彩葉と輝夜がライブ会場へ辿り着いた時には、すでに数え切れないほどの観客が、開演を待ちながら会場を埋め尽くしていた。
先ほどまで歩いていた街では、利用者たちはそれぞれ異なる映像を眺め、異なる音楽へ耳を傾けながら、思い思いの方向へ進んでいた。けれど、ここへ集まった者たちの視線は、姿形の違いを越えて、まだ誰も立っていない正面の空間へ向けられている。
獣の耳を持つ者も、翼を折り畳んだ者も、人の膝ほどの大きさしかない動物の姿をした者も、誰もが同じ瞬間を待っていた。
会場の上空には巨大な月が浮かび、その淡い光が、観客の頭上を流れる無数の文字や光へ溶け込んでいた。ヤチヨの名を呼ぶ声、今夜歌われる曲を予想する言葉、開演までの時間を数える者たちの投稿が絶え間なく現れ、夜空の一部となって流れていく。
人の波を縫うように歩いていた彩葉は、二人が並んで前方を見られる場所を見つけると、ようやく足を止めた。輝夜の手を握っていた指から僅かに力を抜き、視界へ表示していた入場情報を改めて確かめる。そこに今夜のミニライブを示す文字があることを確認した彩葉は、間に合ったことへの安堵を吐き出すように、小さく息をついた。
「ちゃんと最初から見られそう」
独り言にも近い声だったが、普段よりも僅かに高く弾んでいた。
輝夜は会場の中央から彩葉へ視線を移した。
街を歩いている間にも、彩葉は何度か時刻を確認していた。ライブへ遅れないために通知まで設定し、予定どおり会場へ着いた今も、何か見逃しているものがないかと周囲を見回している。
「そんなに最初から見たかったの?」
問いかける輝夜へ顔を向けた彩葉は、何を当然のことを聞くのかというように目を瞬かせた。
「せっかくチケットが取れたんだよ。途中から見るなんてもったいないでしょう?」
そう答えた直後にも、彩葉の視線は正面へ戻っていた。
まだ歌う者は現れていない。それでも会場に小さな変化が起きるたび、何かが始まったのではないかと期待するように目を見開く。その横顔には、街を案内していた時とは異なる明るさがあった。
ツクヨミへ入る前から、彩葉はこのライブを楽しみにしていた。
ヤチヨの話を始めれば、普段よりも早い口調で曲や演出について語り、時刻が近づけば街の散策を切り上げて会場へ向かった。今も周囲の声へ耳を傾けながら、開演の瞬間を待ちきれないように、僅かに身体を前へ傾けている。
輝夜はそんな彩葉を見た後、再び会場へ顔を向けた。
彩葉をこれほど楽しみにさせるものが、間もなく始まる。
そのことを思うと、まだヤチヨの姿さえ見えていないのに、輝夜の胸にも小さな期待が生まれていた。
観客たちのざわめきが、少しずつ大きくなっていく。
誰かが前方を指差したことをきっかけに、幾つもの声が重なり、波のように会場全体へ広がった。彩葉も何かを見つけたように目を輝かせ、隣にいる輝夜へ僅かに身を寄せる。
「始まるかも」
囁くような声だった。
直後、会場の上空へ光が走った。
夜空を横切った幾筋もの線が、観客を取り囲むように巨大な映像を作り上げる。そのすべてへ同じ少女の姿が映し出されると、今までにも増して大きな歓声が上がった。
犬の耳を思わせる装飾を揺らしながら画面へ現れた少女は、観客たちの声を正面から受け止め、画面の向こうから飛び出してきそうな勢いで身を乗り出した。
『ついに、この時がやってきました!』
会場全体へ響き渡った声に、何が始まったのか理解していなかった輝夜は、反射的に肩を揺らした。
対照的に、彩葉はその登場を待っていたらしく、驚く様子もなく画面を見上げている。
「誰?」
歓声に消されないよう声を張った輝夜へ、彩葉は顔を近づけた。
「忠犬オタ公。イベントの前に実況したり、会場を盛り上げたりするライバーだよ」
簡潔に説明すると、彩葉はすぐに映像へ意識を戻した。
忠犬オタ公は、ツクヨミの夜には彼女が欠かせないと声高らかに告げ、今夜のミニライブがツクヨミ全域へ届けられることを宣言していく。
その口からヤチヨの名が発せられるたび、会場の熱気が一段ずつ上がっていった。
観客たちは一方的に前説を聞いているのではない。オタ公が声を投げかければ歓声で応え、手を掲げれば無数の光を夜空へ放つ。画面の中と外が互いに熱を送り合いながら、一つの大きな流れを作り出している。
輝夜はその様子を珍しそうに見回した。
これほど大勢の者たちが、一人の登場を待って声を上げる光景を、彼女はこれまで知らなかった。
観客の中には、彩葉と同じようにヤチヨの映像を見つめている者もいれば、すでに名前を呼びながら両手を振っている者もいる。それぞれが異なる姿をしているのに、今だけは一つの感情を共有しているようだった。
『それでは、皆さん!』
忠犬オタ公が勢いよく片腕を掲げた。
観客たちの声が僅かに収まり、次の合図を待つ静けさが広がる。先ほどまで流れ続けていた応援の文字も、何かに備えるように速度を落としていった。
夜空の中央へ、巨大な数字が現れる。
「10!」
会場を満たした声の中から、すぐ隣にいる彩葉の声だけが、不思議なほどはっきりと聞こえた。
教室や部屋では、これほど大きな声を出すことなどほとんどない。人前へ出ることも、自分を誰かへ見せることも避けている彩葉が、ここでは周囲を気にすることなく、夜空へ浮かぶ数字を見上げている。
「9!」
再び幾千もの声が重なり、会場全体を揺らした。
彩葉は輝夜の反応を確かめようともせず、次の数字を待っている。自分が楽しんでいることを隠す必要などないとでもいうように、その表情には何の迷いもなかった。
8
7
数字が減るたび、会場の中央へ淡い光が集まり始めた。
最初は細かな粒子にすぎなかったものが、歓声を受け取るたびに数を増し、夜空へ向かって立ち上っていく。何かが姿を現そうとしていることは分かったが、輝夜には、それが何になるのかまでは想像できなかった。
6
彩葉が再び声を上げる。
輝夜は数字よりも、しばらくその横顔を見つめていた。
けれど次の数字が現れ、観客たちが息を吸い込んだ瞬間、周囲の熱へ引かれるように正面へ顔を戻す。
「5!」
僅かに遅れながらも、輝夜は初めてカウントダウンへ声を重ねた。
自分の声など、会場全体を満たす歓声の中へすぐに消えてしまう。それでも、同じ数字を見上げていた彩葉が一瞬だけこちらへ目を向け、嬉しそうに口元を緩めた。
4
今度は、輝夜も遅れなかった。
「4!」
二人の声が、無数の観客の声へ溶け込んでいく。
会場の中央へ集まっていた赤い光が、一本の太い柱となって夜空へ伸びた。少し離れた場所からもう一本が立ち上がり、互いの上部を結ぶように横木が形作られていく。
3
赤い輪郭が、月光の下で鮮明になった。
2
巨大な鳥居が、会場の正面へ姿を現した。
キャラクタークリエイトの空間で見たものよりも遥かに大きく、頂上は観客たちの頭上を越え、背後に浮かぶ月へ届きそうなほど高い。その表面を走る光が、観客の声を受け取るたびに赤みを増していった。
1
最後の数字を、彩葉と輝夜は同時に叫んだ。
夜空の数字が無数の光へ砕け散り、星のように会場へ降り注ぐ。
その光が巨大な鳥居の周囲を満たした瞬間、頂上へ一人の少女が姿を現した。
――月見ヤチヨ
彼女が片手を掲げただけで、それまでの歓声がさらに大きく膨れ上がった。
ヤチヨは巨大な月を背に、鳥居の上から会場全体を見渡している。あれほど大勢の視線を一身に受けているにもかかわらず、緊張している様子はない。むしろ一人一人の期待を当然のように受け止め、それを上回るものを返そうとしているかのように、明るい笑顔を浮かべていた。
「お待たせ!」
拡張された声が会場の隅々まで届き、観客たちがその呼びかけへ歓声で応える。
ヤチヨはそれをもっと聞かせてほしいと示すように腕を大きく広げ、夜空へ向かって声を弾ませた。
「ヤオヨロ~!」
無数の声が、それに応えた。
輝夜は一瞬、周囲の熱に圧倒されながらも、鳥居の上から観客すべてへ笑いかけるヤチヨを見つめていた。
何も歌っていない。
それなのに、会場の空気は彼女が現れただけで大きく変わっている。
先ほどまで忠犬オタ公が作り上げていた熱気さえも、すべてヤチヨを迎えるためのものだったのだと分かる。観客の視線も、頭上を流れる文字も、巨大な月さえ、今だけは鳥居の上に立つ少女を照らすために存在しているように思えた。
隣にいる彩葉も、ヤチヨだけを見つめていた。
街の映像で彼女を見ていた時よりも、さらに強く瞳を輝かせ、呼吸さえ忘れてしまったように顔を上げている。
ヤチヨは観客へ今夜を楽しんでいるかと問いかけ、返ってきた声を満足そうに受け止める。そして、この場所へ集まった者たちを迎える毎夜の儀式を始めると告げた。
彼女が鳥居の上で静かに息を吸い込む。
歓声が次第に収まり、会場へ一瞬の静寂が訪れた。
その静けさの中で、最初の音が鳴る。
澄んだ音色が月夜へ広がった瞬間、輝夜の足元を淡い光が駆け抜けた。
光は会場の端から端へ瞬く間に走り、観客たちの立つ場所を覆っていく。乾いていた地面の上へ、空を映す水面が広がり始めた。
足は沈まない。
それでも僅かに身体を動かすだけで、靴の下から確かな波紋が生まれていく。
水はさらに深さを増していくように見え、辺りの景色を青く染めながら、観客も鳥居も、巨大な月さえも、一つの海の中へ包み込んでいった。
水の中を、大小様々な魚が泳ぎ始める。
輝夜のすぐ傍を横切った魚は、触れられそうな距離まで近づきながら、尾びれを揺らして観客の間へ消えていった。頭上では巨大な魚の群れが青い光を纏い、鳥居の周囲を旋回している。
その中心で、ヤチヨが歌い始めた。
耳へ届いた声は、街の巨大映像から聞こえていたものとはまるで違っていた。
音として聞こえるだけではない。海へ変わった会場の景色も、身体の傍を泳ぐ魚も、水面へ広がる波紋も、すべてが彼女の歌声に合わせて呼吸している。彩葉が、映像で見るのとは違うと言っていた理由を、輝夜はようやく理解し始めていた。
街の上空へ浮かんでいた画面からでも、月見ヤチヨの姿を見ることはできる。歌声を聞き、同じ瞬間に集まった者たちの言葉を追いながら、遠く離れた場所からライブへ参加することもできるのだろう。しかし、いま二人の周囲に広がっているものは、一枚の映像へ収められるようなものではなかった。
ヤチヨが一音を紡ぐたび、海へ姿を変えた会場そのものが歌へ応えている。
輝夜の足元から生まれた波紋は、隣に立つ彩葉の波紋と触れ合い、さらにその向こうへ幾重にも重なりながら広がっていった。身体が沈むことはなく、衣服も髪も少しも濡れていない。それでも視界のすべては深い青へ染まり、頭上ばかりか足元のさらに下まで、果てのない海が続いているように見えた。
半透明の魚たちが、観客の間を縫うように泳いでいる。
その身体の内側には、骨格にも光の枝にも見える細い筋が走り、尾びれが揺れるたび、星屑のような粒が青い空間へ散っていった。
一匹の小さな魚が輝夜の目の前へ近づき、丸い瞳をこちらへ向ける。
輝夜がそっと指を伸ばすと、魚は触れられる寸前まで動かなかった。けれど、指先が身体へ重なろうとした瞬間、軽やかに身を翻し、淡い光だけを残して手の中をすり抜けた。
同じ大きさの群れへ紛れ込んでしまえば、どれが先ほどの魚だったのか、もう見分けることはできない。逃げられたことへ僅かに眉を寄せた輝夜の頭上を、今度は遥かに大きな魚が悠然と横切っていく。
巨大な月の前を通り過ぎた身体が、観客たちの上へ深い青の影を落とした。次の瞬間には、ヤチヨの歌声に呼応するように身体の内側へ無数の光が灯り、夜空を泳ぐ一つの星座へ姿を変える。
歌と、海と、月と、魚。
そのすべての中心に、ヤチヨがいた。
数え切れないほどの視線を一身に受けながら、少しも揺らいでいない。
観客へ向ける笑顔は華やかで、伸ばされる手は親しげだったが、その立ち姿には、熱狂の中心にいながら一人だけ静かな場所へ立っているような落ち着きがあった。
誰かの歓声に浮かされることもなく、期待の重さに押されることもない。自分へ注がれる熱のすべてを当然のように受け止め、必要なだけ歌と光へ変え、再び観客へ返していく。
声を張り上げて自分の存在を訴えなくても、視線は自然と彼女へ集まった。
誰か一人へ向けて歌っているわけではないはずなのに、ここにいる全員が、自分のために歌ってもらっているのだと思える。
彩葉がヤチヨを好きになる理由も、輝夜には分かった。
この声を聞き、この景色を見せられれば、もう一度見たいと願うことも、次のライブを待ち遠しく思うことも、不思議ではない。
ただ、理解できることと、納得できることは同じではなかった。
隣の彩葉は、先ほどからヤチヨだけを見つめている。
輝夜が魚へ手を伸ばしたことにも、大きな影が頭上を横切ったことにも、ほとんど気づいていない。胸元へ手を寄せ、息をすることさえ忘れたように、舞台の上から目を離さなかった。
曲が進むにつれ、ヤチヨの周囲へ細かな光が集まり始めた。
最初は海中を昇る泡のようにしか見えなかったものが、一か所へ寄り集まり、小さな人の輪郭を形作る。一つだった輪郭は二つへ分かれ、二つが四つへ、やがて数え切れないほどに増えていった。
光の中から現れたのは、ヤチヨと同じ姿をした分身たちだった。
ヤチヨたちは、会場を泳ぐ魚とは別に、青く満たされた空間を自由に飛び回りながら観客のもとへ散っていく。
差し出された手の周囲をくるりと回る者。
誰かの頭上で大きく腕を振る者。
二人で手を取り合い、歌に合わせて踊る者。
ヤチヨが近づくたび、会場の至るところから歓声が上がる。分身たちはその反応へ応えるように笑顔を振りまき、次の観客へ飛んでいった。
そのうちの一人が、輝夜と彩葉の姿を見つけた。
迷う様子もなく、真っすぐこちらへ向かってくる。
彩葉が気づいて目を見開いた時には、ヤチヨはすでに二人の目の前まで近づいていた。
「えっ……」
彩葉が小さく声を漏らす。
ヤチヨは、そのまま輝夜と彩葉の間へ身体を滑り込ませた。
二人の顔へ自分の頬を寄せるように中央へ収まり、目を閉じて幸せそうに笑う。三人で一枚の写真へ収まるかのような、親しげな構図だった。
突然の出来事に、輝夜は一度だけ目を瞬かせた。
一方、彩葉の反応は、遥かに分かりやすかった。
頬が一気に赤く染まる。
間近に現れたヤチヨを、信じられないものを見るように大きく目を開いて見つめた後、抑え切れない喜びが溢れたように口元を綻ばせた。
声を上げる余裕すらないらしい。
身体を僅かに縮め、胸元へ寄せた両手を震わせながら、ヤチヨへ蕩けるような視線を向けている。
その横顔を見た輝夜の頬が、僅かに膨らんだ。
彩葉の隣にいたのは、自分だった。
手を繋いで一緒に街を歩き、同じパフェを食べ、同じライブを見ている。その二人の間へ突然入り込んできた相手へ、彩葉は輝夜へ向けていたものよりも、ずっと無防備な笑顔を見せていた。
彩葉が楽しそうにしていることは、輝夜にとっても嬉しいはずだった。
けれど、ヤチヨへ向けられたその笑顔だけは、なぜか素直に喜ぶことができない。
ヤチヨは輝夜の不満など少しも気づかず、二人へ顔を寄せたまま笑っていた。やがて小さな両手を振ると、再び歌の流れる海へ飛び出していく。
「あ……」
彩葉が名残を惜しむように手を伸ばした。
その指先が届くよりも早く、ヤチヨは別の観客のもとへ向かってしまう。
彩葉は小さな背中をいつまでも目で追い続けていた。
「かわいかった……」
夢から覚め切っていないような声だった。
輝夜はすぐには答えなかった。
彩葉がようやく沈黙へ気づいて顔を向けた時には、輝夜はすでに舞台へ視線を戻している。
「どうしたの?」
「なんでもないわ」
声だけは平静だった。
しかし、繋いでいた手を少し強く握り直したことまでは隠せなかった。
彩葉は不思議そうに輝夜の横顔を見つめたものの、問い直すより先に、歌の流れが変わった。
会場を飛び回っていたヤチヨたちが、一斉に本体の方へ顔を向ける。観客たちへ最後に大きく手を振ると、身体は細かな光へ変わり、海中を昇る泡のようにヤチヨの周囲へ集まっていった。
彩葉も再び本体のヤチヨを見上げる。
頬にはまだ赤みが残っていた。
それでも今は声を上げることもなく、最後の一音まで聞き逃すまいとするように、胸元で両手を重ねている。
海の色が、ゆっくりと変わっていった。
深い青へ幾筋もの星明かりが差し込み、観客たちの足元に広がる水面の下へ、もう一つの夜空が現れる。
上を見ても星がある。
下を見ても星がある。
空と海の境界が失われた世界で、ヤチヨの歌声だけが、進むべき先を示す光のように響いていた。
輝夜も胸へ残っていた小さな不満をひとまず脇へ置き、その歌へ耳を傾ける。
ヤチヨが最後の一音を放った。
歌声は唐突に途切れることなく、遠い海の向こうへ進んでいくように、少しずつ小さくなっていった。
光る魚たちも、その声を追いかけるように遠ざかっていく。
会場を包んでいた海は、薄い膜を一枚ずつ剥がすように光へ変わり、観客たちの足元へ残った最後の波紋も、巨大な月の明かりへ溶けて消えた。
余韻だけが残る。
誰もがそれを壊すことを惜しんだように、一瞬だけ静寂が訪れた。
その中で、輝夜は彩葉の横顔を見た。
彩葉は鳥居の上へ戻ったヤチヨを見上げたまま、動いていなかった。
両目から溢れた涙が、頬を伝っている。
先ほど分身のヤチヨを前にして喜びを隠せずにいた姿とは、まるで違っていた。
今度は笑っていない。
自分が泣いていることにも気づいていないのか、涙を拭おうともせず、僅かに唇を開いたまま、消えてしまった歌声を胸の中へ留めようとしている。
やがて、堰を切ったような拍手と歓声が会場を揺らした。
それでも彩葉は、すぐには声を上げられなかった。
小さく肩が震えている。
ようやく息を吸い込んだものの、それは喉の奥で掠れ、言葉にはならなかった。何度か瞬きをしたところで、初めて頬を流れる涙へ気づき、空いている手で慌てて目元を拭う。
けれど、新しい涙がすぐに浮かんだ。
「彩葉」
輝夜が名前を呼ぶ。
彩葉は返事をしようとしたらしいが、声は震え、うまく形にならなかった。
代わりに小さく頷き、泣いていることを誤魔化すように唇を結ぶ。
輝夜は、それ以上何も尋ねなかった。
彩葉は街でも、ヤチヨのことを楽しそうに話していた。
ヤチヨが二人の間へ来た時には、周囲の目を忘れて喜んでいた。
けれど、それだけではない。
ヤチヨの歌は、彩葉を笑わせるだけでなく、言葉を失わせ、涙を流させるほど深いところへ届いている。
輝夜は、鳥居の上へ視線を戻した。
ヤチヨがすごいことは認められる。
感情をむき出しにして観客へ媚びることもなく、舞台のすべてを掌握しながら、自分の歌だけで数え切れないほどの者を惹きつけている。
あの歌と景色へ心を奪われる理由も、今なら分かった。
それでも、彩葉の笑顔も涙も、すべてヤチヨへ向けられているように思えたことだけは、どうしても面白くない。
自分もいつか、彩葉をこれほど喜ばせてみたい。
隣にいることを忘れられるのではなく、他のすべてを忘れさせるほど、自分だけを見つめさせたい。
まだ、そのために何をすればよいのかは分からない。
けれど、彩葉の濡れた瞳を見たことで、胸へ芽生えた小さな対抗心は、もう無視できないほど明確なものになっていた。