夜の草原には、刃と金属がぶつかり合う鋭い音が響き続けていた。踏み荒らされた草の上で、帝が金棒を勢いよく振り下ろすと、綿月依姫は刀を斜めに合わせ、その重い一撃を横へ受け流した。
「おっと、危ねえ!」
依姫が金棒の内側へ踏み込んだ瞬間、雷の鬼面盾が横合いから割り込み、帝の胴へ迫る斬撃を受け止めた。雷は衝撃に腕を痺れさせながらも錫杖を突き出し、帝が武器を引き戻す時間を稼ぐ。
「帝、無理に踏み込むな!」
「分かってるって! でもよ、あそこまで避けられると燃えてくるだろ!」
「それで倒されたら意味がない」
雷の言葉に帝が笑い返す間にも、依姫は錫杖を払い、盾の側面へ回り込もうとしていた。そこへ斜面の上から矢が飛来し、彼女は足を止めて身体を翻す。
「こっちも忘れないでよねー!」
乃依が放った鈍足の矢は依姫の足元を掠めたが、続く一射も刀の側面で弾かれた。乃依は肩をすくめながら位置を変え、帝と雷の身体が射線に重ならない場所を探して次の矢を番える。
「雷、そっち頼むぜ!」
帝が金棒を引きながら叫ぶと、雷は錫杖の先端を地面へ当て、依姫が踏み込む側の草地へ小さな罠を仕掛けた。依姫は足元の僅かな違和感に気付き、歩幅を変えてその場所を避けたものの、回避のために進路を変えた先には帝の銃口が向けられていた。乾いた発砲音が響き、依姫は上体を傾けて弾丸をかわした。すぐに金棒が追ってきたため刀で受け流すと、雷は次の一撃を警戒して盾を押し出し、乃依も依姫の退路へ矢を放ってくる。
「うっわ、そこまで避けるの!? 雷の罠まで見えてるなんてさ!」
乃依の声には呆れと感心が入り混じっていたが、依姫は返答せずに刀を返し、三人の動きが重なる場所から素早く身を外した。三人の攻撃は決して単調ではなかった。帝の金棒には銃が組み込まれており、近距離での打撃だけでなく不意の銃撃にも警戒が必要だった。雷は鬼面盾で仲間を守りながら錫杖で動きを制限し、乃依は離れた位置から隙を狙ってくる。
依姫は誰か一人を仕留めようとするたび、残る二人に妨げられていたが、焦って攻め込むことはなかった。武器を振るう順番や足の運び方を確かめながら、互いの間合いが重なる瞬間を注意深く見極めていく。
「……なかなか、よく連携しているわね」
「へへっ、褒めてくれるなら、たまには一発食らってくれてもいいんだぜ!」
「それは遠慮しておくわ」
依姫の穏やかな返答に、帝は楽しそうに笑いながら再び金棒を振り上げた。依姫は刃を滑らせてその軌道を逸らし、反撃を狙って雷の盾へ刀を返す。雷は押し切られまいと踏ん張り、乃依が矢を放つ頃には、三人の位置も少しずつ変わっていた。草の折れる音が足元で重なり、遠方の戦線からは玉兎とプレイヤーたちの叫び声が届く。依姫が帝の金棒を受け流した折、攻撃の合間に浮かんだ一つの人影が、ふと彼女の注意を引いた。
少し離れた草地で玉兎たちと交戦しているプレイヤーの中に、肩へ赤い布を掛けた者がいた。布の結び方も手にした武器も見覚えがあり、とりわけ攻撃の前に左足を引く癖が、依姫の記憶に残っている動きと重なった。その人間は、Black onyXと出会うより前に依姫が撃破した相手だった。仲間とともに進路を塞ごうとして斬りかかってきたため、依姫は懐へ踏み込んで一撃を加え、HPが尽きた身体が光となって消えるところまで見届けている。
それなのに今、その人物は別の玉兎を相手に剣を振るい、仲間へ声を掛けながら戦っていた。依姫が僅かに眉を寄せた瞬間、目の前から重い風切り音が迫ってくる。
「おいおい、どこ見てんだよ!」
帝の金棒を刀で受け流したところへ雷の錫杖が伸び、依姫は身を捻って追撃を避けた。乃依の矢まで飛んできたため、再び間合いを整えると、帝が面白そうにこちらの顔を覗き込む。
「へへっ、何か気になることでもあったのか?」
「……いいえ。少し、見覚えのある人がいただけよ」
「そうかい! だったら、こっちに集中してもらおうじゃねえか!」
帝はそれ以上追及せず、金棒を構え直した。依姫も刀を向けながら先ほど目にした姿を思い返す。よく似た装備を使う別人という可能性はあるものの、布の結び方から武器の扱いまで一致するのは不自然だった。
雷の盾を回り込む際、依姫は別の戦線へ一瞬だけ目を走らせた。すると、今度は玉兎に槍を突き出している別のプレイヤーにも、確かな見覚えがあった。その人物も以前、仲間を庇って前へ出てきたところを自分が斬り伏せ、戦闘不能となって消えるまで確認した相手だった。今はほかのプレイヤーと肩を並べ、先ほどの戦いなどなかったかのように攻撃を続けている。
「……どういうことかしら」
依姫は呟きを漏らしたものの、目の前の三人から意識を外さないように刀を返した。少なくとも二人、自分が確かに撃破したはずの人間が戻ってきているとなれば、単なる見間違いでは片付けられない。依姫は二人の装備だけでなく、それぞれが立っている場所にも注意を払った。先ほど彼女が斬り伏せた場所とは離れているため、倒れたまま回復したという話でもなさそうだった。どうやって戻ったのかは不明でも、現在の戦況を考えるうえで見過ごせない事実であることは確かだった。
何らかの能力なのか、異変の仕組みが変化したのかまでは分からない。しかし、戦闘不能になった者が再び参加できるのであれば、敵を倒しても時間とともに戦力が補われ、長引く戦いほど月側の負担が増えてしまう。依姫は先ほどBlack onyXの三人が、何者かと通信していたことも思い出した。私的な通話の内容は聞こえなかったが、三人が良い知らせを受け取ったように笑っていたのは覚えている。ただ、今の現象との関係を決めつけるには材料が足りなかった。
確かなのは、倒したはずの人間が再び戦っているという事実だけだった。八意様へ報告する必要があると判断した依姫は、近くで交戦する玉兎の位置を確かめたが、三人に囲まれたままでは話をする余裕もない。
「さあ、まだまだいくぜ!」
帝が草を蹴って踏み込んでくると、依姫は金棒の軌道と、その両側を守る雷と乃依の位置を見比べた。これまでの攻防で掴んだ動きの癖を思い返し、刀を握る手へ僅かに力を込める。
「……少し、下がってもらうわ」
「ん? 何だって?」
金棒が振り下ろされる寸前、依姫は刃をその側面へ滑らせ、先端を外側へ逸らしながら帝の懐へ踏み込んだ。帝が武器を引き戻そうとしたところで柄を斜め上へ押し上げると、重心を崩した身体が勢いのまま後方へ傾いた。
「うおっ!? おわああっ!」
帝は金棒を抱えたまま草地を転がり、ようやく受け身を取ると、武器を地面へ突き立てて身体を止めた。立ち上がろうとする間にも依姫は次の相手へ向き直っており、援護に入った雷が鬼面盾を正面へ突き出す。
「帝!」
依姫は盾を正面から打ち破ろうとはせず、その縁へ刀を斜めに合わせ、雷が押し返す力を横へ流していった。雷が盾の角度を立て直したところへ錫杖を払い上げ、空いた側面へ身体の回転を乗せた一撃を加える。
「くっ……!」
盾ごと押された雷は踏ん張ろうとしたが、足元の草に靴底を滑らせ錫杖を握ったまま後方へ押し飛ばされた。倒れる寸前で受け身を取ったものの、立ち上がる頃には依姫が乃依のいる斜面へ駆けていた。
「ちょっと、雷まで!?」
乃依は鈍足の矢を続けて放ったが、依姫は一射目を弾き、二射目の軌道を見切って身をかわした。三射目を番える頃には距離を詰められていたため、乃依は短弓を変形させ、腰の周囲で回転する巨大な輪刀へ切り替える。
「うわっ、近いって!」
回転する刃が依姫の接近を拒むように円を描いたが、彼女はその速度を見極め、刃が前を通り過ぎた瞬間に外周へ刀を合わせた。輪刀の軌道が僅かに逸れ、乃依が腰を捻って立て直そうとしたところへ、依姫がさらに一歩踏み込む。
「えっ!? ちょっ――!」
重心を崩した乃依は斜面へ足を踏ん張ることができず、回転する輪刀ごと後方へ転がっていった。何度か草地を滑った末に受け身を取り、刃の回転を保ったまま起き上がったが、依姫が追ってこないことに気付いて顔を上げる。
依姫は刀を構えたまま三人の様子を確かめ、追撃を仕掛けるよりも先に、必要な報告を済ませることを選んだ。三人とも受け身を取り、すぐに武器を構え直そうとしているため、長く足を止めていられるわけではない。今作った僅かな余裕を逃せば、玉兎を呼び止める機会は再び遠のいてしまうだろう。三人は誰も戦闘不能になっていなかったものの、それぞれ離れた場所で武器を構え直さなければならなくなっていた。帝は金棒を肩へ担ぎ、雷は盾についた草を払いながら、依姫が見せた一連の動きを思い返している。
「三人まとめて吹っ飛ばすなんて、滅茶苦茶じゃねえか!」
「……力で押されたんじゃない。俺たちの重心が崩れる瞬間を狙われた」
「俺なんて斜面を転がされたんだけど! もうちょっと優しくしてほしいよねー!」
帝が笑い、乃依が大げさに肩を落としている間に、依姫は近くの玉兎へ視線を向けた。地上側の攻撃をしのいで距離を取った一羽へ声を掛けると、その玉兎は周囲を警戒しながら急いで駆け寄ってきた。
「そこのあなた、八意様に伝えてほしいことがあるわ」
「はい、依姫様! いかがなさいましたか?」
依姫の声に普段とは異なる緊張を感じ取ったのか、玉兎は姿勢を正し、彼女の言葉を待った。依姫は遠方の戦線へ目を向け、先ほど自分が目撃した異常を、誤解のないように伝えていく。
「私が一度撃破したはずの人間が、再び戦場に現れているの」
「……撃破した人間が、ですか?」
「ええ。少なくとも二人は確認したわ。どちらも私自身が戦闘不能にして、消えていくところまで見届けた相手よ」
玉兎は目を見開き、依姫が示した草原へ思わず視線を向けた。そこでは今も地上側のプレイヤーたちが武器を振るっており、一度倒された者まで混じっているという話を、すぐには理解できない様子だった。
「そんな……一度倒された者が、どうして……」
「理由はまだ分からないわ。ただ、見間違いではないはずよ。ほかの戦線でも同じことが起きているかもしれないから、八意様には確認した事実をそのまま伝えてちょうだい」
「承知いたしました!」
玉兎は短く答えると、仲間たちへ意識を向け、テレパシーによる連絡を始めた。月の兎たちは離れた場所でも情報を伝え合えるため、依姫の報告は近くの仲間から別の部隊へと引き継がれ、月側の拠点へ向かって送られていく。
玉兎は言葉を交わすうちにも、別の仲間から確認の応答が届いていることを依姫へ知らせた。戦場の混乱を考えれば、依姫自身が拠点まで戻るより、玉兎たちの通信を使った方が確実に情報を届けられる。依姫はその様子を見届け、再び三人がいる方向へ注意を向けた。
「八意様への報告は進めています!」
「ありがとう。あなたも戦闘へ戻りなさい。同じような人間を見かけたら、そのことも報告してほしいわ」
「はい!」
玉兎は一礼して元の戦線へ駆け戻り、依姫も遠くで立ち上がった帝たちへ向き直った。雷が鬼面盾を前に構え、乃依は輪刀を短弓へ戻して斜面を上がってきており、三人とも戦いを続けるつもりのようだった。
「おーい! 話は終わったかよ!」
「ええ。待たせたわね」
帝は金棒を肩へ担ぎながら先ほど玉兎が立っていた場所をちらりと見た。距離が開いていたため会話までは聞き取れなかったが、依姫が三人を遠ざけてまで何かを伝えたことは分かっている。
「なあ、あんた。さっき玉兎に何を話してたんだ?」
依姫は僅かに眉を上げたものの、すぐに落ち着いた表情へ戻り、帝の問い掛けへ答えた。
「……そんなこと、敵であるあなたたちに教えるわけないでしょう」
「……だよなぁ!」
帝が声を上げて笑うと、乃依もつられるように口元を緩め、雷だけが呆れた様子で息を吐いた。三人とも答えが得られるとは思っていなかったらしく、それ以上追及する様子はない。
「……最初から分かっていたことだろう」
「だよねー。そんな簡単に教えてくれるわけないか」
依姫はそのやり取りを眺めながら、少し前に三人が受け取っていた連絡を思い返した。何を話していたかは聞こえなかったものの、何かを知ったように表情を明るくしていたことだけは覚えている。
「……でも、そうね。あなたたちがさっき受け取っていた連絡の内容を教えてくれるなら、こちらも話すことを考えてあげてもいいわ」
「おっ、交換条件ってやつか?」
「そういうことになるかしら。あなたたちも、先ほど何か連絡を受けていたでしょう?」
雷は帝へ視線を向け、乃依も短弓を構えたまま僅かに首を傾げた。彩葉から教えられた再参加の情報は地上側にとって重要であり、月側がまだ知らないのなら、わざわざ伝える理由はなかった。帝もそのことを理解しているらしく、依姫の顔を見ながら楽しそうに口元を吊り上げた。
「へへっ、悪いな! そいつは教えられねえぜ!」
「……そう。残念ね」
依姫は静かに刀を構え直した。交換を持ち掛ければ何か聞き出せるかもしれないとは考えたものの、三人が簡単に応じるとは初めから期待していなかった。
「まあ、お互い様ってことだな!」
「そうね。これ以上聞いても、答えてはもらえなさそうだわ」
帝が金棒を構えると、雷も鬼面盾を前へ掲げ、乃依は斜面へ移動して二人を援護できる射線を確保した。依姫もその動きを追いながら刀を握り直し、再び三人の攻撃に備えて足を運ぶ。
「へへっ、じゃあ話はここまでだな! 続きを始めようぜ!」
「ええ。そうしましょうか」
夜風が踏み倒された草を揺らし、離れた戦線から聞こえる金属音に、近くで玉兎が槍を振るう音が重なった。三人の連携はなお健在であり、依姫もまた、目の前の相手を仕留める機会を探しながら静かに刀の切っ先を持ち上げた。帝が笑みを浮かべて地面を蹴ると、雷はその側面を守るように続き、乃依の短弓も依姫へ狙いを定める。依姫は迫る金棒を迎え撃つように踏み込み、再び響いた鋭い衝突音が、夜の草原を満たす戦いの喧騒へと溶け込んでいった。
その頃、依姫の目撃した不可解な現象についての報告は、玉兎たちのテレパシーを通じ、月側の拠点へと伝えられつつあった。
◇ ◇ ◇
月側の拠点では、八意永琳が視界に浮かぶ戦況図を見つめ、各地で交戦を続ける玉兎たちの動きを確認していた。
草原のあちこちでは地上側のプレイヤーが予想以上の抵抗を見せ、前進を阻まれた部隊からも報告が届いている。中でも依姫を足止めしている三人組の存在は気掛かりだったが、戦線全体が崩れたわけではなく、永琳は各部隊の消耗を見極めながら次の指示を考えていた。
拠点の外では玉兎たちが行き交い、遠くの戦線で上がる閃光が、夜の草原を断続的に照らしていた。永琳の目には、前線の一部が押し戻されたという報告よりも、交戦の長引いている場所が複数あることの方が気掛かりだった。防衛に回すべき戦力をどこまで残すか、判断を誤れば、前線を突破できても拠点が危うくなる。
その時、拠点の警戒を担当していた玉兎が、普段とは異なる慌ただしい足取りで彼女のもとへ駆け寄った。
「八意様、依姫様から緊急の報告が届いております!」
永琳は戦況図から目を上げ、息を弾ませる玉兎の顔へ静かに視線を向けた。
「依姫から? 何があったのかしら」
「依姫様が一度撃破したはずの地上側の人間が、再び戦場に現れているとのことです!」
「……何ですって?」
聞き返す永琳に、玉兎は仲間からテレパシーで引き継いだ内容を、確かめるように続けた。
「依姫様ご自身が戦闘不能にし、消えていくところまで見届けた相手だそうです。少なくとも二人が、再び玉兎たちと交戦しているのを確認されたとのことです!」
永琳は僅かに眉を寄せ、視界に表示された各戦線の情報へ目を戻した。一度HPを失い、異変から脱落した者は、その異変が終わるまで参加できないはずだった。依姫が仕留めた相手を見間違えるとは考えにくく、しかも二人ともなれば、偶然として片付けるわけにはいかない。
「ほかの部隊からも、似た報告は届いているかしら?」
玉兎はすぐに仲間たちへ意識を向け、離れた戦線から返ってくるテレパシーに耳を澄ませた。その表情が次第に強張っていくのを見て、永琳は答えを急かさず待つ。
「……はい。ほかの戦線でも、撃破したはずの相手と同じ装備の人間が、再び戦っているという報告が届いています!」
「そう……。依姫のいる場所だけではないのね」
永琳は玉兎に確認できた場所を順に尋ね、報告が集まっている戦線を戦況図の上で確かめた。どの場所でも同じ時刻に異常が発生したとは限らないが、一度撃破した相手と再び戦っているという点は共通している。個々の戦闘の偶然ではなく、異変に参加する資格に関わる問題かもしれなかった。複数の部隊が同じ異常を確認している以上、一部のプレイヤーだけに起きた現象とは考えにくかった。戦闘不能となった参加者が戻れるよう、異変の参加条件そのものに変化が生じている可能性がある。
永琳は再び戦況図を眺めたが、そこに表示される戦力の数だけでは、何が起きているのかまでは判断できない。撃破した敵が時間を置いて戻ってくるのであれば、こちらが積み重ねた戦果は少しずつ失われてしまう。戻るまでに時間が掛かるとしても、戦闘が長引くほど玉兎たちの消耗が増えることは避けられなかった。
「……原因を確かめる必要がありそうね」
永琳はそう告げると、ウィンドウを一度閉じ、命令を待つ玉兎へ向き直った。仕組みを調べる間にも戦場は動き続けるため、先に各部隊の行動を整えておかなければならない。
「各部隊へ伝えなさい。これ以上、無理に戦線を押し上げる必要はないわ」
「……進軍を止めるのですか?」
玉兎の戸惑いを受け止めながら、永琳は戦況図のうち、交戦が激しくなっている場所を指先で示した。
「ええ。前線は今の位置を維持し、敵の突破を防ぐことを優先しなさい。相手が戻ってくる状況で追撃を重ねても、こちらの損耗が大きくなるだけよ」
「承知いたしました!」
「それから、拠点に残る玉兎たちは防衛を強化しなさい。敵がこちらへ攻め込む可能性もあるから、警戒を緩めないように」
永琳は命令を伝える玉兎の様子を確かめてから、少しだけ声を落として付け加えた。
「私はこれから、ツクヨミのシステムにアクセスするわ。その間、拠点の防衛はあなたたちに任せるわね」
「システムを……ですか?」
「戦闘不能になった者が戻れる理由を調べるには、異変の仕組みそのものを確かめる必要があるの。原因が分かれば、対処する方法も見つかるでしょう」
玉兎は驚きを残したまま姿勢を正し、永琳の顔をまっすぐに見つめて頷いた。
「承知いたしました、八意様! 拠点の防衛は、私たちにお任せください!」
「ええ。お願いするわ」
玉兎が一礼して仲間へ意識を向けると、命令はテレパシーによって各地の部隊へ伝わり始めた。進軍していた玉兎たちは追撃を控え、現在の戦線を守るように配置を整えていく。拠点の周囲でも警戒に当たる者たちが持ち場を確かめ、前方だけでなく側面からの侵入にも対応できるよう、互いの距離を調整していた。
玉兎たちの動きは慌ただしかったが、無秩序なものではなかった。前線から届く報告を近くの仲間へ伝える者、守備位置を確かめる者、それぞれが役割を引き受けている。永琳は彼女たちの働きを信頼していたからこそ、自分が別の問題に集中するための時間を任せられるのだった。
永琳はその動きを一瞥すると、視界に再び半透明のウィンドウを開いた。依姫が目撃した異常を、自分でも確認するためだった。まず調べたのは、異変に参加しているプレイヤーの記録だった。戦闘不能になった者と現在交戦中の者の情報を照らし合わせると、脱落した後に再び入場した記録が、複数の参加者について残されている。
「……やはり、依姫の報告どおりね」
永琳は記録を並べ、戦闘不能になった時刻と再入場した時刻を見比べた。別の場所で姿を目撃されたというだけでなく、システム上にも再入場の事実が残っているのなら、疑う余地はない。通常であれば、HPが尽きた時点で参加資格が失われ、次の入場は異変の終了まで認められない。しかし、記録に残っている参加者は、いずれもその制限を通り抜けている。
「……参加条件の判定が、変わっているのかしら」
永琳は同じ参加者の記録を時系列に沿って追い、戦闘不能になった時点の情報と、その後の入場時に記録された情報を比べた。異変から退出した事実そのものが消されているわけではなく、退出後の入場を拒むはずの条件だけが働いていないように見える。何が変更されたにせよ、戻ってきた参加者の記録が残っていることは、原因を探る手掛かりになるはずだった。
小さく呟きながら、永琳は再入場を許可した処理へと調査の範囲を移した。特定の者だけが例外として扱われたのではなく、複数の参加者が同じように戻っている点が気に掛かる。異変の開始前から用意されていた仕組みなのか、誰かが途中で変更したものなのかは、まだ分からなかった。原因を確かめるには、通常の戦況表示よりも深いところへ進まなければならない。
永琳はウィンドウを切り替え、参加条件を管理する情報へのアクセスを試みた。幾つかの項目を辿ると、これまでの表示とは異なる設定が現れたものの、目的の部分に触れようとした瞬間、視界に警告が浮かび上がる。
それは、権限のない操作を拒否する通知だった。
永琳は警告を読み終えると、閉じずにそのまま残し、アクセスを試みた経路を改めて確かめた。異変の規則に関わる領域は保護されており、参加者に与えられた通常の権限では、これ以上進むことができないらしい。
「……なるほど。そう簡単には見せてもらえないのね」
その声に焦りはなく、永琳はむしろ拒否された理由を手掛かりに、別の経路を探し始めた。正面から進めないのであれば、周辺の情報を辿って内部の構造を把握する方法もある。もっとも、仕組みが分からないまま無理に変更を加えるつもりはなかった。再参加の問題を止めるために異変そのものを壊してしまっては、月側にとっても望ましい結果にならない。
警告の表示を詳しく読むと、拒否されたのは情報を閲覧するための権限であり、まだ何かを書き換える段階にさえ達していないことが分かった。永琳は拒否された操作を繰り返すのではなく、同じ情報に関連する項目を別の順番で辿り、どこで制限が掛かるのかを確認していく。制限の位置が分かれば、そこを迂回する方法を考えることもできる。
永琳は参加者の記録と設定の情報を並べ、どの判定が再入場を許す結果につながっているのか、慎重に調べていく。指先の動きに合わせてウィンドウが重なり、消えては新たな項目を映し出した。やがて、最初に拒まれた場所とは異なる経路から、同じ管理領域の周辺へ近づけることに気付いた。そこにも制限は設けられていたが、少なくとも内部の構造を確かめる余地は残されている。
永琳は一度操作を止め、外から響いてくる戦闘の音へ意識を向けた。
拠点を守る玉兎たちは命令どおり持ち場を固め、遠くの草原では今も武器の衝突音や攻撃の閃光が絶えない。地上側がいつまでも再参加できる状態なら、前線を維持するだけでも負担は増していくことだろう。
しかし、その不安を理由に手順を急ぐことはできなかった。
今は必要な情報を確かめ、異変に影響を与えずに目的の処理へ辿り着くことが先決だった。永琳は玉兎たちが守る拠点の様子を最後に一度だけ確認すると、再び視界のウィンドウへ意識を集中させた。
「……さて、ここからが本番ね」
永琳は新たに見つけた経路へアクセスし、表示される制限を一つずつ調べながら、さらに深い領域へ進む方法を探り始めた。参加者の記録と管理側の判定を結び付ける情報が、ようやく手の届くところに見え始めている。外では月側と地上側の戦いが続き、玉兎たちが拠点の守りを固めていたが、永琳の視線はもう戦況図へ戻らなかった。
依姫が発見した異常の原因を突き止めるため、そして本来の参加条件を取り戻すため、永琳はツクヨミのシステムへの本格的な侵入を開始した。