彩葉が未完成だった曲へ少しずつ音を重ねたあの夜からも、時間は普段と変わらない速さで進んでいった。
翌朝になれば空は明るくなり、昼を過ぎれば輝夜がヤチヨのもとへ向かう。帰ってくる頃には疲れている日もあったものの、最初の頃のように身体を投げ出したまま動けなくなることは減り、夕食の後も彩葉へ話しかける余裕が残るようになっていた。
もっとも、疲れていないわけではないらしい。以前、彩葉の布団へ入り込んだまま眠ってしまったことを翌日に指摘すると、輝夜は少し気まずそうに視線を逸らした。
「私、ほんとに寝てた?」
「めちゃくちゃ寝てたよ。声掛けても全然反応しないんだもん」
「……起こしてくれればよかったのに」
「いや、絶対起きなかったでしょ」
彩葉が笑いながら返すと、輝夜は反論しようとして口を開いたものの、心当たりがあるのか、そのまま何も言えずに頬を膨らませた。疲れているなら自分の布団で寝ればいいのにと思わなくもなかったが、隣で安心しきった顔をして眠る輝夜を、わざわざ起こす気にもなれなかった。そんなやり取りを繰り返すうちにも満月の日は近づき、ツクヨミでは『永夜抄』に備えるユーザーの姿が目に見えて増えていった。
街の店先には回復用のアイテムや装備を確認する者が集まり、普段なら気軽に戦闘へ出かけるユーザーたちも、今回ばかりは仲間と慎重に相談している。残機がなく、一度HPが0になれば再参加できないというルールが発表されている以上、普段の大型イベントより準備に時間をかける者も多かった。
彩葉たちも例外ではなく、芦花や真実とは何度も作戦を確認し、永琳が予想とは違う行動を取った場合にどう対応するかまで話し合っていた。相手の実力を直接確かめたわけではないため、事前に決められることには限界がある。それでも、本番で選べる行動を一つでも増やしておくことには意味があるはずだった。一方の輝夜も毎日欠かさずヤチヨのもとへ通い続けており、何を準備しているのか詳しく話すことはなかったものの、その表情からは少しずつ自信がついてきたことが窺えた。
ただ、毎日のようにヤチヨと会っていることについては、彩葉も少しばかり羨ましく思っていた。
「今日もヤチヨのところ?」
「そうよ。もう少ししたら行ってくるわ」
「いいなあ。私もヤチヨと毎日会いたい」
何気なく口にすると、輝夜は出かける準備をしていた手を止め、不思議そうに彩葉へ顔を向けた。
「彩葉は私と毎日一緒にいるじゃない」
「いや、そういう話じゃなくてさ」
「じゃあ、どういう話よ?」
輝夜は納得できないらしく、彩葉の前まで近づいてくる。別に輝夜と過ごす時間が嫌になったわけではなく、憧れていたライバーと毎日のように会えることが純粋に羨ましいのだと説明すると、輝夜は少し考えてから頷いた。
「ふうん。だったら、今日も頑張ってくるわね」
「うん。いってらっしゃい」
「帰ってきたら、ちゃんと褒めてよ?」
「何を頑張ったか教えてくれないのに?」
「そこは雰囲気で分かるでしょう?」
そんな無茶な要求に彩葉が呆れた顔をすると、輝夜は楽しそうに笑いながら手を振り、ヤチヨのもとへ向かっていった。彩葉はその背中を見送り、自分の机へ戻った。輝夜が何を身につけようとしているのかは分からないが、努力を重ねていることだけは確かだった。自分も負けていられないと思い直し、芦花たちとの確認事項を整理しながら、空いた時間を使って未完成の曲にも手を加えていった。
そうして迎えた、満月を翌日に控えた夜。
二人の部屋だけを見れば、これまでの日常と大きく変わるところはなかった。夕食を終え、風呂から戻ってきた輝夜はベッドの上へ腰を下ろし、乾かしたばかりの長い髪を指先で整えながら、机に向かっている彩葉を眺めていた。彩葉はスマコンへ届いた芦花からの連絡を確認し、最後の返信を送ってから画面を閉じる。何度も話し合ってきた内容ではあったが、明日が本番となれば、細かなことまで気になってしまうのは仕方がなかった。
「これで多分、確認することは全部かな」
「まだ見てたの?」
「真実が最後にもう一回確認したいって。芦花も気になるところがあったみたいだし」
「もう何回も話したんでしょう?」
輝夜は呆れたように息を吐いたものの、自分も毎日準備を続けてきただけに、それ以上は何も言わなかった。彩葉が椅子から立ち上がると、彼女は少し横へずれて隣を空け、そこへ腰を下ろした彩葉も、背中から力を抜くように両手をベッドへついた。
窓の外には静かな夜の街が広がっていた。
遠くを走る車の音が時折聞こえてくるものの、部屋の中は穏やかで、すぐ隣にいる輝夜の呼吸まで分かるほど静かだった。明日になれば月から永琳たちがやって来るという事実を忘れているわけではないが、何日もそのことばかり考えてきたせいか、今さら改めて何を話せばいいのかも思いつかない。
輝夜も同じなのか、しばらくは何も言わず、ベッドの上へ伸ばした足を揺らしていた。彩葉はその横顔を眺めながら、最初に出会った頃のことを思い返した。突然自分の生活へ入り込んできて、何をするにも遠慮がなく、思いついたことをそのまま口にする。そんな輝夜に振り回されてばかりだったはずなのに、今では隣にいることが当たり前になっている。ふと、その日常が明日には変わってしまうかもしれないという考えが浮かんだが、彩葉が何かを言うより先に、隣から声が掛かった。
「ねえ、彩葉」
「何?」
「私ね、最初の頃は、言いたいことは言えばいいって思ってたの」
それまでの沈黙とはまるで関係のない話題に、彩葉は僅かに目を瞬いた。
輝夜は膝を抱え、その上へ頬を寄せながら、すぐにはこちらを見ようとしなかった。何かを思い返すように窓の外へ目を向け、いつもの勢いに任せるのではなく、言葉を選びながら続きを話し始める。
「嫌なことは嫌って言えばいいし、やりたいことがあるならやればいいって。でも、彩葉たちと一緒にいるうちに、それだけじゃないんだって分かったわ」
「それだけじゃない?」
「うん。自分が言いたいことと、相手が聞きたいことって、同じじゃないでしょう?」
輝夜はそこで少し考え、抱えていた膝へ指を重ねた。
「私が正しいと思ってても、相手がそう思ってるとは限らないし、嫌なことを嫌って言うだけじゃ、どうして嫌なのかまでは伝わらないこともあるじゃない」
彩葉は驚きながらも、口を挟まずに続きを待った。
輝夜はもともと、自分の感情に素直な人物だった。嬉しい時には思いきり喜び、納得できないことがあれば遠慮なく言い返す。その明るさに助けられたことも多い反面、思ったことをそのまま口にしたせいで、相手を困らせてしまうこともあった。けれど、彩葉や芦花、真実と過ごすうちに、輝夜なりに考えることが増えたのだろう。
「……大人になったじゃん」
彩葉が少し笑うと、輝夜はようやく顔を上げた。
「彩葉を見て覚えたのよ」
「それ、褒めてる?」
「褒めてるわよ。なんで疑うの?」
「いや、輝夜がそんなに素直に褒めてくれるの、珍しいなと思って」
「失礼ね、私だって褒める時はちゃんと褒めるわ」
むきになって言い返す輝夜を見て、彩葉は思わず笑ってしまった。そんな反応をするところは最初の頃と変わらず、少し安心したような気持ちにもなる。
しかし、輝夜はそこで話を終わらせなかった。一度は笑みを浮かべたものの、やがて再び膝へ視線を落とし、何か別のことを切り出そうとするように口を閉じる。何度か彩葉の方を見ては視線を戻す様子から、ただの世間話ではないことが伝わってきた。彩葉が急かさず待っていると、輝夜は小さく息を吸った。
「ねえ、彩葉。一つ聞いてもいい?」
「いいけど」
「……お母さんのこと、好き?」
彩葉はすぐには答えられなかった。
好きか嫌いかだけなら、もっと簡単に答えられる質問のはずだった。けれど、母のことを考えようとすると、子供の頃から積み重なってきた記憶が次々に浮かび、どちらか一つの言葉だけで片づけることができなかった。できないという言葉は簡単には認めてもらえず、自分で選んだことなら最後まで責任を持つように言われてきた。何かを成し遂げても、そこで満足するより先に次の目標を求められ、まだ足りないと言われることも珍しくなかった。
もちろん、母が教えてくれたことのすべてを間違いだったとは思っていない。
辛くても途中で投げ出さずにいられることや、自分の選択に責任を持とうとする姿勢は、あの教育があったからこそ身についた部分もあるのだろう。ただ、次に何をするべきか教えられるより先に、頑張ったことを褒めてほしかった時もあった。失敗した時にも、改善する方法だけではなく、悔しかった気持ちを聞いてほしかった。
母が自分の将来を考えてくれていたことは理解している。それでも、その正しさを受け入れることと、傷つかなかったことは別だった。彩葉はしばらく考えたあと、ようやく口を開いた。
「……分かんない」
輝夜は意外そうな顔をせず、ただ静かに彩葉を見つめていた。
「嫌いになれたら楽なのにって思ったことは、何回もあるよ。嫌いだったら、何を言われても気にしなくて済むし、期待することもなくなるでしょ?」
そう言いながら、彩葉は膝の上で自分の手を重ねた。
今では母と離れて暮らしているし、何かをするたびに意見を求める必要もない。それでも、失敗した時には叱られた時の言葉を思い出し、何かを成し遂げれば、もう気にしていないつもりの心のどこかで認めてもらえることを期待してしまう。
「でも、実際にはそう簡単じゃなくてさ。嫌だったことは今でも覚えてるのに、よかったと思うこともあるんだよね」
彩葉はそこで困ったように笑った。
「だから、嫌いにもなれないんだと思う。好きかって聞かれたら、それもよく分かんないんだけど」
言葉にしてみても、答えが出たような気はしなかった。母から受けた教育をすべて否定したいわけではないが、あの頃に感じていた苦しさまで、成長するために必要だったのだと片づけてしまいたくはなかった。輝夜はしばらく彩葉を見つめていたが、やがて少しだけ眉を寄せた。
「それって、嫌いになれない方がつらくない?」
予想していなかった言葉に、彩葉は目を瞬いた。
「え?」
「だって、嫌いなら嫌いで終われるかもしれないけど、そうじゃないんでしょう? 嫌だったことはなくならないのに、好きだったことまで捨てられないなら、ずっと両方残るじゃない」
輝夜は慰めようとしているのではなく、彩葉が抱えている感情を、自分なりに理解しようとしているようだった。
「それなのに、どっちか決めなきゃいけないみたいに考えるのって、余計につらくない?」
彩葉はすぐには答えず、今まで何度も考えてきたことを思い返した。母を好きだと言えば、嫌だったことまで受け入れなければならない気がしていた。反対に嫌いだと言ってしまえば、教えてもらったことや、一緒に過ごしてきた時間のすべてを否定するようで、それもできなかった。けれど、輝夜にそう言われてみると、そもそも一つの答えを出そうとする必要があったのかさえ分からなくなった。
「……そうかもね」
彩葉が小さく息を吐くと、輝夜は納得したように頷いた。
「じゃあ、今は分かんないままでいいんじゃない?」
「え?」
「無理に好きとか嫌いとか決めなくてもいいじゃない。彩葉がどう思ってるのか、まだ分からないんでしょう?」
あまりにもあっさりと言われて彩葉は思わず笑ってしまった。答えを出せないこと自体が、自分の中ではずっと解決しなければならない問題のように感じられていたからだ。
「……輝夜、たまにすごいこと言うよね」
「たまにって何よ。いつもすごいでしょう?」
「はいはい、そうだね」
「もう、ちゃんと聞いてる?」
輝夜が不満そうに身を乗り出してきたため彩葉は笑いながら頷いた。難しいことを考えていたはずなのに、ほんの少し前まで胸の奥にあった重さが和らいでいることに気づき、改めて隣にいる輝夜の顔を見た。
しばらくすると、輝夜は何かを思い出したように視線を落とし、抱えていた膝へ腕を回した。
「……ねえ、彩葉」
「今度は何?」
「前に彩葉が熱出した時のこと、覚えてる?」
「ああ、うん。覚えてるよ」
高熱を出して寝込んだ時、慣れないながらも輝夜が看病してくれたことは、今でもよく覚えている。身体が辛く、気持ちにも余裕がなかったせいで、あの時の自分は言葉を素直に受け取れなかった部分もあるが、その気持ちが嬉しくなかったわけではない。
「あの時、私、彩葉に勝手なこと言ったでしょう」
輝夜はそこで一度口を閉じ、言葉を選ぶように少し間を置いた。
「彩葉のこと、ちゃんと分かってないのに。自分が思ったことばっかり言って、彩葉がどう感じてるのか考えてなかったなって」
彩葉は何も言わず輝夜の続きを待った。以前の輝夜なら、思ったことをそのまま口にして終わっていたかもしれない。けれど、今の彼女はあの時の出来事を振り返り、彩葉が何を感じていたのかまで考えようとしている。
「あれ、ずっと気になってたの」
輝夜はようやく顔を上げ、少し不安そうに彩葉を見た。
「彩葉、本当は私に『何も分からないくせに』って言いたかったんじゃない?」
その問いを聞いた瞬間、彩葉は何と答えればいいのか迷った。確かに、あの時は輝夜の言葉を素直に受け入れられなかった。自分でも整理できていない感情へ踏み込まれ、どうしてそんな簡単に言えるのかと思ったこともある。けれど、それは輝夜が嫌だったからではなかった。自分の気持ちを理解してもらえないことが苦しかったのと同時に、分かってもらえないからといって相手を遠ざけることも、彩葉にはしたくなかった。
「……違うよ」
彩葉が答えると、輝夜は僅かに目を見開いた。
「言いたかったんじゃない。むしろ、言いたくなかった」
「どうして?」
「私がずっと嫌だったから」
彩葉はそこで一度言葉を切り、昔の自分が何を望んでいたのかを思い返した。
「自分の気持ちを分かってもらえないのも嫌だったし、分かってもらえないからって、もう話さなくていいやって諦めるのも嫌だったんだと思う」
輝夜と自分では、育ってきた環境も見てきたものも違う。何も言わなくても全部理解してもらえるわけではなく、彩葉自身だって、輝夜が考えていることをすべて分かっているとは思っていなかった。
「輝夜に全部分かってもらえるとは思ってないよ。でも、分からないなら話せばいいじゃん。私も輝夜のこと、全部分かってるわけじゃないんだからさ」
彩葉は少し照れくさくなり、視線を逸らしてから続きを口にした。
「だから、『輝夜には分かんない』って言って終わらせたくなかっただけ」
輝夜は何も返さず、しばらく彩葉の横顔を見つめていた。普段ならすぐに何か言い返してくるはずなのに、今は急いで答えようとはせず、聞いた言葉を一つずつ自分の中へ落とし込んでいるようだった。やがて膝を抱えていた腕を解くと、少しだけ彩葉との距離を縮めてくる。
「……ごめんなさい」
「何が?」
「あの時のこと。私、彩葉がそんなふうに考えてたなんて知らなかったから」
彩葉は一瞬だけ驚いたものの、今さら責める気持ちは残っていなかった。むしろ、あれから時間が経った今も輝夜が気にしていたことの方が意外だった。
「もういいよ。私も、あの時は余裕なかったし」
「でも……」
「ほんとに大丈夫だから。輝夜が看病してくれて嬉しかったのは本当だよ」
そう言うと、輝夜はようやく少しだけ表情を緩めた。
「……ほんとに?」
「ほんとに。あんなに頑張ってくれたんだから、感謝してるよ」
「だったら、もっと早く言ってくれればよかったのに」
「ええ……今それ言う?」
彩葉が呆れた声を出すと、輝夜は小さく笑った。さっきまで真剣な話をしていたはずなのに、気づけば普段どおりのやり取りへ戻っていることが何だかおかしかった。
それでも輝夜は、すぐに元の位置へ戻ろうとはしなかった。少し迷ったあとで彩葉の肩へそっと身体を預け、そこに落ち着ける場所を見つけたように力を抜く。彩葉も何も言わず、傾いてきた重みをそのまま受け止めた。しばらく二人とも黙っていると、肩にもたれた輝夜が小さく口を開いた。
「私、もっと彩葉のこと知りたい」
彩葉はその言葉を聞いて、僅かに目を細めた。今まで一緒に過ごしてきた時間は決して短くない。それでも、自分が輝夜について知らないことはいくらでもあるし、輝夜も彩葉の過去をすべて知っているわけではない。全部を理解してもらう必要はないと思っている。けれど、知らなかったことを少しずつ知り、分からなかったことを話し合いながら埋めていけるのなら、それはきっと悪いことではない。
「じゃあ、これから知ればいいじゃん」
輝夜が肩から顔を上げ、彩葉を見る。
「これから?」
「うん。今すぐ全部話さなくたっていいでしょ。これから一緒にいるんだから、少しずつ知ってけばいいよ」
彩葉が笑うと、輝夜もようやくいつものような笑みを浮かべた。
「そうするわ。彩葉の知らないこと、まだいっぱいあるもの」
「私も輝夜の知らないこと、いっぱいあるけどね」
「じゃあ、お互い様ね!」
輝夜は満足そうに頷き、再び彩葉の肩へ身体を預けた。窓の外では、遠くを走る車の音が微かに響いている。明日が近づいていることを思い出さなければ、このまま何でもない夜が続いていくようにも感じられた。けれど、肩にもたれていた輝夜は、ふと何かを思い出したように動きを止めた。
それまで緩んでいた表情が少しずつ曇り、窓の外へ目を向けたまま、何かを言おうとして唇を開く。しかし、すぐには言葉にならず、一度は飲み込んだものを確かめるように視線を落とした。彩葉がどうしたのか尋ねようとした、その時だった。
「……明日なんて、永遠に来なければいいのに」
呟きは普段よりずっと小さく、隣にいなければ聞き逃していたかもしれなかった。
彩葉はすぐには返事をしなかった。永琳が来るのなら返り討ちにすると、輝夜なら笑って言いそうだった。実際、これまでの準備でも不安を口にすることはほとんどなく、月へ戻るつもりなどないと何度も言い切ってきた。
それでも、怖くないはずはなかったのだ。
明日になれば、月から永琳たちがやって来る。どれだけ準備を重ねても勝てる保証はなく、もし敗れれば、輝夜は今までの生活を手放さなければならなくなるかもしれなかった。輝夜も自分の言葉に驚いたのか、彩葉の顔を見ることなく膝へ視線を落とした。
「……怖い?」
彩葉が静かに尋ねると、輝夜はすぐには答えなかった。膝の上で重ねた指先をしばらく見つめ、それから小さく頷く。普段のように強がったり、何でもないことだと笑い飛ばしたりすることもなく、彩葉の問いをそのまま受け止めていた。
「怖くないって言ったら、嘘になるわ」
輝夜はそこで一度言葉を切り、胸の奥にあるものを少しずつ確かめるように続けた。
「ここにいたいって決めたし、月へ帰るつもりもない。でも、私がそう思ってるだけで、全部そのとおりになるわけじゃないでしょう?」
彩葉も、その言葉を否定することはできなかった。永琳だけでなく依姫や玉兎たちまで月から来ると分かっているからこそ、輝夜は毎日ヤチヨのもとへ通い、彩葉たちも何度も作戦を確認してきた。それでも、準備をすれば必ず勝てるわけではないことを、二人とも理解していた。
「ずっと、今のままでいいのに……」
輝夜は膝へ落としていた視線を上げないまま、押し込めていたものを少しずつ吐き出すように続けた。
「彩葉といて、芦花と真実がいて、みんなでゲームして、またどこかへ遊びに行って……それでいいの。別に、もっとすごいことがしたいわけじゃないのよ」
彩葉は黙って耳を傾けた。
朝になれば目を覚まし、彩葉と食事をして、ツクヨミで仲間たちと遊ぶ。時には喧嘩をすることもあるだろうし、思いどおりにいかないこともある。それでも、次の日にはまた顔を合わせ、昨日の続きを話せるような生活があれば、それで十分なのだろう。
「なのに、明日になったら、それを全部奪いに来る人たちが来るんでしょう?」
最後の方は声が少し震えていた。
輝夜は永琳たちを恐れているというより、今の生活を失うことを恐れていた。月へ行きたくないという気持ちは最初から変わっておらず、むしろここで過ごす日々が大切になったからこそ、手放さなければならない可能性を考えるのが怖いのだ。彩葉はそんな横顔を見つめながら、何か安心させられる言葉はないかと考えた。
絶対に勝てる。何があっても守ってみせる。
そう言い切れたなら、輝夜も少しは安心できるのかもしれない。けれど、相手の実力を正確に知っているわけではない以上、根拠のない約束だけで安心させることが、本当に彼女のためになるとも思えなかった。彩葉は少しだけ身体を寄せると、輝夜の肩へ自分の肩を触れさせた。
「じゃあ、終わらせなきゃいいじゃん」
「……え?」
輝夜が顔を上げる。
「明日が来たって、今までのことが全部終わるって決まったわけじゃないでしょ?」
彩葉はその目を見ながら、できるだけ普段どおりの声で続けた。
「私たち、明日のためにずっと準備してきたんだし。輝夜がここにいたいって決めたなら、そのままいられるようにするために戦うんでしょ?」
「……うん」
「だったら、まだ負けてもないのに、終わることばっか考えなくていいよ」
彩葉自身、怖くないわけではなかった。明日になって永琳を目の前にした時、自分がどこまで戦えるのかも分からない。それでも、まだ何も始まっていないうちから、輝夜を月へ連れていかれる結末を受け入れるつもりはなかった。輝夜もそのことを感じ取ったのか、しばらく彩葉を見つめたあと、小さく息を吐いた。
「……そうね」
「うん。だからさ」
彩葉は少しだけ笑った。
「明日が来なくてもいいなんて言わないでよ。せっかくここまで来たんだから、明日も、その次の日も、一緒にいられるように頑張ろう」
輝夜はすぐには答えなかった。
彩葉が絶対に勝てると信じているわけではないことも、怖いと思っていないわけではないことも、おそらく伝わっている。それでも、自分と同じように先の時間を望み、そのために戦おうとしてくれていることだけは分かったのだろう。
やがて輝夜は、抱えていた膝から腕を解き、彩葉へ向かって身体を寄せた。
「……彩葉って、ほんとに変なところで頑固よね」
「それ、輝夜に言われたくないんだけど」
「私の方が素直よ」
「どこが?」
彩葉が呆れたように返すと、輝夜はようやく普段のように笑った。その笑顔を見て彩葉も少しだけ安心したが、明日への不安が消えたわけではないことは分かっていた。それでも、何も言わずに抱え込んでいた気持ちを、少しは軽くできたのかもしれなかった。
輝夜はそのまま彩葉の肩へ頭を預け、目を閉じた。
彩葉も無理に話しかけず、隣から伝わってくる温もりを感じながら、静かな部屋の中で時間を過ごした。窓の外にはいつもと変わらない夜の街が広がり、遠くを走る車の音が、時折二人の沈黙へ入り込んでくる。
明日になれば、永琳たちがやって来る。
それでも、今日まで一緒に過ごしてきた時間も、これから知っていきたいと思ったことも、まだ何一つ終わっていなかった。彩葉は隣で目を閉じている輝夜を見つめ、そっと肩の位置を直した。その動きに気づいた輝夜が少しだけ顔を上げたものの、彩葉が何も言わずに笑いかけると、安心したようにもう一度身体を預けてくる。
窓の外で夜は静かに更けていった。
明日への不安を完全に消すことはできなかったが、それでも二人は、いつもと変わらない部屋の中で、もうしばらく肩を寄せたまま過ごしていた。