(六月下旬/温水視点)
「え、俺?」
「はい」
「俺が、高校生?」
「はい」
六月十三日、金曜日、十四時。
第二会議室。
十日前と、同じ部屋である。
同じ配置で、同じ面子だった。
長机の向こうに、柏木部長、鷲尾課長、桑原主査。俺と大貫は後ろの壁際。
違うのは、二つ。
一つ、天井の蛍光灯が一本、切れていた。
この十日で切れたらしい。あとで用度に連絡しよう。
もう一つ。
天愛星さんは、教壇にあたる位置に立っていた。
手には、何も持っていない。
原稿もない。クリアファイルもない。ペンすら持っていない。
その状態で、彼女は柏木部長に向かって言った。
「本日は、部長に高校三年生を演じていただきます」
「ちょ、待って。俺、五十四だよ」
「存じております」
「馬剃さん、それ本気?」
「本気です」
鷲尾課長が、口元を押さえた。
桑原主査が、老眼鏡を上げた。
大貫が、後ろの壁際で、俺の袖を引っ張ってきた。
「温水さん」
「なんだ」
「これ、大丈夫なんですか」
「知らん」
「知らんって」
「俺も、いま初めて聞いた」
「部長相手って、本番より難しくないですか」
「難しいだろうな」
「ですよね」
「あと、失敗したらどうするんですか」
「知らん」
「三回目ですよ、知らん」
「知らんもんは知らん」
「温水さん、手」
「手?」
「めっちゃ組み替えてます。三秒に一回」
「数えないで」
「馬剃さんに教わりました」
「教えないでほしいんだよなあ、あの人」
――本当に、いま初めて聞いた。
十日間の特訓で、俺は「最初の一分は相手に質問する」という組み立てを作った。
作ったが、その相手を柏木部長にするとは、一言も言っていない。
この人は、そこは自分で決めたらしい。
「では、始めます」
天愛星さんが、一礼した。
三十度ではなかった。
もっと浅い。会場でやる角度だ。
この十日で、俺が三回だけ直した箇所である。
「本日はお越しいただきまして、ありがとうございます。本学の入試広報課の馬剃と申します」
声が、出た。
「先に、三つだけ伺ってもよろしいでしょうか」
柏木部長が、なぜか背筋を伸ばした。
「あ、はい」
「本日はどちらの高校からいらっしゃいましたか」
「えっと、あ、都立……なんだっけ、あ、青山高校で」
「ありがとうございます。他にどちらの大学のブースを回られましたか」
「え、あー、三つくらい。名前忘れた」
「承知しました。では、いま気になっていることを、一つだけ挙げるとしたら何でしょうか」
柏木部長が、腕を組んだ。
――止まった。
俺は、そこで少しだけ身を乗りだした。
部長は、十秒くらい考えていた。
考えて、それから、真顔で言った。
「……学費」
会議室が、一瞬、静かになった。
鷲尾課長が、下を向いて肩を震わせていた。
大貫が「うわ、リアル」と小声で言った。
「ありがとうございます」
天愛星さんは、一切動じなかった。
……いや。
動じては、いた。
左手の親指が、人差し指の付け根を、とん、とん、と二回押していた。
初日の朝にもやっていた癖である。
たぶん、この部屋で気づいているのは俺だけだ。
「それでは、学費のお話から始めさせていただきます」
そこからの十八分を、俺は、たぶん一生忘れない。
彼女は、まず初年度納入金の総額を言った。
次に、そのうち入学金がいくらで、授業料がいくらで、施設費がいくらかを分解した。
それから、四年間の総額を言った。
金額を、一円も丸めなかった。
「高いな」
柏木部長が言った。
「高いです」
天愛星さんは、そう答えた。
「本学は、国公立大学の約二・三倍です。他の私立大学と比較しても、中位よりやや上になります」
――言った。
俺は、椅子の上で少し固まった。
言わないのが普通である。
少なくとも、こっちから言う必要はない。
「ただ、これは総額の話です」
天愛星さんが続けた。
「実際に各ご家庭が負担される額は、これより下がる場合があります」
彼女は、指を三本立てた。
「本学の奨学金は三種類あります。給付型が二つ、貸与型が一つ」
それから、それぞれの採用者数と、採用率と、平均給付額を言った。
全部、数字だった。
全部、正確だった。
「昨年度、この三つのいずれかを受給した学生は、全体の三十一パーセントです」
「三割か」
「三割です。決して多くはありません」
――また、言った。
俺は、隣の大貫が息を止めているのが分かった。
「ですので、ご家庭の状況によっては、本学は選択肢に入らない場合があります」
天愛星さんは、まっすぐ部長を見ていた。
「それは、事実として申し上げます」
「――ただ」
彼女が、少し前に出た。
「もし、金額だけで迷っていらっしゃるのでしたら、一つだけ、見ていただきたい数字があります」
柏木部長が、身を乗りだした。
俺は、そこで理解した。
――そういうことか。
この人は、悪い数字を先に、全部出した。
高い。国公立の二・三倍。奨学金は三割しか通らない。うちは選択肢に入らないかもしれない。
全部出しきってから、最後に、一番大事なことを置いた。
――言葉の順番が。
俺は、たぶん、そのとき変な顔をしていたと思う。
十六年前、体育館の演台で、俺は同じことをやった。
融通が利かない、固い、強情、少しわがまま。
全部並べておいて、最後に一つだけ、置いた。
この人は、あれを、覚えている。
覚えていて、今日、使った。
「馬剃さん」
柏木部長が、口を開いた。
「それ、結論から言ってくれる?」
空気が、凍った。
鷲尾課長の顔が、はっきりと変わった。
大貫が、俺のほうを見た。
柏木部長は、気づいていない。
この人は、話が長い人に対して、いつもこれを言う。
十日前と、まったく同じ理由で、まったく同じ言葉を言っただけだ。
悪意はない。今日もない。
俺は、椅子から腰を浮かせかけた。
膝が、五センチくらい上がったと思う。
――また止まる。
そう思った。
十日前と同じだ。手が震えて、原稿が下がって、口が開いて、閉じる。
今日は原稿がない。
原稿がないぶん、たぶん、もっと早く止まる。
「はい」
天愛星さんが、答えた。
「本学の学生の、四年間の総費用に対する満足度と、卒業後三年時点の年収の中央値です」
――続いた。
俺は、腰を下ろした。
下ろすとき、椅子が、こと、と鳴った。
「結論から申し上げますと、初年度に払っていただく金額の説明としては、この二つが最も誠実だと考えております」
天愛星さんは、そのまま続けた。
「ただし、数字には限界があります。中央値は個々のご家庭の事情を説明しません」
止まらなかった。
十八分。
最後まで、一度も止まらなかった。
途中、二回、部長が余計な質問をした。
一回目は「うちってさ、キャンパス駅から遠いよね」。
二回目は「就職、正直どうなの」。
どちらも、高校生は聞かない質問である。
五十四歳の部長が、素で気になっていることを聞いただけだ。
天愛星さんは、二回とも、真正面から答えた。
駅から徒歩十六分。バスがあるが本数が少ない。雨の日はきつい。ただし、そのぶん敷地が広く、演習室が多い。
就職率は九十四パーセント。ただし、この数字は分母から進学者と就職希望を出していない学生を除いている。除かない場合は八十一パーセントになる。
――両方言った。
俺は、大貫が「えっ」と小さく声を出したのを聞いた。
就職率の分母の話は、業界の人間ならみんな知っている。
知っているが、高校生には言わない。言う必要がないからだ。
この人は、言った。
言ったうえで、こう続けた。
「どちらの数字も本学の公表資料に記載しております。お帰りになってから、他大学の資料もご覧いただければ、分母の取り方が大学ごとに違うことがお分かりいただけます」
部長が、口を半分開けたまま止まっていた。
「――以上です。ご質問があれば、お受けいたします」
誰も、何も言わなかった。
柏木部長が、腕を組んだまま、椅子の背にもたれた。
「……いや」
部長は、それから、こう言った。
「うち、そんな大学だったの?」
鷲尾課長が、吹き出した。
「部長、それ褒めてるんですか」
「褒めてるよ。めちゃくちゃ褒めてる」
部長は、顔を上げた。
顔が、赤かった。この人はいつも赤いが、いつもより赤かった。
「俺さ、正直、この十日で立て直せると思ってなかったの」
「……はい」
「でも、いまの、うちの職員で一番うまいわ」
「合格。文句なし」
「……あ」
天愛星さんが、声を出した。
言葉ではなかった。
息のほうが先に出た、という感じの音だった。
「馬剃さん、顔赤いわよ」
鷲尾課長が言った。
「……照明です」
「蛍光灯、一本切れてるけど」
「切れているぶん、赤く見えます」
「理屈おかしくない?」
「おかしくありませんっ」
「あ、いま『っ』つきましたよね」
大貫が、壁際から言った。
「ついておりませんっ」
「またついた」
「大貫君っ!」
――怒られてる。壁際まで届いてる。
柏木部長が、げらげら笑った。
桑原主査が「大したもんだ」と言った。
六文字。今月分を、ここで使った。
天愛星さんは、その場で、深く頭を下げた。
今度は、三十度だった。
三十度でよかった、と俺は思った。
この人にとって、あの角度は防具である。
防具を着けられるということは、いま、着けなくてもいい状態にあるということだ。
……たぶん、そういうことだと思う。
俺の勝手な解釈かもしれない。
顔を上げた天愛星さんは、大貫のほうを見て、それから俺のほうを見た。
目が合った。
二秒。
彼女は、何も言わなかった。
言わずに、少しだけ、口の端を上げた。
――ぐ、と喉の奥が詰まった。
俺は、手元の資料をめくるふりをした。
めくるものが何もなかったので、ただ紙をこすっただけになった。
会議室から人が出ていって、俺は資料を集めていた。
鷲尾課長が、最後に残った。
「温水君」
「はい」
「あなた、今日、腰浮かせたわね」
「……浮かせました」
「立たなくてよかったわね」
「はい」
課長は、ペットボトルの水を持って、扉のほうへ歩いた。
歩きながら、振り返らずに言った。
「あの十日、超過勤務、出しなさいよ」
「……八時間くらいなんですけど」
「八時間ぶん出しなさい」
誰もいなくなった会議室で、天愛星さんが椅子を戻していた。
「馬剃さん」
「はい」
「あの構成、いつ決めたんですか」
「一昨日です」
「悪い数字を先に全部出すやつ」
「はい」
「あれ、教えてないですよね」
天愛星さんが、椅子を持ったまま、こちらを見た。
「……教わりました」
「いつ」
「十六年前です」
俺は、資料を持つ手を止めた。
「体育館で」
天愛星さんは、そう言って、椅子を机の下に入れた。
「では、失礼いたします」
「あ、はい」
彼女は、そのまま出ていった。
俺は、しばらく、そこに立っていた。
その日の夜、俺たちは最後にもう一度、学食に行った。
練習をするためではない。
報告をするためである。
「合格したよ」
「え、ほんと?」
八奈見さんは、モップを持ったまま振り返った。
「ほんと」
「やった!」
モップが、床に落ちた。
八奈見さんは、それを拾わずに、両手を上げた。
「よかったー! あたし、今日ずっとそわそわしてたんだから」
「そわそわ?」
「そうだよ。十四時からでしょ。あたし十四時から十五時まで、事務所で書類の同じ行を三回読んだ」
天愛星さんが、少し目を見開いた。
「……八奈見さん」
「なに」
「なぜ、時間をご存じなんですか」
「え、温水君が言ってたじゃん」
「言ってないです」
「言ってたよ。一昨日、帰り際に」
――言ったのか。
俺は、まったく覚えていなかった。
覚えていないということは、たぶん、無意識に喋っていたということである。
他人の審査の日時を、無意識に他人に喋っている。
完全に平常心を失っていた。
「じゃあ、賄い作るね」
「あ、それは大丈夫です」
「作るね」
「八奈見さん」
「作るね」
「三回言いましたね」
「言ったよ。三回言うと本当になるんでしょ」
「……誰に聞いたんですか、それ」
「温水君が馬剃さんに言ってたじゃん。あたし、地獄耳なの」
「地獄耳って、自分で言います?」
「言うよ。褒め言葉だし」
「褒めてないです」
「褒めてるよ。ね、馬剃さん」
「……第三者の会話を継続的に聴取する行為は、褒め言葉には該当しないかと」
「馬剃さん、それ役所の言い方でしょ」
「役所の言い方です」
「認めるんだ」
「事実ですので」
その日の賄いは、五品だった。
二品減っていた。
俺は、その二品ぶんが、なんとなく分かった気がした。
ただし、皿の数が減ったぶん、一皿あたりの量が増えていた。
この人の計算は、いつも合っているようで、どこかがおかしい。
「温水君、それ食べないの」
「食べます」
「じゃあ早く食べて」
「なんで急かされてるんですか」
「見てると食べたくなるじゃん」
「じゃあ見ないでください」
「見るよ。見るのは自由でしょ」
自由ではある。
自由ではあるが、そのあと必ず箸が伸びてくる。
「あ」
「なに」
「いま、俺の海老」
「あたし、いまダイエット中だから」
「じゃあ食べないでよ」
「人のは、カロリー入ってないの」
「どういう理屈だ」
「消化に使うぶんで相殺されるから、実質ゼロ」
「相殺の意味が違う」
「ねえ馬剃さん、合ってるよね? ね?」
「……相殺の定義としては、誤りかと存じます」
「馬剃さん、そういうとこだよ」
「私にもですかっ」
天愛星さんが、箸を置いてから言った。
「八奈見さん」
「うん」
「十日間、ありがとうございました」
「いいよいいよ」
「フロアをお貸しいただいたうえ、練習にまでお付き合いいただきました」
「だから、いいって」
八奈見さんは、テーブルを拭きながら言った。
「あたし、こういうの好きなの」
「こういうの、と申しますと」
「誰かが、なんとかなるやつ」
天愛星さんが、しばらく黙った。
「……はい」
「明日、本番でしょ」
「はい」
「がんばって」
「はい」
俺は、豚汁を飲みながら、その二人を見ていた。
高校のとき、この二人が会話しているのを見た記憶が、ほとんどない。
生徒会の副会長と、その、なんというか、持ち物検査で引っかかる側である。
接点がなかったわけではないが、あったほうの接点は、たいてい注意する側とされる側だった。
十六年経って、いま、二人は普通に喋っている。
……変な感じだった。
帰り際、八奈見さんが俺の袖を引いた。
「温水君」
「なに」
「言った?」
俺は、そっちを見なかった。
「言ってない」
「そう」
「うん」
「じゃ、いいや」
八奈見さんは、それだけ言って、厨房に戻っていった。
六月十四日、土曜日。
合同進学相談会。会場は都内のホテルの宴会場である。
九時、設営。
長机が一つ。テーブルクロスをかけて、大学名の看板を立てて、大学案内を並べて、ノベルティのボールペンを置く。
椅子は、こちら側に二脚、向かい側に三脚。
参加大学は、百四校だった。
宴会場に、長机が壁沿いと島状に並んでいる。
通路が三本。入口から見て、右奥が国公立ゾーン、真ん中が首都圏の私大、左が地方の私大と専門職大学だ。
うちは、真ん中の島の、通路から二列目である。
「この、二列目というのは」
「微妙な場所です」
「微妙」
「通路側なら足が止まります。二列目は『見えてるけど、寄るには一歩いる』距離なんで」
「配置は、どなたが決めるんですか」
「業者さんです。申込みの早さと、その会場での過去の実績」
「実績」
「うち、五年前は三列目でした」
「……上がったんですね」
「二年かかりました」
「一列に、二年」
「一列に、二年です」
「多いですね」
「多いですね」
「温水主任。うちの看板、他校より三センチ低いです」
「測ったんですか」
「見れば分かります」
「じゃあ、上げますか」
「上げると、後ろの大学が見えなくなります」
「気にするんだ、そこ」
「気にします。来年も、隣になりますので」
……この人、もう来年の話をしている。
「百四校の中から、選ばれるのですか」
「選ばれないですよ、基本」
俺はテーブルクロスの角を引っ張りながら答えた。
「今日、来場する高校生が千二百人。一人が回れるのは、多くて六校です」
「……六」
「なので、九十八校は空振りです。毎回」
「……それでも、出るんですね」
「出ないと、来年は三列目に戻るんで」
「切実ですね」
「切実なんですよ」
開場は十時。
最初の三十分、うちのブースには誰も座らなかった。
天愛星さんは、椅子に浅く腰かけて、通路を見ていた。
背筋が、まっすぐだった。
通路を、高校生が歩いていく。
制服が三人、私服が二人、保護者と一緒の子が一人。全員、うちの前を通り過ぎた。
「馬剃さん」
「はい」
「これ、普通です」
「はい」
「三十分ゼロは、わりと普通です」
「はい」
「はい、が三回続いてますけど」
「聞いております」
「それ、聞こえてないときの返事なんですよ」
「……聞こえておりませんでした」
正直な人である。
「馬剃さん」
「はい」
「膝の上、見せてもらっていいですか」
「なぜですか」
「たぶん、手を握ってると思って」
天愛星さんが、両手をテーブルの上に出した。
出してから、しまった、という顔をした。
「……握っておりません」
「いま、自分で証明しに来ましたよね」
「証明しておりませんっ」
「跡、ついてますけど」
「これは、ボールペンの跡です」
「ボールペン、持ってないですよね」
「…………」
俺は、隣で自分のパンフレットを整え直した。
十時四十分。
一人目が、座った。
俺の側だった。
男子生徒が一人。三年生。理系志望。
俺は三つ質問して、十五分喋って、大学案内の百二十三ページを見せて、帰した。
この子は、志望がほぼ固まっていた。
固まっている子には、うちの話をあまりしない。
するのは、比較の材料の渡し方である。
「他に受けるとこ、決まってる?」と聞いて、二つ挙がったら、その二つとうちの違いを、うちが負けている点も含めて言う。
そうすると、たいてい、もう一回来る。
今日ではなく、夏のオープンキャンパスに。
「……いまの、うち不利なこと言ってましたよね」
隣から、小声がした。
「言いました」
「なぜですか」
「言わないと、信用されないんで」
「……不利な情報の開示は、信用の獲得に資する」
「メモしないでください」
「メモしません」
「いま書いてますよね」
「書いておりませんっ」
「ペン、動いてますって」
「……これは、線です」
「線」
「意味のない線です」
顔を上げると、天愛星さんはまだ座っていた。
まだ、ゼロだった。
十一時二十分。
女性が二人、うちのブースの前で足を止めた。
母親と、その隣に、制服の女子生徒。
「あ、こちら、どうぞ」
天愛星さんが、立ち上がって、椅子を引いた。
二人が、座った。
俺は、自分の側で別の高校生と話しながら、耳だけをそっちに向けていた。
「本日はお越しいただきまして、ありがとうございます。本学の入試広報課の馬剃と申します」
「先に、三つだけ伺ってもよろしいでしょうか」
――出た。
「本日はどちらの高校からいらっしゃいましたか」
「あ、埼玉の――」
「ありがとうございます。他にどちらの大学のブースを回られましたか」
「四つくらい……ですかね」
「承知しました。では、いま気になっていることを、一つだけ挙げるとしたら何でしょうか」
少し、間があった。
答えたのは、母親のほうだった。
「この子、決められないんです」
俺は、自分の目の前の高校生に相槌を打ちながら、そっちを見ないようにしていた。
「決められない、と申しますと」
「やりたいことが分からないって。三年生の六月なのに」
「お母さん」
女子生徒が、小さい声で言った。
「だって、本当のことでしょ」
「……」
――きつい球だ。
俺は、内心でそう思った。
この球は、二十分では返せない。
返そうとすると、たいてい、きれいごとになる。
「大学に入ってから見つければいいんですよ」とか、そういうやつだ。
言えば、その場は収まる。
収まるが、あの女子生徒の顔は、たぶん、それで下を向く。
「決まっていないほうが、多数派です」
天愛星さんが、そう言った。
「本学の一年生に、入学時のアンケートを取っております。『学びたい分野が明確に決まっていた』と答えた学生は、二十七パーセントです」
「……三割いないんですか」
「いません」
俺は、大学案内をめくる手を止めそうになった。
――その数字、俺、知らないぞ。
いや。
知っている。
IR室が出している入学時調査だ。
毎年出ているが、広報では使わない。
「決まっていない学生が七割」という数字を、わざわざ表に出す大学はない。
「ただ、これは本学に限った話ではありません」
天愛星さんは、続けた。
「全国の調査でも、ほぼ同じ傾向が出ています。……決められないことは、遅れているということではありません」
女子生徒が、顔を上げた。
俺は、目の前の高校生に「あ、ごめん、続きね」と言って、話を戻した。
戻しながら、耳だけは、まだそっちにあった。
「では、一つだけ、質問を変えさせてください」
「はい」
「やりたいことではなく、やりたくないことを、一つ挙げていただけますか」
少し、間があった。
「……人前で、喋るのが嫌です」
俺は、そのとき、危うく大学案内を落としかけた。
「承知しました」
天愛星さんの声が、いつもと同じだった。
「では、本学の学部のうち、演習でのプレゼンテーションが必修になっているものと、そうでないものをご説明します」
その親子は、二十五分いた。
帰り際、女子生徒が、天愛星さんに小さく頭を下げた。
天愛星さんは、その背中が通路の角を曲がるまで見ていた。
曲がったあと、机の下で、靴の先が、ゆっくりと何かを描いた。
……何を描いていたのかは、角度的に見えなかった。
十二時半、休憩に入った。
控室でもらった弁当を、俺たちは通路の端のパイプ椅子で食べた。
天愛星さんは、五分で食べ終えた。
それから、手帳を開いて、午前中の四組ぶんのやり取りを書き取りはじめた。
「馬剃さん」
「はい」
「休んでください」
「これが休憩です」
「またそれですか」
「唐揚げ、いります?」
「いただきません。手帳が汚れますので」
「箸で食べるんですよ」
「書きながらですので」
「休んでないんだよなあ、それ」
「休んでおります」
「じゃあ手帳、閉じてください」
「閉じると、忘れます」
「三十分くらい平気でしょ」
「三十分で、二割落ちます」
「その二割、なんの二割ですか」
「再現率です」
「出典は」
「私です」
「出た」
俺は、唐揚げを箸で持ち上げて、彼女の弁当の蓋の上に置いた。
「あ」
「置きました」
「置かないでください」
「もう置きました。事実は変わりません」
天愛星さんの手が、止まった。
止まって、三秒後に、唐揚げが消えた。
「……頂戴しました」
「どうも」
俺は、弁当の唐揚げを見ていた。
昨日の八奈見さんの唐揚げのほうが、たぶん、三倍うまい。
「あの、温水主任」
「はい」
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「はい」
「先ほどの三組目の方に、本学の合格最低点を、お伝えになりましたよね」
「言いました」
「あれは、公表しているものでしたか」
「公表してます。うち、全方式出してるんで」
「……なぜでしょうか」
俺は、少し考えた。
「出さない大学のほうが多いです」
「はい」
「出すと、届かない子が受けなくなるんで。志願者が減ります」
「では、なぜ」
「五年前に、うちが出すって決めたからです」
俺は、お茶のペットボトルを開けた。
「そのとき決めたのが、いまの学長です。当時は入試委員長でした」
天愛星さんが、手帳にペンを走らせた。
「……理由は」
「『届かないと分かってる子から受験料を取るのは、大学のやることじゃない』って」
ペンが、止まった。
「……いい大学ですね」
「そうですね」
俺は、唐揚げを口に入れた。
「まあ、そのあと三年、志願者めちゃくちゃ減りましたけど」
「え」
「四年目から戻りました」
「……その三年間は、どうされていたんですか」
「学長が、会議のたびに頭を下げてました。『四年待ってくれ』って」
「すごい方ですね」
「すごい人なんですよ。会うと普通のおじいちゃんですけど」
十七時、閉場。
撤収して、看板をたたんで、残った大学案内を箱に戻す。
天愛星さんは、テーブルクロスをきれいに畳んでいた。
角をそろえて、四つ折りにして、それをさらに半分にしている。
「馬剃さん」
「はい」
「何人でした?」
「十四組です」
即答だった。
「内訳は、三年生が九、二年生が三、保護者のみが二です。うち、資料請求の登録をしていただけたのが十一組」
「登録十一?」
「はい」
――多い。
俺は、その数字を頭の中で並べ直した。
この数字を、大学職員以外の人に説明するのは、たぶん難しい。
一日で十四組。
千二百人が来場して、百四校が出ていて、そのうち十四組が、うちの椅子に座った。
率にすると、一パーセントちょっとである。
一パーセントの仕事に、土曜日を丸ごと使って、六月に十七回それをやる。
そして、その十四組のうち、実際にうちを受けるのは、たぶん三組か四組だ。
入学するのは、一組か、ゼロである。
……こう書くと、ひどく非効率な仕事に見える。
実際、非効率である。
ただ、この一組が、四年間ここにいる。
四年いて、卒業して、そのあと五十年くらい、この大学の卒業生として生きる。
そう考えると、土曜日一日は、まあ、安い。
と、五年前に鷲尾課長から言われた。
俺はいまでも、その説明を人に使い回している。
うちのブースの、去年の一日の平均が、十二組である。
登録率は、だいたい六割。
初日で十四組、登録十一組。
しかも、そのうち何組かは、俺が横で聞いていた。
中身が、去年の俺より丁寧だった。
「俺、今日、十一組でした」
「そうですか」
「負けてます」
「……本日は、私のほうが座席の位置が通路側でした」
「そういう問題じゃないです」
「そういう問題です」
「じゃあ明日、席替わりましょうか」
「結構です」
「なんでですか」
「……勝ち逃げに、なりますので」
「勝ってる自覚あるんだ」
「ありませんっ」
「いま『勝ち逃げ』って言いましたよね」
「言っておりませんっ」
「明日も、この調子でお願いします」
「明日は日曜です」
「……そうでした」
「お休みください、温水主任」
天愛星さんは、テーブルクロスを箱に入れた。
入れてから、少しだけ、こっちを見た。
「……でも」
「はい」
「悪くない一日でした」
俺たちは、駅まで歩いた。
六月の夕方で、まだ明るかった。
ホテルの前の並木が、風で少し鳴っていた。
「腹、減りましたね」
「はい。本日、声を発していた時間は、合計四時間十二分です」
「……なんで分かるんですか」
「概算です」
「概算でその精度が出るの、逆に怖いんですけど」
「慣れです」
「じゃあ、俺は」
「二時間五十八分です」
「人のまで数えてる」
「ついでです」
「ついでで人の発話時間を測らないでください」
「……測っておりません」
「いま言いましたよね」
「言っておりませんっ」
「三回目ですよ、それ」
「……三回目です」
慣れで出る数字ではないと思う。
「あの母娘の件ですけど」
「はい」
「『やりたくないことを一つ』って、あれ、どこで思いついたんですか」
「思いついておりません」
「え」
「私が、そう聞かれたかったからです」
俺は、少し歩調を落とした。
「高校三年生のとき、私は、やりたいことを聞かれるたびに、答えられませんでした」
天愛星さんは、前を向いて歩いていた。
「大学に入ってからも、文科省に入ってからも、ずっと聞かれました。『あなたは何がしたいのか』と」
「はい」
「答えられるようになったのは、二十代の半ばです。ずいぶんかかりました」
「馬剃さん」
「はい」
「答え、なんだったんですか」
天愛星さんが、足を止めた。
並木の下だった。
葉のあいだから、光が落ちていた。
「国の教育を、支えたいと思っておりました」
彼女は、そう言った。
「そのために、法学部に入って、国家公務員試験を受けて、文部科学省に入りました」
「うん」
「十年やって、辞めました」
風が吹いた。
「温水さん」
「はい」
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「はい」
「私、まだ、夢の途中にいてもいいんでしょうか」
俺は、答えなかった。
いや。
答えられなかった、というのが正確だ。
答えは、たぶん、いくつもあった。
「いいに決まってる」。
「今日、それを証明したじゃないですか」。
「あの子、顔上げましたよ」。
全部、正しい。
全部、一秒で言える。
言えなかった。
なぜ言えなかったのかは、自分でも分かっていた。
俺には、その質問に答える資格がない。
俺は、逃げた側だ。
十六年前、豊橋から東京に、誰にも言わずに逃げた側の人間である。
夢の途中も、夢の終わりも、俺は一度も通っていない。
最初から、夢を持たなかったからだ。
持たなければ、失わない。
それが、俺の十六年の技術だった。
沈黙が、たぶん、五秒くらい続いた。
「……そうですよね」
天愛星さんが、言った。
顔を上げて、少し笑った。
「答えないの、昔から変わりませんね」
彼女は、そのまま歩きだした。
俺は、二秒くらい遅れて、あとを追った。
追いながら、俺は、一度だけ口を開いた。
開いて、閉じた。
言えることは、あった。
「俺は、答える資格がないんです」。
これは、たぶん本当のことだ。
でも、それを言うと、この人は必ずこう聞く。
――なぜ、資格がないんですか。
そこから先が、十六年前の話になる。
俺が誰にも言わずに東京に来た理由。
その前に、橋の上であったこと。
全部つながっている。
一つ引っ張ると、全部出てくる。
だから、俺は口を閉じた。
駅に着くまで、二人とも何も喋らなかった。
改札の前で、天愛星さんが振り返った。
「本日は、ありがとうございました」
「いえ」
「十日間も、お付き合いいただきまして」
「いえ」
「あの」
「はい」
「もう、必要ありませんね」
俺は、一瞬、意味が分からなかった。
「なにがですか」
「十七時十五分の、二十分です」
――あ。
そうか。
「……そうですね」
俺は、そう言った。
「合格したんで」
「はい」
「もう、いらないですね」
「はい」
天愛星さんは、頭を下げた。
「では、失礼いたします」
改札を抜けて、二歩進んで、振り返って、もう一度下げた。
俺は、手を上げなかった。
電車に乗って、ドアの横に立つ。
六月の夕方が、窓の外を流れていく。
十日間、毎日十七時十五分から二十分あった。
実際には、二十分では終わらなかった。
だいたい一時間半、長い日は二時間半。学食で賄いを食って、正門まで歩いた。
それが、今日で終わった。
終わって、当然である。
特訓は、独り立ちのためのものだった。
独り立ちしたら、終わる。最初からそう決まっていた。
――で。
明日から、俺は何を言い訳にすればいいんだ。
俺は、その考えが自分の頭に浮かんだことに、たぶん、五秒くらい気づかなかった。
気づいてから、慌てて打ち消した。
打ち消し方は、いくつかあった。
六月はまだ十六件残っている。
同行が必要な会場も、たぶんある。指定校の依頼文もあるし、オープンキャンパスの準備は七月からだ。
業務は、山ほどある。
業務は山ほどあって、そのどれもが、十七時十五分から二十分の理由にはならない。
……なんだこれ。
俺は、窓の外を見た。
六月の夕方が、後ろに流れていく。
俺は、電車の中で、明日からの言い訳を探している。
仕事の言い訳ではない。
自分に対する言い訳である。
情けない、と思った。
思って、そのあと、もう一つ思った。
――言い訳、いるか?
その考えは、たぶん、一秒くらいで消えた。
消えるように、俺が消した。
電車が駅に着いて、ドアが開く。
俺はホームに降りて、ポケットの上から、定期入れを押さえた。