超輝夜姫!   作:白鳥ダイヤ

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第4話

食事と後片づけを終えた後、彩葉はようやくスマコンの箱をローテーブルの中央へ移した。

待ち続けていた輝夜の表情が、分かりやすく明るくなる。

 

「開けてもいいの?」

 

「私が開けるから、まだ触らないで」

 

「どうして?」

 

「目に入れるものだから。汚れた手で触ったり、爪で傷つけたりしたら危ないの」

 

彩葉が封を切ると、中には薄い収納ケースと説明書、幾つかの付属品が収められていた。

収納ケースの蓋を開けば、透明な保存液の中に、二枚の薄いレンズが沈んでいる。

外見だけなら、一般的なコンタクトレンズとほとんど変わらない。

 

「これがスマコン?」

 

「そう。スマートコンタクト。目につけて使う端末だよ」

 

「これを目に入れるのね」

 

輝夜が保存液へ指を伸ばしかけたため、彩葉は慌ててその手を止めた。

 

「だから、まだ触らないでって言ったでしょう!」

 

「触り方を見ようと思っただけよ」

 

「見るだけなら指を入れなくてもできるから!」

 

彩葉は自分のスマコンを取り出すと、ケースからレンズを一枚取り、指先へ載せた。

片手で瞼を開き、薄いレンズを眼球へ静かに重ねる。

輝夜はその動作を、瞬きも忘れたように見つめていた。

 

「痛くないの?」

 

「ちゃんと入れば大丈夫。最初は少し変な感じがするかもしれないけどね」

 

「私もやるわ」

 

「その前に、もう一度手を洗ってきて」

 

「さっき洗ったでしょう?」

 

「食器を触った後だから、もう一度」

 

輝夜は明らかに納得していない顔をした。

 

「目を洗うのではなく、手を洗うのね」

 

「目を洗ってきたら、今度は私が困るよ!」

 

反論しても彩葉が譲らないことを悟ったのか、輝夜は立ち上がり、再び手を洗いに向かった。

戻ってきた輝夜へ、彩葉はレンズの表裏や、指へ載せる位置、瞼の押さえ方を一つずつ説明した。

 

「爪を立てないで、指の腹で持つの。目に押し込むんじゃなくて、そっと載せる感じ」

 

「分かったわ」

 

輝夜は保存液からレンズを取り出し、指先へ載せた。

初めて目へ近づけた時だけ、僅かに動きが止まる。

 

「怖い?」

 

「怖いというより、不思議なの。目に物を入れるなんて考えたことがなかったわ」

 

「無理そうなら手伝うけど」

 

「大丈夫よ」

 

輝夜は彩葉が見せた動作をそのままなぞり、レンズを眼球へ重ねた。

一度で正しい位置へ収まる。

 

彩葉自身が初めてコンタクトレンズをつけた時には、何度も指から落とし、目を真っ赤にしたことを思い出す。何でも一度見ただけで覚えてしまう輝夜を前にすると、感心よりも先に、少しだけ理不尽さを覚えた。

 

「本当にすぐできるね」

 

「彩葉が見せてくれたもの」

 

「見ただけでできるなら、世の中に説明書はいらないんだよ……」

 

二枚目も同じように、一度で装着した。

輝夜が何度か瞬きをすると、利用者を認識したスマコンが起動したらしい。

何もない空中へ視線を動かし、赤褐色の瞳を僅かに見開く。

 

「文字が浮いているわ」

 

「それがスマコンの表示。輝夜にしか見えてないから、空中に本当に文字があるわけじゃないよ」

 

「触れるの?」

 

「最初は視線と指で操作するの。慣れれば、目の動きだけでも使えるようになるから」

 

彩葉は輝夜の隣へ座り、初期設定を進めさせた。

 

 利用者登録

 視界の明るさと表示位置

 音声の調整

 視線操作の練習

 

初めて見る言葉も多いはずだが、輝夜は表示された説明を一度読めば、その意味を理解して次へ進んでいく。分からない単語だけは彩葉へ尋ねたものの、同じことを二度聞くことはなかった。

 

「そこに出てる印を見て」

 

「これ?」

 

「そう。次は動く光を目だけで追って」

 

輝夜の視線に合わせ、小さな光が空中を移動する。

最初こそ僅かに動きが遅れたものの、数回繰り返す頃には、光は滑らかに目的の位置へ収まるようになった。

 

「もうできたの?」

 

「難しくないわ」

 

「普通はもう少し練習するんだけど……」

 

「彩葉はどのくらいかかったの?」

 

「聞かなくていいよ」

 

「たくさん練習したのね」

 

「聞かなくていいって言ったよね?」

 

輝夜は彩葉の反応を見て、答えを聞かなくても十分に理解できたらしく、小さく笑った。

彩葉は不満そうに視線を逸らし、すべての初期設定が終わっていることを確認した。

最後に、ツクヨミへの接続を知らせる表示が現れる。

 

「これがツクヨミ?」

 

「入口だよ。初めて入る時は、先にキャラクタークリエイトがあるから」

 

「ツクヨミの中で使う姿を作るのね」

 

「そう。私は先にログインして、合流する場所で待ってる。キャラクリが終わったら、同じ場所へ出てこられるから」

 

「最初から一緒には行けないの?」

 

「キャラクリは一人用なの。すぐ終わるよ」

 

輝夜は少しだけ不満そうに彩葉を見た。

スマコンを欲しがったのは、彩葉とツクヨミで遊ぶためなのだから、最初から別々だと言われれば不満に思うのも無理はない。

 

「待ってる?」

 

「待ってるよ。置いていったりしないから」

 

「分かったわ」

 

輝夜は接続の表示へ視線を合わせた。

彩葉も自分のスマコンを操作する。

狭い部屋の輪郭が次第に白く霞み、現実の音が遠ざかっていった。

輝夜は一度だけ隣の彩葉へ顔を向ける。

 

「向こうで会いましょう」

 

「ええ、向こうでね」

 

最後に見えた彩葉の姿が光へ溶け、二人の意識は、それぞれ別の入口からツクヨミへ沈んでいった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

スマコンを通してツクヨミへの接続が始まると、輝夜の視界を淡い光が覆った。

目眩も、身体が浮かび上がるような感覚もない。彩葉のワンルームを形作っていた壁や天井が、光の向こうへ静かに溶けていき、すぐ隣にいたはずの彩葉の姿も見えなくなる。

 

一度だけ瞬きをした。

それだけで、輝夜の立つ場所は完全に変わっていた。

頭上には、果ての見えない空が広がっている。

 

まだ夜ではなかった。地平線の彼方には沈みかけた太陽の名残があり、淡い橙色から薄紫、さらに深い群青へと連なる空の色が、何にも遮られることなく遠くまで続いている。

 

輝夜が立っているのは、その空を映した浅い水面の上だった。

水はどこまでも広がり、空や雲だけでなく、そこへ立つ輝夜の姿まで鮮明に映し出している。彩葉から借りた大きめのシャツと短パン、腰近くまで真っすぐに伸びる黒髪も、足元の水面に上下を反転させて浮かんでいた。

 

輝夜が僅かに足を動かすと、靴の周囲から円い波紋が広がった。

けれど、水に触れているはずの足には冷たさがない。靴も、衣服の裾も濡れず、足を持ち上げても水滴は一つも落ちなかった。見た目は水でありながら、現実の水とは明らかに異なる。

 

輝夜は足元へ広がる波紋をしばらく眺めた後、ゆっくりと顔を上げた。

水面の遥か先には、巨大な赤い鳥居が立っていた。

二本の柱は水の底から空へ向かって伸び、左右へ渡された笠木の端は、薄い霞の中へ溶けている。その大きさは、人間が通り抜けるために造られたものとは思えなかった。

鳥居の周囲には小さな灯りが浮かんでいる。風のない空間で炎のような光を揺らし、その一つ一つが水面にも同じ姿を映していた。

 

街も、建物もない。

人の声も、乗り物の音も聞こえない。

ツクヨミという、多くの人間が遊び、交流している場所へ入ったはずなのに、そこには人の営みから切り離されたような静けさがあった。巨大な鳥居と、どこまでも続く水。空と水面に挟まれて立っていると、自分だけが世界の境目へ取り残されたようでもあり、それと同時に、何かに迎え入れられているようでもあった。

輝夜が鳥居を見上げていると、明るい少女の声が空間全体へ響いた。

 

「太陽が沈んで、夜がやってきます」

 

その声に呼応するように、地平線へ残っていた光がゆっくりと沈んでいった。

橙色が薄れ、紫色が群青に飲み込まれていく。

 

一つ、また一つと星が灯った。

頭上だけではない。

足元の水面にも同じ星々が浮かび、輝夜は二つの夜空の間へ立っていた。

巨大な鳥居を背に少女が佇んでいた。

 

その肩には、白い毛並みに包まれた丸い生き物が乗っている。

光の中から現れた少女は水面へ足を下ろすと、軽やかな足取りで輝夜の前まで歩いてきた。

一歩進むたびに水面へ波紋が生まれ、夜空と鳥居の像が静かに揺れる。

 

「仮想空間ツクヨミへようこそ! 管理人の月見ヤチヨです!」

 

少女は両腕を広げ、夜空を背負うようにして明るく名乗った。

 

 ――月見ヤチヨ。

 

彩葉がノートパソコンの画面で見せてくれた少女と、同じ顔、同じ声だった。

ツクヨミの管理人。

そして、彩葉が最も人気のあるライバーだと話していた人物。

 

画面越しに見た時と変わらない笑顔を浮かべているが、目の前にいるヤチヨが本人なのか、それとも初めて接続した者を案内するための存在なのか、輝夜には判断できなかった。

ヤチヨは肩に乗っている白い生き物へ顔を向けると、輝夜にもよく見えるように手で示した。

 

「このモフモフはてゐ!」

 

てゐと紹介された生き物は、白い毛並みの中から伸びた長い耳を、ぴくりと動かした。

丸い身体は、どこからが胴で、どこからが手足なのか分からないほど柔らかな毛に覆われている。ヤチヨの肩へ乗っている姿だけを見れば、ツクヨミの管理人が連れている愛玩用のマスコットにしか見えない。

 

けれど、その目は輝夜をじっと見つめていた。

何も考えていない動物の目ではない。

初めて会う相手を、輝夜がヤチヨを観察しているのと同じように、向こうも観察しているように見えた。

 

輝夜が興味を引かれ、てゐへ手を伸ばしかける。

しかし、指先が柔らかそうな毛へ届くよりも早く、ヤチヨの視線が、輝夜の頭から足元までを一度往復した。

 

彩葉から借りた大きめのシャツと短パン。

一夜のうちに急成長した輝夜が着られるものとして、取りあえず彩葉が選んだ服である。着用することに支障はないものの、今の身体に合わせて用意されたものではなく、袖や裾には僅かな不格好さが残っていた。

ヤチヨは楽しそうに笑うと、勢いよく両手を広げた。

 

「さぁ、出かける前に、その恰好じゃつまらない!」

 

その言葉が水上へ響いた直後、輝夜の手元へ無数の光が集まった。

小さな粒子が両手の間で渦を巻き、横長の半透明な画面へ形を変えていく。

 

輝夜が手を持ち上げると、画面もその動きに合わせて位置を変え、指先で触れられる距離へ静止した。中央には現在の輝夜の姿が小さく表示され、その周囲には、髪型や髪色、瞳、顔立ち、体格、衣装を示しているらしい項目が並んでいる。

 

輝夜は画面からヤチヨへ視線を移した。

しかし、ヤチヨは肩にてゐを乗せたまま笑っているだけで、詳しい説明を加えようとはしない。

使い方は自分で触れれば分かるということらしい。

 

輝夜は最も近くにあった髪型の項目へ指を伸ばした。

指先が画面へ触れる。

足元の水面が淡く光った。

次の瞬間、腰近くまで伸びていた黒髪が、肩の上まで一気に短くなった。

 

輝夜は僅かに目を見開き、失われた毛先を探すように背中へ手を回した。そこにあるはずだった髪はなく、首を動かせば、短くなった毛先が頬へ軽く触れた。

画面に表示された姿だけが変わったのではない。

今、この水面に立っている輝夜自身の姿が、選んだものへ直接変化している。

 

もう一度画面へ触れる。

短かった髪が一瞬で伸び、今度は水面へ届きそうな長さになった。さらに指を滑らせれば、頭の上で複雑に結い上げたものや、左右で長さの異なる髪型へ次々と切り替わっていく。

輝夜は長くなった髪を持ち上げ、指の間へ通した。

 

見た目だけではない。

髪の重さも、肌へ触れる感覚も、選んだ姿に合わせて変わっている。

毛先が水面へ触れれば、そこから小さな波紋まで広がった。

幾つかの髪型を試した後、輝夜は髪色の項目へ触れた。

 

 黒かった髪が鮮やかな赤へ変わる

 続いて深い青

 淡い金色

 月の光を糸に変えたような白銀

 

見る角度によって色が変化する髪や、毛先だけが星のように光るものまで用意されていた。

輝夜は足元の水面へ映る自分の姿を見下ろした。

鏡はないけれど、空と星々を映している水面が、変化した輝夜の姿も鮮明に映し出している。

白銀の髪を持つ自分も、短い青髪の自分も、不自然ではなかった。初めからその姿だったと言われれば、受け入れてしまいそうなほど、顔や身体へ馴染んでいる。

 

それでも、どの姿を見ても、胸の奥には僅かな違和感が残った。

水面に映っているのは自分でありながら、自分ではない。

彩葉は、この姿を見てもすぐに輝夜だと分かるだろうか。

声をかけるまで、知らない相手を見るような目を向けることはないだろうか。

 

輝夜がスマコンを欲しがったのは、別の誰かになるためではなかった。

彩葉が普段見ている世界を、自分も見たかった。

彩葉が歩く場所を一緒に歩き、同じ景色を眺め、同じ時間を過ごしたかった。

 

そのために、自分を別人へ変える必要はない。

輝夜は画面を操作し、髪を元へ戻していった。

 

 白銀から金へ

 金から青へ

 青から赤へ

 

最後に、腰近くまで真っすぐに伸びた黒髪が背中へ落ちる。

前髪は整えられ、顔の両側を縁取る髪も、現実の輝夜と同じ形へ揃った。夜空と水面の星々を受けた黒髪の表面には、青紫色の艶が静かに浮かんでいる。

瞳の色も試した。

 

 赤みを帯びた深い褐色から

 青

 緑

 金

 紫へと切り替わっていく。

 

左右で異なる色を選ぶことも、瞳の中へ星や花の模様を浮かべることもできた。

 

輝夜は一つずつ確かめた後、すべてを元へ戻した。

顔立ちや体格も変えられる。

目元を柔らかくすることも、頬を幼くすることも、大人びた女性の姿へ変わることもできた。身長を低くすれば、鳥居もヤチヨもそれまで以上に大きく見え、反対に高くすれば、見下ろす水面の位置まで変わる。

 

試している途中、輝夜の身体が幼い少女の姿になった。

赤ん坊へ戻ったわけではない。

それでも、低くなった視点と、小さくなった自分の手を見た瞬間、輝夜はすぐに変更を取り消した。

 

今の身体は、彩葉と話すために望んだものだった。

赤ん坊だった頃は、空腹であることさえ伝えられなかった。

彩葉が悲しそうにしていても、理由を尋ねることも、自分の思いを伝えることもできなかった。

今なら、彩葉と同じ高さから顔を見ることができる。

自分が何を思い、何を望んでいるのかも、言葉にすることができる。

その身体を、別のものへ変える理由はなかった。

顔立ちも、身長も、体格も元へ戻す。

 

最終的に水面へ映ったのは、現実とほとんど変わらない輝夜の姿だった。

 

 腰近くまで伸びる艶やかな黒髪

 整えられた前髪

 白い肌

 赤みを帯びた深い褐色の瞳

 

顔立ちも、身体つきも、彩葉の部屋にいる輝夜と同じである。

 

ヤチヨは何も言わず、その様子を見守っていた。

別の姿を選ばないのかと尋ねることも、せっかくの機能を使わないのかと笑うこともない。

ただ一度だけ、現実と同じ姿へ戻った輝夜を見る視線が、ほんの僅かに長く留まった。

驚いたというよりも、予想していた答えを確かめた者のような目だった。

輝夜が顔を上げた時には、ヤチヨはすでに明るい笑みへ戻り、肩に乗っているてゐの長い耳を指先で軽く撫でていた。

 

輝夜も、その一瞬の変化について尋ねなかった。

続いて、衣装の項目へ触れる。

選択するたび、彩葉から借りたシャツと短パンが光の粒子へほどけ、異なる衣装が輝夜の身体へ重なっていった。

 

 白い翼が背中から広がる衣装

 歩くたびに水面へ花を咲かせる緑色のドレス

 袖口から小さな光の鳥が飛び出す服

 身体の周囲を炎の輪が巡る、戦士を思わせる装束

 

輝夜は腕を動かし、その場で身体を回しながら、変化した衣装を一つずつ確かめた。

歩けば水面へ花が咲き、袖を振れば星が散る。

どれも現実では身につけることのできないものばかりであり、見ている分には興味深かった。

 

けれど、自分の姿として選ぶには、どこか落ち着かない。

輝夜は衣装の一覧をゆっくりと送っていった。

 

やがて、その指が一つの衣装の前で止まる。

淡い桃色を基調とした上衣。

足元まで届く、深い赤紫色の長いスカート。

袖や裾には細かな意匠が施され、全体の形には、古い時代の姫君を思わせる落ち着きがある。

 

派手に光を放つわけではない。

けれど、身体を動かすたび、夜空を閉じ込めたような輝きが布の表面を静かに流れた。

 

輝夜がその衣装へ触れる。

彩葉から借りたシャツと短パンが淡い粒子となり、水面の上へ溶けていった。

代わりに桃色の上衣が身体を包み、赤紫色の長いスカートが足元へ広がる。腰近くまで伸びる黒髪と、星々を散らした衣装が自然に重なり、水面には、夜の神域へ佇む姫君のような姿が映っていた。

 

輝夜は袖を持ち上げ、次にスカートの裾を僅かにつまんだ。

足元まで届く衣装でありながら、歩みを妨げる重さはない。

初めから自分のために用意されていたように、身体へ馴染んでいる。

 

輝夜が選択を確定すると、衣装を示していた項目が静かに閉じた。

最後に、手元へ細長い入力欄が現れる。

ヤチヨはその画面へ視線を向けただけで、説明を加えなかった。

この世界で使用する名前を決めるのだと、輝夜にもすぐに理解できた。

姿を自由に変えられる場所なのだから、現実とは異なる名を選ぶ者もいるのだろう。

けれど、輝夜には考える時間さえ必要なかった。

 

「輝夜」

 

口にした名が、淡い光の文字となって入力欄へ刻まれる。

地球へ送り出される時、顔の見えない女性が呼んだ名前。

彩葉へ最初に伝えた、自分が自分であることを示す名前。

世界が変わったからといって、別の名を選ぶ理由はなかった。

 

輝夜が確認を示す光へ触れる。

足元の水面から、幾重もの光の輪が立ち上がった。

光はつま先から頭上まで輝夜の身体を通り抜け、黒髪も、衣装も、指先も、一度だけ細かな粒子へほどけかける。

 

次の瞬間には、選んだ姿として再び形を取り、水面へ映る像も静かに固定された。

 

 

【挿絵表示】

 

 

手元に浮かんでいた画面が、一枚ずつ閉じていく。

最後の光が消えると、ヤチヨは満足そうに頷いた。

 

「うん! これで準備は整ったね」

 

その声とともに、巨大な鳥居の奥へ淡い光が集まり始めた。

光は水面の上に道を作り、その先へ、ツクヨミの街へ通じる出口を形作っていく。門の向こうからは、この静かな場所には存在しなかった無数の話し声や音楽、色鮮やかな光が漏れ出していた。

 

輝夜は出口へ目を向けた。

彩葉は、この先で待っている。

そのことを思い出すと、迷う理由はなかった。

輝夜は自分の足で、光の道を歩き始める。

一歩進むたび、長いスカートの裾が水面の上を滑り、足元から新しい波紋が生まれた。

 

「さぁ、いってらっしゃい」

 

背後からヤチヨの明るい声が届く。

輝夜が振り返ると、ヤチヨは巨大な鳥居の下で、大きく手を振っていた。

その肩では、てゐが長い耳を揺らしている。

 

輝夜は二人の姿を僅かな間だけ見つめた。

初めて会ったばかりの相手でありながら、もう二度と会わない者を見送る姿には思えなかった。

 

けれど、その理由を考えるよりも先に、出口の向こうから漏れる音が輝夜の意識を引いた。

輝夜は彩葉がいるであろう場所へ向かった。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

輝夜が去った後、巨大な鳥居の立つ水上の空間には、月見ヤチヨと、白くもふもふした兎の姿をしたてゐだけが残されていた。

ツクヨミの街へ続いていた出口はすでに閉じ、光の道も、水面の上から消えている。

輝夜の手元に展開されていたキャラクタークリエイト用の画面も、髪型や衣装を示していた設定項目も、跡形なく消えていた。

 

先ほどまで輝夜を見送っていたてゐは、いつの間にかヤチヨの肩から水面へ降りている。

二人の足元へ残っていた波紋が、ゆっくりと小さくなっていった。

ヤチヨは輝夜が消えた出口の跡をしばらく見つめた後、足元にいる白い兎へ視線を落とした。

 

「行ったね」

 

白い兎は返事の代わりに、長い耳を一度揺らした。

 

「今頃てゐのことを聞いてるかも」

 

白い兎は、少し得意そうに胸を張った。

 

「人気者だもんね」

 

てゐはもう一度、長い耳を動かした。

その仕草だけで意思が伝わったのか、ヤチヨの口元へ小さな笑みが浮かぶ。

 

「でも、人の姿で全然出ないから、会えたら幸運なんていわれてるんでしょう?」

 

その言葉へ答えるように、白い兎の小さな身体を淡い光が包み込んだ。

丸みを帯びていた輪郭が、水面に映る光の中でゆっくりと伸びていく。短かった脚が人の形を取り、白い毛並みの中から細い腕が現れた。

長い耳だけは、そのまま頭上へ残されている。

光が細かな粒子となって消えた時、そこに白い兎の姿はなかった。

代わりに立っていたのは、赤い瞳と長い兎の耳を持ち、桃色の服へ身を包んだ少女だった。

 

 ――因幡てゐ。

 

ツクヨミでは「幸運をもたらす白兎」と呼ばれ、その人の姿を見た者には幸運が訪れると噂されている存在である。

もっとも、本人が滅多に人前へ姿を現さないため、その噂が事実であるかどうかを確かめられた者はほとんどいない。

 

「別に、幸運を安売りしたくないだけだよ」

 

てゐは桃色の服の裾を軽く整えながら、当然のことのように答えた。

 

「会っただけで幸運になるなら、減るものじゃないでしょう?」

 

「珍しいから御利益があるんだよ。毎日歩いてたら、ただのウサギになるじゃないか」

 

「マスコットの姿では、いつもわたしの隣にいるけどね」

 

「もふもふの私は別枠」

 

「自分で言うんだ」

 

「実際、もふもふでしょ?」

 

てゐは自分の長い耳を両手で整えながら、悪戯っぽく笑った。

その表情は、先ほどまで無言で輝夜を見つめていた白い兎とは大きく異なる。

 

けれど、相手の反応を楽しむような赤い瞳を見れば、姿が変わっただけで、そこにいるのが同じ存在であることは明らかだった。

 

ヤチヨは小さく笑い、輝夜が消えていった場所へもう一度目を向けた。

てゐもその視線を追う。

出口はすでに消えている。

水面には、巨大な赤い鳥居と、無数の星が浮かぶ夜空だけが映っていた。

 

「それより、わざわざ自分でここに来たんだね」

 

てゐが何気ない調子で言った。

ヤチヨは目だけをてゐへ向ける。

 

「チュートリアルに任せるより、直接見たかったの」

 

悪びれる様子もなく答えたヤチヨに、てゐは僅かに肩をすくめた。

普段なら、初めてツクヨミへ接続した利用者の案内は、ヤチヨの姿と声を与えられた分身体が務める。管理人であるヤチヨ本人が、一人の利用者のキャラクタークリエイトへ直接現れる必要はない。

けれど、てゐはその不自然さを深く追及しなかった。

 

「どうだった?」

 

「とっても元気そうだったよ」

 

ヤチヨは明るく答えた。

その声には、取り繕った様子も、何かを隠そうとする硬さもない。

ただ、長い間確かめたかったものを、ようやく自分の目で見ることができた者の安堵が、僅かに混じっていた。

 

「それに彩葉とも、ちゃんと一緒だった」

 

「…そっか」

 

てゐは、それ以上の理由を尋ねなかった。

一歩進み、ヤチヨの隣へ並ぶ。二人の間に、重い秘密を語るような緊張はなかった。過ぎ去った時間を悔やむような寂しさもない。そこに残されているのは、長く待ち続けていた催しが、ようやく幕を開けようとしている時のような、明るく静かな期待だった。

 

頭上には無数の星が輝き、その光が水面にも同じ夜空を作っている。

てゐは輝夜が去った方向を見つめたまま、ぽつりと呟いた。

 

「ついに始まるんだね」

 

ヤチヨは、いつもの笑顔で頷いた。

 

「そう、ここからだよ」

 

二人の足元から小さな波紋が生まれ、重なり合いながら、巨大な赤い鳥居の向こうへ広がっていった。




タレ目はマスト
※次回から隔日更新になります。
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