永琳と依姫を包んでいた光が消えると、先ほどまで張り詰めていた空気が、ようやく緩やかに動き始めた。
彩葉は無意識に力を込めていた手を開き、胸の奥に溜まっていた息をゆっくりと吐き出した。予定より早く現れた月側の二人は、正式な異変が始まるまで戦闘を待つことを受け入れ、ひとまず月へ帰っていった。今夜の迎撃作戦を予定どおり実行できることになったのは、間違いなく大きな収穫だった。周囲でも少しずつ緊張が解け始め、芦花と真実が互いの顔を見合わせている。少し離れた場所では帝が依姫の消えた方向を名残惜しそうに眺めており、雷と乃依も武器を収めながら、今夜の戦闘に向けて装備を確認し始めていた。
しかし、月側との戦闘を避けられたからといって、すべての問題が解決したわけではなかった。彩葉の隣では、輝夜が蓬莱の玉の枝を握ったまま、先ほどまで永琳たちが立っていた場所を見つめていた。その表情には明らかな不満が浮かんでおり、月側が去ったことへの安堵よりも、交渉の途中でてゐが提示した条件の方が気になっているようだった。
やがて輝夜はゆっくりと振り返り、てゐへ視線を向けた。
「……ねえ、てゐ。さっきの約束について、聞いてもいい?」
「ん? どうしたの?」
何事もなかったように答えたてゐに対し、輝夜は少しだけ眉を寄せた。
「私が月へ連れていかれても構わないって、どうして勝手に決めたの?」
その声に怒鳴りつけるような勢いはなかったものの、言葉の節々には明確な不満が込められていた。つい先ほど、永琳に対して自分の意思を尊重してほしいと訴えたばかりなのだ。月へ帰るつもりはないと何度も伝えてきた輝夜にとって、仲間であるてゐが本人の了承もなく身柄を条件にしたことは、簡単に受け入れられるものではなかった。
「まあまあ、落ち着いてよ。別に輝夜を引き渡すつもりなんかないって」
「そう言われても、あの場ではそう聞こえたわ。負けたら連れて帰るのを邪魔しないなんて、私に何も相談せずに決めたでしょう?」
輝夜が真っ直ぐに見つめると、てゐは軽く肩を竦め、少し困ったように頭を掻いた。
「相談しなかったのは悪かったよ。でも、あの場で話し合ってたら永琳が待ってくれたかどうか分からないでしょ?」
「……それはそうかもしれないけど」
輝夜はなおも不満そうにしていたが、てゐがすぐに言い訳を重ねることはなかった。代わりに、先ほどまで永琳たちが立っていた場所へ一度だけ目を向けると、何でもないことのように言葉を続けた。
「それに、実際のところあの約束って大した条件にもなってないんだよね」
「……どういうこと?」
輝夜が怪訝そうに眉を寄せると、近くで話を聞いていた芦花と真実もてゐへ顔を向けた。彩葉も交渉の間に抱いていた疑問を思い出し、何か説明があるのだろうと二人のやり取りへ注意を向ける。
「じゃあ、ちょっと考えてみてよ。今夜の異変で私たちが負けたとして、その時、永琳たちが輝夜を連れて帰ろうとしたらどうなると思う?」
てゐはすぐに答えを示すのではなく、輝夜と彩葉を交互に見ながら問いかけた。輝夜は少し考え込んだものの、質問の意図が分からないらしく、納得できないといった表情を浮かべている。その隣で彩葉も今夜の勝負について思い返し、やがて一つのことに気が付いた。
今回の異変では、一度戦闘不能になった参加者は再び戦場へ戻ることができない。つまり、地上側が敗北するということは、永琳たちの進軍を阻むために用意した戦力が失われるということでもある。
「……あれ? それって、もしかして」
彩葉が思わず呟くと、てゐは面白そうに目を細めた。
「おっ、気付いた?」
「私たちが負けたら、もう永琳たちを止められないってこと?」
「そういうこと」
てゐは満足そうに頷いた。
「こっちが負ければ、向こうは力ずくでも輝夜を連れて帰れる。今回の異変は一度負けたら再参加できないんだから、そもそもその場で抵抗を続けることだってできないんだよ」
その説明を聞いて、彩葉はようやく交渉の途中から感じていた違和感の正体を理解した。永琳たちは最初から、輝夜が拒んだ場合には力を使ってでも連れ帰るつもりだった。地上側が敗北してしまえば、それを阻む手段も失われるのだから、てゐが提示した条件によって月側が新しく得るものは、ほとんどないことになる。
「つまり、負けたら最初からそうなることを、交換条件みたいに話しただけってこと?」
「正解。今夜の勝負に負けたら邪魔しないって約束したけど、負けた時点で止める力が残ってないなら、結局は同じことでしょ?」
てゐは悪戯っぽく笑いながら、改めて輝夜へ顔を向けた。輝夜は二人のやり取りを聞きながら、先ほどの交渉を思い返しているようだった。確かに永琳は、輝夜自身が拒んだとしても連れて帰るつもりだとはっきり告げていた。自分たちが敗北した場合には、それを阻止することもできなくなるのだから、てゐの約束がなくても結果は変わらない。
「……何よ、それ。だったら最初から何も変わらないじゃない」
「そういうこと。なかなかいい交渉だったでしょ?」
得意げに胸を張るてゐに、輝夜は呆れたような視線を向けた。しかし、先ほどまでの強い不満には多少の戸惑いが混じり始めており、少なくともてゐが自分を引き渡すために条件を提示したわけではないことは理解できたようだった。
「その代わり、こっちは今夜までの時間を確保できた。参加者を集めることも、用意してきた作戦を使うこともできる。悪くない交換でしょ?」
「悪くないどころか、こっちだけ得してるじゃん」
芦花が呆れたように答えると、てゐは得意げに耳を揺らした。その隣では真実も感心したように拍手しており、彩葉も改めててゐの話術に驚かされていた。月側にとって有利な条件を差し出したように見せながら、実際には敗北した場合に起こることを約束しただけで、自分たちに必要な準備の時間を確保する。しかも、それを永琳の前で堂々と提示し、正式な勝負まで待つことを認めさせたのだから、単なる思いつきでできることではないだろう。
もっとも、理屈を理解したからといって、輝夜がすべてを納得したわけではなかった。
「……それなら、私が月へ行くって約束したことにはならないのよね?」
「もちろん。輝夜自身はそんなこと一言も言ってないし、私は輝夜の気持ちまで勝手に変えられないよ」
「それは分かったわ。でも、次からはちゃんと相談してほしいの。私のことなんだから」
輝夜はそう言って小さく息を吐いた。先ほどまでの強い不満は幾分和らいだようだったが、自分の意思を無視されたくないという気持ちは変わっていないのだろう。てゐもそのことは理解しているらしく、それ以上言い訳を重ねることなく、今度は素直に頷いた。
「うん。そこは気をつけるよ」
てゐが謝ったことで、輝夜もひとまず矛を収めたようだった。
しかし、彩葉にはまだ気になっていることがあった。交渉のからくりを理解した今となっては、てゐが今すぐ戦闘になるのを避けようとした理由も分かる。だが、あの時の永琳はすでに弓を取り出し、矢を番えるところまで進んでいたのだ。
もし交渉を拒まれていたら、てゐの言葉が終わった直後に戦闘が始まっていたとしてもおかしくなかった。そんな彩葉の考えを察したわけではないだろうが、てゐは永琳たちが消えた場所を一度だけ振り返り、何気ない調子で口を開いた。
「それにさ、私だって怖かったんだよ」
「……怖かった?」
予想していなかった言葉だったのか、輝夜が不思議そうに聞き返した。てゐは何を今さらというように頷き、先ほどの光景を思い返すように肩を竦めた。
「そりゃあ怖いよ。あの永琳と依姫がいきなり目の前に現れたんだからさ。しかも、今にも戦闘が始まりそうな状況でしょ?」
「でも、てゐはずっと落ち着いていたじゃない」
「そりゃ、怖がってるところを見せたって仕方ないからね」
あまりにもあっさりとした返答に、彩葉は思わず目を瞬いた。永琳の弓を前にしても、てゐは一度として取り乱さず、相手の言葉を受け止めながら交渉を続けていた。少なくとも彩葉には、その態度から恐怖を感じ取ることなどできなかった。
「私は臆病だからさ。あんな相手と、ろくに準備もしないまま戦うなんて絶対に嫌だね」
「……随分あっさり認めるのね」
輝夜が少し呆れたように答えると、てゐは悪びれる様子もなく笑った。
「うさぎなんて臆病な生き物なんだよ。怖いものは怖いって認めておかないと、危ない時に逃げ遅れちゃうでしょ?」
てゐはそう言って耳を揺らすと、今度は彩葉へ顔を向けた。
「でも、てゐって全然怖がってるように見えなかったけど」
「怖がってるところを見せたら、永琳が容赦してくれるの?」
「……いや、それはないと思う」
「でしょ? だから、怖い時ほど頭を使わなきゃいけないんだよ。戦わずに済むならそれが一番だし、どうしても戦わなきゃいけないなら、少しでも有利な状況にしておきたいじゃん」
てゐは軽い調子で答えたが、その言葉には妙な説得力があった。臆病だから何もしないのではなく、臆病だからこそ危険を見極め、少しでも安全な道を探そうとする。相手の実力も分からないまま正面から戦うより、まずは状況を整え、自分たちが持っている手段を十分に使えるようにする方がいい。その考え方は、今夜の作戦を立ててきた彩葉たちにとっても決して他人事ではなかった。
彩葉は、永琳が弓を出現させた時のことを思い返した。咄嗟に輝夜を庇える位置へ移動したものの、実際に矢が放たれた場合、どのように対応すべきかまでは考えられていなかった。参加者も集まっておらず、永琳と依姫を分断するための配置すら整っていない状況で戦闘が始まれば、勝てる見込みがどれほどあったのかも分からない。
「……だから、今夜まで待ってもらう必要があったんだね」
彩葉が呟くと、てゐは満足そうに頷いた。
「そういうこと。私は怖いから戦いたくなかったし、みんなは準備する時間が欲しかった。だったら、どうにかして時間を稼ぐのが一番でしょ?」
「……なるほどね」
「まあ、正直に怖いから待ってくださいって頼んでも、永琳が聞いてくれるとは思えなかったけどね」
てゐが最後に付け加えると、芦花が小さく吹き出し、真実も思わず笑みを浮かべた。彩葉もつられるように頬を緩めながら、改めててゐの顔を見つめた。永琳の弓を前にしても落ち着いて言葉を重ね、こちらに必要な時間を確保していたてゐが、本当にどれほど怖がっていたのかは分からない。それでも、強い相手への恐怖を認めることと、その相手に立ち向かうための方法を考えることは、彼女の中では矛盾していないのだろう。
一方の輝夜は、てゐの説明を聞いて少し考え込んでいた。
「……言いたいことは分かったわ。でも、私のことを勝手に条件にされたのは、やっぱり嫌よ」
「うんうん。それは分かってるよ」
てゐは素直に頷いたものの、困った様子は見せなかった。むしろ輝夜の顔をしばらく眺めたあと、まるで当然のことを付け加えるように、穏やかな声で話し始めた。
「それに、輝夜なら負けないって信じてるから」
「……私が?」
予想していなかった言葉だったのか、輝夜は少しだけ目を見開いた。てゐはそんな彼女の反応を見て笑みを浮かべると、蓬莱の玉の枝へ一度だけ視線を向けた。
「今日までずっと姫さんのところへ通って準備してきたんでしょ? 私も、あれだけ頑張ってきた輝夜が簡単に負けるとは思ってないよ」
「……そう言ってくれるのは嬉しいけど」
「それに、こっちには彩葉たちもいる。Black onyXだって協力してくれるし、みんなで輝夜を守るために準備してきたんだ。そんな状態で最初から負けた時のことばっかり考えてても仕方ないでしょ?」
てゐは周囲に集まった仲間たちへ視線を向け、それから蓬莱の玉の枝を握る輝夜へ顔を戻した。
「私はね、輝夜がちゃんと勝負できるようにしたかったんだよ。せっかく姫さんと準備してきた策も、使えないまま終わっちゃったかもしれない。それじゃ、あんまりにもったいないじゃん」
輝夜はすぐには答えず、手にした蓬莱の玉の枝へ視線を落とした。何日もヤチヨのもとへ通い続け、どれだけの努力を重ねてきたのか、彩葉たちも詳しいことは知らない。ただ、その日々が輝夜にとって大切な時間だったことは、特訓を終えて帰ってきた時の表情や、今までの何気ない会話からも伝わってきていた。今夜のために準備してきたことを、何もできないまま終わらせたくない。その思いは、彩葉も輝夜と同じだった。
「……そうね。せっかく準備してきたんだもの」
輝夜は静かに頷き、てゐへ顔を向けた。
「何もできないまま終わるのは、私も嫌だわ」
「でしょ? それに、最後に永琳たちを驚かせるのは輝夜なんだからさ。ここまで頑張ってきた成果、ちゃんと見せつけてやりたいと思わない?」
てゐが笑いながら尋ねると、輝夜は少しだけ口元を緩めた。
「……もちろん、そのつもりよ」
先ほどまでの不満を忘れたわけではないのだろう。それでも、てゐが自分の努力を認め、勝利を信じていると伝えたことで、少しずつ気持ちが落ち着いてきたらしい。蓬莱の玉の枝を握る手にも、先ほどまでとは違う落ち着きが戻っていた。
「永琳がどれだけ強くても、私は月へ帰るつもりなんてないもの。そのためにヤチヨと準備してきたんだから、ちゃんと最後までやり遂げるわ」
「うん。そうこなくっちゃ」
てゐは満足そうに頷いた。
「だったら、さっきの約束は今だけ脇に置いておこうよ。こっちが勝っちゃえば、負けた時の条件なんて何の意味もなくなるんだからさ」
輝夜は少し考えたあと、小さく息を吐いた。
「……そうね。今はそっちに集中した方がよさそうだわ」
「そうそう。せっかく今夜まで待ってもらえたんだから、準備してきたものを全部ぶつけてやろう」
「ええ。永琳にも、私が本気でここに残りたいと思っていることを分かってもらわないとね」
輝夜はそう答えると、蓬莱の玉の枝を握り直した。先ほどまでの不満は表情から薄れ、代わりに今夜の勝負へ向けた静かな決意が浮かんでいる。てゐもそれ以上言葉を重ねることはせず、輝夜が気持ちを切り替えたのを確かめると、満足そうに笑みを浮かべた。
一連のやり取りを見ていた彩葉は、思わず感心してしまった。てゐは最初に謝るべきところだけ認めると、輝夜が自分の意思を無視されたことに怒っていると理解したうえで、その気持ちを否定しようとはしなかった。代わりに、今夜の勝負を成立させるために必要だったことを説明し、さらに輝夜への信頼を口にすることで、話の中心を敗北した場合の条件から、これから勝つために何をするかへ移してしまった。
しかも、ただ機嫌を取るために褒めているようにも見えない。実際に輝夜は毎日ヤチヨのもとへ通い、何らかの策を用意してきた。彩葉たちもその成功を信じて永琳や依姫を止めるつもりなのだから、てゐの言葉には十分な理由がある。だからこそ、輝夜も無理に反論することなく受け入れられたのだろう。
彩葉は改めててゐの顔を見た。永琳との交渉をまとめたばかりなのに、今度は不満を抱えていた輝夜まで、言葉だけで気持ちを切り替えさせてしまう。普段は悪戯好きで調子のいい兎にしか見えないが、相手が何を望み、どんな言葉なら受け入れられるのかを見抜くことについては、想像していた以上に長けているらしい。
「……てゐって、ほんとに口が上手いね」
彩葉が小声で呟くと、てゐはちらりとこちらへ目を向け悪戯っぽく片目を細めた。
「何のことかな?」
「いや……何でもない」
てゐがわざと知らないふりをしていることくらい、彩葉にも分かった。しかし、ここで余計なことを言えば、ようやく気持ちを切り替えた輝夜がまた不満を思い出すかもしれない。彩葉はそれ以上追及するのをやめ、静かに蓬莱の玉の枝を見つめている輝夜へ目を向けた。その様子を眺めていたてゐは、満足そうに耳を揺らしたあと、ふと思い出したように口を開いた。
「……まあ、永琳は気が付いてたみたいだけどね」
何気なく付け加えられた一言に、彩葉は思わず顔を上げた。
「……え?」
「さっきの交渉のことだよ。あの条件を受け入れたところで、月側が新しく得るものなんてほとんどないってこと、永琳は分かってたんじゃないかな」
てゐはそう言って、先ほどまで永琳たちが立っていた場所へ視線を向けた。交渉の間、永琳は終始落ち着いた態度を崩さず、てゐの提案を聞いたあともすぐには承諾しなかった。地上側に準備の時間を与えることの不利益を指摘し、提示された条件を守れるのかと問いただしたうえで、最後には正式な勝負を受け入れている。
その様子を思い返すと、てゐの言葉にも十分な理由があるように感じられた。
「じゃあ、永琳は分かってて条件を飲んだってこと?」
彩葉が尋ねると、てゐは軽く頷いた。
「たぶんね。私が何を狙ってるのか理解したうえで、今夜まで待つことを認めたんだと思うよ」
「……それって、どうして?」
「さあ? そこまでは私にも分からないよ。今すぐ戦う必要がないと思ったのかもしれないし、別に考えがあるのかもしれない。少なくとも、私の口車に乗せられただけってわけじゃなさそうだけどね」
てゐは肩を竦め、どこか楽しそうに笑った。彩葉はその言葉を聞きながら、先ほどの永琳の表情を思い返した。地上側に準備の時間を与えることが、月側にとって不利に働く可能性は十分にある。それを理解しながら交渉を受け入れたのなら、永琳は自分たちが考えている以上に、この勝負へ何らかの意図を持って臨んでいるのかもしれなかった。ただ、いくら考えたところで、その答えが分かるはずもない。
「……分かった。じゃあ、少なくとも永琳を騙して約束させたわけじゃないんだね」
彩葉が確認すると、てゐは満足そうに頷いた。
「うん。永琳が何を考えてるのかまでは分からないけど、条件の意味を理解したうえで受け入れたんだろうね」
その答えを聞き、彩葉は小さく息を吐いた。
てゐが月側を一方的に欺いて時間を稼いだのではなく、相手もからくりを見抜いたうえで交渉が成立したのだとすれば、永琳の判断にはまだ分からない部分が残っている。それでも、正式な異変まで待つという約束が交わされたことは確かだった。
輝夜もそこまでの説明を聞き終えると、ゆっくりとてゐへ顔を向けた。
「……もう一つだけ、確認させて」
「ん? 何かな?」
「今夜、私たちが勝てば、永琳たちは私を連れていけない。そういうことなのよね?」
てゐは今度こそ冗談を挟まず、輝夜の目を見て頷いた。
「そうだよ。今夜の正式な勝負でこっちが勝てば、月側は輝夜を連れて帰るという目的を果たせない。だから、私たちはそのために戦うんだ」
その言葉を聞き、輝夜はようやく納得したように息を吐いた。
「……分かったわ。だったら、私もその約束でいい」
輝夜は蓬莱の玉の枝を握り直し、てゐと彩葉へ順番に視線を向けた。
「勝手に決められたことは、まだ少し不満だけど……今は、みんなと一緒に勝つことを考えるわ」
「うん。それで十分だよ」
てゐが穏やかに答えると、輝夜は小さく頷いた。彩葉も二人のやり取りを見ながら、ようやく交渉の内容を整理することができた。地上側が敗北した場合に月側の連行を妨げないという条件は、実際には勝敗によって生じる結果を約束したようなものだった。その一方で、てゐは交渉によって今夜までの猶予を確保し、自分たちが準備してきた作戦を使う機会を守ったのだ。
永琳がどのような考えで提案を受け入れたのかは分からないが、今はそれを考え続けていても仕方がない。正式な異変で地上側が勝利すれば、少なくとも今回の連行を阻止することができるのだから、自分たちが目指すべき結果は最初から変わっていなかった。
てゐはみんなを見渡すと、いつもの軽い調子に戻って小さく手を叩いた。
「さて、これで確認は終わりかな。あとは今夜、ちゃんと勝つだけだね」
彩葉たちはその言葉に頷き、それぞれが改めて自分の役割を思い返した。今夜までの猶予は得られたが、永琳と依姫の強さが変わったわけではない。むしろ、相手がこちらの準備を承知したうえで正式な勝負を受け入れた以上、何が起こってもおかしくないと考えておくべきだった。
それでも、てゐが交渉によって守った時間を無駄にはできない。彩葉は隣にいる輝夜へ目を向け、静かに頷き合った。今度こそ、交渉ではなく戦いによって決着をつける時が来るのだろう。