自らを輝夜と名乗った少女が空腹を訴えていたため、酒寄彩葉は、一夜のうちに赤ん坊から同年代ほどまで成長した原因を追及するよりも先に、朝食を用意しなければならなくなった。
台所へ立った彩葉が肩越しに振り返ると、借り物のシャツと短パンを身につけた輝夜が、ローテーブルの前へ姿勢よく座っている。
腰近くまで真っすぐに伸びた黒髪は、朝の光を受けることで表面に青紫色の艶を浮かべ、切りそろえられた前髪の下では、赤みを帯びた深い褐色の瞳が、彩葉の動きを一つも見逃すまいと追っていた。
姿だけを見れば、少し風変わりなところのある同年代の少女にしか見えない。しかし、つい昨夜まで、その身体は彩葉の両腕へ簡単に収まっていた。自分で歩くことも、言葉を話すこともできず、空腹になれば小さな声を漏らし、彩葉の指を握ったまま眠っていたのである。
「ねえ、輝夜」
卵を焼きながら呼びかけると、背後からすぐに返事があった。
「なに?」
「どうして、いきなりそんなに大きくなったの?」
最初に確かめるべき問いだった。けれど、輝夜は深刻な表情を見せることもなく、自分の手を持ち上げ、長くなった指を一本ずつ曲げ伸ばしした。
「大きくなりたいと思ったからよ」
「思っただけで成長できる人はいないんだけど!」
「そうなの?」
輝夜は本当に知らなかったらしく、赤ん坊だった頃にも何度も見せた仕草で首を傾けた。
「そうなの! 普通は十年以上かけて、少しずつ大きくなるんだよ。昨日まで赤ちゃんだった子が、一晩で私と同じくらいになるなんて、絶対に普通じゃないから」
「でも、この身体なら彩葉と話せるわ」
輝夜は両手を膝へ置き、複雑な問題へ極めて単純な答えを返すように続けた。
「お腹がすいた時に、ご飯がほしいって言えるでしょう。彩葉が悲しそうな時には、どうしたのか聞くこともできるわ」
彩葉の手が止まりかけた。
電柱の中から抱き上げた夜、帰り道で流した涙の跡へ、赤ん坊だった輝夜が何度も触れようとしていたことを思い出す。最も近くにあったものへ、意味もなく手を伸ばしただけだと思っていた。けれど輝夜は、言葉を話せない小さな身体の中でも、彩葉の声を聞き、その表情を見つめていたのかもしれない。
「……私と話すために、大きくなったの?」
「そうよ」
輝夜は迷わずに頷いた。
その答えを聞いた瞬間、彩葉の胸の奥へ、言葉にしづらい温かさと重さが同時に沈んだ。
二日間だけ面倒を見るつもりだった。
ずっと一緒にはいられないと、言葉を理解できないはずの赤ん坊へ何度も言い聞かせていた。それでも輝夜は彩葉の声を聞き続け、同じ高さから顔を見て、言葉を返せる姿になることを望んだのだという。
なぜ、その願いが叶ったのかは分からない。枕元に置かれていた謎の枝が関係しているのだとしても、その正体も働きも、彩葉には想像すらできなかった。
「彩葉、焦げてるわ」
「えっ!?」
輝夜の指摘で我へ返り、彩葉は慌てて火を弱めた。
卵の端には、香ばしいという言葉だけではごまかしきれないほど濃い焼き色がついている。彩葉は食べられそうな部分を皿へ移し、パンと一緒に簡単な朝食としてローテーブルへ運んだ。
輝夜は待ちかねていたように箸を持ち上げた。
使い方を教えたのは、ほんの数分前である。それにもかかわらず、指の位置はすでに正しく、彩葉が一度見せた動きをほとんどそのまま再現していた。
「熱いから気をつけて」
料理へ手を伸ばしかけていた輝夜は、その言葉に従って動きを止めた。
「分かっているわ」
「置いた直後に食べようとした人の言葉とは思えないんだけど」
「お腹がすいているんだもの」
輝夜は不満そうに唇を尖らせながらも、卵へ何度か息を吹きかけてから慎重に口へ運んだ。
初めて固形の食べ物を噛み締め、赤褐色の瞳を驚いたように見開く。
「おいしい」
「端の方は焦げてるけどね」
「焦げていないところはおいしいわ」
「そこまで正直に言わなくていいよ!」
彩葉は肩を落としたが、自分が作ったものを嬉しそうに食べる姿を眺めていると、完全に嫌な気分にはなれなかった。赤ん坊だった頃は、ミルクを飲ませても、それが好みに合っているのか確かめることはできなかった。今は感想も、足りないという要求も、本人の口から聞くことができる。
「赤ちゃんだった時のことも、覚えてるの?」
彩葉が尋ねると、輝夜は食べる手を止めずに頷いた。
「覚えているわ。彩葉が私を抱いてくれたことも、ご飯をくれたことも、夜に何度も私の顔を覗き込んでいたことも」
「起きてたの!?」
「目を閉じていても、彩葉が近づけば分かったもの」
「だったら何か反応してよ! 息をしてるか分からなくて、何度も心配したんだから!」
恥ずかしさを隠すため、彩葉の声は自然と強くなった輝夜は怒られたとは受け取らなかったらしい。箸を置き、二日間の記憶を確かめるような穏やかな瞳で彩葉を見つめる。
「彩葉は疲れていたでしょう。私が起きたら、彩葉も起きてしまうと思ったの」
「私が寝てる時まで心配しなくていいよ」
「彩葉は私を心配していたのに?」
「それは、輝夜が赤ちゃんだったからで……」
「それなら、私が彩葉を心配してもいいと思うわ」
極めて単純な理屈として返され、彩葉は言葉を失った。会話ができるようになれば、赤ん坊を世話するよりも、すべてが楽になると思っていた。確かに、空腹なら空腹だと言ってくれる。何を嫌がり、何を望んでいるのかも尋ねられる。けれど、言葉を交わせるからこそ、誰にも見せないようにしてきた疲労や弱さまで、輝夜には見つけられてしまう。
「……取りあえず、今は食べよう」
彩葉は逃げるように自分の皿へ視線を落とした。
◇ ◇ ◇
しばらくして、用意した分をすべて食べ終えると、輝夜は空になった皿と彩葉の顔を交互に見つめた。
「まだ食べたいわ」
「今、一人分を全部食べたよね?」
「大きくなったから、お腹もすいているの」
一晩で十数年分も成長したのだから、その分だけ身体が食べ物を求めているのかもしれない。
理屈として通っているようにも聞こえるが、そもそもの成長自体が理屈を無視しているため、彩葉には判断のしようがなかった。
「これから、食費も二人分か……」
「二人で食べるのだから、二人分を買えばいいでしょう?」
「簡単に言わないで! 買うにはお金が必要なんだから」
「お金?」
「食べ物や服を買ったり、この部屋を借りたりするために必要なもの。使えば減るし、何もしなくても増えないの」
「どうすれば増えるの?」
「働いて稼ぐんだよ。私は学校が終わった後にバイトをして、そのお金で生活してる」
「学校にも行って、働いて、ご飯も作っているの?」
「洗濯と掃除と課題もあるよ」
彩葉が何でもないことのように答えると、輝夜は皿から顔を上げた。
「全部、彩葉が一人でするの?」
「一人で暮らしてるんだから、当然でしょう」
そうしなければ生きていけない。
食事を用意する者も、部屋を片づける者も、学費を代わりに支払う者もいない。誰かに頼ればよいと言われても、頼る相手がいないのだから、自分でどうにかするしかなかった。
彩葉にとって、それは疑問を持つことすら無駄な日常だった。
しかし、何も知らない輝夜から改めて尋ねられると、それまで考えないようにしてきた重さが、急に輪郭を持って胸へ沈んだ。彩葉は話題を変えるように食器を重ねたが、そこで、さらに根本的な疑問をまだ聞いていないことに気づいた。
「そういえば、輝夜はどこから来たの?」
問いかけを受け、輝夜はすぐには答えなかった。
遠い場所へ置き忘れてきた記憶を探すように、赤褐色の瞳を僅かに伏せる。
白い光
自分を送り出した温かな腕
顔の見えない女性が告げた、自分の名前
それより前にいた場所を思い出そうとしても、記憶は淡い光の中へ霞み、明確な形を結ばなかった。やがて輝夜は窓の外へ顔を向け、確信までは持てないというように、少しだけ声を弱めた。
「……多分、月から」
「月?」
彩葉の声が裏返った。
「はっきりとは覚えていないわ。でも、月にいたような気がするの」
「月って、空に浮かんでる、あの月!?」
「多分そう」
電柱の中から現れた赤ん坊
色とりどりの玉を実らせた謎の枝
一夜のうちに美しい少女へ成長したこと
そして、――輝夜という名前
それまで意識的に離して考えていたものが、一つの古い物語へ繋がっていく。
「それじゃあ、輝夜って……あなた、もしかして、かぐや姫なの?」
「かぐや姫?」
「知らないの?」
輝夜は、自分の名前によく似た言葉を聞き、不思議そうに首を傾けた。
彩葉は食器を片づけることを一度諦め、ローテーブルの前へ座り直した。
「竹取物語っていう昔から伝わってるお話だよ。光る竹の中から、小さな女の子が見つかるの。その子はすぐに大きくなって、ものすごく綺麗なお姫様になるんだけど……」
「私と似ているわね」
「竹じゃなくて、電柱から出てきたところ以外はね!」
彩葉はそう答えながら、部屋の片隅へ置いてある謎の枝へ一瞬だけ視線を向けた。
あの枝も、輝夜とともに電柱の中から現れたものだった。枝先には色も大きさも異なる玉がいくつも実り、電柱の内部では、安っぽい電飾のように絶えず色を変えながら光っていた。
外へ出した後は沈黙しているものの、一夜のうちに輝夜の身体が急成長したことまで考えれば、ただの装飾品として片づける気にはなれない。
彩葉は食器を片づけることを一度諦め、ローテーブルの前へ座り直すと、童話として語られてきた物語を、覚えている範囲で説明した。
光る竹の中から見つかった小さな姫が、老夫婦のもとで育てられ、短い間に美しい女性へ成長すること。その美しさを聞きつけた男たちが、次々と結婚を申し込みに来ること。
「それで、かぐや姫は結婚したくなかったから、その人たちに、簡単には手に入らない宝物を持ってくるように言うの」
「結婚したくないなら、断ればいいでしょう?」
「それで諦めてくれる人たちじゃなかったんじゃない? それに、ただ断るより、絶対にできないことを頼んだ方が、相手も諦めると思ったのかも」
「面倒な人たちね」
「そこは否定できないけど……」
彩葉は苦笑しながら、物語の続きを思い出す。
「頼んだ宝物は五つあって、その中の一つが、蓬莱の玉の枝っていうものなの」
「蓬莱の玉の枝?」
輝夜は、その名前を確かめるようにゆっくりと繰り返した。
初めて聞く言葉のはずだった。それにもかかわらず、その響きを口にした瞬間、輝夜の赤褐色の瞳が僅かに細められたように見えた。何かを思い出したというほど明確な反応ではない。ただ、遠い場所で聞いたことのある音を探すような、ごく短い間があった。
彩葉はその変化に気づいたものの、すぐには問いたださなかった。
「海の向こうにある蓬莱っていう場所に生えている、伝説の宝物。根は銀、茎は金で、枝には白い玉が実っているっていう話だったと思う」
「玉が実る枝なのね」
「そう。それを持ってくるように言われた男の人は、本物を取りに行かずに、職人へ命じて偽物を作らせるの。最初は本物みたいに見えたんだけど、最後には嘘がばれて失敗する」
そこまで説明したところで、彩葉の視線は自然と部屋の隅へ向かった。
輝夜も、その視線を追う。
色とりどりの玉を実らせた謎の枝が、壁へ立てかけられていた。
「……あれにも、玉がついているわね」
「やっぱり輝夜もそう思う?」
「彩葉が今話した枝と、よく似ているのでしょう?」
「見たことがあるわけじゃないから、分からないよ。昔話の中では、もっと金とか銀とか、いかにも宝物らしい見た目だったと思うし」
彩葉は謎の枝を見つめた。
金や銀でできているようには見えない。枝そのものは、自然の植物とも人工物とも判断できない、奇妙に滑らかな質感を持っていた。実る玉も白一色ではなく、それぞれが異なる色を帯びている。
昔話の記述と完全に同じではない。
それでも、少女とともに現れた、玉を実らせた枝という組み合わせは、偶然と呼ぶには出来すぎていた。
「まさかとは思うけど、あれが蓬莱の玉の枝だったりして」
彩葉は冗談めかして言った。
自分で口にしてから、笑い飛ばそうとしたものの、思ったほど声は明るくならなかった。
光る竹ではなく電柱の中から赤ん坊が現れ、その赤ん坊は一夜のうちに自分と同年代ほどの少女へ成長した。本人は月から来たような気がすると話し、名前は輝夜だという。
ここまで重なってしまえば、昔話に登場する伝説の宝物が一つ加わったところで、完全には否定しきれない。
「蓬莱の玉の枝……」
輝夜はもう一度、その名前を口にした。
今度は視線を枝へ向けたまま、何かを確かめるように呟いている。
「何か思い出した?」
彩葉が尋ねると、輝夜はしばらく枝を見つめた後、ゆっくりと首を横へ振った。
「分からないわ。でも、その名前は嫌いではない気がする」
「何それ。覚えてるのか、覚えてないのか、どっちなの?」
「覚えていないものは、覚えていないわ」
「じゃあ、その意味深な言い方はやめてよ。こっちは怖くなるんだから」
彩葉はため息を吐き、気持ちを切り替えるように話を先へ進めた。
求婚者たちが姫の望んだ宝物を手に入れようとし、ある者は偽物を用意し、ある者は危険を恐れて嘘をつき、結局、誰もその望みを本当の意味では叶えられなかったこと。
帝さえも姫を自分のものにすることはできなかったこと。
そして、地上で過ごす時間に終わりが訪れること。
「最後には、月から迎えが来るの」
「月から?」
先ほどまで謎の枝へ向けられていた輝夜の意識が、彩葉へ戻る。
「うん。かぐや姫は、本当は月の人だったの。それで、十五夜の晩に月から使者が来て、地上で出会った人たちを残して帰ることになる」
「帰りたくなくても、帰らないといけないの?」
「物語ではそうなってる。帝が兵士を集めて引き留めようとしても、月から来た人たちには何もできなくて、姫も月の羽衣を着せられると、地上での思いを忘れてしまうの」
結末を告げると、輝夜はすぐには何も言わなかった。
先ほどまで興味深そうに物語を聞いていた赤褐色の瞳が静かに伏せられ、自分の手元へ落ちる。
それは単なる昔話のはずだった。
しかし、月から来たかもしれない輝夜にとって、地上で出会った者たちを残して帰る姫の結末は、遠い物語として聞き流せるものではなかったのかもしれない。
彩葉は、説明する順番を間違えたかもしれないと思った。
今の輝夜には、帰るべき家も、待っている家族も、過去の記憶さえほとんどない。そんな少女へ、月から迎えが来れば地上には残れないという話を聞かせる必要はなかったのではないか。
やがて輝夜は顔を上げた。
その表情に、先ほどまでの無邪気な好奇心はなかった。物語の姫が抱いたであろう悲しみを、自分の胸へ重ねるような静けさが宿っている。
「悲しいお話ね」
小さく呟いた後、輝夜は彩葉を真っすぐに見つめた。
「私は、そんな終わらせ方にしないわ」
「終わらせ方って……輝夜が本当にかぐや姫と同じだと決まったわけじゃないよ」
「同じでなくても、嫌な終わり方を選ぶ必要はないでしょう?」
輝夜は、自分の未来を誰かに決めさせるつもりなどないというように言い切った。
「私は彩葉と出会ったわ。だから、彩葉を置いていなくなるような終わり方にはしない」
あまりにも当然のように、自分が輝夜の物語へ組み込まれていた。
月から迎えが来るのかも、輝夜が本当に昔話の姫と同じ存在なのかも分からない。部屋の隅に置かれた謎の枝が、伝説の蓬莱の玉の枝なのかどうかさえ、今は確かめる方法がない。
それでも輝夜だけは、まだ始まったばかりの自分たちの関係に、別れを結末として受け入れるつもりはないらしい。
「勝手に私まで巻き込まないでよ」
「もう巻き込まれているでしょう?」
「電柱から連れて帰った時点でね……」
彩葉はそう答えたものの、声に本気の拒絶は込められなかった。
輝夜もそれを見抜いているらしく、僅かに口元を緩めただけで、それ以上は何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
三連休最後の午後、彩葉はローテーブルの上へノートパソコンを置いた。
輝夜は言葉を話し、歩き、彩葉の動作を真似して食事をすることもできる。しかし、現代の生活については、ほとんど何も知らない。
何もかも彩葉が一つずつ教えていては、いくら時間があっても足りなかった。
それに、輝夜の学習速度が、普通の人間とは比べものにならないほど速いことも分かり始めている。
「これはノートパソコン。ここを押すと起動するから」
彩葉が電源を入れると、暗かった画面へ光が灯った。
輝夜はすぐ隣へ座り、鍵盤と画面の間へ視線を往復させる。彩葉が文字を入力する様子を一度見せると、自分の指を恐る恐る鍵盤の上へ置いた。
「ここを押せば、文字が出るの?」
「そう。調べたい言葉を入力すれば、それに関係する情報が出てくるよ。全部が正しいとは限らないから、書いてあることを何でも信じるのは駄目だけどね」
「何が正しいかは、どうすれば分かるの?」
「同じことを説明しているものを幾つか見たり、誰が書いたものか確認したりするの。そこは少しずつ覚えて」
彩葉は簡単な検索方法を教え、パソコンを輝夜の前へ移した。
「やってみて」
輝夜は最初の一文字こそ位置を探していたが、彩葉が打鍵した指の動きを思い返すように手を動かし、すぐに自分で文字を入力し始めた。
最初に調べたのは「お金」だった。
「そこからなんだ」
「彩葉が何をするにも必要だと言っていたもの」
表示された説明を一文字ずつ目で追い、分からない言葉が現れると、さらにその言葉を調べる。新しい説明の中へ知らないものがあれば、また別の画面を開いた。
お金から仕事へ
仕事から学校へ
学校から社会へ
衣服、食事、住宅、交通、音楽
一つの疑問から幾つもの枝が伸び、輝夜は見る間に現代の知識を吸収していった。
彩葉は隣で課題を進めながら、時折その姿を確認した。赤ん坊だった二日間に言葉を覚え、一夜で会話を成立させ、初めて触れた箸まで短時間で使いこなした。
それを考えれば驚くべきことではないのかもしれないが、目の前で知識を増やし続ける輝夜を見ていると、自分が電柱から何を連れ帰ったのか、ますます分からなくなっていった。
しばらくして、彩葉は課題へ向けていた手を止めた。
明日から学校が再開すれば、輝夜を長い時間、この部屋へ一人で残すことになる。
食事と最低限の生活方法だけを教えても、何時間も一人で待たせるには足りない。何か興味を持てるものがあれば、少しは不安も紛れるかもしれない。
「そうだ。輝夜に見せておきたいものがあるんだけど」
「なに?」
彩葉はパソコンを操作し、仮想空間ツクヨミの紹介映像を開いた。
画面の中へ、月夜を思わせる幻想的な街並みが広がる。
現実には存在しない形の建物が光をまとい、人間とは異なる姿をしたアバターたちが通りを行き交っている。それぞれが自分の作ったものを披露し、歌い、踊り、言葉を交わしていた。
「ここはツクヨミ。インターネット上に作られた仮想空間だよ」
「この中へ入れるの?」
「スマコンがあればね」
彩葉は自分の目元を軽く指した。
「スマートコンタクトっていう、目につける端末。普段は視界に情報を表示したり、連絡を取ったりするために使うの。ツクヨミへ接続すれば、仮想空間の中に入れる」
輝夜は画面へ顔を近づけ、次々と切り替わる映像を見つめた。
現実の身体とは異なる姿を自由に作り、空を飛び、巨大な舞台の上で歌う者もいれば、自分だけの小さな店を開いている者もいる。
どれも、数日前まで言葉すら知らなかった輝夜にとっては、現実の街並み以上に未知の光景だった。
「彩葉もここへ行くの?」
「行くよ。毎日じゃないけどね」
「彩葉はどんな姿なの?」
「それは……今度見せる」
自分のアバターを無防備に見せることへ照れを感じ、彩葉は視線を逸らした。
紹介映像が進み、月を思わせる舞台の中央へ、一人の少女が現れる。
「この人は誰?」
輝夜が画面を指した。
「月見ヤチヨ。ツクヨミの管理人で、一番人気のライバー」
「ライバー?」
「ツクヨミの中で配信する人のこと。歌ったり、踊ったり、いろんなことをして、見ている人を楽しませるの」
ヤチヨについて話す彩葉の声は、自分でも気づかないほど柔らかくなっていた。
学校とアルバイトに追われ、何もかも投げ出したくなるほど疲れた夜でも、ヤチヨの配信を見ている間だけは、目の前の生活から少しだけ距離を置くことができた。
――その歌に、何度も救われてきた。
輝夜は画面のヤチヨではなく、彩葉の横顔を見つめていた。
「彩葉、この人の話をしている時は嬉しそうね」
「えっ?」
「少し笑っていたわ」
「普段と変わらないよ!」
「変わっているわ。彩葉はこの人が好きなの?」
「好きっていうか、推してるの! 配信を見るのが好きなだけ!」
隠していたものを見抜かれたような気恥ずかしさから、彩葉は早口になった。
輝夜は再び映像へ視線を戻す。
「それなら、私もツクヨミへ行きたいわ。彩葉が好きなものを、私も見てみたい」
「簡単には行けないよ。スマコンが必要なんだから」
「なら、私の分も買って」
「駄目!」
「え~、なんで~?」
「買うにはお金が必要なんだから。さっき調べたでしょう?」
「彩葉は持っているの?」
「持ってはいるけど、何でも好きに買えるわけじゃないの! 生活費も学費も必要なんだから!」
「私もツクヨミへ行きたいわ」
「行きたいだけで買える値段じゃないの!」
彩葉が強く言い切ると、輝夜は不満そうに唇を尖らせた。
映像の中へ広がる世界を知ったばかりで、その入り口から追い返されたように感じているのかもしれない。
しかし、ここで折れるわけにはいかなかった。
赤ん坊だった輝夜のために購入したものの大半は、一夜の急成長によってすでに使えなくなっている。これからは食費に加え、衣服や日用品まで二人分用意しなければならない。
一時の感情で高額なものを買えば、そのしわ寄せを受けるのは、彩葉自身の食事か、睡眠か、学校へ通い続けるために必要な何かだった。
「いつか余裕ができたら考えるから。今は我慢して」
「いつ?」
「いつかは、いつかだよ!」
曖昧な答えへ、輝夜は納得していない表情を見せた。
それでも彩葉が参考書を開いて課題へ戻ると、これ以上頼んでも答えは変わらないと判断したらしい。再びノートパソコンへ向かい、ツクヨミの映像を最初から再生し始めた。
彩葉はその姿を横目に見ながら、ツクヨミを見せたことが正しかったのか、僅かな不安を覚えていた。