目を覚ました彩葉が最初に感じたのは、違和感だった。
――静かすぎる
窓の外からはすでに朝の光が差し込み、冷蔵庫の低い駆動音と、遠くを走る車の音がいつも通り聞こえている。それなのに、この部屋で暮らし始めてから朝の静けさを真っ先に壊すことの多かった人物の声が、今日はどこからも聞こえてこなかった。
枕元の端末へ手を伸ばし、時刻を確認する。
まだ早い。
昨日、喉を休ませること、朝から大声を出さないこと、それから彩葉が眠っている間は起こさないことを念入りに言い聞かせた。その約束を、珍しいほど忠実に守っているのだろうか。
上半身を起こした彩葉は、そこでようやく部屋の隅にいる輝夜を見つけた。
寝ているわけではない。
壁際のクッションへ背筋を伸ばして座り、膝の上へ両手を揃えたまま、机の上の時計をじっと見つめている。彩葉が布団を動かした音に気づき、輝夜の顔がこちらへ向いた。
「おはよう、彩葉」
声は妙に小さかった。
喉を休ませろと言われたことまで律儀に守っているらしい。
「……いつから起きてるの?」
輝夜は少し考え、それから窓の外へ視線を向けた。
「まだ外が暗かった頃」
彩葉は無言でもう一度時計を確認した。
その時間から、ずっと起きていたことになる。
何をしていたのか尋ねると、輝夜は何の迷いもなく「待っていたわ」と答えた。
何を、と聞き返せば、返ってきたのは「今日を」という簡潔な言葉だった。
すでに今日は始まっているという指摘は、たぶん意味がない。輝夜が待っているのは日付ではなく、路上ライブが始まる瞬間そのものなのだろう。
彩葉は布団から出ながら机を見る。
現実側で必要になる確認事項だけは、昨夜のうちにまとめてあった。
音源データ
配信設定
進行表
ログインしてから確認する会場の位置
これですべてだ。
「朝ごはんは?」
「まだよ。食べる音で起こしたらいけないと思ったの」
彩葉は額へ手を当てた。
言いつけを守っているのに、なぜここまで極端になるのだろう。
起こさないことと、何もしないことは違うのだと説明すると、輝夜は特に反省する様子もなく、「もう起きたから、一緒に食べられるわね」と嬉しそうに立ち上がった。
初めて人前で歌う日だというのに、緊張している様子はどこにもない。
むしろ問題だったのは、ライブまでまだ何時間も残っていることだった。
朝食を終えた後も、輝夜は何度も時計を確認した。
声を出して練習することは禁止されているため、途中から机の上を指先で叩き、曲のリズムを取り始める。
とん、とん、ととん。
少し止まり、また繰り返す。
夏休みの課題へ向けていた彩葉の鉛筆が止まった。
注意すると、輝夜は素直に指を止めた。
ところが数秒後、今度は膝の上で、ほとんど音が出ないように指だけを動かし始める。
彩葉はもう何も言わなかった。これ以上止めれば、次は瞬きだけで拍を数え始めそうだった。
◇ ◇ ◇
夕方
二人はスマコンを装着し、ツクヨミへログインした。
現実の狭い部屋が光の向こうへ消え、代わりに現れたのは、夕暮れに染まり始めた和風の街並みだった。木造の建物が道の両側へ続き、軒先には柔らかな灯りがともっている。行き交う利用者の話し声や足音が重なる向こうからは、水の流れる音も聞こえていた。
輝夜は腰近くまで伸びた黒髪を揺らしながら、迷うことなく歩き出した。
淡い桃色の上着と、濃い色の長いスカート。月や植物を思わせる装飾をまとったその姿は、配信でもすでに見慣れたものになりつつあったが、今日は画面の中ではなく、ツクヨミを歩く利用者の前へ直接立つことになる。
いくつかの通りを抜けると、今日の会場となる橋が見えてきた。
水路へ架けられた木造の橋。両側には赤い欄干が続き、その向こうには灯りをともした木造建築が幾重にも重なっている。水面には夕暮れの色と街の明かりが揺れ、橋を渡る者の姿が時折その反射を横切った。
広場のように開けた場所ではない。
けれど、人が行き交うには十分な幅があり、少人数なら通行を妨げずに足を止めて歌を見ることもできる。彩葉が事前に候補として選んでいた場所だった。輝夜は橋の中央付近まで進み、周囲を見回す。
「ここなら、歌えばすぐに集まりそうね」
後ろからついてきた彩葉は、僅かに眉を寄せた。
まだ始まってもいないのに、どうしてそこまで言い切れるのか。
そんな疑問を口にしても、返ってくる答えは昨日から変わらなかった。
歌えば分かる
自分が歌う
ならば、人は集まる
輝夜の中では、それがほとんど自然法則のように扱われているらしい。
ライブ開始までは、まだ少し時間がある。
配信も始まっておらず、橋の周囲にも二人へ注意を向けている者はいない。
だから、この時点では輝夜もいつも通り彼女を彩葉と呼んでいた。
「彩葉、あれを着て」
輝夜がツクヨミ内の衣装一覧を開く。
そこへ表示されたのは、大きな耳と丸みを帯びた頭、ふさふさとした尻尾を持つキツネの着ぐるみだった。昨日、輝夜が「これなら彩葉だと分からないでしょう」と差し出したものだ。彩葉は表示された衣装と輝夜を交互に見る。
「本当にこれで出るんだ……」
「昨日、着てくれると言ったわ」
約束した以上、今さら逃げることもできない。
彩葉が装備を選択すると、その姿が淡い光へ包まれた。
次の瞬間には、彩葉の姿は大きなキツネへ変わっている。
顔も髪も見えず、身体の輪郭もほとんど分からない。これなら知り合いが観客の中に混じっていたとしても、彩葉本人だと気づくことは難しい。輝夜は満足そうに一周眺めた。
「やっぱり可愛いわ」
「何も嬉しくないんだけど」
彩葉が返すと、輝夜は楽しそうに笑った。
その顔を見ていると、断らなくてよかったと思ってしまう自分がいることが、彩葉には少し悔しかった。花びらも、ツクヨミ内の演出として準備する。
輝夜が用意していた設定を呼び出し、彩葉が操作しやすい位置へ置く。
音源についても、ツクヨミ側へ転送していたものを確認した。
伴奏は生演奏ではない。彩葉がその場で楽器を弾くこともない。事前に用意した音源を流し、それに合わせて輝夜が歌う。彩葉の役目は音源の再生、配信の確認、必要に応じた合図、それから輝夜がどうしても入れたいと言った花びらの演出だった。
「最後に確認するよ。歌い始めたら人の数は気にしない。途中で誰かが話しかけても歌を止めない。予定にないことも始めない」
輝夜は一つずつ真剣に聞き、最後まで頷いた。
その直後、橋を渡ってきた利用者が二人の方へ視線を向ける。
一瞬前までの、二人だけの時間が終わった。
輝夜は自然に呼び方を変えた。
「いろP、もう始めてもいい?」
キツネ姿の彩葉――いろPは、小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
配信を開始すると、すぐに見覚えのある名前がコメント欄へ現れ始めた。
今日は外なのか
橋で何をするのか
そして少し遅れて、キツネの着ぐるみに気づいた視聴者が、これがいろPなのかと尋ね始める。
輝夜が「そうよ」と答えたことで、あっという間にコメント欄へ『いろPもいる』『キツネかわいい』という文字が増えた。
姿を隠すために着ているはずなのに、普段より目立っている気がする。
いろPはそう思いながらも、今さら引き返すことはできなかった。
開始時刻が近づくにつれ、橋の上にも少しずつ人が集まり始める。
といっても、最初は数人だった。
配信を見て来たらしい者
何か始まるのかと足を止めた者
少し離れたところから様子を見ている者
ヤチヨのライブのように、大勢が地面を埋め尽くしているわけではない。
巨大な月もない。空と海が一つになるような演出もない。
赤い欄干の橋の上に、輝夜とキツネが立っている。
それだけだった。
いろPは輝夜を見る。
初めての路上ライブである。
目の前の人数を見て、不安になってはいないか。
その心配は完全に不要だった。
輝夜は、数人しかいない観客を見ても少しも表情を曇らせていない。
むしろ、歌う前から自分を見ている者がいることを、当然のように受け止めている。
「始めれば、もっと増えるわ」
小さくそう言い、橋の中央へ進んだ。
いろPはもう何も言わず、開始の合図を出した。
輝夜は観客へ向き直る。
「私は輝夜。ヤチヨカップに参加しているライバーよ。今日は、いろPが用意してくれた曲を歌うわ」
昨日まで何度も練習した通り、そこで余計な話を始めなかった。
なぜヤチヨと一緒に歌いたいのか。
ヤチヨのライブがどれほど素晴らしかったのか。
それらは今、必要ではない。
「知らない人も、少しだけ聞いていって」
短く言い終える。
いろPがキツネの手で小さな丸を作ると、輝夜は僅かに嬉しそうに目を細めた。
音源が流れ始める
短い前奏
輝夜は一度だけ息を吸った
そして、――歌い始めた。
最初の一音が、橋の上へ真っ直ぐに伸びていく。
室内で練習していた時とは、声の響き方が違った。
壁に返されることなく、水路と街並みの方へ音が抜けていく。
けれど輝夜は慌てない。
最初の数小節を、自分の声がどこへ届いていくのか確かめるように丁寧に歌う。
歌詞に間違いはない。
音程も安定している。
声量も大きすぎない。
何より、観客が少ないことをまったく気にしていなかった。
目の前の者へ、まず歌う。
ただ、それだけだった。
橋を渡ろうとしていた一人が、歩みを緩めた。
歌声の方へ顔を向け、そのまま少し離れた場所で立ち止まる。
その後ろを歩いていた別の利用者も、何が始まったのかと振り返った。
橋の向こう側から来た二人組は、一度はそのまま通り過ぎようとしたものの、途中で足を止めた。
一人
また一人
最初から輝夜を見に来たわけではない者が、少しずつ橋の周囲へ残り始める。
輝夜は歌いながら、その変化を見ていた。
驚いてはいない。
むしろ、
――ほら
とでも言いたげな、僅かな笑みが目元へ浮かんでいる。
いろPはそれを見て、キツネの頭の中で小さく息を吐いた。
本当に、この自信だけは大したものだと思う。
◇ ◇ ◇
最初の数小節まで、彩葉の意識は完全にプロデューサーのものだった。
声量は大きすぎないか。
高い音へ移る時に喉へ力が入っていないか。
音源とずれていないか。
観客が増えたことに気を取られ、歌そのものを崩してはいないか。
練習してきたことを一つずつ頭の中で確かめながら、必要であればすぐ合図を出せるよう、キツネの手を胸元へ構えていた。けれど、曲が進むにつれて、その意識が少しずつ薄れていった。
輝夜は、部屋で練習していた時と同じ曲を歌っている。
旋律も、歌詞も、彩葉が何度も聞いてきたものと変わらない。
流れている音源だって、自分が昔作ったものだ。
父がいた頃にも聞いた。
パソコンの中へしまった後も、何度か開いたことがある。
そして、この数日間は輝夜の練習に付き合いながら、何度も繰り返し聞いてきた。
聞き慣れているはずだった。
それなのに、橋の中央に立つ輝夜が歌うだけで、同じ曲がまるで別のもののように聞こえた。
赤い欄干の向こうには、夕暮れを映した水面が揺れている。木造の街並みに一つずつ灯りがともり始め、その間を歩いていた者たちが輝夜の声を聞いて足を止める。
長い黒髪が、身体の動きに合わせて僅かに揺れる。淡い桃色の衣装の袖が、歌に合わせるように動く。
けれど、彩葉の視線を奪ったのは、景色だけではなかった。
輝夜は、歌うことそのものを楽しんでいた。
数人しかいなかった観客が増えるたび、そのことへ驚くのではなく、やはりそうなったと受け止めながら、それでも瞳の奥だけは少しずつ嬉しそうに輝いていく。
ただ正しく歌っているのではない。
最初に立ち止まった一人へ届ける。
その後ろに加わったもう一人へ届ける。
さらに橋の向こうからこちらを振り返った誰かへまで、言葉を運ぼうとしている。
練習していた時にはなかった歌い方だった。
彩葉は、合図を出そうとしていたことさえ忘れていた。
キツネの姿の内側から、ただ輝夜を見つめる。
――綺麗
頭へ浮かんだ言葉に、彩葉自身が一瞬遅れて気づいた。
歌声のことなのか。
夕暮れの橋の上で歌っている姿のことなのか。
それとも、その両方なのか。
自分でも分からない。
けれど、視線を逸らせなかった。ヤチヨのライブを見ていた時とは、どこか違う。
ヤチヨは、ずっと憧れだった。遠い場所で輝き、自分が見上げる相手だった。
けれど、今目の前で歌っている輝夜は違う。
つい数日前まで、何も分からないまま一人で配信を始め、終了方法すら分からずカメラへ顔を近づけていた。自分で描いた不格好なアバターを、自信満々に見せてきた。ジングルを作れば聞いている方が不安になるような音になり、それでも本人は立派にできたと思っていた。
その輝夜が今、自分の作った曲を歌っている。
自分が何度も直したところを覚え、教えた呼吸を使い、橋を歩いていた者たちの足を、本当に歌だけで止めている。胸の奥へ、形の分からない感情が広がった。
嬉しい。
それだけでは足りない。
誇らしいと言えば、少し大げさなようにも思える。
けれど、輝夜へ曲を渡したことも、プロデュースを引き受けたことも、間違いではなかったと思える程度には、その姿が眩しかった。
やがて、曲の中で決めていた合図の位置が近づく。
本来なら、そこで彩葉が丸を作るはずだった。
けれど、その手は動かなかった。
輝夜の方が先にこちらを見たからだ。
ほんの一瞬。
歌を途切れさせることなく、赤みを帯びた瞳がキツネ姿のいろPへ向けられる。
その視線を受けて初めて、彩葉は自分が合図を忘れていたことへ気づいた。
慌てて両手で小さな丸を作る。
その瞬間、輝夜の目元が柔らかく細められた。
ほんの僅かな変化だった。
けれど彩葉には、それが自分だけへ向けられた笑顔のように見えた。
胸が、不意に強く鳴った。
彩葉は反射的に視線を逸らしかけ――それでも、すぐにまた輝夜を見る。
今はライブの最中だ。
自分はいろPで、輝夜を支える側なのだから。
そう言い聞かせる。
けれど、その後しばらくの間。
観客がまた一人増えたことにも、コメント欄へ新しい文字が流れたことにも、彩葉は気づかなかった。ただ、橋の中央で自分の曲を歌っている輝夜から、目を離すことができなかった。
◇ ◇ ◇
曲が最初の大きな盛り上がりへ差しかかったところで、彩葉はようやく本来の役目を思い出した。
花びらを入れる予定の場所だった。
一瞬遅れたことに気づき、慌てて演出を呼び出す。
ツクヨミ内の設定なので、現実の袋を開く必要はない。キツネの手を振る動作に合わせ、薄い花びらがまとまって現れる。
彩葉はタイミングを取り戻そうと、少し勢いをつけて放った。
花びらが橋の上へ広がる。
――はずだった。
勢いをつけすぎた。
大半は綺麗に舞ったものの、何枚かがそのまま輝夜の顔の前を横切り、一枚が頬へ触れ、もう一枚が黒髪へ引っかかった。
輝夜の視線が、ほんの一瞬だけ横へ動く。
歌は止まらない。
表情も崩さない。
けれど、その瞳だけは明らかに、
――彩葉
と訴えていた。
もちろん、人前なので口には出さない。
いろPはキツネの手を胸元で合わせ、小さく謝った。
観客の一部から笑いが漏れる。
失敗を馬鹿にするようなものではなかった。
一生懸命花びらを投げたキツネと、それを顔へ受けても平然と歌い続ける輝夜の組み合わせが、妙に面白かったらしい。
配信側でもコメントが流れ始める。
いろPの花びらが顔へ直撃したこと。
それでも輝夜がまったく動じないこと。
そして、次こそ頑張れとキツネを応援する言葉まで並び始めた。
彩葉は、次はもう少し控えめに演出を出した。
今度は成功した。
薄い花びらが高い位置からゆっくり落ち、輝夜の周囲へ散っていく。
夕暮れの光
赤い欄干
水面へ映る街の灯り
その中を舞う花びら
大掛かりな舞台装置など何もない。
それでも、ほんの僅かな演出が加わるだけで、橋の中央で歌う輝夜の姿は、先ほどまでより鮮やかに見えた。観客もさらに増えていた。
最初は片手で数えられる程度だった。
今は橋の両側へ、人が点々と立っている。
その中に、一人だけ見覚えのある姿が混じっていた。
ヤチヨのライブで実況や前説を務めていた、忠犬オタ公だった。
ほかの観客より少し後ろに立ち、今日は大声を張り上げることもなく、輝夜の歌と、その隣で花びらを操っているキツネ姿のいろPを静かに見ている。
彩葉は一瞬だけ気づいたものの、それ以上意識を向けなかった。
今はライブの最中だ。
忠犬オタ公も、ここでは観客の一人に過ぎない。
◇ ◇ ◇
曲は後半へ入った。
輝夜の歌い方にも、少しずつ変化が生まれていた。
練習では、正しく歌うことへ意識を向けていた。
今は、目の前に聞いている者がいる。
一人増えれば、その一人へ。
さらに増えれば、その向こうへ。
無理に声を大きくするのではなく、言葉そのものを遠くへ運ぼうとする歌い方へ、自然に変わっている。彩葉は、今度こそプロデューサーとしてその変化を見ていた。直す必要はない。だから、小さく丸を作る。
それを視界の端で見た輝夜の表情が、ほんの少しだけ明るくなった。
コメント欄にも、歌についての言葉が増えていく。
声が綺麗だ
続きも聞きたい
人前で歌っている時の方が、配信で試していた時より良い
いろPの曲も好きだ
その合間に、ふじゅ~を獲得したことを知らせる小さな表示が浮かんだ。
一つ。
少し間を置いて、また一つ。
現地で足を止めた者からも、配信側からも、少しずつ応援が届いている。
輝夜はそれらを見ても、歌を止めなかった。
ただ、嬉しさだけが目元へ僅かに浮かぶ。
最初に言った通りだった。
歌えば、人が集まる。
もちろん、ヤチヨのライブとは比べものにならない。
観客はまだ僅かだ。
それでも、始まる前にはほとんど誰もいなかった橋の上で、今は何人もの人が輝夜の歌を聞くために足を止めている。
それは、十分な始まりだった。
最後の部分へ入る。
いろPは、もう一度花びらの演出を呼び出した。
今度は慌てない。
輝夜との距離を見て、曲の流れを確かめる。
最後の音が伸び始める直前。
キツネの手が上がる。
薄い花びらが、夕暮れの光を受けながら橋の上へ広がった。
その中央で、輝夜は最後まで声を崩さない。
歌詞を一つも間違えず
旋律を外さず
最後の一音まで歌い切った。
音源が終わる。
一瞬だけ、橋の上へ静けさが落ちた。
そして、拍手が起こる。
最初から見ていた者だけではない。
途中で足を止めた者たちも手を叩いていた。
配信のコメント欄も一気に流れ始める。
また聞きたい
初ライブ成功
歌が良かった
そして、途中で失敗した花びらが最後には綺麗に決まったことまで褒められている。
最後の評価だけは、彩葉としては複雑だった。
輝夜は観客を見回した。
開始前より、明らかに増えている。
それを確認しても驚かなかった。
満足そうに微笑んだだけだった。
まるで、自分の予想が正しかったことを確かめたように。
「聞いてくれてありがとう」
練習していた締めの言葉。
そこまでは予定通りだった。
輝夜は続けようとして、一度だけ言葉を止めた。
彩葉が警戒する。
昨日までなら、このままヤチヨの話を始めていたかもしれない。
けれど輝夜は、何度も出された『短く』の紙を思い出したのか、ほんの僅かに考えてから言葉をまとめた。
「また歌うわ。気になったら、次も来て」
それだけで終えた。
彩葉は、出しかけていた注意の合図を止める。
ほんの数日前なら、止められるまで話し続けていただろう。
少しずつだが、確かに学んでいる。
もう一度、拍手が起こった。
橋の端では、忠犬オタ公も小さく手を叩いていた。
輝夜がそちらへ気づいた頃には、特別に声をかけることもなく、ほかの観客に混じってその場を離れ始めていた。
◇ ◇ ◇
ライブが終わっても、すぐに二人きりにはならなかった。
何人かの観客が橋の上へ残り、輝夜へ声をかけている。
歌が良かった
次はいつ歌うのか
普段はどこで配信しているのか
以前なら、一人の相手と長く話し込んでいたかもしれない。
今の輝夜は一つずつ答えながらも、別の者が話しかければきちんとそちらへ視線を移す。
数日前に彩葉から教えられたことを、少しずつ実践していた。
いろPはその横で配信先を案内し、必要な時だけ補助する。
観客の一人が、曲を作った人物について尋ねた。
輝夜は迷うことなく、隣のキツネを示す。
「私のプロデューサー、いろPよ」
いろPは小さく頭を下げた。
それを見た配信側でも、キツネ姿のいろPについてのコメントが流れていく。
本人はなるべく目立たないようにしているつもりだった。
だが、キツネの姿で橋の上に立ち、花びらまで投げた後では、存在感を消す方が難しかった。
やがて最後の観客も離れ、配信を終了する。
橋の上に残ったのは二人だけになった。
周囲にも、会話を聞いている者はいない。
その瞬間、輝夜の呼び方が戻る。
「彩葉」
キツネの姿はそのままだ。
ツクヨミ内の衣装なのだから、わざわざ急いで解除する必要もない。
二人きりなら、姿がどうであれ彩葉は彩葉だった。
「お疲れさま。初めてにしては、かなり良かったと思うよ」
その言葉を聞いた輝夜の顔が、すぐに明るくなった。
彩葉はライブの結果を表示しながら、具体的に良かったところを挙げていく。
途中で人が増えても、必要以上に声量を上げなかった。
歌詞も一度も間違えなかった。
最後の挨拶も、自分で短くまとめることができた。
そして、練習の時よりも、人へ届けることを意識した歌い方ができていた。
そこまで言ってから、彩葉は一度言葉を止めた。
ライブ中、自分が輝夜に見惚れて、合図を出すのを忘れたことを思い出したからだ。
あれまで言う必要はない。何となく、そう思った。
「花びらも最後は綺麗だったわ」
輝夜が話題を変えたことで、彩葉は少しだけ安心した。
「最初のは忘れて」
「顔に当たったわ」
「忘れてって言ってるでしょう!」
輝夜は怒っているわけではなかった。
むしろ、思い出すこと自体を楽しんでいるようだった。
二人でライブ後の数字を確認する。
配信の視聴数
新しく増えたフォロー
獲得したふじゅ~
どれも、それまでの配信より明らかに多い。
輝夜は数字を見終えると、当然の結果を確認したように頷いた。
「やっぱり集まったわ」
「そこ、少しくらい驚かない?」
輝夜は本気で理由が分からないような顔をした。
自分が歌えば集まると思っていた。だから実際に集まった。ただ、それだけらしい。
彩葉は言い返すことを諦めた。
それでも、輝夜が数字だけを見ているわけではないことにも気づいていた。
自分一人で初配信を終えた時の満足とは、少し違う。
誰かが足を止めた
歌を聞いた
拍手をしてくれた
また聞きたいと言ってくれた
そこには、自分以外の誰かがいる。
輝夜自身も、ようやくそのことを実感し始めたのだろう。
「彩葉」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
輝夜は増えた数字ではなく、先ほどまで観客が立っていた橋の上を見ていた。
「次は、別の曲も歌いたいわ」
予想していた言葉だった。
同じ曲だけでは、次に来た人も同じものしか聞けない。
その理屈自体は間違っていない。
問題は、新しい曲がどこから出てくるかだった。
彩葉が何とも言えない顔をすると、輝夜はその反応を見て一度だけ目を細めた。
そして、半歩近づく。彩葉の警戒心が跳ね上がった。
この距離の詰め方を、自分はもう知っている。
初めて試した時よりも、明らかに自然な動きで彩葉へ近づき、赤みを帯びた瞳で少し下から見上げた。
「お願い、彩葉。次の曲も一緒に考えて」
彩葉は即座に眉を寄せた。
「だから、おねだりだけ上達しないでって言ったでしょう!」
橋の下を流れる水の音へ、彩葉の声が重なる。
輝夜は楽しそうに笑った。
新しい視聴者が増えた。
ふじゅ~も増えた。
初めての路上ライブも、無事に終わった。
そして何より、今日も彩葉は自分の隣にいた。
「これからも、プロデュースしてくれるでしょう?」
今度の問いだけは、おねだりの声ではなかった。
輝夜は笑みを少し収め、まっすぐに彩葉を見ている。
彩葉も、すぐには否定しなかった。
今日までなら、この橋を行き交うほとんどの者が輝夜の存在を知らなかった。
けれど今日、その中の何人かが足を止めた。
歌を聞いた
名前を覚えた
次も聞きたいと言った
ヤチヨとの差は、まだ途方もなく大きい。
それでも、数日前まで誰にも知られていなかった輝夜の名前が、確かに一歩だけ外へ広がった。
そして、その一歩を踏み出す瞬間を。
彩葉は、誰より近い場所で見ていた。
「……条件を守るならね」
彩葉が答えると、輝夜の顔が一瞬で明るくなる。
「守るわ」
「予定にないことをしない」
そこで輝夜は、一瞬だけ考えた。
「努力するわ」
「今、守るって言ったばかりでしょう!」
輝夜は答えず、赤い欄干の向こうへ視線を向けた。
夕暮れはすでに夜へ変わり始め、木造の街並みに灯された光が、水面へ長く揺れている。
つい先ほどまで自分が歌っていた橋には、もう観客はいない。
けれど輝夜の耳には、最後に受けた拍手がまだ残っているようだった。
自分が歌えば、人は集まる。
今日、それは初めて現実になった。
ならば次は、もっと多く。
その次は、さらに多く。
そうしていつか。
自分の歌を聞く者で埋め尽くされた場所で、ヤチヨと同じ舞台へ立つ。
輝夜は夜へ変わり始めたツクヨミの空を見上げ、何の迷いもなく微笑んだ。
その横で彩葉は、少しだけ遅れて同じ空を見上げる。
けれど、ほんの少し前まで自分が見つめていたものは、空ではなかった。
橋の中央で歌っていた、輝夜だった。
そのことだけは、まだ本人へ伝えないまま。
二人の初めての路上ライブは、静かに幕を閉じた。