本番まであと僅かとなった控室には、ステージ側から響く音響確認の振動と、廊下を行き交うスタッフたちの気配が絶え間なく流れ込んでいた。彩葉は椅子へ腰掛けたまま何度目か分からない深呼吸を繰り返していたものの、胸の奥に張りついた緊張はなかなか抜けず、膝の上に置いた両手を無意識に握ったり開いたりしている。
一方の輝夜は、本番直前とは思えないほど普段と変わらず、鏡の前で衣装を確かめていたかと思えば、不意に彩葉へ身体を向けた。頬の横へ両手を添え、少し首を傾げながら、明らかに可愛らしさを意識した笑顔を向けてくる。
「どう?」
あまりにも似合っていたため、彩葉は一瞬だけ返事に詰まりかけたが、すぐに視線を逸らして表情を整えた。
「はいはい、かわいいかわいい」
「なによ、その適当な言い方」
不満そうに唇を尖らせた輝夜を横目に、彩葉は何事もなかったように衣装の裾を直した。けれど輝夜も長く拗ねるほどではなかったらしく、しばらくすると椅子へ腰を下ろし、今度は腹へ手を当てて大きく息を吐く。
「お腹すいたわ。いっぱい練習したもの」
「私、緊張でご飯食べれんかったよ」
彩葉が苦笑すると、輝夜は少し驚いたように顔を覗き込んだものの、深刻に心配するより先に、もうライブが終わったあとのことを考え始めたらしい。
「じゃあ終わったら、パンケーキ作って」
「自分が食べたいだけでしょ」
彩葉は呆れながら返したが、無事にライブを終えて新居へ帰り、輝夜といつものように食卓を囲む光景を思い浮かべると、強張っていた肩から少しだけ力が抜けた。断る理由もなく、小さく息を吐いてから頷く。
「……分かった。終わったらね」
「やった!」
輝夜が満足そうに笑ったところで控室の扉が開き、ヤチヨがいつもの軽い足取りで入ってきた。二人の姿を見つけると、そのまま彩葉の前まで近づき、何か思いついたように口元を緩める。
「ねぇ彩葉」
振り向いた彩葉の前で、ヤチヨは頬のそばへ両手を寄せ、少し首を傾げながら愛嬌たっぷりのポーズを決めてみせた。先ほどの輝夜のときとは違って取り繕う暇もなく、彩葉の口から素直な感想が零れる。
「かわいい」
その直後、横から妙に強い視線が刺さっていることに気づき、彩葉がそちらへ顔を向けると、輝夜が頬を膨らませながらじっとこちらを見ていた。
「……私のときと反応違くない?」
「え?」
彩葉が間の抜けた声を返すと、輝夜はますます不満そうに眉を寄せた。
「私には『はいはい』って言ったのに、ヤチヨには普通にかわいいって言ったじゃない」
言われてみればその通りで、彩葉は一瞬だけ言葉に詰まった。慌てて何か返そうとする横で、ヤチヨは二人の顔を見比べながら面白そうに笑っている。
「いや、輝夜もちゃんとかわいかったよ」
「今言っても遅いわ」
彩葉が苦笑すると、輝夜はまだ納得していないらしく顔を背けた。その様子を眺めていたヤチヨは笑みを浮かべたまま、ほんの僅かに目を細める。
そこには、じゃれ合う二人を少し羨むような色と、何かを懐かしむような柔らかさが混じっていた。けれど、その表情はほんの一瞬で消え、彩葉が気づく頃にはいつもの掴みどころのない笑みへ戻っている。
「それで、何の話してたの~?」
ヤチヨに尋ねられると、輝夜はまだ少しだけ頬を膨らませたまま、それでも嬉しそうに彩葉を指した。
「ライブが終わったら、彩葉にパンケーキ作ってもらうの」
「いいな~。ヤチヨも彩葉のパンケーキが食べたいな~」
その言葉を聞いた輝夜は、さっきまでの不満を忘れたようにヤチヨへ向き直り、妙に真剣な顔をする。
「ヤチヨ、気を付けた方がいいわよ。彩葉のパンケーキには当たりと外れがあるから」
「ちょっと、そんな言い方する?」
抗議する彩葉をよそに、輝夜は過去の証拠を提示するように人差し指を立てた。
「だって前に、水と粉だけで作ったことあったでしょう?」
その一言で思い当たった彩葉の表情が僅かに固まり、ヤチヨは事情を察したように楽しそうに二人を見比べた。
「あれはちゃんと焼けてたでしょ」
「焼けてるのと、おいしいのは別よ」
即座に返され、彩葉は反論しかけたものの、あの日の出来を思い返して言葉を飲み込んだ。そんな様子を見たヤチヨは楽しそうに笑い、自分も食べるつもりを変える気はないらしく、軽く手を挙げる。
「じゃあ今日は、当たりの方をお願いしようかな~」
「普通に作れば普通だから!」
思わず声を上げた彩葉だったが、気づけば先ほどまで身体を強張らせていた緊張は随分と薄れていた。
やがて廊下の向こうから本番を知らせる声が届き、三人の間に流れていた柔らかな空気が少しずつステージへ向かうものへ変わっていく。ヤチヨは二人を見渡してから扉へ身体を向け、楽しげな声で本番を促した。
「それじゃあ、パンケーキの前に本番だね」
輝夜は待ってましたとばかりに立ち上がり、彩葉もそのあとを追って椅子から腰を上げた。ステージへ近づくほど歓声と音楽の振動は大きくなっていったが、今度は緊張だけが胸を占めることはなく、彩葉は隣を歩く輝夜と、その少し先を進むヤチヨを見ながら静かに呼吸を整えていった。
◇ ◇ ◇
控室をあとにした三人が舞台下へ移動すると、薄暗い空間の中央にはステージへ直結する円形の昇降機が待っていた。彩葉、輝夜、ヤチヨが並んでその上へ乗り込み、スタッフから準備完了の合図が送られると、足元から低い駆動音が響き始め、三人を乗せた床がゆっくりと上昇していく。まだ頭上を舞台床に塞がれているため観客の姿は見えなかったが、会場を満たす歓声は壁や床を通して絶え間なく伝わってきた。上へ近づくほどその音は鮮明になり、控室で輝夜やヤチヨと笑っている間には随分と和らいでいた緊張も、彩葉の胸の内側へ再びじわじわと戻ってくる。
それとは対照的に、輝夜は頭上の隙間から僅かに漏れてくる光を見つめながら、待ちきれないとでも言いたげに瞳を輝かせていた。隣のヤチヨにも本番を目前にした気負いはまるでなく、これから大勢の観客の前へ出るというより、自分を待っているいつもの場所へ帰っていくような穏やかさがある。そんなヤチヨの横顔を見ているうちに、彩葉は以前から気になっていたことをふと思い出した。聞こうと思えばいくらでも機会はあったはずなのに、なぜかこれまで尋ねられなかった疑問が、このタイミングになって自然と口をついて出る。
「ヤチヨのデビュー曲って、もう歌わないの?」
彩葉が尋ねると、ヤチヨはゆっくりとこちらへ顔を向けた。曲名まで言わなくても『Remember』のことだと分かったらしく、驚く様子もなく、むしろいつか聞かれることを知っていたように柔らかく目を細める。
「あれはね、もう届いたからお役目完了」
あまりにも軽い調子だったため、彩葉は一瞬だけその意味を取り損ねた。もう歌う必要がなくなったという話ならまだ分かるものの、「届いた」という言葉だけが妙に耳へ残り、彩葉は訝しげに眉を寄せながらヤチヨを見返す。
疑問が形になるより早く、昇降機の床に細い光の輪が走った。
足元から立ち上がった光は三人の身体を包み込むように駆け上がり、それまで身につけていた衣装の輪郭を細かな光の粒へほどいていく。ほんの一瞬遅れて新しい衣装のデータが身体へ重なり、白を基調としながら黒や鮮やかな差し色を散らした、三人で意匠を揃えたコラボライブ用の衣装へと切り替わった。
彩葉が驚いて自分の袖口へ目を落とす横で、輝夜は待ってましたとばかりに両腕を広げ、新しい衣装を確かめながら嬉しそうに身体を翻した。その様子を眺めたヤチヨも自分の衣装へ軽く目を落としたあといつもの明るい笑顔を浮かべる。
「ほらっ! 時間だよ!」
その声とほとんど同時に、昇降機の周囲へ差し込む光が一気に強くなった。頭上を塞いでいた舞台床が開き始め、それまで壁越しに聞こえていた歓声が、今度は直接身体へぶつかってくるほどの音量へ膨れ上がる。聞き返そうとしていた言葉を飲み込んだ彩葉は、迫ってくる本番へ意識を切り替えるように一度だけ深く息を吸った。その隣では輝夜が今にも先に飛び出しそうな勢いで笑っており、ヤチヨも真正面へ向き直ると、上昇していく視界の先に広がる観客席を静かに見つめていた。
やがて昇降機がステージ面へ到達し、三人の姿が完全に観客の前へ現れる。
巨大な会場いっぱいに広がった無数の光が一斉に揺れ、その中央へ降り注ぐ歓声の大きさに、彩葉は思わず身体を強張らせた。けれど輝夜が嬉しそうに客席へ手を振り、反対側ではヤチヨが慣れた仕草で会場を見渡しているのを見ているうちに、逃げ場のない怖さよりも、いよいよ始まるのだという実感の方が少しずつ強くなっていく。
ヤチヨはすぐに歌を始めることはせず、観客席を端から端までゆっくりと見渡した。三人の登場に沸いていた会場も、ヤチヨが何かを話そうとしていることに気づくと少しずつ静まり、無数の光だけが期待を示すように穏やかに揺れ続ける。
「みんな、生きるのはどうですか? いいことあった? それとも、泣いちゃいそう?」
問いかける声には重苦しさなどなく、目の前にいる一人ひとりへ、今日がどんな一日だったのか尋ねるような親しさがあった。客席のあちこちから返ってくる声へ耳を澄ますように少し待ったあと、ヤチヨはすべてを受け止めるように柔らかな笑みを浮かべる。
「うんうん、ぜーんぶ大丈夫」
それからヤチヨは、会場を埋め尽くす観客を一つの大きな群衆として見るのではなく、その中にいる誰か一人へ言葉を手渡していくように視線を巡らせた。普段の掴みどころのない軽さを残した声には、これから始まるライブを盛り上げるだけではない温かさがあり、彩葉もいつの間にか自分の緊張を忘れて耳を傾けていた。
やがてヤチヨの視線が輝夜へ向き、続いて彩葉へ移る。ほんの一瞬だけ、その目に何かを懐かしむような柔らかさが浮かんだ。けれどヤチヨは何も付け加えることなく再び観客へ向き直ると、今度は会場の隅々まで届かせるように、ゆっくりと声を響かせた。
「どんなに辛い道のりでも、楽しかった記憶さえ残っていれば未来に向かって歩けるよ」
会場を満たしていた光が、その言葉を受け止めるように静かな波を作った。ヤチヨはしばらく観客の光景を眺めたあと、片手をゆっくりと差し出した。その表情には先ほどまでの穏やかさを残しながらも、これから輝夜や彩葉と同じステージに立てることを心から楽しみにしているような笑みが浮かんでいる。
「この瞬間を、忘れられない思い出にしたいから……どうか、一緒に踊ってくれる?」
その呼びかけを待っていたように、観客席から大きな歓声が返ってきた。無数の光が一斉に波打ち、ステージを取り囲む照明もそれに応えるように明るさを増していく中、輝夜は抑えきれない笑顔を浮かべたまま一歩前へ出ると、隣の彩葉へ早く来てとでもとでも言いたげな視線を向ける。彩葉は高鳴る鼓動を感じながらも、今度は足を止めなかった。大きく息を吸って輝夜の隣へ並び、ヤチヨが二人へ顔を向けると、輝夜は今にも駆け出しそうな笑顔を返し、彩葉も小さく頷く。三人の視線が揃ったところで、ステージを包んでいた光が鮮やかに切り替わり、一曲目のイントロが会場いっぱいに響き始めた。
頭上に浮かんでいた巨大な月は眩い光の粒へほどけ、色鮮やかな帯となってステージの周囲を駆け巡る。その中央では輝夜とヤチヨが示し合わせたように左右へ分かれ、彩葉も二人より少し後ろの演奏位置へ入ると、まだ胸の奥に残っていた緊張を押し込めるように手元へ意識を集中させた。
彩葉が練習で覚えていた構成では、二人がここまで最初から張り合う予定ではなかったはずだった。それでも輝夜が観客へ向けて大きく一歩を踏み出し、自分こそが主役だと言わんばかりの笑顔を見せれば、反対側のヤチヨも面白がるように身体を翻し、別方向の観客から一気に歓声を引き出してしまう。二人は同じ歌を届けながら、互いに譲る気などまるでないらしかった。輝夜が可愛らしい仕草で歓声を集めれば、ヤチヨは少し違う角度から同じように返し、それを見た輝夜も負けじと前へ飛び出すため、いつの間にかライブそのものがどちらがより目立ち、どちらが一番のお姫様らしく振る舞えるのかを競う勝負のようになっていた。
客席もすぐにその遊びへ巻き込まれ、輝夜が仕掛ければ一方から歓声が膨らみ、ヤチヨが応じれば反対側からさらに大きな声が返ってくる。振り付けや立ち位置の大筋こそ練習通りだったが、観客から反応が返るたびに輝夜は予定より半歩前へ出て、ヤチヨもそれに合わせて距離を詰め、二人で同じカメラへ顔を寄せたり、肩を組んだ直後に輝夜がするりと抜け出して駆けていったりと、決めていなかった動きまで自然に曲へ溶け込んでいた。
彩葉は後方で演奏を続けながら、その自由さに目を奪われていた。自分だけが間違えないよう必死になっていたことが少しずつ馬鹿らしくなり、二人なら予定から多少外れても、それさえ失敗ではなく演出に変えてしまうのだと思えるようになる。
曲がサビへ近づいた頃、ヤチヨがふいに彩葉へ視線を向けた。
悪戯を思いついたように目を細めると、歌いながら彩葉の近くまで寄り、演奏の邪魔にならないぎりぎりの距離で身体を傾ける。頬のそばへ片手を添え、可愛らしく首を傾げてみせたその仕草は、観客ではなく明らかに彩葉一人へ向けられていた。
彩葉の指は演奏を止めなかったものの、ヤチヨと目が合った瞬間、頬へ一気に赤みが広がった。慌てて手元へ視線を戻しても耳まで染まった色は隠しようがなく、口元にも照れを誤魔化しきれない笑みが浮かんでしまう。その反応を見たヤチヨはますます楽しそうに目を細め、さらに少しだけ顔を覗き込んだ。彩葉は困ったように眉を下げながら肩を僅かにすくめたものの、演奏だけは崩さず、もう勘弁してほしいと言いたげに一度だけヤチヨを見返す。
その一部始終を、輝夜は見逃していなかった。
歌いながら振り返った輝夜の視線が、赤くなった彩葉と、その原因を作ったヤチヨの間でぴたりと止まる。控室で自分が可愛らしく振る舞ったときには軽く受け流されたのに、ヤチヨにはそこまで分かりやすく照れるのかとでも言いたげに僅かに頬を膨らませ、そのまま次の動きへ移る流れを利用して負けじと彩葉の反対側へ回り込んだ。
演奏中の彩葉の視界へ強引に入り込むように顔を覗かせると、今度は自分を見ろと言わんばかりに笑い、可愛らしく首を傾げる。その仕草にはライブを楽しむ無邪気さだけでなく、ヤチヨには負けたくないという対抗心が隠しきれず滲んでいた。
まだ頬の熱が引いていなかった彩葉は、今度は輝夜にまで至近距離から見つめられ、さらに顔を赤くしながら演奏を続ける。それでも根負けするように一度だけ視線を向けると、輝夜はその反応だけで満足したらしく、ヤチヨへ得意げな視線を送り、自分だって彩葉を照れさせられるのだと主張するように胸を張った。
二人に挟まれた彩葉の様子が巨大スクリーンへ映し出されると、観客席から一際大きな歓声が上がる。ヤチヨは面白そうに笑い、輝夜も勝ち誇ったような笑顔を見せる中、彩葉だけが「なんでこうなるの」とでも言いたげに二人を見比べながら、それでも手を止めることなく演奏を続けていた。
二人に振り回されるうち、彩葉の指先からも僅かに残っていた硬さが抜けていった。その変化を待っていたかのように曲調が大きく開け、ヤチヨと輝夜は彩葉の左右から同時に離れると、示し合わせたような呼吸でステージ中央へ飛び出していく。
サビでは、完全に二人が主役だった。
ヤチヨが余裕のある微笑みとともに観客へ片手を差し伸べれば、輝夜はその隣で身体を大きく翻し、真正面から歓声を受け止めるように両腕を広げる。ヤチヨが柔らかな仕草で視線を集めれば、輝夜はその熱を奪い返すように力強い笑顔で応え、輝夜が勢いのまま客席を巻き込めば、ヤチヨはその動きを受け取って次へ滑らかにつないでいった。
同じ「姫」と呼ばれる二人でも、その華やかさはまるで違っている。ヤチヨは観客が何を期待しているのかまで知っているような余裕を纏い、視線や指先の動きまで歓声へ変えていく一方、輝夜は自分が楽しくて仕方ないという感情をそのまま全身から放ち、観客まで強引に自分の熱へ巻き込んでいく。
彩葉は少し後ろで演奏を続けながら、何度も二人へ視線を上げた。自分の鳴らした音へ合わせて輝夜が踏み込み、その直後をヤチヨが受け継ぐように身体を翻すたび、二人の歌声や動きを自分の演奏が下から押し上げていることが分かり、間違えないためだけに使っていた意識も、少しずつ三人で同じステージを作ることへ向かっていく。
サビの後半では、ヤチヨと輝夜が互いに背を預けるように並び、反対側へ向いていた身体をほとんど同時に返した。振り向きざまに視線を交わす二人は、どちらも相手へ譲る気など欠片もない笑顔を浮かべているのに、踏み出す足も観客へ伸ばす腕も驚くほど綺麗に揃っており、その瞬間だけは競い合う二人ではなく、この舞台を二人で支配する歌姫として見えた。
サビを抜けても二人の勢いは衰えず、ステージの左右へ大きく分かれて観客を沸かせたかと思えば、再び中央で肩を寄せ合い、さっきまで張り合っていたことなど忘れたように笑い合う。彩葉もその自由さへ合わせて演奏を重ねるうち、練習した曲を正確になぞるだけではなく、今この瞬間に生まれているライブへ自分の音を重ねる感覚を掴み始めていた。
やがて曲が終盤へ差しかかると、それまで二人の歌を演奏で支えていた彩葉にも、ようやく歌唱の番が近づいてくる。最後に割り振られているのは短いパートだったが、その中には普段の彩葉なら進んで口にしないような、勢いに任せて声を飛ばす箇所が含まれていた。練習では即座に嫌だと拒んだものの、輝夜がどうしても彩葉にやってほしいと食い下がり、ヤチヨまで楽しそうに加勢したため結局は二人の勢いに押し切られている。
自分の番が近づくにつれ、彩葉の表情へ別の緊張が戻ってきた。それに気づいた輝夜が振り返ると、待ちきれないとでも言いたげな笑顔を向け、ヤチヨも反対側から期待に満ちた視線を送ってくる。
二人とも、やらないという選択肢など考えていない顔だった。
彩葉は一瞬だけ恨めしそうに二人を見返したあと、演奏の区切りに合わせて息を整え、自分の歌唱部分へ入る。最初こそ僅かに硬さの残っていた声もすぐにリズムへ馴染み、最後に待っていた例の短い掛け声も、今さら小さく誤魔化す方が恥ずかしいと腹を括って、曲の勢いへ飛び込むように思い切って歌い切った。その瞬間、輝夜の顔がぱっと明るくなった。まるで自分のことのように嬉しそうに笑い、ヤチヨも満足そうに頷くと、その二人の反応を見た観客からも大きな歓声が返ってくる。
彩葉は再び頬を赤くしたものの、もう目を逸らさなかった。
恥ずかしいことに変わりはなかったが、それ以上に、二人がこんなにも嬉しそうにしていることが嬉しかった。嫌がっていた自分の声一つで会場まで沸いているのを見れば、やってよかったと思う気持ちまで否定することはできず、彩葉の表情にも自然と照れ混じりの笑みが浮かんでいた。
最後の盛り上がりへ入ると、彩葉は再び演奏へ戻りヤチヨと輝夜も中央へ駆け戻る。三人の呼吸が一つへ集まるにつれて、ステージを巡っていた光も頭上へ吸い寄せられ、輝夜が観客へ大きく手を伸ばし、その隣でヤチヨも同じ方向へ身体を向けると、彩葉も二人の背中を押すように最後の音へ力を込めた。
最後の音が鳴り響いた瞬間、集まっていた光が無数の粒となって弾け、星の雨のようにステージと観客席へ降り注ぐ。二人の歌声と彩葉の演奏が一緒に収まった直後会場いっぱいから大きな歓声が押し寄せた。輝夜は息を弾ませながら両手を振り、ヤチヨも隣で楽しそうに応える。彩葉も演奏を終えた手を離し、大きく息を吐いてから客席へ顔を上げると、始まる前には怖いとしか思えなかった無数の光が、今はすべて自分たちへ返ってきた歓声の形に見えた。
隣を見れば、輝夜がまだ興奮を抑えきれない様子で笑い、その向こうにはヤチヨもいる。彩葉は二人を見比べながら肩の力を抜き、一曲をやり切った実感を受け止めるように、自分でも気づかないうちに同じような笑顔を浮かべていた。
一曲目を終えた歓声がまだ会場いっぱいに残る中、ステージへ降り注いでいた色鮮やかな光は、余韻を惜しむように少しずつ明るさを落としていった。先ほどまで星の雨となって舞っていた光の粒も夜空へ溶け、代わって淡い月明かりが足元へ広がり始めると、観客席を激しく揺らしていた無数の光も、次の曲を待つような穏やかな波へ変わっていく。
一曲目を終えたばかりの輝夜は、まだ興奮の抜けきらない笑顔を浮かべていたが、次の音が静かに立ち上がった瞬間、その表情からも自然と先ほどまでの張り合うような色が薄れていった。ヤチヨも観客へ向けていた手をゆっくり下ろし、彩葉が次の演奏へ指を置くのとほとんど同時に二曲目が始まる。
一曲目が二人の「姫」としての華やかさを競い合う歌だったのなら、今度の曲はまるで違っていた。誰か一人が観客の視線を奪うのではなく、一人から次の一人へ、さらにもう一人へと想いを手渡しながら、一つの物語を三人で紡いでいくような穏やかな流れが、最初の数小節からステージ全体へ広がっていく。ヤチヨが最初の声を届けると、輝夜はその響きを受け取るようにゆっくり顔を上げ、自分の番では真正面から歌い返していった。先ほどまでなら相手より一歩でも前へ出ようとしていた二人が、今度は互いの声を押し退けることなく、それぞれの響きを残したまま重なっていくため、同じ二人が歌っているとは思えないほど空気が柔らかく変わっていた。
彩葉も少し後ろで演奏を続けながら、一曲目のように二人の勢いへ食らいつくのではなく、歌声の間へ静かに音を敷いていくように指を動かしていた。すでに観客の多さを意識して身体を固くすることはなくなっており、ヤチヨの声がどこへ向かい、それを輝夜がどう受け取るのかを感じながら、その流れを途切れさせないよう自然に音を重ねていく。ステージの床には淡い光が水面のように広がり、三人が動くたびに小さな波紋が生まれた。その波紋の中から、遠い昔を思わせる景色や、どこかで見たことがあるようで決して掴めない光景が淡く浮かんでは消えていき、三人の周囲を漂う星のような光と混ざり合うことで、巨大な会場そのものが一つのおとぎ話の中へ沈んでいくようだった。
輝夜はそんな幻想的な景色の中でも、難しいことを考える様子はない。ヤチヨから声を渡されれば嬉しそうに受け取り、自分の番になればためらうことなく返し、視線が合えばそれだけで楽しそうに笑うため、その度にヤチヨもほんの少しだけ目元を緩めて応えていた。
彩葉は演奏の合間に、そんなヤチヨの表情を何度か目にした。
控室で自分と輝夜のやり取りを眺めていたときにも、ヤチヨは同じような顔をしていた。嬉しそうに笑っているのに、その奥には僅かに羨むような色が混ざり、それと同時に、ずっと昔に大切にしていたものをもう一度見つけたような懐かしさまで滲んでいる。それでも彩葉はその意味を追いかけなかった。目の前では輝夜が楽しそうに歌い、ヤチヨもその声を受け止めながら歌っており、今は二人へ演奏を合わせ、この曲を最後まで三人で届けることの方がずっと大切だった。
曲が進むにつれて、ステージ上で離れていた三人の距離も少しずつ縮まっていく。ヤチヨが中央寄りへ歩けば輝夜もその近くまで戻り、彩葉も演奏位置を移しながら二人との距離を詰めていたが、それでもまだ立ち位置は二人より後ろにあり、観客から見れば歌う二人を彩葉が音で支えている構図は変わっていなかった。
やがてサビが近づき、旋律が少しずつ大きく開いていく。
彩葉が次の展開へ備えて手元へ意識を向けていると、不意に目の前まで戻ってきた輝夜がこちらへ手を伸ばした。何をするのかと顔を上げるより早く、その手が彩葉の空いている手をしっかりと掴む。
驚いている彩葉に構うことなく、輝夜はそのまま楽しそうに笑って前へ踏み出した。
引かれた腕に逆らう暇もなく、彩葉は演奏の流れを崩さないよう身体の向きを変えながら、その後を追うことになる。輝夜は振り返って一度だけ彩葉の顔を確かめると、もう逃がさないと言わんばかりに手を握ったままステージ中央まで連れていき、そこで待っていたヤチヨの隣へ彩葉を押し出すように並ばせた。
彩葉が自分から前へ出ることは、きっと最後までなかっただろう。けれど輝夜はそんな彩葉の遠慮など最初から気にしていなかった。ここは三人で立つ場所なのだとでも言うように手を離さず、そのままヤチヨとは反対側から彩葉の隣へ並ぶ。
ヤチヨは突然中央へ連れてこられた彩葉を見て一瞬だけ目を丸くしたものの柔らかな笑みを浮かべた。輝夜も満足そうに笑い、二人に挟まれた彩葉だけが少し困った顔をしていたが、次の瞬間にはサビが始まり考えている余裕もなく三人の声と音が一気に重なった。
それまで一人から一人へ渡していた曲が、ここで初めて三人同時のものへ変わる。
ヤチヨと輝夜の歌声が左右から重なり、その中心で彩葉の演奏が二人を結びつける。後ろから二人を支えていたときとは違い、今はすぐ隣で歌声が響き、わずかに顔を動かせば輝夜の笑顔もヤチヨの表情もはっきり見えるため、彩葉は少し戸惑いながらも、二人に合わせるように演奏へ力を込めていった。
輝夜は彩葉を中央へ連れてきたことがよほど嬉しいらしく、ときおりこちらを見て笑いながら歌っていた。ヤチヨもそんな二人を見つめ、目元を柔らかく細めたまま声を重ねていくため、サビでは誰か一人が前へ出るのではなく、三人が同じ場所で同じ物語の続きを紡いでいることが、観客にもはっきり伝わっていった。客席を埋め尽くす光も、一曲目のように激しく左右へ揺れることはなかった。三人の歌と演奏へ寄り添うようにゆっくり波打ち、中央へ集まった三人を取り囲む淡い光の円と重なることで、会場全体が一つの静かな呼吸をしているように見える。
サビを抜けても、輝夜は彩葉を後ろへ戻そうとはしなかった。
立ち位置が変わっても演奏自体が難しくなるわけではなく、彩葉も次第に中央へいることへの戸惑いを忘れ、すぐ隣にいる二人の声を感じながら指を動かしていく。ヤチヨが歌えば輝夜が受け取り、輝夜の声へ彩葉の音が重なり、そのすべてをヤチヨがまた拾っていく流れが何度も繰り返されるうち、三人の間に残っていた距離も自然と消えていった。
曲の終盤へ入る頃、ヤチヨが輝夜へ向ける視線は少しずつ長くなっていた。
輝夜はそれに特別な意味があるとは考えていないらしく、いつも通り楽しそうに歌いながらヤチヨの隣へ身体を寄せ、視線が合えば明るい笑顔を返している。ヤチヨも笑って応えていたが、その瞳には次第に淡い光が滲み始め、照明の反射ではないことが分かるほど大きくなった頃、一筋の涙が頬をゆっくりと伝った。
それでもヤチヨは、涙を拭おうとはしなかった。
悲しそうに俯くこともなく、すぐ隣で歌う輝夜を見つめながら、むしろ今この時間を一つも取りこぼしたくないとでも言うように穏やかに笑っている。その表情には懐かしさも、羨ましさも、そして何よりここにいられることへの喜びも混ざっており、頬を伝う涙さえその笑顔を曇らせることはなかった。
彩葉も、その涙には気づいた。
一瞬だけヤチヨへ視線を向けたものの、笑いながら歌い続けている姿を見れば、理由を問いかける必要などないように思えた。ライブの中で感情が溢れることくらいあるのだろうと受け止め、そのまま演奏へ意識を戻すと、今度は自分から少しだけ二人との距離を縮めた。輝夜もいつもと変わらない笑顔で声を重ねていく。その笑顔を受け取ったヤチヨの表情はさらに柔らかくなり、頬に残った涙の跡もステージの淡い光を受けて、小さな星のように輝いていた。
最後へ向かうにつれて、三人の周囲を巡っていた光の円がゆっくりと狭まり、夜空に散らばっていた星々も中央へ集まってくる。彩葉はもう輝夜に引かれなくても二人の隣に立ち、そのまま同じ場所で演奏を続けながら、ヤチヨと輝夜の声が一つへ重なっていくのを間近で感じていた。
誰か一人が主役になるのではなく、三人が同じ場所から最後の音へ向かっていく。
輝夜は楽しそうに笑い、ヤチヨも涙の跡を残したまま笑っている。彩葉も二人の間で演奏を続けながら、サビの直前に突然手を引かれたときの戸惑いなどすっかり忘れ、今ここに三人で並んでいることを自然なことのように感じていた。
やがて最後の音が長く伸び、それに合わせて三人の頭上へ集まった光がゆっくり夜空へ昇っていく。音が静かに消えたあと、会場にもほんの一瞬だけ穏やかな静けさが訪れ、その余韻を十分に受け止めてから、今度は三人を包み込むような大きな歓声が観客席いっぱいに広がった。会場いっぱいに歓声が広がった直後、輝夜は観客へ手を振るより先に彩葉の方へ振り向いた。そのまま何のためらいもなく距離を詰め、勢いのまま両腕を回して抱き着く。
「彩葉、いつもありがとう」
突然のことに彩葉は一瞬だけ身体を固くした。ライブを終えたばかりの熱も残っているというのに、すぐ近くから真っ直ぐそんなことを言われれば、どう反応していいのか分からなくなる。それでも輝夜は離れず、むしろ抱き締める腕へ少し力を込めた。
「このままずっと、彩葉と一緒にいたいわ」
彩葉は目を丸くし、それから遅れて意味を理解したように頬を赤くした。観客の前だということまで思い出したのか、僅かに視線を泳がせながらも輝夜を引き剥がそうとはしない。
「まぁ、生活費を折半してくれるなら……一緒にいるのはいいけどさ」
照れを隠すように現実的な条件を持ち出した彩葉の返事に、輝夜は一瞬きょとんとしたあと、すぐに嬉しそうな笑顔を浮かべた。その二人を少し離れたところから見ていたヤチヨも、何も言わず柔らかく目を細めていた。