戦いの終わりを告げる熱気が残る中、輝夜は先ほどまでの勢いを失い、わずかに頬を膨らませながら視線を落としていた。帝へDANMAKUでの再戦を申し込んだときこそ負けず嫌いな気持ちが先に立っていたものの、結局その場で決着をつけ直すことはできず、竹取合戦に負けたという事実だけがまだ胸の奥に重く残っている。
その隣に立つ彩葉も、無理に声をかけようとはしなかった。自分自身もBlack onyXに敗れた悔しさを消化しきれていないうえ、今の輝夜に下手な慰めを向けても素直に受け取るとは思えず、いつもならすぐに何かしら言葉を交わす二人の間には、珍しく静かな時間が流れていた。
やがて会場中央の巨大モニターが暗転し、月を模した淡い光を背負った月見ヤチヨの姿が画面いっぱいに映し出される。彩葉が顔を上げるのに少し遅れて、輝夜も気のない様子で視線を向けたが、いつものように身を乗り出すほどの元気はまだ戻っていなかった。
「いと大儀~」
扇子をひらひらと振りながら現れたヤチヨは、そんな二人とは対照的に、いつもと変わらない軽やかな笑みを浮かべている。しばらく会場を見渡したあと、開いていた扇子をぱちんと閉じると、待ちかねたように口を開いた。
「いや~、楽しかったねえ。というわけで、ヤチヨカップもこれにて終了! ヤッチョとコラボる人を発表しちゃいま~す」
その言葉に合わせてヤチヨの背後へ光が集まり、大会期間中の結果を示すグラフがゆっくりと浮かび上がっていく。具体的な新規ファン数は表示されていないものの、《Black onyX》と《輝夜いろP》の二本はほとんど差がなく、どちらが上なのか簡単には判断できないほど近い位置まで伸びていた。
彩葉は何も言わずその表示を見つめ、いつの間にか呼吸を浅くしていた。一方の輝夜は、自分たちの名前がBlack onyXと並んでいることに気づいても表情を大きく変えず、敗北した直後ということもあって、ここから自分たちが勝つ可能性までは考えていないようだった。
「この期間で、一番たくさん新しいファンを増やしたのは~?」
ヤチヨが楽しそうに声を伸ばす。
輝夜は伏せ気味だった目をわずかに上げ、彩葉もモニターから視線を離さないまま、その続きを待った。二人の前でグラフは最後まで競り合い、やがて《輝夜いろP》の方がほんのわずかに先へ伸びると、ヤチヨはそこで勢いよく扇子を掲げた。
「まさかの~! ヤチヨカップの優勝者は――輝夜いろP!」
その名前が響いた瞬間、輝夜と彩葉は揃って固まった。
「えっ、負けたのに?」
輝夜の口から真っ先に出てきたのは、喜びではなく純粋な困惑だった。目を丸くしたままモニターを見上げるその隣で、彩葉もまた何を告げられたのか理解できていないように瞬きを繰り返す。
「えっ……え?」
次の瞬間、巨大モニターの中央に《優勝 輝夜いろP》の文字が大きく浮かび上がり、同時に月色の光が会場いっぱいへ弾けた。そこで初めて歓声が一斉に押し寄せ、祝福のエフェクトとコメントが空を埋め尽くしていったが、その中心にいる二人だけは、ほんの一瞬だけ周囲の熱気から取り残されたように結果を見つめていた。
「めでたしや~」
ほんの少し前まで負けたのだと思い込んでいた輝夜にとって、《優勝》という二文字はすぐには同じ日の出来事として結びつかなかった。それでも、ヤチヨが呼んだのは確かに自分たちの名前であり、目の前に表示された文字も聞き間違いではないと理解した瞬間、それまで沈んでいた表情が一気に弾ける。
「やったわ!」
ほとんど同時に、彩葉もようやく目の前の結果を飲み込んだらしい。
「えっ……えぇっ!?」
驚きの残った声を上げながら、彩葉の顔にも遅れて笑みが広がっていく。自分たちが勝つと思っていなかったのは輝夜だけではなく、彩葉も同じだったからこそ、すぐには気の利いた言葉など出てこず、ただ信じられないようにモニターと輝夜を見比べていた。
そんな彩葉へ、輝夜はもうじっとしていられなかった。
「彩葉ぁ!」
先ほどまでの沈んだ姿などどこかへ消え去り、輝夜は満面の笑みを浮かべたまま彩葉のもとへ駆け寄ると、その勢いのまま飛びついた。突然抱きつかれた彩葉は二、三歩よろめきながらもどうにか踏みとどまり、自分の肩口で嬉しそうに笑う輝夜を支える。
「彩葉のおかげよ!」
「えっ……いや、これは輝夜が――」
彩葉が最後まで言い切るより先に、優勝発表からわずかに遅れて会場の声が二人へ届き始めた。
『いろP、かっこよかったよね!』
『エイムの正確さ、すごかった!』
突然自分の名前が聞こえ、彩葉は輝夜を支えたまま驚いて顔を上げる。
『えっ、輝夜の曲もいろPが作ってるの?』
『そうそう、曲もいろPなんだよ!』
『いろPの笑った顔、好きになった!』
戦い方だけではなく、楽曲も、ライブも、本人が意識していなかった何気ない表情までも、誰かがちゃんと見ていたのだと知り、彩葉は次々と向けられる言葉へどう反応すればいいのか分からないまま頬を赤くしていく。その隣では輝夜が、自分が褒められているとき以上に嬉しそうな顔で彩葉と観客を交互に見ていた。
「ほら彩葉! みんな彩葉のこと褒めてるわ!」
「ちょっと、輝夜……!」
「本当のことじゃない!」
輝夜は得意げに胸を張りながら、まるで自分自身の功績を誇るように彩葉を指差した。勝負となれば誰よりも自分が勝ちたがるくせに、彩葉が認められることには少しの対抗心も見せず、むしろ本人以上に誇らしそうに笑っている。
やがて、どこかから一つの声が響いた。
『いろP!』
それを追うように、別の声が応える。
『輝夜!』
『いろP!』
『輝夜!』
最初はばらばらだった二人の名前が次第に同じ間隔へ揃い、やがて会場全体を包む大きなコールへ変わっていった。彩葉はこれほど大勢に自分の名前を呼ばれる光景へ圧倒され、思わず肩を縮めたものの、隣では輝夜がさっきまでの落ち込みなど完全に忘れたような笑顔で大きく手を振っている。そんな姿につられるように、彩葉も照れくさそうに小さく手を上げた。
『いろP!』
『輝夜!』
二人の名前が何度も重なる中、彩葉はようやく、自分たちが本当にこの一か月を勝ち抜いたのだという実感を胸の中へ落とし込んでいった。歓声が続く中、その向こうからこちらへ歩いてくる三人の姿に気づき、彩葉は上げていた手を止めた。先頭にいるのは帝で、その後ろには雷と乃依が続いており、竹取合戦を制したBlack onyXの三人が真っ直ぐこちらへ向かってくるのを見て、輝夜の笑顔が一瞬だけ固まる。
「あっ、……結婚」
優勝の喜びですっかり頭から抜け落ちていたらしく、輝夜が小さく呟いた瞬間、彩葉も勝負の前に交わされた条件を思い出した。考えるより先に一歩前へ出ると、輝夜を背中側へかばうように帝との間へ立ち、先ほどまで緩んでいた表情を再び強張らせる。
輝夜もその行動に驚いたように彩葉の背中を見たものの、何も言わず、その後ろから近づいてくる帝を見つめていた。帝は二人の前まで歩み寄ると、一歩前へ出て自分を警戒する彩葉と、その背後から様子を窺う輝夜を順番に見たあと、巨大モニターに表示された《優勝 輝夜いろP》へちらりと視線を向ける。
「これじゃ、勝ったとは言えないな」
彩葉と輝夜は、揃ってぽかんとした。
竹取合戦そのものに勝ったのはBlack onyXであり、二人とも帝が当然のように勝者として条件を求めてくるものだと思っていただけに、当の本人から出てきた言葉の意味がすぐには分からず、警戒していた彩葉でさえ表情を緩めることも忘れて帝を見上げていた。
帝はそんな二人の顔を見ると、少し呆れたように口元を緩める。
「もともと無理やり結婚する気なんてねえし」
輝夜が彩葉の後ろから顔を覗かせ、彩葉もまた一歩前へ出た姿勢のまま兄を見つめる。あれほど大仰な条件を掲げて勝負を挑んできた本人から、まるで最初から大した話ではなかったように言われれば、すぐに反応できないのも無理はなかった。帝はそれ以上大げさに説明することもなく、そんな二人の反応を当然のように受け流すと、今度は彩葉へ視線を向けた。
「で……彩葉のお願いって何?」
「えっ、いいの?」
思ってもいなかった問いを向けられ、彩葉は反射的に聞き返した。Black onyXは竹取合戦に勝ったのだから、自分たちの願いを聞いてもらえるとは思っていなかったが、帝の方には勝負前の約束をなかったことにするつもりはないらしい。
「いいよ。何?」
軽く促されても、彩葉はすぐには口を開けなかった。頼みたいこと自体はずっと決まっているのに、自分の望みを言葉にして兄へ伝えようとすると、たった一言を切り出すだけのことが妙に難しく感じられ、無意識に視線が足元へ落ちていく。先ほどまで彩葉の後ろにいた輝夜も、その様子に気づくと横へ並んだが、急かすことも代わりに答えることもせず、彩葉自身が話し始めるのを待っていた。彩葉はそんな気配を隣に感じながら一度だけ小さく息を吸い、ようやく顔を上げる。
「……私、引っ越したいんだけど」
帝は何も言わず、続きを待っている。
「その……保証人になってほしい」
言い終えた彩葉は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。頼み事としては大げさなものではないのかもしれないが、自分が望んでいることを自分の口から兄へ伝えられたこと自体が、彩葉にとっては小さくない一歩だった。
帝は一瞬だけ目を瞬かせる。
「家ごと買わなくていいの?」
「家ごと!?」
隣で聞いていた輝夜が、今度は先ほどとは別の意味で目を見開いた。彩葉は帝と輝夜を交互に見たあと、どちらも冗談ではなさそうだと分かると、呆れたように眉を寄せる。
「いらないよ。保証人だけでいいから」
「せっかくなら買えばいいのに」
「だから、いらないって」
あっさり断られた帝は少しだけ肩を竦めたものの、それ以上押しつけようとはしなかった。彩葉が自分でそう決めたのなら、それで構わないらしく、先ほどまでの軽い調子を崩さないまま頷く。
「保証人なら、お安い御用」
あまりにも簡単に返ってきた答えに、彩葉は一瞬だけ目を丸くしたものの、ようやく張り詰めていたものが少し解けたように息を吐き、短く礼を返した。
「……ありがと」
帝はその言葉に軽く片手を上げるだけで応えた。
一方、隣の輝夜だけはまだ別のところが気になっていたらしく、彩葉の袖を軽く引く。
「ねえ、本当に家はいらないの?」
「いらない」
「買ってもらえるのに?」
「い・ら・な・い」
念を押すように返されると、輝夜は心底もったいなさそうな顔をした。その様子を見た彩葉は、ついさっきまで帝から輝夜をかばっていた緊張が少しずつ抜けていくのを感じながら、思わず小さく笑ってしまう。帝もそんな二人を眺めながら僅かに笑うと、後ろで待っていた雷と乃依へ視線を向ける。
「じゃ、俺たちはファンのところ行ってくるわ」
帝たちの姿が人波の向こうへ消えていき、先ほどまでの騒がしさがようやく一段落した頃、彩葉は胸の奥に残っていた緊張を吐き出すように息をついた。輝夜を連れていかれるかもしれないと身構えていたことも、ずっと言い出せずにいた引っ越しの保証人を兄へ頼んだことも、ほんの短い間にまとめて起きたせいで、今になってようやく肩へ入っていた力に気づいたらしい。
その隣では、輝夜がまだ帝の「家ごと買う」という言葉を引きずっていた。
「本当に買ってもらわなくてよかったの?」
「まだ言ってるの?」
「だって家でしょう? もらえるなら、もらえばいいじゃない」
「そういう問題じゃないから」
呆れながら返す彩葉に、輝夜は「もったいないわ」と唇を尖らせた。少し前までは竹取合戦に負けたことを引きずっていたはずなのに、優勝を知れば全身で喜び、帝が近づけば結婚の約束を思い出し、今度は買ってもらえたかもしれない家を惜しんでいるのだから、その感情の切り替わりの速さには彩葉も思わず笑ってしまう。
そのとき、頭上から明るい声が降ってきた。
「ふたりとも!」
彩葉と輝夜がほとんど同時に顔を上げる。
夜空からこちらへ向かって飛んできていたのは月見ヤチヨだった。長い髪を風になびかせながら軽やかに高度を落とし、その傍らには、全身を白い毛に包まれたもふもふ姿の因幡てゐも一緒についてきている。
「ヤチヨ!」
輝夜の表情がぱっと明るくなった。
ヤチヨは二人の前まで来ると、そのままふわりと地面へ降り立った。大勢の参加者を巻き込んだヤチヨカップを終えた直後だというのに疲れた様子など微塵もなく、いつもの掴みどころのない笑顔で彩葉と輝夜を交互に眺めている。
「改めて、優勝おめでと~」
「ありがとう!」
輝夜はすぐに胸を張って答え、彩葉も少し照れたように頭を下げた。その横では、丸々とした姿のてゐが二人を見比べながら長い耳を揺らし、白い毛に埋もれそうな口元をにやりと緩める。
「いやあ、最後までどう転ぶか分からなかったねえ。姫さんも結構驚いてたよ」
「でも、KASSENには負けたのよね……」
優勝した喜びは消えていないものの、輝夜はそう呟くと、ふとヤチヨの全身へ視線を向けた。
ヤチヨカップには勝った。それでもBlack onyXとの戦いで思いどおりに動けなかった悔しさまで消えたわけではなく、負けたまま終わるのが嫌なら、次に勝つための方法を考えるのが輝夜だった。
「ねえ、ヤチヨ」
「ん~?」
「どうしたら、ヤチヨみたいにもっと上手く動けるの?」
優勝したばかりだというのに、もう次に強くなる方法を聞き始めた輝夜に、彩葉は少しだけ目を丸くする。しかし、負けたことを引きずって立ち止まるよりも、その悔しさを次の勝負へそのまま持っていく姿は、今ではすっかり見慣れたものでもあった。
尋ねられたヤチヨはすぐには答えず、いかにも難しい相談を持ちかけられたように腕を組むと、右へ左へとゆっくり首を傾げた。てゐまで隣で真似するように首を傾けるものだから、輝夜は何か本当に重要な秘訣でも教えてもらえると思ったらしく、期待を隠さず身を乗り出している。
たっぷりと考え込む振りをした末、ヤチヨはようやく何かを閃いたように顔を上げた。
「それはね、早起きは三途の得というか~、急がば迷いの竹林を回れというか~」
語尾をのんびり伸ばしながら、考えているうちに適当な言葉が次々出てきたとでも言わんばかりに続けるヤチヨを、輝夜はしばらく無言で見つめた。彩葉も一瞬だけ真面目に考えてしまったものの、三途の川と迷いの竹林をどうつなげたところで、素早く動く方法へ辿り着く気配はない。
「……ヤチヨって、いっつもテキトーじゃない?」
「え~? そんなことないよ~」
「あるわよ。今の、何一つ上手くなる方法を教えてないじゃない」
「急がば回れって言うでしょう?」
「迷いの竹林を回ったら余計に迷うじゃない!」
すぐさま返ってきた輝夜の言葉に、彩葉は堪えきれず吹き出した。てゐももふもふの身体を小さく揺らしながら笑っており、当のヤチヨだけは何もおかしなことなど言っていないような顔で首を傾げている。
「姫さんに真面目な答えを期待したのが間違いだねえ」
「てゐまで言うの!?」
「だって姫さんだし」
「もう!」
輝夜は三人まとめて睨むように頬を膨らませたものの、本気で怒っているわけではなくすぐに諦めたように息を吐いた。ヤチヨもそんな輝夜を楽しそうに見ていたが、やがて笑みを残したままほんの少しだけ目を細める。
「まあ、ヤチヨは優柔不断だし、けっこう悪いやつだから」
「何よ、それ」
「ん~、そのまんま?」
また適当なことを言っているのだろうかと、輝夜は訝しそうに眉を寄せる。彩葉も少し気にはなったものの、これまでにも似たような掴みどころのない発言を何度も聞かされてきたため、深く問い詰めようとはしなかった。
そんな二人を前に、ヤチヨは今度こそまっすぐ輝夜を見る。
「でもね、輝夜は、輝夜だから強いんだなって、ヤチヨは思ったよ」
「……?」
輝夜はぱちぱちと瞬きをした。
何か大事なことを言われたような気もするのに、ヤチヨはそれ以上説明しようとせず、いつもの柔らかな笑顔を浮かべたままこちらを見ている。
「……なんにも言ってないじゃない」
「えへへ~」
「褒めてるのか誤魔化してるのか、どっちなのよ」
文句を言いながらも、輝夜の口元には僅かに笑みが浮かんでいた。理由にはなっていなくとも、自分だから強いと言われたこと自体は悪い気がしないらしく、それ以上しつこく問い詰めることもしない。
やがてヤチヨは、何かを思い出したようにぱんと両手を合わせた。
「さて、ここからはいよいよクライマックス! ちょ~っとハードな展開も待ってるかもしれないけど――」
急に芝居がかった声色へ変わったヤチヨを見て、先ほどまでとは別の意味で怪訝そうに首を傾げる。
ヤチヨはそんな二人へ向け、妙に楽しそうな笑みを浮かべた。
「だから二人とも、このお話を最後まで見届けてね」
彩葉と輝夜は、揃って呆然とヤチヨを見つめた。
突然「このお話」などと言われても何を指しているのかまるで分からず、それをあまりにも当然のように口にしたヤチヨへ、二人ともすぐには言葉を返せない。
ところが、ヤチヨには二人の困惑を説明するつもりなど最初からなかったらしい。
目の前に立っていた姿がふっと揺らいだかと思った次の瞬間、ヤチヨの姿が二つに分かれ、彩葉と輝夜がその変化へ目を向けた頃には、それぞれの背後へ回り込んでいた。
「えっ――」
彩葉が振り向くよりも早く、一人のヤチヨがその背中から両腕を回し、もう一人も同じように輝夜へ後ろからぎゅっと抱きつく。二人の耳元へ、ほとんど同時に楽しそうな声が響いた。
「運命の荒波にもまれる覚悟はいいか~!」
突然背後から抱きつかれたというのに、輝夜は驚くより先にその勢いへ乗るように目を輝かせ、対する彩葉は何を問われているのかすらよく分からないまま、背中に感じるヤチヨの重みと妙に大仰な言葉の間で反応に困ったように瞬きをする。
「もちろんよ!」
輝夜は迷いなく声を弾ませた。
「お、おぉ~…」
彩葉も押されるまま曖昧に応じると、二人のヤチヨは満足したように揃って笑い、その姿はほどなく重なるように一つへ戻った。
「それじゃあ私はやることがあるから、さらば~い!」
最後まで底抜けに明るい調子を崩さないまま、ヤチヨの身体がふわりと宙へ浮かび上がる。もふもふ姿のてゐもそれに続いて空へ上がると、ヤチヨは二人へ大きく手を振りながら高度を増し、その姿はツクヨミの夜空へみるみる遠ざかっていった。
彩葉はしばらくの間、何も言わずにその背中を見送っていた。
大会を開いたと思えば思うままに場をかき回し、速くなる方法を尋ねれば意味の分からないことわざを返し、最後には分身して後ろから抱きついたうえで運命の荒波へ挑む覚悟まで確認して去っていく。あまりに自由すぎる一連の振る舞いを思い返しているうちに、自分がいったい何を見せられていたのか分からなくなってきた彩葉は、ゆっくりと隣へ顔を向けた。
「これ、現実?」
輝夜はきょとんと目を瞬かせると、何を今さらという顔で答えた。
「仮想世界よ」
あまりにも即答だったため、彩葉は返す言葉を失い、もう一度だけヤチヨの消えていった夜空を見上げた。
◇ ◇ ◇
つい先ほどまで会場を揺らしていた歓声も少しずつ遠のき、参加者たちは仲間やファンのもとへ戻りながら、それぞれに祭りの余韻を味わっていた。その喧騒から少し離れた高台では、ヤチヨが一人、いつもの掴みどころのない笑みを浮かべながら、静けさを取り戻しつつある竹取合戦の舞台を眺めている。
やがて背後から草を踏む軽い足音が近づいてくると、ヤチヨは振り返るより先に、その気配が誰なのか分かったように目を細めた。
「お疲れさま、姫さん」
現れたてゐは、長時間解説を続けていたわりには普段と変わらない足取りでヤチヨの隣まで来ると、同じように会場へ目を向けた。
「てゐもお疲れ~。そっちも解説してくれてありがとう」
「どういたしまして。まあ、あれくらいなら別にいいけどさ」
軽く肩を竦めたてゐはしばらく黙っていたものの、大会そのものより別のことが気にかかっているらしく、やがて横に立つヤチヨの表情を窺うように視線を向けた。
「でも、姫さんは知ってたんだね」
「何を~?」
とぼけるように首を傾げるヤチヨへ半眼を向けながら、てゐは竹取合戦の途中で起きた、あの一瞬を思い返す。
「輝夜があの場面で、須臾の力を使うこと」
彩葉を助けるために輝夜が見せた動きは、単純に速度が跳ね上がっただけではなく、本来なら一つに収束するはずの行動が僅かな時間の中で重なったように見える異質なものだった。試合中は勢いで流せても、あとから映像を見返せば違和感を覚える者が出てきても不思議ではない。
「あれ、知らないやつが見たら何が起きたか分からないよ。コメントも一気に騒いでたし」
それでもヤチヨは慌てることなく、むしろ少し楽しそうに口元を緩めた。
「うん。だから、てゐに解説をお願いしたんだ」
「やっぱりそれが理由か」
てゐは呆れたように息を吐きながら、改めて自分が解説席へ呼ばれた理由を納得した。輝夜が不自然な動きを見せた瞬間、観客の意識がそこへ集中するより先に別の攻防へ話題を移し、異常を異常として認識される前に試合の流れへ紛れ込ませることまで、初めから役目に含まれていたのだろう。
「こっちは結構大変だったんだけどねえ。忠犬オタ公まで食いつきかけるし」
「ちゃんとごまかしてくれたじゃん」
あまりにも軽く返され、てゐは片耳を横へ倒しながらヤチヨを睨んだ。
「姫さんが軽く言うなよ。普通の試合みたいに繋げる方の身にもなってほしいね」
文句を口にしながらも、その表情はどこか楽しげだった。少なくとも大半の観客は、輝夜がツクヨミの通常システムでは説明できない力を使ったとは考えておらず、てゐの役目は十分に果たされている。
けれど、そこまで整理したところで、もう一つの疑問がてゐの中に残った。
「でもさ、姫さん。知ってたってことは、輝夜があそこで須臾を使うような状況になるのも分かってたってことでしょ」
ヤチヨはすぐには答えず、遠くの会場へ視線を向けた。その先では優勝発表を終えた輝夜がまだ彩葉のそばにいて、何か楽しそうに話しながら笑っている。
「まあね」
「だったら、止めようとは思わなかったの?」
てゐの問いに、ヤチヨは遠くの二人を眺めたまま僅かに目を細めた。
「止めても、輝夜は使ったと思うよ」
迷いのない返答に、てゐが訝しげに片耳を傾ける。
「そこまで分かる?」
「だって、彩葉が危なかったんだもん」
ヤチヨはあっさりと言い切ると、彩葉の隣で笑う輝夜へ、どこか懐かしそうな眼差しを向けた。
「輝夜は、そういう子だからねえ」
そこで一度口を閉じたヤチヨは、ほんの少し間を置いてから、何でもないことを付け足すような軽さで続ける。
「それに、使ってくれないと困るんだよね」
その一言に、てゐの耳がぴくりと動いた。
「……困る?」
「うん」
いつもと変わらない調子で頷くヤチヨの横顔をしばらく眺めてから、てゐは僅かに眉を上げる。
「何が?」
問い返されても、ヤチヨは答えず、遠くにいる輝夜へ視線を戻したまま薄い笑みだけを残した。しばらく待っても口を開く気配がないのを見て、てゐは肩を竦める。
「姫さん、また何か隠してるね」
「そんなことないよ~?」
あまりにも軽い否定に、てゐはますます疑わしそうに目を細めたものの、ここで問い詰めても素直な答えなど返ってこないことくらいは分かっていた。
「まあ、いいけどさ。でも今回は一瞬だったからごまかせただけだよ。もっと大きく須臾を使ったら、解説くらいじゃ隠せないからね」
「うん」
意外なほど素直に返したヤチヨを見て、てゐはどうせその先まで何か考えているのだろうと思いながら問いを重ねた。
「そのときはどうするの?」
「そのとき考える~」
胡散臭そうな視線を向けるてゐに、ヤチヨは楽しそうに笑うばかりだった。
「絶対もう考えてるだろ」
「さあ、どうでしょう~?」
てゐは呆れたように息を吐いたが、「使ってくれないと困る」という言葉だけは簡単に流せないまま、胸の奥に引っかかっていた。遠くでは、何も知らない輝夜が彩葉の隣で笑っている。その姿をてゐが眺める横で、ヤチヨはいつもの笑みを浮かべたまま夜空を見上げ、先ほど口にした言葉の意味を自分から明かそうとはしなかった。