目を覚ました時、現実の窓から差し込んでいたのは、いつもと変わらない朝の光だった。
カーテンの隙間から伸びた陽射しが床を明るく照らし、窓の向こうからは車の走る音や、どこかへ出かけていく人々の声が聞こえてくる。昨夜、輝夜が「明日なんて、永遠に来なければいいのに」と零したところで、現実の時間までその願いを聞き入れてくれるはずもなく、朝は何事もなかったように訪れていた。
彩葉が身体を起こす頃には輝夜もすでに目を覚ましていて、昨夜あんな言葉を口にしたことなどなかったように、鏡の前で長い髪を整えていた。普段なら朝から何かしら話しかけてくる輝夜が今日は妙に静かで、彩葉も無理に話題を探そうとはしなかった。
今日、永琳が迎えに来るという事実は何日も前から分かっていた。それでも、それが遠い予定ではなく目の前の現実になっただけで、同じ言葉まで急に重く感じられる。もっとも、朝からずっと身構えていては夜まで持たないことくらい二人とも分かっていたため、朝食を済ませてからもしばらくは異変の話を避け、普段と大きく変わらない時間を過ごしていた。輝夜は途中からいつもの調子を取り戻し、朝食の味付けに感想を言ったり、ツクヨミで見つけた店の話をしたりしていた。彩葉もそれに応じながら、できるだけ今夜のことを考えないようにしていたが、会話が途切れるたびに永琳の姿が頭をよぎってしまう。
輝夜を月へ連れていかせないため、仲間たちと何度も作戦を確認してきた。それでも、ヤチヨから聞かされた永琳と依姫の実力を思い返すほど、本当に自分たちで足止めできるのかという不安は消えなかった。だからといって、今さら何かを変えられるわけでもない。隣で笑っている輝夜を見ていると、残された時間まで不安で埋め尽くすことの方が彩葉にはもったいなく感じられた。
現実の時計が昼を回った頃、彩葉は机の上に置いていたスマコンを手に取った。そろそろツクヨミへ向かおうと輝夜へ声を掛けると、彼女は待っていたように立ち上がり、机の横に置いていた蓬莱の玉の枝を持ち上げた。
七色の玉が飾られた枝を右手へ握り直し、そのままログインしようとする輝夜を見て、彩葉は思わず手を止めた。
「それ、持ったまま入るの?」
「そうよ。ヤチヨが、蓬莱の玉の枝を持ったままログインすれば、ツクヨミにも持っていけるって言ってたの」
「……ほんとに?」
ツクヨミで使用する武器や衣装は、あちらの世界に用意されたデータとして存在している。少なくとも彩葉はそう理解していたため、現実にある物を手に持っているだけで仮想世界へ持ち込めると言われても、すぐには納得できなかった。
「ツクヨミって仮想世界だよ? 現実にあるものを持ったまま入れるわけなくない?」
「私に言われても知らないわよ。ヤチヨがそう言ってたんだもの」
輝夜は枝を軽く持ち上げ、彩葉へ見せるように揺らした。
「それに、持ってきてって言われたんだから、試してみればいいじゃない。できなかったら、その時に考えればいいでしょ?」
「まあ……そうだけど」
ヤチヨが意味もなくそんな指示を出すとは思えず、彩葉もそれ以上は問い詰めなかった。スマコンを起動して輝夜とともにログインすると、視界を覆った白い光が薄れ、見慣れたツクヨミの街並みが戻ってくる。彩葉は周囲を確認するより先に隣へ顔を向け、その右手にあるものを見て思わず目を見開いた。
「……えっ?」
輝夜の手には、現実で握っていたものと同じ蓬莱の玉の枝があった。枝の形も、七色の玉が並ぶ位置も、現実で見た時と何一つ変わらない。街灯の光を受けて玉が淡く輝く様子まで同じで、彩葉は目の前にあるものを確かめるように、しばらく枝から視線を外せなかった。
「……ほんとに持ってこれてる」
「だから言ったでしょう?」
輝夜は得意げに胸を張ったが、彩葉にとっては成功したことで疑問が消えるどころか、かえって分からないことが増えてしまった。現実の物体そのものが移動したのか、それとも同じ姿の物がツクヨミに生成されたのか、今の自分には判断する材料さえない。もっとも、ヤチヨが関わっている以上、普通のツクヨミの仕組みだけで考えても答えは出ないのかもしれない。彩葉はその疑問を頭の隅へ残したまま改めて周囲へ意識を向けた。
そこで、もう一つの異常に気づいた。
「……あれ?」
頭上には、満天の星空が浮かんでいた。
現実では昼を過ぎたばかりのはずなのに、ツクヨミの空は深い夜の色に染まっている。建物の窓から漏れる明かりや街灯が道を照らし、普段なら昼の時間帯に見られるはずの陽射しはどこにも見当たらなかった。スマコンを確認しても表示される時刻は現実と同じ昼を示しており、時間の表示が狂っているわけではない。どうやらツクヨミの昼夜だけが、通常の流れから切り離されているらしい。
「まだ夜なのね」
隣で空を見上げた輝夜が、不思議そうに呟いた。
「うん。時計は普通に昼なんだけどね」
「ヤチヨがやったのかしら?」
「たぶん。でも、こんなことまでできるんだ……」
過去の異変でも、ツクヨミの景色が大きく変わったことはあった。しかし、街全体が夜のまま止まっている光景には、彩葉も奇妙な感覚を覚えた。輝夜はしばらく月を見上げていたが、やがて蓬莱の玉の枝を握り直すと彩葉へ顔を向けた。
「まあ、夜の方が今日らしくていいと思うわ」
「そうかもね。でも、これじゃ時間が分からなくなりそう」
そのまま待ち合わせ場所へ向かうと、すでに到着していた芦花と真実が、行き交うユーザーたちの向こうから姿を見せた。彩葉たちに気づいた真実が大きく手を振り、その隣で芦花も片手を上げて迎えてくれる。
「彩葉、輝夜! こっちこっち!」
「二人とも早かったね」
「そっちもじゃん。もっと後になるかと思ってた」
芦花の言葉に彩葉は笑いながら応じ、輝夜も二人へ挨拶を返した。いつもと変わらない顔ぶれが揃ったことで少し安心したものの、真実が夜空を見上げたところで、自然と話題は今のツクヨミへ移っていった。
「それにしても、ずっと夜なんだね。ログインした時、ちょっとびっくりしちゃった」
「私たちも。最初、時間を間違えたのかと思ったよ」
彩葉が応じると、輝夜は街を歩くユーザーたちへ視線を向けた。空が変わらないこと自体は受け入れたようだったが周囲の反応が気になるらしい。
「ねえ、これって大丈夫なの?」
「何が?」
「だって、夜が明けないのよ。みんな変だと思わない?」
彩葉もつられて周囲を見回すと、確かに空を見上げているユーザーは多かった。しかし、不安そうに原因を探している者ばかりではなく、むしろ普段とは違う夜景を背景に写真を撮ったり、今夜のイベントについて楽しそうに話し合ったりしている姿が目立っていた。
「ああ、たぶん大丈夫だと思うよ。前の異変でも、似たようなことがあったから」
彩葉が答えると、会話を聞いていた芦花も思い出したように頷いた。
「紅魔郷の時なんて、街中ずっと紅い霧だったじゃん。最初はびっくりしたけど、みんなすぐイベントの演出だって受け入れてたし」
「妖々夢の時もそうだったよね。ずっと雪が降ってて、季節までおかしくなってたでしょ?」
真実も話へ加わり、過去の異変を思い返すように夜空を見上げた。
「今回も『夜が明けない異変』だとしたら、みんなイベントの一部だと思ってるんじゃないかな」
二人の説明を聞いた輝夜は、改めて周囲のユーザーたちへ目を向けた。通りを歩く者たちの表情は明るく、終わらない夜について楽しそうに語っている声も聞こえてくる。異変のたびに世界そのものが変化する経験をしてきたユーザーにとっては、今回の現象も大型イベントのために用意された演出なのだろう。
「……なるほどね。みんな慣れてるのね」
「まあ、ツクヨミだしね」
彩葉が笑って答えると、輝夜もようやく納得したように頷いた。けれど、周囲のユーザーたちが楽しんでいるこの夜が、輝夜を月へ連れていかせないためにヤチヨが用意したものだということを思い出すと、彩葉には同じ景色が少し違って見えた。ほとんどのユーザーにとって、今日は大型イベントを楽しむための特別な一日でしかない。しかし、彩葉たちにとっては、その結果によって明日からの生活さえ変わってしまうかもしれない日だった。
そんなことを考えながら四人で話していると、人混みの向こうから聞き慣れた声が掛かった。
「おっ、全員揃ってるね」
振り返ると、白兎の姿をしたてゐがこちらへ近づいてきていた。普段と変わらない気軽な様子で挨拶をすると、最初に輝夜の手にある蓬莱の玉の枝へ目を向ける。
「ちゃんと持ってきたみたいだね」
「もちろんよ。ヤチヨに言われたんだから」
「ならよし。姫さんも喜ぶと思うよ」
てゐは満足そうに頷いたが、彩葉にはそのやり取りが気に掛かった。現実から枝を持ち込めたことを当然のように受け入れている様子からして、何か事情を知っているのだろう。
「ねえ、てゐ。これってどういう仕組みなの?」
「ん? 何が?」
「蓬莱の玉の枝だよ。現実の物をツクヨミに持ってこられるなんて、普通はできないでしょ?」
てゐは枝と彩葉を見比べたあと、何かを考えるように耳を揺らした。しかし、すぐにいつもの調子へ戻ると、意味ありげな笑みを浮かべる。
「まあ、そこは姫さんの秘密ってことで」
「またそれ……」
「ちゃんと持ってこられたんだから、今はそれでいいじゃん。どうしても気になるなら、全部終わってから姫さんに聞いてみなよ」
そう言われてしまえば、彩葉も今ここで追及するわけにはいかなかった。今日のために必要だから持ってくるよう指示されたのなら、少なくとも無意味なことではないのだろう。てゐもそれ以上は説明せず、四人の顔を順番に確認してから、本題へ話を移した。
「それじゃ、今日の予定を確認するよ。夜になったら戦場の入口で集合して、最後の確認をするからね」
「戦場の確認は、みんなでやるの?」
「うん。Black onyXにも伝えてあるし、その時に全員の役割をもう一度確認するつもり」
彩葉が頷くと、てゐはスマコンを示しながら付け加えた。
「集合時間は現実の時計で確認してね。今日は空を見てても時間が分からないから」
「それまでは何するの?」
真実の問いに、てゐはあっさりと答えた。
「自由時間。夜の本番に備えて、好きに過ごしてていいよ」
意外なほど普段どおりの指示に、彩葉は少しだけ拍子抜けした。今日が決戦の日である以上、もっと慌ただしい時間になると思っていたが、作戦そのものはすでに何度も確認している。当日になって同じ説明を繰り返したところで、新しい情報が増えるわけではないのだろう。
「それじゃ、私はまだやることがあるから。集合時間だけは忘れないでよ」
てゐはそう言い残すと、ほかの関係者へ連絡するため再び人混みの中へ消えていった。
残された四人はしばらく顔を見合わせていたが、せっかく自由時間があるのなら普段どおりに過ごそうということになり、街の店を覗きながら歩き始めた。
いつも利用している店の前を通ったり、気になっていた商品を眺めたりするうちに、会話の内容も自然と普段のものへ戻っていく。輝夜は興味を引かれたものを見つけるたびに足を止め、彩葉もその後を追いながら、芦花や真実と取り留めのない話を続けた。
それでも、現実の時計が夕方へ近づくにつれて、彩葉は時間を確かめる回数が増えていた。ツクヨミの空は相変わらず夜のままで、月も星も変わらない。周囲のユーザーたちが楽しそうにしている景色も同じなのに、スマコンへ表示される時刻だけが少しずつ進み、今夜の勝負が近づいていることを知らせていた。
輝夜も同じことを感じているのか、途中からは普段ほど店の品物に目を向けなくなった。彩葉が気づいて声を掛けると、彼女は少し驚いたように顔を上げ、それから何でもないというように笑った。
「大丈夫よ。ちょっと考え事してただけ」
「……そっか」
彩葉はそれ以上尋ねなかった。輝夜が今日までヤチヨのもとへ通い、何かを準備してきたことは知っている。その努力を無駄にしないためにも、自分たちは永琳を止めなければならなかった。
◇ ◇ ◇
集合時刻が近づいたところで、四人は専用戦場の入口へ向かった。街の賑わいから離れるにつれて行き交うユーザーの姿は少なくなり、周囲の雰囲気も変わっていく。普段ならイベントの参加者で賑わうはずの入口付近には、まだ一般ユーザーの姿はなく、関係者だけが入れる状態になっていた。その前には、すでに帝、雷、乃依のBlack onyXが到着している。
「おっ、来たな」
彩葉たちに気づいた帝が片手を上げ、その左右にいた雷と乃依もこちらへ顔を向けた。いつものように余裕を感じさせる帝の態度を見て、彩葉は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「帝様!」
真実が嬉しそうに声を上げると、帝は彼女へ向かって軽く手を振った。それだけで真実が照れたように表情を緩めたため、芦花は呆れたように笑いながら、彩葉へ顔を向けた。
「そっちも準備はできてる?」
「うん。あとは本番を待つだけかな」
彩葉が答えると、今度は帝が口を開いた。
「こっちも同じだ。今から慌てたところで、どうにかなるもんでもないしな」
帝は軽く笑ったものの、その視線はすぐに戦場の入口へ向けられた。冗談めかした口調とは裏腹に、これから戦う相手の強さを軽く見ている様子はなく、雷も乃依も余計なことを口にせず、てゐの到着を待っている。少し遅れて姿を見せたてゐは、その場にいる顔ぶれを順番に確認すると、人数が揃っていることに満足したように頷いた。
「よし、全員いるね。それじゃ、戦場に入ろうか」
その言葉を聞いたところで、彩葉は一つ気になることに気づいた。
「ねえ、ヤチヨは?」
「ああ、姫さんは来られないよ」
「戦場の確認にも?」
てゐは頷くと、頭上に広がる夜空を見上げた。
「今はあの夜を維持してるし、戦場の仕掛けも動かしてるからね。ここへ来るために持ち場を離れるわけにはいかないんだ」
彩葉はつられるように夜空を見上げた。
ツクヨミ全体の夜が明けないという異常も、今夜のために用意された戦場も、その裏ではヤチヨが力を使い続けている。本人が直接戦場へ立つ代わりに、異変そのものを支える役割を担っているのだと考えると、今までの作戦会議でヤチヨが前線へ加わらないと言っていた理由も理解できた。
「姫さんは姫さんの仕事をしてるからさ。こっちはこっちでやることをやろう」
てゐに促され、一同は専用戦場の入口を抜けた。街並みが途切れた先には、月明かりに照らされた広大なフィールドが広がっていた。
普段のKASSENで使用される大規模な戦場を、さらに広げたような造りになっている。見渡す限りの平地へ低い岩場や草地、緩やかな起伏が点在し、遠くには地形の変化によってできた高低差も見えるものの、SENGOKUのように進路を限定するレーンは設けられていない。多数の参加者が同時に戦うことを前提にした広さがあり、今は人の姿も少ないため、月明かりの下へ静かな草地がどこまでも続いているように見えた。
さらに、戦場の両端には周囲の草地とは異なる広く開けた区画が設けられており、入口に近い側には地上側の拠点、その反対側には月側の拠点が配置されている。二つの拠点の間には広大な戦闘区域が横たわり、地形に沿って幾つもの進路を取れるようになっていた。
「うわ、広……」
真実が思わず声を漏らし、芦花も周囲を見渡しながら頷いた。
「話には聞いてたけど、実際に入ると全然違うね」
「うん。ここでみんな戦うんだ……」
彩葉も思わず呟いた。
事前に映像で確認していた時には、これほどの広さを実感できなかった。実際に歩いてみると、少し離れた岩場までの距離さえ想像していたより長く、向こうで戦闘が始まった場合、すぐに駆けつけることが難しい場所もありそうだった。
まして本番では、ここへ一般参加者と玉兎が入り乱れることになる。広い戦場を利用して敵の進軍を抑えながら、永琳や依姫が輝夜のいる場所へ到達することを防がなければならない。
「とりあえず、全員こっちに集まって」
てゐは少し先の開けた場所で足を止めると、一同へ向き直った。
「今夜の役割を、最後にもう一度確認しておくよ。作戦自体は変わってないけど、実際の戦場を見たうえで頭に入れておいてほしいからね」
全員が頷いたことを確かめ、てゐはまず入口に近い側の拠点を指差した。
「最初に、この戦場の造りから説明しておこうか。さっき見えたと思うけど、ここには地上側と月側、それぞれの拠点が用意されてるんだ。こっちが私たちの拠点で、反対側にあるのが月側の拠点だよ」
彩葉はてゐが示した方向へ顔を向けた。地上側の拠点は戦場の入口からほど近い場所にあり、そこを起点として広大なフィールドが月側の拠点まで続いている。双方が拠点を持っているとはいえ、互いに決められた進路を進むSENGOKUとは異なり、今回の戦闘では戦況に応じて自由に移動できるようになっていた。
「この拠点は、ただの目印ってわけじゃないよ。戦闘が始まったあと、態勢を立て直す時にも使ってもらうことになるんだ」
「態勢を立て直す?」
芦花が尋ねると、てゐは頷いた。
「そう。戦ってるうちに仲間とはぐれたり、前線を維持するのが難しくなったりすることもあるでしょ? そういう時に一度戻って、装備を確認したり、仲間と合流して隊列を組み直したりする場所なんだよ」
てゐは拠点の周囲へ視線を向け、さらに説明を続けた。
「向こうも同じだよ。月側の拠点は玉兎たちが態勢を整えたり、戦況に合わせて部隊を組み直したりするために使われる。だから、敵が一度下がったからって、そこで戦いが終わるわけじゃないんだ」
彩葉は遠くに見える月側の拠点へ目を向けた。
広大な戦場で戦い続ける以上、どちらの陣営も最初の配置を最後まで維持できるとは限らない。玉兎が一度後退しても、拠点で態勢を整えて再び攻め込んでくる可能性があり、地上側も同じように仲間との連携を取り直す必要があるのだろう。
「ただし、拠点へ戻れば何度でもやり直せるってわけじゃないからね」
てゐはそこで少しだけ声を引き締めた。
「今回の異変は、一度HPが零になったら再参加できない。拠点へ戻れるのは、まだ戦える状態で後退できた人だけだよ。そこは間違えないようにしてね」
「なるほど。生き残って戻れれば、また戦線に復帰できるってことか」
帝が確認すると、てゐは満足そうに頷いた。
「そういうこと。無理してその場で倒されるくらいなら、一度下がって立て直した方がいい場合もあるからね。ただ、後退するタイミングはちゃんと考えてもらわないと困るけど」
てゐはそこで地上側の拠点へ視線を戻した。
「それで、輝夜にはこの拠点にいてもらうよ」
「私が?」
輝夜が聞き返すと、てゐは頷き、拠点の中心付近へ目を向けた。
「そう。輝夜はそこで、姫さんと準備してきた術を構築してもらうんだ。すぐに完成するものじゃないから、ほかのみんなには、その間ずっと輝夜を守ってもらうことになる」
その説明を聞き、彩葉は改めて輝夜の顔を見た。
何日もヤチヨのもとへ通い続けていたのは、この術を完成させるためだったらしい。具体的に何をするのかまでは教えられていないものの、少なくとも戦闘が始まってすぐに使えるものではなく、拠点で準備を進める必要があることは分かった。
「つまり、輝夜が術を完成させるまで、拠点を守り続ければいいんだね」
「そういうこと。ただ、ずっと拠点の前で待ってればいいってわけじゃないよ」
てゐはそう答えると、二つの拠点の間に広がる戦闘区域へ腕を伸ばした。
「月側だって、こっちが何か準備してるのを黙って見てるとは限らないからね。玉兎に押し込まれて拠点まで攻め込まれたら、輝夜が落ち着いて術を構築することもできなくなる。だから、その前に戦線を維持してもらわないといけないんだ」
「でも、拠点には私たちも戻ってくるんでしょ?」
真実が尋ねると、てゐは頷いた。
「もちろん。ただし、輝夜が術を構築する場所と、みんなが態勢を立て直す場所は分けて使うことになるよ。後退してきた人たちが拠点全体に散らばったら、輝夜の邪魔にもなりかねないからね」
てゐは拠点の手前側を指差し、戦場から戻ってきた仲間たちが集合する場所を示した。
「基本的には、こっちで人数や装備を確認して、もう一度前線へ戻れるようにするんだ。輝夜が術を構築している間は、必要以上にそっちへ近づかないようにしてほしい」
彩葉はてゐの説明を聞きながら、拠点の内部まで戦場と同じように使うわけではないことを理解した。
戦っている仲間が戻ってきた時に態勢を整えられる場所は必要だが、そこで輝夜の準備を妨げてしまっては本末転倒だった。まして敵に追われたまま拠点へ逃げ込めば、永琳や依姫を輝夜のもとへ案内するような結果になりかねない。
「だから、後退する時にも気をつけてね。敵を引き連れたまま拠点まで戻ってきたら、かえって危険になることもあるからさ」
てゐはそう付け加えると、改めて全員へ顔を向けた。
「じゃあ、ここからはそれぞれの役割を確認しようか」
てゐは周囲のフィールドを示しながら説明を始めた。
参加者たちは玉兎を迎え撃ち、数で押し込まれて地上側の拠点へ侵入されないよう戦線を維持する。その間、彩葉、芦花、真実は永琳を担当し、帝、雷、乃依のBlack onyXは依姫を止める。事前の作戦会議でも何度も確認してきた役割だったが、実際のフィールドを前にすると、それぞれが担うものの重さが改めて感じられた。
「今回、一番大事なのは、永琳と依姫を輝夜のところへ行かせないこと」
てゐはそこで説明を区切り、彩葉たちとBlack onyXへ順番に視線を向けた。
「二人とも倒せるなら倒していい。でも、それが最優先じゃない。輝夜が術を完成させるまで、永琳も依姫も地上側の拠点へたどり着かせない。それが私たちの役目だよ」
彩葉はその言葉を聞き、地上側の拠点へ視線を向けた。永琳と依姫を相手にするのは、単に二人の戦闘能力が高いからではない。どちらか一人でも輝夜のもとへ到達すれば、術の構築を妨害される可能性がある。まして輝夜は術を完成させることに集中しなければならないのだから、接近された時点で作戦そのものが崩れてしまう恐れもあった。
「永琳と依姫が別々に動いてきても、それぞれ止めなきゃいけないってことだね」
彩葉が確認すると、てゐは頷いた。
「そういうこと。二人がどこで何をしていようと、輝夜のもとへ近づかせないことが最優先なんだ。もちろん倒せるならそれが一番だけど、無理に倒そうとして突破されたら意味がないからね」
てゐはそこで地上側の拠点から続く進路を示した。
「だから、相手を追いかける時も注意してほしい。永琳や依姫が一度下がったからって、必ずしも深追いする必要はないんだよ。こっちの守りが薄くなって、その隙に別の方向から輝夜へ近づかれたら困るでしょ?」
彩葉はその説明に頷いた。目の前の敵を倒すことばかり考えていれば、かえって本来の目的を見失ってしまうかもしれない。必要なのは、相手を撃破することではなく、輝夜が術を完成させるまでの時間を守ることだった。
「つまり、永琳がどんな動きをしても、輝夜のところへ行かせなければいいんだね」
「うん。彩葉たちには永琳を担当してもらう。あいつが拠点へ向かおうとしたら追いかけて止めるし、別の方向へ動いた時も、そこから何を狙ってくるのか考えて対応してほしい」
「分かった。私たちで何とかする」
彩葉が答えると、芦花と真実も同意するように頷いた。
永琳がどれほど強くても、ここで自分たちが役割を果たせなければ、輝夜の術を完成させる機会そのものが失われてしまう。逆に、たとえ永琳を倒せなくても、術の完成まで拠点へ近づかせなければ、自分たちの役割は果たせるのだ。
てゐは続いてBlack onyXへ向き直った。
「そっちも同じだよ。依姫を輝夜のところへ行かせないで。あいつが拠点まで来てしまったら、術の構築を続けるどころじゃなくなるからね」
「任せとけ。俺たちで止めりゃいいんだろ?」
帝は軽く笑って答えたものの、てゐが続けて口にした言葉には、さすがに表情を引き締めた。
「ヤチヨから聞いてると思うけど、依姫は一人でもこっちを全滅させられるくらい強い。三人でも簡単にどうにかなる相手じゃないから、そのつもりでいてよ」
「分かってる。最初から楽な相手だとは思ってねえよ」
帝が答えると、雷も短く頷いた。
乃依は二人のやり取りを聞きながら、これから自分たちが担当する相手の名前を確かめるように、てゐへ目を向けていた。依姫をBlack onyXへ任せる理由は、単に戦い方の相性がいいからではない。地上側でも特に戦闘能力の高い三人を揃えなければ、足止めさえ難しいと考えられているためだった。
それは彩葉たちにとっても同じことだった。
永琳がどのような戦い方をするのか、ヤチヨからある程度の情報は聞いているものの、実際に戦うまでは分からないことが多い。主に弓矢を使うという話も、その強さを正確に想像するには十分ではなかった。距離を取って攻撃してくるのか、それともこちらの接近にも対応できるのか。どのような手段で地上側の拠点へ近づこうとするのかも、今の段階では予測するしかない。
だからこそ、彩葉は相手の動きを決めつけず、その場で対応していくつもりだった。
「それと、戦場が広いからって、最初から細かく動きを決めすぎないこと」
てゐは説明を続けながら、少し離れた岩場へ目を向けた。
「本番になったら参加者も玉兎も動くし、戦線がどこでどう変わるかなんて分からないからね。今ここで位置を決めても、そのとおりに戦えるとは限らないんだ」
彩葉も周囲を見回しながら、その言葉の意味を考えた。
KASSENでは敵味方が入り乱れることで、最初に想定していた戦況が大きく変わることも珍しくない。まして今回は通常の戦闘とは規模が違い、玉兎を迎え撃つ一般参加者たちの動きまで加わる。あらかじめ考えた行動へ固執するより、その場で必要な判断を重ねる方が、結果として作戦を守ることにつながるはずだった。
「戦況が悪くなったら、拠点で態勢を立て直してもいい。ただし、輝夜を守るための戦線まで全部下げるわけにはいかないからね」
てゐは全員へ視線を向け、念を押すように続けた。
「後退する人がいるなら、残った人がその間の敵を止める。立て直したら前線へ戻って、また持ち場を守る。そうやって戦い続けて、輝夜が術を完成させるまで時間を稼ぐんだ」
「……なかなか大変そうだね」
芦花が呟くと、てゐは苦笑した。
「そりゃ簡単な作戦じゃないよ。相手はあの永琳と依姫なんだからさ。でも、最初から倒すことだけを考えるより、まだ勝ち筋はあると思うんだよね」
てゐはそこで地上側の拠点へ目を向けた。
「とにかく、守るべきものだけは忘れないで。一般参加者は玉兎を、彩葉たちは永琳を、Black onyXは依姫を相手にする。必要なら拠点で態勢を立て直しながら、最後まで輝夜のところへ敵を近づかせない。それができれば、こっちにも勝機がある」
てゐの言葉を聞き、彩葉は改めて輝夜へ顔を向けた。
蓬莱の玉の枝を握った輝夜は、てゐの説明を黙って聞いている。何日もヤチヨのもとへ通い続けていたのは、この術を完成させるためだと分かっているものの、具体的にどのような術を使うのかについては、今も彩葉たちへ明かされていない。
ただ、ここまでの説明で一つだけはっきりしたことがあった。
輝夜が術を構築している間、彩葉たちが永琳を止められなければ、その準備を妨害される可能性がある。Black onyXが依姫の突破を許した場合も同じであり、二つの戦いはどちらも輝夜を守るためのものだった。
「輝夜、緊張してる?」
彩葉が声を掛けると、輝夜はすぐに顔を向けた。
「してないとは言わないわ。でも、ここまで準備してきたんだから、やるしかないでしょう?」
輝夜はそう答えると、少しだけ笑みを浮かべた。
「それに、彩葉たちが永琳を止めてくれるんでしょ?」
「……うん。絶対に止める」
彩葉が頷くと、輝夜は安心したように目を細めた。その表情には自分の力だけではなく、彩葉たちのことも信じているのだという気持ちが表れているようだった。
「だったら大丈夫よ。私も、ちゃんと術を完成させてみせるから」
輝夜は蓬莱の玉の枝を握り直すと、再び広い戦場へ目を向けた。
彩葉もその隣で、今まで何度も確認してきた作戦を改めて頭の中で整理する。
輝夜が待機する地上側の拠点、その前方で玉兎を迎え撃つ一般参加者たち、そして永琳と依姫をそれぞれ引き受ける自分たち。どこか一つの戦線が崩れても、残った仲間が時間を稼ぎ、拠点で立て直した者たちが再び戦いへ戻る。そうして敵の進軍を食い止め続けることが、輝夜の術を完成させるために必要なのだった。