――温かい。
それが何であるのかを説明する言葉も、過去を振り返る記憶も、小さな意識の中にはまだ存在していなかった。それでも、自分を包む感触が心地よく、この温もりの中にいる限りは何も恐れる必要がないということだけは、誰かに教えられなくとも分かっていた。
柔らかな白い布にくるまれ、その上から誰かの腕に抱かれている。すぐそばから、とくん、とくんと規則正しい鼓動が伝わってきた。形も色も持たない暗闇の中に置かれた灯火のように、その音は小さな意識へ確かな安心を与えている。
赤ん坊は、ゆっくりと目を開いた。けれど、見えるものは白い光ばかりだった。自分を抱いている者の顔は見えない。霞んだ視界の向こうで、長い髪のような影が静かに揺れ、その輪郭すら白い光の中へ溶け込んでいる。それでも、その者が自分を見つめていることだけは伝わってきた。
優しく
慈しむように
そして、どこか寂しそうに
赤ん坊は小さな手を持ち上げた。目の前の影へ触れようとしたのか、これから離れていこうとする何かを本能のままに引き留めようとしたのか、本人にさえ分からない。力の弱い腕は、半ばまで上がったところで頼りなく落ちた。
すると、細い指先が頬へ触れた。
そのまま柔らかな黒髪を撫で、額をなぞる。触れ方は穏やかだったが、その指先はわずかに震えていた。この温もりが何であるのかは知らない。目の前の者が誰であるのかも分からない。それなのに、その手が離れてしまうことだけは、どうしようもなく悲しいことのように思えた。
やがて指先が離れると、赤ん坊の身体に沿わせるように、一本の細い枝が白い布の内側へ添えられた。
白銀の枝から伸びる小枝には、白、赤、青、緑と、異なる色の玉が実っている。宝石のようにも果実のようにも見えるそれらは互いに呼応し、枝の上へ複雑な光の筋を走らせていた。
赤から青へ。青から緑へ。緑から白へ。同じ光り方を二度とは繰り返さない。
赤ん坊は、その枝が何であるのかを知らない。ただ、最も近くにあった白い玉が一度だけ強く瞬くと、胸の奥へ理由の分からない安堵が広がった。色とりどりの光が、白い世界を染めていく。
その中で、女性の声がした。
「いってらっしゃい、輝夜」
言葉のすべてを理解することはできなかった。
けれど、その最後に呼ばれた音だけは、他のすべてとは違って聞こえた。
――輝夜
それは、自分へ向けられたものだった。
誰かに教えられた記憶などないのに、その響きだけが自然と小さな意識へ馴染んでいく。まだ口にすることのできない、自分の名。その名を受け取った直後、自分を抱いていた腕の力がわずかに強まった。名残を惜しむように。離したくないという想いを、最後まで押し込めるように。
しかし、その温もりはやがて遠ざかった。白い光が強くなる。身体がふわりと浮き上がり、傍らの枝から色とりどりの光があふれ出した。赤ん坊は小さな手を伸ばしたが、何にも届かなかった。最後にもう一度、あの指先が額へ触れたような気がした。
そして、世界は白く染まった。
◇ ◇ ◇
酒寄彩葉は、夜の住宅街を歩いていた。
学校の授業を終え、そのままアルバイトへ向かい、閉店近くまで働いた後の身体は、自分のものではないように重かった。肩から提げた鞄が太腿へ当たるたび、教科書や制服の重さが肩へ食い込む。
何度も通った帰り道だから、疲労で意識が霞んでいても、足だけは自宅へ向かっていた。
明日から三連休だった。
「三連休が……ついに、やってまいりやした……」
彩葉は、わざとふざけた口調で呟いた。課題も勉強も生活のための用事も消えはしない。それでも、朝一番の授業へ間に合わせるため、眠い身体を無理やり起こす必要はない。
「超久しぶりに、一日6時間は寝られる……」
たった6時間。
それを贅沢だと思わなければならない生活が普通ではないことくらい、彩葉にも分かっていた。それでも今の彼女にとっては、何よりも待ち望んだ時間だった。
「よかった……」
呟いた瞬間、視界が滲んだ。
街灯の輪郭がぼやけ、頬を伝った雫が顎の先から落ちる。彩葉は驚いたように目元へ触れ、濡れた指先を見つめた。
「何で泣いてるんだ、私は……」
悲しいわけではない。休めることが嬉しいだけのはずだった。けれど、学校でもアルバイト先でも平気な顔をして、一人で何もかも抱え込んできた心は、ようやく少し眠れるというだけで、張りつめた糸を緩めてしまったらしい。それでも彩葉は足を止めなかった。家へ着くのが遅れれば、眠れる時間が減ってしまう。
「大丈夫。もうすぐ休めるから」
震える声で自分へ言い聞かせる。大丈夫という言葉を重ねるほど、大丈夫ではないことを認めているような気がした。彩葉は鞄からスマコンを取り出し、見慣れた配信画面を開いた。
――月見ヤチヨ
仮想空間ツクヨミの管理人にして、圧倒的な人気を誇るライバー。画面の中では、華やかな衣装をまとったヤチヨが、無数の光に包まれながら「Remember」を歌っていた。
現実を変えてくれるわけではない。学費を払ってくれるわけでも、課題を終わらせてくれるわけでもない。ただ、家へ帰るまでのわずかな時間、自分の生活以外のものへ心を向けさせてくれる。
それだけで十分だった。
「ヤチヨ様は今日も綺麗だなあ……」
涙で掠れた声のまま、彩葉は呟いた。
画面の中でヤチヨが手を伸ばし、光の粒が舞う。その向こう側、夜空に一筋の白い光が走った。
「……ん?」
顔を上げると、一筋の流れ星が空を駆けていった。
街灯や住宅の明かりに満ちた空でも、それだけははっきりと見えた。
流れ星を見たら、消えるまでに願い事を三回唱える。
「願い事……」
睡眠
休み
成績
健康
今より少しだけ余裕のある生活
幾つもの願いが浮かび、ほとんど同時に一つの答えへ集約された。
「か、金……」
あまりにも直接的だった。
しかし、金があればアルバイトの時間を減らせる。その分を勉強と睡眠へ回せる。彩葉が抱えている問題の多くは、まず金があれば改善するものだった。
「金、金――」
三度目を言う前に、流れ星は消えた。
「あっ、待って。あと一回だったのに」
彩葉は暗くなった夜空を見つめた。
「金」
念のため、消えた後に三度目を追加する。願いを審査する側に多少の融通があることを祈るしかなかった。あまりにも現実的な願いのおかげか、涙はいつの間にか止まっていた。
大通りから細い住宅街へ入り、いつもの角を曲がると、自分が暮らす集合住宅が見えてきた。一階の端にある小さなワンルーム。広くも新しくもないが、自分で働いて維持している居場所だった。
「着いた……」
ようやく眠れる。
鍵を取り出しながら自宅前まで歩き、彩葉は足を止めた。
家の前に立つ電柱が光っていた。
「…………」
赤、青、緑、白。
幾つもの色が、灰色のコンクリートの内側を走り、互いに重なりながら夜道へ滲み出している。
端的に言えば、七色に光るゲーミング電柱だった。
彩葉は目を擦った。
もう一度見る。
まだ光っている。
スマコンを外そうと手を伸ばし、最初から付けていなかったことに気づいた。
幻覚ではないと分かったところで、安心できる要素はなかった。
「流れ星の願い……?」
彩葉は首を横に振った。
「いや、私が願ったのは金だから。電柱じゃないから」
願いを叶えた結果としてこれを届けたのなら、流れ星側の解釈はあまりにも雑だった。
「とりあえず、部屋に入ろう……」
異常な電柱を調査する体力など残っていない。明日の朝まで光っていたら、誰かに連絡すればいい。そう決めて玄関へ向かおうとした時、電柱から漏れる光が、ひときわ強くなった。
「えっ」
音はしなかった。
赤と青と緑の光が白へ近づき、灰色のコンクリートが内側から透けていく。電柱の下部に縦長の白線が生まれ、硬い表面が水面のように揺らぎながら、ゆっくりと左右へ開いた。
「……何これ」
電柱の内部には、配線も鉄筋もなかった。
真っ白な光に満たされた空間が広がっている。本来なら存在しないはずの奥行きがあり、その先はどこまでも続いているように見えた。そして、白い光の中に小さな影があった。白い布に包まれた、丸みを帯びたもの。布の隙間から、小さな指が覗き、ゆっくりと動いた。
「手……?」
彩葉は一歩近づいた。
中にいたのは、赤ん坊だった。
「……赤ちゃん?」
白い布にくるまれ、電柱の内部へ浮かんでいる。柔らかな黒髪が額へかかり、小さな胸は呼吸に合わせて上下していた。
人形ではない
生きている
電柱の中に、赤ん坊がいる
「いやいやいや……電柱って、赤ちゃんが入る場所じゃないよね」
白い布の内側には、赤ん坊へ寄り添うように一本の枝が収められていた。
白銀色の枝から伸びた小枝には、白、赤、青、緑の玉が実っている。その玉から放たれた光が白い空間を満たし、電柱の外へ漏れ出していたのだ。
「光ってたの、電柱じゃなくて枝……?」
一つの疑問が解けた代わりに、なぜ枝が光るのかという、さらに大きな疑問が生まれた。
「ゲーミング枝……」
疲れ切った頭には、それ以上に適切な名前が浮かばなかった。
「誰かいませんか? この子の家族とか、保護者とか……」
白い空間から返事はない。赤ん坊と枝だけが、光の中へ取り残されていた。
こういう時は警察だろうか。救急車かもしれない。電柱から出てきた以上、電力会社にも多少の関係がある気はしたが、電話口で説明すれば確実に困らせる。
彩葉がスマホへ目を落とした時、白い空間の縁が揺れた。
「え?」
電柱の開口部が、ゆっくりと狭くなっている。
「ちょっと待って」
このまま閉じれば、赤ん坊がどうなるのか分からない。電柱の中へ閉じ込められるのか、白い空間の向こうへ戻るのか。そこが安全な場所なのかさえ分からなかった。
赤ん坊が小さく身じろぎした。布の隙間から出ていた手が、何かを探すように動く。小さな指が何もない空間を掴もうとし、力なく落ちた。
彩葉の胸が締めつけられた。
つい先ほどまで、自分も誰かに助けてほしいと思っていた。
誰かへ手を伸ばすことはできなかった。それでも本当は、大丈夫ではない自分に気づいてほしかった。
目の前の赤ん坊が助けを求めているのかは分からない。ただ、伸ばされた手を見てしまった。見なかったことにして、自分だけ部屋へ帰ることはできなかった。
「もう……私だって今すぐ寝たいのに」
赤ん坊か。電柱か。流れ星か。金を願った自分へ、まったく別のものを届けた何者か。誰への文句なのか、自分でも分からない。
「金って言ったよね、私。三回目が遅かったから、違うものになったのかな……」
もしそうなら、願い事の受付は厳格なくせに、代替品の選定は雑すぎた。
彩葉は鞄を足元へ置いた。
「ちょっとだけ待ってね」
白い空間へ手を伸ばす。
指先が電柱の表面を越えても、硬い壁へ触れる感触はなかった。見た目では奥にいるように思えた赤ん坊も、手を伸ばすと不思議なほど近くにいる。
白い布へ触れる。
柔らかい。
その内側から、確かな温もりが伝わってきた。
彩葉はもう一方の手も差し入れた。赤ん坊を抱いた経験はない。首を支えなければならないという知識だけを頼りに、一方の腕を頭と首の下へ差し込み、もう一方の手で白い布ごと身体を包む。
「これで、いいのかな……」
赤ん坊は泣かず、彩葉の不慣れな手つきを拒まなかった。
想像していたよりも軽い。
けれど、腕へ伝わる体温も、小さな呼吸も、指先へ触れる柔らかな黒髪も、確かにそこにあった。
「今、出してあげるからね」
慎重に腕を引く。
白い空間の奥から、自分の胸元へ。
電柱の内部から、夜の住宅街へ。
赤ん坊と共に、白い布の内側へ添えられていた玉の枝も動いた。枝は赤ん坊から離れず、その傍らへ寄り添っている。
黒髪が夜風を受けてわずかに揺れた。
閉じられていた瞼が震える。
赤ん坊はゆっくりと目を開き、間近にある彩葉の顔を見つめた。
「あ……」
赤ん坊は泣かなかった。
ただ、初めて見るはずの彩葉を、ずっと探していたものを確かめるように見つめている。
「大丈夫……?」
当然、返事はない。
赤ん坊は小さな手を持ち上げ、彩葉の服の胸元をきゅっと掴んだ。
「えっと……私、お母さんじゃないよ?」
小さく息を吐き、安心したように彩葉の胸元へ頬を寄せる。
彩葉が赤ん坊の身体を完全に電柱の外へ抱き上げた、その瞬間だった。
白い布の内側で輝いていた枝の玉が、一斉に光を失った。
赤も、青も、緑も、白も、すべての色が眠りへ落ちるように静まり返る。
電柱は見慣れた灰色へ戻り、開いていた白い空間も何の音も立てずに閉じていった。
そこにはもう、何の変哲もない電柱しか残されていない。けれど、彩葉の腕の中には、小さな温もりが確かに存在していた。赤ん坊は彩葉の服を掴んだまま、再び静かに目を閉じた。白い布の内側には、光を失った不思議な枝が寄り添うように収まっている。
「…………どうしよう」
流れ星へ願った金は、まだ届いていない。
代わりに、自宅前の電柱から、黒髪の赤ん坊が一人届いた。
こうして酒寄彩葉の三連休は、待ち望んだ6時間の睡眠を前にして、予定とはまったく異なる方向へ動き始めた。