ツクヨミの中央広場には、これから始まる大型イベントを待ちわびるプレイヤーたちが集まっていた。広場を囲む建物には色とりどりの照明が灯され、行き交う人々の姿を鮮やかに照らし出している。普段から多くのプレイヤーで賑わう場所ではあるものの、今夜はその比ではなく、あちらこちらから聞こえてくる話し声が重なり合い、開幕を目前にした会場全体を熱気で包み込んでいた。
仲間同士で装備を確認する者もいれば、今回のイベントでどれほどの敵が現れるのかと予想を交わす者もいる。普段は別々の場所で活動しているプレイヤーたちも、今夜ばかりは地上側の一員として同じ戦場に立つことになり、その珍しさもあってか、誰もがこれから始まる戦いを楽しみにしている様子だった。
そんな周囲の賑わいとは対照的に、彩葉は胸の奥に落ち着かないものを感じていた。彼らにとっては、ツクヨミで開催される大型イベントの一つに過ぎない。しかし、その裏で何が起ころうとしているのかを知っている彩葉には、これから始まる戦いを単なるゲームとして受け止めることができなかった。月からやって来た永琳たちの目的は、輝夜を連れ戻すことにある。地上側が敗北すれば、その目的を妨げることはできなくなり、輝夜は自分たちの前から連れ去られてしまう。事前の作戦会議で何度も確認した事実が、周囲から聞こえる楽しげな声によって、かえって鮮明に思い起こされていた。
隣に立つ輝夜へ目を向けると、彼女は集まったプレイヤーたちを興味深そうに眺めていた。周囲の賑わいに浮かれているというより、これだけ大勢の人々が一緒に戦おうとしてくれていることを、素直に嬉しく思っているようだった。
「彩葉、さっきから難しい顔してるわね」
「……そう見える?」
「うん。まあ、気持ちは分かるけどね」
輝夜はそう答えると、彩葉の顔を覗き込むように少し身を寄せた。その声音には普段と変わらない親しみやすさがあり、何か特別な言葉をかけようとしているわけでもなく、ただ彩葉が必要以上に気負っていることを気にかけているようだった。
「でも、私たちもちゃんと準備してきたでしょ? 今からそんなに心配してたら疲れちゃうわよ」
「それはそうだけど……輝夜は緊張してないの?」
「してるわよ。これだけ大勢の人が集まってるんだもの。でも、だからって何か変わるわけじゃないし、私は私にできることをするだけよ」
あまりにも自然に返された言葉に、彩葉は思わず小さく笑ってしまった。輝夜は自分の気持ちを隠すことなく口にする一方で、一度決めたことについては驚くほど迷いを見せない。そんな彼女の堂々とした態度に、これまで何度も振り回されてきたはずなのに、今はそれが少し頼もしく感じられた。
彩葉も輝夜の言うことが間違っているとは思わなかった。今さら心配を重ねたところで、永琳が攻めてくるという事実は変わらない。自分たちにできるのは、事前に決めておいた役割を果たし、何が起こっても対応できるようにしておくことだけだった。そうして気持ちを切り替えようとしたところで、広場のざわめきを押しのけるように、聞き慣れた声が響き渡った。
「さあさあ、皆さん! 大変長らくお待たせいたしました! 本日も実況を務めさせていただきます、忠犬オタ公でございます!」
威勢のよい挨拶に応じて、広場のあちらこちらから歓声が上がった。忠犬オタ公はその反応を確かめるように一拍置くと、集まったプレイヤーたちへ向けて、さらに声を張り上げる。
「いよいよ本日、ツクヨミでも類を見ない異変が開催されます! 果たしてプレイヤーたちは、迫り来る月の軍勢を退けることができるのでしょうか!」
その口上に合わせて周囲の熱気が高まっていく中、彩葉は広場に集まった人々へ視線を巡らせた。これほど大勢のプレイヤーが同じ目的のために集まる光景は珍しく、彼らのほとんどが今回のイベントの裏に隠された事情を知らないということを除けば、普段のツクヨミと何も変わらない光景だった。
「そして今回、解説を担当してくださるのはこの方! おなじみ、因幡てゐさんです!」
「今回も解説を担当する因幡てゐだよ。みんな、よろしくね」
忠犬オタ公の勢いとは対照的に、てゐは落ち着いた調子で挨拶を返した。普段からどこか掴みどころのない彼女らしく、その声音には必要以上に場を盛り上げようとする気負いもなく、これから始まる大規模な戦いについても、いつものイベントと変わらない態度で向き合っているように聞こえる。
しかし、彩葉はその平然とした口調の裏にある事情を知っていた。今夜の戦いは、単に勝敗を競うために用意された催しではない。月人たちが輝夜を連れ戻すために起こした本物の異変であり、地上側にとっては彼女を守るための戦いだった。その真相を一般参加者に悟らせず、最後までツクヨミの大型イベントとして成立させることこそが、てゐに課せられた役割だった。どれほど激しい戦闘が起ころうとも、どれほど予想外の事態に陥ろうとも、参加者たちが目の前の出来事をイベントの一部として受け止められるよう、彼女は普段と変わらない態度で解説を続けなければならない。
そう考えると、今まで何気なく聞いていたてゐの声も、彩葉には少し違ったものに感じられた。
「さて、今回の大型イベント、その名も『永夜抄』! 参加するプレイヤーの皆さんには地上側の軍勢として戦っていただき、月側から攻め寄せる敵を迎撃していただきます!」
「事前に説明したとおり、今回は一度倒されたら再参加できないからね。普段の対戦とは勝手が違うし、周りの状況をよく見て動いた方がいいと思うよ」
てゐが補足すると、近くにいたプレイヤーたちも改めて仲間と顔を見合わせ、それぞれの作戦を確認し始めた。再参加できないという条件はすでに告知されているものの、実際に開幕が迫ったことで、その重みを意識し始めた者もいるのだろう。
「なるほど! ということは、今回は個人の実力だけでなく、チームワークも重要になってくるわけですね!」
「そういうこと。相手の数も多いから、無理に一人で何とかしようとしない方がいいね。せっかくこれだけ仲間がいるんだから、うまく協力してほしいかな」
二人のやり取りを聞きながら、彩葉は広場に集まった人々へ視線を巡らせた。皆、今日という日を楽しみにしていたのだろう。大勢の参加者が協力して一つの敵に立ち向かうという形式は、普段の対戦とは異なる楽しさがあり、彼らの期待が高まるのも無理はなかった。
けれども、彩葉たちにとっては事情が違う。地上側が敗北すれば、輝夜は月へ連れ去られる。たとえ参加者たちが最後までゲームのつもりで戦っていたとしても、その結末まで単なるイベントとして終わる保証はなかった。ふと隣を見ると、輝夜も実況に耳を傾けながら、周囲のプレイヤーたちへ目を向けていた。彩葉の視線に気付いた彼女は、何を考えているのかと尋ねるように首を傾げたあと、小さく笑みを浮かべる。
「これだけみんなが集まってくれたんだもの。負けるわけにはいかないわね」
「……うん。絶対に守るから」
彩葉がそう答えると、輝夜は少しだけ目を丸くしたあと、いつものように親しみのある笑顔を浮かべた。
「ありがとう。でも、私だって何もしないわけじゃないんだから。彩葉こそ無茶しすぎないでよ?」
守られる側であることを当然のように受け入れるのではなく、自分も一緒に戦うのだと告げるその言葉に、彩葉はもう一度頷いた。輝夜の意思を尊重したいと思う一方で、それでも彼女を連れて行かせるわけにはいかないという気持ちは、少しも変わっていなかった。
やがて、忠犬オタ公の声が再び広場全体へ響き渡った。
「さあ、皆さん! いよいよ準備が整ったようです! 月と地上の威信を懸けた一大決戦、その行方を最後まで見届けてまいりましょう!」
開幕を目前にした広場では、プレイヤーたちが次々と武器を掲げ、周囲から大きな歓声が上がった。彩葉も自然と背筋を伸ばし、これから始まる戦いに意識を集中させる。
「それでは参りましょう! 大型イベント『永夜抄』、開幕です!」
開幕宣言と同時に、中央広場の上空へ幾筋もの光が打ち上がった。色鮮やかな光は次々と弾け、広場に集まった人々の顔を明るく照らし出していく。続いて戦闘開始を告げる鐘の音が鳴り響くと、待ちわびていたプレイヤーたちから一斉に歓声が上がり、会場全体が大きな熱気に包まれた。
彩葉はその光景を眺めながら、静かに息を吐いた。ヤチヨによって前日から止められたツクヨミの夜は、今も変わることなく続いている。広場を埋め尽くす人々は、その事実も、今夜の戦いが本当は何を意味しているのかも知らないまま、目の前のイベントを楽しもうとしていた。彼らに真相を知らせないことについて、彩葉にも思うところがないわけではなかった。しかし、月側との戦いを避けられない以上、今は一人でも多くの仲間と協力し、輝夜を守り抜くことだけを考えるしかない。
彩葉は隣に立つ輝夜と目を合わせると、仲間たちとともに地上側の拠点へ向かうため、動き始めたプレイヤーたちの流れに加わった。
◇ ◇ ◇
彩葉たちが地上側の拠点へ移動すると、そこではすでに多くのプレイヤーが出陣の準備を進めていた。武器の状態を確かめる者や仲間と作戦を確認し合う者など、周囲には戦闘開始を目前にした独特の緊張感が漂っている。そんな中、拠点へ到着した帝は、戦場へ続く大きな門を見つけるなり、待ちきれないといった様子で勢いよく駆け出した。
「一番乗り!」
突然響き渡った威勢のよい声に、周囲のプレイヤーたちが驚いて振り返った。帝はそんな視線を集めていることすら楽しんでいるようで、進路上にいた者たちが慌てて道を開ける中、金棒を肩へ担いだまま門へ向かって走っていく。その足取りにはこれから月の軍勢と戦うことへの緊張など微塵も感じられず、むしろ誰よりも早く戦場へ飛び出し、強敵と戦えることを心待ちにしていたかのようだった。
あまりにも唐突な行動に、彩葉は思わずその背中を目で追った。交渉の際、永琳と依姫が見せた態度を思い返せば、今回の相手が普段の対戦とは比較にならないほど危険な存在であることは分かっている。それにもかかわらず、帝はいつもの調子を崩すどころか、これから始まる戦いを存分に楽しむつもりらしい。
その後ろでは雷が遠ざかっていく帝の背中を眺め、僅かに口元を緩めていた。
「また始まったな」
低く落ち着いた声でそう呟くと、雷は特に慌てる様子もなく、帝の後を追うために身体の向きを変えた。こうしてリーダーが真っ先に飛び出していくことには慣れているのだろう。わざわざ呼び止めようとすることもなく、むしろその勢いに付き合うことを楽しんでいるようにも見えた。
一方、乃依はすでに門へ向かって走り始めている帝を眺めながら、少し気怠そうに肩を竦めた。
「ほんと好きだよねー。俺らも行こっか」
乃依が隣へ顔を向けると、雷は短く頷いた。そんな雷の反応に乃依は小さく笑みを浮かべ、輪刀の位置を確かめながら歩き始める。口調こそ面倒くさそうだったものの、その表情にはこれから始まる戦いへの興味も滲んでおり、帝の勢いに仕方なく付き合わされているというわけではなさそうだった。
やがて雷が足を速めると、乃依もその隣へ並び、二人は先を行く帝との距離を縮めていった。帝はすでに門を抜けて戦場へ駆け出しており、その後を追う二人の足取りにも迷いはない。性格も戦い方も異なる三人だったが、こうした場面での息の合い方には、長く同じチームで戦ってきた者同士ならではの自然さが感じられた。
彩葉は遠ざかっていく三人の背中を見送りながら、小さく息を吐いた。相手がどれほど強敵であろうと、いつもどおりの自分たちで戦おうとする姿勢は、いかにもBlack onyXらしいものだった。それでも、今夜の相手はこれまでの対戦で戦ってきたプレイヤーたちとは違う。彩葉は三人が無事に役割を果たしてくれることを願いながら、再び拠点に集まった仲間たちへ視線を戻した。
「……相変わらずだなぁ」
思わず漏れた言葉には呆れも混じっていたが、同時に、あの三人ならそう簡単にはやられないだろうという安心感もあった。先ほどまで胸の奥を占めていた緊張が少しだけ和らいだのは、帝たちがいつもと変わらない様子で戦場へ向かっていったからかもしれない。
「帝様、もうあんなところまで……」
真実はすでに遠ざかり始めている帝の背中を、名残惜しそうに目で追っていた。先ほどまで周囲の状況を気にかけていたはずなのに、今は彼が進んでいった方角から視線を外せずにおり、その様子に気付いた芦花が小さく笑みを浮かべる。
「まあ、あの三人なら大丈夫でしょ。それより、私たちも準備しないと」
芦花の言葉に彩葉も頷き、改めて拠点の外へ視線を向けた。Black onyXの三人は、これから綿月依姫を迎え撃つことになっている。依姫がどれほどの戦闘能力を持っているのか、彩葉たちにも正確なところは分からないが、帝たちが協力して戦うのであれば、少なくとも簡単に突破されることはないだろう。
一方、彩葉たちが担当するのは永琳だった。
永琳がどのような経路で攻めてくるのかは分からず、相手の姿を確認できなければ、迎撃することさえ難しい。輝夜のいる拠点へ近づかせないためにも、まずは戦場全体の状況を把握しておく必要があった。拠点の内部では、今も多くのプレイヤーたちが慌ただしく動き回っていた。武器や装備を確認する者たちが行き交い、外へ通じる門の周辺には、帝たちに続いて進軍しようとする参加者が次々と集まっている。
彩葉はそんな周囲の様子を一通り確認すると、拠点の上階へ続く通路へ目を向けた。
「私たちも上に行こう。ここからじゃ、向こうの動きがよく見えないし」
彩葉が声をかけると、芦花と真実も頷き、一行は拠点の内部へと足を向けた。出陣するプレイヤーたちとすれ違いながら上階へ通じる通路を進み、戦場全体を見渡せる場所へ向かって階段を上っていく。
◇ ◇ ◇
拠点の最上部へ出ると、そこには地上から眺めるよりもはるかに広い戦場が広がっていた。遮るものの少ない高所からは、地上側の拠点を出発した部隊の動きがよく分かり、眼下に伸びる道の先では、帝たちがすでに前線へ向かって進んでいる。その後方からも別の参加者たちが続いており、開幕直後の戦場では地上側の軍勢が着々と展開を進めているようだった。
一方、遠くに見える月側の拠点は、周囲の暗がりに紛れるようにして佇んでいた。戦場のあちらこちらに点在する灯りが地形の輪郭を浮かび上がらせており、開けた場所であれば進軍する部隊を見つけることもできそうだった。しかし、起伏の陰や建物の向こう側までは確認できず、敵がどのような経路を選んでくるのかを判断するには、まだ情報が足りなかった。
「ここからなら、かなり遠くまで見えるね」
真実は拠点の縁へ歩み寄り、眼下に広がる戦場を興味深そうに眺めていた。先ほど見送った帝たちの姿を見つけると、その進む先を目で追いながら、月側の拠点がどの辺りにあるのかを確かめようとする。
「でも、全部が見えるわけじゃないね。あの辺りなんて、何がいるのか全然分からないし」
「うん。こっちから見えない場所があるってことは、向こうもそういう場所を利用してくるかもしれない」
彩葉は真実が示した方角へ目を向けながら、戦場の起伏と道の位置を頭の中で整理していった。永琳がどこから現れるか分からない以上、正面の道だけを警戒していては不十分であり、月側の動きが確認できた段階で、どこへ向かうべきか判断する必要がある。その隣では芦花も戦場を見渡しながら、進軍していく地上側の部隊と、その先に広がる地形を注意深く確かめていた。
「依姫の方は帝さんたちに任せるとして、私たちは永琳を見つけるのが先だね」
「そうだね。見つけたら、できるだけ輝夜のいる拠点へ近づかせないようにしないと」
彩葉が答えると、芦花も短く頷いた。永琳を倒せればそれに越したことはないが、今回の戦いで最も重要なのは、彼女を拠点へ到達させないことだった。相手がどれほど強力であっても、輝夜が術を発動できるまで足止めできれば、地上側には勝機が生まれる。もっとも、相手がこちらの思惑どおりに動いてくれるとは限らない。永琳ほどの人物であれば、地上側が何かを企んでいることにも気付くはずであり、正面から戦う以外の方法で拠点を目指してくる可能性も考えられた。彩葉がそんなことを考えていると、傍らにいた輝夜が遠くの月側拠点へ目を向けたまま口を開いた。
「永琳は、絶対に私を連れて帰るつもりなんでしょうね」
それまでの会話とは少し異なる、静かな声音だった。彩葉が振り向くと輝夜は遠くの景色を眺めながら、何かを確かめるように目を細めていた。そこに怯えた様子はなく、むしろ自分を連れ戻しに来た相手と、これから向き合わなければならないことを受け止めているようだった。
「……うん。だから、そうさせないために私たちがいるんだよ」
「分かってるわ。みんなが頑張ってくれるんだもの、私も自分の役目をちゃんと果たさないとね」
輝夜はそう言って彩葉へ振り返ると、いつものように柔らかな笑みを浮かべた。その表情を見て、彩葉は少しだけ肩の力を抜いた。輝夜は守られることだけを望んでいるわけではなく、自分の意思でこの戦いに参加することを決めている。だからこそ、彩葉も彼女を信じ、自分に与えられた役割を果たさなければならなかった。今回の戦いにおいて輝夜が担う役割は自分たちとは大きく異なっている。ヤチヨに教わっていた術は月側の軍勢を撃破するための重要な切り札であり、その準備を妨害されれば地上側は大きく不利になってしまう。輝夜自身もそのことを理解しているからこそ、前線へ向かう仲間たちの姿を見送りながら、自分にできることを考えているのだろう。
彩葉は改めて戦場へ視線を戻し、拠点の位置と周囲の地形を確認した。自分たちが永琳を止め、帝たちが依姫を食い止め、その間に輝夜が術を発動する。作戦そのものは単純にも思えるが、実際にはどこか一つの戦線が崩れただけで、全体の計画が立ち行かなくなる危険性を抱えている。だからこそ、最初の判断を誤るわけにはいかなかった。その間も、ツクヨミの各所には忠犬オタ公とてゐの声が響いていた。
「さあ、地上側の各チームが続々と進軍を開始しております! すでに拠点を離れた者も多く、戦場では着々と迎撃の準備が整っているようです!」
「地上側は先に配置を進めているみたいだね。ただ、月側がどう動くかによって状況も変わってくるから、今の段階では何とも言えないかな」
てゐの解説は、先ほどの開幕前と変わらず落ち着いたものだった。忠犬オタ公が観客の期待を高めるように戦況を伝える一方で、彼女は確認できる情報だけを取り上げ、地上側と月側のどちらかに肩入れするような言い方も避けている。その慎重な言葉選びに、彩葉はてゐもまた、自分たちとは違う場所で戦っているのだと感じていた。
表向きには解説者として振る舞いながら、永夜抄が本物の異変だと知られないようにする。それがどれほど難しい役割なのか、彩葉には正確には分からなかったが、少なくとも今のところ参加者たちが異変の真相に気付いている様子は見られなかった。
「それにしても、これだけ大勢のプレイヤーが一斉に動く光景は壮観ですね! 果たして月側はどのような形で迎え撃つのでしょうか!」
「向こうも準備はしてるはずだからね。そろそろ動きがあってもおかしくないと思うよ」
てゐの言葉を聞いて、彩葉は改めて月側の拠点へ視線を向けた。遠くに見える建物の周辺は、相変わらず静まり返っているように見える。地上側の部隊が着々と進軍しているのに対し、月側にはまだ目立った動きがなく、あまりにも静かなその様子が、かえって不気味に感じられた。もっとも、月側が何もしていないとは限らない。この距離では建物の内部まで見通すことはできず、拠点の陰に待機している兵がいたとしても、こちらから確認することは難しい。永琳や依姫がどこにいるのかも分からない以上、相手の行動を予想するより、実際に動き始めた瞬間を見逃さないことの方が重要だった。
彩葉は眼下の戦場へ視線を移し、先行する帝たちの姿をもう一度確かめた。三人はすでに拠点から相当な距離を進んでおり、その後方には別の参加者たちも続いている。開幕直後の勢いそのままに前進を続ける帝たちを見ていると、これから相手にする月の軍勢がどれほど強大であっても、簡単には引き下がらないだろうということだけは確信できた。
自分たちもいつまでもここに留まっているわけにはいかない。高所から戦場を眺めるのは、あくまで敵の進軍方向と周囲の地形を確認するためだった。永琳と依姫の姿を発見するには、必要に応じて自分たちも戦場を移動し、相手の位置を探らなければならない。彩葉は遠くの月側拠点と、そこへ向かって伸びるいくつもの道を見比べながら、どこから敵が現れてもすぐに動けるよう、意識を集中させた。
そして彼女たちが戦場を見渡している間にも、月側の拠点では地上側とはまったく異なる静けさの中で、戦闘の準備が進められていた。
◇ ◇ ◇
月側の拠点には、すでに大勢の玉兎たちが集まっていた。整然と並んだ彼女たちは、それぞれ武器を携えて出陣の命令を待っており、周囲に不必要な私語はほとんど聞こえない。開幕を喜ぶプレイヤーたちの声で賑わっていた地上側とは対照的に、こちらでは月の軍勢としての規律が保たれ、戦闘を目前にしても隊列が乱れる様子はなかった。拠点の外には広大な戦場が広がり、遠くにある地上側の陣地では、すでに人間たちが進軍を始めているはずだった。しかし、玉兎たちは勝手に動き出すことなく、それぞれの持ち場で待機し、上官からの命令が下されるのを待ち続けていた。
やがて、拠点の奥から一人の女性が姿を現した。長い銀髪を背中へ流し、赤と青の衣装をまとった八意永琳は、居並ぶ玉兎たちの前まで歩みを進めると、彼女たちの様子を一通り見渡した。その足取りに急ぐ様子はなく、周囲の兵たちが一斉に姿勢を正しても、特に表情を変えることなく、遠くにある地上側の陣地へ視線を向けていた。この世界の戦闘形式については、すでに地上側との交渉で確認している。月の軍勢が攻め込み、地上側がそれを迎え撃つという構図も、双方が了承した条件に従うものであり、永琳自身もその約束を違えるつもりはなかった。
もっとも、月側が優先すべき目的は明確だった。地上の人間たちをすべて倒す必要はなく、姫を確保して連れ戻すことさえできれば任務は達成される。反対に、いくら多くの敵を撃破したところで、姫の確保に失敗すれば意味がない。永琳はその方針を徹底させるため、前方に並ぶ玉兎たちへ改めて目を向けた。
「姫様を見つけたら拘束しなさい。それ以外は撃破して構わないわ」
落ち着いた声音で告げられた命令に、玉兎たちは一斉に姿勢を正した。確保すべき対象と、それ以外の敵に対する扱いは明確であり、姫を傷つけずに連れ戻すことが最優先となる。その行く手を阻む者については、相手が誰であろうとも排除して構わないということだった。永琳は兵たちの反応を確かめると、続けて口を開いた。
「これは実戦ではあるものの、命を落とすことはないから安心しなさい」
その言葉に、玉兎たちの間でわずかに緊張が和らいだ。今回の戦いは単なる演習ではなく、姫を連れ戻すための実戦であることに変わりはない。しかし、敵に撃破されたとしても命まで失うことはないと告げられたことで、兵たちは必要以上に死を恐れることなく任務へ臨めるようになった。もっとも、それは戦闘に敗れても構わないという意味ではなかった。撃破されれば戦線から離脱することになり、その分だけ残された仲間たちの負担が増える。永琳の言葉を受けた玉兎たちは、改めて武器を握り直しそれぞれの任務を果たすために気を引き締めていた。
「承知しました、八意様。全部隊へ伝達します」
先頭に立っていた玉兎が応じると、その意識から放たれた思念が周囲の仲間たちへと伝わっていった。受け取った玉兎たちもまた、離れた場所にいる仲間へ同じ情報を共有し、命令は拠点の内外へ瞬く間に広がっていく。月の兎たちにとって、テレパシーによる意思疎通は特別なことではない。互いに離れた場所でも直接情報をやり取りできるため、広い戦場へ展開する部隊に対しても、使者を走らせることなく指示を伝えられるのだった。
――姫様を発見した場合は拘束し、それ以外の敵は撃破して構わない。
永琳から下された命令は、その注意事項とともに各部隊へ共有された。拠点の外で待機していた玉兎たちも次々と思念を受け取り、進軍に備えて装備を確認していく。その間に混乱が生じることはなく、各自が自分の役割を理解したうえで、出陣の準備を整えていった。やがて、先ほど永琳の命令を受けた玉兎が一歩前へ進み出た。
「八意様、全部隊への伝達が完了しました」
「ええ。各部隊には予定どおり行動するように伝えておきなさい」
玉兎が短く返事をして元の位置へ戻ると、永琳は再び遠くの戦場へ視線を向けた。地上側がどのような迎撃態勢を整えているのかは、実際に接触するまで分からない。交渉によって勝負の条件は確認できたものの、地上の人間たちがこの世界で培ってきた戦闘技術まで、すべて把握できたわけではなかった。それでも、相手の流儀に合わせると決めた以上、その条件の中で確実に目的を果たすだけだった。地上側にも何らかの策があることは十分に考えられるが、だからといって進軍をためらう理由にはならない。
永琳がそんなことを考えていると、整列した玉兎たちが静かに道を開け、その間から一人の女性が歩み出た。綿月依姫は永琳の前で足を止めると、背筋を伸ばしたまま向き直った。彼女の表情に迷いはなく、後方に控える兵たちもまた、出陣の指示が下されるのを待っている。
「八意様、出陣の準備は整っています」
「ええ。予定どおり進軍を開始しなさい」
「承知しました」
永琳の返答を受けた依姫は、短く頷いて身を翻した。彼女に与えられた任務は、地上側の軍勢を突破し、輝夜の確保を目指すことだった。進軍を妨げる敵を退ける必要はあるものの、戦闘そのものが目的ではない。どれほど多くの敵が立ちはだかろうとも、その先にいる輝夜を連れ戻すという役割を見失うわけにはいかなかった。依姫は玉兎たちの間を進み、拠点の出口へ向かって歩き始めた。周囲の兵たちは彼女の進路を開けるとともに、それぞれの隊列へ戻っていく。すでに永琳の命令は全員に伝わっており、後は進軍開始の合図を待つばかりだった。
やがて拠点の出口へ到着した依姫は足を止め、後方に控える玉兎たちへ振り返った。
「これより進軍を開始します。各員、命令に従って行動しなさい」
その言葉を受けた玉兎たちが一斉に動き出し、月側の拠点から戦場へと続く道に、整然とした隊列が形成されていった。兵たちは互いの間隔を保ちながら前進を始め、先頭に立つ依姫もまた、地上側の陣地へ向かって歩みを進める。拠点の門を抜けた先には、両軍が激突することになる広大な戦場が広がっていた。遠くにある地上側の陣地からは建物の灯りが漏れ、その周囲に続く道や建造物の輪郭を浮かび上がらせている。進軍する玉兎たちの隊列はその方向へ向けて少しずつ伸びていき、それまで静まり返っていた拠点の周辺にも、規則正しい足音や装備の触れ合う音が広がり始めた。
依姫は歩みを緩めることなく、前方に広がる戦場を見据えていた。地上側がどのような備えをしているのかは分からないが、月側が姫を連れ戻すために来たという事実は変わらない。相手が抵抗するのであれば、それを退けて進むまでだった。
永琳は拠点に残り、遠ざかっていく依姫たちの姿を静かに見送っていた。月側の兵力と依姫の能力を考えれば、地上側の軍勢が容易に進軍を阻めるとは考えにくい。しかし、永琳はそれだけで勝敗が決まるとは思っていなかった。地上側も姫を守るために戦う以上、何らかの備えを用意しているはずであり、相手の行動を見誤れば、こちらの計画にも支障が生じかねない。
そうした可能性を念頭に置きながら、永琳は先行する依姫たちが戦場の向こうへ遠ざかっていくのを見届けた。両軍を隔てる戦場には、まだ本格的な戦闘の音は響いていない。しかし、双方の部隊が進軍を始めた以上、その静けさが長く続くことはないだろう。
永琳はしばらくその光景を見つめていたが、やがて静かに身を翻し、拠点の奥へと歩き始めた。
姫を連れ戻すための戦いは、すでに始まっていた。