作戦会議を終えた翌日、以前から予告されていたイベントの正式発表が、ツクヨミの中央広場で行われることになった。
彩葉と輝夜が広場へ着いた頃には、大型画面を囲むようにすでに多くのユーザーが集まっていた。これまで明かされていたのは、近いうちに大規模なイベントが開催されるということだけで、対戦形式なのか、全員参加型の攻略なのか、それとも今までにない新しい遊びなのかさえ伏せられている。
画面が切り替わるのを待ちながら交わされる声にも統一された予想はなく、新しいボスが出るらしい、この前より大きな戦場になるのではないかと、それぞれが好き勝手に想像しては楽しそうに盛り上がっていた。昨日まで、その裏側で本物の月人をどう迎え撃つのか話し合っていた彩葉には、そんな光景が少しだけ不思議に見えた。自分たちにとっては輝夜が月へ連れていかれるのを防ぐための戦いになるが、ここにいる大半の者にとっては、次に遊べる大型イベントがようやく発表されるだけなのだ。隣に立つ輝夜も似たようなことを感じているらしく、自分たちの周囲を埋めていくユーザーへ何度も視線を向けていた。
「すごい人数ね」
「大型イベントだからね。ずっと内容伏せられてたし、気になってた人多いんじゃない?」
彩葉が答えると、輝夜は改めて広場を見渡した。どこを見ても楽しそうな顔ばかりで、これから自分を迎えに来る者たちについて警戒している人間など当然ながら一人もいない。やがて広場を満たしていた照明がゆっくりと落とされ、それまであちこちで交わされていた声も、何かが始まる気配を感じ取ったように少しずつ小さくなっていく。中央の大型画面も一度完全に暗転し、しばらくすると、その中央へ小さな白い光が浮かび上がった。
光はゆっくりと大きくなりながら満月の形を作り、その下を淡い雲が流れていく。雲の奥から小さな影が勢いよく飛び込んできたかと思うと、次の瞬間にはヤチヨが画面いっぱいに姿を現した。
「神々のみんな~! ヤオヨロ〜! それと、お待たせしました~!」
両腕を大きく広げたヤチヨの声に応えるように広場から一斉に歓声が上がった。昨日までの作戦会議で見せていた真剣な表情など最初から存在しなかったかのように、画面の中のヤチヨはいつもの明るい笑顔を浮かべている。
「前から予告してた大型イベント、今日はついに詳しい内容を発表しちゃうよ!」
さらに大きくなった歓声を受けながらヤチヨが片手を高く掲げると、背後の月がゆっくり横へ移動し、その中央へ開催時期を示す文字が大きく現れた。
『満月』
「開催日は次の満月の日! 今回みんなに挑んでもらうのは、ツクヨミのみんなで力を合わせて戦う超大型異変です!」
画面が再び暗くなり、中央へ残された満月を横切るように細い光が走る。やがてその光が消えるのと入れ替わるように、月明かりを背負った大きな文字が浮かび上がった。
『永夜抄』
「そして今回の異変名は――『永夜抄』!」
ヤチヨが名前を告げた途端、広場からひときわ大きな歓声が上がった。
彩葉も画面いっぱいに表示された文字を見上げながら、周囲にいるユーザーとの温度差を改めて感じていた。彼らにとってはこれから始まる大型イベントへ与えられた新しい名前でしかないが、自分と輝夜だけは、その裏側にある出来事が作り物ではないことを知っている。
「それじゃあまずは、今回の『永夜抄』で何が起こるのか説明していくよ~!」
画面が切り替わり地球を見下ろす月と、その表面に立つ者たちの影が映し出された。ヤチヨも先ほどまでより少しだけ声を落とし、物語を聞かせるような調子で進行を続ける。
「ある日、月に住んでいる人たちが、地球にある“何か”を探し始めました」
月から地球へ向かって一筋の光が伸び、その中を複数の影が降りていく。
「その“何か”が何なのかは分からない。でも月の住人は、どうしてもそれを見つけたいみたいなんだよね」
続いて地上へ降り立った玉兎たちがそれぞれ別の方向へ散り、何かを探すように周囲を見回す映像へ切り替わった。
「そこで、たくさんの月の兵隊さんたちが地球へやって来ることになりました。放っておいたら、探し物が見つかるまで好き放題されちゃうかも!」
一般ユーザーからすれば、大型異変のために用意された簡単な導入にすぎない。しかし、月側が探している“何か”の正体を知っている彩葉が隣へ目を向けると、輝夜も同じところに引っかかったらしく、画面に映る玉兎たちを見つめたまま僅かに目を細めていた。
「……何か、ね」
「まあ、そのまま言うわけにもいかないし」
彩葉が小声で返すと、輝夜は少しだけ不満そうな顔をしたものの、周囲に聞こえるような声では何も言わなかった。その間にも画面の中では説明が進み、ヤチヨは先ほどまでの物語調から一転して明るく両手を広げる。
「ということで、今回の神々のお仕事は簡単! 月から来たみなさんを全員倒して、地球での捜し物を諦めてもらいましょう!」
その言葉に合わせて映像が大きく引き、今度は広大な戦場の全景が映し出された。
平原や岩場、高低差のある地形が広い範囲へ組み込まれ、その中には多数の参加者と月側の軍勢が同時に入り乱れても戦えるだけの空間が確保されている。ツクヨミの街をそのまま利用するのではなく、KASSENで使われるようなフィールドをさらに大規模にした、今回の異変専用の戦場だった。
「今回の戦いは、この専用フィールドでやります!」
ヤチヨが指を動かすたびに戦場の各所が順番に拡大され、広い地形の中で複数の戦闘を同時に行えることが示されていく。彩葉は映し出された戦場へ、昨日の作戦会議で決めた配置を頭の中で重ねていた。今はただのイベントフィールドとして紹介されている場所が、満月の日には本物の月人を迎え撃つための戦場になる。
「参加人数に制限はなし! みんなで一緒に入って、月側の戦力を全部倒せば神々の勝利です!」
ここまでは、いつもの大型イベントと大きく変わらない説明に聞こえたが、ヤチヨはそこで一度言葉を切り、人差し指を立てながら画面へ少しだけ顔を近づけた。
「ただし! 今回は、いつもの異変とはちょっと違う特別ルールがあります」
画面の中央へ一人のプレイヤーを示す表示が現れ、その横にHPゲージが浮かび上がる。
「今回、残機はありません!」
広場のあちこちから驚いた声が上がる中、ヤチヨが表示されたHPゲージへ指を向けると、画面のプレイヤーは攻撃を受けるたびにHPを減らしていき、最後に0へ達した瞬間その姿が戦場から消えた。
「HPが一度でも0になったら、その時点で今回の異変から脱落です」
続いて消えたプレイヤーがもう一度戦場へ入ろうとする表示へ切り替わったが、入口の前で弾かれ、再参加できないことを示す文字が大きく浮かび上がる。
「街に戻って回復してからもう一回、もなし。途中から入り直すのもなし。一度HPが0になったら、その異変にはもう戻れません!」
先ほどまでの歓声とは違うざわめきが広場へ広がり、普段より慎重に動いた方がいいのではないか、回復できる者と一緒に戦った方がいいかもしれないと、周囲では早くも特殊ルールを前提にした相談が始まっていた。
「けっこう厳しくない?」
「うん。でも、昨日の作戦もその前提で決めてるしね」
輝夜の問いに答えながら、彩葉は画面へ視線を残した。一般ユーザーには緊張感を高める特殊ルールとして映っているが、こちらにとっては一人の脱落が作戦全体へそのまま影響する。依姫を止めるBlack onyXの誰かが倒れれば残った者への負担が増し、永琳へ向かう自分たちも、一人欠けた時点から残った人数だけで戦わなければならない。画面の中のヤチヨはそんな裏側など一切感じさせない笑顔を保ち、少し笑いを誘うような調子で注意を続けた。
「だから今回は、無理だと思ったらちゃんと下がるのも大事だよ! 一人で突っ込んであっという間にHPがなくなったら、その後は応援するしかなくなっちゃうからね~」
その言い方のおかげで張り詰めかけていた空気が僅かに緩み、ヤチヨは頃合いを見て両手を合わせる。
「仲間と助け合って、最後まで生き残りながら月側を全滅させる。それが今回の基本ルールです!」
画面には月側と地上側の戦力が向かい合う構図が映し出され、その中央へ改めて勝利条件が表示された。
『月側全戦力の撃破』
「でも、もちろん相手は普通の玉兎だけじゃありません!」
画面を埋めていた玉兎たちが左右へ分かれ、その中央へ一人の女性の姿が現れる。
――八意永琳
数日前、彩葉たちの前へ突然現れ、次の満月には輝夜を迎えに来ると告げた本人だった。
「今回の強敵、その一! 八意永琳!」
名前が表示された瞬間、広場のあちこちから期待に満ちた声が上がり、どんな攻撃を使うのか、どれほど強いのかと勝手な予想が飛び交い始める。その反応を聞いていた輝夜は、面白くなさそうに眉を寄せた。
「本人見たら、そんな楽しそうにできないと思うけど」
「知らないからね」
彩葉が苦笑している間にも画面は切り替わり、永琳の姿が横へ移動するとその隣へ綿月依姫が現れた。
「そして強敵その二、綿月依姫!」
こちらにも大きな歓声が上がり、ヤチヨは二人を並べた画面の前で、先ほどより僅かに声へ力を込める。
「この二人は今回の月側でも特に危険な相手だから、見つけた時は要注意! 残機もないから、腕に自信があっても油断しないようにね!」
彩葉は依姫の姿を見上げながら、昨日決めた配置を思い返した。月側でも特に戦闘能力が高い依姫には、こちらの最高戦力であるBlack onyXをぶつけることになっているが、一般ユーザーへ知らされるのは「特に強い敵」というところまでで、その短い説明の裏にどれほどの危険があるのかを知る者は限られている。
しばらく画面を見つめていた輝夜は、やがて周囲へ視線を向けた。永琳と依姫のどちらへ挑むかを相談する者もいれば、残機がないなら回復を優先しようと装備を考え始める者もおり、誰もが自分たちの前に用意された新しいイベントとして楽しそうに話している。
「みんな、楽しそうね」
「そりゃイベントだと思ってるから」
輝夜はもう一度画面に映っている永琳を見た。ここにいる者たちにとって、月人も玉兎もイベントの敵でしかなく、本当に月からやって来ることも、その目的が地球にある謎の“何か”ではなく、すぐ隣にいる輝夜を連れ戻すことだとも知らされていない。
「みんなにはそこまで言ってないしね」
彩葉が答えると、輝夜は納得したわけではないらしく僅かに唇を尖らせたが、それ以上は何も言わず画面へ視線を戻した。
発表も最後に差しかかり、ヤチヨの背後へ再び白い満月が浮かび上がる。その下には、今回の異変で覚えておくべき情報が順番に並んでいった。
異変名――『永夜抄』
次の満月の日
専用戦場
月側全戦力の撃破
残機なし
HPが0になった時点で脱落し、再参加不可
画面へ並んだ内容を一通り示してから、ヤチヨは満足そうに大きく頷いた。
「ルールは以上!」
そのまま両腕をいっぱいに広げ、発表を待っていた神々全員へ向けるように声を張る。
「次の満月の日は『永夜抄』! みんなで最後まで生き残って、月のみなさんをツクヨミ総出で盛大にお迎えしちゃお~!」
広場を包む歓声はそれまでで一番大きく、残機がないという特殊ルールを聞いてなお、不安より楽しみの方が勝っている者が多いらしい。発表が終わったあとも、装備や仲間について相談する声があちこちから途切れることなく聞こえていた。
彩葉はその中で、大型画面に残された『永夜抄』の文字を見上げた。昨日までは自分たちだけが知っていた次の満月が、今では一つの名前を与えられ、ツクヨミ中のユーザーが待ち望むイベントへ変わっている。
隣では輝夜も同じ文字を見つめていた。
「なんか変な感じ」
「うん」
彩葉が短く答えると、輝夜もそれ以上言葉を続けなかった。
満月の日を迎えるまでには、まだ時間が残されている。その間にできる準備を終え、決めた作戦を少しでも形にしておかなければならないと考えながら、彩葉はまだ歓声の残る広場を見渡し、輝夜とともに人混みの中をゆっくり歩き始めた。
◇ ◇ ◇
中央広場を離れたあとも、『永夜抄』の発表はツクヨミのあちこちで話題になっていた。通りを歩けば、残機がないなら回復手段を増やした方がいい、永琳と依姫のどちらへ挑むか決めておこうと相談する声が聞こえ、すでに満月の日へ向けて装備や仲間を整え始めている者もいる。
けれど、イベントが発表されたからといって、彩葉たちの日常がすぐに大きく変わったわけではない。輝夜は作戦会議でヤチヨから言われたとおり毎日彼女のもとへ通うようになり、彩葉も芦花や真実と連絡を取りながら、自分たちにできる準備を少しずつ進めていた。最初の数日は、帰ってくる頃には見るからに疲れた顔をしていることも多かった。それでも翌日になれば、輝夜はまた当たり前のように支度を整えて出かけていく。
ある日の夕方、出かける準備をしている輝夜を見つけた彩葉は、ベッドの上でスマコンを触っていた手を止めた。
「今日もヤチヨのところ行くの?」
「そうよ。異変の日まで毎日って言われてるもの」
輝夜は当然のように答えながら髪を整え、壁際に置いていた荷物へ手を伸ばした。彩葉はその様子をしばらく眺めてからスマコンへ視線を戻そうとしたものの、結局すぐにもう一度輝夜を見てしまう。
「……いいなあ」
「何がいいのよ」
聞き逃さなかった輝夜が振り返ると、彩葉は少しだけ迷ってから、ベッドへ背中を預けた。
「毎日ヤチヨのところ行けるの」
その答えを聞いた瞬間、輝夜の眉が僅かに動き、手に取ろうとしていた荷物から指を離した。
「……彩葉、私とは毎日一緒にいるじゃない」
「そうだけど」
「朝もいるし、ご飯も一緒だし、ツクヨミに来ても大体一緒でしょう?」
一つずつ数えるように口にしながら、輝夜は彩葉の前まで戻ってきた。腰へ手を当てたその顔には、自分との時間を棚に上げてヤチヨを羨ましがることへの小さな不満が、隠す気もなく浮かんでいる。
彩葉はその表情がおかしくなって、小さく笑った。
「毎日ヤチヨと二人でいられるのが、ちょっと羨ましいだけ」
「だから、私とは毎日ずっと一緒にいるでしょう?」
「輝夜と一緒にいるのは、もう普通だから」
言った途端、輝夜の目が細くなった。
「それ、嬉しいこと言ってるようで誤魔化してない?」
「誤魔化してないって」
笑いながら否定する彩葉をしばらく疑うように見ていた輝夜は、完全には納得していない顔のまま荷物を抱え直した。
「じゃあ帰ったらゲームするから」
「はいはい」
適当に返した彩葉へ、輝夜はそのまま扉へ向かわず、もう一度念を押すように振り返った。
「先に寝ないでよ」
「分かったって」
ようやく満足したのか、輝夜は今度こそ部屋を出ていった。扉が閉まったあとも彩葉の口元にはしばらく笑みが残り、ヤチヨのところへ毎日通えることが羨ましいと思ったのは本当だったが、ほんの少し口にしただけで輝夜の方まで不満そうになるとは思っていなかった。
◇ ◇ ◇
それからも大きく生活が変わることはなく、同じような日々の中で満月の日だけが少しずつ近づいていった。最初の頃こそ帰宅するとそのまま座り込むほど疲れていた輝夜も、何日か通ううちに少しずつその生活へ慣れ、帰ってきてから彩葉とゲームをしたり、どうでもいい話をしながら遅くまで起きていたりと、以前と変わらない余裕も戻り始めていた。
それでも疲れそのものがなくなったわけではなく、ヤチヨのところからいつもより少し遅く戻ってきたある夜には、夕食を終えるなり彩葉の布団へ身体を預けた。毎日の準備にはずいぶん慣れてきたらしく、最初の頃ほど疲れ切った顔ではなかったものの、今日は普段より負担が大きかったのか、枕へ頬を押しつけたまま起き上がる気配もない。
「疲れた?」
机に座っていた彩葉が振り返ると、輝夜は閉じかけた目のまま僅かに首を振った。
「ちょっとだけ休むだけよ」
「それ絶対寝るやつじゃん」
「寝ないわよ。まだ彩葉と――」
途中まで言いかけた声が小さく途切れたため、彩葉はしばらく続きを待っていたが、代わりに布団の方から規則正しい寝息が聞こえ始めた。振り返ってみれば、ついさっきまで眠らないと言い張っていた輝夜は、すっかり身体から力を抜いて眠っている。
「……早」
思わず笑いそうになった声を抑え、彩葉は椅子へ座り直した。
スマコンには、芦花や真実と確認していた戦闘資料がまだ表示されている。何度も見返した配置や永琳と戦う時に気をつけるべきことが並んでいたが、今からもう一度読み返したところで、考えていなかった答えが突然増えるわけでもない。画面を閉じかけたところで彩葉の手が止まり、少し迷った末にスマコンを伏せると、代わりに机の上のパソコンを開いた。そこには、以前からほとんど手をつけていなかった一つのファイルが残されている。
輝夜がヤチヨとのコラボライブを控えていた頃、勝手に彩葉のパソコンを持ち出して見つけた未完成曲だった。あの時は続きを作る予定もなく、どうせ途中で止まった曲だからと流していたのに、花火を見に行った夜、輝夜はそれを覚えていて続きを作ってほしいと言った。彩葉は「いつかね」と答えたものの、本気で約束したつもりはなかった。続きが思いつけば作るかもしれないし、そのまま長い間放置するかもしれない程度の気持ちだったのに、輝夜の方は嬉しそうにそれを約束として受け取っていた。
パソコンに残っている曲は、そんなやり取りなど知らないように、あの時から同じ場所で止まったままだった。
彩葉は一度、背後の布団を振り返った。輝夜は起きる様子もなく、長い髪を枕の上へ広げて眠っている。普段なら寝る直前までどうでもいい話を続け、彩葉が眠そうにしていても構わず声をかけてくるのに、今夜はその余裕さえ残っていなかったらしい。
起こす理由もないまま、彩葉は部屋の照明を一段落とし、パソコンの画面も少し暗くしてからイヤホンを耳へ差し込んだ。音量を普段より下げ、曲を最初から再生すると、聞き慣れた旋律が耳の中だけで静かに流れ始める。以前は何度聞き直しても、最後の部分へ来るたびに手が止まった。まだ先があることだけは自分でも分かっているのに、そこへ何を繋げればいいのかが浮かばず、無理に続ければそれまで作ったものまで別の曲になってしまうような気がして、結局そのまま途中にしていた。
けれど今夜は同じ旋律が少しだけ違って聞こえ、音を追っているうちに、自然と輝夜と出会ってからのことが浮かんできた。
――最初は、電柱の中にいた。
あまりにも意味の分からない出会い方だったせいで、今になって思い返しても現実味がない。それなのに、そこから芦花や真実と出会い、一緒にゲームをして、勝った負けたで騒ぎ、くだらないことで喧嘩をし、気づけば同じ家へ帰ることが当たり前になっていた。竹取合戦では本気で勝とうとして、負けたあとには別のことで騒ぎ、引っ越してからも日常が急に静かになることはなかった。花火を見た夜も、隣で輝夜が笑っていることを、あの時の彩葉は特別なことだとは考えていなかった。
来年もどこかへ行くだろうし、その前にもきっと何かある。新しい曲だって、続きを作りたくなった時に作ればいいと、それくらい先のことを当然のように思っていた。
永琳が現れた夜から、その当たり前に期限のようなものが見えるようになっただけで、彩葉自身が望んでいることは何も変わっていない。輝夜はここに残ると言い、彩葉もその先まで一緒にいたいと思っているのだから、今この曲へ手を伸ばした理由も、終わりを用意するためではなかった。彩葉はキーボードへ指を置き、何度も止まっていた箇所を少し戻してから、もう一度再生した。今度は最後の音が消える前にその先へ一音だけ置いてみたものの、少し違う気がして消し、今度は高さを変える。そこへもう一つ重ねて最初から聞き直してみると、さっきよりは前から続いているように聞こえた。
以前ならその時点で考えすぎて手が止まっていたはずなのに、今は、その先へ置く音がもう少しだけ見えるような気がする。彩葉は時間をかけて、それを一つずつ並べていった。打鍵音を立てないよう指先へ余計な力を入れず、何度か同じ箇所を聞き直しながら、後ろで眠っている輝夜を起こしたくなくて、普段なら何も気にせず動かす椅子さえほとんど動かさない。
いつまでに完成させなければならないという期限はなく、輝夜へ聞かせる日を決めているわけでもなかった。ただ頼まれたからというだけではなく、今なら止まっていた旋律の続きを作れそうな気がして、その感覚が消えないうちに少しでも先へ進めておきたかった。
何小節か進んだところで背後から布の擦れる音が聞こえ、彩葉は反射的に手を止めて振り返った。輝夜は寝返りを打っただけらしく、目を覚ましてはいなかった。ただ、掛け布団から片方の肩が出てしまい、少し寒そうに身体を丸めている。彩葉はイヤホンを外し、音を立てないよう椅子から立ち上がると、布団のそばへしゃがみ込み、肩が隠れるところまで掛け布団を引き上げた。
「ん……」
輝夜が僅かに身じろぎしたため、彩葉の手も一瞬止まったが、それでも目は開かず、すぐに元の寝息へ戻っていく。近くで見れば疲れていることは隠しようがなく、目を閉じてしまえば普段より幼く見えるその顔から、今日一日の疲労がようやく抜け始めているようだった。
毎日ヤチヨのところへ行けるのが羨ましいと口にしたことを思い返し、彩葉は小さく笑った。遊びに行っているわけではないと最初から分かっているのに、二人で毎日一緒にいると聞くだけで羨ましく感じるのだから、我ながら単純なものだったし、次に輝夜が出かける時にも、きっと少しくらい同じことを思うのだろう。
「……お疲れさま」
眠っている輝夜へ聞かせるつもりもなく小さく呟き、彩葉はその寝顔を少しだけ見てから机へ戻った。
再びイヤホンを耳へつけて途中まで進めた曲を聞き直すと、窓の向こうには静かな夜の街が広がっている。彩葉の中では、この先にも輝夜と過ごす時間が続いていることに変わりはなかった。
もう一度キーボードへ指を置き、眠る輝夜を起こさないよう静かに、止まっていた旋律の先へ新しい音を重ねていった。