大学職員の僕たち   作:房吉

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~7敗目~ 秘密の特訓(就業時間外・無給)

 (六月中旬/温水視点)

 

 その朝、俺は本編十四枚がシュレッダーに入るのを見た。

 

 天愛星さんは、一枚ずつ入れた。

 

 まとめて入れれば三秒で終わるのに、一枚ずつ差しこんで、刃が噛む音を最後まで聞いてから、次の一枚を持った。

 

 がががが、と刃が噛む。

 噛みおわると、彼女は一度、小さく息を吸う。

 

 十四回、同じことをした。

 

 俺は横で、それをただ見ていた。

 

 止めるべきかどうか、二回くらい迷った。

 迷って、止めなかった。この人は、たぶん、そうしないと納得できない。

 

 最後の一枚が消えたとき、彼女は蓋を閉めて、一度だけ息を吐いた。

 

「終わりました」

 

「はい」

 

「二十六時間ぶんです」

 

「……そんなに」

 

「土日の作業時間です。記録は取っておりますので」

 

 この人は、本当に何でも記録する。

 

 俺は、そのとき、たぶん少しだけ顔に出た。

 天愛星さんが、すかさず言った。

 

「同情されると、余計に痛いので、やめてください」

 

「してないって」

 

「していました。眉が、〇・三ミリほど下がっていました」

 

「測ったの?」

 

「見れば分かります」

 

「怖いんだよなあ」

 

「怖くありません。観察です」

 

「観察が一番怖いんだよ」

 

「……気をつけてください」

 

「気をつけるのは俺なんだ」

 

「はい」

 

「……気をつける」

 

 

 

 

「場所、ないんですけど」

 

「ないんですか」

 

「ないな」

 

 六月四日、十七時十六分。

 

 俺は施設予約システムの画面を睨んでいた。

 

 空き教室。会議室。演習室。

 六月の第一週から第二週にかけて、うちの大学の使える部屋は、ほぼ全部埋まっている。

 

「補講と、あと学会の準備と、それから教職課程の説明会だな」

 

「本部棟の打ち合わせブースは」

 

「あれ、扉が薄いから、外に丸聞こえ」

 

「では、図書館のグループ学習室」

 

「試験期間だから、二週間先まで満席」

 

「体育館のミーティングルーム」

 

「バスケ部が合宿の打ち合わせで押さえてる」

 

「では、屋上」

 

「屋上は五年前から施錠されてる」

 

「……第二駐車場の、車内」

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「それ、通報されるやつ」

 

「なぜですか」

 

「三十四歳の男女が、夜に車の中で二時間いるんだよ」

 

「業務ですっ」

 

「業務だって分かるのは、この世に二人だけなんだよ」

 

「……取り下げます」

 

「非常階段は」

 

「昨日、俺たちがコーヒー飲んだとこだけど」

 

 天愛星さんが、ぴたりと黙った。

 

「……あそこは、やめましょう」

 

「やめとこう」

 

 特訓は昨日、非常階段で決まった。

 

 就業時間外。無給。秘密。

 条件は最悪だが、六月十四日まで、あと十日である。

 

 その一日目に、場所がなかった。

 

「あの、温水主任」

 

「はい」

 

「カラオケボックス、というのは」

 

「え」

 

「防音ですし、時間で借りられます。個室ですので、秘密の要件も満たします」

 

 天愛星さんは、真顔だった。

 

「……馬剃さん」

 

「はい」

 

「それ、十六年前と同じ発想だよね」

 

「効果は実証済みです」

 

「英単語四十七個のやつだろ」

 

「四十七個です」

 

「あのとき俺、三十九個しか覚えられなかったけど」

 

「三十八個です」

 

「一個くらい多く言ってくれてもよくない?」

 

「事実は変わりません」

 

「その言い方、四月にも聞いたな」

 

「変わりませんので」

 

 俺は少し考えた。

 

 考えて、やめた。

 

 男性職員と女性職員が、平日の夜に二人でカラオケボックスに入って、無給で発表練習をする。

 この絵面を、鷲尾課長に説明できる自信が、俺には一ミリもなかった。

 

「……別の案、探そう」

 

「なぜですか」

 

「なぜかは言えない」

 

 

 

 

 案は、意外なところにあった。

 

 学食である。

 

 うちの学食は十九時で閉まる。

 閉店後の二階フロアは、二十時までスタッフが清掃をしていて、そのあとは無人になる。

 

 過去に一度だけ、あそこを借りたことがある。

 用度管財課にいたころ、厨房設備の入れ替えで、業者さんと現場確認をしたときだ。

 

 運営は委託である。

 委託先に電話をして、話を通せばいい。

 

「株式会社セントラルフードサービスさん、ですね」

 

「そう。俺、そこの現場責任者さんとは面識あるんだよ」

 

「就業時間外の私的利用ですが」

 

「大学の広報業務の準備。堂々と言える」

 

「先ほど、秘密だとおっしゃいました」

 

「言い方の問題」

 

 

 

 

 電話は、十七時四十分にかけた。

 

 現場責任者の方が出て、「あ、それエリアマネージャーの許可がいるんですよ」と言われた。

 

「あ、そうなんですか」

 

「四月から担当変わったんで。いま代わりますね、ちょうど巡回で来てて」

 

「あ、はい。お願いします」

 

 保留音が鳴った。

 

 俺は受話器を肩に挟んで、明日の資料をめくっていた。

 

「はい、お電話代わりました。セントラルフードサービスの」

 

 止まった。

 

 

 

 

「――八奈見です」

 

 

 

 

 俺は、受話器を落としかけた。

 

 どくん、と心臓が跳ねる。

 

 落とさなかったのは、たぶん、これまで生きてきた成果である。

 

「……あ、あの」

 

「入試広報課の温水さん、ですよね」

 

 声が、明るかった。

 

 明るくて、そして、一ミリも驚いていなかった。

 

「はい」

 

「フロア使いたいって話でしょ。十九時から二十一時で、二階の窓際。いいですよ」

 

「あ、はい。ありがとうございます」

 

「じゃ、今日から使えるようにしとくね」

 

 電話が切れた。

 

 俺は、受話器を置いた。

 

 置いてから、しばらく動けなかった。

 

「温水主任」

 

「はい」

 

「顔が、真っ白です」

 

「そう?」

 

「なにかありましたか」

 

「……八奈見さんだった」

 

 天愛星さんが、ボールペンを落とした。

 

 かたん、と机の上で二回跳ねて、それから床に転がった。

 

「八奈見さん」

 

「八奈見さんです」

 

「八奈見杏菜さん、ですか」

 

「たぶん、この世に一人しかいない」

 

「……エリアマネージャー」

 

「エリアマネージャー」

 

「あの方が」

 

「あの方が」

 

 天愛星さんは、ボールペンを拾うのを忘れていた。

 

 拾ったのは、俺である。

 

 

 

 

 十九時。

 

 学食の二階は、照明が半分だけついていた。

 

 テーブルが二十卓。椅子が上げられている一角と、そのままの一角がある。

 厨房のほうから、水の音がしていた。

 

 窓際のテーブルが四つだけ、椅子が下ろしてあった。

 拭いてある。誰かが拭いた跡が、まだ乾いていない。

 

「……準備、されてますね」

 

「されてるな」

 

 俺は、そのテーブルを見ていた。

 

「はい、お待たせ」

 

 厨房のほうから、声がした。

 

 十六年ぶりだった。

 

 髪が、短くなっていた。

 肩より上で切りそろえてある。高校のときは背中まであった。

 

 背は変わっていない。

 制服がポロシャツとエプロンに変わっていて、胸に社名の刺繍が入っている。

 

 顔は――

 

 顔は、まったく変わっていなかった。

 

「温水君、久しぶり」

 

「……久しぶり」

 

「馬剃さんも。うわ、ほんとに馬剃さんだ」

 

「ご無沙汰しております」

 

 天愛星さんが、深く頭を下げた。

 

「かたっ!」

 

 八奈見さんが、両手を上げた。

 

「なにその挨拶。堅すぎ」

 

「……失礼しました」

 

「謝るとこじゃないって」

 

「では、何と申し上げれば」

 

「『久しぶりー』でいいんだよ」

 

「……ひ、久しぶりー」

 

「棒読みじゃん」

 

「十六年ぶりの再会に、初期設定がありませんっ」

 

「なにその言い訳」

 

「言い訳ではありません。準備の不足ですっ」

 

 天愛星さんの耳が、かあっ、と赤くなった。

 

「いいのいいの。座って座って」

 

 俺は、突っ立ったままだった。

 

「あの、八奈見さん」

 

「うん」

 

「いつから」

 

「四月」

 

 即答だった。

 

「四月から、この大学の担当エリアになったの。月に一回、巡回で来てる」

 

「……一回」

 

「五月に一回、六月に一回。あと四月に引き継ぎで一回。だから三回来てる」

 

 八奈見さんは、テーブルの上を布巾でもう一度拭いた。

 

「二階の日替わり、いつも十二時二十分ごろに食べてるでしょ」

 

「……」

 

「焼き魚の日は必ず来るよね」

 

 俺は、何も言えなかった。

 

 ――見られていた。

 

 三回。四月から、三回。

 

 俺は、その三回とも、学食で飯を食っていた。

 食っていて、何も気づかなかった。

 

「なんで」

 

 俺は、やっと声を出した。

 

「なんで、声かけなかったの」

 

 八奈見さんは、布巾をたたんだ。

 

 たたんで、それをエプロンのポケットに入れた。

 

「なんでだと思う?」

 

 ――これだ。

 

 この人は、こういう返し方をする。

 十六年前から、まったく変わっていない。

 

「……分かんない」

 

「うん。分かんないよね」

 

 八奈見さんは、にっこり笑った。

 

「じゃ、練習してていいよ。二十一時に上がるから、それまでに終わらせて」

 

 そう言って二歩歩いて、思い出したように振り返った。

 

「あ、そうだ。そのうち賄い出すから、覚悟しといてね」

 

「覚悟?」

 

「大盛りだから、その日は昼を軽めにしておくこと」

 

 命令形だった。

 

 そう言って、今度こそ厨房に戻っていった。

 

 天愛星さんが、ごくり、と喉を鳴らした。

 

「……温水主任」

 

「はい」

 

「あの方、怒ってらっしゃいますね」

 

「怒ってるな」

 

「かなり」

 

「かなりだな」

 

 天愛星さんが、鞄から想定問答のファイルを出した。

 

「では、始めましょう」

 

「え、始めるの?」

 

「十日しかありません」

 

 この人の、こういうところは、本当に助かる。

 

 ……あと、いま気づいたんだが。

 

 俺は、さっきから敬語を使っていない。

 

 いつ崩れたのかは、自分でも分からない。

 たぶん、十七時十五分を過ぎたあたりから、ずるずるといった。

 

 四月に一度、居酒屋で崩れた。

 あのときは、次の日の朝には戻していた。今回は、戻す気配がない。

 

 天愛星さんは、指摘してこない。

 

 指摘してこないということは、気づいていて、そのままにしているということだ。

 この人が気づいていないわけがない。人の沈黙の秒数を数える人である。

 

 ……まあ、いいか。

 

 就業時間外だし。

 

 

 

 

 まず、俺が高校生役をやることになった。

 

「じゃあ俺、三年生の男子ね」

 

「承知しました。何年生ですか」

 

「三年生」

 

「学科は」

 

「普通科」

 

「志望分野は」

 

「まだ決まってない」

 

「模擬試験の判定は」

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「そこ、いる?」

 

 天愛星さんが、手帳から顔を上げた。

 

「必要です。設定が曖昧では、練習になりません」

 

「いや、当日そんなの分からないから」

 

「分からないから、想定するんです」

 

「想定しなくていいって。座ってから聞くんだから」

 

「では、聞く前提で設定を詰めます」

 

「詰めなくていいって!」

 

「二十分の演習に、前提は不可欠です」

 

「不可欠じゃない」

 

「不可欠ですっ。前提のない演習は、演習ではなく雑談ですっ」

 

「雑談でいいんだよ」

 

「よくありませんっ」

 

 俺は、ペットボトルを机に置いた。

 

 この人は、本当に、何ひとつ変わっていない。

 

 結局、十分かけて「高校三年生・男子・普通科・理系寄り・模試はC判定・部活は引退済み・第一志望は国公立」という、無駄に解像度の高い高校生が誕生した。

 

 俺である。

 

「では、始めます」

 

「はい」

 

「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。私は――」

 

 止まった。

 

 天愛星さんは、テーブルの上の何もない場所を見ていた。

 

「……申し訳ありません」

 

「四十秒」

 

「言わないでください」

 

「言わないと分かんないだろ」

 

「分かっています。自分でも数えていました」

 

「数えてたの?」

 

「四十二秒です」

 

「俺は四十秒って言ったけど」

 

「主任の計測は概算です」

 

「そこ張り合う?」

 

「事実ですので」

 

 ……この人、止まりながら数えてたのか。

 

 二回目は、五十五秒だった。

 

 三回目は、三十秒。

 

 止まり方が、毎回同じだった。

 

 最初の挨拶までは出る。

 そのあと、大学の名前を言って、自分の所属を言って、そこで一度、息を吸う。

 

 その息のあとが、出ない。

 

 俺は三回目のときに気づいた。

 この人が止まるのは「言葉が出てこない」からではない。

 

 息を吸ったあとに、次に言うことを確認しようとして、そこで手元を見る。

 手元に、紙がない。

 

 紙がないと気づいた瞬間に、止まる。

 

 四回目で、彼女は椅子に座りこんだ。

 

「……原稿が、ないんです」

 

「うん」

 

「何を言えばいいのか、分からないんです」

 

 天愛星さんの声が、少し高くなっていた。

 

「頭の中には、あります。あるんです。四十枚ぶん、全部あります。なのに、口に出そうとすると、どれから出せばいいのか」

 

「うん」

 

「順番が、決められません」

 

 俺は、テーブルの向かいに座った。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「順番、決めなくていいって」

 

「決めないと、話になりません」

 

「なるって」

 

「なりません」

 

「なるんだよ」

 

「根拠を示してください」

 

 ……交渉が始まった。

 

 俺は、ペットボトルのお茶を一口飲んで、指を一本立てた。

 

「相手が決めるから」

 

 天愛星さんが、顔を上げた。

 

「相手が」

 

「そう。ブースに座った子が、いま何を知りたいかで、順番が決まる」

 

「……それは、相手に聞かないと分かりません」

 

「聞くんだよ」

 

「聞くんですか」

 

「聞くの」

 

 俺は、指を三本にした。

 

「最初の一分、こっちは喋らない。三つ聞く。『今日どこ回りました?』『何年生?』『理系文系決まってる?』」

 

「……それは、二十分の説明ではありません」

 

「二十分の会話」

 

「私は説明の練習に来ました」

 

「会話の練習に変更で」

 

「勝手に変更しないでください」

 

 天愛星さんが、腕を組んだ。

 

 この顔だ。

 

 高一の冬、階段下で、この人はこの顔で俺を壁際に追いつめた。

 十六年経っても、腕の組み方が同じである。

 

「……できるでしょうか」

 

「できるって」

 

「なぜ、そう思われるんですか」

 

「そっちのほうが、馬剃さんに向いてるから」

 

 俺は、そう言った。

 

 言ったが、根拠はまだなかった。

 

 根拠が出てきたのは、三日後である。

 

 

 

 

 二日目は、少しだけ進んだ。

 

 最初の一分――こちらから三つ質問をするところまでは、彼女はできるようになった。

 

 というより、そこだけは異様にうまかった。

 

「本日はどちらの高校からいらっしゃいましたか」

「他にどちらの大学のブースを回られましたか」

「いま気になっていることを、一つだけ挙げるとしたら何でしょうか」

 

 三つ目が、うまい。

 

 俺なら「なんか気になることある?」と聞く。

 この人は「一つだけ挙げるとしたら」と聞く。

 

 こう聞かれると、相手は必ず一つ答える。

 「特にないです」で終われなくなる。

 

「馬剃さん、いまの三つ目、どこで覚えたの?」

 

「ヒアリングの基本です」

 

「基本」

 

「答えの個数を指定すると、回答率が上がります。文科省で、自治体への聞き取りをするときに」

 

「……それ、俺、明日から使う」

 

「どうぞ」

 

 この人は、俺が持っていないものを、たくさん持っている。

 持っているのに、そのことを一つも自慢しない。

 

 問題は、そのあとだった。

 

 自分が喋る番になると、また止まる。

 

 二日目の終わりに、天愛星さんがぽつりと言った。

 

「温水主任」

 

「はい」

 

「教え方が、十六年前と同じですね」

 

 俺は、ペットボトルの蓋を閉める手を止めた。

 

「そう?」

 

「はい。全体を先に言って、次に例外を出して、そのあと必ず『なんでこうなるかっていうと』と続けます」

 

「……言ってた?」

 

「本日、四回です」

 

「数えないでくれ」

 

「記録は取ります」

 

「その記録、いつか見せてくれる?」

 

「見せません」

 

「なんで」

 

「……分量が、多いので」

 

「多いんだ」

 

「多いです」

 

 

 

 

 六月六日、金曜日。

 

 三日目も、うまくいかなかった。

 

 二十分の頭の一分――相手に質問をするところまでは、彼女はできた。

 できたが、そのあと自分が喋る番になると、また止まる。

 

「すみません」

 

「謝らなくていいって」

 

「……はい」

 

「あと、そこで自分の手のひら見るの、やめよう」

 

「見ていません」

 

「見てた」

 

「…………」

 

「馬剃さん」

 

「……見ていました」

 

「素直だな」

 

「観測されたものは、認めます」

 

 二十時四十分。

 

 厨房の照明が落ちて、八奈見さんが出てきた。

 

「まだやってんの」

 

「まだやってる」

 

「進んだ?」

 

「進んでない」

 

 俺は正直に答えた。

 

 八奈見さんは、腕を組んで、しばらく俺たちを見ていた。

 

 それから、テーブルに近づいてきて、空いている椅子を引いた。

 

 座った。

 

 座って、俺のペットボトルを取って、一口飲んだ。

 

「あ」

 

「なに」

 

「それ、俺の」

 

「知ってる」

 

 知っててやる人である。昔から。

 

「じゃあ、あたし聞くよ」

 

「え」

 

「馬剃さん。あたし、保護者だと思って。娘が受験なの」

 

「……娘さん、いらっしゃるんですか」

 

「いないよ。いま作った」

 

 俺は思わず吹き出した。

 

 天愛星さんが、困った顔でこちらを見た。

 

「馬剃さん、やってみて」

 

「……はい」

 

 八奈見さんが、身を乗りだした。

 

「で、そちらの大学って、うちの娘に何がいいんですか」

 

「――は」

 

 天愛星さんの口が、開いた。

 

 開いて、閉じて、また開いた。

 ぱく、ぱく、と二回。金魚である。

 

 俺は身を乗りだしかけて、そこで止めた。

 ここで助け舟を出したら、この人は一生、自分で漕がなくなる。

 

「あの、失礼ですが、お嬢さんは何年生でしょうか」

 

「三年」

 

「志望の分野は」

 

「理系。でも数学が苦手」

 

「数学が苦手な理系志望、ですか」

 

「そう。どうしよう?」

 

 天愛星さんが、喋りはじめた。

 

 

 

 

 俺は、それを、黙って見ていた。

 

 彼女は、まず本学の理系学部の入試科目を三つ挙げた。

 そのうち、数学の配点が最も低い方式を指摘して、その方式の昨年の倍率を言った。

 

 それから、入学後に数学の補習制度があることを説明した。

 補習の受講者数と、受講者の一年次の単位取得率を言った。

 

 言いながら、八奈見さんの顔を見ていた。

 

「……でも、それって結局、落ちこぼれ用の授業でしょ」

 

「いいえ」

 

 天愛星さんが、はっきり否定した。

 

「受講者の四割は、成績上位層です。理由は、その補習が数学科の教員による少人数演習だからです」

 

「へえ」

 

「本学の場合、その演習に出た学生の三年次のGPAが――」

 

 ――喋ってる。

 

 俺は、テーブルの下で、拳を握っていた。

 

 五分喋った。

 十分喋った。

 

 一度も止まらなかった。

 

 八奈見さんが、両手を上げた。

 

「はい、ストップ。あたし限界」

 

「え」

 

「難しい。頭がパンクした」

 

 天愛星さんが、はっとした顔をした。

 

「……申し訳ありません。専門的すぎましたか」

 

「ううん。すっごい分かりやすかった。分かりやすかったけど、量が多い」

 

 八奈見さんは、椅子の背にもたれた。

 

「あと、あたし本当に娘いないから」

 

 俺は、立ち上がっていた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「いま、十二分喋ってた」

 

「……え」

 

「一度も止まってない」

 

 天愛星さんが、自分の手を見た。

 

 それから、俺を見た。

 

「……なぜ、でしょうか」

 

 俺は、椅子に座り直した。

 

「馬剃さん、一方的に喋るのが駄目なんだよ」

 

「一方的」

 

「原稿読むのも、二十分の説明も、全部そう」

 

 俺は、テーブルの上のファイルを指した。

 

「でも、質問に答えるのは平気」

 

「……根拠は」

 

「いま十二分喋った」

 

「それは八奈見さんが」

 

「そう。八奈見さんが質問したから」

 

 天愛星さんが、口を開いて、閉じた。

 

「……反論できません」

 

「めずらしいな」

 

 天愛星さんが、想定問答のファイルを見た。

 

 ――そこだ。

 

 昨日、俺はずっと引っかかっていた。

 

 この人は「本編は捨てるが、想定問答は残す」と言った。

 あれは、備えだと言った。

 

 違う。

 

 備えではなくて、あっちのほうが得意だからだ。

 

「あと、もう一個」

 

「はい」

 

「答えるとき、相手の顔見てるよな」

 

 天愛星さんが、動きを止めた。

 

「読むときは、紙見てる。紙見てると、相手が見えない。相手が見えないと――」

 

 俺は、少し言葉を選んだ。

 

「相手が、いなくなるんじゃない?」

 

 天愛星さんは、何も言わなかった。

 

 言わずに、しばらく、想定問答のファイルの表紙を見ていた。

 

 その表紙の角が、少しだけ、めくれていた。

 

「……温水君」

 

 八奈見さんが、口を開いた。

 

「なに」

 

「温水君、教え方うまいね」

 

「そう?」

 

「うん。腹立つくらい」

 

 

 

 

 週が明けて、六月九日。

 

 俺たちは、二十分の中身を全部作り直した。

 

 本編は、もうない。

 あるのは、想定問答の十九枚と、そこから引いた「相手のタイプ別の入り口」だけである。

 

 三年生で志望が固まっている子。

 三年生で決まっていない子。

 一年二年。保護者だけ。保護者同伴。教員の付き添い。

 

 六つ作った。

 

 天愛星さんは、その六つを一晩で表にしてきた。

 縦軸が相手のタイプ、横軸が想定される最初の質問。交点に、どの資料のどこを使うかが書いてある。

 

 俺は、それを見て、しばらく黙った。

 

「……馬剃さん」

 

「はい」

 

「これ、俺の頭の中にあるやつだ」

 

「存じております」

 

「え」

 

「四月から、あなたの説明を書き取ってまいりましたので」

 

 この人は、俺が十二年かけてなんとなく身につけたものを、二か月で表にした。

 

 しかも、俺が言語化していない部分まで埋めてある。

 

 ……勝てないな、と思った。

 思って、そのあと、すぐに思い直した。

 

 勝つ必要が、そもそもない。

 

 

 

 

 六月十日、十一日と、練習は続いた。

 

 俺が高校生役をやり、大貫を一度だけ呼んで保護者役をやらせ、八奈見さんが三回ほど乱入した。

 

 ちなみに大貫は、最後まで文句を言っていた。

 

「なんで俺が母親役なんですか」

 

「若い母親という設定です」

 

「若くても母親は母親でしょ」

 

「異議は業務外で承ります」

 

「これ全部業務外ですよね!?」

 

 文句を言いながら、こいつは真面目にやった。

 

「あの、うちの娘、進路系の動画ばっかり見てるんですけど」

 

「……動画」

 

「はい。それで『大学行かなくてもいいかも』とか言い出して」

 

 天愛星さんが、三秒止まった。

 

「……その動画の、再生数を教えていただけますか」

 

「え」

 

「反論するのであれば、同じ土俵の数字が必要です」

 

「うわ、本気だ」

 

「本気です」

 

「母親、そんなこと聞かれませんけど」

 

「聞かれない前提は、危険ですっ」

 

「なんで俺が怒られてるんですか」

 

 天愛星さんは、そこで我に返った顔をした。

 

「……申し訳ありません。設定に、入りすぎました」

 

 

 

 

「ねえ、温水君」

 

「なに」

 

「馬剃さんと、ずいぶん息が合ってるじゃん」

 

「そりゃ、二か月隣に座ってるし」

 

「ふーん」

 

「なにその『ふーん』」

 

「別に。なにも思ってませんけど?」

 

「敬語になった」

 

「なってませんけど?」

 

 ジト目だった。

 

 高校のとき、俺は月に二回はこの目を見ていた。

 十六年ぶりに見ても、懐かしさは一ミリもない。あるのは、これから何かが起きるという確信だけである。

 

 

 

 

 八奈見さんの乱入は、質が悪かった。

 

 しかも、毎回なにか食べながら来る。

 一日目は賄いのコロッケ、二日目はおにぎり、三日目は俺が鞄に入れておいたチョコだった。

 

 三日目のチョコについては、いまだに納得がいっていない。

 

「先生、うちの子、勉強しないんですけど」

 

「……ご心配ですね」

 

「あと、あたし、この大学の名前、今日初めて知ったんですけど」

 

「……はい」

 

「有名なとこのほうが、就職いいでしょ」

 

「ねえ、違うかな? かな?」

 

 天愛星さんが、一瞬、詰まった。

 

 ぐ、と息が止まる音がした。

 

 止まって、それから、就職率の内訳と、業種別の分布と、地元企業との連携実績を、七分かけて説明した。

 

「はい、合格」

 

 八奈見さんが手を叩いた。

 

「あたし、いま完全に納得した」

 

「本当ですか」

 

「本当。あたし、この大学に子ども入れるわ」

 

「いらっしゃらないと伺いましたが」

 

「いないよ」

 

 天愛星さんの肩から、ふ、と力が抜けた。

 

 抜けたあと、耳のふちがまた赤くなって、それを隠すように、鼻の付け根を指で押さえた。

 

 天愛星さんが、はじめて、八奈見さんに向かって笑った。

 

 

 

 

 二十時五十五分。

 

 俺たちが帰り支度をしていると、八奈見さんが厨房から戻ってきた。

 

 両手に、トレイを持っていた。

 

「はい、賄い」

 

 どん、とテーブルに置かれた。

 

 丼が、二つ。

 

 ……いや。

 

 丼が、二つと、皿が三つと、椀が二つあった。

 

「え」

 

「食べてから帰って」

 

「あの、八奈見さん」

 

「なに」

 

「量が」

 

「量が?」

 

 八奈見さんは、にっこり笑った。

 

「全部食べてね」

 

 丼の一つは、カツ丼だった。

 

 ご飯が、丼の縁より上に出ている。

 

 もう一つは、天丼だった。

 海老が四本刺さっている。刺さっているというか、突き立っている。

 

 皿は、唐揚げと、コロッケと、なぜかナポリタン。

 椀は、豚汁と茶碗蒸し。

 

 覚悟しといてね、の意味を、俺はいま全身で理解した。

 

「……これ、賄い?」

 

「賄いだよ」

 

「学食の賄いって、こういう感じだったっけ」

 

「うちはこういう感じ」

 

「馬剃さん、これ、何キロカロリーだと思う」

 

「二千百です」

 

「即答」

 

「見れば分かります」

 

「一人ぶんで?」

 

「一人ぶんです」

 

「二人で四千二百か」

 

「私は千八百までにいたします」

 

「差の三百は」

 

「主任に加算されます」

 

「なんで俺が」

 

「本件の起案者は、主任ですので」

 

「起案じゃなくて電話しただけだよ」

 

「電話が起案です」

 

 天愛星さんが、静かに言った。

 

「温水主任」

 

「はい」

 

「これは、請求書です」

 

「……はい」

 

「十六年分の」

 

「……はい」

 

 俺は、箸を取った。

 

 最初の一口で、俺は理解した。

 

 うまい。

 

 異常にうまい。

 

 カツは揚げたてで、卵が半熟で、玉ねぎが甘い。天ぷらの衣が軽い。豚汁の里芋が煮崩れていない。

 

 これは、閉店後に、わざわざ作ったものである。

 

 残り物を温め直したものではない。

 巡回で来ただけのエリアマネージャーが、厨房に入って、二人ぶんに対して七品を作った。

 

「……八奈見さん」

 

「なに」

 

「これ、いま作ったよね」

 

「作ったよ」

 

「なんで」

 

「なんでだと思う?」

 

 また、それだ。

 

 俺は箸を止めて、丼を見た。

 

 ――怒っているのか、そうじゃないのか。

 

 分からなかった。

 

 たぶん、両方なのだと思う。

 

 この人は昔から、怒りと親切を同じ皿に載せてくる。

 高校のときも、そうだった。俺が余計なことをしたときほど、大盛りが出た。

 

 

 

 

 三口目に入ろうとしたとき、視界の端で、何かが動いた。

 

 八奈見さんが、いつのまにか俺の隣に座っていた。

 座って、俺の丼に箸を入れていた。

 

「あ」

 

 カツが、一切れ消えた。

 

 この人は、人の飯を、息を吸うように取る。

 断りもない。ためらいもない。取ったあとで気づかせる。十六年前から、そこは一度も変わっていない。

 

「八奈見さん」

 

「なに」

 

「いま、俺の」

 

「一口くれるとか、そういうのはあり?」

 

「聞くのが遅い」

 

「聞いたよ?」

 

「食べたあとに聞いたよね」

 

「順番の話はしてないんだよなあ」

 

「そっちが順番の話をしてるんだよ」

 

 二切れ目が消えた。

 

「自分のぶんは」

 

「ないよ。二人ぶんしか作ってないもん」

 

「じゃあ三人ぶん作ればよかっただろ」

 

「作るのと食べるのは、別の楽しみなの」

 

 三切れ目が消えた。

 

「八奈見さん、天丼のほうも減ってない?」

 

「減ってないよ」

 

「海老、四本刺さってたのに、三本になってる」

 

「……数えてたの?」

 

「刺さってたからな」

 

「温水君さあ」

 

「なに」

 

「そういうとこだよ、温水君」

 

 出た。

 

 十六年ぶりの、伝家の宝刀である。

 

「え、いま俺、悪かった?」

 

「悪くはない。悪くはないけど、そういうとこだよ」

 

「二回言ったな」

 

「大事なことだから」

 

 天愛星さんが、箸を止めていた。

 

 止めたまま、三秒。

 

「……あの、八奈見さん」

 

「なに、馬剃さん」

 

「衛生管理の観点から申し上げますと、他者の食器への箸の挿入は」

 

「馬剃さんのぶんも取ろっか?」

 

「結構ですっ」

 

「即答じゃん」

 

「即答です。大事なことですので」

 

「うつってるじゃん」

 

 八奈見さんは、皿のコロッケを一つ、そのまま口に入れた。

 

 入れて、二秒で目を見開いた。

 

「にゅああっ!」

 

「熱いに決まってるだろ。いま揚げたんだから」

 

「揚げたては正義でしょ」

 

「正義でも熱いんだよ」

 

 八奈見さんは、口を押さえたまま、俺の茶を飲んだ。

 

 ……俺のである。

 

 

 

 

 最後に残ったのは、コロッケが一つだった。

 

「はい、あーん」

 

「無理」

 

「あーん」

 

「無理だって。もう入らない」

 

「残すと、厨房の人が悲しむよ」

 

「作ったの八奈見さんだよね」

 

「うん。あたしが悲しむ」

 

 俺は口を開けた。

 

 開けてから、なにをやっているんだと思った。

 思ったときには、もう入っていた。

 

 天愛星さんは、茶碗蒸しの表面を、じっと見ていた。

 

 三つ葉が、一枚だけ載っている。

 そんなに見るほどのものではない。

 

 

 

 

 結論から言うと、俺は完食した。

 

 天愛星さんは、天丼と茶碗蒸しと豚汁を食べて、残りを俺に回した。

 あの人は、こういうときだけ判断が速い。

 

 二十一時二十分。

 俺は椅子の背にもたれて、天井を見ていた。

 

「動けない」

 

「動いてよ。閉めるから」

 

「無理」

 

「情けないなあ」

 

 八奈見さんは、俺の向かいに座って、ペットボトルのお茶を飲んでいた。

 

 天愛星さんは、少し離れた席で、手帳に何かを書いている。

 たぶん、気を利かせている。この人は、そういうところだけ異様に察しがいい。

 

 俺は、天井の照明を見ていた。

 

 半分しかついていない蛍光灯が、静かに光っている。

 厨房のほうから、食洗機の音がしていた。

 

 ――変な感じだな。

 

 十六年前、俺たちは放課後の部室にいた。

 

 いまは、閉店後の学食にいる。

 制服がスーツとエプロンになって、部費がタイムカードになって、それ以外は、あまり変わっていない。

 

 変わっていないのは、たぶん、この人が変わっていないからだ。

 

 俺は変わった。

 十六年前の俺は、こういう席で、こんなに黙っていなかった。もっと必死に、場の空気を読んでいた。

 

 いまは、読まないで座っている。

 

 ……疲れているだけかもしれない。

 カツ丼と天丼を続けて食べたからかもしれない。

 

「温水君」

 

「うん」

 

「元気そうでよかった」

 

 

 

 

 俺は、天井を見たまま、返事をしなかった。

 

「あたしね」

 

 八奈見さんが言った。

 

「四月に名簿見て、あ、温水君だ、って思って」

 

「うん」

 

「で、二階に行ったら、ほんとにいてさ」

 

「うん」

 

「焼き魚定食食べてた」

 

「食べてたな」

 

「めっちゃ普通に食べてた」

 

 八奈見さんは、そこで少し笑った。

 

「それ見て、あー、生きてるわ、って思った」

 

 俺は、天井を見ていた。

 

「それで、よかったの」

 

 俺は、そう聞いた。

 

「え?」

 

「声、かけなくて」

 

 八奈見さんは、しばらく黙っていた。

 

「かけたら」

 

「うん」

 

「温水君、逃げるでしょ」

 

 

 

 

 俺は、何も言えなかった。

 

「だからさ、三回見に来た」

 

 八奈見さんは、ペットボトルの蓋を閉めた。

 

「三回とも普通に飯食ってたから、じゃあいいやと思って」

 

「……いいやって」

 

「いいやだよ」

 

 彼女は立ち上がって、トレイを重ねはじめた。

 

「でも今日、温水君から電話かけてきたから。だから出た」

 

 ――そういうことか。

 

 俺は、十六年、何もしなかった。

 

 この人は、俺が電話をかけるまで、待っていた。

 

 三か月ではない。

 十六年である。

 

「……八奈見さん」

 

「なに」

 

「ごめん」

 

 八奈見さんは、トレイを持ったまま、こっちを見た。

 

「うん」

 

 それだけ言って、厨房に戻っていった。

 

 

 

 

 外に出たのは、二十一時三十五分だった。

 

 六月の夜は、もう半分夏だった。

 湿った風が吹いていて、街灯に虫が集まっている。

 

 俺と天愛星さんは、正門までの道を並んで歩いた。

 

 二人とも、腹が苦しくて、歩くのが遅かった。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「明日から、想定問答を軸に組み直そう」

 

「はい」

 

「二十分を、質問と回答で埋める。最初の一分でこっちが三つ聞いて、あとは相手の反応で拾う」

 

「……できるでしょうか」

 

「できるって」

 

「二回目です、それ」

 

「三回言うと本当になるらしいぞ」

 

「なりません」

 

 俺は、そう言った。

 

 言ってから、少し考えて、付け足した。

 

「一回、できてるから」

 

 天愛星さんが、足を止めた。

 

「……いつですか」

 

「え」

 

「一回、できているのは、いつですか」

 

「さっき。八奈見さんに」

 

「それ以外です」

 

 俺は、彼女を見た。

 

 なぜ聞くのか。

 この人は、たぶん、自分でも気づいている。

 

「……高二の、生徒会長選挙」

 

 俺は言った。

 

「馬剃さん、あのとき、原稿捨てただろ」

 

「はい」

 

「志喜屋先輩が乱入して、段取りが全部飛んで。会長も舞台袖で手招きしてて、あの三分間、全員が事故だと思ってた」

 

「はい」

 

「そのあと、馬剃さん、舞台袖で言ったんだよ」

 

「……なんと」

 

「『じゃあ私も、やりたいようにするしかないですね』って」

 

 天愛星さんが、足を止めた。

 

「……覚えて、いらっしゃるんですか」

 

「覚えてる」

 

「私は、覚えておりません」

 

「覚えてる。あのとき、めちゃくちゃいい顔してた」

 

 天愛星さんは、何も言わなかった。

 

「あそこからが、一番よかった」

 

 俺は、そう言った。

 

「たぶん、あれで決まった」

 

 街灯の下で、天愛星さんは立っていた。

 

「……知りませんでした」

 

「そう?」

 

「私、あのとき、頭が真っ白でしたので」

 

「真っ白じゃなかったよ。ちゃんと喋ってた」

 

「原稿と、まったく違うことを喋りました」

 

「知ってる。俺、原稿の中身も見てたから」

 

「……最悪です」

 

「よかったよ、あっちのほうが」

 

 天愛星さんが、鞄の持ち手を握り直した。

 

「……志喜屋先輩に、感謝しなければなりませんね」

 

「十六年越しだな」

 

「十六年越しです」

 

 俺たちは、また歩きだした。

 

 正門が見えてきたころ、俺は、たぶん、少し気が緩んでいた。

 

 腹がいっぱいで、疲れていて、そして、少しだけ嬉しかったのだと思う。

 

 だから、口が滑った。

 

「そういえば、あのときだよな」

 

「はい」

 

「馬剃さんが、俺に、『私だけを推してくれませんか』って言って――それで、選挙のあとに――」

 

 

 

 

「その話は」

 

 

 

 

 遮られた。

 

 速かった。

 俺が言い終わる前に、被せてきた。

 

 四月の居酒屋で、あの言葉を口にしたときは、この人は受け止めた。

 受け止めて、赤くなって、ジョッキを飲み干しただけだった。

 

 駄目なのは、言葉じゃない。

 その先だ。

 

 扉が閉まる音を、俺は確かに聞いた。

 

「……あ」

 

「申し訳ありません」

 

 天愛星さんが、前を向いたまま言った。

 

「大きな声を出しました」

 

「いや、出してない」

 

「出しました」

 

 街灯の光が、ちょうど切れる場所だった。

 

 顔が、よく見えなかった。

 

「馬剃さん」

 

「明日は、十七時十五分ですね」

 

「……ああ」

 

「では、失礼いたします」

 

 天愛星さんは、頭を下げた。

 

 角度は、たぶん三十度だった。

 暗くて、よく分からなかった。

 

 そのまま、駅のほうへ歩いていった。

 

 俺は、正門のところに立っていた。

 

 ――踏んだ。

 

 どこを踏んだのかは、分かっている。

 

 あの日、あの言葉のあとに、何があったか。

 俺たちは二人とも、それを一度も口にしていない。

 

 四月から二か月半、一度もだ。

 

 俺は、それを、たったいま、腹がいっぱいだったという理由で踏んだ。

 

 みぞおちのあたりが、ずんと重くなった。

 

 背中のほうで、音がした。

 

 振り返ると、学食の裏口から八奈見さんが出てくるところだった。

 自転車を押している。

 

「あれ、まだいたの」

 

「……いた」

 

「馬剃さんは?」

 

「帰った」

 

 八奈見さんは、自転車のスタンドを蹴り上げた。

 

「温水君」

 

「なに」

 

「いま、なんかやらかしたでしょ」

 

 俺は、答えなかった。

 

「顔に出てるよ」

 

「……出てるか」

 

「出てる。昔から」

 

 八奈見さんは、自転車にまたがった。

 

 またがって、片足を地面につけたまま、こっちを見た。

 

「あのさ」

 

「うん」

 

「今度は、ちゃんと言いなよ」

 

 

 

 

 ――なにを。

 

 俺は、そう聞こうとした。

 

 聞こうとして、聞かなかった。

 

 聞いたら、この人は答える。

 答えられたら、俺は、もう知らないふりができなくなる。

 

「……おやすみ」

 

「うん。おやすみ」

 

 

 

 

 八奈見さんは、自転車を漕いで、門を出ていった。

 

 俺は、正門の前で、しばらく突っ立っていた。

 

 六月の風が、ぬるく吹いていた。

 

 腹が、まだ苦しかった。

 

 ――今度は、ちゃんと言いなよ。

 

 あの人は、たぶん、全部見ている。

 

 四月から三回、俺が焼き魚定食を食っているのを見ていた人だ。

 今日の二時間、俺と天愛星さんが何をどう喋っていたかも、たぶん全部聞いていた。

 

 そのうえで、あれを言った。

 

 俺は、鞄の中の紙のことを考えた。

 

 あの日、彼女の机に残っていた一枚。

 『明日、十七時十五分。忘れないでください』と書いてあるやつだ。

 

 それと、定期入れの奥にある、もっと古い紙のこと。

 

 ……今日は、無理だな。

 

 俺は歩きだした。

 

 明日も十七時十五分から二十分ある。

 明後日も。六月十四日まで、あと三日。

 

 三日あれば、今日のことは、なかったことにできる。

 

 できるはずだ。

 

 俺は十六年、それだけはやってきた。

 

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