「みんなありがとう! 感謝! 感激! ヤチヨは果報者なのです」
ヤチヨの明るい声が、歌の余韻を切り替えるように響いた。
観客たちの間へ、歓声と笑いが広がる。
言葉だけを聞けば、無邪気にはしゃいでいるようにも思える。けれど、巨大な鳥居の上に立つヤチヨは、熱狂へ呑まれることなく、口元へ静かな笑みを浮かべていた。
観客が次に何を求めているのかを見通したうえで、望まれた言葉を最も効果的な瞬間へ落としたような余裕がある。
涙を拭っていた彩葉も、その声を聞くと顔を上げた。濡れた瞳のまま笑い、周囲の観客たちとともに拍手を送る。
その時、鳥居の横から白い影が跳び上がった。
長い耳を揺らしながら弧を描いた影は、慣れた様子でヤチヨの肩へ着地する。
白く丸い、もふもふ姿のてゐだった。ヤチヨは肩へ乗ったてゐを横目で確かめると、観客を焦らすように一拍だけ間を置き、一本の指を立てた。
「あ! ここでお知らせ、ヤチヨカップっていうイベントを開催します」
一瞬の静寂の後、会場へ驚きの声が広がった。
夜空へ、巨大な文字が浮かび上がる。
『ヤチヨカップ』
彩葉も目元を拭う手を止め、突然現れた名称を見上げた。
ヤチヨは観客たちの反応を眺めるように視線を巡らせた後、肩に乗るてゐへ僅かに顔を傾ける。
説明を促されたてゐが、小さな胸を張った。
「参加できるのは、ツクヨミで活動しているライバーたちだよ」
説明に合わせ、夜空へ数多くのライバーの姿が映し出される。
歌う者
楽器を演奏する者
踊る者
ゲームを配信する者
映像や物語を作り、大勢の観客へ届けている者。
活動の形は異なっていても、誰もが自分の表現を通して、まだ自分を知らない誰かへ声を届けている。
「開催期間は一か月。その間に、一番多く新規ファンを獲得したライバーが優勝だよ」
夜空へ一か月の期間を示す表示が現れ、その隣で、ライバーごとの新規ファン数を表す数字が次々と増えていった。一度の舞台や、その場で下される審査だけで決まる大会ではない。
一か月という限られた期間の中で、どれほど多くの新しい者へ自分の存在を届け、これからも見たい、応援したいと思わせられるかを競う。てゐは観客たちが内容を理解するのを待つように一度言葉を切り、長い耳を揺らした。
「そして優勝者には――」
夜空へ浮かんでいた映像が消える。
代わりに現れたのは、二人のライバーが同じ舞台へ立つ姿を模した光だった。
その片方は、月見ヤチヨ。てゐは小さな前足を掲げ、優勝者へ贈られるものを高らかに告げた。
「ヤチヨとのコラボライブの権利が進呈されます!」
会場が大きく揺れた。
歌の終わりにも劣らない歓声が上がり、無数の文字と光が夜空へ一斉に放たれる。
彩葉は涙の跡を拭うことも忘れ、目を見開いた。
「嘘! コラボ!?」
掠れていたはずの声が裏返る。
感動で震えていた身体が、今度は驚きと興奮によって小さく揺れた。繋いでいた輝夜の手を思わず強く握り、ヤチヨと夜空へ浮かぶ二人の姿を何度も見比べている。
輝夜は、そこまで大きく反応する理由が分からず、彩葉へ顔を向けた。
「それは凄いことなのかしら?」
彩葉は、信じられないものを見るように振り向いた。
目元にはまだ涙が残っていたが、それを気にする余裕もない。興奮で震える声を押し出しながら、早口で説明する。
「凄いも何も……配信のコラボはあったけど、ライブはいつも一人で歌ってたんだよ! 何!? 誰と!?」
最後の問いは、輝夜へ向けたものではなかった。
まだ顔も名前も決まっていない優勝者へ、答えのない疑問を投げかけたのだろう。彩葉は落ち着かない様子で夜空を見上げ、誰がヤチヨと並ぶことになるのか想像しようとしている。
輝夜は、そんな彩葉の横顔を見つめた。
ヤチヨが誰かと同じ舞台へ立つ。
ただそれだけのことが、彩葉の涙を忘れさせ、声を震わせるほど特別らしい。
それならば、自分たちでその場所を目指せばいい。
輝夜にとっては、ごく自然な結論だった。
「なら、一緒に目指しましょう、彩葉」
彩葉の動きが止まった。
ゆっくりと輝夜へ顔を向け、何を言われたのか確かめるように瞬きを繰り返す。
「……一緒に?」
「ええ。優勝すれば、ヤチヨとライブができるのでしょう?」
輝夜は夜空へ表示された大会名を見上げた。
「彩葉はヤチヨが好きで、私は彩葉と一緒に遊びたい。なら、二人で目指せばいいわ」
あまりにも単純で、迷いのない理屈だった。
だが、彩葉はすぐには頷かなかった。
嬉しさより先に、困ったように眉を下げる。
「無理だよ」
短い否定だった。
輝夜は不満そうに彩葉を見た。
「どうして?」
「私たちはモブだよ。私はバトルゲームを少しやってるだけだし、輝夜は今日ツクヨミへ来たばかりでしょう?」
彩葉は、夜空へ表示された条件と、大会の告知へ集まり始めた反応を順番に示した。
「人気のあるライバーなら、告知しただけで大勢が見に来るし、協力してくれる人だってたくさんいる。一か月で増えたファンの数を競うなら、最初から知られてる人の方がずっと有利なんだよ」
「最初から有名なら、新しいファンは増やしにくいのではないの?」
「そんなに簡単じゃないよ。私たちみたいな無名が、いきなり勝てる大会じゃない」
彩葉は輝夜の考えを馬鹿にしているわけではなかった。
現実を知らない輝夜が期待した後で傷つかないよう、早めに諦めさせようとしているようにも見えた。
「こういうのは、最初から勝つ人が決まってんの」
彩葉が小さく言い切った、その直後だった。
「よう子ウサギども!お前らの帝様が来たぜ!」
会場を満たしていたざわめきを断ち切るように、甘く、よく通る声が響いた。
その声を聞いた瞬間、彩葉の肩が大きく跳ねた。
先ほどまで輝夜へ大会の厳しさを説明していた顔から、さっと血の気が引く。声の主を確かめるよりも早く、彩葉は輝夜の背後へ身体を滑り込ませた。
「彩葉?」
突然、自分を盾にするように隠れられ、輝夜は後ろを振り返ろうとした。
すると、背中へ身を寄せていた彩葉が、慌てて輝夜の肩をつかむ。
「どうして隠れるの?」
「今はいいから」
彩葉は輝夜の背中から顔を出さず、こちらの姿を見つけられないように息を潜めている。
なぜそこまで慌てるのか尋ねようとした時、会場の夜空へ黒と紫の光が走った。
先ほどまで広がっていた海の青とは、正反対の色だった。
鋭い音に続いて重い低音が響き、観客たちのざわめきが爆発的な歓声へ変わっていく。黒い光の中へ三つの人影が現れ、その周囲を宝石のような紫の輝きが取り囲んだ。
中央に立つ帝アキラ。その両脇には、雷と乃依。
Black onyXだった。
三人の姿とともに『OnyXXX』の音が流れ、会場の一角が彼らのための舞台へ塗り替えられていく。
帝が片手を掲げると、黒と紫の光が指先へ集まり、観客たちの頭上へ砕けた宝石のように降り注いだ。待ち構えていたファンたちが一斉に三人の名を呼び、先ほどまでヤチヨ一人へ向けられていた会場の熱の一部を、鮮やかに自分たちへ引き寄せていく。
輝夜は目の前に現れた三人よりも、背後に隠れた彩葉の方が気になっていた。
彩葉は輝夜の肩越しに、ほんの僅かだけ顔を覗かせている。
しかし、その視線が中央の帝へ近づくと、見つかることを恐れるようにすぐ顔を引っ込めた。
知っている相手なのだろうか。聞きたいことはあったが、帝が鳥居の上にいるヤチヨへ親しげに手を振ったため、輝夜もひとまず前へ顔を戻した。
「というわけで、俺たち優勝するから、ヤチヨちゃんコラボ、よろしくね」
すでに結果が決まっているかのような口調だった。
挑発とも取れる宣言を受けても、ヤチヨの表情は変わらなかった。
鳥居の上からBlack onyXを見下ろし、口元へ僅かな笑みを浮かべる。相手の自信を否定するでも、持ち上げるでもない。どのような結末になっても受け入れると、初めから決めているような顔だった。
「そういう運命なら、もちろんヤチヨは従うよ」
静かな余裕を含んだ返答に、Black onyXのファンだけではなく、会場全体から大きな歓声が上がった。
誰が勝つのか。
誰がヤチヨの隣へ立つのか。
まだ決まっていない未来さえ、ヤチヨにとっては舞台を彩る一つの要素にすぎないようだった。
ヤチヨはBlack onyXから観客たちへ視線を移すと、会場へ集まったすべての者を誘うように両腕を広げた。
「最高なライブを約束するから、みんなドシドシ参加してね!」
無数の光が、巨大な月へ向かって弾ける。
ヤチヨは歓声が最も高まる瞬間を見計らったように、ゆっくりと笑みを深めた。
「一緒にハッピーになって、めでたししちゃお~!」
「しちゃう~」
蕩けきった声が聞こえた。
輝夜はゆっくりと振り返る。
先ほどまで帝から隠れるために身を縮めていた彩葉が、輝夜の背中から僅かに顔を出し、鳥居の上のヤチヨを見上げていた。先ほどまでの緊張はどこかへ消え去り、頬を緩ませ、ヤチヨの一言だけで今にも溶けてしまいそうな顔になっていた。
分身のヤチヨへ向けた笑顔。
歌の終わりに流した涙。
コラボライブの発表へ震わせた声。
そして今、ヤチヨの言葉へ心を奪われ、何も考えられなくなったように零した返事。
彩葉をそんな顔にさせるヤチヨが、どうしても気に入らなかった。
歌が素晴らしいことも、彩葉が夢中になる理由も理解している。
むしろ、その力を認めてしまったからこそ、負けたままでいることが許せなかった。
輝夜は背後の彩葉から離れるように一歩前へ出た。
胸いっぱいに息を吸い込み、巨大な鳥居の上へ向けて、真っすぐに声を放った。
「ヤチヨ!」
輝夜の声が、巨大な月の下に満ちていた歓声を真っすぐに貫いた。
突然、自分を隠していた背中が前へ動いたことで、彩葉は慌てて身を低くした。Black onyXを包んでいた黒紫の光はまだ会場の一角に残り、その中心には帝アキラの姿も見えている。見つからないように輝夜の陰へ隠れていたはずなのに、当の輝夜はそんな事情など忘れたように、人の列から一歩前へ踏み出していた。
周囲の観客たちが、何事かと一斉に振り向く。
しかし輝夜は、自分へ集まった視線には目もくれなかった。
赤みを帯びた深い褐色の瞳が見つめているのは、巨大な赤い鳥居の上に立つ月見ヤチヨだけだった。
「私がヤチヨカップに優勝するわ」
何者でもない少女の宣言に、会場のざわめきが形を変えた。
今日初めてツクヨミへ入ったばかりの輝夜を知る者など、ほとんどいない。
歌を聞いた者もいなければ、配信を見た者もいない。名前を呼んでくれるファンは一人もおらず、そもそもヤチヨカップへ参加する資格さえ持っていなかった。
それでも輝夜の声には、自分が勝つことを疑っていない者だけが持つ、奇妙な確信があった。
「そして、あなたと一緒にライブをする」
さらに言い切った輝夜の背後で、彩葉が息を呑んだ。
けれど、もう止めるには遅かった。
観客たちの視線だけではない。Black onyXの登場にも揺らがなかったヤチヨの赤い瞳が、ゆっくりと輝夜へ向けられる。
突然の宣戦布告を受けても、ヤチヨの表情はほとんど変わらなかった。
数え切れない観客の中から声を上げた一人を見つけ、静かにその姿を確かめる。自分とよく似た顔立ちを持つ少女を見下ろす眼差しには、驚きよりも、以前から知っていたものが予想どおり動き始めたことを見届けるような落ち着きがあった。
やがて、その口元へごく薄い笑みが浮かぶ。
それが挑戦を受け入れた印なのか、無謀な宣言を面白がっただけなのか、輝夜には分からなかった。
ヤチヨは輝夜へ言葉を返さないまま、会場全体へ視線を巡らせた。
観客の熱がまだ頂点にあることを確かめ、別れを惜しませる瞬間まで自分の手の内へ収めるように、片手を軽く掲げる。
「それでは! ライブは一旦ここで終了。みんなと少しお話しさせてね、ばいば~い」
明るい声だった。
けれど、感情のままにはしゃいでいるようには見えない。
何を言えば観客が喜び、どの瞬間に舞台を切り替えれば熱を失わずに済むのか、そのすべてを分かったうえで言葉を置いたような余裕があった。
ヤチヨが指先を払う。
巨大な鳥居の上に立っていた身体が、月光を映した水面のように揺らいだ。
一つだった輪郭が二つへ分かれる。
二つが四つへ。
四つがさらに数を増やし、同じ姿をしたヤチヨたちが、夜空へ花弁を散らすように広がっていった。分身したヤチヨは、それぞれ別の方向へ降りていく。
待ちわびていた観客たちが一斉に名前を呼び、差し出した手を振る。ヤチヨたちは人の輪の中へ静かに着地すると、ライブの感想へ耳を傾け、質問へ答え、短い時間ながら一人一人と言葉を交わし始めた。ライブが終わったというのに、会場の熱は少しも冷めていない。自分の近くにもヤチヨが来るかもしれないという期待によって、観客たちのざわめきは先ほどまでとは違う高揚を帯びていた。
しかし、彩葉だけは交流の始まりを喜んでいる場合ではなかった。
帝たちの姿が人混みの向こうへ隠れたことを確かめると、ようやく身体を起こし、逃がさないように輝夜の袖をつかむ。
「輝夜」
先ほどヤチヨへ「しちゃう~」と蕩けた声を返していた人物と同じとは思えないほど、低く切実な呼びかけだった。
輝夜が振り返る。
彩葉は周囲へ聞こえないよう顔を近づけ、怒りと焦りを押し殺した声で問いかけた。
「さっきの約束、もう忘れたの!?」
「約束?」
輝夜が本当に分かっていない顔をしたため、彩葉の眉間へ深い皺が寄る。
「目立つことはしないって約束したでしょう!」
抑えていたはずの声が、最後だけ僅かに大きくなった。
近くにいた観客が何人か振り向き、彩葉は慌てて口元を手で覆った。こちらへ向けられた視線が離れるのを待ってから、さらに声を潜める。
「大勢の前でいきなり叫んで、優勝するって宣言して、それのどこが目立たないの?」
言われて初めて、輝夜は周囲を見回した。
宣言した直後ほどではないものの、まだ何人かが興味深そうにこちらを見ている。先ほどの輝夜の言葉について話している者もいれば、見慣れない少女の姿を記録している者までいた。
確かに目立っている。
けれど、輝夜は反省するどころか、なぜ彩葉が困っているのか分からないように首を傾げた。
「でも、彩葉はヤチヨとライブをしたいのでしょう?」
「したいけど、今はその話じゃないの!」
「さっき、とても喜んでいたわ」
「それは……」
彩葉の言葉が詰まる。
コラボライブの権利が発表された時、自分がどれほど興奮していたのか、少しは自覚しているらしい。歌の余韻による涙の跡が残る頬へ、別の意味で赤みが差した。
輝夜はその変化を見逃さなかった。
「なら、二人で出ればいいわ」
「どうしてそうなるの!?」
「二人で優勝すれば、彩葉もヤチヨと同じ舞台へ立てるでしょう?」
「私はライバーじゃないし、輝夜だって違うでしょう!」
彩葉は額へ片手を当てた。
どう説明すれば、目の前の少女へ大会の仕組みと自分たちの立場を理解させられるのか、考えるだけで頭が痛くなっているようだった。
「ヤチヨカップに参加できるのは、ツクヨミで活動してるライバーだけなの。私たちは参加する資格すらないんだよ」
「では、ライバーになればいいのね」
「だから、そんな簡単に――」
「参加できるのは、ライバーだけだよ」
彩葉の言葉へ重なるように、落ち着いた声が届いた。
彩葉の身体が固まる。
輝夜が顔を向けると、分身したヤチヨの一人が、二人から数歩離れた場所に立っていた。
いつから会話を聞いていたのかは分からない。
つい先ほどまで別の観客に囲まれていたはずなのに、近づいてくる気配さえ感じさせず、いつの間にか二人のすぐ傍まで来ていた。
ヤチヨの視線は、真っすぐ輝夜へ向けられている。
「さっきの宣言、本気なんだ?」
「ええ」
輝夜は少しも怯まずに頷いた。
「私が優勝するわ」
近い距離で向かい合う。
一人は、数え切れないファンを魅了し、ツクヨミを管理する月見ヤチヨ。
もう一人は、今日初めてこの世界を訪れ、ライバーという言葉の意味さえ十分には知らない輝夜。
二人が積み重ねてきたものには、比べることもできないほどの差があった。
それでも輝夜の態度には、ヤチヨを見上げるような遠慮がない。
ヤチヨは短い沈黙の後、僅かに顎を引いた。
「でも、今のあなたはライバーじゃない」
「確かに違うわ」
輝夜は即座に認めた。
知らないことを指摘された恥ずかしさも、宣言を取り消す迷いもない。
「なら、これからなればいいのでしょう?」
ヤチヨの目が、ごく僅かに細められる。
驚いたというより、その答えを確かめたような反応だった。
輝夜は目を逸らさない。
「私はライバーになる。そして、ヤチヨカップに優勝するわ」
ヤチヨはしばらく輝夜を見つめていた。
勢いだけで放った言葉なのか。
本当に自分の隣へ辿り着こうとしているのか。
表情ではなく、赤い瞳の奥にあるものまで見定めようとしているようだった。
やがて、その口元へ薄い笑みが浮かぶ。
「そう」
短い返答だった。
過度に期待することも、無謀な挑戦だと笑うこともない。輝夜がどこまで来られるのか、それを静かに待つという程度の響きだけが残った。
その隣で、彩葉は緊張のため身動き一つできずにいた。
つい先ほどまで、ヤチヨを遠くから見上げて歓声を送っていた。ヤチヨが近づいただけで言葉を失い、歌が終われば涙を流した。その相手が今は手を伸ばせば届く場所へ立ち、自分の隣にいる輝夜と話している。
何か言わなければならない気がする。
けれど、ヤチヨへ直接向ける言葉は一つも出てこなかった。
ヤチヨは彩葉の様子を一度だけ見た後、次に自分を待つ観客たちへ視線を移した。
これで話は終わったのだと察した彩葉は、ぎこちなく頭を下げる。
「し、失礼します……」
輝夜の袖を引き、その場から離れようとした。
「待って」
背後から呼び止められ、彩葉の足が止まった。
恐る恐る振り返る。
ヤチヨはただ彩葉の前まで静かに歩み寄ると、当然のように右手を差し出した。
彩葉は、その手とヤチヨの顔を交互に見た。
何を求められているのか理解するまで、ほんの僅かな時間がかかった。
やがて、ライブへ入場するために購入したチケットに、ヤチヨとの握手が付いていたことを思い出したらしい。赤みの残っていた目を大きく見開き、短く息を呑む。
「あ……」
あれほど楽しみにしていたはずだった。
けれど、ヤチヨカップの発表、Black onyXの登場、輝夜の突然の宣戦布告が立て続けに起きたことで、そのことを完全に忘れていた。
ヤチヨは急かさない。
差し出した手を下ろすこともなく、彩葉が自分から応じるのを静かに待っている。
彩葉は自分の右手を胸元へ寄せ、一度だけ深く息を吸った。
それでも指先の震えは収まらない。
恐る恐る腕を伸ばし、ヤチヨの掌へ手を重ねる。
ヤチヨの指が、その手を穏やかに包んだ。
触れた瞬間、彩葉の肩が小さく跳ねる。
ここが仮想空間であることなど、今の彩葉には何の意味もなかった。
目の前にヤチヨがいる。
何度も画面越しに見つめてきた相手が、自分一人へ視線を向け、自分の手を握っている。
本当は、伝えたいことがいくつもあった。
今日のライブがどれほど素晴らしかったのか。
歌を聞いて、何を感じたのか。
これまで何度も配信へ会いに来ていたことも、いつか直接感謝を伝えたいと思っていたことも、頭の中では何度も言葉にしていた。
しかし、実際にヤチヨを前にすると、用意していたはずの言葉は一つも出てこなかった。
胸の内へ押し寄せた感情が喉元で絡まり、声になることを拒んでいる。
「……ありがとうございます」
ようやく絞り出せたのは、それだけだった。
ライブへの感謝なのか。
忘れていた握手へ気づいてくれたことへの感謝なのか。
これまで歌を届け続けてくれたことへの感謝なのか。
彩葉自身にも、もう分からなかった。
けれど、短い言葉の中には、彩葉が伝えたかったもののすべてが込められていた。
ヤチヨは何も足りないとは思っていないように、その感謝を静かに受け止めた。
握った手を必要以上に強くすることも、彩葉の緊張をからかうこともない。ただ、目の前の一人へ向き合うための時間を、誰にも奪わせないように保っている。
その隣で、輝夜の視線が二人の重なった手へ落ちた。
握手がチケットの特典であることは、彩葉の反応を見れば分かる。
ヤチヨがほかの観客とも交流していることも、先ほどから目にしていた。
それでも、自分以外の誰かに手を握られただけで、彩葉の顔がこれほど赤くなり、言葉まで失っていることは、やはり面白くない。
輝夜の頬が、僅かに膨らむ。
ヤチヨはその変化に気づいていたのかもしれない。
しかし、何も指摘しなかった。
やがて彩葉の手を静かに離し、わずかに目元を和らげる。
「それじゃ、またね」
「は、はい……!」
彩葉は離された右手を胸元へ抱きながら、何度も頷いた。
そのまま動こうとしない彩葉の袖を、今度は輝夜が引く。
「帰るわよ」
「ちょっと待って、まだ……」
「もう終わったのでしょう?」
「そうだけど……」
彩葉はまだ離れがたい様子だったが、ほかにもヤチヨとの交流を待つ観客が大勢いることは分かっていた。胸元の手を離さないまま、最後に小さく頭を下げる。
「ありがとうございました」
ヤチヨは落ち着いた笑みを浮かべ、短く手を振った。
彩葉が名残惜しそうにその姿を目へ焼きつける隣で、輝夜がログアウトの操作を行う。
二人の身体を淡い光が包んだ。
輪郭が透け、足元から細かな粒子へ変わっていく。
彩葉は姿が消える直前までヤチヨを見つめていた。
やがて二人の身体は光へ溶け、その場から完全に消えた。
ヤチヨは、二人がいた場所をしばらく見つめていた。
周囲では今も大勢の観客がヤチヨの名を呼び、次に話せる瞬間を待っている。
それでも、その赤い瞳は、すぐには別の誰かへ向かなかった。
やがて、誰にも届かせるつもりのない静かな声で呟く。
「いつも会いに来てくれてありがとう、彩葉」
その表情には、先ほどまで観客へ向けていたものとは異なる、僅かな懐かしさが浮かんでいた。