その後も一同はてゐの案内でフィールドを歩き、実際の距離感や地形を確認していった。
低い岩場の陰に入ると視界が遮られる場所もあれば、少し高い位置へ上がるだけで周囲を広く見渡せる場所もある。しかし、本番ではそこへ玉兎や参加者が入り込むため、今見えている地形だけで戦い方を決めてしまうことはできない。一同は進軍に使える道や仲間を援護できる位置を、実際に足を運びながら確かめていった。
彩葉は芦花や真実と話しながら、永琳がどの方向から地上側の拠点を狙ってきても対応できるよう、お互いの位置を確認していた。一方、帝たちも少し離れた場所で依姫を想定した動きを確かめていたが、複雑な作戦を組み立てるというより、互いの距離を調整しながら戦場の広さへ慣れているようだった。
地上側の拠点へ戻る途中、彩葉はもう一度だけ周囲を見渡した。戦闘区域に近い側には、前線から戻ってきた仲間たちが態勢を立て直すための場所が確保されている。その奥では、異変が始まれば輝夜が術の構築を始めることになるため、外から攻撃を受けにくい位置を確保しておく必要があった。仲間たちにとっては戦いを続けるための足場であり、輝夜にとっては秘策を完成させるための場所。そして月側にとっては、そこへ到達することが地上側の作戦を崩す最も確実な手段になるのかもしれなかった。
彩葉は最後に輝夜の方へ目を向けた。蓬莱の玉の枝を見つめる輝夜の表情からは、何を考えているのかまでは読み取れない。それでも、今まで準備してきたことを無駄にはしたくないという気持ちは、きっと自分と同じなのだろう。その様子を見届けていたてゐは、全員へ向き直った。
「よし。大体分かったかな?」
「うん。実際に見られてよかったよ」
彩葉が答えると、てゐも満足そうに頷いた。戦場を実際に歩いて距離や見通しを確かめられたことは、今夜の戦いで少なからず役立つはずだった。
「それならよかった。あとは今夜、全員がそれぞれの役割を果たしてくれれば――」
そこで、てゐの言葉が不自然に途切れた。彩葉が顔を向けると、先ほどまで周囲を示していたてゐの手はすでに下ろされ、視線だけがフィールドの一角へ向けられている。普段から飄々としている彼女の顔から笑みが消えていることに気付き、彩葉も何かを尋ねるより先にその視線を追った。
薄暗い草地の向こうで、何もなかったはずの空間が僅かに歪んでいた。最初は夜風に揺れる景色のようにも見えたが、そこだけは草の動きとは関係なく、空間そのものが水面のように揺らいでいる。やがて歪みの中心へ淡い光の粒が集まり始め、次第に人一人が立てるほどの大きさへ広がっていった。
「……あれって」
彩葉が思わず呟くと、隣の輝夜も同じ場所を見つめていた。輝夜は蓬莱の玉の枝を握り直し、彩葉も何かが現れた時に対応できるよう身体の向きを変える。芦花と真実が二人との距離を縮める一方、少し離れていたBlack onyXの三人も異常に気付き、それぞれ位置を調整していた。やがて淡い光の中心へ人の輪郭が生まれ、長い銀色の髪が闇の中へ浮かび上がった。顔立ちや衣服の形がはっきりしていくにつれて、彩葉の胸にあった予感は確信へ変わった。花火大会の夜、画面越しに見た姿を忘れるはずがなかった。
あの時、輝夜を月へ連れ帰るために現れ、彼女の意思を確かめた女性。今夜の戦闘で必ず足止めしなければならない相手が、ついに同じ戦場へ姿を現そうとしていた。
彩葉は隣の輝夜へ目を向けた。その右手には現実から持ち込んだ蓬莱の玉の枝が握られており、先ほどまで彩葉と笑い合っていた時とは違い、光の中心から視線を外そうとしなかった。相手がどのように動くのかは分からない。作戦の確認が終わったばかりの段階で、いきなり戦闘を仕掛けてくる可能性も否定できなかったが、輝夜を守るために準備を重ねてきた以上、怯んでいるわけにはいかなかった。
白い光が次第に薄れ、女性の姿が夜の草地へ完全に現れる。長い銀髪を背へ流したその女性は、周囲に集まる視線を受けても驚いた様子を見せず、何事もなかったかのように静かに戦場へ降り立った。
八意永琳が、ついに彩葉たちの前へ姿を現した。
しかし、永琳が現れた光はすぐには消えなかった。その半歩ほど後ろで再び空間が揺らぎ、もう一人分の輪郭が形作られ始める。淡い輝きがほどけるにつれて腰に刀を差した女性が現れると、少し離れていたBlack onyXの三人がほとんど同時にそちらへ身体を向けた。作戦会議で名前と能力を聞いている以上、誰なのかを確かめる必要はなかった。
――綿月依姫
帝が正面から依姫を見据え、その左右で雷と乃依も僅かに位置を変える。まだ誰も武器を抜いてはいなかったが、依姫が動けば三人が進路へ入れるよう、互いの距離を調整していた。依姫もその動きを見逃してはいないらしく、Black onyXへ視線を向けたあと、彩葉たちや広いフィールドまで静かに見渡していく。自分を迎え撃つ者たちを目の前にしても焦りはなく、腰の刀へ手を掛けようともしない落ち着きが、彩葉にはかえって不気味に感じられた。
永琳もまた、すぐには言葉を発しなかった。大勢が戦えるよう整えられたフィールドと、そこへ集まっている顔ぶれを確認してから、最後に視線を輝夜へ止める。その目を受けても、輝夜は彩葉の後ろへ下がらず、蓬莱の玉の枝を握ったまま相手をまっすぐ見返していた。その姿を認めた永琳の表情が、僅かに和らいだ。
「姫様」
花火大会の夜と変わらない呼びかけが、静まり返った戦場へ落ちる。
「先日申し上げたとおり、お迎えに参りました」
輝夜はすぐには答えず、永琳の隣に立つ依姫へ一度だけ視線を向けてから、再び目の前の相手へ顔を戻した。あの夜から今日まで、永琳に言われたことを思い返す時間も、自分が月へ行くべきなのか考える時間も十分にあった。そのうえでここへ立っているからこそ、輝夜の口から出た答えには迷いがなかった。
「私も、あれからちゃんと考えたわ」
蓬莱の玉の枝を握る指に、僅かに力が入る。
「でも、答えは変わらない。私は月には行かない」
永琳は予想外の返答を受けたような顔をしなかった。花火大会ですでに一度拒まれている以上、輝夜が簡単に考えを変えるとは思っていなかったのだろう。
「月には姫様のお力が必要です。それでも、お考えは変わりませんか?」
「変わらないわ。何度聞かれたって同じよ」
輝夜は間を置かずに答え、永琳をまっすぐ見据えた。
「私の力が必要だからって、それで私がどこにいるかまで勝手に決められる理由にはならないもの」
「姫様のお力は、姫様お一人だけの問題ではございません。月の都のためにも必要なのです」
「だからって、私が嫌だって言ってることまで無視していいわけじゃないでしょう?」
輝夜の声に苛立ちが混じったが、永琳の態度は変わらなかった。互いの言い分は花火大会の夜から平行線を辿っている。永琳には輝夜を連れ帰る理由があり、その力を必要としている者もいる。一方の輝夜にとっては、理由がどれほど重大であっても、自分の意思を置き去りにして行き先を決められることが受け入れられなかった。
「姫様のお気持ちを軽んじているわけではございません。ですが、果たさなければならないお役目があることも、ご理解いただきたいのです」
「分かってるわよ。何度も言われてるんだから、嫌でも分かるわ」
輝夜は一度唇を結び、胸の前で蓬莱の玉の枝を握り直した。
「でも、私に必要だって言うばっかりで、私がどうしたいかは全然聞いてくれないじゃない。それで納得しろって言われても、できるわけないでしょう?」
永琳は反論を急がず、輝夜の表情を静かに見つめていた。本人の意思を尊重することと、月の都に対する責任を果たすことが、必ずしも同じ答えにつながらないと理解しながら、それでも判断を変えるつもりはないようだった。彩葉は二人のやり取りを聞きながら、これ以上黙っていることができなかった。
「……私も、輝夜の気持ちを無視するのは違うと思う」
永琳の視線が輝夜から彩葉へ移る。その目には花火大会の夜と同じ落ち着きがあり、突然口を挟まれたことへの苛立ちも、相手を威圧しようとする気配もなかった。
「月に輝夜が必要なのは分かったよ。本当に大事な理由があるんだと思う。でも、それと輝夜が月へ行きたいかどうかは別の話でしょ?」
「酒寄彩葉。あなたが月の事情をどこまで理解しているのかは分からないけれど、姫様のお立場は本人のお気持ちだけで変えられるものではないわ」
「うん。私には分からないことも多いと思う」
彩葉はその言葉を受け止め、永琳へ向き直った。
「でも、だからって何も言わずに見てることはできないよ。輝夜がここにいたいって言ってるのも、月へ行きたくないって言ってるのも、私はずっと聞いてきたんだから」
月の都について十分な知識を持っているとは思わないし、永琳が説明していない事情もあるのかもしれない。それでも、今ここで輝夜が何を望んでいるのかだけは、誰よりも近くで見てきたつもりだった。
「輝夜にしかできないことがあるなら、その大切さをちゃんと説明するべきだと思う。でも、必要だから来いって言うだけじゃ、輝夜の気持ちは変わらないよ」
「必要であることを理解していても、なお拒まれるのであれば、こちらも別の手段を考えなければならないわ」
「それって、無理やり連れて帰るってこと?」
彩葉が問い返すと、永琳はすぐには答えず代わりに輝夜へ目を向けた。
「姫様。それが、最終的なお答えですか?」
「ええ」
輝夜は迷わず頷いた。
「そっちが諦めないなら、私だって諦めないわ。何を言われても私はここに残る」
永琳はしばらく輝夜を見つめていた。その表情からは何を考えているのか読み取れず、彩葉は沈黙が長くなるほど緊張が強まっていくのを感じていた。少し離れたところでは帝たちが依姫を警戒しており、依姫も腰の刀へ手を伸ばすことなく、永琳の判断を待っている。
「……残念です」
やがて永琳が小さく息を吐いた。
「話し合いでお戻りいただければ、それが一番でした」
その言葉とともに、永琳の片手へ淡い光が集まり始めた。光は細長い輪郭を描きながら形を変え、やがて一本の弓となって永琳の手に収まる。ヤチヨから主武器が弓矢であることは聞かされていたが、実際に武器が現れた瞬間、彩葉の身体は考えるより先に反応していた。輝夜を庇える位置へ半歩踏み込み、永琳の手元へ視線を集中させる。左右にいた芦花と真実も距離を詰め、反対側では帝たちが依姫の進路へ入れるよう位置を変えた。
永琳は地上側の動きを見ても表情を変えず、もう片方の手を弓弦へ近づけた。指先へ再び光が集まり、一本の矢が形作られていく。光の粒が収束して矢羽まで明確になると、永琳はそれを弓に番え静かに弦へ指を掛けた。その動きに合わせて彩葉が重心を落とすと、芦花と真実も身構えた。弓を引き絞られれば次の瞬間には矢が放たれるかもしれず、彩葉は相手の狙いも分からないまま、永琳の指先から目を離せなくなっていた。
そのとき、張り詰めた空気を破るように、てゐの声が響いた。
「ちょっと待って」
今にも戦闘が始まりそうな状況には不似合いなほど明るい声だったが、永琳は弓を引き絞ることなく、その手を止めた。矢を番えたまま、視線だけをてゐへ向ける。
「何かしら?」
「いや、戦うのはいいんだけどさ。今ここで始める必要って本当にある?」
てゐは両者の間へ割って入ろうとはせず、少し離れた位置から永琳を見上げていた。相手の手にはすでに武器が握られているというのに、その口調は普段と変わらず軽く、何か相談でも持ち掛けるような気安さがあった。
「姫様がお戻りになることを拒まれている以上、必要であれば力を用いることになるわ」
「それは分かってるよ。だから、戦うなって話じゃないんだって」
てゐは軽く肩を竦めると、永琳の手にある弓へ一度だけ目を向けた。
「でもさ、永琳たちの目的って、私たちと戦うことじゃなくて、輝夜を月へ連れて帰ることでしょ?」
「そうね。それがどうかしたの?」
「だったら、今ここで決着をつけなくてもいいんじゃない? こっちはこのあと正式に始まる『異変』のために戦場を用意してるんだし、そこで勝負したって目的は変わらないでしょ?」
永琳は否定しなかったものの、その表情に提案を受け入れるような変化は見られなかった。月側の目的さえ果たせるなら、必ずしも今すぐ戦わなければならないわけではない。しかし、地上側の都合に合わせて戦闘を先延ばしにする理由もなかった。
「あなた方にとっては、正式な勝負の開始まで待つ方が都合がいいのでしょうね」
「そりゃそうだよ。こっちは今日のために、いろいろ準備してきたんだからさ」
「それなら、なおさら待つ理由はないわ。こちらが今ここで目的を果たせるのであれば、あなた方の準備が整うのを待つ必要はないでしょう?」
永琳の指摘はもっともだった。今ここで戦闘が始まれば、地上側の参加者はまだ揃っておらず、ヤチヨも仕掛けを維持する役割から離れられない。これまで用意してきた作戦を十分に使えないまま、月側の二人と戦うことになる。
一方のてゐは、永琳の言葉を受けても笑みを崩さなかった。
「まあね。でも、せっかく勝負するなら、お互いに使えるものを全部使った方がいいと思わない?」
「こちらの戦力が整うのと同時に、あなた方にも準備の時間を与えることになるわね」
「そういうこと。こっちだって人を集めて、作戦を考えて、戦場まで用意したんだよ。そっちも玉兎を連れてくるつもりなら、正式な異変で思い切り戦った方がいいでしょ?」
てゐは周囲に広がるフィールドへ片手を向けた。迎撃のための施設や地形は整えられているものの、そこに配置されるべき戦力はまだ揃っていない。このまま戦闘が始まれば、せっかく準備したものが使われないまま終わってしまうかもしれなかった。
「それはあなた方の事情でしょう。私たちには関係ないわ」
「そうでもないと思うけどね」
てゐは永琳の指摘を否定することなく、むしろ当然のように受け止めていた。
「永琳はさ、今ここで輝夜を連れて帰れたとして、それで全部解決すると思ってる?」
「……どういう意味かしら?」
「輝夜が素直に納得すると思うかってこと。今日のためにずっと準備してきたのに、何もできないまま連れていかれたら、絶対に納得しないと思うんだよね」
突然名前を出された輝夜が眉を寄せたものの、てゐはその反応を確かめるだけで言葉を続けた。
「ちゃんと戦ってたら勝てたかもしれないとか、準備が終わってなかったから負けたんだとか、いくらでも言えるでしょ? こっちだって全員揃ってないうちに押し切られたら、負けたっていうより、勝負させてもらえなかったって思うだろうしさ」
彩葉は思わず輝夜へ目を向けた。何もできないまま月へ連れ戻されることを受け入れるつもりがないのは、不満そうなその表情からも十分に伝わってきた。
「でも、正式な異変なら話は違う。こっちが用意した戦場で、集めた仲間も、考えた作戦も、全部使って戦える。それでもそっちが勝ったなら、少なくとも『準備さえできていれば』なんて言い訳はできなくなるでしょ?」
「つまり、あなた方が納得して負けられるように、私たちへ待てと言っているの?」
「勝つつもりだけどね」
てゐは軽い調子で返したものの、永琳から視線を逸らすことはなかった。
「でも、負けた時の話もしておかないと交渉にならないじゃん。こっちの都合だけ押し付けたって、そっちが付き合う理由もないだろうしさ」
てゐはそこで一度言葉を切り、輝夜へ僅かに目を向けた。しかし、何かを確かめることも、許可を求めることもせず、すぐに永琳へ向き直った。
「だから、条件をつけるよ」
永琳は弓を構えたまま、てゐの次の言葉を待っていた。その表情には警戒も焦りも見られず、相手が何を提示するのか慎重に見極めているようだった。
「今夜、正式に戦って私たちが負けたら――輝夜を連れて帰るのを邪魔しない。それでどう?」
「えっ……」
思わず彩葉の口から声が漏れた。隣にいた輝夜も表情を変え、てゐへ勢いよく顔を向ける。つい先ほどまで、自分の行き先を勝手に決めるなと永琳へ訴えていた本人を、何の確認もなく敗北条件へ組み込んだのだから、その反応も当然だった。
「ちょっと、てゐ! 勝手に何を――」
てゐは片手を上げて輝夜を制すると、永琳へ向き直った。輝夜が納得していないことなど承知のうえで、交渉を途中で終わらせるわけにはいかないと考えているようだった。
「もちろん、今夜の勝負で負けたらって話だよ。そっちが勝って輝夜を連れていく時、こっち抵抗しないってこと」
「……随分な約束をするのね」
「それくらいしなきゃ、そっちが待つ理由ないでしょ?」
永琳はすでに番えた矢を放つことも、弓を下ろすこともせず、しばらくてゐを見つめていた。
「あなた一人の判断で、ほかの者たちの行動まで決められるのかしら?」
「全員の気持ちまで保証するつもりはないよ。でも、今夜の勝負は地上側の代表も参加する正式なものだからね。その場で決着がついたら、負けた側は結果に従う。それが勝負ってものでしょ?」
てゐの言葉に、永琳は僅かに目を細めた。彩葉には、それが提案を吟味しているからなのか、それとも別のことを考えているのか判断できなかった。
「約束が守られる保証もないわね」
「そこは信用してもらうしかないさ。でも、今ここで勝つより、正式な勝負で決着をつけた方が、そっちにとっても都合がいいと思うよ」
てゐは悪びれることなく返したが、その声音に無理やり説得しようとする気負いは感じられなかった。彩葉はそんなてゐの横顔を見つめながら、胸の奥に落ち着かないものを感じていた。彼女が何の考えもなく重大な条件を持ち出したとは思えない。それでも、輝夜を月へ連れていくことを認めるような約束を、本人に相談せず提示した理由までは分からなかった。
輝夜も不満を隠そうとはしなかったが、今ここで言い争えば交渉が決裂するかもしれないと理解しているのか、それ以上は口を挟まなかった。そんな二人の様子を確かめてから、てゐは改めて永琳へ向き直った。
「それと、正式な勝負で決着をつけるっていうなら、先にルールも確認してもらわないとね」
「……ルール?」
「うん。今回の勝負の正式なルールだよ。必要なことは一通りまとめてあるんだ」
てゐはそう説明しながら、視界へ半透明のウィンドウを呼び出した。
表示された一覧には、開催時刻、専用戦場に関すること、参加条件や勝敗の判定方法などがまとめられている。彩葉たちにはすでに共有されている内容であり、てゐはそのデータを選択すると、送信先に永琳を指定した。
「こっちだけがルールを知ってるんじゃ、対等な勝負とは言えないでしょ? そっちにも同じものを渡しておくよ」
てゐが送信を終えると、永琳の前にも半透明のウィンドウが現れた。永琳は表示された情報へ視線を落とし、項目を一つずつ確認していく。依姫も隣から内容を覗き込んでいたが、特に口を挟むことはなく永琳の判断を待っているようだった。
やがて永琳は一通り目を通すと、小さく頷いた。
「……殲滅戦、ね」
「お互いの戦力をぶつけ合って、相手を倒し切ったら決着ってこと」
てゐが答えると、永琳は再びウィンドウへ視線を戻した。彩葉はその様子を眺めながら、これまで自分たちが準備してきた正式な勝負の内容が、初めて月側へ共有されたことを実感していた。しかし、ルールを確認したからといって、永琳が提案を受け入れてくれるとは限らない。永琳は残りの項目も確認すると、ウィンドウを閉じて顔を上げた。
「内容は理解したわ。これがあなた方の提案する正式な勝負の規則ということね」
「そうそう。地上側も月側も、このルールで戦うってこと。何か確認しておきたいことはある?」
「いいえ。規則の内容については、今のところ疑問はないわ」
永琳は落ち着いた声で答えたが、それ以上の言葉を続けることはなかった。規則を理解したことと、正式な異変で決着をつける提案を受け入れることは別の話だった。てゐもそれを理解しているのか、すぐに返答を求めようとはしなかった。その沈黙が続く中、依姫が静かに声を掛けた。
「八意様、私は勝負の開始まで待っても構わないと思います」
永琳が視線を向けると、依姫は広々とした戦場を見渡した。地上側が準備している施設や、そこに集まった者たちを確認する眼差しには、警戒こそあっても焦りは感じられない。
「相手がここまで場を整えているのであれば、あえて避ける必要もないでしょう。私たちが今ここで戦うことに支障はありませんが、多少遅くなったところで輝夜様をお連れするという目的が変わるわけでもありません」
「相手の戦力が揃うことについては?」
「こちらも必要な戦力を整えて臨めばよいだけのことです。相手が用意した戦場も、策も、戦力も、すべて正面から受けて立ちましょう」
依姫の返答には一切の迷いがなかった。相手に準備の時間を与えることの意味を理解したうえで、どのような戦力が待ち受けていようと勝利するつもりなのだろう。
「ずいぶん勝つ気満々ね」
輝夜が不機嫌そうに口を挟むと、依姫は彼女へ丁寧に向き直った。
「当然です、輝夜様。私たちも勝利するために参りましたので」
「こっちが勝つかもしれないとは思わないわけ?」
「もちろん、その可能性がないとは申しません。ですが、負けるつもりで臨む理由もございません」
依姫は穏やかに答えたが、その態度に挑発するような色はなかった。どのような相手でも正面から破るという揺るぎない自信は、月側の強さを聞かされている彩葉にとって、決して軽く受け流せるものではなかった。
永琳は依姫の言葉を聞いたあと、再びてゐへ視線を戻した。今ここで戦えば、地上側の準備が整う前に決着をつけられる可能性がある。反対に正式な異変まで待てば、相手は人数を揃え、用意してきた策も使えるようになるだろう。しかし、その時間は月側にとっても無駄になるわけではなかった。玉兎たちを含めた戦力を整え、相手が用意した戦場の条件を把握して臨むことができる。正式な勝負で地上側を破れば、輝夜を連れ戻すと同時に、その結果を示すこともできる。
永琳が何を考えているのか、彩葉には分からなかった。ただ、目の前の女性がてゐの言葉に流されて判断を変えるような人物ではないことだけは確かだった。
「……口の回るうさぎね」
やがて永琳が小さく息を吐くと、てゐは得意げに口元を緩めた。
「褒めても何も出ないよ」
「褒めているわけではないわ。あなた方にとって都合のいい提案であることは、最初から分かっているもの」
「まあね。でも、そっちだって手ぶらで帰るわけじゃないでしょ?」
てゐの軽い返答に、永琳は僅かに目を細めた。それ以上は何も言わず、改めて戦場を見渡す。これから始まる正式な勝負と、そのために用意された施設や地形を確かめるように視線を巡らせてから、最後に輝夜へ目を向けた。
輝夜は永琳の視線を受けても目を逸らさず、胸の前で蓬莱の玉の枝を握っていた。彩葉も永琳の返答を待っていたが、沈黙が長くなるにつれて、胸の奥に嫌な予感が広がっていくのを感じていた。てゐが提示した条件も、送信した異変のルールも、永琳が必ず受け入れなければならないものではない。こちらがどれほど正式な勝負を望んでいても、永琳が拒否してしまえば、それまでの話し合いはすべて意味を失ってしまう。
彩葉は周囲に広がる戦場へ目を向けた。ヤチヨたちが用意した施設や地形を確認し、芦花や真実とも何度も作戦を話し合ってきた。帝たちには依姫を任せることになっており、輝夜も毎日のようにヤチヨのもとへ通い、今日のために特訓を重ねてきた。そのどれもが、異変で月側を迎え撃つことを前提にした準備だった。
もし永琳が提案を拒否して今ここで戦闘を始めれば、まだ揃っていない仲間たちを待つことも、予定していた配置につくこともできない。何より、輝夜が懸命に準備してきた秘策さえ、十分に使う機会を得られないかもしれなかった。これまで何日もかけて積み重ねてきた努力が、実際に試すことすらできないまま無駄になってしまう。そう考えると、彩葉は居ても立ってもいられない気持ちになった。
永琳はルールを確認し、依姫も正式な勝負を受け入れることに異論を示していない。それでも、最終的に決めるのは永琳であり、その返答一つで今夜の作戦が実行できるかどうかが決まってしまう。
彩葉は思わずてゐへ視線を向けた。彼女は永琳を正面から見つめたまま、普段と変わらない笑みを浮かべている。これほど重要な返答を待っているというのに、焦りや不安を表に出すこともなく、ただ相手が決断するのを静かに待っていた。隣に立つ輝夜も何も言わず、蓬莱の玉の枝を握ったまま永琳を見つめている。彩葉はそんな彼女の横顔を見ながら、どうか今だけは戦闘を始めないでほしいと願った。永琳が正式な勝負を受け入れてくれれば、少なくとも準備してきたことを無駄にせずに済む。そのためにも、今は彼女の返答を待つしかなかった。
しばらくして、永琳が静かに頷いた。
「……いいでしょう。今夜、あなた方が用意した場で正式に勝負を受けるわ」
その言葉を聞いた瞬間、彩葉は思わず息を呑んだ。それまで胸の奥に広がっていた不安が僅かに和らぎ、ようやく自分が無意識に呼吸を浅くしていたことに気が付いた。交渉が成立したからといって月側の脅威が消えたわけではない。それでも、準備した作戦を使えないまま戦闘が始まる事態は避けられたのだった。永琳の手にあった弓と矢が淡い光を帯び、輪郭が崩れて細かな粒子となって消えていく。彩葉たちはようやく今この場での戦闘を避けられたと理解したが、永琳が何を考えて提案を受け入れたのかまでは分からなかった。
「ただし、こちらも必要な準備は整えさせてもらうわ。あなた方だけに有利な条件で戦うつもりはないもの」
「もちろん。そっちも玉兎を連れてくればいいし、こっちだって遠慮しないよ」
てゐが満足そうに頷くと、永琳は改めて彼女へ視線を向けた。
「それなら、今夜はそちらの流儀に合わせてお相手しましょう」
永琳はそう告げると、てゐから視線を外して輝夜へ向き直った。その口調には、輝夜へ向ける時だけの丁寧さが戻っていた。
「姫様、今夜はそちらが望まれた形でお相手いたします。こちらも必要な準備を整え、改めてお迎えに参りましょう」
「……ふん。だったら好きにすればいいじゃない」
「ですが、その結果こちらが勝利した暁には、先ほどの条件どおりに月へお戻りいただきます。姫様にも結果をお受け入れいただかなければなりません」
「そっちが勝てたらね」
輝夜は蓬莱の玉の枝を握ったまま永琳を正面から見返した。てゐが勝手に提示した条件には納得していないものの、永琳の前で弱気になるつもりはないらしい。
「私だって負けるつもりなんかないんだから。今夜、あなたたちを負かしてあげるわ」
「ええ。こちらも負けるつもりで参ったわけではございませんので」
穏やかな口調のまま返す永琳に、輝夜はますます不満そうな顔をした。しかし、それ以上は言い返さず、蓬莱の玉の枝を握る手に力を込めていた。その様子を見届けた永琳は、隣に立つ依姫へ視線を向けた。
「それでは、私たちは一度戻るとしましょう」
「承知いたしました、八意様。今夜に向けて、こちらも準備を整えます」
依姫は静かに頷くと、少し離れた場所で自分を警戒していたBlack onyXへ一度だけ目を向けた。帝はその視線を正面から受け止め、口元へ僅かな笑みを浮かべた。その左右に立つ雷と乃依も依姫の動きを警戒していたが、彼女は最後まで腰の刀へ手を掛けることなく、永琳の隣へ静かに戻っていく。永琳は再び輝夜へ顔を戻した。
「それでは姫様、またお目にかかります。それまで、どうかご自愛くださいませ」
「余計なお世話よ。覚悟しておきなさい」
「ええ。楽しみにしております」
永琳は表情を変えないまま返事をした。その態度には、輝夜を連れ帰るという目的を諦めた様子など微塵もなかった。今夜の勝負で決着をつければよいと考えているのか、それとも別の思惑があるのか、彩葉には最後まで読み取ることができなかった。やがて永琳が依姫へ小さく頷くと、二人の足元から淡い光が立ち上り始めた。細かな光の粒が風に舞うように広がり、二人の身体をゆっくりと包み込んでいく。先ほど姿を現した時と同じ現象であることに気付き、彩葉はようやく永琳たちが本当に帰還するのだと理解した。
それでも、すぐに警戒を解くことはできなかった。永琳は弓を消したものの、再び武器を取り出そうと思えばいつでもできるはずだった。依姫も一度として刀を抜いていない。結局、二人の実力を直接確かめることはできないまま、交渉だけで終わろうとしていた。彩葉は隣に立つ輝夜へ目を向けた。彼女は蓬莱の玉の枝を握ったまま、光に包まれていく永琳を見つめていた。その表情には、戦闘を避けられた安堵よりも、先ほどの交渉で勝手に自分の身柄を条件にされたことへの不満が色濃く残っている。
光が次第に強まり、永琳と依姫の輪郭が薄れていく。最後まで輝夜へ向けられていた永琳の視線が白い輝きの向こうへ隠れ、依姫の腰に差された刀も、やがて光の中へ溶け込むように見えなくなっていった。そして、二人を包んでいた光が完全に消える。
永琳と依姫が立っていた場所には、先ほどまでと変わらない夜の草地だけが残されていた。