超輝夜姫!   作:白鳥ダイヤ

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第3話

三連休が明けた朝、彩葉は目覚ましが鳴るより先に起きた。

隣では、輝夜が腰近くまで伸びた黒髪を枕の上へ広げ、穏やかな寝息を立てている。

昨日の朝とは違い、その姿を目にしても声を失うことはなかったが、一夜で成長した少女と一緒に暮らしている状況を、完全な日常として受け入れられたわけでもなかった。

 

彩葉は輝夜を起こさないようにベッドを降り、制服へ着替えた。

授業で使うものを鞄へ収めた後、留守番中の食事を用意するため、台所へ立つ。

棚から取り出したのは、わずかに残っていたホットケーキミックスだった。

牛乳も卵も使わない。

ボウルへ粉と水だけを入れ、最低限まとまる程度に混ぜて焼く。

食費を抑えながら腹を満たすことが目的であり、味や食感へ手間をかける余裕はなかった。

生地を焼く匂いに気づき、輝夜が掛け布団から顔を出した。

 

「何を作っているの?」

 

「今日の昼に食べるパンケーキだから、今すぐ食べないでね」

 

「パンケーキ?」

 

寝起きで僅かに乱れた黒髪を手で払い、輝夜は調理台へ近づいた。

焼き上がったものは綺麗な円形ではなく、表面も少し硬い。店で提供されるような柔らかさとは程遠かったが、空腹を満たす役割だけなら果たせるはずだった。

彩葉はパンケーキを皿へ重ね、ローテーブルへ置いた。

 

「私は学校へ行くから、帰ってくるまで部屋で待ってて」

 

「私も行く」

 

「行けないよ」

 

「どうして?」

 

「輝夜は私の学校の生徒じゃないでしょう? 今日は留守番してて」

 

輝夜の表情から、パンケーキへの興味が僅かに薄れた。

 

「いつ帰ってくるの?」

 

「放課後には帰るつもりだけど、少し遅くなるかもしれない」

 

「それまで、ずっと一人なの?」

 

深い赤褐色の瞳へ不安が浮かぶ。

身体は成長したが、彩葉と離れて過ごした経験がないことに変わりはない。赤ん坊だった頃には、彩葉が同じ部屋の机へ向かっただけでも、その姿を探すように手を伸ばしていた。

学校を休むという考えが、彩葉の胸へ一瞬だけ浮かんだ。

 

しかし、すぐに打ち消す。

簡単に欠席すれば、後から別の時間を削って授業へ追いつかなければならなくなる。これから輝夜との生活を考えるなら、なおさら自分の日常を崩すことはできなかった。

 

「ノートパソコンは使っていいから、分からないことを調べて待ってて。お昼になったらパンケーキを食べていいよ」

 

「ツクヨミには行けないの?」

 

「スマコンがないんだから行けないよ。それから、勝手に何か買ったりしないでね!」

 

念を押すように告げると、輝夜は不満そうに唇を尖らせた。

 

「分かったわ」

 

返事はした。

少なくとも、彩葉にはそう聞こえた。

鞄を肩へかけ、玄関で靴を履く。

扉を開く直前、彩葉はもう一度振り返った。

輝夜は部屋の中央へ立ち、借り物の服を身につけ、黒髪を背中へ流しながら、こちらを見つめている。

 

「行ってきます」

 

一人暮らしを始めてから、誰かへ向かって口にすることのなかった言葉だった。

輝夜は一度目を瞬かせた後、柔らかく笑った。

 

「いってらっしゃい、彩葉」

 

その声を背中へ受け、彩葉は玄関の扉を閉じた。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

彩葉がいなくなった部屋は、輝夜が想像していたよりもずっと静かだった。

扉の向こうから聞こえていた足音が遠ざかり、やがて完全に消える。

 

「彩葉?」

 

試しに名前を呼んでみても、当然ながら返事はない。

昨日までは、彩葉が机へ向かっているだけでも、同じ部屋の中に気配があった。

 

話しかければ答える。

近づけば黒髪を撫でる。

不満を口にすれば困った顔をしながらも、最後には輝夜のために何かをしてくれた。

今は、どれだけ呼んでも声が返ってこない。

 

輝夜はノートパソコンを起動し、昨日教えられたとおりに、知らないものを調べ始めた。

 

 学校

 乗り物

 外の世界の建物

 食べ物

 音楽

 

新しい知識を得ることは楽しかったが、一つの疑問を解決しても、画面に表示された時刻はほとんど進んでいなかった。

昼に近づくと、輝夜は彩葉が残していったパンケーキの覆いを外した。朝に漂っていた甘い香りを思い出し、期待しながら一口を切り分ける。数回噛んだところで、輝夜の表情が止まった。水分の少ない生地が口の中へ張りつき、香りから想像したほどの甘さもない。硬く、単調で、昨日食べた温かな朝食とは比べものにならなかった。

輝夜はどうにか飲み込み、皿の上へ残されたパンケーキを見つめた。

 

「……おいしくない」

 

率直な感想を口にしても、彩葉は近くにいない。

目の前にいれば、どうしてこのような味なのか尋ねただろう。もっとおいしいものを作ってほしいと頼んだかもしれない。

けれど、これは彩葉が朝早く起き、自分のために用意したものだった。

 

輝夜は不満そうに眉を寄せながらも、残りを少しずつ食べた。

おいしくない。

それでも、彩葉が帰るまで空腹にならないためのものだということは理解していた。

 

食べ終わった後、輝夜は再びノートパソコンへ向かった。

画面の中へ広がるツクヨミと、ヤチヨについて話していた時の彩葉の顔を思い出す。

いつも疲れている彩葉が、あの時だけは少し笑っていた。スマコンがあれば、彩葉が好きな世界へ自分も行ける。同じものを見て、同じ場所を歩き、同じ遊びを楽しむことができる。

 

輝夜は、スマコンを扱う商品画面を開いた。

欲しいものを選び、届ける場所を指定し、支払い方法を選ぶ。表示される説明を読めば、操作そのものは難しくなかった。

購入に必要な情報は、彩葉が普段利用しているアカウントへ保存されている。

注文を確定する直前、輝夜の指が止まった。

彩葉は、勝手に何かを買わないようにと言っていた。

お金は使えば減ることも、そのお金を得るために彩葉が学校へ通いながら働いていることも、すでに理解している。

 

自分が注文すれば、彩葉は怒るだろう。

それでも、いつか余裕ができたら、という言葉を待ち続けるつもりにはなれなかった。

その「いつか」が明日なのか、一月後なのか、もっと遠い先なのかは分からない。

 

輝夜は、できるだけ早く彩葉とツクヨミへ行きたかった。

彩葉が好きな世界を見てみたい。

彩葉がどのような姿でツクヨミを歩いているのか知りたい。

そして、そこで何をして遊ぶのか、自分にも教えてほしかった。

輝夜の指が、注文を確定する表示へ触れた。

画面が切り替わり、購入が完了したことと、スマコンが届けられる予定が示される。

 

「これで、彩葉と一緒に行けるわ」

 

輝夜は満足そうに目元を緩めた。

スマコンはすぐには届かなかった。

画面に表示された時刻を何度確認しても、彩葉が帰ってくる時間は近づかない。

 

輝夜はしばらくノートパソコンの前で待っていたが、やがて椅子へ座り続けることにも飽き、窓の外を眺めた。

通りには多くの人が行き交っている。

その中に彩葉の姿はない。

彩葉は部屋から出るなと言っていた。

けれど、彩葉が帰ってこないのであれば、自分から探しに行けばよい。

 

輝夜は、その判断にほとんど迷わなかった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

放課後、彩葉は綾紬芦花と諌山真実に連れられ、学校から少し離れたカフェへ入っていた。

普段の彩葉であれば、用事もなく立ち寄ることはない店だった。

飲み物一杯の値段を見ても、自宅で何食分を用意できるかへ置き換えて考えてしまう。果物やクリームで飾られたパンケーキなど、自分のために注文しようと思ったことはなかった。

 

「今日は遠慮しないでよ、彩葉!」

 

芦花が卓上のメニューを閉じながら、逃げ道を塞ぐように笑った。

 

「ノートを見せたくらいで、パンケーキまでご馳走してもらわなくてもいいんだけど」

 

「そのノートのおかげで赤点を回避できたんだから、十分なお礼だよ」

 

真実が穏やかな声で答えた。

 

「彩葉は自分から何か頼んでくることがないんだから、こういう時くらい受け取ってくれてもいいでしょう?」

 

芦花の言葉には、軽い調子の奥へ、彩葉を気遣う響きがあった。

三連休に何をしていたのかと尋ねられても、彩葉は正直に答えられなかった。

 

電柱の中から赤ん坊を拾い、その赤ん坊が一夜で同年代の少女へ成長し、今は自分の部屋で留守番をしている。ありのままを話したところで、信じてもらえるとは思えない。

 

「それにしても、三連休明けなのに、いつもより疲れてない?」

 

芦花が彩葉の目元を覗き込むように身を乗り出した。

 

「そんなことないよ!」

 

「今の返事、明らかに何か隠してる時の声だったけど」

 

「ちゃんと休んだから大丈夫!」

 

赤ん坊の呼吸を気にして夜中に何度も目を覚まし、その翌朝には同年代の少女に成長され、生活の常識を一から教えていた。確かに学校やアルバイトへは行っていないものの、それを休息と呼んでよいのかは疑わしかった。

 

やがて、三人の前へパンケーキが運ばれてきた。

均等な焼き色のついた生地が何段も重ねられ、その上には柔らかなクリームと果物が飾られている。朝、彩葉が水と粉だけで焼いたものとは、同じ名前で呼ぶことが申し訳なくなるほど違っていた。

 

「彩葉ノートで赤点回避記念だね」

 

「大げさだよ……」

 

「いいから食べて。冷めちゃうよ」

 

芦花に促され、彩葉がナイフへ手を伸ばした、その瞬間だった。

 

視界の端を、長い黒髪が横切った。

顔を上げるより早く、彩葉の皿へ伸びた手が、重ねられたパンケーキの一枚を器用に抜き取る。

そのまま、ためらいなく口へ運んだ。

 

目の前に立っていたのは、部屋で留守番をしているはずの輝夜だった。

腰近くまで伸びた黒髪。

彩葉から借りた服。

そして、初めて本格的なパンケーキを口にしたことで、大きく見開かれた赤褐色の瞳。

輝夜は数回噛み締めると、朝のものとの違いを全身で表すように顔を明るくした。

 

「とってもおいしいわ」

 

「ちょっと待って! どうしてここにいるの!?」

 

彩葉は椅子を引き、思わず立ち上がった。

輝夜は叱られていることよりも、口の中へ広がった味に意識を奪われているらしい。彩葉の皿と、すでに自分が食べた一枚を交互に見比べている。

 

「これがパンケーキなの?」

 

「朝もパンケーキを作ったでしょう!」

 

「あれはおいしくなかったわ」

 

「はっきり言わないで!」

 

彩葉の叫びへ、芦花と真実が目を瞬かせた。

二人の視線が、彩葉と輝夜の間を往復する。

 

「彩葉、この子は?」

 

芦花が慎重に尋ねた。

彩葉は答えようとして、言葉を失った。

 

 親戚

 友人

 同居人

 

どの説明も正しくない。

彩葉が言葉を探しているうちに、輝夜は芦花と真実へ興味深そうな視線を向けた。

 

「彩葉、この二人を紹介して」

 

「今、この状況で!?」

 

「彩葉の友達なんでしょう?」

 

輝夜は紹介されることを当然のように待っていた。

彩葉は周囲の視線を意識し、額へ手を当てながら、できる限り小さな声で二人の名前を告げた。

 

「こっちが芦花で、こっちが真実。二人とも学校の友達」

 

輝夜は一度聞いただけで名前を覚え、二人へ柔らかな笑顔を向けた。

 

「芦花と真実ね、私は輝夜、よろしくね」

 

あまりにも堂々とした自己紹介だった。

芦花は驚きを残しながらも、すぐに人当たりのよい笑みを返した。

 

「よろしく、輝夜ちゃん」

 

真実も軽く頭を下げた後、純粋な疑問を浮かべて首を傾ける。

 

「輝夜ちゃんは、どこから来たの?」

 

その質問を聞いた瞬間、彩葉の背筋へ嫌な予感が走った。

朝、同じ問いを投げかけた時の答えを思い出す。

 

止めなければならない。

彩葉が口を開くよりも、輝夜の方が僅かに早かった。

 

「月からよ」

 

「つ、築地だよねー!」

 

彩葉は椅子から身を乗り出し、輝夜の発言へ無理やり言葉を重ねた。

芦花と真実へ引きつった笑顔を向けながら、勢いのまま説明を続ける。

 

「月じゃなくて築地! この子、築地から来た私の従妹なの!」

 

「築地?」

 

真実が確認するように繰り返した。

月と築地では、聞き間違えるにはあまりにも違いすぎる。

芦花も完全には納得していないらしく、彩葉と輝夜を交互に見つめていた。

 

「彩葉、私は月から――」

 

「そういう設定で遊んでるだけだから!」

 

再び正直に説明しようとした輝夜の肩を掴み、彩葉は言葉を遮った。

 

「ほら、輝夜って名前だから! 月から来たって言った方が、それっぽいと思ってるんだよ! ねっ、輝夜?」

 

強い視線で同意を求められ、輝夜は不満そうに口を閉じた。

 

「……築地から来たことにすればいいの?」

 

「今それを聞き返さないで!」

 

芦花が堪えきれないように小さく笑い、真実も完全に信じたわけではない顔のまま、ひとまず追及を止めた。

 

「輝夜ちゃんもパンケーキが好きなの?」

 

真実が話題を変えるように尋ねると、輝夜は彩葉の皿へ視線を戻した。

 

「今、好きになったわ」

 

「朝はまずいって言ったばかりでしょう!」

 

「朝のは好きじゃないけど、これは好き」

 

「同じパンケーキなんだけど!」

 

「同じ味ではないでしょう?」

 

水と粉だけで作ったものと、店で丁寧に焼かれたものを比べれば、味が違うのは当然だった。

反論できずに彩葉が黙ると、芦花は口元を押さえて笑い、真実は自分の皿から一口分を取り分けて輝夜へ差し出した。輝夜は僅かに目を輝かせ、差し出されたパンケーキを受け取る。

 

「ありがとう、真実」

 

先ほど彩葉の皿から奪った時とは異なり、今度は柔らかな生地とクリームをゆっくり味わっている。その間に、彩葉はようやく、自分がまず確認しなければならないことを思い出した。

 

「部屋から出ないでって言ったよね?」

 

「待っていたわ」

 

「今ここにいる時点で、待ってないでしょう!」

 

「途中までは待っていたの。でも、彩葉がなかなか帰ってこなかったから、探しに来たわ」

 

「放課後まで帰らないって説明したよね!?」

 

「放課後が、あんなに長いとは思わなかったもの」

 

輝夜は、自分の行動に問題があったとは考えていないようだった。

彩葉が帰らないから探しに来た。

本人の中では、それだけで十分な理由になっている。

 

「取りあえず、帰るよ!」

 

彩葉は鞄を手に取り、残されたパンケーキへ名残惜しさを感じながら立ち上がった。

 

「えっ、もう?」

 

「もう、なの! 勝手に外へ出たことも、どうやってここまで来たのかも、家で全部聞くから!」

 

彩葉が腕を掴むと、輝夜は抵抗しなかった。

ただ、店を出る直前まで、テーブルの上へ残されたパンケーキを振り返っていた。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

帰り道でも、彩葉は輝夜の腕を離さなかった。

 

「彩葉、怒っているの?」

 

「怒ってるよ!」

 

「パンケーキを食べたから?」

 

「それもあるけど、一人で外へ出たから! 何かあったらどうするつもりだったの!?」

 

「でも、彩葉を見つけたわ」

 

「結果の話をしてるんじゃないの!」

 

声を荒らげながらも、彩葉の手には、輝夜を罰するためではない力が込められていた。

一度目を離せば、またどこかへ行ってしまうかもしれない。

今度こそ見つけられなくなるかもしれない。

 

そんな恐怖が、掴んだ腕を離すことを許さなかった。

輝夜は彩葉の横顔を見つめ、ようやく、単に約束を破ったから怒っているのではないと理解したらしい。

 

「心配したの?」

 

「するに決まってるでしょう!」

 

「見つけた時の彩葉、すごく怖い顔だったわ」

 

「誰のせいだと思ってるの!」

 

「でも、私を見つけて安心していたでしょう?」

 

図星を指され、彩葉は言葉に詰まった。

 

「……もう、勝手に出ないで」

 

「彩葉が帰ってくるまで?」

 

「そう。少なくとも、外のことを覚えるまでは一人で出ちゃ駄目!」

 

「分かったわ」

 

朝と同じ返事だった。

彩葉は本当に理解しているのか疑いながらも、今度は何度も確かめるように輝夜の顔を見た。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

部屋へ戻ると、彩葉は輝夜をローテーブルの前へ座らせた。

自分も向かいへ腰を下ろし、一人で外へ出た経緯を最初から聞こうとしたところで、開いたままのノートパソコンが視界へ入った。

画面には、商品の購入状況を知らせる表示が残されている。

中央へ記されている商品名を目にした瞬間、彩葉の思考が止まった。

 

――スマコン

 

嫌な予感に背中を押されるように、彩葉はパソコンを自分の方へ引き寄せた。

注文履歴を開く。

自分が購入した覚えのないスマコンが一つ、この部屋へ届けられる予定になっている。

支払いには、彩葉が登録していたウォレットが使われていた。

 

「……嘘でしょ」

 

残高を確認する。

学校へ通い、アルバイトを続け、食費や日用品を切り詰めながら少しずつ貯めてきた金額が、大きく減っている。彩葉の表情から、怒りよりも先に血の気が引いていった。

 

「……輝夜」

 

低い声で名前を呼ぶ。

 

「なに?」

 

輝夜は、外出について再び叱られるのだと思ったらしく、先ほどより慎重な目を彩葉へ向けた。

彩葉は画面を回し、購入履歴を輝夜へ突きつける。

 

「これ、何?」

 

「スマコンよ」

 

「それは見れば分かるよ! どうして注文されてるの!?」

 

「私が買ったから」

 

「勝手に買わないでって、朝に言ったよね!?」

 

「覚えているわ」

 

「覚えてるのに、どうして買ったの!?」

 

彩葉の怒声が、狭いワンルームの隅々まで響き渡った。

直後、二人の間に短い静寂が落ちる。

その静寂を打ち破ったのは、彩葉でも輝夜でもなかった。

 

――どんっ!

 

隣室との境になっている壁が、鈍く重い音を立てた。

 

「ひゃっ!?」

 

彩葉の肩が大きく跳ねた。

怒りに任せて前のめりになっていた身体を反射的に引き、音のした壁を見つめる。何かが倒れたわけではない。明らかに、壁の向こうにいる誰かが叩いた音だった。

 

続けて、もう一度、どんっ!、と壁が鳴る。

今度は先ほどよりも強く、これ以上騒ぐなという意思が、薄い壁を通してはっきりと伝わってきた。

彩葉は完全に動きを止めた。

つい先ほどまで顔を赤くして輝夜を問い詰めていた勢いは消え失せ、壁へ視線を固定したまま、呆然と呟く。

 

「……初めて壁ドンされた」

 

輝夜は突然音を立てた壁を見つめ、それから彩葉へ顔を向けた。

 

「今のはなに?」

 

「隣の人に怒られたの!」

 

反射的に声を上げかけた彩葉は、途中で慌てて音量を落とした。

 

「……輝夜が勝手にスマコンを買ったせいで、私が怒鳴ったから」

 

「壁を叩いて知らせるのね」

 

「そこに感心しないで!」

 

再び声を張り上げた直後、彩葉は自分の口を両手で塞いだ。

恐る恐る壁へ視線を向ける。

 

幸い、三度目の衝撃は来なかった。それでも彩葉は、壁の向こうにいる隣人がまだ耳を澄ませているような気がして、身体を小さく縮こまらせた。

 

「……とにかく、人のお金を勝手に使ったら駄目なの。分かる?」

 

「分かっているわ」

 

「分かってるなら、どうして注文したの?」

 

今度は壁を警戒しながら、彩葉は囁くような声で問い直した。

輝夜は叩かれた壁から彩葉へ視線を戻し、静かに答えた。

 

「彩葉と、すぐにでもツクヨミで遊びたかったから」

 

「……私と?」

 

予想していなかった答えに、彩葉の勢いが一瞬だけ弱まった。

 

「彩葉は、ツクヨミの話をしている時、嬉しそうだったでしょう。私も彩葉と一緒に行って、同じものを見てみたかったの」

 

「だからって、人のお金を勝手に使っていいわけじゃないから!」

 

「駄目だったのは分かっているわ」

 

「分かってるなら、どうして注文したの?」

 

「いつかまで待ちたくなかったもの」

 

輝夜は落ち着いた声で答えた。

 

「私は、彩葉とすぐに遊びたかったから」

 

怒らなければならない。

勝手に外へ出たことも、ウォレットから高額な買い物をしたことも、曖昧に許してよい行動ではない。

 

それでも彩葉は、自分と一緒に遊びたいという理由で、目の前の少女がスマコンを注文したのだと知り、次の言葉を失ってしまった。

輝夜はそんな彩葉を見つめながら、スマコンが届けばすぐにツクヨミへ連れていってもらえると、まだどこかで信じているようだった。

 

彩葉は額を押さえ、深く息を吐いた。

腕の中へ収まっていた頃よりも、話せるようになった今の方が、何倍も手がかかる。

けれど、その原因が、自分と同じ景色を見たいという願いにあるのだと思うと、怒りだけを向けることもできなかった。

 

「……届いたら、まず使い方を教えるから」

 

思わず漏れた言葉に、輝夜の瞳が僅かに明るくなる。

 

「一緒に行ってくれるの?」

 

「その前に、お金を勝手に使ったことについて、ちゃんと反省してもらうからね!」

 

「分かったわ」

 

「絶対に分かってない!」

 

彩葉の声が、再び狭い部屋へ響いた。

その向かいで輝夜は、叱られているにもかかわらず、ほんの少しだけ嬉しそうに笑っていた。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

隣室から二度続けて壁を叩かれたことで、これ以上声を荒らげれば、輝夜を叱る前に自分が近隣住民から叱られることになると悟った彩葉は、カフェから持ち帰ったスマコンの箱をローテーブルの端へ置き、ひとまず夕食の支度を始めた。

 

狭い台所へ立ち、残っていた食材を冷蔵庫から取り出す。その背後では、輝夜がローテーブルの前へ座り、透明な包装に覆われた箱をじっと見つめていた。

 

触れてはいない。

 

彩葉から許可されるまでは開けてはいけないと言われたため、その言葉だけは守っているらしい。ただし、赤みを帯びた深い褐色の瞳は箱からほとんど離れず、彩葉が振り返るたび、ほんの少しずつ顔と箱の距離が縮まっていた。

 

「輝夜」

 

「なに?」

 

「勝手に私のお金を使わないこと」

 

「分かったわ」

 

「本当に?」

 

彩葉が包丁を止めて振り返ると、輝夜はようやく箱から視線を外した。

 

「欲しいものは買う前に彩葉へ相談する」

 

「駄目って言われても、買ったら駄目だからね」

 

「ええ」

 

輝夜は素直に頷き、少しだけ視線を伏せた。

 

「ごめんなさい」

 

あまりにも早く、しかも真っすぐ謝られたため、彩葉は続けようとしていた説教の言葉を失った。

本当は、スマコンがどれだけ高価なのか、生活費がどういうものなのか、知らない街を一人で歩くことがどれほど危険なのか、順番に説明するつもりだった。しかし、先ほどまで怒鳴っていた自分を思い出すと、長く続けるほど隣人へ新たな壁ドンの機会を与えることにもなる。

 

「……次から気をつけて」

 

「気をつけるわ」

 

それで話を終わらせようとして、彩葉は再びまな板へ視線を戻した。

けれど、包丁を持ち直したところで手が止まる。

今日のことだけを注意しても、これから先も同じような騒動が起きるかもしれない。赤ん坊だったはずの少女が一晩で成長し、現代の常識をほとんど知らないまま自分の部屋に住んでいる。これまでの出来事が異常すぎて後回しにしていたが、いつまでも曖昧なまま一緒に暮らし続けるわけにはいかなかった。

 

「それと、輝夜」

 

「まだあるの?」

 

輝夜は叱られることを覚悟したように、スマコンの箱から顔を上げた。

その反応に、彩葉は一瞬だけ言葉を詰まらせる。自分がこれから告げようとしていることが、見知らぬ少女を部屋から追い出さないための条件なのか、それとも自分自身を安心させるための決まりなのか、彩葉にも分からなかった。

 

「ここにいる間の約束を決めるから」

 

「ここにいる間?」

 

「いつまでもってわけにはいかないけど……少なくとも、輝夜を知ってる人が迎えに来るまでは、ここにいてもいい」

 

輝夜の表情が僅かに変わった。

安堵したようにも、最初からそうなると信じていたようにも見える。けれど、すぐに喜びを口へ出すことはせず、彩葉の次の言葉を待っていた。

彩葉は包丁を置き、台所からローテーブルの方へ身体を向けると、条件の数を示すように指を一本立てた。

 

「一つ目。目立つことはしない」

 

輝夜が瞬きをする。

すでに電柱の中から現れ、一晩で十六歳ほどまで成長した少女に言い聞かせる条件として、これほど不安なものもない。それでも、人目を集めれば、輝夜の正体を探ろうとする者が現れるかもしれなかった。

彩葉は二本目の指を立てる。

 

「二つ目。私に黙って外へ出ない。出かける時は、必ず先に言うこと」

 

輝夜が素直に聞いているのを確かめ、彩葉は三本目の指を立てた。

 

「三つ目。私の邪魔をしない」

 

「邪魔?」

 

「学校もあるし、バイトもあるし、一人でやらなきゃいけないこともあるの。ずっと輝夜に付き合えるわけじゃないから」

 

自分で口にしておきながら、少し冷たい言い方だったかもしれないと思った。

けれど輝夜は傷ついた様子を見せず、三本立てられた彩葉の指を順番に眺めてから、確かめるように問い返した。

 

「目立たない。彩葉に黙って外へ出ない。彩葉の邪魔をしない。それを守れば、ここにいていいの?」

 

「……迎えが来るまでだからね」

 

「分かったわ」

 

輝夜は迷うことなく頷いた。

 

「約束する」

 

その言葉は、先ほどの謝罪と同じように真っすぐだった。

決まりを作ったはずの彩葉の方が、なぜか目を逸らしたくなるほどに。

 

「本当に守ってよ」

 

「守るわ」

 

輝夜はそう答えた後、何事もなかったようにスマコンの箱へ視線を戻した。

約束を交わした直後から、箱へ釘付けになっている姿を見ると早くも不安になったが、少なくとも勝手に包装を破ろうとはしていない。彩葉は小さく息を吐き、今度こそ調理へ戻った。

まな板を包丁が叩く音と、鍋の中で食材が煮える小さな音が部屋へ続く。

輝夜はしばらくスマコンの箱を見つめていたが、やがて台所へ顔を向けた。

 

「まだかかる?」

 

「スマコン?」

 

「ご飯よ」

 

「そっちなんだ」

 

「スマコンも気になるけれど、お腹もすいたわ」

 

「先にご飯だからね。食べ終わるまでは開けないよ」

 

「分かっているわ」

 

答えながらも、視線は再び箱へ戻っている。

彩葉はその様子に呆れながら、残っていた野菜と肉を手早く調理した。特別な料理ではない。短い時間で作れるものを一皿へまとめただけだったが、朝に水とホットケーキミックスだけで焼いたパンケーキよりは、はるかにまともな味になっているはずである。

二人分の皿をローテーブルへ並べる。輝夜がすぐに箸へ手を伸ばそうとしたため、彩葉は短く告げた。

 

「手」

 

それだけで意味が伝わったらしい。

 

「洗ってくるわ」

 

「石鹸も使ってね」

 

「分かっているわ」

 

先ほど叱られたことが多少は堪えているのか、今日はいつもより素直だった。

手を洗って戻ってくると、輝夜は彩葉が箸を取るのを待ち、それから自分も料理を口へ運んだ。何度か噛んだ後、僅かに目元が和らぐ。

 

「夜ごはんはおいしいわ」

 

「夜ごはん、って付けないでよ」

 

「朝のパンケーキとは違うもの」

 

「もう忘れてって言ったでしょう!」

 

思わず大きな声が出てしまい、彩葉は途中で口を閉じた。

二人の視線が、同時に隣室との境になっている壁へ向く。

何も聞こえない。

数秒間待ってから、彩葉は慎重に声を潜めた。

 

「……朝のことは忘れて」

 

「味は覚えているわ」

 

「お願いだから忘れて……」

 

彩葉が力なく項垂れる一方で、輝夜は僅かに楽しそうな表情を浮かべ、再び箸を動かし始めた。

どうやら反省はしていても、朝のパンケーキを材料に彩葉をからかうことまで禁じられたとは考えていないらしい。

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