草原を吹き抜ける夜風が、激しい戦闘によって踏み倒された草を揺らしていた。綿月依姫を前にして笑みを浮かべたBlack onyXの三人だったが、戦いを楽しんでいるからといって、相手を侮っているわけではなかった。むしろ、僅かな判断の遅れがそのまま敗北につながると分かっているからこそ、帝は金棒を肩へ担ぎ直し、雷は鬼面盾と錫杖を構え、乃依は緩やかな斜面を移動しながら次の射線を探していた。
先ほどまでの攻防で、自分たちの連携が見抜かれていることは明らかだった。それでも、三人が長く磨いてきた役割分担を捨てるつもりはなく、相手の反応を確かめながら攻撃を仕掛ける順番と距離を調整していく。
「さてと、次はどう攻めるかな!」
帝が楽しそうに笑う一方、雷は依姫の足元から視線を外さず、盾の角度を僅かに変えた。
「正面から無理に押すな。こっちの攻撃を利用して、懐へ入り込んでくるぞ」
「分かってるって! だったら、向こうがどう動くか試してやろうじゃねえか!」
帝が草地を蹴って踏み込み、金棒を横薙ぎに振るった。依姫が軌道の外へ身をずらし、伸びた腕の内側へ入ろうとしたところで、帝は武器を途中で引き戻し、その先端を正面へ向ける。直後、金棒に備えられた銃口から乾いた銃声が響き、弾丸が依姫のいた位置を貫いた。
「そらよっ!」
依姫は踏み込んだ足を軸に身体を捻り、弾道から外れると同時に刀を構え直した。銃撃によって進路を変えた彼女の側面へ、今度は雷の錫杖が伸びてくる。依姫はそれを刀で受け流したが、その間に帝は金棒を振り上げ、再び正面から圧力を掛けていた。
「おっと、今度はこっちだぜ!」
帝の重い打撃を雷が側面から支え、斜面では乃依が短弓を引き絞る。二人の武器が届かない方向へ逃れようとすれば、乃依の矢が踏み込み先を射抜くようにそれぞれが依姫の動きに合わせて位置を変えていた。
「逃がさないよー!」
低い軌道を描いた矢が草の穂先を掠めながら依姫の足元へ迫る。命中すれば動きを鈍らせられるため、依姫も無視できる攻撃ではなかったが、刀を返して矢を弾くと、帝の身体を挟む位置へ移動して乃依の射線を塞いでしまった。
「……やっぱり、簡単には当たらないか」
乃依は弓を引いたまま斜面を横へ走り、帝と依姫を別々に捉えられる位置を探した。依姫はその動きを横目で確かめつつ、帝の金棒を受け流し、雷の盾が割り込むより早く足を運んでいく。三人の連携を崩すために誰を先に動かすべきか、すでに理解しているようだった。帝が再び踏み込んだところへ、依姫は金棒の外側から刀を合わせ、その勢いを利用して相手の構えを大きく開かせた。帝が武器を引き戻そうとすると、その動きに合わせてさらに一歩踏み込み、空いた胴へ刃を走らせる。
「おっと、危ねえ!」
帝は慌てて身を捻り、辛うじて斬撃をかわしたものの、着地した足が草を滑って僅かに体勢を崩した。依姫はその隙を見逃さずに追撃しようとしたが、雷の鬼面盾が横から割り込み、鋭い金属音とともに刀を受け止める。
「帝、下がれ!」
「おう!」
帝が体勢を立て直す間に、雷は錫杖を突き出して依姫を牽制した。依姫はその先端を刀で受け流し、今度は雷の盾の縁へ刃を滑らせて、防御の角度を僅かにずらす。そのまま懐へ踏み込もうとしたところへ乃依の矢が飛来したため、依姫は身体を捻って弾き落とした。三人の連携は見事だったが、依姫もまた、攻撃を防ぐだけでは終わらせない。刀を振るうたびに相手の構えを崩し、次の一撃が届く位置へ踏み込んでは、雷や乃依の援護によって追撃を阻まれていた。
そんな攻防が幾度か繰り返された時、乃依の視界の端へ小さな通知が浮かんだ。戦闘中に届いた連絡は、視界を妨げないよう端へまとめて表示されている。内容を読むには別のウィンドウを開く必要があったため、普段なら後回しにするところだったが、差出人の名前に気付いた乃依は、短弓を構えたまま帝へ声を掛けた。
「帝! ヤチヨちゃんから連絡が来てるよ!」
「ああ!? 今かよ!」
帝は迫る斬撃を金棒で受け止め、押し込まれる前に身体を捻って間合いを外した。相手の刀から目を離せば、その一瞬に懐へ入られることは、これまでの攻防で痛いほど分かっていた。
「悪い! こっちは見る余裕がねえ! 乃依、何て書いてあるか教えてくれ!」
「俺だって確認する余裕ないって!」
乃依は言い返しながら、帝の側面へ迫ろうとする依姫へ矢を放った。刀に弾かれるとすぐ次の射撃位置を探し、斜面を横へ駆けていく。差出人だけは確認できたものの、仲間の援護を止めてまで内容を読むことはできなかった。
「だったら、あとでまとめて確認するしかねえな!」
「だから、それまでちゃんと生き残ってよね!」
「へへっ、言われなくてもそのつもりだぜ!」
帝が笑いながら金棒を振るうと、依姫は半歩だけ身をずらして打撃をかわした。雷が鬼面盾で反撃の進路を塞ぎ、乃依は矢を番え直す。ヤチヨからの連絡は気になったが、誰か一人が手を止めれば、残る二人が危険に晒される状況だった。
依姫はそんな三人の動きを見極めながら、次々と斬撃を繰り出していた。帝の金棒を受け流した直後、雷が援護へ踏み込むより早く刀を返し、その盾へ鋭い一撃を加える。雷が衝撃を受け止めようとしたところへ踏み込みを重ね、盾を支える腕に負荷を掛けることで、反撃に使うはずだった錫杖を引き戻させた。
「くっ……!」
雷が歯を食いしばって踏ん張ると、依姫は無理に押し切ろうとはせず、盾の側面へ刀を滑らせて構えを崩す。その間に帝が金棒を振り上げたため、依姫は身体を捻って打撃をかわし、再び三人を正面へ捉えた。
「へへっ、やっぱり強えな!」
「感心してる場合じゃないぞ、帝」
雷は盾を構え直しながら、依姫が次に踏み込む位置を慎重に見極めた。先ほどの一撃で腕に受けた衝撃が残っていたものの、相手が再び帝へ斬り込めば援護に入る必要がある。
依姫はそんな二人の動きを見ながら、刀を握り直した。帝の金棒は威力も間合いも厄介だったが、一度振り抜けば、次の攻撃へ移るまでに僅かな隙が生じる。雷はその弱点を補うために盾を構えているものの、援護に踏み込む瞬間には自身の防御が薄くなり、乃依も二人の身体が射線に重なれば、思うように矢を放てなくなる。
依姫は次に帝が金棒を振り下ろした瞬間、刀の側面でその軌道を逸らし、身体を斜めへ滑り込ませた。帝は武器を引き戻そうとしたが、依姫の踏み込みが予想以上に鋭く、反撃に備えて足を引かざるを得なかった。そこへ雷が盾を差し込み、乃依も射線を確保するために斜面を駆ける。三人はすぐに陣形を整え直したものの、依姫はその動きを確かめると、追撃へ移ることなく静かに刀を構え直した。
「……なかなか、しぶといわね」
その言葉に、帝は楽しそうに笑った。
「へへっ、そう簡単にやられてたまるかよ!」
「そうね。でも、いつまで守り切れるかしら?」
依姫は落ち着いた声で答えると、再び刀を構えて踏み込んだ。帝が金棒で迎え撃ち、雷が盾を構え、乃依の矢が草原を横切る。四人の攻防は途切れることなく続き、金属の衝突する音が夜の平原へ響き渡っていた。
その時、乃依の視界へ新たな着信通知が浮かび上がった。
「……あれ? 今度は彩葉からだ」
「彩葉から!? 今度は何だよ!」
帝が驚きの声を上げると、雷は鬼面盾を前へ構え依姫の刀を受け止めながら二人へ短く指示を出した。
「俺が出る。お前たちはそのまま援護を続けろ」
雷は錫杖を構え直し、視界に浮かんだ着信を短い操作で受け入れた。通話は三人が共有する非公開の音声回線へつながり、周囲に声を漏らすことなく情報を伝えられる状態となる。ほどなくして、彩葉の声が三人の耳へ届いた。
『お兄ちゃん、雷、乃依! ヤチヨさんからの連絡、もう確認した!?』
『悪い! 連絡が来てるのは分かってるんだけどよ、今ちょっと手が離せねえんだ!』
帝は通信越しに答えながら金棒を振り上げ、依姫の攻撃を遮るように踏み込んだ。依姫は金棒の軌道から身をずらすと、その内側へ刀を走らせた。帝が辛うじて武器を引き戻し、雷も錫杖を突き出して追撃を妨げる。さらに乃依の矢が飛来したため、依姫は深追いせず、三人の動きを見渡せる位置へ足を運んだ。
『そっか。じゃあ、私から説明するね!』
彩葉は一度言葉を区切り、三人が話を聞ける状態であることを確かめてから続けた。
『ヤチヨのおかげで、一度戦闘不能になったプレイヤーも、異変に再入場できるようになったの!』
『……ああ!? マジかよ!』
帝は思わず声を上げたが、依姫の刀が迫ったため、すぐに金棒を引き戻して防御へ切り替えた。予想もしなかった知らせに驚きながらも、戦闘から意識を逸らすわけにはいかない。雷が盾で追撃を防ぎ、乃依が依姫の足元へ矢を放つことで、帝はどうにか距離を取り直した。
『それって、一回倒されても、また戦場へ戻ってこられるってことか!?』
『うん! 今は何度でも再入場できるみたい。ただし、倒された場所にそのまま復活するわけじゃないから、戻ってくるまでには時間が掛かるの』
彩葉は状況を説明しながら、三人が依姫と激しい戦闘を続けていることを意識していた。ヤチヨの仕掛けによって、一度倒されたプレイヤーが再び戦えるようになったことは、地上側にとって大きな助けとなる。しかし、戦闘不能になった瞬間から復帰するまでの間、その人物が守っていた場所には戦力の穴が生まれてしまう。
まして月側の進軍を阻む役割を担っている三人が同時に倒されれば、依姫を止める者がいなくなってしまうかもしれなかった。
『だから、再入場できるからって無理はしないで! いつまで使えるかも分からないし、できるだけ今の場所で戦い続けてほしいの!』
『なるほどな。再入場できるのはありがたいが、簡単に倒されていいわけじゃないってことか』
雷は冷静に答えながら、盾の位置を変えて依姫の斬撃を受け止めた。
『そういうこと! 月側だって、何度も戻ってくるプレイヤーを見れば、何か対策を取ろうとするかもしれないから』
『へへっ、分かったぜ! わざわざありがとな、彩葉!』
『うん! お兄ちゃんたちも気を付けてね!』
短いやり取りを終えると、彩葉との通話が切れた。
三人の視界から通信中の表示が消え、再び戦況に関する情報だけが残る。依姫との攻防は依然として激しく、立ち止まって連絡の内容を確認し直す余裕もなかったが、少なくともヤチヨから届いた知らせの意味は理解できた。
「……へへっ、ヤチヨちゃんもなかなかやるじゃねえか!」
帝は金棒を肩へ担ぎ直しながら、口元を吊り上げた。
一度倒されたとしても、そこで戦いが終わるわけではない。そう考えれば多少の安心感は生まれるものの、目の前にいる依姫が容易に倒せる相手でないことも、これまでの攻防で十分に思い知らされていた。
「ま、俺たちは倒されないのが一番だけどねー」
乃依は軽い調子で答えながら、依姫の足元を狙って矢を放った。
「……ああ。状況が変わったからといって、戦い方まで変える必要はない」
雷も盾を構え直し、帝の側面へ移動した。その様子を見ていた依姫は、僅かに目を細めた。三人が何者かと連絡を取っていたことには気付いていた。戦闘中にもかかわらず、時折意識を別の方向へ向ける様子があり、互いに何かを確認し合っていたことも、表情や視線の変化から読み取れた。
しかし、通信は外部へ音声が漏れない状態で行われており、依姫には相手の声も、三人が交わした言葉も聞こえなかった。先ほどヤチヨという名前が出ていたことは覚えているものの、今の連絡がそれと関係しているのかどうかも分からない。ただ、連絡を終えた三人の表情には、何かを知った者特有の余裕が生まれているように感じられた。
「……何か、いい知らせでもあったのかしら?」
依姫が静かに問い掛けると、帝は一瞬だけ眉を上げた。
「ん? ああ、まあな!」
「そう。随分と嬉しそうだけれど、私にも教えてくれるのかしら?」
「へへっ、悪いな! そいつは内緒だ!」
帝が笑いながら答えると、依姫はそれ以上追及することなく、静かに刀を構え直した。
連絡の内容までは分からなかったが、三人が新たな情報を得たことは確かだった。それでも、帝は金棒を握る手を緩めず、雷は盾を前へ掲げ、乃依も短弓を構えて依姫の動きを窺っている。
雷は二人のやり取りを聞きながら、依姫の足元へ視線を向けた。
彼女の剣術は依然として鋭く、三人で連携していても容易には攻め切れない。再入場できるようになったとはいえ、ここで誰かが倒れれば、その間は残る二人だけで依姫を相手にしなければならなくなる。雷は鬼面盾を構え直し、帝と乃依へ静かに告げた。
「……何が変わったとしても、俺たちのやることは変わらない」
その言葉に、帝は一瞬だけ雷へ目を向けたが、すぐに納得したような笑みを浮かべた。
「ああ、そうだな! 俺たちはこいつを倒すために来たんだ。だったら、最後までやるだけだぜ!」
帝は金棒を肩から下ろし、両手で握り直した。先ほどまでの攻防で依姫の実力は十分に思い知らされていたが、それでも強敵を前にした高揚は収まらず、むしろ次にどのような攻撃を仕掛けようかと考えるだけで、自然と口元が緩んでしまう。
「ま、倒されても戻ってこられるってのはありがたいけどねー」
乃依も斜面の上で短弓を構え直し、二人の動きを確認しながら依姫へ視線を戻した。
「でも、せっかく三人揃ってるんだし、このまま勝てた方が格好いいじゃん?」
「へへっ、違いねえ!」
帝が声を上げて笑うと、雷も僅かに口元を緩めた。しかし、その視線が依姫から離れることはなく、彼女の僅かな動きにも対応できるよう、盾の位置を慎重に調整している。
三人の様子を眺めていた依姫は、静かに刀を構え直した。
何の連絡を受けたのかは分からないが、彼らが戦意を失うどころか、ますます意欲を高めていることは見て取れる。先ほどまでの攻防でも三人の連携は容易に崩れず、それぞれが自分の役割を理解したうえで、互いの隙を補い合っていた。
だからといって、依姫も簡単に退くつもりはなかった。
「……ずいぶんと楽しそうね」
依姫が穏やかな声で告げると、帝は金棒を握り直しながら、不敵な笑みを返した。
「そりゃそうだろ! こんなに強え相手と戦えるんだからな!」
「そう。それなら、私も遠慮する必要はなさそうね」
依姫は小さく微笑むと、三人との間合いを測るように足の位置を変えた。その僅かな動きに雷が反応し、帝も金棒を構えて腰を落とす。乃依は二人と依姫の位置を確かめながら弓を引き絞り、いつでも援護できるように呼吸を整えた。
草原には遠くの戦線から響く武器の衝突音が絶えず、時折上がる攻撃の閃光が、夜風に揺れる草の穂先を照らしている。四人の周囲にも先ほどまでの激闘の跡が残り、踏み倒された草の間には、金棒が抉った地面や乃依の放った矢が散らばっていた。
新たな知らせによって地上側の状況は変わったものの、目の前に立つ依姫の強さも、彼女を止めなければならないという三人の役割も変わってはいない。帝は楽しげな笑みを浮かべたまま金棒を構え、雷はその側面を守るように盾を掲げる。少し離れた斜面では乃依が矢を番え、依姫が動き出す瞬間を静かに窺っていた。
対する依姫も刀を構え、三人の呼吸と立ち位置を確かめながら、次の一撃を放つ機会を見極めている。夜風が草原を吹き抜け、四人の間に張り詰めた空気を揺らした。互いに譲るつもりのないまま、Black onyXと綿月依姫の戦いは、なお続こうとしていた。
◇ ◇ ◇
Black onyXとの通信を終えた彩葉は、視界の端に浮かんでいたウィンドウを閉じ、再び戦場へ目を向けた。
夜の草原では各地で激しい戦闘が続いており、遠くから響く武器の衝突音に混じって、プレイヤーたちの歓声や悲鳴が聞こえてくる。時折上がる攻撃の閃光が夜の闇を照らし、そのたびに入り乱れた人影が浮かび上がっていた。
ヤチヨのおかげで、一度戦闘不能になったプレイヤーも異変へ再入場できるようになった。彩葉はその情報を帝たちへ伝えたものの、彼らが依姫と交戦している状況まで変わったわけではない。先ほどの通話でも、帝の金棒が何かを打ち付けるような音や、雷が仲間へ指示を出す声が絶えず聞こえていた。依姫を相手にしながら、まともに会話を続ける余裕さえないのだろう。
それでも、三人の声に怯えた様子はなかった。
むしろ、強敵との戦いを楽しんでいるような帝の声を思い出し、彩葉は僅かに口元を緩めた。
「……お兄ちゃんたち、大丈夫かな」
小さく呟いてから、彩葉は改めて戦況を確認した。
地上側と月側の戦力は各所で衝突しており、中央では依姫とBlack onyXが交戦を続けている。そのほかの戦線でも玉兎たちの進軍を阻もうとするプレイヤーが奮戦していたが、すべての場所で地上側が優勢というわけではなかった。
しかし、彩葉が本当に気にしていたのは、それらの戦況ではない。月側の拠点にいるはずの、八意永琳の動向だった。彩葉は戦況を表示したウィンドウを切り替え、ボトム側の様子を改めて確認した。玉兎たちの姿は幾つも捉えられるものの、その中に永琳と思われる人影は見当たらない。
「……まだ、出てこない」
彩葉が呟くと、近くにいた芦花も視線を上げた。
「やっぱり、まだなの?」
「うん。少なくとも、こっちから確認できる範囲にはいないみたい」
芦花は困ったように眉を寄せ、遠くの戦場へ目を向けた。彼女たちが担当しているのは、永琳の迎撃だった。月側の指揮を執る彼女が動き始めた時に備え、彩葉たちはほかの戦線へ加わらず、その動向を警戒している。
しかし、戦いが始まってからというもの、永琳が前線へ出てくる気配は一向になかった。
「……それにしても、ずいぶん待たされてるよね」
芦花はそう言いながら、再び戦況を示すウィンドウへ目を落とした。
「帝たちはもう依姫と戦ってるんでしょ? ほかの場所だって、あんなに大変そうなのに」
「そうだね……」
彩葉は短く答え、芦花の視線を追った。
戦闘不能になったプレイヤーが再入場できるようになったとはいえ、目の前で苦戦している仲間を見れば、助けに行きたいと思うのも無理はない。しかも、自分たちはまだ永琳と一度も刃を交えておらず、ほかの仲間たちが戦っている間も、ひたすら相手の動きを待ち続けていた。その隣では、真実も腕を組みながら戦況を見つめていた。
「永琳って、本当に前線へ出てくるのかな」
真実の疑問に、彩葉はすぐには答えられなかった。
永琳がどのような判断を下すのか、こちらには分からない。月側の拠点に留まって指揮を執るつもりなのか、それとも別の戦線から攻め込もうとしているのか、現時点ではどちらとも断定できなかった。
「……出てくる可能性はあると思う。でも、いつになるかは分からないかな」
「だよね。だったら、ずっとここで待ってるのも、ちょっともったいない気がするんだけど」
真実はそう言いながら、中央の戦況へ視線を移した。
Black onyXが依姫を引き受けているとはいえ、ほかにも苦戦しているプレイヤーは大勢いる。自分たちが加勢すれば、少なくとも一部の戦線では状況を変えられるかもしれない。芦花も同じことを考えていたらしく、彩葉へ顔を向けた。
「少しだけ、ほかの人たちを手伝いに行くのは駄目かな? 永琳が動いたら、すぐ戻ってくればいいと思うんだけど……」
彩葉はその提案を聞き、視界に浮かぶ戦況へ改めて目を向けた。
確かに、今すぐ援護に向かえば助けられる仲間がいるかもしれない。自分たちだけが戦闘から離れている状況には、彩葉自身も落ち着かない気持ちを抱いていた。
けれど、ここで別の戦線へ向かえば、永琳が動き始めた時に対応が遅れる可能性がある。
相手がどれほどの実力を持っているのか、彩葉たちにはまだ分からない。しかし、月側を率いる立場にいる以上、決して油断してよい相手ではないはずだった。
「……ううん。それはやめておこう」
彩葉が静かに答えると、芦花と真実は揃って彼女へ目を向けた。
「でも、彩葉……」
「気持ちは分かるよ。私だって、できることならほかのみんなを助けに行きたい」
彩葉は芦花の言葉を遮ることなく聞き、少しだけ表情を緩めた。
「でも、私たちがほかの場所で戦ってる間に永琳が出てきたら、すぐには対応できないでしょ?」
芦花は何かを言いかけたものの、彩葉の言葉を聞いて口を閉じた。
「それに、お兄ちゃんたちも、自分たちの役割をちゃんと分かって戦ってる。ほかのみんなだって、きっとそうだと思うんだ」
彩葉はそう言いながら、中央の戦況を示すウィンドウへ一度だけ視線を向けた。
帝たちが依姫を相手に奮戦していることは分かっている。だからといって、自分たちが今すぐ駆けつければよいというわけではなかった。それぞれが受け持った役割を果たすことで、初めて月側の進軍を食い止められる。
「だから、私たちは永琳だけに集中しよう」
彩葉は二人へ向き直り、落ち着いた声で続けた。
「ほかの戦線のことが気になるのは分かるけど、今は永琳がいつ動いても対応できるようにしておくのが、私たちの仕事だと思う」
その言葉に、芦花はしばらく考え込むように俯いた。
目の前で仲間たちが戦っているのに、ただ待つことしかできない。そんな状況にもどかしさを感じていたものの、彩葉の言うことが間違っていないのも理解していた。
やがて芦花は小さく息を吐き、顔を上げた。
「……うん。そうだよね。私たちまで勝手に動いたら、せっかく立てた作戦が崩れちゃうもんね」
「そうそう。永琳が出てきた時に、私たちがいませんでしたじゃ困るし」
真実も苦笑を浮かべ、先ほどまで向けていた視線をボトム側へ戻した。
「それにしても、こんなに待たされるとは思わなかったけどね」
「ふふっ、それは私も同じかな」
彩葉が小さく笑うと、芦花もようやく表情を和らげた。三人の間に漂っていた落ち着かない空気が少しだけ薄れ、再びそれぞれが戦況を確認し始める。芦花は周囲の動きに気を配り、真実は視界に浮かぶ情報を確かめながら、永琳の姿を見落とさないよう注意を向けていた。
彩葉もまた、遠方の草原を見渡した。夜風に揺れる草の向こうでは、今も多くのプレイヤーたちが玉兎と戦い続けている。剣戟の音も、攻撃の閃光も絶えることはなく、その一つひとつが、仲間たちの戦いが続いていることを知らせていた。待ち続けることへの焦りが、完全に消えたわけではない。
それでも、今は自分たちの役割を果たすしかなかった。彩葉は視界に表示された戦況をもう一度確かめると、静かに息を整え、永琳がいるはずの月側の方角へ目を向けた。
まだ、その姿は見えない。
三人はそれ以上言葉を交わすことなく、夜の草原を見つめ続けていた。