(六月中旬/温水視点)
その朝、俺は本編十四枚がシュレッダーに入るのを見た。
天愛星さんは、一枚ずつ入れた。
まとめて入れれば三秒で終わるのに、一枚ずつ差しこんで、刃が噛む音を最後まで聞いてから、次の一枚を持った。
がががが、と刃が噛む。
噛みおわると、彼女は一度、小さく息を吸う。
十四回、同じことをした。
俺は横で、それをただ見ていた。
止めるべきかどうか、二回くらい迷った。
迷って、止めなかった。この人は、たぶん、そうしないと納得できない。
最後の一枚が消えたとき、彼女は蓋を閉めて、一度だけ息を吐いた。
「終わりました」
「はい」
「二十六時間ぶんです」
「……そんなに」
「土日の作業時間です。記録は取っておりますので」
この人は、本当に何でも記録する。
俺は、そのとき、たぶん少しだけ顔に出た。
天愛星さんが、すかさず言った。
「同情されると、余計に痛いので、やめてください」
「してないって」
「していました。眉が、〇・三ミリほど下がっていました」
「測ったの?」
「見れば分かります」
「怖いんだよなあ」
「怖くありません。観察です」
「観察が一番怖いんだよ」
「……気をつけてください」
「気をつけるのは俺なんだ」
「はい」
「……気をつける」
「場所、ないんですけど」
「ないんですか」
「ないな」
六月四日、十七時十六分。
俺は施設予約システムの画面を睨んでいた。
空き教室。会議室。演習室。
六月の第一週から第二週にかけて、うちの大学の使える部屋は、ほぼ全部埋まっている。
「補講と、あと学会の準備と、それから教職課程の説明会だな」
「本部棟の打ち合わせブースは」
「あれ、扉が薄いから、外に丸聞こえ」
「では、図書館のグループ学習室」
「試験期間だから、二週間先まで満席」
「体育館のミーティングルーム」
「バスケ部が合宿の打ち合わせで押さえてる」
「では、屋上」
「屋上は五年前から施錠されてる」
「……第二駐車場の、車内」
「馬剃さん」
「はい」
「それ、通報されるやつ」
「なぜですか」
「三十四歳の男女が、夜に車の中で二時間いるんだよ」
「業務ですっ」
「業務だって分かるのは、この世に二人だけなんだよ」
「……取り下げます」
「非常階段は」
「昨日、俺たちがコーヒー飲んだとこだけど」
天愛星さんが、ぴたりと黙った。
「……あそこは、やめましょう」
「やめとこう」
特訓は昨日、非常階段で決まった。
就業時間外。無給。秘密。
条件は最悪だが、六月十四日まで、あと十日である。
その一日目に、場所がなかった。
「あの、温水主任」
「はい」
「カラオケボックス、というのは」
「え」
「防音ですし、時間で借りられます。個室ですので、秘密の要件も満たします」
天愛星さんは、真顔だった。
「……馬剃さん」
「はい」
「それ、十六年前と同じ発想だよね」
「効果は実証済みです」
「英単語四十七個のやつだろ」
「四十七個です」
「あのとき俺、三十九個しか覚えられなかったけど」
「三十八個です」
「一個くらい多く言ってくれてもよくない?」
「事実は変わりません」
「その言い方、四月にも聞いたな」
「変わりませんので」
俺は少し考えた。
考えて、やめた。
男性職員と女性職員が、平日の夜に二人でカラオケボックスに入って、無給で発表練習をする。
この絵面を、鷲尾課長に説明できる自信が、俺には一ミリもなかった。
「……別の案、探そう」
「なぜですか」
「なぜかは言えない」
案は、意外なところにあった。
学食である。
うちの学食は十九時で閉まる。
閉店後の二階フロアは、二十時までスタッフが清掃をしていて、そのあとは無人になる。
過去に一度だけ、あそこを借りたことがある。
用度管財課にいたころ、厨房設備の入れ替えで、業者さんと現場確認をしたときだ。
運営は委託である。
委託先に電話をして、話を通せばいい。
「株式会社セントラルフードサービスさん、ですね」
「そう。俺、そこの現場責任者さんとは面識あるんだよ」
「就業時間外の私的利用ですが」
「大学の広報業務の準備。堂々と言える」
「先ほど、秘密だとおっしゃいました」
「言い方の問題」
電話は、十七時四十分にかけた。
現場責任者の方が出て、「あ、それエリアマネージャーの許可がいるんですよ」と言われた。
「あ、そうなんですか」
「四月から担当変わったんで。いま代わりますね、ちょうど巡回で来てて」
「あ、はい。お願いします」
保留音が鳴った。
俺は受話器を肩に挟んで、明日の資料をめくっていた。
「はい、お電話代わりました。セントラルフードサービスの」
止まった。
「――八奈見です」
俺は、受話器を落としかけた。
どくん、と心臓が跳ねる。
落とさなかったのは、たぶん、これまで生きてきた成果である。
「……あ、あの」
「入試広報課の温水さん、ですよね」
声が、明るかった。
明るくて、そして、一ミリも驚いていなかった。
「はい」
「フロア使いたいって話でしょ。十九時から二十一時で、二階の窓際。いいですよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
「じゃ、今日から使えるようにしとくね」
電話が切れた。
俺は、受話器を置いた。
置いてから、しばらく動けなかった。
「温水主任」
「はい」
「顔が、真っ白です」
「そう?」
「なにかありましたか」
「……八奈見さんだった」
天愛星さんが、ボールペンを落とした。
かたん、と机の上で二回跳ねて、それから床に転がった。
「八奈見さん」
「八奈見さんです」
「八奈見杏菜さん、ですか」
「たぶん、この世に一人しかいない」
「……エリアマネージャー」
「エリアマネージャー」
「あの方が」
「あの方が」
天愛星さんは、ボールペンを拾うのを忘れていた。
拾ったのは、俺である。
十九時。
学食の二階は、照明が半分だけついていた。
テーブルが二十卓。椅子が上げられている一角と、そのままの一角がある。
厨房のほうから、水の音がしていた。
窓際のテーブルが四つだけ、椅子が下ろしてあった。
拭いてある。誰かが拭いた跡が、まだ乾いていない。
「……準備、されてますね」
「されてるな」
俺は、そのテーブルを見ていた。
「はい、お待たせ」
厨房のほうから、声がした。
十六年ぶりだった。
髪が、短くなっていた。
肩より上で切りそろえてある。高校のときは背中まであった。
背は変わっていない。
制服がポロシャツとエプロンに変わっていて、胸に社名の刺繍が入っている。
顔は――
顔は、まったく変わっていなかった。
「温水君、久しぶり」
「……久しぶり」
「馬剃さんも。うわ、ほんとに馬剃さんだ」
「ご無沙汰しております」
天愛星さんが、深く頭を下げた。
「かたっ!」
八奈見さんが、両手を上げた。
「なにその挨拶。堅すぎ」
「……失礼しました」
「謝るとこじゃないって」
「では、何と申し上げれば」
「『久しぶりー』でいいんだよ」
「……ひ、久しぶりー」
「棒読みじゃん」
「十六年ぶりの再会に、初期設定がありませんっ」
「なにその言い訳」
「言い訳ではありません。準備の不足ですっ」
天愛星さんの耳が、かあっ、と赤くなった。
「いいのいいの。座って座って」
俺は、突っ立ったままだった。
「あの、八奈見さん」
「うん」
「いつから」
「四月」
即答だった。
「四月から、この大学の担当エリアになったの。月に一回、巡回で来てる」
「……一回」
「五月に一回、六月に一回。あと四月に引き継ぎで一回。だから三回来てる」
八奈見さんは、テーブルの上を布巾でもう一度拭いた。
「二階の日替わり、いつも十二時二十分ごろに食べてるでしょ」
「……」
「焼き魚の日は必ず来るよね」
俺は、何も言えなかった。
――見られていた。
三回。四月から、三回。
俺は、その三回とも、学食で飯を食っていた。
食っていて、何も気づかなかった。
「なんで」
俺は、やっと声を出した。
「なんで、声かけなかったの」
八奈見さんは、布巾をたたんだ。
たたんで、それをエプロンのポケットに入れた。
「なんでだと思う?」
――これだ。
この人は、こういう返し方をする。
十六年前から、まったく変わっていない。
「……分かんない」
「うん。分かんないよね」
八奈見さんは、にっこり笑った。
「じゃ、練習してていいよ。二十一時に上がるから、それまでに終わらせて」
そう言って二歩歩いて、思い出したように振り返った。
「あ、そうだ。そのうち賄い出すから、覚悟しといてね」
「覚悟?」
「大盛りだから、その日は昼を軽めにしておくこと」
命令形だった。
そう言って、今度こそ厨房に戻っていった。
天愛星さんが、ごくり、と喉を鳴らした。
「……温水主任」
「はい」
「あの方、怒ってらっしゃいますね」
「怒ってるな」
「かなり」
「かなりだな」
天愛星さんが、鞄から想定問答のファイルを出した。
「では、始めましょう」
「え、始めるの?」
「十日しかありません」
この人の、こういうところは、本当に助かる。
……あと、いま気づいたんだが。
俺は、さっきから敬語を使っていない。
いつ崩れたのかは、自分でも分からない。
たぶん、十七時十五分を過ぎたあたりから、ずるずるといった。
四月に一度、居酒屋で崩れた。
あのときは、次の日の朝には戻していた。今回は、戻す気配がない。
天愛星さんは、指摘してこない。
指摘してこないということは、気づいていて、そのままにしているということだ。
この人が気づいていないわけがない。人の沈黙の秒数を数える人である。
……まあ、いいか。
就業時間外だし。
まず、俺が高校生役をやることになった。
「じゃあ俺、三年生の男子ね」
「承知しました。何年生ですか」
「三年生」
「学科は」
「普通科」
「志望分野は」
「まだ決まってない」
「模擬試験の判定は」
「馬剃さん」
「はい」
「そこ、いる?」
天愛星さんが、手帳から顔を上げた。
「必要です。設定が曖昧では、練習になりません」
「いや、当日そんなの分からないから」
「分からないから、想定するんです」
「想定しなくていいって。座ってから聞くんだから」
「では、聞く前提で設定を詰めます」
「詰めなくていいって!」
「二十分の演習に、前提は不可欠です」
「不可欠じゃない」
「不可欠ですっ。前提のない演習は、演習ではなく雑談ですっ」
「雑談でいいんだよ」
「よくありませんっ」
俺は、ペットボトルを机に置いた。
この人は、本当に、何ひとつ変わっていない。
結局、十分かけて「高校三年生・男子・普通科・理系寄り・模試はC判定・部活は引退済み・第一志望は国公立」という、無駄に解像度の高い高校生が誕生した。
俺である。
「では、始めます」
「はい」
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。私は――」
止まった。
天愛星さんは、テーブルの上の何もない場所を見ていた。
「……申し訳ありません」
「四十秒」
「言わないでください」
「言わないと分かんないだろ」
「分かっています。自分でも数えていました」
「数えてたの?」
「四十二秒です」
「俺は四十秒って言ったけど」
「主任の計測は概算です」
「そこ張り合う?」
「事実ですので」
……この人、止まりながら数えてたのか。
二回目は、五十五秒だった。
三回目は、三十秒。
止まり方が、毎回同じだった。
最初の挨拶までは出る。
そのあと、大学の名前を言って、自分の所属を言って、そこで一度、息を吸う。
その息のあとが、出ない。
俺は三回目のときに気づいた。
この人が止まるのは「言葉が出てこない」からではない。
息を吸ったあとに、次に言うことを確認しようとして、そこで手元を見る。
手元に、紙がない。
紙がないと気づいた瞬間に、止まる。
四回目で、彼女は椅子に座りこんだ。
「……原稿が、ないんです」
「うん」
「何を言えばいいのか、分からないんです」
天愛星さんの声が、少し高くなっていた。
「頭の中には、あります。あるんです。四十枚ぶん、全部あります。なのに、口に出そうとすると、どれから出せばいいのか」
「うん」
「順番が、決められません」
俺は、テーブルの向かいに座った。
「馬剃さん」
「はい」
「順番、決めなくていいって」
「決めないと、話になりません」
「なるって」
「なりません」
「なるんだよ」
「根拠を示してください」
……交渉が始まった。
俺は、ペットボトルのお茶を一口飲んで、指を一本立てた。
「相手が決めるから」
天愛星さんが、顔を上げた。
「相手が」
「そう。ブースに座った子が、いま何を知りたいかで、順番が決まる」
「……それは、相手に聞かないと分かりません」
「聞くんだよ」
「聞くんですか」
「聞くの」
俺は、指を三本にした。
「最初の一分、こっちは喋らない。三つ聞く。『今日どこ回りました?』『何年生?』『理系文系決まってる?』」
「……それは、二十分の説明ではありません」
「二十分の会話」
「私は説明の練習に来ました」
「会話の練習に変更で」
「勝手に変更しないでください」
天愛星さんが、腕を組んだ。
この顔だ。
高一の冬、階段下で、この人はこの顔で俺を壁際に追いつめた。
十六年経っても、腕の組み方が同じである。
「……できるでしょうか」
「できるって」
「なぜ、そう思われるんですか」
「そっちのほうが、馬剃さんに向いてるから」
俺は、そう言った。
言ったが、根拠はまだなかった。
根拠が出てきたのは、三日後である。
二日目は、少しだけ進んだ。
最初の一分――こちらから三つ質問をするところまでは、彼女はできるようになった。
というより、そこだけは異様にうまかった。
「本日はどちらの高校からいらっしゃいましたか」
「他にどちらの大学のブースを回られましたか」
「いま気になっていることを、一つだけ挙げるとしたら何でしょうか」
三つ目が、うまい。
俺なら「なんか気になることある?」と聞く。
この人は「一つだけ挙げるとしたら」と聞く。
こう聞かれると、相手は必ず一つ答える。
「特にないです」で終われなくなる。
「馬剃さん、いまの三つ目、どこで覚えたの?」
「ヒアリングの基本です」
「基本」
「答えの個数を指定すると、回答率が上がります。文科省で、自治体への聞き取りをするときに」
「……それ、俺、明日から使う」
「どうぞ」
この人は、俺が持っていないものを、たくさん持っている。
持っているのに、そのことを一つも自慢しない。
問題は、そのあとだった。
自分が喋る番になると、また止まる。
二日目の終わりに、天愛星さんがぽつりと言った。
「温水主任」
「はい」
「教え方が、十六年前と同じですね」
俺は、ペットボトルの蓋を閉める手を止めた。
「そう?」
「はい。全体を先に言って、次に例外を出して、そのあと必ず『なんでこうなるかっていうと』と続けます」
「……言ってた?」
「本日、四回です」
「数えないでくれ」
「記録は取ります」
「その記録、いつか見せてくれる?」
「見せません」
「なんで」
「……分量が、多いので」
「多いんだ」
「多いです」
六月六日、金曜日。
三日目も、うまくいかなかった。
二十分の頭の一分――相手に質問をするところまでは、彼女はできた。
できたが、そのあと自分が喋る番になると、また止まる。
「すみません」
「謝らなくていいって」
「……はい」
「あと、そこで自分の手のひら見るの、やめよう」
「見ていません」
「見てた」
「…………」
「馬剃さん」
「……見ていました」
「素直だな」
「観測されたものは、認めます」
二十時四十分。
厨房の照明が落ちて、八奈見さんが出てきた。
「まだやってんの」
「まだやってる」
「進んだ?」
「進んでない」
俺は正直に答えた。
八奈見さんは、腕を組んで、しばらく俺たちを見ていた。
それから、テーブルに近づいてきて、空いている椅子を引いた。
座った。
座って、俺のペットボトルを取って、一口飲んだ。
「あ」
「なに」
「それ、俺の」
「知ってる」
知っててやる人である。昔から。
「じゃあ、あたし聞くよ」
「え」
「馬剃さん。あたし、保護者だと思って。娘が受験なの」
「……娘さん、いらっしゃるんですか」
「いないよ。いま作った」
俺は思わず吹き出した。
天愛星さんが、困った顔でこちらを見た。
「馬剃さん、やってみて」
「……はい」
八奈見さんが、身を乗りだした。
「で、そちらの大学って、うちの娘に何がいいんですか」
「――は」
天愛星さんの口が、開いた。
開いて、閉じて、また開いた。
ぱく、ぱく、と二回。金魚である。
俺は身を乗りだしかけて、そこで止めた。
ここで助け舟を出したら、この人は一生、自分で漕がなくなる。
「あの、失礼ですが、お嬢さんは何年生でしょうか」
「三年」
「志望の分野は」
「理系。でも数学が苦手」
「数学が苦手な理系志望、ですか」
「そう。どうしよう?」
天愛星さんが、喋りはじめた。
俺は、それを、黙って見ていた。
彼女は、まず本学の理系学部の入試科目を三つ挙げた。
そのうち、数学の配点が最も低い方式を指摘して、その方式の昨年の倍率を言った。
それから、入学後に数学の補習制度があることを説明した。
補習の受講者数と、受講者の一年次の単位取得率を言った。
言いながら、八奈見さんの顔を見ていた。
「……でも、それって結局、落ちこぼれ用の授業でしょ」
「いいえ」
天愛星さんが、はっきり否定した。
「受講者の四割は、成績上位層です。理由は、その補習が数学科の教員による少人数演習だからです」
「へえ」
「本学の場合、その演習に出た学生の三年次のGPAが――」
――喋ってる。
俺は、テーブルの下で、拳を握っていた。
五分喋った。
十分喋った。
一度も止まらなかった。
八奈見さんが、両手を上げた。
「はい、ストップ。あたし限界」
「え」
「難しい。頭がパンクした」
天愛星さんが、はっとした顔をした。
「……申し訳ありません。専門的すぎましたか」
「ううん。すっごい分かりやすかった。分かりやすかったけど、量が多い」
八奈見さんは、椅子の背にもたれた。
「あと、あたし本当に娘いないから」
俺は、立ち上がっていた。
「馬剃さん」
「はい」
「いま、十二分喋ってた」
「……え」
「一度も止まってない」
天愛星さんが、自分の手を見た。
それから、俺を見た。
「……なぜ、でしょうか」
俺は、椅子に座り直した。
「馬剃さん、一方的に喋るのが駄目なんだよ」
「一方的」
「原稿読むのも、二十分の説明も、全部そう」
俺は、テーブルの上のファイルを指した。
「でも、質問に答えるのは平気」
「……根拠は」
「いま十二分喋った」
「それは八奈見さんが」
「そう。八奈見さんが質問したから」
天愛星さんが、口を開いて、閉じた。
「……反論できません」
「めずらしいな」
天愛星さんが、想定問答のファイルを見た。
――そこだ。
昨日、俺はずっと引っかかっていた。
この人は「本編は捨てるが、想定問答は残す」と言った。
あれは、備えだと言った。
違う。
備えではなくて、あっちのほうが得意だからだ。
「あと、もう一個」
「はい」
「答えるとき、相手の顔見てるよな」
天愛星さんが、動きを止めた。
「読むときは、紙見てる。紙見てると、相手が見えない。相手が見えないと――」
俺は、少し言葉を選んだ。
「相手が、いなくなるんじゃない?」
天愛星さんは、何も言わなかった。
言わずに、しばらく、想定問答のファイルの表紙を見ていた。
その表紙の角が、少しだけ、めくれていた。
「……温水君」
八奈見さんが、口を開いた。
「なに」
「温水君、教え方うまいね」
「そう?」
「うん。腹立つくらい」
週が明けて、六月九日。
俺たちは、二十分の中身を全部作り直した。
本編は、もうない。
あるのは、想定問答の十九枚と、そこから引いた「相手のタイプ別の入り口」だけである。
三年生で志望が固まっている子。
三年生で決まっていない子。
一年二年。保護者だけ。保護者同伴。教員の付き添い。
六つ作った。
天愛星さんは、その六つを一晩で表にしてきた。
縦軸が相手のタイプ、横軸が想定される最初の質問。交点に、どの資料のどこを使うかが書いてある。
俺は、それを見て、しばらく黙った。
「……馬剃さん」
「はい」
「これ、俺の頭の中にあるやつだ」
「存じております」
「え」
「四月から、あなたの説明を書き取ってまいりましたので」
この人は、俺が十二年かけてなんとなく身につけたものを、二か月で表にした。
しかも、俺が言語化していない部分まで埋めてある。
……勝てないな、と思った。
思って、そのあと、すぐに思い直した。
勝つ必要が、そもそもない。
六月十日、十一日と、練習は続いた。
俺が高校生役をやり、大貫を一度だけ呼んで保護者役をやらせ、八奈見さんが三回ほど乱入した。
ちなみに大貫は、最後まで文句を言っていた。
「なんで俺が母親役なんですか」
「若い母親という設定です」
「若くても母親は母親でしょ」
「異議は業務外で承ります」
「これ全部業務外ですよね!?」
文句を言いながら、こいつは真面目にやった。
「あの、うちの娘、進路系の動画ばっかり見てるんですけど」
「……動画」
「はい。それで『大学行かなくてもいいかも』とか言い出して」
天愛星さんが、三秒止まった。
「……その動画の、再生数を教えていただけますか」
「え」
「反論するのであれば、同じ土俵の数字が必要です」
「うわ、本気だ」
「本気です」
「母親、そんなこと聞かれませんけど」
「聞かれない前提は、危険ですっ」
「なんで俺が怒られてるんですか」
天愛星さんは、そこで我に返った顔をした。
「……申し訳ありません。設定に、入りすぎました」
「ねえ、温水君」
「なに」
「馬剃さんと、ずいぶん息が合ってるじゃん」
「そりゃ、二か月隣に座ってるし」
「ふーん」
「なにその『ふーん』」
「別に。なにも思ってませんけど?」
「敬語になった」
「なってませんけど?」
ジト目だった。
高校のとき、俺は月に二回はこの目を見ていた。
十六年ぶりに見ても、懐かしさは一ミリもない。あるのは、これから何かが起きるという確信だけである。
八奈見さんの乱入は、質が悪かった。
しかも、毎回なにか食べながら来る。
一日目は賄いのコロッケ、二日目はおにぎり、三日目は俺が鞄に入れておいたチョコだった。
三日目のチョコについては、いまだに納得がいっていない。
「先生、うちの子、勉強しないんですけど」
「……ご心配ですね」
「あと、あたし、この大学の名前、今日初めて知ったんですけど」
「……はい」
「有名なとこのほうが、就職いいでしょ」
「ねえ、違うかな? かな?」
天愛星さんが、一瞬、詰まった。
ぐ、と息が止まる音がした。
止まって、それから、就職率の内訳と、業種別の分布と、地元企業との連携実績を、七分かけて説明した。
「はい、合格」
八奈見さんが手を叩いた。
「あたし、いま完全に納得した」
「本当ですか」
「本当。あたし、この大学に子ども入れるわ」
「いらっしゃらないと伺いましたが」
「いないよ」
天愛星さんの肩から、ふ、と力が抜けた。
抜けたあと、耳のふちがまた赤くなって、それを隠すように、鼻の付け根を指で押さえた。
天愛星さんが、はじめて、八奈見さんに向かって笑った。
二十時五十五分。
俺たちが帰り支度をしていると、八奈見さんが厨房から戻ってきた。
両手に、トレイを持っていた。
「はい、賄い」
どん、とテーブルに置かれた。
丼が、二つ。
……いや。
丼が、二つと、皿が三つと、椀が二つあった。
「え」
「食べてから帰って」
「あの、八奈見さん」
「なに」
「量が」
「量が?」
八奈見さんは、にっこり笑った。
「全部食べてね」
丼の一つは、カツ丼だった。
ご飯が、丼の縁より上に出ている。
もう一つは、天丼だった。
海老が四本刺さっている。刺さっているというか、突き立っている。
皿は、唐揚げと、コロッケと、なぜかナポリタン。
椀は、豚汁と茶碗蒸し。
覚悟しといてね、の意味を、俺はいま全身で理解した。
「……これ、賄い?」
「賄いだよ」
「学食の賄いって、こういう感じだったっけ」
「うちはこういう感じ」
「馬剃さん、これ、何キロカロリーだと思う」
「二千百です」
「即答」
「見れば分かります」
「一人ぶんで?」
「一人ぶんです」
「二人で四千二百か」
「私は千八百までにいたします」
「差の三百は」
「主任に加算されます」
「なんで俺が」
「本件の起案者は、主任ですので」
「起案じゃなくて電話しただけだよ」
「電話が起案です」
天愛星さんが、静かに言った。
「温水主任」
「はい」
「これは、請求書です」
「……はい」
「十六年分の」
「……はい」
俺は、箸を取った。
最初の一口で、俺は理解した。
うまい。
異常にうまい。
カツは揚げたてで、卵が半熟で、玉ねぎが甘い。天ぷらの衣が軽い。豚汁の里芋が煮崩れていない。
これは、閉店後に、わざわざ作ったものである。
残り物を温め直したものではない。
巡回で来ただけのエリアマネージャーが、厨房に入って、二人ぶんに対して七品を作った。
「……八奈見さん」
「なに」
「これ、いま作ったよね」
「作ったよ」
「なんで」
「なんでだと思う?」
また、それだ。
俺は箸を止めて、丼を見た。
――怒っているのか、そうじゃないのか。
分からなかった。
たぶん、両方なのだと思う。
この人は昔から、怒りと親切を同じ皿に載せてくる。
高校のときも、そうだった。俺が余計なことをしたときほど、大盛りが出た。
三口目に入ろうとしたとき、視界の端で、何かが動いた。
八奈見さんが、いつのまにか俺の隣に座っていた。
座って、俺の丼に箸を入れていた。
「あ」
カツが、一切れ消えた。
この人は、人の飯を、息を吸うように取る。
断りもない。ためらいもない。取ったあとで気づかせる。十六年前から、そこは一度も変わっていない。
「八奈見さん」
「なに」
「いま、俺の」
「一口くれるとか、そういうのはあり?」
「聞くのが遅い」
「聞いたよ?」
「食べたあとに聞いたよね」
「順番の話はしてないんだよなあ」
「そっちが順番の話をしてるんだよ」
二切れ目が消えた。
「自分のぶんは」
「ないよ。二人ぶんしか作ってないもん」
「じゃあ三人ぶん作ればよかっただろ」
「作るのと食べるのは、別の楽しみなの」
三切れ目が消えた。
「八奈見さん、天丼のほうも減ってない?」
「減ってないよ」
「海老、四本刺さってたのに、三本になってる」
「……数えてたの?」
「刺さってたからな」
「温水君さあ」
「なに」
「そういうとこだよ、温水君」
出た。
十六年ぶりの、伝家の宝刀である。
「え、いま俺、悪かった?」
「悪くはない。悪くはないけど、そういうとこだよ」
「二回言ったな」
「大事なことだから」
天愛星さんが、箸を止めていた。
止めたまま、三秒。
「……あの、八奈見さん」
「なに、馬剃さん」
「衛生管理の観点から申し上げますと、他者の食器への箸の挿入は」
「馬剃さんのぶんも取ろっか?」
「結構ですっ」
「即答じゃん」
「即答です。大事なことですので」
「うつってるじゃん」
八奈見さんは、皿のコロッケを一つ、そのまま口に入れた。
入れて、二秒で目を見開いた。
「にゅああっ!」
「熱いに決まってるだろ。いま揚げたんだから」
「揚げたては正義でしょ」
「正義でも熱いんだよ」
八奈見さんは、口を押さえたまま、俺の茶を飲んだ。
……俺のである。
最後に残ったのは、コロッケが一つだった。
「はい、あーん」
「無理」
「あーん」
「無理だって。もう入らない」
「残すと、厨房の人が悲しむよ」
「作ったの八奈見さんだよね」
「うん。あたしが悲しむ」
俺は口を開けた。
開けてから、なにをやっているんだと思った。
思ったときには、もう入っていた。
天愛星さんは、茶碗蒸しの表面を、じっと見ていた。
三つ葉が、一枚だけ載っている。
そんなに見るほどのものではない。
結論から言うと、俺は完食した。
天愛星さんは、天丼と茶碗蒸しと豚汁を食べて、残りを俺に回した。
あの人は、こういうときだけ判断が速い。
二十一時二十分。
俺は椅子の背にもたれて、天井を見ていた。
「動けない」
「動いてよ。閉めるから」
「無理」
「情けないなあ」
八奈見さんは、俺の向かいに座って、ペットボトルのお茶を飲んでいた。
天愛星さんは、少し離れた席で、手帳に何かを書いている。
たぶん、気を利かせている。この人は、そういうところだけ異様に察しがいい。
俺は、天井の照明を見ていた。
半分しかついていない蛍光灯が、静かに光っている。
厨房のほうから、食洗機の音がしていた。
――変な感じだな。
十六年前、俺たちは放課後の部室にいた。
いまは、閉店後の学食にいる。
制服がスーツとエプロンになって、部費がタイムカードになって、それ以外は、あまり変わっていない。
変わっていないのは、たぶん、この人が変わっていないからだ。
俺は変わった。
十六年前の俺は、こういう席で、こんなに黙っていなかった。もっと必死に、場の空気を読んでいた。
いまは、読まないで座っている。
……疲れているだけかもしれない。
カツ丼と天丼を続けて食べたからかもしれない。
「温水君」
「うん」
「元気そうでよかった」
俺は、天井を見たまま、返事をしなかった。
「あたしね」
八奈見さんが言った。
「四月に名簿見て、あ、温水君だ、って思って」
「うん」
「で、二階に行ったら、ほんとにいてさ」
「うん」
「焼き魚定食食べてた」
「食べてたな」
「めっちゃ普通に食べてた」
八奈見さんは、そこで少し笑った。
「それ見て、あー、生きてるわ、って思った」
俺は、天井を見ていた。
「それで、よかったの」
俺は、そう聞いた。
「え?」
「声、かけなくて」
八奈見さんは、しばらく黙っていた。
「かけたら」
「うん」
「温水君、逃げるでしょ」
俺は、何も言えなかった。
「だからさ、三回見に来た」
八奈見さんは、ペットボトルの蓋を閉めた。
「三回とも普通に飯食ってたから、じゃあいいやと思って」
「……いいやって」
「いいやだよ」
彼女は立ち上がって、トレイを重ねはじめた。
「でも今日、温水君から電話かけてきたから。だから出た」
――そういうことか。
俺は、十六年、何もしなかった。
この人は、俺が電話をかけるまで、待っていた。
三か月ではない。
十六年である。
「……八奈見さん」
「なに」
「ごめん」
八奈見さんは、トレイを持ったまま、こっちを見た。
「うん」
それだけ言って、厨房に戻っていった。
外に出たのは、二十一時三十五分だった。
六月の夜は、もう半分夏だった。
湿った風が吹いていて、街灯に虫が集まっている。
俺と天愛星さんは、正門までの道を並んで歩いた。
二人とも、腹が苦しくて、歩くのが遅かった。
「馬剃さん」
「はい」
「明日から、想定問答を軸に組み直そう」
「はい」
「二十分を、質問と回答で埋める。最初の一分でこっちが三つ聞いて、あとは相手の反応で拾う」
「……できるでしょうか」
「できるって」
「二回目です、それ」
「三回言うと本当になるらしいぞ」
「なりません」
俺は、そう言った。
言ってから、少し考えて、付け足した。
「一回、できてるから」
天愛星さんが、足を止めた。
「……いつですか」
「え」
「一回、できているのは、いつですか」
「さっき。八奈見さんに」
「それ以外です」
俺は、彼女を見た。
なぜ聞くのか。
この人は、たぶん、自分でも気づいている。
「……高二の、生徒会長選挙」
俺は言った。
「馬剃さん、あのとき、原稿捨てただろ」
「はい」
「志喜屋先輩が乱入して、段取りが全部飛んで。会長も舞台袖で手招きしてて、あの三分間、全員が事故だと思ってた」
「はい」
「そのあと、馬剃さん、舞台袖で言ったんだよ」
「……なんと」
「『じゃあ私も、やりたいようにするしかないですね』って」
天愛星さんが、足を止めた。
「……覚えて、いらっしゃるんですか」
「覚えてる」
「私は、覚えておりません」
「覚えてる。あのとき、めちゃくちゃいい顔してた」
天愛星さんは、何も言わなかった。
「あそこからが、一番よかった」
俺は、そう言った。
「たぶん、あれで決まった」
街灯の下で、天愛星さんは立っていた。
「……知りませんでした」
「そう?」
「私、あのとき、頭が真っ白でしたので」
「真っ白じゃなかったよ。ちゃんと喋ってた」
「原稿と、まったく違うことを喋りました」
「知ってる。俺、原稿の中身も見てたから」
「……最悪です」
「よかったよ、あっちのほうが」
天愛星さんが、鞄の持ち手を握り直した。
「……志喜屋先輩に、感謝しなければなりませんね」
「十六年越しだな」
「十六年越しです」
俺たちは、また歩きだした。
正門が見えてきたころ、俺は、たぶん、少し気が緩んでいた。
腹がいっぱいで、疲れていて、そして、少しだけ嬉しかったのだと思う。
だから、口が滑った。
「そういえば、あのときだよな」
「はい」
「馬剃さんが、俺に、『私だけを推してくれませんか』って言って――それで、選挙のあとに――」
「その話は」
遮られた。
速かった。
俺が言い終わる前に、被せてきた。
四月の居酒屋で、あの言葉を口にしたときは、この人は受け止めた。
受け止めて、赤くなって、ジョッキを飲み干しただけだった。
駄目なのは、言葉じゃない。
その先だ。
扉が閉まる音を、俺は確かに聞いた。
「……あ」
「申し訳ありません」
天愛星さんが、前を向いたまま言った。
「大きな声を出しました」
「いや、出してない」
「出しました」
街灯の光が、ちょうど切れる場所だった。
顔が、よく見えなかった。
「馬剃さん」
「明日は、十七時十五分ですね」
「……ああ」
「では、失礼いたします」
天愛星さんは、頭を下げた。
角度は、たぶん三十度だった。
暗くて、よく分からなかった。
そのまま、駅のほうへ歩いていった。
俺は、正門のところに立っていた。
――踏んだ。
どこを踏んだのかは、分かっている。
あの日、あの言葉のあとに、何があったか。
俺たちは二人とも、それを一度も口にしていない。
四月から二か月半、一度もだ。
俺は、それを、たったいま、腹がいっぱいだったという理由で踏んだ。
みぞおちのあたりが、ずんと重くなった。
背中のほうで、音がした。
振り返ると、学食の裏口から八奈見さんが出てくるところだった。
自転車を押している。
「あれ、まだいたの」
「……いた」
「馬剃さんは?」
「帰った」
八奈見さんは、自転車のスタンドを蹴り上げた。
「温水君」
「なに」
「いま、なんかやらかしたでしょ」
俺は、答えなかった。
「顔に出てるよ」
「……出てるか」
「出てる。昔から」
八奈見さんは、自転車にまたがった。
またがって、片足を地面につけたまま、こっちを見た。
「あのさ」
「うん」
「今度は、ちゃんと言いなよ」
――なにを。
俺は、そう聞こうとした。
聞こうとして、聞かなかった。
聞いたら、この人は答える。
答えられたら、俺は、もう知らないふりができなくなる。
「……おやすみ」
「うん。おやすみ」
八奈見さんは、自転車を漕いで、門を出ていった。
俺は、正門の前で、しばらく突っ立っていた。
六月の風が、ぬるく吹いていた。
腹が、まだ苦しかった。
――今度は、ちゃんと言いなよ。
あの人は、たぶん、全部見ている。
四月から三回、俺が焼き魚定食を食っているのを見ていた人だ。
今日の二時間、俺と天愛星さんが何をどう喋っていたかも、たぶん全部聞いていた。
そのうえで、あれを言った。
俺は、鞄の中の紙のことを考えた。
あの日、彼女の机に残っていた一枚。
『明日、十七時十五分。忘れないでください』と書いてあるやつだ。
それと、定期入れの奥にある、もっと古い紙のこと。
……今日は、無理だな。
俺は歩きだした。
明日も十七時十五分から二十分ある。
明後日も。六月十四日まで、あと三日。
三日あれば、今日のことは、なかったことにできる。
できるはずだ。
俺は十六年、それだけはやってきた。