机の端には、輝夜が先ほど書いたばかりの紙が、まるで正式な契約書でもあるかのように大切そうに置かれていた。
『プロデューサー 彩葉』
紙いっぱいに書かれた文字を見つめながら、彩葉は何度目か分からないため息を吐いた。
少し前まで、自分は昔作った曲を一つ渡すだけのつもりだったはずなのだ。新しく作る時間はない。だから、昔の曲なら渡せる。それで輝夜も納得するだろうと思っていた。
ところが気づけば、歌の練習を見て、配信の安全も確認し、活動そのものへ口を出すことになっている。優勝させる約束こそしていないものの、やっていることだけを並べれば、すでに十分プロデューサーだった。それでも、紙に書かれた肩書きを素直に認めるのは何となく悔しい。
「その紙は好きにすればいいけど、先に本当に歌えるか確認するよ。曲を渡したからって、すぐ配信で歌っていいって意味じゃないからね」
そう告げると、それまで紙を守っていた輝夜はすぐに表情を変えた。紙を折らないよう机へ戻し、パソコンの前へ椅子を寄せる。輝夜にとって、曲をもらった次にすることは一つしかない。
けれど、人前で歌うなら旋律と歌詞を覚えるだけでは済まない。息を吸う位置も、声の大きさも、高い音へ移る時の力の入れ方もある。彩葉自身、歌を専門的に習ったわけではなかったが、父と音楽を作っていた頃に、自分の声を録音して何度も聞き直した経験くらいはあった。
「最初に言っておくけど、私は歌の先生じゃないからね。変だと思ったところを言うくらいしかできないよ。それに、この曲はまだ二回しか聞かせてないんだから、全部覚えてなくても普通だから」
楽曲データを開きながら説明すると、輝夜は不思議そうに首を傾げた。
「でも、旋律も歌詞も覚えているわ」
あまりにも当然のように言われ、彩葉の指が止まった。
半信半疑のまま伴奏を先頭へ戻し、再生ボタンを押す。
短い前奏が部屋へ流れ始めた。
輝夜は画面へ表示された歌詞を見ることなく、大きく息を吸った。胸が膨らむほど一度に空気を取り込み、その勢いで隣にいる彩葉の前髪まで僅かに揺れる。
嫌な予感がした。
そして、その予感は一音目で当たった。
輝夜の声が、狭いワンルームいっぱいへ勢いよく広がる。
旋律は合っている。歌詞も一字一句、正確だった。二度聞いただけとは思えないほど細かな音の高低まで覚えている。問題は、声量だった。一曲を通して聞かせるのではなく、最初の一音ですべてを届けようとしているような歌い方である。
彩葉は慌てて手のひらを下へ向け、声を抑えるよう合図した。
輝夜が一瞬こちらを見る。
次の瞬間、さらに声が大きくなった。
彩葉はすぐに伴奏を止めた。
「逆だから。もっと小さくって意味!」
輝夜は自分なりに指示へ従ったつもりだったらしく、先ほど彩葉がしていた手の動きを真似しながら、不思議そうにしている。彩葉は今度こそ誤解されないよう、手のひらをゆっくり下げながら説明した。
「こうしたら抑えるの。最初から全部の力で歌ったら後ろまで持たないし、この部屋で隣の建物まで聞かせる必要もないでしょう」
輝夜は喉元へ手を添え、自分の声を確かめ始めた。低い声から少しずつ高くしていき、最後にはなぜか細く震える奇妙な声まで試し始める。彩葉は額を押さえた。
「新しい声を発見する時間じゃないからね」
少し残念そうにしながらも、輝夜は素直に練習へ戻った。
二度目は、先ほどよりずっと自然だった。
必要以上に息を取り込まず、声も少し抑える。それだけで聞こえ方は大きく変わる。高い音へ上がる瞬間には僅かに喉へ力が入るものの、旋律は外さず、歌詞も最後まで一度も間違えなかった。
伴奏が終わっても、彩葉はすぐには口を開かなかった。
想像していたより、ずっと歌える。
初配信の危なっかしさから、歌についても何か大きな問題が起きるのではないかと思っていた自分が、少し失礼だったような気さえしてくる。
輝夜は、彩葉が評価を考えているのだと思ったらしい。返事を待つ瞳には、隠しようもない期待が浮かんでいた。初配信の時、問題点ばかりを並べた結果、輝夜を拗ねさせてしまったことを思い出す。
同じ失敗はしない方がいい。
「二度聞いただけなのに、最後まで覚えてたのはすごいと思う。歌詞も全部合ってたし、音もほとんど外れてないよ。ただ、高いところだけ少し力が入りすぎてるから、そこを直そう」
その言葉だけで、輝夜の瞳が明らかに明るくなった。
それからしばらく、声を伸ばす部分や、高低差の大きい場所だけを抜き出して練習した。
一度説明されたことを覚えるのは早い。彩葉が手のひらを下へ向ければ、今度は正しく声量を落とし、喉元を示せば力を抜く。指で丸を作れば、そのまま続ける。
ただし、丸の合図を出すたび、輝夜は少し嬉しそうな顔をした。
良いからそのままでよい。ならば結局、褒められていることと大きく違わないのではないか。
そんな疑問が顔へ出ていたが、彩葉はそれ以上説明することを諦めた。
◇ ◇ ◇
歌の練習を終えた後、輝夜は机の端へ立てかけてあった自作のアバターを持ち上げた。
左右で微妙に大きさの異なる瞳。僅かに傾いた輪郭。細部まで描こうとした結果、どこが袖でどこが模様なのか、描いた本人以外には判別しづらくなった衣装。
「次は、これを動かしたいわ」
彩葉は紙の上の少女と、その横に座る本物の輝夜を交互に見た。
「それ、動かさなくていいよ。ツクヨミで作ったアバターを、そのまま配信にも使えるから」
数秒の沈黙があった。
輝夜は自分の絵を見る。
彩葉を見る。
もう一度、絵を見る。
「……最初から使えたの?」
「使えたよ。一人でやるって言ったのは輝夜でしょう」
自分でも少し意地悪な返しだったと思う。
案の定、輝夜は僅かに頬を膨らませたが、自分で描いた絵を捨てるつもりはないらしい。紙が折れないよう丁寧に机へ戻し、「絵を描く配信をする時に使うわ」と、早くも別の用途を決めていた。
彩葉が設定を進めると、配信確認用の画面へツクヨミで使用している輝夜の姿が現れた。
腰近くまで伸びた真っ直ぐな黒髪。深い赤みを帯びた瞳。淡い桃色の上着と濃い色の長いスカート。月や植物を思わせる装飾も、最初に作った時のまま残っている。
現実の輝夜とほとんど変わらない姿が、画面の中でゆっくり瞬いた。
輝夜が顔を近づけると、アバターも同じように身体を傾ける。首を左右へ動かし、腕を上げ、それでも足りなくなったのか、その場で回ろうと片足を引いた。
「回らなくていいからね」
彩葉が先回りすると、輝夜はまさに回転寸前の姿勢で止まった。
基本的にはこのアバターを使い、時折なら現実の姿で顔を出してもよい。ただし、その時だけは準備が増える。
窓の外、制服、郵便物、学校やアルバイト先につながる物。生活している場所を推測される可能性があるものは、あらかじめ映らないようにする。カメラの範囲も、配信を始める前に彩葉が確認する。輝夜は少しだけ面倒そうな顔をしたものの、安全のためだと説明されると素直に頷いた。
◇ ◇ ◇
アバターを使えるようになってから、輝夜は何度か配信を行った。
最初の配信では、開始の挨拶までは問題なかった。
ところが、アバターが自分の動きを追いかけることを視聴者へ見せたくなったらしく、予定していた話へ入る前に身体を左右へ傾け始めた。
「今日は、私がどこまで動くのか見せるわ」
そんな予定は聞いていない。
画面外で見守っていた彩葉は、紙へ大きく『話す内容!』と書いて掲げた。
輝夜は一度頷き、そのまま後ろを向こうとする。
彩葉は紙を裏返し、『戻って!』とさらに大きく書いた。
コメント欄には『紙出てきた』『誰かいる?』『スタッフ?』と文字が流れ始める。
「手伝ってくれている人がいるの」
輝夜がそう説明し、本名まで言いそうな気配を察した彩葉が、すぐに口元へ指を当てた。
この時点では、彩葉に配信上の名前はない。
輝夜は単に「手伝ってくれている人」や「プロデューサー」と呼び、彩葉自身も姿を出さず、必要な時に紙を見せるだけだった。
次の配信では、コメントへの返し方が問題になった。
一人の視聴者が飼っている動物について書き込むと、輝夜は名前や年齢から、好きな食べ物、眠る場所、名前の由来まで尋ね始める。視聴者も楽しそうに答えるため、会話が終わらない。
終了後、彩葉は、相手を無視する必要はないが、一人と長く話し続ければ、ほかの視聴者が会話へ入れなくなると説明した。
輝夜には、それがすぐには理解できなかった。
画面越しであっても、話しかけてきた相手はそこにいる。質問をされたなら答え、相手が何かを話してくれたなら聞く。それを途中で止めれば悲しいのではないか。
彩葉は、無視するのではなく、短く返して次の話題へ進めばよいと教えた。
すると次の配信で、輝夜は忠告を忠実に守った。
守りすぎた。
『今日何食べた?』
「食べたわ」
『何を?』
「食事よ」
さらに内容を問われると、「食べ物」と答えた。
画面外で、彩葉は静かに額を押さえた。
短くすることと、必要な情報までなくすことは違う。
それでも回数を重ねるごとに、輝夜は少しずつ人との距離を覚えていった。
一度見た名前をよく覚えている。以前、課題が終わらないと話していた視聴者が再び現れれば、自然にその後を尋ねる。飼っている動物の話をした者へも、次に来れば「今日は元気?」と声をかける。
輝夜にとっては、一度聞いた話を忘れていないだけだった。
けれど、その何気ないことを喜ぶ者は多かった。
同じ名前が、少しずつ配信へ戻ってくるようになる。
彩葉は画面外からその様子を見ながら、輝夜がライバーとして持っている強みを理解し始めた。
歌だけではない。
目の前にいる誰かの言葉を覚え、次に会った時、その続きを自然に話せる。
距離の取り方を間違えれば危ういところでもあるが、うまく扱えれば、人を引きつける力になる。
◇ ◇ ◇
何度目かの配信では、初めて曲の一部を歌った。
一曲すべてを披露するのではなく、反応を見るための短い試し歌いだった。
彩葉は画面外から、声を出しすぎないよう手のひらを下へ向けた。
今度の輝夜は正しく意味を理解し、最初の練習ほど力まず、安定した声で歌い始める。
旋律は崩れない。歌詞も一度も間違えない。歌い終えるより早く、コメント欄が動き始めた。
『声好き』
『続き聞きたい』
『この曲いいね』
そして、『誰が作った曲?』という質問が流れる。
輝夜は画面の外へ視線を向けた。
彩葉は口元へ指を当てる。
本名だけは言わない。
それは配信を始める前から何度も確認していた。
「この曲は、私のプロデューサーが作ったの」
その一言で、今度はプロデューサーについての質問が増え始めた。
いつも紙を出している人なのか
名前はないのか
何と呼べばよいのか
彩葉は、そこで初めて困った。
自分は裏側から手伝うだけのつもりで、視聴者へ名前を知られる必要などないと思っていた。ところが、すでに紙を掲げる人物として存在だけは認識されている。
輝夜も、コメントを無視したままにはできないと考えたらしい。
「名前は――」
そこまで口にした瞬間、彩葉は反射的に両腕で大きな罰印を作った。
輝夜は途中で止まる。
けれど、一度出かかった言葉は完全には引っ込まず、その続きだけが小さく漏れた。
「……いろ……」
彩葉の肩が跳ねた。
本名そのものではない。それでも危ない。
もう一度、両腕で罰印を作る。
その間にもコメントは流れていった。
『いろ?』
『いろさん?』
『プロデューサーならいろP?』
『いろPでよくない?』
ほんの数秒だった。
誰か一人が何気なく書いた呼び名を別の視聴者が拾い、それをさらに別の者が繰り返す。コメント欄へいろPの文字が増えていった。
輝夜は、その響きを確かめるように口にした。
「いろP」
彩葉は何とも言えない顔をした。
「彩葉」の最初の二文字に、プロデューサーを表すPを付けただけ。けれど本名そのものではなく、学校やアルバイト先で使っている名前とも違う。
誰かに呼ばれる必要があるなら、まだ安全な方だった。
『いろPに曲よかったって伝えて』
『いろPありがとう』
コメントが流れ続ける。
輝夜は、それを読むうちに嬉しくなったらしい。
「いろP、みんなが呼んでいるわ」
彩葉は黙っていた。
ここで返事をしたら、自分まで配信へ参加することになる。
ところが返事をしないでいると、輝夜がもう一度呼んだ。
「いろP?」
「聞こえてるから!」
反射的に返してしまった。
短い声だったが、マイクはしっかり拾っている。
コメント欄へ『声入った!』『いろPいた』という文字が流れ、彩葉は慌てて自分の口を押さえた。
もう遅い。
画面の中で、輝夜は楽しそうに笑っていた。
その日の配信が終わる頃には、画面外で紙を掲げるプロデューサーの呼び名は、すっかりいろPになっていた。
配信を切った後。
視聴者はいない。
二人きりになった途端、輝夜は椅子ごと彩葉の方へ向き直った。
「彩葉、いろPになったわね」
ほとんど輝夜が本名を言いかけたせいだと抗議したものの、本名を直接呼ばれるより遥かに安全なのも事実だった。
結局、配信中と、ツクヨミでほかの人がいる時だけ「いろP」を使うことにした。
二人きりなら、今までどおり彩葉。それから先、誰かが見ている時、彩葉は「いろP」になった。
◇ ◇ ◇
配信を重ねるにつれ、輝夜だけでなく、姿を見せないいろPの存在も少しずつ知られるようになった。輝夜が話を長くしすぎれば、画面の端から『次!』と書かれた紙が出る。予定にないことを始めようとすれば大きな罰印。上手く歌えれば小さな丸。
いつしか、それらを視聴者まで待つようになっていた。
数回に一度は、顔を出す配信も行った。
その時だけは、窓の外が映らないようにし、制服や学校に関係する物を移動させ、彩葉がカメラの範囲を確認する。
ところが配信中に髪の長さを褒められると、輝夜は反射的に立ち上がり、背中まで見せようとした。画面の端から、いろPの大きな罰印が現れる。輝夜は腰を浮かせた姿勢で止まり、静かに座り直した。
「いろPが駄目だと言っているわ」
コメント欄には、いろPの判断を支持する文字が並ぶ。
輝夜は少しだけ不満そうだったものの、顔出し配信そのものへの反応は悪くなかった。
そうして配信を続けるうち、最初はほとんどいなかった視聴者も少しずつ増えていった。
毎回来る者がいる。歌の続きを楽しみにしている者もいる。中には、いろPが出す紙まで楽しみにしているような者も現れた。それでも、ヤチヨカップの上位に並ぶライバーたちと比べれば、差はまだ大きかった。
◇ ◇ ◇
ある日の配信終了後。
彩葉は、表示された数字を眺めながら腕を組んでいた。
「増えてはいるけど、このまま配信だけ続けても、今見てくれてる人の外へ広がるには時間がかかりそう」
どうすればよいのか尋ねられ、彩葉は少し前から考えていた場所を地図へ表示した。
そこは、ツクヨミの和風の街並みの中に架けられた橋だった。
水路を跨ぐ木造の橋には赤い欄干が続き、その向こうには灯りをともした建物が幾重にも並んでいる。橋そのものも人の往来に使われているため、時間を選べば利用者が絶えることはなく、それでいて大きな催しを開く広場ほど騒がしくもない。
立ち止まって歌を聞く者が数人増えたとしても、十分に余裕がある。
まだ名前の知られていない輝夜が、初めて人前で歌うにはちょうどよい場所だった。
「ここで歌おう。路上ライブ」
輝夜の瞳がすぐに輝いた。
配信を知らない者にも直接歌を聞いてもらい、気に入ってくれた者をそのまま配信へ誘導する。彩葉がそう説明すると、輝夜は地図に映る橋をじっと見つめながら、すでにその中央で歌う自分の姿を想像しているようだった。
そして、当然のように次の願いを口にした。
「彩葉も一緒に出て」
彩葉の返事が止まった。
そこまでは考えていなかった。
音源を用意し、離れた場所から進行を確認するくらいならできる。だが、人が行き交う橋の上で、観客の前へ自分まで姿を見せるのは話が別だった。
配信では、すでに「いろP」という呼び名まで定着し始めている。
「私は出ないよ。音源は用意するし、必要なら近くで見るけど、人前に立つのは嫌」
彩葉ははっきり断った。
輝夜はすぐには返事をしなかった。
以前なら、そのまま引き下がっていたかもしれない。
けれど今回は何かを思いついたようにその場を離れ、しばらくして大きなものを抱えて戻ってきた。
丸みのある頭
大きな耳
ふさふさとした尻尾
全身を柔らかな毛で覆われた、キツネの着ぐるみだった。
彩葉は、目の前へ差し出されたそれをしばらく無言で見つめた。
「……なに、それ」
輝夜は、自分が完璧な解決策を持ってきたという顔をしていた。
「これなら、彩葉だと分からないでしょう?」
確かに分からない。
頭部を被れば顔も髪も見えず、身体の輪郭までほとんど隠れる。
理屈としては正しかった。
「配信でも、みんなはいろPがいることを知っているでしょう。だから、ライブにもいろPがいた方がいいと思うの」
その言葉に、彩葉は反論しかけて止まった。
歌うのは輝夜。けれど、曲を作ったのは彩葉で、何を直せばいいか教えてきたのも彩葉だ。
初めて人前で歌う時だけ離れた場所にいるのは、輝夜にとって少し違うらしい。
彩葉はキツネの顔を見つめたまま、長く息を吐いた。
「……着るだけだからね。歌うのは輝夜。伴奏も私がその場で弾くんじゃなくて、用意した音源を流すから」
その条件で十分だったらしく、輝夜はすぐに頷いた。
彩葉が着ぐるみの頭を受け取ったところで、輝夜は今度は小さな袋を差し出した。
中には、薄い花びらが大量に入っている。
「これは?」
「歌っている時に投げて」
どうやら、いろPは隣に立つだけでは足りないらしい。
歌の良いところで花びらを投げれば、普通に歌うより綺麗に見える。
輝夜は、そう考えたようだった。
彩葉はキツネの着ぐるみと花びらの袋を順番に見て、静かに肩を落とした。
まさか数日後、自分がキツネの姿で花びらを投げることになるとは思っていなかった。
◇ ◇ ◇
路上ライブ前日。
最後の歌唱確認を終えた輝夜は、音源が止まると同時に満足そうに息を吐いた。
最初のように一度で大量の息を使うことはない。
高い音でも必要以上に力まず、長く伸ばす部分も最後まで安定している。
歌詞も、最初から最後まで一度も間違えなかった。
彩葉はパソコンの再生を止め、机の上へ翌日使うものを並べた。
音源のデータ
進行表
確認用の端末
花びらの袋
そして、その横には存在感だけならすべてを圧倒しているキツネの着ぐるみ。
輝夜は、それらを眺めながら満足そうに頷いた。
「これなら明日は大丈夫ね」
自分が失敗する可能性など、ほとんど考えていない声だった。
彩葉は最後の注意点を書いた紙を輝夜へ渡した。
『予定にないことをしない』
輝夜は少しだけ不満そうな顔をした後、空いている余白へ何かを書き足そうとした。
彩葉が覗き込む。
『歌い終わったら輝夜を褒める』
途中まで書かれたところで、紙を取り上げた。
「それはいらない!」
輝夜は残念そうにしたものの、すぐに翌日の観客へ興味を移した。
何人くらい集まると思うのか。
彩葉は、最初なら数人でも十分だと答えた。通りかかった者が一人でも二人でも足を止め、その中から配信を見てくれる者が現れれば、それだけで意味がある。
けれど輝夜は、少しも不安そうな顔をしなかった。
「10人は来ると思うわ」
根拠を尋ねられても、返事は迷わない。
「私が歌うから」
彩葉は呆れたように息を吐いた。
その自信がどこから湧いてくるのかは分からない。
けれど、人前へ立つことを怖がって縮こまるよりは、ずっといい。
「明日は、音源が始まったら歌うことに集中して。途中で人が増えても減っても気にしない。私は横で再生と演出をやるから、何かあったら合図する」
輝夜は真剣に頷いた後、キツネの着ぐるみの横へ置かれた袋を見た。
「花びらも忘れないでね」
彩葉も同じものを見る。
本当にやるのかと最後の抵抗を試みたものの、輝夜は迷うことなく頷いた。
自分が歌う。音源が流れる。その横で、キツネの姿をしたいろPが花びらを投げる。
輝夜の中では、それがすでに完成した光景になっているらしい。
彩葉は深く息を吐き、着ぐるみの頭部を持ち上げた。
「明日だけだからね」
その言葉を聞いた輝夜は、明らかに嬉しそうな顔をした。
数日前まで、自分一人で検索を繰り返し、何が正しいのかも分からないまま初配信をしていた。
今は、歌う曲がある。普段使うアバターがある。時々なら、自分の顔で配信することもできる。
何度も戻ってきてくれる視聴者も少しずつ増えた。
そして、人前へ出る時には、キツネの姿をしたいろPが隣にいてくれる。
輝夜は翌日の予定表へ目を落とした。
『路上ライブ』
その横へ、小さく文字を書き足す。
『いろPと一緒』
今は二人きりなのだから、わざわざその名前を使う必要はない。彩葉がそう指摘すると、輝夜は少し考えてから楽しそうに答えた。
「でも、明日は人がいるから、いろPでしょう?」
それは、その通りだった。
彩葉は否定できず、僅かに肩を落とす。
「明日はね。今は彩葉でいいの」
輝夜は予定表を机へ戻し、寝る場所へ向かった。
途中で一度だけ振り返る。
「おやすみ、彩葉」
今度は、きちんと本名だった。
彩葉は一瞬だけ目を瞬かせ、それから僅かに表情を緩める。
「……おやすみ、輝夜」
路上ライブの前日。
歌うことへの不安も、失敗するかもしれないという恐れも、輝夜の中にはなかった。
自分が歌えば、人はきっと足を止める。
彩葉の曲を聞けば、きっと好きになる。
そして、その横ではキツネの姿をしたいろPが、花びらを投げてくれる。
その先には、ヤチヨと同じ舞台が待っている。
輝夜は、その未来を少しも疑っていなかった。