玄関の扉が閉じると、夜の住宅街に満ちていた音が一斉に遠のいた。
自の光も、白く開いた内部に広がっていた不可思議な空間も、今はもう扉の向こう側にある。けれど、そこで起きた異常のすべてを外へ置いてくることはできなかった。
酒寄彩葉の腕の中には、白い布にくるまれた赤ん坊がいた。
額へかかった柔らかな黒髪。
薄く閉じられた瞼。
呼吸に合わせて、ごくわずかに上下する小さな胸。
何度見ても、ごく普通の赤ん坊にしか見えない。その温もりも、腕に伝わる重さも、彩葉の服を握ったまま離そうとしない指先も、目の前にいるのが生きた人間であることを疑わせなかった。
普通ではないのは、その子がいた場所だけだった。
「……連れて帰ってきちゃった」
彩葉は玄関に立ち尽くしたまま、疲れ切った声で呟いた。何をするべきだったのかは分からない。
ただ、白い空間が閉じようとしている中で、何もない場所へ小さな手を伸ばす姿を見た瞬間、背を向けることはできなかった。
見捨てたくなかったというほど、強い覚悟があったわけではない。赤ん坊を引き取り、育てていくことを決めたわけでもない。目の前で困っている存在を放っておけず、気づいた時には腕を伸ばしていた。それだけだった。
彩葉は日頃から、物事を計画どおりに進めることを何よりも重視していた。
限られた時間の中で学校へ通い、課題を終え、アルバイトをこなして生活に必要なお金を稼ぐ。一つでも予定が崩れれば、そのしわ寄せは睡眠時間や食事へ向かう。誰かに頼って解決するという選択肢を持たない彩葉にとって、予定を守ることは生活そのものを守ることに等しかった。
その予定が、今夜は跡形もなく崩れている。
帰宅したら最低限の身支度だけを済ませ、すぐに眠るつもりだった。明日からの三連休では、久しぶりに一日6時間ほど眠れるはずだった。それを考えただけで帰り道に涙がこぼれるほど、心も身体も休息を求めていた。けれど今の彩葉は、眠ることより先に、電柱の中から現れた赤ん坊をどうにかしなければならない。
「取りあえず、寝かせる場所を作ろうか」
理解できるはずもない相手へ声をかけながら、彩葉はようやく靴を脱いだ。一人で暮らしているワンルームは、玄関から室内のほとんどを見渡せるほど狭かった。短い廊下の脇には一人分の台所があり、その先へローテーブルと勉強机、収納棚、ベッドが並んでいる。
朝に脱いだ衣服はまとめる余裕もなく床へ置かれ、机の上では参考書が開いたままになっていた。流し台には、洗う時間を作れなかった食器が残っている。
「今日は帰ったら片づける予定だったからね。いつもずっと散らかってるわけじゃないから」
赤ん坊へ言い訳をしながら、彩葉はベッドへ近づいた。実際には、片づける予定などなかった。
睡眠時間を確保するため、目についたものはすべて明日以降へ回すつもりだった。それでも、自分以外の誰かが部屋にいると思うだけで、これまで気にならなかった生活の乱れが、急に人へ見せるべきではないものに感じられた。
赤ん坊を抱いたまま、片手で本や衣服を移していく。
腕を少し傾けるたび、支えている小さな身体まで動いてしまいそうで、そのたびに彩葉の呼吸が止まった。
落としてはいけない
力を入れすぎてもいけない
首を支えなければならない
自分一人なら数秒で済ませられることが、失敗の許されない作業へ変わっていた。
「ごめんね。赤ちゃんを抱いたことなんてないから、合ってるのか分からないんだ」
彩葉が不安を隠さずに告げると、眠っていた赤ん坊が小さく身じろぎした。白い布の隙間から伸びた指が、彩葉の服を握り直す。その力は弱く、少し身体を動かすだけで簡単にほどけてしまいそうだった。それでも、頼りない指先から伝わる意思を感じた途端、彩葉は自分が恐れられていないことへ、わずかな安堵を覚えた。
ようやく寝具を整え、赤ん坊を壁側へ横たえる。腕から小さな重みが離れた瞬間、彩葉は肩の力を抜いた。その一方で、胸元から温もりだけを切り取られたような、妙な心細さが残った。
「……いなくなったわけでもないのに」
赤ん坊は手を伸ばせば触れられる距離で、穏やかな寝息を立てている。ほんの少し前まで存在すら知らなかった相手だった。それなのに、自分の腕から離れただけで部屋の静けさが急に深くなったように感じられる。
彩葉は、一人でいることには慣れていると思っていた。学校とアルバイトを終えて帰宅しても、誰かが待っていることはない。自分で食事を用意し、自分で片づけ、翌日の予定を確認して眠る。
寂しいと考える余裕などなかった。誰かと暮らすことを想像するより、次の日に必要なお金や課題の締め切りを考える方が、はるかに現実的だった。
ただ、自分以外の呼吸が初めて部屋に加わったことで、これまで当たり前だと思っていた静けさが、別のものに見え始めていた。
彩葉は赤ん坊の隣へ置かれた白い布へ目を向けた。その内側には、色とりどりの玉を実らせる細い枝が収まっている。白銀色の枝から分かれた小枝に、白、赤、青、緑の玉が幾つも連なっている。電柱の中では、それぞれが呼応するように色を変え、周囲を七色に染めていた。
しかし、赤ん坊を外へ抱き上げた瞬間、すべての光が消えた。今は部屋の照明を鈍く映し返すだけで、触れても何の反応も示さない。
彩葉は白い玉へ指先を触れさせた。ガラスのような冷たさはなく、表面には継ぎ目も傷もない。枝と玉が初めから一つのものとして生まれたような、不自然なほど滑らかな感触だった。
装飾品なのか。
何らかの機械なのか。
そもそも、地球上で作られたものなのかさえ分からない。
「高そうではあるんだけど……」
無意識に漏れた言葉を聞いたかのように、赤ん坊が目を開いた。深い赤褐色の瞳が、玉の枝へ触れている彩葉の指へ向けられる。
「売らないよ」
責められたわけでもないのに、彩葉は慌てて手を離した。
「ちょっと考えただけだから。生活に余裕がないと、珍しいものを見たら値段を考える癖がつくんだよ」
赤ん坊は彩葉の事情など知らないはずだったが、視線だけは玉の枝へ向け続けていた。彩葉が枝を傍らへ戻すと、小さな手が伸びる。指先が白銀色の表面へ触れた途端、赤ん坊の表情から、わずかに力が抜けた。自分の近くにあることを確かめ、安心したように見える。
「あなたのものなんだね」
問いかけに返事はなかった。けれど、この枝が赤ん坊と無関係ではないことだけは分かった。彩葉はベッドの脇へ座り、改めて赤ん坊の様子を確かめた。
目立った傷はない。顔色も悪いようには見えず、呼吸も安定している。
ただし、それは赤ん坊の健康について何の知識もない彩葉が、外見から判断したものにすぎない。本当は苦しんでいたとしても、自分が気づけていない可能性がある。
口元が小さく動いた。その仕草を見た瞬間、彩葉の中へ新しい不安が生まれた。
「もしかして、お腹が空いてるの?」
赤ん坊は答えない。ただ、何かを求めるように唇を動かしている。彩葉は冷蔵庫の中身を思い浮かべた。
水、麦茶、卵、豆腐、食べかけのパン。
自分が生きていくための最低限の食材はあっても、乳児へ与えてよいものなど一つも分からなかった。スマコンを通じ、視界の端へ検索表示を呼び出す。目の前の部屋へ半透明の情報が重なり、乳児の食事や世話についての説明が並んだ。
乳児用のミルク。
哺乳瓶。
おむつ。
身体を清潔に保つための用品。
必要なものを確認していくたび、彩葉の頭の中では、それらをそろえるために失われるお金が計算されていった。
「赤ちゃんって、お金がかかるんだ……」
口に出してから、彩葉は眠っている赤ん坊へ申し訳なさを覚えた。この子が望んで電柱の中へ入ったわけではない。どこから来たのか、なぜ自分の前へ現れたのかさえ分からない。それなのに、出費の原因として見ることは間違っている。分かっていても、生活に余裕がない以上、必要になる金額を考えずにはいられなかった。
「流れ星にお願いしたのは、お金だったんだけどな……」
願い事の三回目が遅れたため、聞き間違えられたのだろうか。
だとしても、金と赤ん坊では、音も意味も違いすぎる。
疲れ切った彩葉は、自分でも馬鹿らしいと思いながら、そんなことを考えずにはいられなかった。それでも、必要なものを用意しないという選択肢はなかった。
彩葉は表示された説明を何度も確認しながら、ミルクを作った。量を量り、温度を調節し、手首へ落として熱すぎないことを確かめる。普段なら一度読めば覚えられる手順も、今は自分の判断一つで小さな命を傷つけるかもしれないという恐怖によって、何度も確認せずには進められなかった。
学校でもアルバイト先でも、彩葉は要領のよい人間として見られていた。一度教われば間違えない。頼まれた仕事は期限までに終わらせる。相手に迷惑をかけないよう、失敗する前に必要な準備を済ませておく。それが、彩葉が周囲から必要とされるための方法だった。けれど今は、どれほど慎重になっても不安が消えない。
「多分これで大丈夫だと思うけど、熱かったら無理に飲まなくていいからね」
意味を理解できない相手へ説明してから、哺乳瓶を口元へ近づける。赤ん坊は迷うことなく哺乳瓶をくわえた。小さな喉が一定の間隔で動き、容器の中から白いミルクが少しずつ減っていく。
その姿を見つめているうちに、彩葉の肩からようやく力が抜けた。
電柱の中から現れたことも。
正体不明の枝を持っていたことも。
どこから来たのか分からないことも。
今だけは、少し遠くへ押しやられた。
目の前にいるのは、生きるためにミルクを飲んでいる、ごく小さな子供だった。
「あなた、どこから来たのかな」
彩葉が静かに問いかけると、赤ん坊は哺乳瓶をくわえたまま、深い赤褐色の瞳だけを彼女へ向けた。
「誰かと一緒だった? お母さんとか、お父さんとか、あなたを探してる人はいないの?」
言葉を重ねても、答えは返ってこない。
何も覚えていないのか。覚えていても、伝える術を持たないだけなのか。彩葉には判断できなかった。
ミルクを飲み終えると、赤ん坊を縦に抱き上げ、調べた手順を思い出しながら背中を撫でる。どの程度の力が必要なのか分からず、最初は触れるだけのような弱い動きになった。
「このくらいでいいのかな。痛かったらごめんね」
何度か背中を撫でた後、小さな音が聞こえた。赤ん坊の身体から満足したように力が抜け、彩葉の肩へ頬が預けられる。
「出た……」
自分が何かを成し遂げたわけでもないのに、胸へ奇妙な達成感が広がった。柔らかな黒髪が頬へ触れ、温かな呼吸が首元へかかる。誰かの命を預かることは、恐ろしかった。同時に、これほど無防備に身体を預けられたことも、彩葉にはなかった。
「私はお母さんじゃないからね」
眠り始めた赤ん坊を起こさないように、彩葉は声を抑えた。
「今は放っておけないから面倒を見るけど、私は高校生だし、自分の生活だけで精いっぱいだから。ずっと一緒にいられるなんて思わないでね」
赤ん坊が言葉の意味を理解しているはずはない。これは、自分へ言い聞かせるための言葉だった。誰かに頼られることには慣れている。学校では成績のよい生徒として。アルバイト先では、休まず真面目に働く人員として。けれど、それらは彩葉が役割を果たせるから向けられるものだった。
勉強ができるから。
仕事を失敗しないから。
頼まれたことへ応えられるから。
何かができなくなれば、自分には必要とされる価値がなくなる。そんな不安が心のどこかへ根を張っているからこそ、彩葉は限界に近づいても、大丈夫な顔を崩せなかった。
腕の中の赤ん坊は、彩葉が何をできるのか知らない。成績も、仕事も、これまでどのように生きてきたのかも知らない。
ただ、自分を抱き上げた者へ身体を預け、安心したように眠っている。何も証明していない自分へ向けられた信頼を、彩葉はどう受け止めればよいのか分からなかった。
◇ ◇ ◇
三連休の初日
彩葉はほとんど眠ることができなかった。
ベッドの壁側へ赤ん坊を寝かせ、自分はその隣へ横になったものの、小さな身体を潰してしまうのではないかという恐怖から寝返りを打てなかった。赤ん坊がわずかに身じろぎすれば目を覚まし、呼吸を確かめる。
静かに眠っていれば眠っているで、本当に息をしているのか不安になり、胸が上下していることを何度も確認した。
久しぶりに六時間ほど眠れるはずの休日だった。
それなのに、普段よりも眠りは浅く、目を閉じている間さえ神経を張りつめさせていた。朝が来た時、身体には疲労が残っていた。それでも赤ん坊が無事に目を覚まし、彩葉の顔を見つけて瞳を細めると、睡眠を奪われた苛立ちよりも、安堵の方が先に胸へ広がった。
「おはよう。あんまり眠れなかったけど、あなたが無事だったならいいよ」
彩葉が黒髪を撫でながら話しかけると、赤ん坊は嬉しそうに手を伸ばし、その指を握った。
その日は、赤ん坊の世話と課題を交互に進めるだけで過ぎていった。数問解いては、寝息を確かめる。ミルクを与え、おむつを替え、眠ったのを確認してから机へ戻る。集中し始めた頃に小さな声が聞こえ、再びベッドへ向かう。
本来なら短時間で終えられる課題が、いつまでも机の上に残り続けた。
自分の時間を奪われている。そう考えても不自然ではなかった。
けれど、腕の中へ抱き上げた赤ん坊が安心したように頬を寄せると、その時間を惜しいとは思えなかった。赤ん坊はほとんど泣かなかった。空腹や不快感がある時には小さな声を上げるものの、彩葉が近くへ来ればすぐに落ち着いた。その素直さは育てやすいというより、彩葉には少し不安だった。
「もっと泣いてもいいんだよ。私には何が嫌なのか分からないから、ちゃんと教えてくれた方が助かるんだけど」
困ったように話しかけても、赤ん坊は彩葉の声を聞いているだけだった。
やがて、頬へ手が伸びる。その指先が、帰り道で涙を流した場所へ触れた。最初に抱き上げた時にも、同じ場所へ触れられた。
偶然かもしれない。
最も近くにある彩葉の顔へ、何の意図もなく手を伸ばしているだけかもしれない。それでも、二度も同じ仕草をされると、慰められているように思えてしまった。
「私の方が心配されてるのかな」
彩葉が苦笑しながら小さな手を取ると、赤ん坊はその人差し指を掴んだ。
「私の名前は酒寄彩葉。彩葉でいいよ。まだ分からないと思うけど、一応教えておくね」
なぜ改めて名乗ろうと思ったのか、自分でも分からなかった。呼び方のない相手と二人で過ごすうちに、せめて自分が何者であるのかだけでも伝えておきたくなった。
赤ん坊は彩葉の声を聞きながら、瞳をゆっくりと細めた。その表情が、どこか嬉しそうに見えた。
◇ ◇ ◇
三連休の二日目になっても、赤ん坊の姿は変わらなかった。
電柱の中から現れたことを除けば、ごく普通の赤ん坊としてミルクを飲み、眠り、彩葉の腕へ抱かれていた。謎の枝も沈黙を保っている。
白、赤、青、緑の玉は光を取り戻さず、赤ん坊の傍らへ置かれたまま、部屋の明かりを映しているだけだった。彩葉は気づかないうちに、その変わらなさへ安堵していた。
目の前で起きた出来事があまりにも異常だったため、この子まで突然消えてしまうのではないか、眠っている間に別の何かへ変わってしまうのではないかという不安が、心の隅へ残っていた。
けれど、赤ん坊は昨日と変わらず、彩葉の指を握った。同じことを繰り返すだけの時間が、不可解な状況の中へ、わずかな日常を作り始めていた。
昼過ぎ、彩葉はローテーブルへ向かい、残っていた課題を進めていた。数日前までの部屋であれば、筆記具が紙の上を走る音と、窓の外から入る生活音しか聞こえなかった。
今は、その間に小さな寝息が混じっている。集中するためには静かな方がよいはずだった。それなのに、寝息が聞こえなくなると落ち着かず、彩葉は何度も振り返ってしまう。
自分一人の生活を維持するだけで精いっぱいだった。誰かと暮らす余裕などないと思っていた。実際、赤ん坊が現れてから、睡眠時間は減り、出費は増え、課題も予定どおりには進んでいない。
それでも、赤ん坊を迷惑だと思い切ることはできなかった。
夕方、課題へ集中していると、ベッドの方から小さな声が聞こえた。
振り返ると、赤ん坊は泣いているのではなく、彩葉へ片手を伸ばしていた。抱き上げると、すぐに胸元へ頬を寄せる。
「寂しかったの?」
彩葉が黒髪を撫でると、赤ん坊は襟元を掴んだ。
「私も、少しだけ寂しかったのかもしれない」
口にした瞬間、自分が何を認めたのかに気づき、彩葉は視線を伏せた。一人でいることには慣れていると思っていた。誰もいない部屋へ戻ることも。疲れていると口にできないことも。6時間眠れるだけで涙が出る生活を、誰にも知られないことも。
仕方がないものとして受け入れ、考えないようにしていた。本当は慣れたのではなく、寂しさへ気づく余裕すら持てなかっただけなのかもしれない。
腕の中の赤ん坊は、彩葉の生活を楽にしてくれるわけではない。学費を払ってくれるわけでも、課題を代わりに終わらせてくれるわけでもない。むしろ、時間と睡眠とお金を奪っている。
それでも、この小さな存在が自分を求めて手を伸ばしたという事実だけで、胸の奥にあった空白が、わずかに満たされていた。
「困った子だね」
彩葉は責めるのではなく、諦めたように笑った。赤ん坊はその声を心地よく感じたのか、彩葉の胸元へ顔を埋め、目を閉じた。
◇ ◇ ◇
三連休二日目の夜。
彩葉は赤ん坊を壁側へ寝かせ、そのすぐ隣に横たわっていた。初日の夜よりは、小さな身体の扱いにも慣れている。潰さないよう十分に距離を取りながら、それでも異変があればすぐに気づける位置へ身体を寄せていた。
赤ん坊は、彩葉の人差し指を握っている。
明日は三連休の最終日だった。
その次の日には、再び学校へ行かなければならない。アルバイトの予定もある。
この赤ん坊をどうするのか、いつまでも考えずにはいられない。
自分が面倒を見ることなどできない。最初から、何度もそう言い聞かせていた。金銭的にも、時間的にも、誰かを育てられる生活ではない。それは感情ではなく、変えようのない事実だった。
それでも、赤ん坊をどこかへ手放す場面を想像すると、胸の奥へ鋭い痛みが走った。
わずか二日間しか一緒にいない。
名前さえ知らない。
自分の子供でも、家族でもない。
けれど、腕の中へ収まる重さも、眠る時に指を握る力も、ミルクを飲み終えた後の穏やかな表情も、すでに彩葉の中へ残り始めている。
「ずっと一緒にはいられないって、最初に言ったのにね」
眠る赤ん坊へ囁いても、返事はない。
「あなたは覚えてないだろうけど、私はちゃんと言ったんだよ。自分のことで精いっぱいだし、誰かを育てる余裕なんてないって」
言葉を続けるほど、それが赤ん坊ではなく、自分を納得させるためのものになっていく。
赤ん坊は眠りながら小さく身じろぎし、彩葉の指を握り直した。
その温もりが、ここにいると伝えるように感じられた。
「……考えるのは、明日の私に任せよう」
彩葉は疲れ切った息を吐き、目を閉じた。
物事を先送りにすることは好きではない。
けれど今夜だけは、答えを出さないことを自分へ許したかった。
窓の外から聞こえる遠い車の音と、部屋の中を巡る扇風機の低い音が、少しずつ意識を遠ざけていく。彩葉の呼吸が深くなるまで、赤ん坊は深い赤褐色の瞳を開いたまま、その顔を見つめていた。
頬へかかった髪。
目の下に残る疲労の色。
眠っている時でさえ、どこか苦しそうに寄せられた眉。
自分へ食事を与え、抱き上げ、何度も話しかけた相手が、ひどく疲れていることだけは分かった。
赤ん坊のままでは、何も伝えることができない。
彩葉が何を抱えているのかを聞くことも、自分が何者なのかを言葉にすることもできない。ただ抱かれ、与えられたものを受け取り、指を握ることしかできなかった。
輝夜は、彩葉の人差し指へ巻きつけていた小さな指を見つめた。
それから枕元へ視線を移す。
色とりどりの玉を実らせた枝が、暗い室内の中で沈黙している。
小さな手が伸びた。
白い玉へ触れる。
何かを知っていたわけではない。
使い方を教えられた記憶もない。
それでも、その枝が自分と共にある意味を、言葉よりも深い場所で理解しているようだった。
白い玉の奥で、ごく小さな光が生まれた。
一度だけ、赤ん坊の黒い瞳へ白い輝きが映り込む。
その表情に恐れはなかった。
迷いもない。
眠る彩葉へ再び顔を向けると、赤ん坊はその指を強く握り直した。
◇ ◇ ◇
夜が深まり、二人の呼吸が狭い部屋の中で重なっていく。
枕元の枝から、淡い光があふれ始めた。
最初に輝いたのは白い玉だった。
続いて赤、青、緑の光が灯り、互いに混ざり合いながら、掛け布団の内側へ静かに染み込んでいく。
電柱の中を照らしていた時のような、鮮烈な輝きではない。
眠る彩葉を起こすことなく、夜そのものへ溶け込むような、穏やかな明滅だった。
白い布に包まれた小さな輪郭が、光の中へ霞んでいく。
本来なら幾つもの季節と年月を必要とする変化が、一つの夜へ押し込められたかのように、時間だけが静かに進んでいった。
彩葉は目を覚まさなかった。
握られている手の感触が変わったことへ気づいたのか、一度だけ指を動かしたが、そこに温もりがあることを確かめると、再び力を抜いた。
光はしばらくの間、二人を包み続けた。
やがて赤、青、緑の輝きが順番に消え、最後まで残っていた白い玉の光も、その中心へ吸い込まれるように静まっていく。
枝は再び沈黙した。
枕元には白い布が残され、その傍らへ、艶やかな黒髪が広がっていた。
赤ん坊の姿は、もうどこにもなかった。
かわりに、彩葉と同じ年頃に見える一人の少女が、彼女の指を握ったまま、穏やかに目を閉じていた。
◇ ◇ ◇
三連休最終日の朝。
彩葉は、肩を小さく揺らされる感触によって、深い眠りの底から引き上げられた。
目を開けようとしても、瞼が重い。三連休へ入る前から積み重なっていた疲労に加え、この二日間は赤ん坊の呼吸や小さな物音へ神経を尖らせ、まともに眠れていなかった。ようやく身体が深い休息を得たところへ、誰かが容赦なく手を伸ばしてきている。肩へ置かれた手が、もう一度彩葉の身体を揺らした。
「ねぇ彩葉、お腹がすいたわ。ご飯を作ってちょうだい」
耳元から聞こえたのは、落ち着いた少女の声だった。
彩葉は閉じた目を開けないまま、その言葉をぼんやりと受け入れた。名前を呼ばれたことにも、部屋の中にいるはずのない声が聞こえたことにも、眠気に沈んだ頭はすぐには疑問を抱かなかった。
「……分かった。今、作るから……」
返事をしながら、彩葉は掛け布団を押し退けた。
身体を起こすと、首と肩に鈍い痛みが走る。赤ん坊を潰さないよう不自然な姿勢で眠っていた影響だろうと考え、目元を擦りながらベッドから降りた。背後にいる声の主を確認しようという意識すら浮かばない。
起きた。
食事を求められた。
ならば、何かを用意しなければならない。
学校やアルバイトへ向かう朝も、彩葉は目が覚めるより先に身体を動かしていた。眠気を理由に手を止めれば、支度が遅れ、その分だけ別の時間を削ることになる。考えるより先に行動する癖が、今朝も彼女を台所へ向かわせていた。
短い廊下を歩き、冷蔵庫の扉を開ける。
中には卵と豆腐、前日に残した僅かな食材が並んでいた。
「何が食べたい……?」
彩葉は冷蔵庫の中を眺めたまま、背後へ問いかけた。
「彩葉がいつも食べているものをお願い。でも、ミルクじゃなくて、噛んで食べられるものがいいわ」
先ほどよりもはっきりとした声が返ってくる。
「そっか。もうミルクじゃなくていいんだ……」
彩葉は寝ぼけたまま頷き、卵へ手を伸ばした。
そこで、指先が止まった。
もうミルクではなくていい。
噛んで食べられるものがいい。
言葉の意味が、数秒遅れて眠気の膜を突き破った。
「…………」
彩葉は卵を掴みかけた姿勢のまま固まった。
この部屋にいるのは、自分と、二日前に電柱の中から抱き上げた赤ん坊だけだった。
赤ん坊は言葉を話さない。
そもそも、自分の名前を呼ぶこともできない。昨日の夜まで、彩葉の人差し指を両手で包むことさえできないほど小さかった。それなのに、今の声は自分を「彩葉」と呼んだ。
流暢な言葉で朝食を催促し、ミルク以外の食事を求めている。さらに言えば、声をかけられた時、肩へ触れていた手は赤ん坊のものではなかった。眠気のため気にも留めなかったが、指先は彩葉の肩を包めるほど大きく、込められた力にも幼さはなかった。
「……誰と話してるの、私」
彩葉は冷蔵庫の扉を掴んだまま、ゆっくりと背後を振り返った。
ベッドの上に、一人の少女が座っていた。
腰近くまで伸びた艶やかな黒髪が、朝の光を受けて柔らかく輝いている。年齢は彩葉とほとんど変わらないように見え、顔立ちにも幼さは僅かに残っているものの、昨日まで腕の中へ収まっていた赤ん坊とは、身体の大きさも輪郭もまるで異なっていた。
見覚えのない少女は、掛け布団を胸元へ引き寄せながら、空腹を訴えるように腹部へ手を添えている。
枕元には、白、赤、青、緑の玉を実らせた謎の枝が置かれていた。
赤ん坊を包んでいた白い布も、少女の傍らへ押しやられている。
そして、昨日までそこにいたはずの赤ん坊だけが、どこにも見当たらなかった。
「…………え?」
彩葉の口から、ようやく声が漏れた。
少女は、どうして彩葉が固まっているのか分からないとでもいうように、深い赤褐色の瞳を瞬かせた。
その瞳には見覚えがあった。
電柱の中から抱き上げた時、自分をじっと見つめていた深い赤褐色の瞳。
ミルクを飲みながら、彩葉の声を聞いていた眼差し。
眠る時には指を握り、頬へ触れた赤ん坊の表情が、成長した顔立ちの中へ確かに残っている。
彩葉は冷蔵庫の扉から手を離し、少女とベッドの上を何度も見比べた。
「赤ちゃんは……?」
少女は彩葉の問いかけを聞くと、僅かに首を傾けた。その仕草まで、言葉を持たなかった頃に何度も見せたものと同じだった。
彩葉の視線が、少女の手へ落ちる。
成長した長い指が、掛け布団の端を握っている。
大きさはまるで違う。けれど、彩葉をじっと見つめる瞳には、嫌になるほど見覚えがあった。
「まさか……あなたが、昨日までの赤ちゃん?」
驚きを抑えきれない声で尋ねると、少女は迷うことなく頷いた。
自分の身体に起きた変化へ怯えてはいない。むしろ、彩葉と言葉を交わせるようになったことを喜んでいるのか、深い赤褐色の瞳の奥には明るい色が宿っていた。
彩葉はすぐに次の疑問を口にしようとしたが、少女が掛け布団しか身につけていないことへ気づき、慌てて顔を逸らした。
「ちょっと待って。そのまま動かないで。まず服を用意するから」
彩葉は収納棚へ駆け寄ると、大きめのシャツと短パンを取り出し、背中を向けたまま差し出した。
少女は受け取った衣服をしばらく指先で確かめた後、彩葉の姿と見比べながら身につけていった。初めて触れるはずの服にもかかわらず、僅かな時間で着方を理解したらしい。
衣擦れの音が止まったことを確認してから振り返ると、少女はすでにベッドを降りていた。
成長した身体で初めて立ったはずなのに、その足取りにはほとんど迷いがない。床へ触れた足の感覚を一度確かめただけで、自然な動きで彩葉の前まで歩いてくる。
少女は自分の変化を恐れていなかった。
何かに無理やり姿を変えられた者ではなく、自ら望んだ姿を確かめているような落ち着きがあった。その態度を目にしても、彩葉の混乱は消えなかった。
「どうして急に大きくなったのかとか、聞きたいことは山ほどあるんだけど……その前に、どうして私の名前を知ってるの?」
彩葉が額へ手を当てながら問いかけると、少女はその名を大切に確かめるように、柔らかな声で答えた。
「二日間、何度も聞いたもの。酒寄彩葉。彩葉でいいって、自分で言っていたでしょう」
赤ん坊だった頃から、言葉を理解していた。
少なくとも、彩葉が話しかけた声を記憶し、その意味を少しずつ覚えていたらしい。
彩葉は言葉を失い、二日間の自分の発言を思い返した。
母親ではないこと。
育てる余裕がないこと。
ずっと一緒にはいられないこと。
理解できないと思い、一方的に口にしていた言葉を、この少女はすべて聞いていたのかもしれない。胸の奥へ気まずさが広がったが、目の前の少女に傷ついた様子はなかった。むしろ、ようやく自分から彩葉へ話しかけられることを楽しんでいるように見える。
少女は枕元へ戻り、謎の枝を手に取った。
白い玉へ触れながら、遠い記憶へ意識を向けるように、瞳を僅かに細める。
白い光の中で、自分を抱いていた温かな腕。
頬と黒髪を撫でた細い指。
顔は見えなかった。
けれど、離れていく直前に聞いた声だけは、今もはっきりと残っている。
――輝夜
自分へ向けられた名前。
少女は謎の枝を片腕へ抱き、あらためて彩葉と向き合った。
彩葉の頭には、光る竹の中から発見され、短い期間で美しい女性へ成長した童話のかぐや姫が浮かんでいた。ただし、自分が見つけたのは竹の中ではなく電柱であり、目の前の少女は彩葉に名づけられるのを待っているわけでもない。
少女はすでに、自分の名前を知っていた。
黒い瞳には、彩葉と同じ目線で言葉を交わせるようになった喜びが浮かんでいる。
その口元へ人懐っこい笑みを広げ、少女は自ら名乗った。
「私は輝夜、これからよろしくね」
言葉を聞き終えた彩葉は、目の前で起きていることを理解できないまま、台所へ置き去りにしてきた卵を思い出した。
「……それで、ご飯は?」
名乗りを終えた輝夜が当然のように問いかける。
彩葉は僅かに口を開いたまま、しばらく返事をすることができなかった。
赤ん坊が一夜で同年代ほどの少女へ成長した。
自分の名前を覚えていた。
謎の枝を抱え、自らを輝夜と名乗った。
それだけでも頭が追いついていないというのに、本人にとって最も重要なのは朝食らしい。
彩葉は深く息を吐くと、ようやく現実へ戻るように台所へ向き直った。
「……取りあえず、ご飯を作りながら全部説明してもらうからね」
背後から聞こえた輝夜の満足そうな声を受けながら、彩葉は冷蔵庫の扉を開き直した。