光の門を潜った途端、水上の静けさが背後へ遠ざかり、無数の声と音楽、鮮やかな光が一度に押し寄せてきた。
巨大な赤い鳥居と、夜空を映していた浅い水面は、輝夜が振り返るよりも早く光の向こうへ閉ざされる。代わりに視界を埋め尽くしたのは、現実であれば決して一つの場所へ収まりきらないはずのものが、互いの境界を失ったまま混ざり合っている街だった。
空には、夜を覆い尽くしてしまいそうなほど大きな月が浮かんでいた。
現実から見上げるものとは比較にならないほど近く、白い表面に刻まれた濃淡や影まで目で追えそうでありながら、不思議と落ちてきそうな圧迫感はない。その光は幾重にも交差する道や、空中へ伸びる建物を柔らかく照らし、街全体を淡い銀色に染めていた。
建物の形も、輝夜の知る常識から大きく外れている。
地面から真っすぐに伸びていた塔は、途中から横へ折れ曲がって隣の建物へ接続し、上下を逆さまにした家々が空中の島へ軒を連ねていた。その底から流れ出した透明な水は、地面へ落ちるのではなく、細かな光へ変わりながら夜空へ昇っていく。
建物の間では、淡く発光する魚の群れが泳いでいた。
水のない空を、そこが海の中であるかのように尾びれを揺らしながら進み、身体の内側へ透ける骨格めいた光を明滅させている。群れが一斉に向きを変えるたび、細かな粒子が鱗のように散り、巨大な月の下へ淡い軌跡を残した。
道を行き交う者たちも、現実の街では決して見かけない姿ばかりだった。
頭から獣の耳を生やした者。背中へ鳥や蝙蝠の翼を広げた者。足の代わりに長い蛇の尾を持つ者。身体の向こう側が透けて見える者もいれば、炎や霧が人の輪郭だけを借りて歩いているような存在までいる。
それほど異なる姿が同じ道へ集まっているにもかかわらず、誰も互いを珍しがってはいなかった。腰まで伸びた黒髪も、赤い瞳も、現実と変わらない姿を選んだ自分の方が、この街ではかえって地味なのではないかと輝夜が感じるほど、ここではどのような姿も当然のものとして受け入れられていた。
頭上には幾つもの巨大な映像が浮かび、歌う者、踊る者、大勢へ向けて語りかける者の姿が、絶え間なく切り替わっている。
異なる映像から流れる音楽や声は、街の賑わいと幾重にも重なっている。それほど多くの音が同時に鳴っているはずなのに、耳を塞ぎたくなるような騒がしさはなかった。輝夜が一つの映像へ意識を向けると、その歌声だけが周囲から浮き上がるように近づき、視線を外せば、再び街を満たす音の一部へ溶けていった。
少し前までいたキャラクタークリエイトの空間も、現実には存在し得ない場所だった。
しかし、巨大な鳥居と水面に囲まれたあの場所には、神社の境内にも似た静けさがあった。対して、門の先に広がるこの街には、立ち止まっているものがほとんどない。
光も、映像も、建物の一部さえも絶えず形を変え、誰かの歌や笑い声が消えるより先に、別の誰かが新しい何かを生み出している。街そのものが、一瞬たりとも同じ姿ではいられない巨大な生き物であるかのようだった。
これが、彩葉が何度も訪れてきた世界。
自分の知らない彩葉の時間が、積み重なっている場所。
輝夜は光の門を抜けた場所に立ったまま、赤い瞳を大きく開き、視界へ収まりきらない街を見回した。
「輝夜」
すぐ近くから、聞き慣れた声が届いた。
輝夜が顔を向けると、光の門の脇に彩葉が立っていた。人の流れの中から探す必要もないほど近い場所で、輝夜が現れればすぐに気づけるよう待っていたらしい。
ツクヨミ用の衣装を身につけているものの、顔立ちも背丈も現実と大きく変わってはいない。これほど多くの異形が行き交う街の中でも、その顔と声を見間違えるはずはなかった。
彩葉は輝夜を見つけると、まず無事に合流できたことへ安堵したように小さく息を吐いた。その後で、何かを確かめるように、輝夜の頭から足元までをゆっくりと見つめていく。
「……本当に、ほとんどそのままなんだ」
何を言われているのか分からず、輝夜は小さく首を傾けた。
「なにが?」
「顔も、髪も、背の高さも。現実の輝夜とほとんど変わってないから」
自分の姿を見下ろした輝夜は、腰近くまで伸びた黒髪を一房すくい上げ、指の間へ滑らせた。正面の髪も、顔の両脇へ垂れる長い髪も、現実の自分と同じ形に整えられている。
「おかしいの?」
彩葉はすぐに否定するように首を振ったものの、周囲を歩く者たちの奇抜な姿へ一度だけ視線を巡らせた。
「おかしくはないけど、せっかく何にでもなれるのに、少しくらい変えてみたいと思わなかったの?」
問いかけを聞いても、輝夜は考え込む様子を見せなかった。持ち上げていた髪を背中へ戻し、迷いのない声で答える。
「私は私でいいわ」
一度言葉を切ると、輝夜は目の前にいる彩葉を真っすぐに見つめた。
「彩葉と遊ぶために来たのに、別の誰かになる必要はないでしょう?」
彩葉は僅かに目を見開いた。
ツクヨミでは、現実の自分から離れることができる。髪や瞳の色だけでなく、年齢や体格、人間であるかどうかさえ自由に選べる。現実では得られない姿になることを楽しみに、この世界へ来る者も多いのだろう。
けれど輝夜は、自分ではない誰かになるためにツクヨミへ来たのではなかった。
彩葉が見ているものを知り、同じ場所を歩き、同じ時間を過ごすために来たのだ。その隣に立つのであれば、別人の姿を借りる必要など、初めから感じていなかった。
「……そっか」
彩葉は小さく頷くと、今度は輝夜の衣装へ視線を移した。
淡い桃色の上衣には柔らかな襞飾りが重ねられ、胸元には大きな黄色のリボンが結ばれている。深い赤色の長いスカートには花を思わせる模様が散り、白い靴下と黒いストラップの靴が合わせられていた。
「服は変えたんだね」
彩葉の視線を追うように、輝夜も自分のスカートを見下ろした。裾を指先で僅かに持ち上げ、模様が月明かりを受けて揺れる様子を確かめる。
「これは気に入ったの」
「うん、似合ってる。すごく輝夜らしいと思う」
その言葉を聞いた途端、輝夜は大きな赤い瞳の目尻を柔らかく下げた。自分の姿をほとんど変えなかったことを指摘されても気にしていなかったのに、衣装を褒められたことは素直に嬉しいらしい。
「そうでしょう?」
満足そうに胸を張る輝夜を見て、彩葉も僅かに頬を緩めた。
「それじゃあ、行こう。ライブまでは少し時間があるから、その前に街を見て回れるよ」
彩葉が手を差し出す。
輝夜はその手と彩葉の顔を一度ずつ見比べた後、迷うことなく指を重ねた。彩葉が待っていたことも、一緒に歩くことも、初めから疑う必要のない当然の出来事であるかのような動きだった。
二人が光の門から離れ、大通りへ一歩踏み出した直後、輝夜の視界の中央へ半透明の表示が現れた。
『仮想空間ツクヨミへようこそ』
明るい音声が耳元へ響き、淡い光が輝夜の周囲へ広がった。街の音が消えたわけではないのに、案内の声だけが不思議なほど明瞭に聞こえてくる。
『ツクヨミでは、誰もが表現者になることができます』
表示の中へ、様々な活動をする者たちの姿が映し出された。
大勢の観客を前に歌う者。何もない空間へ色彩を広げ、巨大な絵を描く者。自分で作った服や道具を店へ並べる者。仲間たちと協力し、巨大な敵へ立ち向かう者。
それらへ向けて、観客の感情を表すような無数の光が集まり、一つの記号へ変わっていく。
『人の心を動かす活動を行うことで、ツクヨミ内通貨ふじゅ~を獲得できます』
「これが、ふじゅ~なのね」
輝夜が光の記号へ手を伸ばすと、指先が触れる直前に細かな粒子へ分かれ、夜空へ溶けるように消えていった。
『獲得したふじゅ~は、ツクヨミ内での買い物や、好きなクリエイターへの応援に使用できます』
続いて、初めてツクヨミを利用した者への特典が表示され、輝夜の所持額へ少量のふじゅ~が加えられた。
何もしていないのに数字が増えたことが不思議らしく、輝夜は表示された残高へ顔を近づけた。
「なにもしていないのにもらえたわ」
「初回ログインボーナス。最初だけだよ」
彩葉は慣れた様子で表示を指先へ滑らせ、邪魔にならない位置へ小さくまとめた。
輝夜は縮小された数字を目で追った後、今しがた消えた案内を思い出すように、街の巨大映像へ視線を巡らせる。
「もっと欲しくなったら、誰かの心を動かせばいいの?」
「簡単に言えばそうだけど、方法は一つじゃないよ」
彩葉は頭上に浮かぶ幾つかの映像を順番に指した。
「歌や配信で稼ぐ人もいれば、自分で作った服を売る人もいるし、ゲームやイベントに参加して少しずつ集める人もいるから」
説明を聞いた輝夜は、繋いだ手を揺らしながら隣を歩く彩葉を見上げた。
「彩葉はなにをしているの?」
問いかけられた彩葉は、正面から近づいてきた翼のある利用者を避けるように、輝夜の手を引いて道の端へ寄った。人の流れが過ぎ去ってからもすぐには答えず、視線を足元へ落としたまま、少しだけ言いにくそうに口を開く。
「私は、バトルゲームを少しやるくらい。勝てば、ちょっとだけふじゅ~がもらえるから」
輝夜は頭上の映像へ視線を向けた。華やかな衣装をまとった少女が、大勢の観客を前に歌っている。
「歌ったりはしないの?」
彩葉は小さく首を横へ振った。
「歌うのは無理。人前で声を出すのも得意じゃないし」
歌う者の映像から、今度は広場で踊る集団へ目を移した輝夜は、彩葉の身体つきを確かめるように視線を上下させた。
「それなら、踊るのは?」
「もっと無理だよ。見たら分かるでしょう?」
彩葉は、自分には縁のない話だと示すように片手を振った。
納得しきれない顔をした輝夜は、次に空中へ巨大な絵を描いている利用者へ目を向けた。
「絵を描いたり、なにかを作ったりはしないの?」
今度の問いには、彩葉の返事が僅かに遅れた。
目の前を歩く者たちの背中を眺めながら、何でもないことのように肩をすくめる。
「私には、誰かへ見せられるようなものはないよ。誰でも表現者になれるっていっても、始めれば必ず誰かが見てくれるわけじゃないし」
口元には小さな笑みがあった。
しかし、それは楽しさから生まれたものではなく、これ以上話を続けなくて済むよう、自分の言葉へ置いた蓋のようにも見えた。
輝夜はしばらく彩葉の横顔を見つめたが、今は追及しなかった。彩葉が自分から話そうとしないことを、無理に聞き出す必要はない。
何より、目の前には知らないものが多すぎた。
頭上では発光する魚の群れが、建物の間を縫うように泳いでいる。足元の道も現実とは異なり、輝夜が一歩踏み出すたびに淡い波紋が広がり、次の一歩では小さな光の花が咲いた。
輝夜は彩葉の手を握ったまま、同じ場所を何度か踏んだ。足元に生まれる模様は毎回少しずつ異なり、ある時は花びらが舞い上がり、次には小さな星が弾けて消えた。
「彩葉はやらないの?」
楽しそうに足を動かす輝夜を見て、彩葉は歩みを緩めた。
「最初の頃はやったけど、もう見慣れたから」
輝夜はもう一度道を踏み、今度は水面のように広がった光の輪を追って足を進めた。
「面白いのに」
「何度も来てれば、輝夜もそのうち普通に歩くようになるよ」
その背を引き戻さない程度に手を引きながら、彩葉は小さく笑った。
見慣れた、という言葉を聞き、輝夜は足元の光から彩葉へ視線を移した。
自分が知らなかった間にも、彩葉は何度もこの場所へ来ていた。
巨大な月を見上げ、この道を歩き、空を泳ぐ魚を眺め、街へ溢れる音楽を聞いていた。そこには輝夜の知らない彩葉の時間があり、今歩いている景色のどこかにも、その痕跡が残っているように思えた。
「彩葉は、いつも一人でここへ来ていたの?」
尋ねられた彩葉は、通りの向こうに浮かぶ映像へ目を向けた。幾つもの配信が切り替わり、知らない曲の一節が二人の間を通り過ぎる。
「芦花や真実と遊ぶこともあるよ。時間が合わない時は一人だけど」
輝夜が歩幅を彩葉へ合わせると、繋いだ手が自然に二人の間へ収まった。
「一人の時は、なにをしているの?」
「配信を見たり、ゲームをしたり。あとは、曲を探したりかな」
曲、という言葉を口にした時だけ、彩葉の声が僅かに柔らかくなった。
その変化を聞き逃さなかった輝夜は、横から彩葉の顔を覗き込む。
「曲が好きなのね」
「聞くのはね」
彩葉は僅かに視線を逸らした。
その様子を見ながら、輝夜はさらに一歩踏み込む。
「自分で作ったりはしないの?」
彩葉の歩みが、一瞬だけ遅くなった。
それでもすぐに元の速さへ戻ると、正面を向いたまま短く答える。
「作れないよ」
歌や踊りを否定した時よりも、その声には僅かな固さがあった。触れられたくないものを、考えるより早く隠したような響きだった。
輝夜がその違いについて考えているうちに、二人は大通りから少し開けた場所へ出た。