(六月上旬/温水視点)
「四十枚?」
「はい」
「二十分の説明で、四十枚?」
「はい」
六月二日、月曜日の朝。
俺は隣の席から差しだされたクリアファイルを、両手で受け取った。
厚い。
クリップで留めてあって、指が入らない。
「内訳を申し上げますと、本編が十四枚、想定問答が十九枚、参考資料が七枚です」
「想定問答が十九枚」
「十九枚です」
「一番きつい想定って、どれですか」
「『この大学、聞いたことがないのですが』です」
「……直球だな」
「実際に言われる想定ですので」
「言われますね。月一で」
「言われたら、どう返すんですか」
「『今日、聞いたじゃないですか』って返します」
「……メモします」
「メモするようなことじゃないです」
「では、十二枚目を伺います。『併願校とどちらが上ですか』と聞かれた場合は」
「聞かれます?」
「聞かれます」
「……ほんとに聞かれるんですか、それ」
「保護者の方は、聞きます。私の想定では、二日目の午後に」
「なんで午後なんですか」
「午前中は、まだ遠慮があります」
――こわ。
この人の想定問答は、質問の中身より、質問が飛んでくる時刻のほうが怖い。
「ちなみに、想定問答の十九枚目は何ですか」
「『お手洗いはどこですか』です」
「それ、想定問答に要ります?」
「実際に一番多い質問だと、大貫君に伺いましたので」
「あいつ、正しいこと教えてますね」
「はい。想定問答の中で、唯一、即答できる自信があります」
「本番、それだけ聞かれるといいですね」
「それは困ります」
「困るんだ」
「二十分、お手洗いの説明だけはできません」
「できたら逆にすごいですよ」
「主任は、なんとお答えになるんですか」
「『会場図のここです』って指さします。あと、混んでるほうと空いてるほうを言います」
「……空いているほう」
「体育館の裏が、だいたい空いてます」
「なぜご存じなんですか」
「五年、行ってるんで」
「……十九枚目を、差し替えます」
「差し替えるんだ」
「知見は取り込みます」
俺は一枚目をめくった。
美しかった。
行間が揃っている。見出しの階層が三段まできれいに切られている。
太字の使い方に一貫性がある。ページ番号が右下に入っている。
こんな資料を、俺は自分の人生で一度も作ったことがない。
「……すごいですね、これ」
「恐れ入ります」
「見出しの階層、三段で止めてますよね」
「四段にすると、読み手が構造を保持できません」
「そこ、意識してるんだ」
「常識です」
常識ではない。
うちの課で作られる資料の九割は、見出しが太字か太字じゃないかの二階層である。
残りの一割は、俺が作っているので、階層という概念がない。
「いや、常識じゃないですよ。これ、うちで作れる人、たぶん三人もいないです」
「……三人」
「二人かもしれない」
「…………」
「馬剃さん?」
「……そう、ですか」
声が、半音上がった。
顔は動いていない。動いていないのに、耳のふちだけが、ぱっ、と赤くなった。
「あの、いま照れました?」
「照れていませんっ」
「照れましたよね」
「本学の資料作成水準に関する客観的な所見を頂戴しただけですので、私個人の感情が介在する余地はございませんっ」
「早口」
「早口ではありませんっ」
「ちなみに主任の先週の資料、見出しがすべて『について』で終わっていました」
「それが俺の階層です」
「階層ではありません」
「じゃあ何なんですか、あれは」
「羅列です」
「はっきり言うなあ」
「申し訳ありません。ですが、お直しになったほうがよろしいかと」
「直す気はないです」
「なぜですか」
「見出しに『について』って付いてると、上の人が安心するんですよ」
「……それは」
「効くんです。十二年やってます」
「……一理ありますね」
「ないですよ」
「ないんですかっ」
「ありますけど、真似しないでください」
「どちらですかっ!」
通りかかった桑原主査が、足を止めた。
「桑原さん。馬剃さんの資料、どう思います」
「厚い」
「それだけですか」
「……重い」
「感想が物理なんですよ、この人」
「褒めてる」
桑原主査は、それだけ言って給湯室に消えていった。
「……いまのは、褒めていただいたのでしょうか」
「褒めてます。あの人が二語喋ったんで」
「二語で判定できるんですか」
「三語だと絶賛です」
「……そうですか」
天愛星さんは、クリアファイルの角を、指でそろえ直した。
そろえ直す必要は、まったくなかった。
「あと、この参考資料の七枚は」
「出典です。すべての数値に、一次資料の所在を付しました」
「一次資料」
「学校基本調査と、本学の事業報告書と、教務システムの抽出データです」
「相談会に、会計検査は来ないですよ」
「来ない保証はありません」
「……これ、誰が見るんですか」
「私が見ます」
天愛星さんは、当たり前のように言った。
「数字を言うときに、根拠の所在が頭にないと、声が出ませんので」
――ん?
俺は、そこで一度、引っかかった。
声が出ない。
妙な言い方だな、と思った。
思ったが、そのときは深く考えなかった。
「あの、一個だけいいですか」
「はい」
「これ、読むんですか?」
天愛星さんの手が、ぴたりと止まった。
六月は、入試広報課の一つ目の山である。
六月だけで、合同進学相談会が十七件。
会場を借りて、高校生と保護者が来て、大学が横一列にブースを並べる。うちの前に座ってくれた子に、二十分で説明する。
校内ガイダンスとは別物だ。
あっちは高校の教室に呼ばれて五十分。こっちは会場のブースで二十分を、一日に何回転もする。
しかも、相談会のほうは相手が選べない。
高校生が一人で来ることもあれば、保護者と二人のこともある。
三年生のこともあれば、一年生の妹を連れた家族のこともある。志望が固まっている子もいれば、うちの大学名を今日初めて見た子もいる。
誰が座るかは、座ってから分かる。
座ってから、二十分の中身を決める。
土日が全部消える。
六人の課で十七件を回すには、全員が一人で立てないと詰む。
だから六月三日に、模擬プレゼンをやる。二十分喋って、質疑五分。課長と部長が見る。
通れば、独り立ちである。
「読みます」
天愛星さんが言った。
「一言一句、原稿どおりに?」
「はい」
「二十分で十四枚って、一枚あたり九十秒切りますよ」
「読めます」
「読めるんだ」
「文科省では、一枚十五秒の案件もありました」
「何の訓練ですか、それ」
天愛星さんは答えなかった。
答えないところを見ると、本人も訓練だとは思っていないのだろう。
「……やめませんか」
俺は、そう言った。
言ってから、少し言い方がよくなかったなと思った。
この人は、たぶん、土日を全部これに使っている。
「理由を、伺えますか」
声が、いつもより固かった。
「原稿があると、原稿を読むんですよ。読むと、相手を見なくなります」
「はい」
「相手を見ないと、どこで飽きたか分からないんで」
「……はい」
天愛星さんは、うなずいた。
うなずいて、それから言った。
「ですが、私は原稿を作ります」
――あ。
この人、譲らない。
「役所では、説明資料と想定問答は必須でした」
彼女は、まっすぐこちらを見ていた。
「準備をせずに人前に出るのは、相手に対して失礼だと教わりました。……十年、そう教わってきました」
「なるほど」
「原稿がないと、私は」
そこで、言葉が止まった。
止まって、彼女は言い直した。
「原稿があったほうが、正確です」
俺は、その二秒間を、覚えている。
いま思えば、あそこで押すべきだった。
「原稿がないと、私は」の続きが、たぶん本当のことだった。
俺はそれを聞くべきだったし、聞かないまでも、もう一回だけ食い下がるべきだった。
でも、俺は。
「分かりました。じゃあ、それでいきましょう」
俺は、そう言った。
引いたのだ。
いつもどおり。
拒否の気配を〇・一秒で拾って、その瞬間に撤退する。
十六年やっている。もう身体が勝手にやる。
俺はクリアファイルを返して、自分の画面に戻った。
「温水さん、ちょっといいですか」
昼過ぎ、大貫が椅子ごと寄ってきた。
「なんだ」
「馬剃さんの資料、見ました?」
「見た」
「あれ、ちょっとやばくないですか。俺のときの資料、A4一枚だったんですけど」
「一枚か」
「一枚です。しかも箇条書きが六個で、うち二個が『雰囲気の良さ』と『アットホーム』でした」
「……よく通ったな、それ」
「二回目で通りました」
「ちなみに残りの四個は」
「学食が安い、駅から近い、緑が多い、あと『元気』です」
「大学案内じゃなくて不動産の広告だろ」
「不動産に『元気』はないでしょ」
「あるだろ。南向きとか」
「それ、元気じゃなくて日当たりです」
「日当たりは元気だろ」
「暴論です」
「じゃあお前、いまなら何て書く」
「『初年次教育の再編』です」
「……馬剃さんの資料、読んだな」
「読みました。三回読みました」
「感想は」
「一枚目で寝ました」
「読んでないだろ」
「三回とも一枚目で寝たので、通算三枚です」
「威張るところじゃないんだよなあ」
大貫は、しばらく黙ってから、小声で言った。
「あの、温水さん」
「うん」
「馬剃さん、大丈夫ですかね」
「なにが」
「なんか、金曜からずっと、瞬きの回数が少ないんですよ」
――こいつ。
俺は大貫の顔を見た。
この男は、うるさくて、無神経で、地雷原でタップダンスを踊る。
そういうやつだと思っていた。
思っていたが、たぶん、それだけではない。
「見てるんだな、お前」
「見ますよ。隣の島ですもん」
大貫は、それだけ言って自分の席に戻っていった。
言われてみれば、確かにそうだった。
金曜の夕方から、隣の席の空気が変わっている。
キーボードの音が、少しだけ速い。
マグカップを置く音が、いつもより硬い。
そして、席を立つ回数が減っている。
この人は、追いつめられると、動かなくなるタイプらしい。
俺は逆で、追いつめられると無駄に立ち歩く。人間はいろいろである。
月曜の朝、俺は一応、聞いてはいた。
「馬剃さん、土日は休めました?」
「はい」
「本当に?」
「……土曜は、七時間ほど作業しました」
「日曜は」
「九時間です」
「休んでないですよね、それ」
「休みました。合間に、二時間ほど眠りましたので」
――合間に。
俺はその返答を聞いて、ぐ、と何かを飲みこんだ。
文科省にいた十年間、この人がどういう働き方をしていたのかが、その一言で全部見えた気がした。
「馬剃さん」
「はい」
「明日終わったら、水曜は定時で帰ってください」
「業務量によります」
「業務命令にしますよ」
「……主任に、業務命令の権限はありません」
「根拠」
「事務組織規程第八条。専決及び命令の権限は課長以上です」
「即答やめてもらっていいですか」
「規程ですので」
「規程、暗記してるんですか」
「主要な条文のみです」
「主要な条文って、何条くらいあるんですか」
「百四十二条です」
「主要じゃないだろ、それ」
「主要ですっ」
「……あ、そうか」
俺は自分の席に戻った。
なんの権限も持っていない男が、なんの効力もないことを言った。
情けない話だが、この課の力関係というのはそういうものである。
その日の十七時十五分。
天愛星さんは、席を立たなかった。
「馬剃さん」
「はい」
「今日は帰ってください」
「明日の準備が」
「その準備で、土日が消えたんですよね」
「……はい」
「じゃあ、帰るのが準備です」
「……それは、詭弁です」
「詭弁ですね」
「認めるんですかっ」
「認めます。でも、帰ってください」
天愛星さんは三秒黙って、それからパソコンを閉じた。
「温水主任は」
「俺も帰ります。録画が溜まってるんで」
「録画」
「アニメです」
「……三十四歳ですよね」
「三十四歳です。この話、前もしましたよね」
「しました。何度でもします」
「今夜は何を観るんですか」
「聞くんだ」
「参考までに」
「参考にしないでください」
「では、感想だけ明日伺います」
「感想も業務外です」
「業務外の時間に伺います」
「……ああ言えばこう言う」
「文科省で鍛えられましたので」
「変な鍛えられ方してるんだよなあ」
「答弁の基礎です」
「馬剃さん、その基礎、けっこう役に立ってますよ」
「……役に」
「うちの課、言い返してくる人がいなかったんで。楽しいです」
「た、楽しい」
「はい」
「……そう、ですか」
返事が、二秒遅れた。
――一秒以内に返すのが、この人の癖のはずなんだが。
俺はそう思って、すぐに思うのをやめた。
人の返事の速さを数えるのは、たぶん、あまりよくない趣味である。
六月三日の昼、天愛星さんは自席で、おにぎりを一つだけ食べていた。
「馬剃さん、昼、それだけですか」
「ゼリー飲料もあります」
「飲料は食事に入らないです」
「栄養素の観点では完結しています」
「観点の話はしてないんですよ」
「では、何のお話でしょうか」
「顔色の話です」
「……顔色は、照明の影響を受けます」
「じゃあ廊下出ましょうか。あそこ、蛍光灯ちゃんとしてるんで」
「結構ですっ」
「……売店で、何か買ってきます」
「一緒に行きます。コーヒー切れたんで」
「主任、それで今日三本目です」
「数えないでください」
「数えます。記録は取るので」
「その記録、何に使うんですか」
「用途は未定です」
「怖いんだよなあ」
「怖くありません。統計です」
「統計が一番怖いんですよ」
「事実ですので」
「事実なのが怖いんです」
「温水主任」
「はい」
「私の記録によりますと、主任は緊張されると自販機に行かれます」
「行かないですよ」
「四月十七日、五月九日、五月二十七日。いずれも会議の三十分前です」
「……それ、なんの記録ですか」
「用途は未定です」
「二回目だぞ、それ」
「二回目です」
天愛星さんは少し迷ってから、財布を持って立ち上がった。
売店で、天愛星さんはサンドイッチを二回手に取って、二回戻した。
三回目でやっと持って、レジで小銭を落とした。
ちゃりん、と鳴って、十円玉が二枚、床を転がっていった。
「あ」
「拾います」
「私が拾いますっ」
二人で同時にしゃがんで、頭がぶつかりかけた。
「……失礼しました」
「いえ」
天愛星さんは、十円玉を握ったまま、しばらく立ち上がらなかった。
握った指の関節が、白かった。
六月三日、火曜日、十四時。
第二会議室。
前に、長机が一つ。
その向こうに、柏木部長、鷲尾課長、桑原主査。俺と大貫は後ろの壁際に椅子を並べた。
天愛星さんは、十三時四十分には会議室に入っていた。
プロジェクタの接続を確認して、資料を配って、水を置いて、それからずっと立っていた。
接続の確認は、三回した。
一回目でつながっていた。二回目もつながっていた。三回目もつながっていた。
三回目のあと、彼女はケーブルの根元を指で押さえたまま、五秒くらい動かなかった。
「馬剃さん」
「はい」
「つながってます」
「……はい」
「三回とも」
「……はい」
座らなかった。
「馬剃さん、座っててもいいですよ」
「はい」
返事はしたが、座らなかった。
「立って待つ規程でも、あるんですか」
「ありません」
「じゃあ」
「……立っていたい気分です」
「了解です」
「温水主任は、ご自身のときは座られましたか」
「立ってました」
「……そうですか」
「立って、五分前まで廊下を三往復しました」
「三往復」
「四往復かもしれないです」
「……記録されていないんですね」
「そこは記録しないでいいんですよ」
「じゃあ、始めましょうか」
鷲尾課長が言った。
「馬剃さん、今日は本番のつもりでどうぞ。会場のブースで、高校生と保護者が前に座ってる想定ね」
「はい」
「二十分、そのあと質疑五分」
「承知いたしました」
天愛星さんが、原稿を持ち上げた。
クリップを外して、一枚目を左手に、二枚目以降を右手に。
その持ち方が、きれいだった。
紙の角をそろえて、胸の高さより少し下に構える。顔が隠れない位置だ。
どこかで習ったのだと思う。あるいは、誰かに直されたのだと思う。
俺は壁際の椅子で、膝の上に手を置いていた。
「温水さん」
隣の大貫が、小声で言った。
「緊張してます?」
「俺が?」
「温水さんがです。さっきから手、組み替えるの三回目ですよ」
「数えないで」
「あ、四回目」
「数えないでって」
「温水さんも、馬剃さんの影響受けてません?」
「受けてない」
「五回目です」
「……ちょっと黙ってて」
――なんで俺が緊張してるんだ。
喋るのは俺じゃない。判定されるのも俺じゃない。
なのに、手のひらに汗をかいている。他人の模擬プレゼンで、である。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
――よかった。
声が、出た。
俺は壁際で、少しだけ息を吐いた。
最初の二枚は、完璧だった。
大学の概要、学部構成、立地、学生数。
数字が正確で、順番が整理されていて、聞いていて迷子にならない。
声も安定していた。
文末が下がるので、聞きやすい。
柏木部長がうなずいている。
鷲尾課長がメモを取っている。桑原主査は腕を組んで、たぶん寝ていない。
大貫が、俺のほうを見て、親指を立ててきた。
俺は無視した。
――これ、通るな。
俺はそう思った。
思って、油断した。
三枚目に入った。
「続きまして、本学の教育の特色についてご説明いたします。本学では二〇一九年度より、初年次教育の再編を行っておりまして、具体的には、共通教育科目のうち――」
柏木部長が、資料をめくった。
ぱらり、と音がした。
部長は笑っていた。
いつもの、赤ら顔の、機嫌のいい顔である。
そして、片手を軽く上げた。
「馬剃さん」
「それ、結論から言ってくれる?」
空気が、止まった。
いや、止まってはいない。
部長は、悪意ゼロだった。
むしろ助け舟のつもりだったと思う。あの人は、話が長い人に対していつもこれを言う。俺も三回言われたことがある。
誰も、何も起きていないと思っていた。
天愛星さんの手が、止まった。
原稿が、三ミリくらい、下がった。
「……はい」
声が出た。
出たが、それだけだった。
二秒。
「結論から、申し上げます」
三秒。
紙が、かさ、と鳴った。
――手が。
俺は、そこで初めて気づいた。
天愛星さんの右手が、震えていた。
紙の端が、ぶれている。細かく、規則的に。
初日の、あの震え方だった。
五秒。
天愛星さんは、原稿を見ていた。
目が、一行目のところで止まっている。
動かない。
口が、少し開いた。
開いて、そのまま、閉じた。
七秒。
柏木部長が、笑顔のまま、少し首を傾げた。
「……あれ? ごめん、いま俺、変なこと言った?」
言ってない。
部長は何も言っていない。
部長は、話が長いなと思って、いつもの一言を言っただけだ。
八秒。
天愛星さんは、まだ、動かなかった。
九秒。
俺の胃のあたりが、ぐっと重くなった。
――十六年前。
俺は、体育館の演台で、同じことをやった。
言葉が止まって、全校生徒の前で、完全に黙った。
あのとき、俺の頭の中は、真っ白ではなかった。むしろ逆で、いろんなことが同時に見えすぎて、どれから口に出せばいいのか分からなくなっていた。
止まっているあいだ、時間の進み方が変わる。
一秒が、ものすごく長い。
誰も助けてくれない。
助けてくれないというより、みんな、助け方が分からない。
沈黙している人間に、周りができることは、待つか、笑うか、目を逸らすかの三つしかない。
三つとも、本人にはよく見えている。
あのとき、舞台袖から、誰かが見ていた。
十秒。
俺は、立ち上がっていた。
「すみません」
自分の声が、思ったより大きく響いた。
全員がこっちを向いた。
天愛星さんも、こっちを向いた。
「部長、課長。すみません、たぶん体調不良です」
俺は言った。
「日を改めていただけますか」
――なにやってんだ、俺は。
言ってから、心臓が、どくどくと鳴りはじめた。
俺は、この五年間、会議で場を壊したことが一度もない。
会議というのは、壊れる前に流すものだ。
空気が悪くなりそうなら、話題を変えるか、冗談を挟むか、休憩を提案する。それが事務局の仕事である。
俺はいま、その全部を飛ばして、直接止めた。
部長の前で。
「あら」
鷲尾課長が、すぐに動いた。
「そうね。馬剃さん、顔色悪いわ」
課長は立ち上がって、水のペットボトルを天愛星さんのほうに滑らせた。
「はい、じゃあ今日は中止。部長、いいですね」
「え、あ、うん。もちろん」
柏木部長は、まだ状況が飲みこめていない顔をしていた。
「馬剃さん、無理しないでね。ここ、そういうの気にしない職場だから」
部長は、本当にいい人である。
いい人なので、自分が何をしたかを、たぶん一生知らない。
「……申し訳、ありません」
天愛星さんが言った。
声が、かすれていた。
「大丈夫よ。日程は温水君と調整するから」
「申し訳ありません」
「二回言わなくていいの」
鷲尾課長は、資料をまとめながら、俺のほうを一度だけ見た。
目が合った。
その目は、「あとで」と言っていた。
会議室から、部長と課長と桑原主査が出ていった。
大貫が、何か言いたそうな顔で立っていたが、俺が首を振ると、そのまま出ていった。
二人になった。
天愛星さんは、原稿を胸の前で持ったまま、立っていた。
「馬剃さん」
「……はい」
「座りましょう」
「はい」
座らなかった。
立ったまま、原稿を胸の前で抱えている。
その持ち方が、さっきの、きれいな持ち方ではなくなっていた。
角がそろっていない。
一枚だけ、飛び出している。
「あの」
「はい」
「温水主任」
「はい」
「ありがとうございました」
天愛星さんは、そう言った。
言って、それから、深く頭を下げた。
三十度。
いつもの角度だった。
――やめてくれ。
俺は、そう思った。
思ったが、口には出さなかった。
「じゃあ、荷物まとめましょう」
「はい」
「プロジェクタ、俺やるんで」
「いえ、私が」
「馬剃さん」
「はい」
「俺、これ巻くの好きなんですよ」
天愛星さんは、二秒くらい、俺を見ていた。
それから、小さくうなずいて、資料を集めはじめた。
彼女が会議室を出ていったのは、十四時二十五分だった。
俺はケーブルを八の字に巻いて、面ファスナーで留めて、プロジェクタを台車に乗せた。
乗せて、それから、廊下に出た。
課には戻らなかった。
――どこ行った。
トイレではない。あの人は、こういうときにトイレに行かない。人がいるからだ。
給湯室でもない。同じ理由だ。
俺は、階段のほうへ歩いた。
本部棟の非常階段は、東側にある。
建物の端で、扉が重くて、誰も使わない。
俺は年に何回か、面倒な電話をここでかける。
扉を押すと、外の音が入ってきた。
六月の午後の空気は、もう夏に近い。
風がぬるくて、遠くで工事の音がしている。
天愛星さんは、踊り場に座っていた。
立っているのではなく、階段の一段目に、そのまま座っていた。
膝を抱えているわけでもなく、ただ、座っていた。
原稿を、脇に置いて。
俺の足音で、彼女が顔を上げた。
――ああ。
泣いていた。
声は出していなかった。
肩も揺れていなかった。
ただ、両目から、まっすぐ流れていた。
拭いてもいなかった。
たぶん、拭くという発想が、いまはない。
「……見ないでください」
「はい」
俺は、扉のところで止まった。
「見ないでください」
「はい」
俺は、そこから動かなかった。
出ていくのも、近づくのも、たぶん、違う気がした。
しばらく、風の音だけがしていた。
「……私」
天愛星さんが言った。
声が、ぐしゃぐしゃだった。
「あの人と、同じ言い方だったんです」
「うん」
「『結論から言ってくれる』って」
「うん」
「部長は、悪くありません」
「うん」
「部長は、何も、悪くないんです」
彼女は、そこで一度、息を吸った。
ひゅ、と喉が鳴った。
「私、分かってるんです。全部、分かってるんです。あの人はもういないし、ここは文科省じゃないし、柏木部長はいい人ですし、鷲尾課長も、大貫君も」
言葉が、速くなった。
「分かってるのに、身体が」
ぐ、と原稿を掴んだ。
「一年半、経ちました。もう平気だと思っていました。通院もやめました。医師にも、大丈夫だと言われました」
「うん」
「なのに」
天愛星さんは、そこで顔を上げた。
「私、ここでもまた逃げるんですか」
彼女は、笑おうとした。
笑おうとして、口の端が上がりかけて、そこで崩れた。
崩れたまま、彼女は前を向いた。
俺は、扉の枠に手をかけたまま、立っていた。
言うべきことを、いくつか思いついた。
「逃げてない」。
「誰も責めてない」。
「一回失敗しただけ」。
全部、たぶん正しい。
全部、たぶん、いま言っても届かない。
俺は、扉を閉めて、階段を降りた。
二分後、俺は戻ってきた。
手に、缶を二本持って。
「馬剃さん」
「……」
「これ」
俺は、彼女の隣の段に、缶を一本置いた。
黒いラベルの、砂糖もミルクも入っていないやつだった。
天愛星さんは、しばらくそれを見ていた。
それから、手を伸ばして、取った。
プルタブを開ける音が、かちり、と鳴った。
一口飲んだ。
「……まずいです」
「知ってます」
「三十円値上がりしてます」
「値上がりしましたね」
天愛星さんは、缶を両手で包んだ。
包んで、そのまま、しばらく動かなかった。
俺は、二段下に座って、自分の缶を開けた。
二人とも、何も喋らなかった。
工事の音が、遠くで続いている。
六月の風が、階段を上ってきて、抜けていった。
下の駐車場で、誰かが車のドアを閉めた。
ばん、という音が、鉄骨に反響して、二回鳴った。
天愛星さんが、ぴくりと肩を動かした。
それだけで、俺は少し胸が痛くなった。
――俺のせいだ。
俺は、そう思っていた。
二日前、俺は「やめませんか」と言って、そのあと一回で引いた。
あの人は「原稿がないと、私は」と言いかけて、言い直した。
言い直したということは、言えないことがあったということだ。
俺は、それを聞かなかった。
聞かずに、「分かりました」と言って、自分の画面に戻った。
なぜか。
押すと、揉めるからだ。
揉めると、面倒だからだ。
俺は十六年、そうやって生きてきた。
そうやって生きてきて、それで飯を食えるようになって、教授を笑わせて、会議を通して、五年で主任になった。
その全部が、いま、この階段の踊り場で、何の役にも立っていない。
「馬剃さん」
「はい」
「一個、謝っていいですか」
天愛星さんが、こちらを向いた。
「なぜ、あなたが」
「二日前、原稿の話をしたとき、俺、一回で引いたんで」
天愛星さんの目が、少し開いた。
「あのとき、もう一回聞くべきでした。『原稿がないと、私は』の続き」
「……」
「聞かなかったのは、揉めるのが面倒だったからです」
俺はコーヒーを一口飲んだ。
「俺、そういう人間なんですよ。昔から」
風が吹いた。
「……知っています」
天愛星さんが言った。
声が、少しだけ、戻っていた。
「知っていますよ。十六年前から」
「そうですか」
「はい」
彼女は、缶を持ち直した。
「でも、今日は」
「はい」
「今日は、あなたが、立ち上がりました」
俺は、返事をしなかった。
返事の代わりに、階段の手すりを見ていた。
塗装が剥げていて、下地の鉄が出ている。
……あとで用度に連絡しておこう。
そんなことを考えている自分に、少し呆れた。
「馬剃さん」
「はい」
「一つ、提案があります」
「はい」
「明日から、一日二十分だけ、俺にください」
天愛星さんが、顔を上げた。
「なにを、されるんですか」
「特訓です」
「……特訓」
「就業時間外です。なので、無給です」
「無給」
「あと、秘密です」
天愛星さんは、たっぷり三秒黙った。
「……なぜ、秘密なんですか」
「課長に知られると、超過勤務の申請しろって言われるんで」
「規程上、正しいのは課長です」
「正しいですね」
「……」
「馬剃さん」
「はい」
「規程どおりにやると、間に合わないんですよ」
六月の会場型相談会は、十七件。
最初の一件が、六月十四日である。
あと十一日だった。
天愛星さんは、缶を両手で持ったまま、しばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「……原稿は」
「捨てます」
「四十枚あります」
「捨てます」
「土日をまるごと使いました」
「知ってます」
天愛星さんの口が、少し動いた。
文句を言おうとして、やめた顔だった。
「……分かりました」
「はい」
「ですが、想定問答は残します」
「なんでですか」
「あれは、原稿ではありません。備えです」
俺は、思わず笑ってしまった。
この人は、本当に、譲るところと譲らないところが、変なところで分かれている。
「じゃあ、想定問答は残しましょう」
「はい」
「本編十四枚は、明日、俺の目の前でシュレッダーに入れてください」
「……そこまでしますか」
「します」
天愛星さんは、缶の残りを飲み干した。
飲み干して、立ち上がって、スカートの後ろを軽く払った。
目のあたりは、まだ赤かった。
「温水主任」
「はい」
「戻ります」
「はい」
「あの」
「はい」
「……顔、ひどいですよね」
「ひどいですね」
「即答しないでください」
「すいません」
「一秒くらい、迷ってください」
「一秒迷ったら、それはそれで傷つきません?」
「……傷つきます」
「じゃあ、即答でいいじゃないですか」
「よくありませんっ」
声に、少しだけ張りが戻った。
……よかった。
天愛星さんが、缶を持ったまま、階段を上っていった。
俺は、そのあとをついていった。
「馬剃さん」
「はい」
「あの資料、すごくよかったです」
「捨てるのに?」
「捨てるのと、よかったのは別なんで」
天愛星さんが、階段の途中で止まった。
「……あれ、四十枚のうち、三十七枚は使えます」
「え」
「本編の十四枚は捨てますけど、中身は捨てないです。あれ、俺の頭の中にしか入ってなかったことが、全部言葉になってるんで」
俺は手すりを軽く叩いた。
「来年から、新人に渡します」
天愛星さんは、何か言おうとして、やめた。
やめて、少しだけ、鼻をすすった。
「……ずるいです」
「なにが」
「いま言うのは、ずるいです」
扉を開ける直前、彼女が振り返った。
「温水主任」
「はい」
「明日は、何時からですか」
「十七時十五分から、二十分です」
「短いですね」
「短いです。長いと続かないんで」
天愛星さんは、うなずいた。
うなずいて、それから、少しだけ笑った。
今度は、崩れなかった。
課に戻ってすぐ、鷲尾課長に呼ばれた。
打ち合わせブースである。この課で、扉が閉まる唯一の場所だ。
「温水君」
「はい」
「今日、あなた、どうしたの」
来た。
俺は、椅子の上で少しだけ姿勢を直した。
「すみません。出過ぎました」
「そこじゃないの」
課長は、湯呑みを両手で持っていた。
「あなた、五年間、会議で人の話を止めたこと、一度もないでしょう」
「……ないですね」
「一度もよ。私、数えてるから」
――この人も数えるのか。
「揉めそうになったら、あなたは必ず別の話をするの。冗談言うか、休憩挟むか、資料の話に逃げるか。五年間ずっとそう」
「はい」
「今日は、正面から止めたわね」
俺は、返事に困った。
言い訳は、いくつか用意してあった。
OJT担当として、指導対象の状態を優先した。
模擬プレゼンは公式の審査ではないので、中止の判断に大きな支障はない。
柏木部長は寛容な人なので、リスクは低いと判断した。
全部、あとから考えたものである。
「……気づいたら、立ってました」
俺はそう言った。
鷲尾課長が、少しだけ笑った。
「そう」
「はい」
「私はね、あれでよかったと思ってる。部長も分かってない顔してたけど、あの場は止めるのが正解」
「ありがとうございます」
「で」
課長が、湯呑みを置いた。
こと、と音がした。
「温水君。馬剃さんのこと、どこまで知ってるの」
――。
俺は、口を開いて、そこで止まった。
知っていることは、ある。
初日の、震えていた右手。
文科省と名乗る電話で止まった指。
褒められた瞬間に貼り替わる表情。
人前で上司の誤りを指摘したことがある、という一文。
全部、知っている。
全部、この二か月で、隣の席から拾ったものだ。
でも。
「……何も知らないです」
俺は、そう答えた。
「聞いてないんで」
鷲尾課長は、しばらく俺を見ていた。
それから、湯呑みを持ち直した。
「そう」
「はい」
「あのね、温水君」
「はい」
「知らないままでいてあげるのも、優しさよ」
課長は、そこで一度、言葉を切った。
「でも、知らないままだと、助けられないこともあるからね」
俺は、何も言えなかった。
「六月十四日、間に合う?」
「間に合わせます」
「そう。じゃあ、頑張って」
課長は立ち上がって、ブースを出ていった。
出ていく直前に、一度だけ振り返った。
「あと、超過勤務はちゃんと申請しなさいね」
「……はい」
バレてる。
まだ何もしていないのに、もうバレていた。
席に戻ると、大貫が椅子ごと寄ってきた。
「温水さん」
「なんだ」
「なんか始めるんでしょ」
「なにを」
「知らないですけど。顔に書いてあります。『十一日で何とかする』って」
「書いてない」
「じゃあ、六月の会場の荷物、全部俺が運びます」
俺は大貫の顔を見た。
「……なんでだ」
「筋肉は裏切らないんで」
「お前の筋肉の話はしてない」
「いいから任せてくださいって。俺、そういうのしかできないんで」
そういうの「しか」、ではないのだが。
俺はそれを言わずに、「頼む」とだけ言った。
「はい。……あ、いまの流れ、切り抜いていいですか」
「駄目に決まってるだろ」
「じゃあせめて、明日の朝、自販機のコーヒー奢ってください」
「なんでだ」
「労働の対価です」
「百三十円で運送業を請け負うな」
「請け負いました」
「安請け合いすぎるだろ」
「安いのは単価で、心意気は高いんで」
「うまいこと言うな」
「でしょ。いま考えました」
「考えたのか」
「三日前から考えてました」
「どっちだ」
「三日前に考えて、いま思い出しました」
「それ、考えたって言わないだろ」
「熟成です」
その日、俺は十七時十五分に大学を出なかった。
十七時四十分まで残って、明日からの十一日ぶんの段取りを、共有フォルダではないところに書いた。
ローカルの、『memo』というファイルである。
書き終えてから、俺はふと手を止めた。
――定時、超えてるな。
五年間、俺は月の残業を三時間以内に抑えてきた。
抑えることを、人生の中心に据えてきたと言ってもいい。
今日は、二十五分。
二十五分である。大したことはない。
……大したことはない。
俺はファイルを保存して、パソコンを閉じた。
閉じてから、隣の席を見た。
誰もいない。
彼女は十七時十五分ちょうどに帰った。
俺が「今日はもう帰ってください」と言ったからだ。
机の上に、一枚だけ、紙が残っていた。
クリアファイルから抜いた、本編の一枚目だった。
俺は、それを裏返した。
几帳面な角ばった字で、一行だけ書いてあった。
『明日、十七時十五分。忘れないでください』
……忘れるかよ。
俺は、その紙を折った。
折ってから、もう一度開いて、字を見た。
この人は、たぶん、これを書くのに三回くらい迷っている。
『よろしくお願いいたします』と書きかけて、やめた形跡がある。文の頭が、わずかに詰まっている。
……分かるようになってしまった。
俺は紙をもう一度折って、鞄に入れた。
入れてから、定期入れの厚みが指に当たった。
電車に乗って、ドアの横に立つ。
窓の外を、六月の夜が流れていく。
俺は、明日からの十一日間のことを考えていた。
考えながら、途中で、まったく別のことを考えていた。
――なんで俺、立ったんだろうな。
課長には「気づいたら立ってました」と言った。
嘘ではない。
でも、たぶん、正確でもない。
あの十秒のあいだ、俺は、舞台袖のことを思い出していた。
十六年前、俺が黙りこんだとき。
誰も助けなかった。誰も助け方を知らなかった。
ただ一人、舞台袖で、俺のほうを見ていた人がいた。
あのとき、あの人は動けなかった。
動けなかったことを、たぶん、いまでも覚えている。
……ということは、だ。
俺は今日、十六年前の借りを返しただけである。
そう考えると、話は簡単だった。
簡単なので、俺はそう考えることにした。
電車が駅に着いて、ドアが開く。
俺はホームに降りて、階段を上った。