二つの争奪選手権が終わってからも、その熱気は簡単には冷めず、輝夜争奪KASSEN選手権で五人の挑戦者を一人残らず退けた彩葉と、いろP争奪DANMAKU選手権で同じように求婚者たちを全滅させた輝夜の関係は、いつもの雑談配信へ戻ってからも視聴者たちの格好の話題になっていた。
『次の争奪戦まだ?』
『今度こそいろP倒す』
『DANMAKU練習してる』
『いろPは誰にも渡さないわ』
『相互門番』
「最後から二つ目、私の真似でしょう?」
「そこ拾わなくていいから。お願いだから」
「ちゃんと覚えてくれてるのに?」
自分が配信中に言い放った言葉を蒸し返されても、輝夜は恥ずかしがるどころか、視聴者が覚えていてくれたことを少し嬉しく思っているようだったが、その隣に座っている彩葉は、あの日以来この話題になるたびに視線を画面の端へ逃がす癖がついていた。
輝夜にしてみれば、本当に思ったことをそのまま口にしただけなのだろうし、彩葉が誰かの所有物ではないことくらい理解したうえで、それでも知らない誰かに取られるのは嫌だったから「誰にも渡さない」と言っただけなのだろうが、その言葉を真正面から向けられた彩葉にとっては、冗談として笑い飛ばすにも、本気の意味を考えるにも、妙に心へ引っ掛かる一言になっていた。
だから、なるべく考えないことにした。
配信が終わればアーカイブを確認し、動画として使えそうな場面を切り抜き、次の予定を整理して、残っている夏休みの課題へ手を伸ばす。学校へ出る用事がある日もあればアルバイトもあり、そこへ輝夜の活動まで加わっているのだから、考える暇をなくそうと思えば、今の彩葉にはいくらでもやることがあった。
輝夜の活動が雑談や歌だけだった頃と比べれば、彩葉の負担も確実に増えていた。KASSENやDANMAKU、芦花や真実との配信、動画撮影と活動の幅が広がるほど、その裏で必要になる確認や編集も増えていくのだが、彩葉自身はそれを嫌だとは感じておらず、完成した動画を見て輝夜が笑ったり、配信中にコメントが増えたりするたび、自分まで嬉しくなっていた。
そのため、止め時を見失っているという自覚も薄かった。
「彩葉、まだ寝ないの?」
ある夜、すでにベッドへ入った輝夜から声を掛けられても、彩葉は机の前に座ったまま、編集途中の動画から目を離さなかった。
「もうちょっと。ここだけ終わったら寝るよ」
「昨日も同じこと言ってなかった?」
「今日は本当にこれだけだから」
疑わしそうな視線を背中に感じながらも、彩葉は笑って誤魔化した。
もう少しだけ。
ここまで終われば区切りがいい。
明日へ残すより今やった方が楽になる。
一つ一つは大した理由ではなくても、それが何日も続けば最後に削られるのは睡眠で、それでも本人が楽しそうに作業しているものだから、輝夜も強く止める理由を見つけられないままでいた。
海へ行った日に頼まれた新しい曲のことも、彩葉は忘れていなかった。ただし、まだメロディーも歌詞も伴奏もなく、ファイルを作ったことさえない。課題を終えたときや動画の書き出しを待つ短い時間に、いつか余裕ができたら考えてみようと思う程度であり、それ以上の形にはなっていなかった。
◇ ◇ ◇
彩葉の予定表では休日になっていたが、あとからアルバイト先の後輩の代わりに勤務へ入ることになっており、それまでは特に大きな予定もないはずだった。
昼を過ぎた頃、制服姿の彩葉は輝夜と並んで外を歩いていた。雲の少ない空から降り注ぐ陽射しは強く、建物の間を抜ける風にも涼しさより熱気の方が多く含まれており、日陰へ入っても路面に蓄えられた熱が足元から這い上がってくるような午後だった。
二人が不動産屋の前を通り掛かったとき、店頭のガラスへ並べられた物件情報に輝夜が興味を示し、自然と足を止めた。部屋の広さや間取り、駅までの距離、家賃や管理費などを一枚ずつ追いながら、今の部屋より広いものを見つけては楽しそうに彩葉へ示していく。
「彩葉、これなら今の家より広いんじゃない? 部屋も二つあるわ」
「広いけど、その分家賃も高いよ。ほら、そこ。毎月これだけ増えたら結構大変だから」
答えた声が普段より弱く、返事にも僅かな間があることへ最初に気づいたのは輝夜だった。ここ数日、彩葉が遅くまで机へ向かっていたことを知っていたため、最初は疲れているだけだと思ったものの、何枚か物件を見比べているうちに、貼り紙を見ているはずの彩葉の視線が定まっていないことまで分かってきた。
「彩葉、さっきからちょっと変よ。私が話しても返事が遅いし、顔もいつもと違うけど、本当に大丈夫?」
「ちょっと暑さにやられただけだと思う。最近あんまり寝てなかったし、帰ったら少し休むよ」
彩葉自身も身体が重く、額の奥に熱が籠もるような鈍さがあることには気づいていたが、寝不足と疲れに今日の暑さが重なっただけだろうと考えていた。少し休めば治ると笑ってみせたものの、頬へ思うように力が入らず、その顔を見た輝夜の心配が消えることはなかった。
不動産屋の前を離れてからも、しばらくは会話が続いていた。しかし歩く距離が伸びるほど、彩葉の返事は文章から一言へ、一言から小さな相槌へと短くなり、その相槌さえ次第に遅れていった。
輝夜は何度も隣を確かめた。歩幅は狭くなり、顔色も先ほどより悪い。それでも彩葉は自分から止まろうとしなかった。
「彩葉、もう休んだ方が――」
言い切る前に、輝夜は足を止めた。
彩葉が返事をしなかったからではなく、呼ばれたこと自体に反応しなかったからだ。
「彩葉?」
もう一度名前を呼んでも返事はなく、次の瞬間、膝から力が抜けるように身体が傾いた。
輝夜は考えるより早く腕を伸ばしてその身体を抱き止め、顔を覗き込みながら何度か名前を呼んだが、目は閉じたままで、頬へ触れても反応はなかった。ついさっきまで自分の足で歩いていた人が、今は腕の中で完全に力を失っているという事実を理解した瞬間、それまでの曖昧な心配は明確な焦りへ変わった。
仕事の時間も、どこかで休ませれば歩けるのではないかという考えも浮かばなかった。輝夜はそのまま彩葉を抱き上げると、腕の中の身体をしっかり支え直し、足早に家へ向かった。
◇ ◇ ◇
部屋へ戻ってベッドへ寝かせても、彩葉はすぐには目を覚まさなかった。
輝夜は額へ手を当て、明らかな熱を感じると、以前彩葉が使っているところを見た体温計を探し出し、使い方を確かめながら測ってみた。表示された数字が高いことくらいは分かり、何をすればいいのか調べようと携帯を手に取ったところで、今日の彩葉にはアルバイトの予定があったことを思い出した。
この状態で仕事へ行けるはずがないし、本人が起きるまで待っていては連絡が遅くなるかもしれない。輝夜は彩葉の携帯を操作し、連絡先の中からアルバイト先を探し出した。電話を掛けるところなら何度か見ているため、相手を選んで通話の記号を押せばいいと思い、並んでいた二つの記号のうち一方を押した。
しばらく呼び出し音が続いたあと、突然、画面いっぱいへ見知らぬ人物の顔が映った。
音だけで話すつもりだった輝夜は、画面の隅に表示されている自分の顔と先ほど押した記号を見比べて、ようやくビデオ通話を掛けてしまったのだと気づいた。
しかし、すでに相手は出ている。
そのまま輝夜は、彩葉が外で具合を悪くし、熱を出して今は眠っているため今日は仕事へ行けないことを説明した。突然知らない少女から映像付きで連絡を受けた相手も驚いていたものの、事情が分かると今日は休ませるから心配しなくていい、本人にはしっかり休むよう伝えてほしいと返してくれた。
通話を終えたあと、輝夜は先ほど押さなかった方の記号を確認し、普通の電話はこちらだったのだと覚えてから、今度は彩葉の看病について調べ始めた。
水分を取らせること、身体を休ませること、食べられそうなら消化のよいものを用意すること。
そこで輝夜は台所へ向かった。
自分で料理をするのは初めてだったが、包丁や鍋、コンロを前にして使い方が分からず立ち尽くすことはなかった。彩葉が何度も料理しているところを近くで見てきたため、道具の基本的な扱いは記憶に残っている。
知らないのは、病人へ何を作ればいいかということだった。
それなら調べればいい。家にある食材で作れそうなものを選び、材料の量、水の量、入れる順番、火加減、時間まで一つずつ確認し、書かれている通りに進めていく。初めてだからこそ感覚に頼らず、余計なことを加えない。
途中で何度か部屋へ戻り、彩葉の呼吸が続いていることを確かめては台所へ戻った。
そうして完成した料理が、調べた写真と大きく違っていないことを確認すると、輝夜はようやく僅かに肩の力を抜いた。
◇ ◇ ◇
彩葉が次に目を覚ました頃には、窓から差し込んでいた夏の日差しはすでに傾き始め、昼間の刺すような白さを失った光がカーテン越しに淡く部屋へ広がっていた。
見慣れた天井から自分が家へ戻っていることを理解したものの、不動産屋を離れてから先の記憶だけが綺麗に抜け落ちている。顔を横へ向けると、ベッドのすぐそばへ椅子を寄せた輝夜がこちらを見つめていた。
「……輝夜。ここ、家だよね? 私、どうやって帰ってきたんだっけ」
「覚えてないの? 途中から彩葉の返事がなくなって、何回呼んでも目を開けなかったのよ。そのまま私が抱っこして家まで連れて帰ってきたわ」
自分が意識を失ったという事実を理解し、驚いて身体を起こそうとしたところで頭の奥に鈍い痛みが走り、彩葉はすぐに枕へ戻った。そのとき枕元の携帯が目に入り、今日の予定が思考へ戻ってくる。
「……バイト、まだ連絡してない」
「それなら私がしておいたわ。普通に電話するつもりだったんだけど、押すところを間違えたみたいで、向こうの人が出たらいきなり顔が映ったの。あとで見たらビデオ通話だったわ」
その光景を想像すると少し可笑しかったが、それ以上に、輝夜が自分の代わりに必要なことを考え、店へ事情まで説明してくれていたことへ安堵した。
「ちゃんと今日は行けないって伝えてくれたんだ」
「ええ。今日は休ませるから、彩葉をちゃんと寝かせておいてって言われたわ」
「そっか……。連絡してくれてありがとう、輝夜。本当に助かった」
彩葉が素直に礼を言うと、輝夜は特別なことをしたという感覚はないらしく、彩葉が眠っていて自分ではできなかったのだから代わりにしただけだと返したものの、それでももう一度ありがとうと言われると、少しだけ照れたように視線を逸らした。
やがて輝夜が何か食べられそうかと尋ね、食欲がないと答えた彩葉へ、具合の悪い人でも食べやすいものを調べたから少しだけでも食べた方がいいと説明して部屋を出ていった。
しばらくして戻ってきたその手には、湯気の立つ器が載っている。
「……これ、どうしたの?」
「私が作ったわ。何を食べさせたらいいのか分からなかったから調べて、書いてある通りに作ったの」
彩葉は料理と輝夜を交互に見比べた。
「料理できたのね」
「彩葉が作っているところを何度も見てきたから」
料理を教えた記憶はなかったが、思い返してみれば、自分が台所へ立つと輝夜はよく近くへ来ていた。何を作っているのかと覗き込み、食材を切るところや鍋を扱う様子を眺め、出来上がるまで待っている。彩葉にとっては何気なく繰り返していただけの日常を、輝夜は思っていた以上によく見ていたらしい。
「でも、自分で作ったのは初めてでしょう?」
「初めてよ。でも包丁とか鍋の使い方は見て知ってたし、分からないところは全部調べたわ。今回は分量も順番も書いてある通りにしたから、大丈夫だと思う」
言葉には自信があったものの、実際に食べる彩葉を見つめる目には僅かな緊張が混じっていた。
身体を少し起こすのを手伝ってもらい、彩葉は料理を一口だけ口へ運んだ。普段なら少し物足りなく感じるような穏やかな味付けが、熱のある今はちょうどよく、温かさが喉から胃へ落ちていく。
「……おいしい。ちゃんとできてるよ」
その一言で輝夜の表情に安堵が広がり、全部でなくていいから食べられるところまでは食べてほしいと促されたため、彩葉は無理のない範囲で何口か食べ、その合間に水も飲んだ。
食べ終える頃には身体の重さこそ残っていたものの、意識を失う直前よりは随分と落ち着いていた。
それでも輝夜には、まだ気になっていることがあった。
「やっぱり病院へ行った方がいいと思う。外で気を失ったんだから、寝てれば大丈夫って自分で決めるより、一度ちゃんと診てもらった方がいいわ」
「……病院はいいよ。休めば治ると思うし、それにお金かかるから」
輝夜は少し考えたあと、それなら問題は簡単だというように答えた。
「じゃあ、私のふじゅ~を使っていいわ。それを病院のお金にすればいいでしょう」
輝夜が活動で得たふじゅ~は、診察代や薬代を払う程度には十分にある。それでも彩葉は、自分のために使わせることへ抵抗があり、すぐには頷けなかった。
「気持ちは嬉しいけど、それは輝夜が自分で稼いだものだから、私の病院代に使わなくていいよ」
「私が稼いだものなら、何に使うかも私が決めていいでしょう? 彩葉は今まで私のために色々してくれてるのに、私が彩葉のために使うのは駄目なの?」
真っ直ぐに言い返されると、彩葉には上手い反論が見つからなかった。
けれど、本当に不安なのは今日の診察代だけではない。
「……予定通りにいかないと、困るんだよ。学校もバイトもちゃんとやらないといけないし、このまま色々予定通りにできなくなったら、奨学金がおりないかもしれないから」
一日休んだからすぐに何かを失うわけではないことくらい、彩葉自身にも分かっている。それでも学校の予定が遅れれば別の日へしわ寄せが来て、課題が残れば他へ使える時間が減り、アルバイトを休めばその分だけ収入も減る。限られた時間とお金の中で生活を組み立てている彩葉にとって、小さなずれが重なれば、今まで保ってきたもの全部が崩れてしまうように感じられた。
輝夜は、その横顔を黙ったまま見つめていた。
学校
課題
アルバイト
そこへ、自分のこと
配信がしたいと言い、歌いたいと言い、KASSENもDANMAKUもやりたいと言った。海へ行った日には、新しい曲まで作ってほしいと頼んだ。彩葉は困った顔をすることはあっても、最後にはほとんど受け入れてくれた。だから、いつの間にか、それが普通になっていた。
「……私がわがままばかり言ってごめんなさい。配信も歌も、KASSENもDANMAKUも、新しい曲も、彩葉なら何とかしてくれるって、どこかで思ってたの」
彩葉が驚いて顔を向けると、輝夜は膝の上で両手を握り締めたまま続けた。
「彩葉も楽しそうだったから平気なんだと思ってた。でも、本当は学校もバイトもあって、それでも私のことまでやってくれてたんでしょう。私がもう少し我慢してれば、こんなに忙しくならなかったかもしれない」
彩葉はすぐに否定しようとした。
けれど、その言葉より先に、輝夜がずっと分からなかった疑問を口にした。
「……なんで彩葉は、そんなに一人で頑張らないといけないの? 学校も、バイトも、課題も、私のことも、全部ちゃんとしようとするでしょう。今日だってあんなに具合が悪かったのに、大丈夫って言って歩いてた」
責めるような声ではなく、本当に理由を知りたいのだという眼差しだった。
彩葉はすぐには答えず、掛け布団へ視線を落とした。
一人暮らしを始めると決めた頃のことを、細かな出来事まで順番に語るつもりはなかった。ただ、今の自分がどうして学校もアルバイトも手を抜けないと思っているのか、それを説明するには、あのとき交わした約束を話さなければならない。
「……一人暮らしするとき、お母さんと約束したんだ。ちゃんと学校を続けて、学費も生活費も自分で何とかするって。それができるならっていう条件で、一人暮らしを認めてもらったの」
輝夜は口を挟まず、その先を待った。
彩葉にとって、学校へ通うことも、生活費を稼ぐことも、アルバイトを続けることも、単に毎日やらなければならないことではなかった。どれも、自分が今ここで暮らし続けるために、お母さんへ示さなければならないものだと思っている。
一つくらいなら崩れても大丈夫だと頭では分かっていても、どこかで「一つできなくなれば、その次もできなくなるのではないか」という怖さが残っていた。
「お母さんは、そういうの全部できてたから。仕事もして、家のこともして……ちゃんとしてた。だから私も、自分で一人暮らしするって決めたなら、それくらいできないと駄目なんだと思う」
彩葉が弱々しく笑った。
「学校もちゃんとやって、生活費も用意して、予定通りに全部やる。そうしないと、一人でやれるって言った意味がなくなる気がするんだよね」
輝夜は、その言葉を聞きながら、これまで自分が見てきた彩葉を思い返していた。
料理ができる
一人で暮らせる
学校へ通いながら働ける
曲も作れる
ゲームも強い
突然現れた自分の面倒まで見てくれた
だから、彩葉は最初から何でもできる人なのだと思っていた。けれど、今聞いた話は少し違う。何でも簡単にできるから、一人でやっていたのではない。自分もそうしなければならないと思い込み、できないところを見せないように、一つずつ抱え込んでいたのだ。
「でも、彩葉はお母さんじゃないでしょう?」
輝夜の言葉に、彩葉が僅かに目を見開いた。
「お母さんにできたからって、彩葉も全部同じようにできなくちゃいけないの? 今日みたいに倒れても、それでも予定通りにできなかったら駄目なの?」
返事はすぐには出なかった。輝夜の言っていることが間違っているとは思わない。それでも、今まで自分が当然だと思ってきた基準を、そんなに簡単に手放せるわけでもなかった。
「でも、お母さんは……」
言いかけて、彩葉は一度口を閉じた。
それから、何か別の言葉が喉まで上がってきたように、輝夜へ視線を向ける。
「輝夜には――」
その先が続かなかった。
言ってしまえば、きっと今の輝夜を傷つける。
何を知らないのか。
何を持っていないのか。
それを理由に、この話を理解できないと決めつけることだけはしたくなかった。
彩葉は視線を落とし、途中まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「……ごめん。なんでもない」
輝夜は何を言い掛けたのか尋ねなかった。
ただ、彩葉がそれ以上話したくないのなら無理に聞かないというように、しばらく黙ったまま隣にいた。
やがて、その沈黙を破ったのは輝夜だった。
「私、お母さんのことはよく知らないわ。彩葉が約束を守りたいのも、今の生活を続けたいのも、全部分かるわけじゃない。でも、今日みたいになるまで一人で頑張るのは嫌よ」
その言葉には、お母さんとの約束を否定する響きも、彩葉の努力を軽く扱う響きもなかった。
ただ、自分の目の前で意識を失うまで無理をすることだけは、もう見たくないのだという気持ちが、そのまま声に表れていた。
「私はまだ彩葉と色んなことしたいもの。もっと歌いたいし、配信もしたい。KASSENもDANMAKUもしたいし、新しい曲だって欲しい。でも、それより彩葉が元気な方がいいわ」
彩葉の口元に、僅かな笑みが浮かんだ。
「結局、新しい曲は欲しいんだ」
「欲しいわよ。でも、今すぐじゃなくていいの。彩葉が倒れるくらいなら、ずっと後でもいいわ」
少しだけ空気が柔らかくなったところで、彩葉は今度こそ、輝夜のせいではないとはっきり伝えた。
配信の準備も、動画を作ることも、いろPとして一緒に出ることも、自分自身が楽しくて続けていた。頼まれたことを全部すぐにやらなければならないわけではなかったのに、自分ならできると思って予定を詰めたのも彩葉自身だった。
「だから、輝夜がやりたいことを言うのまでやめなくていいよ。新しい曲だって、時間ができたらちゃんと考える。ただ、今度からは無理なときに無理って言うし、明日でいいことは明日にする。休んだ方がいいときは、ちゃんと休むようにするから」
輝夜はそれでも少し疑うように目を細めた。
「私がおねだりしても、本当に無理って言える?」
「……たぶん」
「たぶんじゃ駄目よ。今日だって大丈夫だと思ってたんでしょう?」
自分の答えが悪かったことに気づき、彩葉は苦笑しながら言い直した。
「分かった。ちゃんと言うよ。無理なときは無理って言うし、休むときは休む。これでいい?」
「約束?」
「約束」
お母さんとの約束を守ろうとするあまり、何でも自分一人で抱えてきた彩葉が、今度は輝夜と、無理なときには無理と言う約束を交わす。それだけで明日から何もかもが変わるわけではない。予定が崩れる不安も、奨学金の心配も残る。それでも、少なくとも今日までとは少しだけ違う。
「それに、輝夜が来てから私、前より楽しいよ。忙しくなったのは本当だけど、それを全部嫌だと思ってたわけじゃないから、今日倒れたことまで自分のせいにしないで」
彩葉がそう付け加えると、輝夜はしばらくその顔を見つめたあと、ようやく小さく頷いた。
そして今度は、自分も彩葉が無理をしていないか見るようにすると宣言し、大丈夫だと言われても今日のような顔をしていたら信用しないと付け加えた。
「それ、ほとんど監視じゃない?」
「今日倒れた人に言われても説得力ないわ」
反論できず、彩葉は困ったように笑った。
◇ ◇ ◇
食事を取ったことで身体が落ち着いたのか、やがて彩葉には再び強い眠気が訪れ、輝夜が食器を片づけて戻ってくる頃には、すでに掛け布団へ深く身体を沈めていた。輝夜はベッドのそばへ戻り、その寝顔を静かに見つめた。
今日一日だけで、これまで知らなかった彩葉をいくつも知った。彩葉にもできないことがあり、怖いこともある。予定が崩れることを恐れ、お母さんと交わした約束を守るために、学校も仕事も生活も一人で成り立たせようとしていた。そして、何でもできるように見えていたのは、本当に何でも簡単にこなせるからではなかった。
できないと言わずに、全部できるようにならなければならないと思っていたからだった。今までと同じように、何も考えず彩葉へ頼り続けることはもうできない。けれど、何も頼まなくなる必要もない。
彩葉自身がそう言った。
なら、自分も変わればいい。
彩葉が無理をしていないかを見る。
疲れているなら休ませる。
今日のように歩けなくなったなら、自分が運ぶ。
食べるものが必要なら、自分で作る。
彩葉が一人で抱えようとするなら、その隣へ自分も入ればいい。
机の上には、夏休みの課題や編集途中の動画、次の配信についてのメモが残されていた。そのどれも以前なら早く続きをしてほしいと思ったかもしれないが、今は明日できることなら明日でいいと思える。
新しい曲だって同じだった。まだ一音さえ形になっていないのだから、急ぐ必要はない。それより今は、彩葉が何も心配せず眠れることの方がずっと大切だった。寝返りを打った拍子に掛け布団が僅かに肩から滑り落ちると、輝夜は静かに手を伸ばし、それをそっと掛け直した。その気配に気づいた彩葉が、眠りへ落ちかけた目をほんの少しだけ開いた。
「……今日は色々ありがと、輝夜。連絡も、料理も……本当に助かった」
眠気に溶けかけた声を聞き、輝夜は柔らかく笑った。
「今日は私がいるから、彩葉は寝てていいわ。学校もバイトも、やらなくちゃいけないことも、元気になってから考えればいいでしょう」
彩葉は何か返そうとしたらしかったが、その言葉が形になるより先に瞼が閉じ、やがて呼吸はゆっくりとした寝息へ変わった。これまでずっと、自分は彩葉に守られているのだと思っていた。けれど今日、初めて自分の方から彩葉を支えることができた。
意識を失った彩葉を抱いて帰り、代わりに仕事先へ連絡し、初めて料理を作った。そして、彩葉が一人で抱えてきたものを、ほんの少しだけ知った。
なら、これからも同じでいい。彩葉が何でも一人で背負おうとするのなら、そのたびに自分が隣へ入ればいい。少なくとも今夜くらいは、学校も、アルバイトも、奨学金も、お母さんとの約束も少しだけ脇へ置いて、何も考えず眠っていてほしい。
輝夜はもう一度、掛け布団が彩葉の肩まできちんと掛かっていることを確かめると、夕暮れから夜へ移り変わっていく静かな部屋の中で、その寝顔を見守り続けた。