二度目のジングルは、最初に弾いた時よりも滑らかに、狭い部屋の空気へ溶け込んでいった。
一度目は、長いあいだ触れていなかった鍵盤の感触を確かめるような演奏だった。指先がどこまで動くのか、記憶の奥へ押し込めていた音を、今の自分がどれほど拾い上げられるのかを、彩葉自身が恐る恐る探っていた。
けれど二度目には、最初の音を鳴らすまでの躊躇がなかった。
明るく重なった響きの後を、軽く跳ねる旋律が追いかけていく。途中で僅かに音の高さを変え、最後には始まりと同じ場所へ戻ることで、ほんの数秒しかない音の連なりへ、始まりと終わりを与えていた。最後の音が消えても、輝夜はすぐには何も言わなかった。
彩葉の横顔と鍵盤の上を動く指先を交互に追っていた瞳は、演奏が終わった後も、黒と白の並びへ残されている。もう一度と頼めば、三度目も弾いてもらえるのではないかという期待が、隠しきれず顔へ浮かんでいた。彩葉はその気配を察し、輝夜が口を開くよりも早く、キーボードの電源へ指を伸ばした。
「さっき、もう一回だけって言ったからね」
先回りして釘を刺され、輝夜は開きかけていた口を静かに閉じた。
断られたことへ不満を示す代わりに、音の消えた鍵盤を見つめ、何かを考えるように僅かに目を細める。もう一度聞かせてもらえないのなら、別のことを尋ねようと思ったらしい。
「彩葉は、こういう短いものだけではなくて、もっと長い曲も作れるの?」
電源ボタンの上へ置かれた彩葉の指が止まった。
問いかけた輝夜に、何かを探ろうとする意図はなかった。
自分が鍵盤を押した時には、音と音の間へ何の繋がりも生まれず、聞いているだけで妙に落ち着かなくなる響きが続いた。それに対し、彩葉が押した音には自然な流れがあり、次に何が鳴るのかを待ちたくなるまとまりがあった。
同じ鍵盤を使っているのに、出てくるものはまるで違う。それなら、彩葉は短い音だけでなく、人が歌うための長い曲も作れるのではないか。輝夜にとっては、それだけの素朴な疑問だった。
「作れないよ。今のは、見本を弾いただけだから」
「でも、どの音を押せばいいのか、彩葉には分かっていたでしょう?」
「少し弾いたことがあるからね。これくらいなら、そんなに難しくないの」
彩葉は話を終わらせるように、キーボードの電源を切った。表示灯が消え、鍵盤は完全に沈黙する。しかし輝夜は、そこで会話が終わったとは思わなかったらしい。彩葉の指とキーボードを交互に眺めた後、ごく自然な調子で、自分の中へ生まれたばかりの願いを口にした。
「なら、私が歌うための曲も作って」
彩葉はキーボードを持ち上げかけた姿勢のまま、しばらく動かなかった。
聞き間違いであってほしいと思いながら、ゆっくりと輝夜を見る。
輝夜は冗談を言った様子もなく、赤みを帯びた深い褐色の瞳をまっすぐ彩葉へ向けていた。自分の望みが途方もないものであるという自覚すらなく、作れるかもしれない相手へ、作ってほしいと頼んだだけの顔をしている。
「……誰が歌う曲?」
「私よ。配信で歌うの」
輝夜は自分の胸元へ手を添え、分かりきったことを確かめるように答えた。
初配信では、ライバーになることと、ヤチヨカップへ参加することを宣言しただけで終わっている。次は何をすればよいのかと考えた時、先ほど聞いた彩葉の音を、自分の声で歌ってみたいと思ったのだろう。
彩葉は一度目を閉じ、聞かなかったことにする道が残されていないか考えた。
もちろん、そんな都合のよい道は残されていなかった。
「無理。そんな時間ないから」
目を開けると同時に、迷いなく断る。
学校は夏休みに入ったが、彩葉の予定がなくなったわけではない。アルバイトも、課題も、これまでの復習もある。輝夜の配信設定を確認し、顔や部屋が映らないように教えるだけでも、本来の予定にはなかった時間を使わなければならない。
そのうえ、一つの楽曲を最初から作ることなど、簡単に引き受けられるはずがなかった。
旋律を考え、伴奏を整え、歌詞を作る。輝夜が歌える高さも確認し、配信で使える形へ仕上げなければならない。久しぶりに鍵盤へ触れたばかりの自分が、そこまで本格的に音楽へ関わることを想像するだけで、途方もない作業に思えた。
いつもの輝夜であれば、ここで引き下がっていた。
この部屋で暮らすことを認めてもらった時、彩葉の邪魔をしないと約束している。一度断られたことを何度も頼めば、彩葉を困らせ、約束を破ることになると考えていた。
ライバーになるための手伝いを拒まれた時も、輝夜はそれ以上頼まなかった。
分からないままパソコンへ向かい、検索を繰り返し、危なっかしい方法ながらも一人で初配信まで終えている。
今回も同じように諦めるべきなのだろう。
輝夜は一度、視線を伏せた。
膝の上へ両手を揃え、彩葉の返事を受け入れようとする。けれど、先ほど聞いたばかりの音が頭の中へ残っているためか、すぐには気持ちを切り替えることができなかった。
誰かが作った曲を歌いたいのではない
彩葉が作った曲を歌いたかった
彩葉はいつも忙しい。
学校のことも、アルバイトのことも、眠る時間さえ予定へ入れて生活している。そこへ自分の願いを加えれば、困らせてしまうことは分かっていた。
それでも、このまま何も言わずに終わらせれば、きっと後悔する。
どう頼めばよいのか分からないまま、輝夜は椅子を僅かに彩葉の方へ寄せた。
床を擦る小さな音が、静かになった部屋へ響く。
膝が彩葉の椅子へ触れるほど距離を縮めると、キーボードを抱えていた彩葉の袖口へ、指先をそっと伸ばした。
強く引くわけではない。
逃がさないように掴むわけでもない。
ただ、もう一度だけ自分の言葉を聞いてほしいと伝えるような、控えめな触れ方だった。
「……お願い、彩葉。私は、彩葉が作った曲を歌いたいわ」
彩葉は、立ち上がろうとしていた姿勢のまま固まった。
これまでの輝夜は、一度断られれば素直に引き下がっていた。その輝夜が、初めて頼み方を変えている。命じるでもなく、勝手に話を進めるでもなく、すぐ隣から期待の籠もった目で見つめ、袖をほんの少しだけ摘まんでいる。それだけのはずだった。それなのに、先ほどまで簡単に口へできていた拒絶の言葉が、急に出しにくくなっている。
「そんなふうに頼んでも駄目だからね。曲を一つ作るのに、どれだけ時間がかかると思ってるの」
「分からないわ。だから、彩葉に頼んでいるの」
輝夜は、自分の振る舞いに何らかの効果があることを理解していなかった。
可愛らしく頼めば彩葉が折れると計算し、意図的に距離を縮めたわけではない。ただ、離れた場所から頼むよりも、自分の気持ちが伝わるのではないかと思っただけだった。
彩葉は袖口を摘む指へ視線を落とし、次いで、すぐ近くにある輝夜の顔を見る。
赤みを帯びた瞳には、自分の返事だけを待つ期待が隠しようもなく浮かんでいた。
「……近いんだけど」
「離れた方がいいの?」
輝夜は僅かに首を傾げたものの、すぐには離れようとしなかった。彩葉が本当に嫌がっているのか、それとも近すぎることを指摘しただけなのか、判断できないらしい。
「そういうことじゃなくて、その……袖を掴まないで」
言われたとおり、輝夜は素直に指を離した。
すると彩葉は、なぜか自分が輝夜を追い払ったような気分になった。
別に、輝夜は悪いことをしたわけではない。これまでなら一度断られた時点で諦めていたのに、今日は初めて、もう一度だけお願いしてみた。それを冷たく拒んだように感じられ、胸へ小さな居心地の悪さが残る。
輝夜は離した手を膝の上へ戻し、彩葉との間へ少しだけ距離を作った。
もう一度頼むことはせず、今度こそ返事を待つだけの姿勢になっている。
彩葉は気まずさをごまかすように、抱えていたキーボードの向きを変えた。
新しい曲を作る時間はない。
その事実は、何度考えても変わらない。
けれど、パソコンの中には、すでに完成している古い楽曲が残っていた。
父が生きていた頃、思いついた音を鍵盤へ並べ、何度も聞き直しながら作った曲。誰かへ提供する予定も、どこかで発表するつもりもなく、ただ作ること自体が楽しかった頃のものだった。
今さら聞けば、幼い自分の感性に耐えられなくなる可能性は高い。
それでも、一から作る必要がないのなら、輝夜の頼みへ応えることはできる。
いや、応えるというより、古いものを一つ渡して納得させるだけである。
少なくとも彩葉は、そういうことにしようとした。
「……昔作った曲なら、あるにはあるけど」
彩葉が考えを漏らすように呟いた途端、少し離れたはずの輝夜が再び身を乗り出した。
今度は袖口へ触れなかったものの、その瞳は一瞬で明るくなっている。
「それを歌いたいわ」
「まだ聞いてもいないでしょう。大昔に作ったものだから、今聞いたら絶対に恥ずかしいし、誰かに歌わせるつもりで作った曲でもないの」
「彩葉が作ったのでしょう?」
輝夜にとっては、それだけで聞きたいと思うには十分だった。
曲が古いかどうかも、誰かのために作ったものかどうかも関係ない。先ほどのジングルと同じように、彩葉が自分で音を選び、一つの形へ組み上げたものなら、自分の声を重ねてみたかった。
彩葉はパソコンが置かれた机へ視線を向けた。
自分から昔の曲があると漏らしたことを、すでに後悔し始めている。輝夜へ聞かせれば、今より幼かった自分が何を格好いいと思い、どのような言葉を綺麗だと考えていたのか、そのすべてを知られることになる。
想像するだけで、背中がむず痒くなった。しかし、完全に断るための勢いは、先ほどのお願いによってすでに削がれていた。
「……分かった。新しく楽曲を作る時間はないから、昔に作った曲ならあげる。黒歴史だけどね」
聞き慣れない言葉だったのか、輝夜は僅かに首を傾げた。
「黒い曲なの?」
彩葉は一瞬、何を尋ねられたのか分からないように輝夜を見返した。
しかし、冗談を言っているのではなく、本当に曲の色を尋ねているのだと理解すると、抱えていたキーボードを落としそうになりながら、呆れたように肩を下げる。
「色の話じゃないよ。昔の自分が作ったものを見返して、恥ずかしくて消えたくなるやつ」
「消えてしまうの?」
輝夜の表情から喜びが消え、代わりに分かりやすい不安が浮かんだ。
曲を聞いたことが原因で彩葉が本当に消えてしまうのなら、さすがに歌わせてほしいと頼み続けることはできない。先ほどまで身を乗り出していた身体を引き、彩葉が今にも消え始めていないか確かめるように、頭から足元まで視線を動かしている。
「例えだから!」
彩葉が思わず声を上げると、輝夜は安心したように小さく息を吐いた。
彩葉が消えないのであれば、曲が古いことも、本人が恥ずかしがっていることも、輝夜には大した問題ではなかった。
「それなら、最初は私だけが聞くわ。気に入ったら、配信で歌う」
「最初から使う気じゃん」
彩葉は呆れた声を漏らしたが、輝夜は何が問題なのか分からないように瞬きをした。
自分が気に入った曲であれば、ほかの誰かにも聞いてほしい。まして、それが彩葉の作った曲なら、配信を見に来た人々へ伝えたいと考えることは、輝夜にとって自然なことだった。
「気に入った曲なら、誰かに聞いてほしいと思うでしょう?」
悪びれることなく答えられ、彩葉は額へ手を当てた。
自分だけが聞くという部分へ安心しかけた直後、当然のように配信で披露する予定まで組み込まれている。彩葉はしばらく輝夜を見つめた後、観念したように深く息を吐いた。
「ただし、聞いて変だと思っても笑わないこと。それから、実際に配信で使えるかは、聞いてから考えるからね」
輝夜は条件を真剣な表情で聞き終えると、大きく頷いた。
「約束するわ。ありがとう、彩葉」
あまりにも素直に喜ばれ、彩葉は急に居心地が悪くなった。
新しく曲を作る手間を避けるため、昔の作品を渡すだけのつもりだった。それなのに輝夜は、何か大切な贈り物を受け取ったように瞳を輝かせている。
彩葉は赤くなりかけた顔を隠すように、抱えていたキーボードを机の脇へ立てかけ、パソコンの前へ座った。楽曲のデータが入ったフォルダは、普段使う画面からすぐに開ける場所へ、簡素な名前のまま置かれていた。
フォルダを開くと、昔作った楽曲のデータが幾つか並ぶ。
輝夜は彩葉の肩越しから画面を覗き込んだものの、名前を見ても、どれがこれから聞かせてもらえる曲なのかは分からなかった。
「どれなの?」
「今選ぶから、急かさないで」
彩葉は一覧の中から一つの曲へカーソルを合わせた。
父を失うよりも前に、自分一人で作り、完成するまで何度も聞いてもらった曲だった。今の自分から見れば直したいところはいくらでもあるだろうが、誰かへ聞かせるのであれば、この曲が一番まともなはずだった。
少なくとも、そう信じたい。
データを開くと、画面へ作曲ソフトが表示され、始まりから終わりまで並べられた音が現れた。
「これを全部、彩葉が作ったの?」
「そうだけど、今は画面を見ても分からないでしょう。音を流すから、静かに聞いて」
彩葉は音量を僅かに下げ、再生位置を先頭へ戻した。
先ほどまでは勢いで渡すと言えたものの、実際に聞かせる段階になると、急に恥ずかしさが込み上げてくる。
幼い頃の自分が選んだ音を、父以外の誰かへ最初から聞かせるのは初めてだった。
いつものように急かすことはせず、両手を膝の上へ揃えて待っている。その上半身は僅かに前へ傾き、楽しみで仕方がないことだけは隠せていなかった。
彩葉は一度息を吐き、再生ボタンを押した。
小さな前奏が、パソコンのスピーカーから流れ始める。
昔作った曲が、当時のまま部屋へ広がっていく。
輝夜は体でリズムをとりながら、楽しそうに曲を聞いていた。
前奏が終わり、歌声が入るはずの主旋律が始まると、その瞳がさらに明るくなる。次にどこへ音が進むのかを追いかけるように、僅かに身体を揺らしていた。
途中からは、まだ一度しか聞いていない旋律を覚えようと、唇まで動かし始めている。
やがて最後の音が鳴り終わり、部屋へ静けさが戻る。
輝夜はすぐには感想を口にしなかった。
彩葉は画面を見つめたまま、待つつもりなどないような顔を作っていたが、隣の沈黙が僅かに長くなるだけで、指先が机を小さく叩き始める。
気に入らなかったのなら、それでも構わない。
その方が、誰にも歌わせずに済む。
そう思っているはずなのに、輝夜が何も言わないことが、少しずつ不安になっていく。
「……どうなの?」
我慢できずに尋ねると、輝夜はようやく彩葉へ顔を向けた。
「もう一度聞きたいわ」
その返事を聞いた途端、彩葉の肩から僅かに力が抜けた。
「気に入ったの?」
思わず聞き返してから、自分が期待していたことを悟られたような気がして、慌てて画面へ視線を戻す。しかし輝夜は、彩葉の微妙な変化には気づかず、大きく頷いた。
「ええ。この曲を配信で歌いたい」
「まだ歌えるかも分からないよ。聞くのと、自分で歌うのは全然違うんだから」
「なら、歌えるようにして」
輝夜は当然のように頼みながら、楽曲データが表示された画面を指さした。
音を覚えるだけでは足りない。歌うためには練習が必要であり、配信で使うためには設定も整えなければならない。そこまでは、彩葉の説明を聞かなくても何となく理解したらしい。
彩葉は嫌な予感を覚え、椅子へ深く座り直した。
「それは、曲をあげるのとは別の話だから」
「どうして?」
「歌の練習を見て、配信の内容を考えて、アバターも何とかして、毎回の反応まで確認することになったら、結局プロデュースするのと同じでしょう」
口にしてから、彩葉は自分で答えを出してしまったことへ気づいた。
輝夜の瞳が、分かりやすく明るくなる。
「なら、やっぱり彩葉が私をプロデュースして」
「今の話をどう聞いたら、そうなるの!」
彩葉が思わず声を上げると、輝夜は不思議そうに首を傾げた。
彩葉は楽曲を提供してくれた。
配信の危険な設定も直してくれた。
歌えるようにするためには何が必要なのかも知っている。
それなら最初から、彩葉にすべて教えてもらうのが一番確実だと、輝夜は極めて素直に考えたらしい。
「前にも言ったでしょう。私は学校もあるし、アルバイトもあるし、夏休みの課題だってあるの。輝夜のことばかりしていられないから」
「全部を後回しにしてほしいとは言っていないわ」
「そう言いながら、毎日歌の練習を見てって頼むつもりでしょう」
輝夜はすぐに否定せず、僅かに視線を逸らした。
図星だったらしい。
彩葉はその反応を見逃さず、机の上へ両手を置くと、今度こそ主導権を握るように姿勢を正した。
「本当に私にやってほしいなら、条件があるからね。まず、学校とアルバイトと課題が最優先。私が忙しい時は、何度頼まれても手伝わない」
輝夜は真剣な表情で頷いた。
「それから、勝手に配信しないこと。顔や部屋を映さないのはもちろん、何をするのかも先に私へ教えること。歌についても、無理に声を出したり、勝手に曲を変えたりしないで」
彩葉が指を折りながら条件を増やすたび、輝夜の表情から少しずつ勢いが失われていく。
最初は二つか三つだと思っていたらしいが、彩葉の口から出てくる条件は、なかなか終わらなかった。
「あと、私が駄目って言ったことはしない。知らない人から変な連絡が来ても、勝手に返事をしない。何か分からないことがあったら、始める前に聞くこと。それと――」
途中で名前を呼ばれ、彩葉は立てていた指を止めた。
輝夜は、全部覚えることを諦めたような顔をしている。
「条件が多いわ」
「輝夜が何も知らないまま配信したから増えたの!」
初配信で顔を出し、部屋を映し、話す内容も決めず、最後には配信が終了したかどうかすら分からないままカメラへ近づいていた。あれを見た後では、条件が多くなるのも無理はない。
輝夜はしばらく考えた末、静かに頷いた。
「分かったわ。全部守る」
「本当に?」
「ええ。だから、彩葉が私を優勝させて」
「最後だけ急に大きくなってるでしょう!」
彩葉は頭を抱えた。
条件を守ることと、ヤチヨカップで優勝させることの間には、かなりの距離がある。配信を安全に行わせるだけでも大変なのに、優勝まで責任を持たされては堪らない。
「私は、最低限のことを教えるだけ。優勝できるかどうかまでは約束しないから」
「でも、彩葉がいれば優勝できると思うわ」
「根拠は?」
「私がそう思うから」
一切の迷いなく返され、彩葉は言葉を失った。
根拠と呼べるものは何一つない。
それでも輝夜の中では、彩葉が手伝ってくれることと、自分が優勝することが、すでに同じ線の上へ並んでいるらしい。
「だから、正式にお願いするわ」
輝夜は椅子から立ち上がると、彩葉の正面へ回った。
先ほど袖を摘まんだ時よりも、少しだけ動きに迷いがない。おねだりというものが彩葉へ多少なりとも効果を持つことを、すでに学び始めていた。
彩葉が警戒するように椅子を引くより早く、輝夜は腰を僅かに屈める。
普段なら同じ高さにある瞳が、少し下から彩葉を見上げた。
「お願い、彩葉。私をプロデュースして」
赤みを帯びた瞳に期待を浮かべ、返事を待つ。
先ほどよりも明らかに、頼み方を理解していた。
彩葉は一瞬だけ視線を合わせた後、耐えきれなくなったように顔を逸らす。
「二回目で上達しないでよ……」
「何が?」
「何でもない!」
輝夜は自分が何を上達させたのか分からないまま、さらに少しだけ顔を近づけた。
「駄目?」
今度は声まで僅かに小さくなっている。
彩葉は椅子の背もたれへ逃げるように身体を預けたが、狭い部屋では、それ以上距離を取ることができなかった。
条件は出した。
輝夜も守ると答えた。
何より、すでに曲を渡し、配信設定へ口を出し、歌の練習まで考え始めている。ここでプロデュースではないと言い張ったところで、実際にすることはほとんど変わらなかった。
「……分かったよ」
ついに彩葉が答えると、輝夜の顔が一瞬で明るくなった。
「本当?」
「条件付きだからね。私の予定が最優先。勝手なことをしない。言ったことは守る。それができなかったら、すぐやめるから」
「全部守るわ」
「あと、優勝させるとは約束してないから」
「彩葉が本気を出せば大丈夫よ」
「なんで私への信頼だけそんなに重いの!」
彩葉の抗議を聞きながら、輝夜は満足そうに笑った。
楽曲を手に入れただけではない。
今度こそ、彩葉が自分の隣で一緒に活動してくれる。
それが嬉しくて仕方がないらしい。
一方の彩葉は、先ほどまで軽い気持ちで昔の曲を渡しただけだったはずが、気づけば配信、歌、アバター、そしてヤチヨカップまで引き受ける流れになっていることへ、ようやく気づき始めていた。
「……もしかして私、曲を聞かせたところから失敗してない?」
彩葉が小さく呟く。
輝夜は聞こえなかったふりをして、机の上へ置かれていた紙を一枚取ると、大きな文字を書き加えた。
『プロデューサー 彩葉』
その文字を見つけた彩葉が消すように手を伸ばすより早く、輝夜は紙を胸元へ抱えて守った。
「もう決まったことよ」
「まだ名前を書いただけでしょう!」
再び響いた彩葉の声に、輝夜は楽しそうに笑った。
初めてのおねだりで曲を手に入れ、二度目のおねだりでプロデューサーまで手に入れた。
その事実に、彩葉だけがまだ気づいていなかった。