輝夜と彩葉は久しぶりに特別な企画もゲームも用意しない雑談配信を始めていた。画面に映っているのはいつもの二人だったが、配信開始と同時に流れ始めたコメントは普段以上の勢いで、先日の大会を見届けた視聴者たちが待ち構えていたように祝福の言葉を投げ込んでくる。
『優勝おめでとう!』
『輝夜いろPほんとにおめでとう!』
『竹取合戦めちゃくちゃ熱かった!』
『いろPも輝夜もかっこよかったぞ!』
途切れる気配のないコメントを目で追いながら、輝夜は最初こそ得意げに胸を張っていたものの、自分たちの名前が画面いっぱいに並んでいくにつれて、嬉しさを隠しきれないように頬を緩めた。
「みんな、ありがとう! 試合には負けちゃったけど、ヤチヨカップは私たちの優勝よ!」
「そこはちゃんと分けるんだね」
隣から彩葉に突っ込まれても、輝夜は「当然でしょう」と得意そうに頷いている。彩葉自身も結果発表の瞬間までは敗北を引きずっていたが、こうして改めて祝われると、竹取合戦の勝敗とは別に、自分たちが積み重ねてきたものを認めてもらえたのだという実感が少しずつ湧いてきた。
コメント欄では試合中の印象的な場面が次々と挙げられていたが、やがて同じ内容を尋ねる投稿が目立ち始める。
『そういえば帝戦のあれ何だったの?』
『輝夜が一瞬で移動したやつ』
『あんなスキルあったっけ?』
『映像見返してもよく分からなかった』
彩葉もその話題に気づき、隣の輝夜へ視線を向けた。試合中は彩葉自身も目の前の帝へ意識を集中させていたため、輝夜がどうやってあの距離を詰めたのか、改めて聞かれても説明できるほど理解していない。
「そういえば、あれ何だったの?」
「え?」
自分にも尋ねられるとは思っていなかったらしく、輝夜は一度瞬きをしてから、試合中の出来事を思い出すように視線を上へ向けた。
「……私にも分からないわ」
『本人も分からないの!?』
『新技じゃなかったのか』
『無意識でやったの?』
驚くコメントが流れていく中、輝夜は困ったように眉を寄せたまま、自分の両手を見つめる。
「彩葉を助けなきゃって思ったのは覚えてるの。それで、急いで行かなきゃって思って……気がついたら、もうあそこにいたのよ」
「私も、気づいたら輝夜が来てたんだよね」
彩葉が補足しても、原因が分からないことに変わりはない。視聴者からはバグや新スキルではないかという推測が飛び交ったものの、当人たちに答えられる材料がない以上、結局その話題は「よく分からない不思議なこと」として流れていった。
しばらくして大会の話も一段落すると、輝夜は思い出したように顔を明るくし、先ほどまでとはまったく違う話題を勢いよく持ち出した。
「そうだ。私たち、もうすぐ引っ越すのよ!」
突然の報告にコメント欄が一斉に加速し、祝福と驚きが入り混じった文字が画面を埋めていく。彩葉は事前に話すなとは言っていなかったため、その程度なら構わないかと見守っていたが、輝夜は視聴者が興味を示したことが嬉しかったらしく、そのまま詳しく説明しようと身を乗り出した。
「今度の家はね――」
「輝夜」
途中で名前を呼ばれ、輝夜が隣を見ると、彩葉は笑ってこそいるものの、明らかに続きを止める目をしていた。
「引っ越し先は言っちゃだめだよ」
「え、そうなの?」
「そうなの。場所が分かることは配信で言わない」
ようやく意味を理解した輝夜は、口にしかけていた言葉を飲み込みながら素直に頷いた。そのやり取りを見ていた視聴者からは、すぐに彩葉の判断を支持するコメントと、危うく場所まで話しそうになった輝夜への笑いが流れ始める。
『いろPナイスストップ』
『輝夜あぶないw』
『住所は絶対言っちゃダメだぞ!』
『新居楽しみだね』
輝夜はコメントを読みながら少しだけ不満そうに頬を膨らませたものの、引っ越しそのものを話せるだけでも十分だったらしく、すぐに機嫌を直した。
「じゃあ場所は秘密。でも、今より広くなるのよ!」
「それくらいなら言っていいよ」
彩葉が笑いながら許可すると、輝夜はそれだけで満足そうに頷き、新しい家では何をしたいか、どこに何を置きたいかと思いつくまま話し始める。まだ荷造りも完全には終わっておらず、実際の新生活は少し先のことなのに、その声だけを聞いていると、すでに引っ越しを終えたかのような浮かれぶりだった。
彩葉はそんな輝夜を横目に見ながら、流れていくコメントをゆっくり追った。ヤチヨカップの優勝も、試合中に起きた説明できない出来事も、これから始まる新しい生活も、数日前まではどれも現実味の薄い話だったはずなのに、今ではこうして輝夜と並んで視聴者へ話している。
引っ越し先だけは絶対に言わせないよう気をつけながら、彩葉は楽しそうに新居の話を続ける輝夜へ、呆れ混じりの笑みを向けていた。
◇ ◇ ◇
配信が終わり、彩葉は机の前に座りスマートフォンの画面を何度も上下へ滑らせていた。表示されているのは引っ越し業者の比較サイトで、基本料金や時間指定の有無、段ボールの無料枚数、家具家電の設置まで頼めるかなど、どの会社も似ているようで微妙に条件が違っている。
「うーん……こっちは安いけど時間指定なしで、こっちは少し高い代わりに設置までやってくれるのか……」
ベッドの上でくつろいでいた輝夜は、先ほどから彩葉が画面と睨み合っているのが気になったらしく、身体を起こすと背後から肩越しに覗き込んだ。
「何を見ているの?」
「引っ越し業者。新しい部屋まで荷物を運んでもらわないといけないでしょ」
「引っ越し業者?」
聞き慣れない言葉を確かめるように繰り返した輝夜は、画面に並ぶ料金をしばらく眺めたあと、どうしてそんなことへお金を払う必要があるのか分からないとでも言いたげに眉を寄せる。
「そんなのいらないわ。私たちで運べばいいじゃない」
「いや、無理でしょ」
あまりにも当然のように言い切られ、彩葉は呆れながら部屋の中を見回した。衣服や小物くらいなら何往復かすればどうにかなるかもしれないが、机や棚、洗濯機に冷蔵庫まで二人だけで運ぶとなれば、持ち上げる以前に玄関から出すところで詰みそうにしか思えない。
「じゃあ、あの冷蔵庫どうするの? あれ結構重いよ」
彩葉が指差すと、輝夜も素直にそちらへ顔を向けた。
「これ?」
「そう、それ。さすがに二人じゃ――」
最後まで聞く必要はないと判断したらしく、輝夜はすっと立ち上がって冷蔵庫の前まで歩いていき、その両脇へ手を回した。何をするつもりなのか察した彩葉が嫌な予感とともに椅子から腰を浮かせた頃には、もう止めるには遅かった。
「ちょっと待って。電源も抜いてないし、中身も――」
輝夜がそのまま身体を起こすと、何十キロあるのか考えたくもない冷蔵庫が、まるで中身の入った買い物袋程度の重さしかないように床から離れた。腕が震える様子もなければ顔に力が入る様子すらなく、輝夜は胸ほどの高さまで持ち上げたまま、不思議そうに彩葉を見つめている。
「これなら運べるわよ?」
あまりにも簡単に持ち上がったせいで、彩葉は立ち上がった姿勢のまま言葉を失った。ところが輝夜が確認するように冷蔵庫を少し傾けた途端、中から容器らしきものがごとんと転がる音が響き、そこでようやく我に返る。
「待って待って! 中身入ってるから! 絶対今なんか倒れた!」
「あっ」
輝夜はそこで初めて気づいたように目を瞬かせたものの、冷蔵庫そのものが重いという認識までは持てなかったらしい。今度は片腕だけで支え直し、空いた手を彩葉へ見せようとしたため、彩葉はさらに慌てて身を乗り出した。
「ほら、片手でも――」
「見せなくていいから!」
勢いよく止められた輝夜は少し不満そうな顔をしたものの、言われたとおり冷蔵庫を元の位置へ戻した。床へ置く瞬間だけ妙に慎重だったため、彩葉にはむしろ、その丁寧さとさっきまで片手で持っていた事実との落差の方が理解できなかった。
「だから業者なんていらないでしょう?」
「冷蔵庫一個を持てるかどうかの話じゃないの。荷物は他にもいっぱいあるし、壁とか床とか傷つけたら困るし、洗濯機の取り外しだってあるんだから」
「でも、私なら全部持てるわ」
まだ納得していない輝夜は胸を張ると、今度は部屋の隅にある棚や机へ順番に視線を向け、どれを持ち上げれば彩葉を納得させられるのかと真剣に考え始めた。
「今なら金閣寺の一枚天井だって持ち上げられるわ」
「なによそれ」
聞き慣れない単語があまりにも自然に飛び出してきたため、彩葉はスマートフォンから顔を上げ、怪訝そうに輝夜を見た。
「金閣寺の一枚天井よ。大きくて重いやつ」
「いや、金閣寺って京都のやつでしょ? そんな一枚天井なんてないよ」
「えっ、ないの?」
今度は輝夜の方が本気で驚いたらしく、大きく目を見開いた。彩葉も一瞬だけ自分の記憶を疑ったものの、教科書や写真で見た金閣寺を思い返してみても、輝夜が言うような巨大な一枚板の天井など聞いた覚えはない。
「少なくとも、そんな一枚天井があるなんて話は聞いたことないけど……どこで覚えたの、その知識」
「おかしいわね……絶対あったと思うんだけど」
輝夜は腕を組み、冷蔵庫を持ち上げたときよりもよほど真剣な顔で記憶を探り始めた。彩葉はそんな様子をしばらく眺めていたものの、これ以上付き合えば今度は本当に棚や机まで持ち上げ始めそうな気がして、何も言わず椅子へ座り直す。
「とにかく、引っ越しは業者に頼むからね」
まだ諦めていない輝夜が「私がいるのに?」と背後から画面を覗き込んできたが、彩葉は取り合わず、そのまま予約画面へ必要事項を入力していく。
「冷蔵庫だって片手で持てるのよ?」
「それを見たから余計に頼むの。お願いだから、引っ越し当日に家具で怪力自慢しないで」
「そんなことしないわよ」
輝夜の抗議を背中で聞き流しながら、彩葉は家具家電の搬出と設置まで頼める一社を選び、そのまま予約を確定した。
◇ ◇ ◇
引っ越し当日、結局二人はごく普通に業者を利用した。
作業員たちは壁や床へ手際よく養生を施すと、段ボールや家具を次々と運び出していき、例の冷蔵庫も二人一組で慎重に搬出していく。その様子を見ていた輝夜は何度か「私なら一人で持てるのに」と言いたそうな顔をしたものの、彩葉から無言で視線を向けられるたび大人しく口を閉じていた。
新居へ移動してからも作業は驚くほど早く進み、何もなかった部屋には家具や家電が次々と収まっていく。輝夜は広くなった室内を楽しそうに見回していた。やがて最後の荷物まで運び終え、作業員たちが帰るとようやく二人きりになった新居には大量の段ボールだけが残された。家具の位置こそ整っているものの、リビングにも寝室にもキッチンにも箱が積まれており、まともに生活を始めるにはここからもう一仕事必要そうだった。
彩葉は足元にあった箱を開け、洗面用品を取り出している途中で手を止める。
「シャンプーない……洗剤も足りないし、ゴミ袋も買わないと」
必要な物をスマートフォンへ打ち込み、財布を鞄へ入れて玄関へ向かうと近くの箱を覗き込んでいた輝夜がすぐに気づきぱっと立ち上がった。
「ちょっと買い物行ってくるね」
「私も行くわ!」
当然のようについてこようとした輝夜を見て、彩葉は靴へ足を入れかけたまま動きを止めその背後に積み上がった段ボールへ視線を向ける。
「いや、輝夜は残ってて」
「どうして?」
「荷物いっぱいあるでしょ。私が買い物してる間に、少し片づけておいてほしいんだけど」
彩葉が箱の山を指差すと、輝夜はそちらを見てからもう一度玄関にいる彩葉へ視線を戻した。明らかについて行きたい顔をしているものの、このままでは夜になっても段ボールの山に囲まれていることくらいは本人にも分かったらしい。
「……私も一緒に行きたいわ」
「すぐ戻ってくるから。全部やらなくていいし、終わるところまででいいよ」
「本当に少しでいいの?」
「うん。無理しなくていいから」
そこまで言われると、輝夜もようやく諦めたらしく、名残惜しそうに唇を尖らせながら頷いた。
「分かったわ。任せて」
返事だけが妙に力強かったため、彩葉は一瞬だけ嫌な予感を覚えたものの、さすがに荷ほどきで冷蔵庫を持ち上げることはないだろうと考えそのまま新居を後にした。
近くの店へ入った彩葉は、スマートフォンのメモを見ながらシャンプーや洗剤、ゴミ袋などを順番に籠へ入れていった。新居が広くなったぶん収納用品も欲しくなったが、まだどこへ何を置くかも決まっていないため、今日は必要最低限にしておこうと何度か商品を棚へ戻す。食品売り場を通りかかったところで、彩葉の足がふと止まった。棚の一角に、パンケーキミックスの袋が並んでいる。何となく一つ手に取ると、新しいキッチンで輝夜と並び、焼き上がるのを待っている光景が自然と頭に浮かんだ。荷ほどきが一段落したあとに二人で食べるくらいなら、引っ越し祝いとしてもちょうどいいかもしれない。
「……まあ、これくらいならいいか」
値段を確認してからパンケーキミックスを籠へ入れ、彩葉が次の売り場へ向かおうとしたそのときだった。
「彩葉!」
背後から聞き慣れた声が飛んできたため、彩葉は何気なく振り返りそのまま足を止めた。ついさっき大量の段ボールと一緒に新居へ置いてきたはずの輝夜が、なぜか満面の笑みを浮かべながら、買い物客の間をこちらへ向かって歩いてきている。
「やっと見つけたわ!」
「……なんでいるの?」
「彩葉のところに来たのよ」
「それは見れば分かるけど」
彩葉は思わずスマートフォンの時刻を確認した。寄り道もしていないうえ、店へ来てからそれほど時間も経っておらず、出かける前に見た段ボールの量を考えれば、輝夜がもうここにいる理由など思いつかない。
「片づけはどうしたの?」
「終わったわよ」
あまりにも平然と返されたため、彩葉は一度だけ黙り込みそれから確認するように眉を寄せた。
「……私がお願いした、あの段ボール?」
「そうよ。全部終わらせたわ」
彩葉の視線が輝夜の顔からスマートフォンの時刻へ移り、もう一度輝夜へ戻る。出かける前の新居には、リビングだけでなく寝室にもキッチンにも箱が積まれており、自分なら今日中に終われば上出来だと思っていた量だった。
「……全部?」
「全部よ」
「リビングも、寝室も、キッチンも?」
「全部終わったって言ってるでしょう?」
何度も確認される理由が分からないのか、輝夜は少し不思議そうに首を傾げる。その一方で彩葉は、パンケーキミックスの入った籠を抱えたまま、しばらく次の言葉を探せずにいた。
「……嘘でしょ」
「本当よ。それより、一人で買い物なんてずるいわ。私も一緒に見る」
片づけの話はもう終わったとばかりに、輝夜は彩葉の腕へ抱きつき、楽しそうに売り場の奥へ視線を向けた。彩葉はまだ納得できないまま引っ張られたものの、ここで何度聞いても同じ答えしか返ってこない気がして、ひとまず残りの買い物を一緒に済ませることにした。
それから二人で新居へ戻り彩葉が玄関の扉を開けたところで、足がぴたりと止まった。
本当に片づいていた。
あれほど積み上がっていた段ボールは一つも残っておらず、衣類も本も日用品も、それぞれ使う場所へきちんと収まっている。空になった箱まで折り畳まれて一か所へまとめられ、ほんの少し買い物へ出ていただけとは思えないほど、部屋の様子が変わっていた。
「……本当に全部終わってる」
「だから言ったじゃない」
後ろから入ってきた輝夜は得意げに胸を張り、驚いたまま室内を見回している彩葉の横を通り抜けた。彩葉は買い物袋を床へ置くと、綺麗に片づいたリビングから寝室の方まで視線を巡らせ、それからようやく輝夜へ顔を向ける。
「どうやったの、これ」
「知りたい?」
その質問を待っていたらしく、輝夜はぱっと振り返ると、得意げな笑みを浮かべながら蓬莱の玉の枝を取り出した。
「これよ」
「……それで片づけたの?」
「これを持って、早く終わらせたいことを念じるの。そうすると、やりたいことがすっごく早く終わるのよ」
大発見でも教えるように目を輝かせる輝夜を前に彩葉は蓬莱の玉の枝へ目を落とし、それからもう一度、何一つ散らかっていない室内を見渡した。
「そんな使い方していいの?」
「便利なんだから使わないともったいないでしょう?」
輝夜は当然のことを言っただけという顔で首を傾げている。彩葉は何か注意しようとして口を開いたものの、傷一つ増えていない部屋と綺麗に畳まれた空箱を見ているうちに、結局何を注意すればいいのか分からなくなり、そのまま小さく息を吐いた。
「……輝夜って、便利な力の使い方だけ妙に生活感あるよね」
「褒めてる?」
「たぶん褒めてない」
輝夜が納得できないというように眉を寄せる横で、彩葉は買ってきた袋を持ち上げる。その中には日用品に混じって、少し前まで一人で眺めていたパンケーキミックスも収まっていた。段ボールが全部片づいているのなら、今日は予定していたよりもずっと早く新しい部屋での生活を始められそうだった。
◇ ◇ ◇
引っ越し当日の慌ただしさもようやく落ち着き、簡単な夕食と食後のパンケーキまで済ませた頃には、窓の外もすっかり暗くなっていた。彩葉は自分の部屋へ戻ると、まだ新しい匂いの残るベッドへ身体を預け、朝から続いていた引っ越しの疲れを抜くようにゆっくり息を吐いた。
以前の部屋より広くなり、自分だけの寝室まで用意されたというのに、まだどこか借り物の場所へいるような落ち着かなさが残っている。それでも、段ボールに埋もれていた数時間前と比べれば随分ましになったと考えながら、彩葉がぼんやり天井を眺めていると、廊下から足音が近づいてきた。
ほどなくして扉が開き、輝夜が顔を覗かせる。
その腕には、彩葉のパソコンが抱えられていた。
「彩葉、これ何?」
いきなり差し出された画面には、彩葉が見覚えのないふりなどできないファイルが開かれていた。最近作った曲とは違い、ずっと前から途中の状態で保存されたままになっている未完成の曲であり、それを見つけられたと理解した瞬間、彩葉はベッドへ横になっていた身体を少し起こした。
「勝手に見ないでよ」
咎める言葉ではあったものの、声には本気で怒っているような強さはなく、むしろ見られたくないものを不意に見つけられてしまった気まずさの方が滲んでいた。輝夜もそれを感じ取ったらしく、悪びれるより先に少しだけ肩を竦めると、パソコンを抱えたまま彩葉のそばまで近づいてくる。
「だって気になったんだもの。聴いてみたら、途中で終わっちゃったわ」
輝夜はベッドの端へ腰掛けると、画面に表示された再生位置を指先で示した。曲はいくつかの展開を経たところで唐突に途切れており、その先には音もトラックも続いていない。
「これ、まだ作りかけなんでしょう?」
「……うん」
彩葉はベッドの上で膝を抱えるように座り直し、輝夜の手元にある画面へ視線を落とした。今では自分から開くこともほとんどなくなったが、忘れていたわけではなく、その曲がどこで止まっているのかも、続きを置けないままどれだけ時間が経ったのかも覚えている。
「じゃあ、続きは?」
輝夜には何の含みもなく、ただ聴いた曲の先を知りたいという好奇心しかない。それが分かっているからこそ、彩葉も適当な言葉で誤魔化すことができず、画面に残された未完成のトラックをしばらく見つめた。
「……ないよ」
「まだ作ってないの?」
問い返した輝夜が不思議そうに首を傾げると、彩葉はすぐには答えず、ほんの少しだけ視線を逸らした。今の自分なら技術だけを考えれば続きを作ることはできるのかもしれないが、それでも、あの曲の先へ自分一人で新しい音を置くことだけは、ずっとできないままだった。
「そうじゃなくて……もう、完成させられないんだ」
輝夜は理由を聞こうとして一度口を開きかけたものの、普段なら曲の話をすると自然に柔らかくなる彩葉の表情が今は少しだけ固いことに気づき、そのまま言葉を飲み込んだ。何があったのかまでは分からなくても、ここから先へ軽い気持ちで踏み込まない方がいいことくらいは感じ取ったらしい。
その気遣いに気づいた彩葉は、重くなりかけた空気を長引かせないように表情を少し緩め、輝夜の手にあるパソコンへ手を伸ばした。
「いいのいいの。明日は本番だし、もう寝よう」
「あ、そうだったわ。明日はヤチヨとのライブね」
話題が変わった途端、輝夜の表情もすぐに明るくなったが、次の瞬間には何かを思い出したらしく、少しだけ不満そうに眉を寄せた。
「でも、あの曲難しすぎない? ヤチヨ、自分がAIだからって好き放題作ってるんじゃないかしら」
彩葉は受け取ったパソコンを机へ戻しながら、呆れ混じりに笑った。
「またそんなこと言ってる」
「だって本当に難しいのよ」
輝夜は納得できないというように唇を尖らせたものの、ライブそのものを嫌がっている様子はなく、むしろ明日のステージを楽しみにしている気持ちの方が声から隠しきれずに伝わってくる。
彩葉もそんな輝夜を見ながら、このところ本当に色々なことがありすぎたと思った。突然現れた輝夜と暮らし始め、曲を作り、配信を始め、ヤチヨカップへ参加し、帝とも再会して、気づけば明日はヤチヨと同じステージへ立つことになっている。
そこで「明日」という言葉を意識した瞬間、彩葉の頭には、以前から予定に入れていた模試も同じ日にあることが浮かんだ。
少し前までの自分なら、勉強に関わる予定と何かが重なった時点で、どちらを優先するか迷うことさえなかったはずだった。模試へ行くことを当然の前提として、ほかの予定をどう調整するのかだけを考えていただろう。
それでも今は、明日のライブを楽しみにしながら話している輝夜を前にすると、自分だけがそこから抜ける光景の方がどうしても現実味を持たない。
模試のことを輝夜へ伝えるつもりはなく、この選択を理由に気を遣わせる必要もないと彩葉は思った。ほんの一瞬だけ頭をよぎった予定をそのまま胸の内へしまい込み、表情を変えないまま立ち上がる。
「ほら、もう遅いから寝るよ」
「はーい」
輝夜も素直に立ち上がったため、彩葉はてっきり自分の部屋へ戻るのだと思っていた。
ところが、電気を消して彩葉が自分の布団へ入って間もなく、扉の方から再び足音が近づき、そのまま何の遠慮もなく布団の端が持ち上がる。振り向けば、輝夜が当然のような顔で中へ潜り込み、彩葉の隣へ身体を収めていた。
「……輝夜、自分の部屋あるでしょ」
「あるわよ?」
何を今さら聞くのかとでも言いたげに返しながら、輝夜はそれでも出ていこうとはせず、むしろ一緒に眠れる場所を確保したことに満足したように枕へ頭を乗せた。
彩葉はそんな輝夜を横目で見ながら、せっかく以前より広い新居へ移り、それぞれの寝室まで分けた意味について一瞬だけ考えたものの、追い出そうという気持ちは少しも湧かなかった。諦めたように布団を掛け直し、身体を仰向けに戻す。
「寝室分けた意味ないっつーの」
「いいじゃない。一緒の方が楽しいわ」
輝夜は悪びれる様子もなくそう答えると、満足したように目を閉じた。
彩葉も小さく息を吐きながら暗い天井を見上げ、明日のライブと、胸の内にしまったままの模試についてもう一度だけ思い浮かべる。それでも隣から聞こえ始めた輝夜の穏やかな呼吸を聞いているうちに、どちらを選ぶのかを改めて考える必要はないように思えた。
やがて彩葉も目を閉じ、新居で迎える最初の夜は、それぞれの寝室を用意した意味を早くも失わせたまま、二人並んで静かに更けていった。