巨大な月を背負っていた赤い鳥居も、星を溶かしたような海も、月見ヤチヨを取り囲んでいた無数の観客たちも、ログアウトを告げる淡い光の向こうへ溶けるように消えていった。
身体を包んでいた浮遊感が途切れ、彩葉の視界へ戻ってきたのは、食器の残るローテーブルと、教科書の積まれた机、街灯に照らされた窓だった。歓声は跡形もなく、冷蔵庫と遠くを走る車の音だけが、現実の夜を伝えている。
彩葉はスマコンを外してケースへ収めたものの、すぐには立ち上がらなかった。胸元まで持ち上げた右手を開き、そこに何かが残っているかのように掌を見つめている。
ヤチヨの手の感触は、ログアウトした時点ですでに消えていた。それでも指先を僅かに曲げれば、握手を忘れて立ち去ろうとした自分を呼び止め、差し出された白い手を鮮明に思い出せた。
伝えたいことはいくつもあった。今日のライブがどれほど素晴らしかったのか。歌を聞くたび、明日も頑張ろうと思えたこと。けれど、実際に口から出たのは、たった一言だけだった。
ありがとうございます。
あれだけで何が伝わったのかは分からない。それでも、握った手を離す直前にヤチヨが見せた表情を思い返すと、言葉にならなかったものまで受け取ってもらえたような気がした。
「彩葉」
名前を呼ばれても、彩葉は掌から目を離さなかった。
少し間を置いて、今度は先ほどよりも近い場所から、同じ声が繰り返される。
「彩葉、いつまで手を見ているの?」
「別にいいでしょう。ちょっと余韻に浸ってるだけだから」
ようやく顔を上げると、すでにスマコンを外していた輝夜が、ローテーブルの向こうからこちらを見つめていた。赤みを帯びた深い褐色の瞳は、彩葉の顔ではなく、胸元へ掲げられた右手へ向けられている。表情そのものは落ち着いているように見えたが、僅かに尖った唇が、隠しきれない不満を物語っていた。
「もう何も残っていないでしょう?」
「分かってるよ」
そう答えながらも、彩葉は名残を惜しむように、もう一度だけ手を握った。その仕草を見た輝夜の眉が、ほんの僅かに動く。
「私とは何度も手を繋いでいるのに、そんな顔をしたことはなかったわ」
「それとこれとは違うの。相手がヤチヨなんだから」
彩葉にとって、ヤチヨは何度も画面越しに見つめてきた憧れの相手だった。その本人が、自分一人のために手を差し出してくれたのだ。普段から隣にいる輝夜と触れ合うこととは、意味が違う。
けれど輝夜にとっては、ライブの最中から彩葉の視線を奪い続けたヤチヨが、今もまた右手を独占しているようにしか見えなかった。
「私と手を繋ぐより、ヤチヨと手を繋ぐ方が嬉しいの?」
「そういう比べ方をするものじゃないでしょ。ヤチヨはずっと応援してきた相手で、輝夜は……」
言葉の続きを探し、彩葉はそこで口を閉じた。
輝夜は何なのか。友達とも家族とも、まだ呼び切れない。それでも、もう単なる他人ではなかった。
「私は?」
「……毎日いる人」
「冷蔵庫も毎日いるわ」
「冷蔵庫は人じゃないでしょう!」
「なら、私は冷蔵庫より上なの?」
「どうして急に家電と競ってるの!」
彩葉が思わず声を上げると、輝夜は僅かに満足したように目を細めた。彩葉の意識が、ようやくヤチヨの握手から自分へ戻った。それだけで、尖っていた唇が少しだけ元へ戻っている。
彩葉はその変化に気づかないまま、逃げるように右手を下ろし、スマコンのケースを閉じた。
「それより、もう遅いんだから、そろそろ片づけるよ」
「その前に、彩葉へ話があるわ」
輝夜は背筋を伸ばし、真剣な眼差しを彩葉へ向けた。
「私はライバーになる」
あまりに唐突な宣言に、彩葉はケースから手を離した。ツクヨミで大勢を前にして口にした言葉が、その場の勢いだけではなかったことを、輝夜の声だけで理解する。
「……本気なの?」
「ええ。私はヤチヨカップに優勝して、ヤチヨと一緒にライブをするわ」
輝夜の声には、後悔も迷いもなかった。自分がライバーではないことが問題なら、これからなればよい。ただそれだけのこととして受け止めている。
「簡単に言うけど、輝夜はまだ登録もしてないし、歌えるかどうかも分からないし、配信だって一度もしたことがない。何をするかも決めてないでしょう?」
彩葉が思いつく問題を並べても、輝夜の表情は曇らなかった。むしろ、自分が分かっていないことを彩葉が理解していると知り、安心したように小さく頷く。
「彩葉が教えて」
「私が?」
「私はライバーになる。彩葉は私を優勝させて」
「無理」
彩葉は、ほとんど考える間もなく答えた。あまりにも早い返事に、輝夜が一度だけ目を瞬かせる。
「まだ何も説明していないわ」
「説明されなくても分かるよ。私には、そんな時間ないから」
彩葉は机の上から端末を取り、色分けされた予定が隙間なく並ぶカレンダーを表示して輝夜の前へ差し出した。
終業式、アルバイト、夏休みの課題、試験へ向けた復習。睡眠まで細かく区切られ、自由に使える空白はほとんどなかった。
輝夜は画面を上から下まで眺め、途中で首を傾げた。
「睡眠まで予定なの?」
「予定にしないと、輝夜が朝でも夜でも話しかけてくるでしょう」
「眠っていたら話しかけないわ」
「昨日、寝てる私の顔を見ながら、いつ起きるのか待ってたよね?」
「あれは話しかけていないわ」
「見つめられてたら落ち着かないの!」
彩葉は画面へ並ぶ予定を指でなぞりながら続けた。
「プロデュースって、登録を手伝えば終わりじゃないでしょう。何を配信するのか考えて、準備して、終わったら反応を見て、次のことも考えないといけない。そんなの、一日や二日で終わるわけないよ」
輝夜は細かく並んだ文字を追い、ほとんど空白がないことを理解したらしく、先ほどまでの勢いを少しだけ弱めた。
「彩葉は詳しいのね」
「ヤチヨを見てれば、それくらいは分かるよ」
答えた直後、彩葉は自分の言葉へ僅かに顔をしかめた。案の定、輝夜の表情が明るくなる。
「なら、やっぱり彩葉がいいわ。私は一人では分からないことが多いもの。それに、彩葉はヤチヨのことをよく知っているでしょう?」
輝夜は端末から顔を上げ、その瞳をまっすぐ彩葉へ向けた。
「全部でなくてもいいわ。どうすればライバーになれるのか、最初だけでも教えて」
ほかの誰かではなく彩葉に教えてほしいという思いを向けられると、断るにも力が必要だった。それでも、引き受ければ予定が崩れることは目に見えている。
「輝夜」
彩葉は端末を下ろし、先ほどよりも強い声で名前を呼んだ。
「私の邪魔をしないって約束したでしょう?」
輝夜の言葉が止まった。
この部屋で暮らすことを認めた時、彩葉は、目立たないこと、黙って外へ出ないこと、邪魔をしないことを条件にしていた。
ツクヨミで大勢の前へ飛び出し、ヤチヨへ優勝を宣言したことで、最初の約束はすでに破られかけている。それでも彩葉は、自分を喜ばせようとしての行動だったと知っていたから、強く責めきれなかった。しかし、学業やアルバイトの予定まで崩されれば、今の生活そのものが成り立たなくなる。
「私は自分のことで精いっぱいなの。輝夜のやりたいことまで全部手伝ってたら、勉強する時間も、寝る時間もなくなる。ここにいたいなら、約束は守って」
それは、輝夜をこの部屋から追い出すための言葉ではなかった。けれど、これ以上頼み続ければ彩葉を困らせるという意味は、輝夜にも伝わった。
先ほどまでまっすぐ向けられていた瞳が、ゆっくりと伏せられる。何かを言おうとした唇は一度だけ動いたものの、そこから反論がこぼれることはなかった。
「……分かったわ。邪魔しない」
返された声は、彩葉が思っていたよりも素直だった。
間違ったことは言っていない。それでも、自分だけを頼ってきた輝夜が引き下がる姿を見ると、何かを乱暴に遠ざけたような感覚が残った。
「ライバーになるのも諦めるの?」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
輝夜は顔を上げ、静かに首を横へ振る。
「一人で始めるわ。分からないことは、自分で調べるわ」
「調べるって言っても、輝夜はパソコンだって使い始めたばかりなのに」
「彩葉の邪魔はしないから」
先ほど自分が口にした言葉を返され、彩葉は何も言えなくなった。
輝夜は部屋の隅に置かれたパソコンへ向かい、迷うことなく電源を入れた。パソコンの使用自体はすでに認められている。ただし、彩葉のファイルを開かず、個人情報を教えず、有料のものを勝手に買わないことは言い含められていた。
輝夜は入力方法を確かめるように指先を動かし、検索欄へ目的の言葉を並べていく。
『ライバー なり方』
検索結果が表示される。輝夜は見出しを上から順番に読み、知らない言葉を見つけるたび、さらに検索を重ねていった。
『配信 必要なもの』
『ライバー 登録方法』
『アバター 自分で作る』
『炎上 火は出るのか』
最後の検索欄が視界へ入り、彩葉は問題集から顔を上げた。
「その炎上は、本当に燃えるって意味じゃないからね」
声をかけてから、自分で口を挟んだことに気づく。
輝夜は振り返り、僅かに嬉しそうな顔をした。
「教えてくれるの?」
「それだけ! 消火器を探し始めたら困るから言っただけ!」
「部屋にはないの?」
「用意しなくていい!」
「炎上した時に困らない?」
「だから火は出ないの!」
彩葉は慌てて問題集へ視線を戻した。手伝わないと決めたのだから、気にする必要はない。
輝夜も約束どおり、それ以上は質問してこなかった。それなのに入力音が止まるたび、彩葉は無意識に顔を上げてしまう。
◇ ◇ ◇
彩葉は終業式を終えた後も、輝夜へライバーの活動について教えることはなかった。
夏休みに入ったからといって、彩葉の予定に余裕が生まれるわけではない。学校が終わればアルバイトへ向かい、帰宅後には課題や復習へ取り組む。
輝夜も、一度断られたことを蒸し返さなかった。
彩葉が外出している間や、机へ向かっている時間を使い、パソコンで配信の始め方を調べていた。分からないものは検索し、説明を読み、彩葉へ質問することなく準備を進める。
机の隅には、いつの間にか紙に描かれた少女の絵が置かれていた。輝夜は時折それを自分の顔と並べ、満足そうに頷いていたが、彩葉は手伝わないと決めた手前、何も言わなかった。
そうして数日が過ぎる間に、輝夜は自分なりの準備を整え、週末には初配信まで終えていた。
予定していた外出から彩葉が部屋へ戻ると、パソコンの前に座っていた輝夜が、扉の開く音へすぐに振り返った。机の上には、長い髪の少女を描いた紙が置かれている。
輪郭は少し歪み、左右の目の大きさも揃っていない。衣装には細かな飾りがいくつも描き込まれていたが、どの線が袖で、どの線が模様なのか、描いた本人以外には判別が難しかった。
「なに、それ」
彩葉が鞄を下ろしながら尋ねると、輝夜は待っていたように紙を持ち上げた。
「私のアバターよ。これから配信で使うの」
輝夜は、自分の作品へ疑いを持っていない者だけが浮かべられる、僅かな誇らしさを顔に滲ませていた。
彩葉は紙へ描かれた少女と、目の前の輝夜を交互に見る。黒く長い髪や、複雑な衣装を描こうとしたことは分かる。しかし、実際の輝夜が持つ整った輪郭も、深い色を湛えた瞳も、紙の上ではほとんど別のものへ変わっていた。
「自分で描いたの?」
「ええ。よく描けているでしょう?」
「質問を返さないでよ」
彩葉は答えを避けたまま、もう一度絵を見た。輝夜は否定されなかったことを肯定と受け取ったらしく、さらに胸を張る。
「それから、もう初配信もしたわ」
彩葉の動きが止まった。
「……もう配信したの?」
「ええ。週末に終えたわ」
調べ始めてから、まだ数日しか経っていない。その間に登録と準備を終え、初配信まで済ませたらしい。輝夜は彩葉の驚きを称賛と受け取り、弾むようにパソコンへ向き直った。
「アーカイブが残っているの。彩葉にも見せるわ」
彩葉の返事を待つより早く、輝夜は終了済みの配信記録を表示し、再生ボタンを押した。
画面が暗転する。
直後、パソコンのスピーカーから、不安定な音の連なりが流れ始めた。
高さの異なる音が噛み合わないまま続き、終わったと思えば、忘れられていたようにもう一音鳴る。聞いている者へ、理由の分からない落ち着かなさだけを残す音だった。
彩葉の眉が、早くも寄った。
隣にいる輝夜は、そのジングルを誇らしそうに聞いている。
「今の、始まりの音?」
「ええ。配信が始まることを知らせているの」
「何かに追いかけられる配信かと思ったよ」
「何にも追いかけられていないわ」
「分かってるけど、音がそう言ってるの!」
「音は話さないでしょう?」
「そういう意味じゃない!」
やがて音が途切れ、パソコンのカメラで撮影された部屋の一角が映し出された。背景にあるのは、見慣れたワンルームの壁だった。
そして画面の中央には、手描きのアバターではなく、現実の姿のまま椅子へ座っている輝夜本人が映っていた。
「ちょっと……」
彩葉が声を漏らす。
しかし、アーカイブの中の輝夜は、そんな未来の反応など知るはずもなく、まっすぐにカメラを見つめていた。
『私は月から来た輝夜』
照明は調整されておらず、顔の片側だけが少し明るい。カメラとの距離も近すぎるため、画面の大半を輝夜の顔が占めていた。それでも輝夜は、緊張して俯くことも、視線を泳がせることもなかった。
『今日からライバーになるわ』
僅かな間を置き、迷いのない声で続ける。
『ヤチヨカップに参加して、優勝する。そして、ヤチヨと一緒にライブをする』
できるかどうかを尋ねるのではなく、これから起こることを知らせるような宣言だった。その確信だけは、配信環境の拙さにも揺らいでいない。
『それから、これが私のアバターよ』
画面の中の輝夜が、カメラの外へ手を伸ばした。次の瞬間、先ほどの紙が画面いっぱいに掲げられる。
不揃いな瞳。少し傾いた輪郭。描き込みの量に技術が追いついていない衣装。輝夜を表したつもりであることだけは伝わる、素朴な手描きの少女だった。
『これからは、この姿で活動するわ。よく描けているでしょう?』
隣にいる現在の輝夜が、満足そうに小さく頷く。
彩葉は画面から目を離し、ゆっくり隣の輝夜へ視線を向けた。輝夜もまた、期待に満ちた瞳で彩葉を見ている。
誰にも頼らず、初配信まで終えた。彩葉なら褒めてくれる。その期待が、表情へ隠しようもなく現れていた。
画面では手描きの絵が下ろされ、再び現実の輝夜が映し出される。
『今日は、ライバーになることと、アバターを紹介したかったの』
そこで輝夜は、次に話す言葉を探すように沈黙した。
数秒が過ぎる。さらに数秒が過ぎても、何も出てこない。画面の端には、視聴者から送られた短い挨拶が一つ残っていたが、輝夜はコメント欄の存在に気づいていないらしい。
しばらく正面を見つめた後、考えることを諦めたように首を傾げた。
『それだけよ。またね』
輝夜がカメラへ手を振り、配信を終了するために身を乗り出す。顔が画面いっぱいに近づき、操作を探す視線が左右へ動いた。
『……これで切れたのかしら?』
その直後、映像は終了した。
部屋に静けさが戻る。
隣にいる輝夜は、彩葉から贈られるはずの言葉を待つように、背筋をまっすぐ伸ばしていた。
「どうだった?」
僅かな得意げさを含んだ声だった。
彩葉は暗くなった画面を見つめた。問題が多すぎて、どこから指摘するべきか迷う。
「まず、顔を出すなら先に言って!」
予想していた言葉とは違ったのか、輝夜が目を瞬かせる。
「顔を出してはいけないの?」
「顔出し自体が全部駄目なわけじゃないよ。でも、何の準備もせずに部屋まで映すのは駄目。窓の外とか、制服とか、郵便物とか、場所が分かるものが映ったら危ないでしょう?」
彩葉は停止した画面を指さした。今は無事でも、続ければいずれ何かを映しかねない。
「顔を出す時は、背景を隠して、映る範囲を確認してから。分からないなら、先に私へ聞いて」
「顔以外を全部隠せばいいのね」
「画面いっぱいに顔を映すって意味じゃないからね!」
アーカイブの最後に映った片目を思い出し、彩葉はすぐに付け加えた。
「それから、何をする配信なのか決まってない。宣言して、絵を見せた後、ずっと黙ってたでしょう?」
「伝えたいことは伝えたわ」
「次も見てもらうには、見てる人が楽しめることをしないと駄目なの。言いたいことだけ言って終わったら、それで満足するのは輝夜だけでしょう?」
「私が満足してはいけないの?」
「輝夜だけが満足する配信に、ほかの人が来ると思う?」
問われた輝夜は、少し考え込んだ。自分が楽しいなら、見ている者も楽しいのではないかと思っていたらしい。
彩葉は机の上へ置かれた絵へ視線を移した。
「このアバターも、そのまま使うのは難しいと思う。もう少し、見た人に輝夜だって分かるようにしないと」
「私は分かるわ」
「描いた本人は分かるでしょう」
「彩葉も分かったでしょう?」
「説明された後ならね!」
輝夜の唇が僅かに尖る。それでも彩葉の指摘は終わらない。
「あとは最初の音。ジングルなのは分かるけど、なんであんなに不安になる音なの?」
「不安?」
「音がばらばらだし、どこで終わるのかも分からないし、最初にあれが流れたら、配信を間違えたのかと思うよ」
「でも、最後には終わったわ」
「終わるまで終わったって分からないのが問題なの!」
そこまで聞いたところで、輝夜は口を閉じ、自作のアバターへ視線を落とした。誇らしげに伸びていた背筋も少し丸まり、頬には分かりやすい不満が浮かぶ。褒めてもらえると思っていたのに、返ってきたのは問題点ばかりだった。
「……一人でできたのに」
小さく漏れた声を聞き、彩葉はようやく輝夜の表情を見た。唇を尖らせ、絵の端を指先で弄っている。
褒められるつもりだったのだ。
「一人で初配信までしたのは、すごいと思うよ」
輝夜の指が止まる。けれど、すぐには顔を上げなかった。
「数日ずっと調べて、準備したんでしょう? そこは本当にすごいと思ってる。私だったら、何も知らない状態から数日で配信までしようなんて思わないし」
彩葉が言葉を重ねると、輝夜はようやく横目でこちらを見た。頬の膨らみが少しだけ小さくなる。
「顔を出したことも、絶対に駄目って言ってるわけじゃないからね。ちゃんと準備すれば、顔を出す配信をすることもできるよ。ただ、危ないものが映ってないか確認しないといけないの」
「次は彩葉が確認してくれるの?」
「次から全部手伝うって意味じゃないよ!」
期待を向けられ、彩葉はすぐに釘を刺した。
「危ない配信をされたら私も困るから、そこだけ。背景を隠して、カメラの範囲を決めて、始める前に設定を見せるの」
「分かったわ。配信を始める前に、彩葉へ見せる」
「そう。それならいいよ」
彩葉はパソコンへ手を伸ばし、配信に使用した設定画面を開いた。
「普段は映像を切って声だけにする方法もあるし、別の姿を画面に出す方法もあるから。配信を始める前に、今日は何をするのか決めておいた方がいいよ。最初に挨拶をして、内容を説明して、最後にもう一度挨拶をするの」
輝夜はいつの間にか椅子を彩葉の近くへ寄せ、画面を真剣に覗き込んでいた。説明されるたびに頷き、不満の代わりに喜びを浮かべている。
「教えてくれるのね」
「また部屋の中を全部映されたら困るからだよ。プロデュースするって言ってるわけじゃないからね」
「分かっているわ。でも、今は彩葉が教えてくれているもの」
その声には、先ほどまでの拗ねた響きはもう残っていなかった。
彩葉は小さく息を吐き、アーカイブの冒頭へ再生位置を戻した。
「あとは、このジングル。どうやって作ったの?」
「これを使ったわ」
輝夜は机の下へ手を伸ばし、奥から小さなキーボードを引き出した。
「あ、それ私の。勝手に出さないでよ」
彩葉は驚いたように眉を寄せたものの、声に強い怒りは含まれていなかった。
長い間使わず、奥へしまったままにしていた物である。壊された様子もなく、輝夜がジングルを作るために使ったと分かれば、それ以上責めるほどのことでもなかった。
輝夜はキーボードを彩葉の前へ置き、鍵盤へ視線を落とした。
「押せば音は出たけれど、どう並べればよいのか全然分からなかったわ。彩葉は弾けるの?」
「少しくらいなら」
「では、彩葉が弾いてみて」
輝夜は当然のように頼みながら、キーボードではなく彩葉の顔へ視線を向けた。
その言葉を聞いた彩葉は、すぐには鍵盤へ手を伸ばさなかった。
黒と白の並びを見つめたまま、指先を膝の上で小さく握る。
かつて、このキーボードの前には自分だけではなく、父もいた。
朝久が思いついた音を鳴らし、彩葉がその隣で別の音を重ねる。合わなければ二人で首を傾げ、少し変えれば、今度はどちらからともなく笑った。
音を探す時間も、完成した曲を繰り返し聞く夜も、彩葉にとっては大切なものだった。
だからこそ、父を失った後は触れられなくなった。
鍵盤を押せば、楽しかった頃の記憶だけではなく、その時間が二度と戻らないという事実まで蘇ってしまう。作曲画面も、途中のまま残されたデータも、このキーボードも、すべて見えない場所へ押し込み、考えないようにしてきた。
それなのに今、長く遠ざけていたものが目の前に置かれている。
彩葉の手は、鍵盤へ近づくことができなかった。
「彩葉?」
輝夜の声に呼ばれ、彩葉は顔を上げた。
そこには、疑うことなく自分を見つめる輝夜がいた。
弾けるのなら聞かせてほしい。
自分には分からなかったものを、彩葉なら形にしてくれる。
そんな期待が、赤みを帯びた瞳の中へまっすぐに表れている。急かすことも、どうして黙っているのかと問い詰めることもなく、ただ彩葉が音を鳴らす瞬間を待っていた。
その顔を見ているうちに、拒むための言葉が喉の奥へ沈んでいった。
「……少しだけだからね」
彩葉は静かに息を吐き、椅子を引き寄せた。
指先を鍵盤の上へ置く。
触れた瞬間、指の腹へ返ってきた硬さは、記憶の中に残っているものと何も変わらなかった。
一瞬だけ躊躇した後、いくつかの音を同時に押す。
単独では別々だった音が、重なった瞬間に一つのまとまりを持ち、狭い部屋の中へ柔らかく広がった。長く触れていなかった電子音は、記憶の中に残っていた響きよりもわずかに軽かった。それでも、指先から伝わる感触も、押した音が重なって耳へ返ってくる感覚も、身体のどこかへ深く刻まれたままだった。
彩葉は最初の響きから少し明るい音へ移り、そこから軽く跳ねるような短い旋律を重ねた。
輝夜が作った不安定な音をそのまま直すのではなく、配信の始まりを知らせるなら、こうすればよいという見本を示すための、ごく短いジングルだった。
始まりを告げる明るい音。
その後を追いかけるように続く、軽やかな旋律。
最後は最初の響きへ戻り、余韻を残しながら自然に収まる。
ほんのわずかな時間だった。
けれど、彩葉の指は迷わなかった。
一度音を鳴らし始めると、次にどの音へ進めばよいのかを、指先の方が先に思い出していく。長い間触れていなかったことなど嘘のように、音の組み合わせが自然と頭へ浮かび、それを確かめるように鍵盤の上を移動していった。
彩葉が演奏している間、輝夜は一言も口を挟まなかった。
赤みを帯びた瞳を楽しそうに輝かせ、鍵盤を行き来する彩葉の指先と、その横顔を交互に見つめている。先ほどまで自分の初配信を否定されたように感じ、頬を膨らませていたことなど、すっかり忘れているようだった。
音が明るく跳ねれば、その響きを追いかけるように目を細める。
旋律が少しだけ意外な方向へ動けば、次はどこへ進むのだろうと期待するように身を乗り出す。
そして最後の音が綺麗に収まると、輝夜の口元へ、満足そうな笑みが広がった。
彩葉は鍵盤から指を離した。
部屋へ残っていた最後の音も、やがて冷蔵庫の駆動音へ溶けるように消えていく。
久しぶりに鍵盤へ触れた指先には、わずかな熱が残っていた。
「……こういう感じ。最初に流れたら、配信が始まるって分かるでしょう?」
彩葉はキーボードへ視線を落としたまま言った。
返事がないことを不思議に思い、隣へ顔を向ける。
輝夜は、今しがた彩葉が鳴らした音の余韻を探すように、まだ鍵盤を見つめていた。
やがて顔を上げると、その瞳は演奏を頼んだ時よりも、さらに明るく輝いていた。
「もう一度聞きたいわ」
その声には、上手く弾けたことへの評価も、ジングルの作り方を知りたいという焦りもなかった。
ただ、彩葉が鳴らした音を、もう一度聞きたい。
それだけの思いがまっすぐに込められていた。
彩葉は小さく息を吐く。
「本当に、もう一回だけだからね」
そう言いながら、再び鍵盤へ指を置いた。
今度は最初ほどのためらいはなかった。
明るい音が狭い部屋へ広がり始めると、輝夜はすぐ隣で、先ほどと同じように楽しそうに目を細めた。
彩葉はその視線に気づいていた。
それでも何も言わず、最後の音まで途切れさせることなく、短いジングルを弾き続けた。