七月も終わりへ近づいた頃、酒寄彩葉の夏休みは、休みという言葉から連想されるものとはずいぶん違った姿になっていた。
朝は学校から出された課題を進め、時間になればアルバイトへ向かう。帰宅して食事と風呂を済ませれば、今度は輝夜の配信に使う音源を確認したり、配信画面を調整したり、次に何をするか相談したりする時間が待っている。以前なら勉強へ回していたはずの隙間に、少しずつ輝夜の予定が入り込み、予定表に並ぶ文字だけを眺めれば、夏休みに入る前よりも忙しくなっているのではないかと思えるほどだった。
もっとも、すべての配信に彩葉が付き添っているわけではない。
最初の頃こそ、輝夜が何を言い出すか分からないという不安もあって、配信を始めるたび彩葉が横で見守っていた。けれど回数を重ねるうちに、輝夜は配信画面の扱い方も、コメントの拾い方も、配信を終えるタイミングも覚えていった。そうなると、彩葉がアルバイトへ出ている時間を大人しく待っている理由が、輝夜にはなくなった。
雑談なら一人でできる。
ツクヨミの街を歩くだけなら、もっと簡単だ。歌についても、事前に使用する音源さえ用意されていれば、自分で再生して歌うことができる。
だから最近では、彩葉が家を出たあとに輝夜が一人で配信を始め、アルバイトを終えた彩葉が帰宅してから、その日の出来事を聞かされることさえ珍しくなくなっていた。
それが良いことなのか悪いことなのか、彩葉にはまだ判断がついていない。
数日前、ツクヨミの和風街区に架かる木造の橋で行った初めての路上ライブが、予想していた以上の反応を残したことも、その変化を後押ししていた。
ライブが始まった頃、橋の上で足を止めていた者は数えるほどしかいなかった。それでも輝夜は観客の少なさなど気にも留めず、事前に準備した伴奏が流れ始めると、最初から人が集まることを疑っていないような顔で歌い始めた。
そして、本当に人が集まった。
一人が立ち止まり、もう一人が振り返り、その人垣に気づいた別の誰かが橋へ近づいてくる。曲が終わる頃には、赤い欄干の周囲にひとつの観客の輪ができていた。
その様子を誰かが撮影していたらしい。
ある夜、アルバイトを終えた彩葉が部屋へ戻ると、玄関を開けるなり輝夜がスマコンの画面を差し出してきた。
「彩葉、これ見て。昨日のライブが動画になってるの」
帰宅した直後から有無を言わせぬ勢いで画面を突きつけられ、彩葉は肩から鞄を下ろしながら苦笑する。
「せめてただいまくらい言わせてよ。……そんなに慌てて、どれ?」
注意されて初めて順番を間違えたことに気づいたらしく、輝夜は「あ」と小さく声を漏らしたあと、改めて彩葉を見上げた。
「おかえり。それでね、これ」
「順番直しただけで、結局すぐ見せるんだ」
呆れながらも、彩葉は表示された映像へ視線を落とした。
投稿者は輝夜ではない。
橋から少し離れた位置から撮影された短い動画で、序盤にはまばらだった観客が、歌が進むにつれて徐々に増えていく様子が分かりやすく収められている。
『昨日ツクヨミで見つけた新人、普通にすごかった』
そんな短い文章とともに投稿された映像には、すでに多くの反応が寄せられていた。
『声好き』
『最初ほとんど人いなかったのに増え方すごい』
『最近配信してる輝夜って子?』
『ヤチヨカップ出るんだ』
『また歌ってほしい』
そこまでは彩葉も悪い気はしなかった。
自分が手伝ったライブが評価されている。
なにより、輝夜が自分のことのように、いや実際に自分のこととして嬉しそうにコメントを追っている。その姿を見れば、準備に費やした時間も無駄ではなかったと思える。
しかし、次に流れてきた一文を見た瞬間、彩葉の表情が固まった。
『後ろのキツネ何?』
嫌な予感を覚えながら映像を少し戻す。
橋から離れた場所。
そこには確かに、キツネの着ぐるみ姿でライブを見守っている自分のアバターが、小さく映り込んでいる。
「……なんで私まで撮られてるの」
額を押さえた彩葉とは対照的に、輝夜はむしろ嬉しそうだった。
「いろPも見つけてもらえたのね。ほら、ちゃんと知ってる人もいるわよ」
指差された先には、『あれが噂のいろP?』『輝夜のプロデューサーでしょ』といったコメントまで並んでいる。
裏方として少し姿を見せただけのはずだった。
本名を出したくないからこそ、配信中は彩葉と呼ばないよう輝夜へ何度も言い聞かせ、それでも表へ出る必要があるときには着ぐるみで誤魔化してきた。それなのに、気づけば視聴者の間で「いろP」という存在そのものが認識され始めている。
「私は裏方でいたいんだけどな……。輝夜を見てもらうためにやってるのに、私まで覚えられてどうするの」
「いいじゃない。私を見てくれる人が、彩葉のことも知ってくれるんでしょう?」
輝夜は心底不思議そうだった。
目立つかどうかなど、彼女にとってはそれほど重要ではないらしい。
自分が大切に思っている相手を、自分を応援している人たちも知ってくれる。
ただそれだけで嬉しいのだろう。
彩葉はしばらくその顔を見つめ、やがて諦めたように息を吐いた。
「……私は人気者になりたいわけじゃないからね」
「じゃあ、裏方の人気者でいればいいのね」
「人気者の部分は外して」
その返事がおかしかったのか、輝夜は楽しそうに笑った。
◇ ◇ ◇
初ライブを境に、輝夜の活動は目に見えて勢いを増していった。同時に、配信のやり方そのものも変わっていった。彩葉がいる夜にしか配信しなかった頃とは違い、今では昼間に輝夜一人で配信を始めることもある。
最初に一人で行ったのは、ただの雑談配信だった。
彩葉がアルバイトへ向かう前、輝夜はいつもより念入りに配信画面を確認し、コメントの表示位置や音量を一通り確かめていた。
「本当に一人で大丈夫?」
玄関へ向かいながら彩葉が振り返ると、輝夜はパソコンの前から自信ありげに頷いた。
「もう何回もやってるでしょう。雑談するだけなら大丈夫よ」
「本名は出さない。知らない設定を勝手に触らない。変なリンクが来ても開かない。終わったらちゃんと配信を切る。あと――」
「彩葉、その説明、さっきも聞いたわ」
「心配なんだから仕方ないでしょ」
輝夜は少しだけ笑い、それから手を振った。
「いってらっしゃい、いろP」
「今は配信してないから彩葉でいいよ」
「じゃあ、いってらっしゃい、彩葉」
その日の夕方。
アルバイトを終えた彩葉が休憩中に配信ページを確認すると、輝夜は本当に一人で視聴者と話していた。
『いろP今日いないの?』
というコメントを見つけた輝夜が、画面へ向かって少し考えたあと、落ち着いた声で答える。
「今日はお仕事。だから私一人よ。でも、私だけでも楽しいでしょう?」
その言葉に、
『もちろん』
『一人配信も好き』
『成長したな』
とコメントが返ってくる。
彩葉はスマコン越しにその様子を見ながら、なんとも言えない気持ちになった。
少し前まで、自分が横にいなければ配信を始めることさえできなかった。それが今では、一人で視聴者のコメントを拾い、話題が途切れそうになれば自分から別の話を始め、配信の空気を繋いでいる。
嬉しい。
けれど、少しだけ寂しい。
そんな感情を抱いたこと自体が可笑しくて、彩葉は小さく笑った。もちろん、輝夜一人の配信が毎回穏やかに終わるわけではない。
ある日はツクヨミの街を散策している最中に予定していた道を外れ、視聴者から『そこどこ?』と聞かれて自分でも現在地が分からなくなった。
別の日には、通りすがりの店で見つけた菓子を買い、その場で配信内容を丸ごと食レポへ変更した。またある日は、雑談のつもりで始めたはずがコメントで歌を求められ、用意していた伴奏を使って二曲だけ歌った。配信が終わるたび、彩葉のもとには輝夜から報告が届く。
『今日は一人で二時間できた』
『道に迷ったけど戻れた』
『歌も歌った』
その文面を読むたびに、彩葉は「一人でできることが増えたね」と思う一方で、「道に迷ったの部分はもう少し気にしてほしい」とも思っていた。夜になれば、二人で配信する日もある。その場合には、以前より明らかに視聴者の反応が変わった。
『今日は二人だ』
『いろPいる』
『この組み合わせ好き』
そんなコメントが流れるたび、彩葉は複雑そうな顔をし、輝夜は満足そうに笑う。
配信頻度が増えたことで、数字もさらに動き始めた。
告知を出せば人が集まり、配信後には短い切り抜きが作られ、それを見た新しい視聴者が次の配信へやってくる。
ヤチヨカップの順位も、最初に確認したときとは比較にならないほど上がっていた。
「かなり上がってるよ。もう少し喜んでもよくない?」
ある夜、順位表を確認していた彩葉がそう言うと、輝夜は数字を見たあと、すぐ次の配信予定へ視線を移した。
「もちろん嬉しいわ。でも、まだ一番じゃないでしょう?」
その迷いのなさに、彩葉は思わず苦笑した。
「……そうだった。最初からそういう話だったね」
「ヤチヨと一緒に歌うために出るんだもの。一番にならないと」
一度決めた目標だけは、少しも揺らいでいない。
その真っ直ぐさを、彩葉はいつの間にか心地よく感じるようになっていた。
◇ ◇ ◇
数日後、これまでより少し長めの歌配信を行うことになった。一人配信に慣れてきたとはいえ、今回は彩葉も最初から付き添う。雑談の合間に一曲だけ歌うのではなく、最初から最後まで歌を中心にした枠として組むため、音量調整や曲順など、事前に確認しておきたいことが多かった。
選んだ曲は一曲ではない。
これまで練習してきた中から、視聴者にも馴染みのあるカバー曲を何曲か選び、その中に彩葉が昔作ったオリジナル曲を一曲加える。
彩葉としては、その方が気が楽だった。自分の曲だけを大々的に扱われるのは、今でもどこか落ち着かない。バイトから戻った彩葉は夕食を急いで済ませると、すぐパソコンの前へ座った。曲順を確認し、伴奏音源の音量を揃え、配信画面を確認する。輝夜はその横で歌詞を見ながら、小さく口を動かしていた。
一曲目は明るくテンポの速い曲。
その次は少し落ち着いた曲。
さらにもう一曲カバーを挟み、後半に彩葉のオリジナル曲を入れる。
「この曲、二番に入ったところで少し走りやすいから、伴奏をちゃんと聞いてね」
彩葉が画面を確認しながら注意すると、輝夜は歌詞から顔を上げた。
「……走るの?」
輝夜の返答に、彩葉は一瞬だけ固まる。
「……先に行かないようにって意味。実際に走る話じゃないから」
輝夜は少し口元を上げた。
「冗談よ、分かってるわ」
「分かってて言ったの?」
「彩葉の反応が面白かったから」
からかわれたことに気づいた彩葉は、呆れたように額を押さえた。
「配信に慣れるのはいいけど、そういうところまで成長しなくていいの」
そんなやり取りをしている間にも、配信開始時刻は近づいていた。
待機画面には、以前より遥かに多くのコメントが流れている。
『今日は歌枠だ』
『カバー何歌うんだろ』
『路上ライブ見て来た』
『いろP選曲?』
『オリジナルも歌うらしい』
画面を眺めた輝夜は、緊張するどころか嬉しそうに笑った。
やがて配信開始の時間になる。
「今日はたくさん歌うわ。知ってる曲もあると思うから、最後まで聞いていってね」
一曲目の伴奏が流れ始めた。
明るいカバー曲だった。
輝夜の歌い方は、初配信の頃とは明らかに変わっている。もちろん、まだ完成された歌手というわけではない。それでも音程を取るだけで精一杯だった頃とは違い、今は配信の向こうにいる視聴者へ意識を向ける余裕があった。
画面へ笑いかける。
少し身体を揺らす。
曲の雰囲気に合わせて声の強さを変える。
彩葉が教えたこともある。けれど、それだけではない。一人で配信するようになったことも大きいのだろう。視聴者との距離の取り方を、自分なりに覚え始めている。一曲目を終えると、コメント欄が勢いよく流れた。
『上手くなってる』
『この曲合う』
『一人配信の時より気合入ってる』
『いろPいるから?』
最後のコメントに輝夜が反応しかけたため、彩葉は画面外から無言で人差し指を立てた。
余計なことを言うな。
それだけで意味が通じたらしく、輝夜は小さく笑って次の曲へ進んだ。
二曲目は、少し落ち着いたカバー曲。
三曲目では再び雰囲気を変え、曲が終わったあとに少しだけ雑談を挟む。
そして後半。
輝夜が次の曲を紹介した。
「次は、いろPが昔作った曲。私がとても好きな曲なの」
画面の外で彩葉の肩が僅かに跳ねる。
『来た』
『オリジナルだ』
『いろP作曲』
『例の曲?』
彩葉が小声で釘を刺した。
「余計なことまで説明しなくていいからね」
輝夜は一度だけ振り返り、楽しそうに笑った。
「分かってるわ。好きだから歌うだけ」
伴奏が始まる。
彩葉にとっては、何度聞いても過去の自分を引き出されるような音だった。今よりずっと幼かった頃。何かになりたいと思いながら、それが何なのかも分からなかった頃に作った曲。
今聞けば、直したいところはいくらでもある。コードも、音の重ね方も、言葉の置き方も。今の自分なら、きっと違う形にする。
けれど、輝夜はそんなことを一度も気にしなかった。最初に聞いたときから、ただ好きだと言った。古いことも、彩葉自身が恥ずかしがっていることも、輝夜には曲を嫌いになる理由にはならなかった。
今、その曲がカバー曲の間に混ざり、大勢へ向けて歌われている。それでも不思議と見劣りしているようには思えなかった。
むしろ輝夜は、先ほどまでのカバー曲とは少し違う歌い方をしていた。知っている歌を自分なりに表現するのではなく、自分が見つけた大切なものを、誰かへ見せるような歌い方だった。
彩葉は気づけば作業の手を止めていた。
最後の音が消える。
ほんの短い静寂のあと、コメント欄が一気に埋まった。
『これ好き』
『普通にめちゃくちゃいい曲』
『カバーも良かったけどこれ一番好きかも』
『いろPこれ昔作ったの?』
『もっとオリジナル聞きたい』
『輝夜の声に合ってる』
『音源欲しい』
輝夜は目を見開き、流れていく文字を懸命に追っていた。そして、自分自身を褒めるコメントよりも先に、『曲好き』という一文を見つける。反射的に後ろを振り向きかけ、途中でぴたりと止まった。
彩葉が警戒するように目を細める。輝夜も、何を注意されていたのか思い出したらしい。少しだけ考えてから、今度はきちんと名前を選んだ。
「いろP、見て。みんな曲が好きだって」
彩葉は僅かに驚き、それから笑った。
「……今回はちゃんと呼べたね」
「私だって覚えるわよ。それより、歌も褒めてもらえたけど、私はこっちも嬉しい。いろPの曲を、みんなに好きになってもらえたから」
彩葉はすぐには答えなかった。嬉しくないと言えば嘘になる。
けれど、真正面から嬉しいと認めるのはまだ少し恥ずかしい。
「……まあ、嫌ではないかな」
結局出てきたのは、そんな曖昧な返事だった。それでも輝夜には十分だったらしい。
嬉しそうに笑うと、次の曲へ進む準備を始めた。歌配信はその後も続き、最後にもう一曲カバーを披露して終わった。
配信終了後も、カバー曲への感想に混じって、彩葉のオリジナル曲をもう一度聞きたいというコメントが途切れず残っていた。
◇ ◇ ◇
八月に入って最初の週末。
ようやく彩葉の予定表から、朝からアルバイトの文字が消えた日がやってきた。
昼前。
駅前で四人が合流する。真っ先にスマートフォンを構えたのは芦花だった。
「輝夜ちゃん、もう少しこっち。そう、その辺でカメラ見て」
言われた通りに位置を変えた輝夜は、今度はレンズそのものを確認しようとしたのか、顔をぐっと近づけた。
芦花が慌ててスマートフォンを引く。
「近いって! カメラを見るだけでいいの。そこまで覗き込まなくても映ってるから」
輝夜は悪びれた様子もなく、自分の位置を確認するように少し身体を引いた。
「ちゃんと見たでしょう?」
「そういう意味じゃないんだってば。最近一人で配信できるようになったのに、こういうところは変わらないんだね」
「一人配信とカメラに近づくことは関係ないでしょう?」
もっともな返事をされ、芦花は笑うしかなかった。少し離れた場所では、真実もすでに自分のスマートフォンへ向かって話している。手には駅前で買ったらしい紙袋があり、中に入っている限定スイーツを手慣れた様子で紹介していた。撮影を終えた真実が戻ってくると、彩葉は呆れたように二人を見比べる。
「遊びに行くんじゃなかったの? 集合した瞬間から二人とも撮影してるじゃん」
芦花は当然とばかりに笑った。
「遊ぶし撮るよ。せっかく四人揃ったんだから、今日はオフコラボみたいなもの」
「オフコラボ?」
聞き慣れない言葉に輝夜が首を傾げると、芦花はスマートフォンを軽く掲げた。
「ネット越しじゃなくて、実際に集まって一緒に動画を撮るってこと。私は美容とか服が多いけど、真実は食べ物が中心だし、普段からこういうのやってるからね」
説明を聞きながら、輝夜は二人を交互に見た。配信に協力してもらったことはある。
けれど、彼女たち自身も普段から誰かへ向けて何かを発信する側なのだと、こうして直接見ると改めて分かる。そして次の瞬間、当然のように彩葉へ視線を移した。彩葉はその顔を見ただけで何を考えているか察した。
「言っておくけど、私は映らないからね」
「まだ何も言ってないわ」
「言おうとしてたでしょ」
「キツネならいいかなと思っただけ」
「現実にあの着ぐるみはないの!」
芦花が吹き出し、真実も肩を震わせた。
結局、彩葉は撮影する側へ回ることになった。
もっとも、その声だけはかなりの頻度で動画に入ることになったのだが。
◇ ◇ ◇
海へ着いた頃には、夏の日差しが砂浜を白く照らしていた。
輝夜は海を見るなり、それまで撮影していたことさえ忘れたように駆け出した。
「輝夜、あんまり遠く行かないで!」
後ろから彩葉が声を飛ばすと、輝夜は振り返りもせず片手だけを上げた。
大丈夫と言いたいらしい。
もちろん、その仕草だけで彩葉が安心するはずもなく、結局あとを追うことになる。波打ち際へ辿り着いた輝夜は、寄せてくる水へ足を近づけては引き、また追いかけるように前へ出るという遊びを繰り返していた。
やがて、突然動きを止める。
砂の上へしゃがみ込み、何かを真剣に見つめている。
「今度は何を見つけたの?」
彩葉が隣まで来て覗き込むと、輝夜は一点を指差した。
「カニ」
小さなカニが、砂の上を横向きに走っている。
しばらくその姿を目で追っていた輝夜は、そのまま手を伸ばした。
彩葉が嫌な予感を覚える。
「まさか捕まえる気?」
「いるんだから、捕まえてみたいでしょう?」
「私は思わないかな……」
しかし止めるには遅かった。
芦花も面白い絵が撮れると判断したのか、すぐにスマートフォンを構えている。
それからしばらくして。輝夜の横には、小さな透明の容器が置かれていた。彩葉が中を覗き込み、思わず眉を寄せる。
「最初一匹だったよね。なんでこんな増えてるの」
輝夜は悪びれる様子もなく、中で動き回るカニを眺めていた。
「見つけたから。向こうにもいたし、岩の近くにもいたわ」
「何匹まで集めるつもりなの?」
「特に決めてないけど、たくさんいた方が楽しいでしょう?」
彩葉が「カニが?」と聞き返すより先に、輝夜は当然のように付け加えた。
「私が」
あまりに堂々と言われ、彩葉は返す言葉を失った。その様子まで芦花のスマートフォンへ収まり、真実は横で笑い続けている。もちろん、捕まえたカニは最後にはすべて砂浜へ戻した。
最後の一匹が輝夜の手のひらから降り、砂の上を素早く逃げていく。その小さな姿を名残惜しそうに見送りながら、輝夜がぽつりと呟いた。
「また会えるかしら」
彩葉も同じ方向をしばらく眺めてから、真顔で問いかける。
「そのカニの顔、覚えてる?」
輝夜は答えようとして、数秒黙った。
「……分からない」
「じゃあ、次に会っても気づかないんじゃない?」
もっと夢のある答えを期待していたらしい。輝夜は少し不満そうに眉を寄せた。
「彩葉って、たまに現実的すぎるわね」
「カニとの再会に夢を持ったことないからね」
そのやり取りに、芦花と真実の笑い声が重なった。
◇ ◇ ◇
少し遅めの昼食を終えたあと、四人は海を見渡せる場所で休んでいた。芦花と真実は撮影した映像を確認し、彩葉は飲み物を買うため少し離れた売店へ向かっている。輝夜が海を眺めていると、芦花がふと思い出したようにスマートフォンから顔を上げた。
「そういえば、この前の歌配信、かなり良かったよ。カバーも前よりずっと上手くなってたし」
褒められた輝夜は素直に顔を明るくした。
「見てくれたの?」
「もちろん。それに、後半で歌ってたオリジナル。あれ結構好き」
隣にいた真実も、同意するように頷いた。
「彩葉が作った曲なんだよね? カバーも良かったけど、あれは普通にもっと聞いてみたいと思った」
自分自身の歌を褒められたとき以上に、輝夜の顔が嬉しそうになる。
「あれ、彩葉が昔作ったんだって。彩葉は古いからって色々気にしてるけど、みんな好きなのに変よね」
芦花は少し考えるように笑った。
「作った本人だからこそ気になるんじゃない? 昔の自分が作ったものって、他の人が見るのとは感じ方が違うだろうし」
以前、彩葉本人からも似たような説明を受けている。それでも輝夜には、やはり完全には理解できなかった。カバー曲を歌えば、その曲を元々好きだった人が喜んでくれる。彩葉の曲を歌えば、それを初めて聞いた誰かが好きだと言ってくれる。どちらも嬉しいことだ。古いかどうかなど、少なくとも輝夜にとっては大した問題には思えない。
「だったら、次の曲も作ってもらおう」
何気なく呟くと、芦花が笑った。
「もう本人には頼んだの?」
「まだ。でも今から頼む」
まるでその言葉を聞いていたようなタイミングで、彩葉が四人分の飲み物を抱えて戻ってきた。
三人の視線が自分へ集まっていることに気づき、少し警戒するように眉を寄せる。
「……何、その顔。何の話してたの?」
輝夜は待っていましたとばかりに彩葉へ身体を向けた。
「新しい曲、作ってほしいの」
戻ってきたばかりの彩葉の足がぴたりと止まる。
「戻った瞬間それ? そんな簡単に言われても困るんだけど」
「でも、この前の曲、芦花も真実も好きだって。配信でも、もっと聞きたいって言ってる人がたくさんいたでしょう?」
理屈としては間違っていない。問題は時間だった。
彩葉は飲み物を一人ずつ手渡しながら、困ったように眉を寄せる。
「今どれだけ予定詰まってるか知ってるでしょ。バイトもあるし、課題もあるし、最近はあなたの配信準備だってかなり増えてるんだから、新しい曲を一曲作るのは簡単じゃないよ」
輝夜はすぐには食い下がらず、受け取った飲み物を両手で持ちながら少し考えた。以前なら、ここで断られれば一度は引いていたかもしれない。しかし最近の輝夜は、彩葉がどこまで本気で嫌がっていて、どこからが「押せば少し考えてくれる」のかを、妙に正確に覚え始めている。
「じゃあ、時間があったら?」
少しだけ身を乗り出して尋ねる。彩葉は、その聞き方に嫌な予感を覚えた。
「時間があったら……考えるくらいなら」
「分かった。じゃあお願いね」
「今の返事で決定したみたいに言わないで」
輝夜は満足そうに笑ったが、それで終わりではなかった。少し間を置いてから、さらに要求を重ねる。
「それと、今度は彩葉も一緒に演奏してほしい」
今度こそ、彩葉の表情が完全に固まった。
「それは無理。曲を作るのと人前に出るのは別だから。私は裏方でいいって何回も言ってるでしょ」
「ツクヨミならキツネでいいでしょう?」
「またあれ着る前提なの?」
「似合ってたわよ」
褒められているはずなのに、彩葉の表情には少しも喜びがない。芦花と真実はすでに、二人のやり取りそのものを楽しむ側へ回っていた。輝夜はそんな周囲を気にすることなく、ほんの少しだけ身を寄せ、彩葉を下から覗き込む。
「駄目?」
一言だけだった。
けれど、その言い方と視線だけで十分だった。
彩葉は視線を逸らさないように耐えていたものの、数秒後にはとうとう負けたように横を向いた。
「……時間があったら考える。曲も演奏も、考えるだけだからね」
その瞬間、輝夜の顔がぱっと明るくなる。
「うん。楽しみにしてる」
「うぅ…、なぜ断れない…」
横で見ていた真実が思わず笑い、芦花も意味ありげに頷いた。
「「ちょろは~」」
「何で二人ともそんな顔してるの」
彩葉が睨むと、芦花と真実は何でもないという顔で海へ視線を逸らした。
◇ ◇ ◇
その後、彩葉が再び少し離れたところへ行ったときだった。
海を眺めていた輝夜へ、芦花が静かに声をかける。
「輝夜ちゃんって、彩葉といるの本当に楽しそうだよね」
突然そう言われた輝夜は、不思議そうに振り向いた。
「楽しいわよ」
迷う必要すらない返事だった。その即答に真実が小さく笑い、少し離れた彩葉へ視線を向ける。
「彩葉の方も、最近前より楽しそうだけどね」
「そうなの?」
輝夜は少し意外そうだった。
芦花は頷きながら、言葉を選ぶように続ける。
「前も普通に話してはいたけど、今の方がよく笑う気がする。まあ、怒ってるところも前より増えたけど」
そこへ真実が補足するように笑った。
「それはたぶん輝夜ちゃんのせい」
「私?」
二人の顔を見比べた輝夜は、少しだけ不満そうに首を傾げる。けれど、やがて視線は自然と彩葉へ向かった。少し離れた売店の前で、彩葉が何かを選んでいる。こちらから見られていることに気づいたのか、不意に振り返った。
輝夜が手を振る。
彩葉は一瞬だけ怪訝そうな顔をしたあと、片手を軽く上げて応えた。
「私、何かしたのかしら」
ぽつりと呟くと、芦花は少し考えるように海へ目を向けた。
「何か特別なことをしたっていうより、輝夜ちゃんが来てから変わったんじゃない? 魔法でもかけたみたいに」
「魔法?」
「例えばの話ね」
輝夜はしばらく考えた。自分はただ、彩葉のそばにいただけだ。
歌いたいと言った
配信したいと言った
曲が欲しいと言った
一緒にいてほしいと言った
そのたびに彩葉は困り、怒り、時には大きな声を出し、それでも最後には手を貸してくれた。
それが彩葉を変えたのかと問われても、輝夜にはよく分からない。
「分からないわ」
正直に答えたあと、海風に長い髪を揺らしながら、少しだけ笑った。
「でも、彩葉が楽しいなら、私も嬉しい」
その答えを聞いた芦花と真実は、一度だけ顔を見合わせた。何か言いたそうにしていたが、結局どちらともなく笑うだけに留めた。
やがて彩葉が戻ってくる。
三人の間に漂う妙な空気へ気づき、怪訝そうに眉を寄せた。
「何の話してたの?」
輝夜は隠す理由などないと思ったのか、あっさりと答えた。
「彩葉が最近明るくなったって話」
その瞬間、芦花が「あ」と小さく声を漏らし、真実はわざとらしく海の方へ顔を向けた。
彩葉は数秒その場で固まり、それからほんの少し頬を赤くして、持っていた飲み物を輝夜へ押しつける。
「……本人がいないところで勝手に分析しないでよ」
照れ隠しなのだろう。
それが何となく分かった輝夜は追及せず、受け取った飲み物を嬉しそうに抱えた。
◇ ◇ ◇
同じ日の夜。
ツクヨミの街から遠く離れた管理区域には、表側の賑わいが嘘のような静けさが広がっていた。無数の淡い光が宙を漂い、一つ一つが遠い星のように緩やかに明滅している。
その中央で、てゐは空中に開いていた映像を止めた。少し前まで映っていたのは、輝夜の路上ライブだった。
赤い欄干の橋。
まだ人影もまばらな中で歌い始めた輝夜。
一人が立ち止まり、別の一人が振り返り、それにつられるように観客の輪が大きくなっていく。
最後の拍手まで見届けると、映像は静かに消えた。
てゐはすぐには口を開かなかった。腕を組んだまま、先ほどまで映像が浮かんでいた場所を眺めている。隣ではヤチヨが黙って待っていたものの、やがて我慢できなくなったのか、僅かに身を乗り出した。
「それで、どうだった?」
期待を隠しきれていない声音に、てゐは横目でヤチヨを見る。
「姫さん、顔に出すぎ」
指摘されたヤチヨは一瞬きょとんとしたあと、誤魔化すように笑った。
「え、何が?」
てゐは呆れたように耳を揺らした。
「感想聞きたくて仕方ないって顔してる。そんな顔されたら、先に何から言うか迷うんだけど」
否定されるかと思ったが、ヤチヨは少し考えただけで諦めたらしい。てゐはそんなヤチヨの様子に小さく肩を竦め、改めて映像の消えた場所へ視線を戻した。
「まあ、最初はさ。色々あるから、一応ちゃんと見ておこうってくらいだったんだよ。だから最初の方は、歌そのものより別のところ見てた。どう始めるのかとか、客がどのくらい集まるのかとかね」
それ以上は言わない。
ヤチヨも理由を尋ねなかった。
二人の間では、それだけで十分に通じている。てゐは少しだけ間を置き、先ほどまで見ていた映像を思い返す。
「でも、途中から頭から抜け落ちてた」
その言葉に、ヤチヨが僅かに目を見開いた。
「抜け落ちてた?」
「そ。周りが何人いるとか、そういうの」
最初は観客の少なさを見ていた。
次に、歌い始めた輝夜を見た。人が増えていく様子も目には入っていたはずなのに、いつからか、それを数える気もなくなった。
次はどう歌うのか
次はどんな表情を見せるのか
ただ、そればかりが気になっていた
「気づいたら普通に見てたよ。何か考えながら見るんじゃなくて、ただライブを見てた」
淡々と話していたてゐの声に、ほんの少しだけ感心したような響きが混じる。ヤチヨの口元が、ゆっくりと緩んでいった。その変化を見逃さなかったてゐは、すぐに眉を上げる。
「ほら。またその顔」
「だって嬉しいもん」
あまりにも素直に答えられ、てゐは呆れたように息を吐いた。
けれど、その声にはどこか柔らかさが混じっている。
「まだ話終わってないんだけど。姫さん、感想聞きたいって言ったくせに途中で満足しないでよ」
そう言われたヤチヨは、少し慌てたように姿勢を正した。てゐはその様子を見てから、今度は先ほどより真面目な声で続ける。
「たぶんさ。何もなくても、最後まで見てたと思う」
ヤチヨの笑顔が、少しだけ静かなものへ変わった。
「歌がめちゃくちゃ上手いとか、そういう話だけじゃないんだよ。上手い下手を考える前に、次が気になるっていうか……目を離せなくなってた」
てゐ自身、自分がそんな感想を口にするとは思っていなかったのか、最後には僅かに苦笑した。
「こういうの、私が言うのも変だけどさ。あの子、ちゃんと人を惹きつけるよ」
その言葉を聞いたヤチヨは、しばらく何も答えなかった。
管理区域の向こうには、今日もツクヨミの夜が広がっている。無数の灯りのどこかで誰かが配信を見て、誰かが新しい歌を聞き、昨日まで知らなかった名前を覚えている。
まだ頂点には遠い。
まだ知らない者の方が圧倒的に多い。
それでも、橋の上では確かに人が立ち止まった。
ヤチヨは遠くの光を眺めたまま、小さく息を吐いた。
「……よかった」
その声は、てゐへの返事というよりも、自分自身へ確かめるように響いた。てゐは隣からその横顔を見たが、今度は何も茶化さなかった。
しばらくしてから、ほんの少しだけ口元を緩める。
「まあ、姫さんがそんなに心配する必要なかったってことだね」
ようやく振り向いたヤチヨが、不思議そうに首を傾げた。
「心配してたように見えた?」
てゐは迷うことなく頷いた。
「見えてたよ。ものすごく。姫さん、自分で思ってるより分かりやすいから」
言い切られたヤチヨは困ったように笑い、それにつられるように、てゐも小さく笑った。
二人の間に再び静かな時間が流れる。その向こうでは、ツクヨミの夜景が変わらず瞬き続けていた。