赤らめ、冥冥には「ふふ、噂の二刀流か。将来性を感じるね」と微笑まれ、パンダには「おい伊地知、お前チャックどうしてんだ?」と本気で心配される始末。
胃薬を飲む量が倍増したある日の午後。自販機前のベンチで書類を抱える伊地知の隣に、ドサリと腰を下ろしてきた男がいた。
呪胎九相図の長男・脹相。
「……伊地知、と言ったな」
「は、はい!脹相さん、何かご用でしょうか……!?」
反射的に背筋を伸ばす伊地知に、脹相は大真面目に言い放った。
「悠仁から聞いた。お前、2つあるんだってな。……尿を出すときは両方から出るのか」
静寂。自販機の冷却ファンの音だけが虚しく響く。
「………………は?」
「俺は呪胎九相図の長男だ。弟たちの肉体の変化には気を配ってきたつもりだが、受肉体ではない人間で、そのような異能の器官を持つ個体を見るのは初めてだ。悠仁が『1週間ぶっ続けで戦えるすげえ器官を2つ持ってる』と尊敬していた。……それで、どうなんだ?排泄時の呪力循環はどうなっている。同時に放出すれば水圧は倍になるのか?それとも片方ずつ弁を切り替えているのか?知っておきたい」
「ち、違っ……違います!!ありません!!2つもありません!!私はごく普通の成人男性です!!1つです!!1つしかついてません!!」
書類をバサバサと落としながら、涙目で立ち上がり両手を激しく振る伊地知。その悲痛な叫びが響く廊下の角から、偶然通りかかった日車寛見が死んだような目で姿を現した。
床に散らばった書類。股間を押さえて半狂乱の伊地知。そして「……そうか、隠したいのか。恥じることはないぞ」と大真面目に肩へ手を置こうとする脹相。
その地獄を視界に収めた瞬間、日車は反射的に懐の手帳を開きかけ――
「……被告人、脹相。罪状、セクシャルハラスメントおよびプライバシーの著しい侵害――いや、違うな」
思わず職業病で起訴状を読み上げそうになった口を閉じ、深く、深く天を仰いだ。
(……まだ、尾を引いていたのか、あの件は)
日車はこめかみを強く揉みほぐしながら、決戦前の静寂を返してくれと言わんばかりの重いため息を吐き出した。