花火大会を最後まで見届けたあと、彩葉と輝夜はレンタル店へ戻って浴衣を返却し、普段の服へ着替えてから帰路についた。帯を解かれて身体が軽くなっても、輝夜の中にはまだ祭りの熱が残っているらしく、帰りの電車へ乗ってからも、屋台で食べたものや射的の景品、最後に夜空いっぱいへ広がった花火について、思い出すたび楽しそうに彩葉へ話しかけていた。
「最後の花火、すごかったわね。空が全部光ってた」
「うん。あれは結構すごかった」
窓の外へ流れていく夜景を眺めながら彩葉が頷くと、輝夜は今日が終わることを惜しむより、すでに次に来るときのことを考えているらしく、来年はもっと早く会場へ着こうと楽しそうに身を乗り出した。
「まだ見てない屋台もあったし、射的だって今度は一発で当てるわ」
彩葉はそこをまだ気にしていたのかと呆れながら笑い、三発目で当てられたのだから次は一発目でいけると言い張る輝夜へ、一年後まで覚えていたらね、と返した。来年もまた二人で花火を見に行くという話が、特別な約束としてではなく、学校が始まることや次の配信予定と同じように、ごく自然にこれからの予定へ混ざっていることを、どちらも不思議だとは思わなかった。
家へ着いた頃には夜も深まり、外を歩く人の姿もだいぶ少なくなっていた。玄関の扉を開けると、花火大会の喧騒とは正反対の静けさが二人を迎え、冷房の残った空気と留守にしていた部屋特有の匂いが、ようやく帰ってきたのだという実感を連れてくる。靴を脱いだ輝夜は玄関から上がるなり大きく両腕を伸ばし、身体全体で満足そうに息を吐いた。
「楽しかった~」
「結構歩いたからね。疲れたでしょ」
彩葉が靴を揃えながら尋ねると、輝夜は少しだけと答えたあと、疲労よりもまだ食べていない屋台があったことの方を惜しむように口を尖らせた。
「でも、まだ食べてないものもいっぱいあったわ」
「まだ食べる気だったの?」
「見るだけだったかもしれないでしょう?」
どうせ見つけたら食べていたに決まっていると彩葉が返すと、輝夜は否定する気もないらしく、悪びれずに笑いながらリビングへ入っていった。彩葉もそのあとを追い、肩から下げていた鞄を机の脇へ置くと、中から射的でもらった小さな景品を取り出した。決して高価なものではなかったが、手のひらの上で眺めていると、狙いを外すたびに銃のせいにしていた輝夜の姿まで一緒に蘇ってきて、少し考えた末に机の端へそっと置く。それを見つけた輝夜が、すぐ隣から身を乗り出して覗き込んだ。
「そこに飾るの?」
「とりあえずね」
彩葉が景品の向きを少し整えると、輝夜はそれを確かめるように眺めてから念を押すように彩葉へ顔を向けた。
「ちゃんと大事にしてよ」
「そんなに大事なら、自分で持ってればよかったじゃん」
「彩葉にあげたかったの」
あまりにも迷いなく言われ、彩葉は返事を一拍遅らせた。屋台でも同じようなことを聞いていたはずなのに、静かな部屋へ戻ってから改めて言われると妙に気恥ずかしく、景品を置き直すふりをしながら視線を逸らす。
「……じゃあ、なくさないようにする」
「うん」
満足そうに笑った輝夜は、そのままソファへ腰を下ろした。さすがに一日中歩き回った疲れはあるらしく、背もたれへ身体を預けたものの、花火大会の余韻はまだ冷めていない。彩葉が冷蔵庫から飲み物を二つ取り出して戻ると、輝夜は受け取るより先に、思い出したように顔を上げた。
「ねえ彩葉、曲のこと忘れないでね」
「まだ言ってるの?」
花火を見ながら「いつか」と言ったのだから忘れるなと輝夜が念を押し、彩葉が約束したわけではないと返しても、作らないとも言っていないでしょう、と自分に都合のいいところだけを拾い上げて笑う。
「何の準備するの。曲もできてないのに」
「心の準備よ」
彩葉は思わず吹き出し、それが一番いらない準備だと返した。そんな他愛のないやり取りが続いているうちは、帰宅してから何一つ変わったことなどなく、机の端には射的の景品があり、手元には開けたばかりの飲み物があり、二人の間には今日一日の楽しかった記憶がそのまま残っていた。
だからこそ、輝夜が口元の笑みを僅かに消し、手にしていた飲み物を机の上へ置いたときも、彩葉は最初その変化を祭り疲れのせいだと思った。けれど、輝夜はそのまま何も言わず部屋の奥へ視線を向け、窓や天井、机の周辺へとゆっくり目を動かし始める。
「……輝夜? どうしたの?」
輝夜はすぐには答えず、何か見えないものの気配を探るように眉を寄せていた。彩葉もつられて耳を澄ませたものの、聞こえるのは冷蔵庫の低い動作音と、遠くを走る車の音くらいで部屋の中に変わったものは何も見当たらない。
「……何かいる」
輝夜自身にも正体は分からないらしく、それ以上は説明しないままソファから立ち上がった。机の上に置かれた小さなケースへ歩み寄ると、中から薄い透明なレンズ状のスマコンを取り出し、コンタクトレンズを入れるのと同じ手つきで片目ずつ装着していく。
「ちょっと、急にどうしたの?」
配信の予定も、誰かとツクヨミで会う約束も聞いていない。彩葉が怪訝そうに見守っていると、装着を終えた輝夜の視線が何もなかったはずの部屋の中央へぴたりと止まり、その横顔からつい先ほどまでの楽しげな色が消えたことで何かを見ているのだと彩葉にも分かった。問いかけても返事がないのを確認すると、彩葉も自分のスマコンをケースから取り出した。
「私も見る」
指先へ乗せたレンズを目へ装着し、何度か瞬きをして接続した瞬間、それまで何もなかった部屋の中央に、淡い光が浮かんでいるのが彩葉にも見えた。ツクヨミの情報だけが現実の視界へ重ねられているらしく、机も椅子もカーテンもそのままなのに、何もない空間へ細かな光の粒子が集まり始めている。やがて透明な輪郭へ色と奥行きが加わり、一人の人間の姿が現実の部屋へ立っているかのように形作られていった。
像が安定すると、そこには長い銀色の髪を持つ一人の女性が立っていた。端正な顔立ちには激しい感情を浮かべておらず、周囲を確認する様子もないまま、その視線だけを最初から輝夜へ向けている。輝夜にも心当たりはないらしく、警戒を解かないまま僅かに顎を引いた。
「あなた、誰?」
女性はすぐには答えず、長い間探し続けていたものへようやく辿り着いたように輝夜の顔を見つめたあと静かに頭を下げた。
「失礼いたしました。私、八意永琳と申します」
柔らかく落ち着いた声音だったが、初対面とは思えないほど輝夜を知っているような眼差しに、彩葉は無意識に半歩前へ出た。永琳はそんな彩葉へ今度は視線を移し、輝夜へ向けた恭しさとは明らかに違う、淡々とした口調で告げる。
「あなたが酒寄彩葉ね。今まで姫様を預かってくれてありがとう」
「……預かった?」
引っかかった言葉をそのまま聞き返すと、永琳は彩葉に対しては敬語を使わず、落ち着いた調子のまま頷いた。
「そう。あなたが地上で姫様と一緒にいてくれたことには感謝してる」
まるで一時的に預けられていた相手を返してもらうような物言いに、彩葉が眉を寄せる。その隣では輝夜も同じ違和感を抱いたらしく一歩前へ出て永琳を見据えた。
「どういう意味?」
永琳は輝夜へ向き直ると、彩葉へ向けていたときとは明確に違う恭しい口調へ戻った。
「姫様。私は、月よりお迎えに参りました」
「……迎えに?」
輝夜の目が僅かに見開かれるのを見ても永琳は表情を変えず、帰還がすでに決まっていることを伝えるような静かな声音で続けた。
「はい。姫様には、月へお戻りいただきます」
その言葉には、「戻っていただけますか」と意思を尋ねる余地がなかった。礼儀正しい言い回しでありながら、輝夜の選択は最初から考慮されていないように感じられ、彩葉は胸の奥へ冷たいものが広がるのを覚えながらまず浮かんだ疑問を口にする。
「……どうして輝夜を地球に送ったの?」
永琳はほとんど間を置かず、彩葉へ視線を移した。
「姫様の情緒を育てるためよ。月は、姫様を育てるにはあまりにも適していない場所だから」
「情緒……?」
彩葉が聞き返すと永琳は再び輝夜へ向き直った。その声音には事情を説明する相手を気遣うような柔らかさが僅かに混じっている。
「月では、感情を大きく揺らすような経験も、人と深く関わる機会もほとんどありません。喜びや寂しさ、悔しさや楽しさを知り、誰かを大切に思う心を育てるには、あの環境はあまりにも不向きでした」
輝夜は口を挟まず、その説明を聞いていた。永琳はそこで彩葉へ視線を戻すと、また敬語を外し、地球には月にはない出会いや思い通りにならない経験があり、だからこそ感情が育つのだと続ける。彩葉はその言葉を聞きながら、これまでの輝夜の姿を思い返していた。初めて見るものには目を輝かせ、思い通りにならなければ露骨に悔しがり、楽しいときには周囲まで巻き込むほど笑う姿が、永琳の言う「情緒」の結果なのだとすれば、地球へ送った理由には一応の筋は通っている。
しかし、それならなぜ自分のところだったのかという疑問が残る。
「……じゃあ、どうして私のところに送ったの?」
彩葉の問いを聞いた永琳はほんの僅かに目を細め、自分だから選ばれたのではないかという考えを見透かしたように、小さく息をついた。
「自惚れないでちょうだい。あなたのもとに姫様がたどり着いたのは偶然よ」
彩葉の目が僅かに見開かれる。
「姫様を地球へ送ったのは情緒を育てるため。でも、あなたを選んで送ったわけじゃない。姫様があなたと出会ったことまで私が決めたことじゃない」
その言葉を聞き、彩葉が隣へ視線を向けると輝夜もこちらを見ていた。二人の出会いが最初から用意されたものではなく、ただの偶然だったことを知っても、そのあと一緒に過ごしてきた時間まで誰かに決められていたわけではないのだと、ほんの一瞬重なった視線だけで互いに確かめる。
輝夜は先ほどまでよりも強い眼差しで永琳へ向き直った。
「だったら、なおさら帰る理由なんてないじゃない。私はここで彩葉に会ったの。ここで暮らして、ここでやりたいことも見つけたわ」
そこで僅かに彩葉へ視線を向けたあと、輝夜は迷わず言い切る。
「だから私は月になんか帰らない。彩葉と一緒に暮らすの」
永琳はしばらく輝夜を見つめ、ごく僅かに目を伏せた。
「お気持ちは承知しております。しかし、姫様をこのまま地上へ残しておくことはできません」
その返答に耐えきれず、彩葉は輝夜の横から一歩前へ出た。
「地球に送ったのはそっちなのに、今度は目的が終わったから帰れって言うの? 輝夜は誰かの物じゃない。一緒に暮らしてただけだし、これからもそうしたいって本人が言ってるじゃん」
永琳はすぐには答えず、彩葉の顔をしばらく黙って見つめていた。穏やかな表情そのものは変わっていないが、その視線にはここまで話してきた情緒の話とは別に、どうしても譲れない理由があることだけが滲んでいる。
やがて永琳は彩葉から目を逸らさないまま、静かに告げた。
「月の都には姫様の能力、“永遠と須臾を操る程度の能力”が必要なのよ。あなたの意見は聞いてないわ」
聞き慣れない能力名を告げられた瞬間、彩葉と輝夜の表情がほとんど同時に変わった。
「……永遠と、須臾?」
彩葉が確かめるように繰り返す一方で、輝夜は自分の手へ視線を落とした。二人の脳裏には、竹取合戦で見せた異常な高速移動と、引っ越しの日に大量の荷物がほとんど一瞬で片づいていた光景が続けて蘇る。
輝夜は指先を僅かに握り、あのときの感覚を探るように眉を寄せてから、永琳へ視線を戻した。
「……それが、私の能力なの?」
「はい。姫様がお持ちなのは、“永遠と須臾を操る程度の能力”です」
永琳は輝夜の反応を確かめるように一度間を置くと、そのまま蓬莱の玉の枝についても説明を続けた。
「そして、姫様と一緒に地球へ送った“蓬莱の玉の枝”は、その能力を補助するためのものです。あれ自体が姫様の能力なのではなく、“永遠”と“須臾”を扱いやすくするためのものなのです」
輝夜が僅かに目を見開き、彩葉の脳裏でも、これまで玉の枝が傍らにあった場面と先ほど思い出した二つの現象が自然に重なった。それ以上説明されなくても、あの枝と輝夜の力が無関係ではなかったことだけは、二人にも十分理解できた。輝夜はしばらく自分の手を見つめたあと、能力そのものよりもそれを必要としているという月の事情へ意識を戻した。
「月の都は、その力を何に使うつもりなの?」
「今ここで、すべてをご説明するつもりはありません。ただ、月の都を維持するために必要な力だということだけは間違いありません」
必要だと言いながら、肝心の用途だけは明かそうとしない。その態度へ彩葉が眉を寄せる一方、輝夜も自分の知らなかった力を理由に行き先まで決められていることへの苛立ちを強め、永琳を真っ直ぐ見据えた。
「だったら余計に嫌よ。私の力なんでしょう?」
永琳が静かに頷くのを見て、輝夜は僅かに顎を上げる。
「なら、どう使うかは私が決めるわ。月の都に必要だからって、それだけで私が帰らなきゃいけない理由にはならない。私はここで暮らしたいの」
自分でも知らなかった能力の名前を教えられたからといって、輝夜の意思は少しも揺らいでいなかった。むしろ、自分の力を必要としているという理由だけで、誰かが当然のように自分の未来まで決めようとしていることの方が、輝夜には我慢ならないらしい。
彩葉もその言葉を聞いて、永琳へ真っ直ぐ視線を返した。
「輝夜がどんな能力を持ってたって関係ないよ。本人がここにいたいって言ってるんだから」
「酒寄彩葉。あなたがどう思うかは関係ない」
永琳の声には怒りも苛立ちもなく、ただ彩葉の意思など最初から考慮する必要のないものとして切り離すような静けさだけがあった。その一言を聞いた瞬間、彩葉の胸の奥へずっと昔に母から言われた言葉が不意に蘇る。
まだ幼かった頃、自分に任されていた役を、やりたがっていた別の子へ譲ったことがあった。相手が欲しがっているなら渡せばいいし、自分が我慢すれば揉めずに済むのだから、それでいいと思っていた彩葉へ、母は、欲しいと言われるたびに何でも渡してしまうつもりなのかと問いかけた。
当時の彩葉には、その意味が分からなかった。
誰かと争ってまで欲しいと思えるものが、自分にあるとも思えなかったし、譲って済むのなら、その方が楽だとさえ考えていた。それでも、自分にもいつか譲れないものが見つかるのだという言葉だけは、なぜか忘れず胸の奥へ残っていた。
そして今、彩葉は背後にいる輝夜の気配を感じながら、ようやくその言葉の意味を理解した。
来年も一緒に花火を見ようと話し、途中で止まった曲の続きを輝夜が楽しみにしていた。帰れば同じ部屋でくだらない話をして、配信をして、時には喧嘩をして、それでも次の日にはまた隣にいるのだと、彩葉自身もいつの間にか疑うことすらなくなっていた。
何より、輝夜自身がここにいたいと、彩葉と一緒に暮らしたいと言っている。その未来だけは、誰かが必要だからと言ったところで、譲ってしまえるものではなかった。母の言葉へ長い時間をかけて返すように、彩葉は初めて、自分にも絶対に譲れないものがあるのだと知った。その答えを自覚した途端、考えるより先に身体が動き、永琳と輝夜の間へ一歩踏み出すと、相手がスマコン越しの像でしかないことも忘れたように、背後の輝夜を庇う位置へ立った。
輝夜が驚いたように彩葉の背中を見つめている。
彩葉は永琳から視線を逸らさなかった。
「月がどうだとか、能力がどうだとか……私には関係ない」
月の都に事情があることも、輝夜の力が本当に必要なのだということも、永琳の言葉を聞けば分かる。それでも、その事情が輝夜の気持ちを無視していい理由にはならず、まして彩葉が自分から手を離す理由にはならなかった。
彩葉は胸の奥でようやく見つけた「譲れないもの」を、そのまま言葉へ変えた。
「輝夜は渡さない!」
普段の彩葉からは想像できないほど強い声が、静かな部屋へ響いた。
言い切ったあとになって、自分でも声の大きさに驚いたのか、彩葉の指先が僅かに震える。それでも一歩も退かず、永琳との間に立ったまま、背後にいる輝夜から離れようとはしなかった。
輝夜は何も言えず、しばらく彩葉の背中を見つめていた。驚きに見開かれていた目がゆっくりと細まり、その表情からは、つい先ほどまで永琳へ向けていた怒りとは違う感情が滲み始める。
永琳もすぐには答えず、彩葉の顔を見つめたあと、その後ろにいる輝夜へ視線を移し、もう一度彩葉へ戻した。そのほんの僅かな間だけ、整えられていた表情の奥に何かが揺れたように見えたものの、今の彩葉には、その感情が何なのかを知ることはできなかった。
やがて永琳は静かに息をつき、この場でさらに言葉を重ねても二人の意思が変わらないと判断したように、彩葉へ告げる。
「分かった。今日はこれ以上話しても意味はなさそうね」
それから改めて輝夜へ向き直ると、声音を再び恭しいものへ戻した。
「ですが、姫様。次の満月の夜、改めてお迎えに参ります」
「私は行かないって言ってるでしょう!」
輝夜がすぐに言い返しても永琳は声を荒らげず、決められた予定を伝えるような静かな口調を崩さなかった。
「その際は、ツクヨミにてお話しいたしましょう。姫様のお気持ちが変わらなかったとしても、私はお迎えに参ります」
その言葉には輝夜が拒み、彩葉が止めようとしても、次の満月には必ず迎えに来るという揺るがない意志が、声を強めることなくはっきりと滲んでいた。
「それでは、本日は失礼いたします」
永琳が僅かに頭を下げると、その身体を形作っていた光がゆっくりと薄れ始めた。輝夜が反射的に「待ちなさい!」と手を伸ばしても、その指先は淡い像をすり抜けるだけで、銀色の髪も、表情も、身体の輪郭も細かな粒子へほどけていき、やがて完全に消える。
あとに残った部屋は、永琳が現れる前と何一つ変わっていなかった。机も椅子もソファもそのままで、机の端には射的の景品が置かれ、少し前まで二人が来年の花火や未完成の曲について笑っていた痕跡も残っているのに、そこへ次の満月という期限だけが突然置かれたことで、同じ場所とは思えないほど空気が重く感じられた。彩葉がようやく身体の力を抜いて振り返ると、輝夜は俯いてはいなかった。勝手に自分の行き先を決められた怒りはまだ残っているものの、その目は永琳が消えた場所ではなく、自分の前へ立っていた彩葉へ向けられている。
「……勝手に決めないでほしいわ。私は帰らない」
「うん。帰らなくていいよ」
彩葉が迷わず答えると、輝夜はほんの僅かに表情を緩めた。彩葉もその視線から逃げず、先ほどまで庇うように立っていた距離を少しだけ縮める。
「だって、一緒にいるって決めたじゃん」
花火を見ながら新しい曲を作る話をし、途中で止まっている曲もいつか続きを作るかもしれないと話し、来年もまた花火大会へ来ようと、ほんの少し前まで当たり前のように未来の予定を増やしていた。
永琳が現れたからといって、それまで二人で積み重ねてきたものまで、突然なかったことになるわけではない。輝夜はしばらく彩葉の顔を見つめていたが、やがて握りしめていた拳から少しだけ力を抜いた。
「……そうね」
その返事を聞き、彩葉の方から手を伸ばす。
輝夜は差し出された手を見下ろし、ほんの僅かに目を細めてから迷わず握り返した。次の満月に何が起こるのかも、「永遠と須臾を操る程度の能力」が月の都でなぜ必要なのかも分からないままだったが、彩葉はようやく見つけた自分の譲れないものを、今度こそ誰かに渡すつもりはなかった。