(七月/温水視点)
「三千人です」
「三千人」
「はい」
「一日で、三千人」
「はい」
七月一日、火曜日。
俺は、去年のオープンキャンパスの実施報告書を開いていた。
「正確には、去年が三千四十九人です。高校生が千八百六十、保護者が千五十、教員と塾関係が百三十七」
「……百三十七」
「あと、迷って入ってきた近所の方が二」
「二」
「毎年います」
天愛星さんは、報告書を両手で持って、しばらく動かなかった。
「これを、一日で」
「一日です。九時開場、十六時終了」
「学部別プログラムが十一、模擬授業が八、施設見学が四系統、個別相談が随時、学食体験があって、あとは全体説明会が二回」
俺は指を折った。
「動く職員が、事務局から六十八人。学生スタッフが三百人」
「三百」
「三百です。あれが一番大変です」
「大変、と申しますと」
「三百人いると、当日、案内係が三人くらい迷子になります」
「……案内係が、ですか」
「案内係がです。毎年です。なので研修に『迷子になった案内係の探し方』が入ってます」
「探し方」
「はぐれたら、その場で一番大きい建物の前から動かない。動くから見つからないんで」
天愛星さんが、それを書き取った。
「あの、温水主任」
「はい」
「オープンキャンパスの実施要項を拝見しました」
「はい」
「実行委員長が、広報委員長の宮里副学長になっております」
「なってますね」
「委員会の構成も、教員が十四名、事務局が六名、学生代表が二名です」
「はい」
「……ですが」
天愛星さんは、要項のページをめくった。
「四月以降の依頼文書、通知、業者との契約、学生スタッフの募集要項、当日の指揮系統。全部、起案者があなたです」
「そうですね」
「宮里先生の名前は、挨拶文にしか出てきません」
「出てこないですね」
俺は、マグカップを置いた。
「宮里先生は、当日、開会の挨拶をされます。四分です」
「四分」
「あと、前日のリハーサルに三十分だけ来られます」
「……それだけですか」
「それだけです」
天愛星さんが、ペンを止めた。
「では、実質的には」
「俺ですね」
「あと、もう一個あります」
「はい」
「前日と当日の二日間だけ、うちの部の指揮系統が、逆になります」
天愛星さんが、顔を上げた。
「……逆」
「部長と課長が、俺の下に入ります」
「……は」
珍しく、声にならない声が出ていた。
ペンが指から滑って、机の上で一回跳ねた。
かたん。
本人は、たぶん気づいていない。
「八月八日の準備日と、九日の当日です。この二日だけ、決裁も判断も全部俺が出します。部長と課長は、俺が振った持ち場に入ります」
「柏木部長が、ですか」
「入ります」
「鷲尾課長も」
「入ります。去年、課長は駐車場の誘導でした」
「駐車場」
「コーンを並べてました」
「……あの方が、コーンを」
「めちゃくちゃ手際よかったです」
「想像が、できません」
「できないですよね」
天愛星さんは、手帳を持ったまま固まっていた。
「……本学の職務権限規程には、そのような定めは」
「ないですね」
「では、なぜ」
「三年前に、鷲尾課長が決めたんです」
俺は、要項の最後のページを開いた。
そこに、当日の指揮系統図がある。
一番上に、俺の名前がある。その下に、部長と課長の名前がある。
「四年前、当日に判断が二つ出たんですよ。俺と部長で、別々の指示が出た」
「……どうなりましたか」
「二号館の人が四十分止まりました」
天愛星さんが、息を吸った。
「あの規模の現場は、判断できる人間が一人じゃないと止まるんです。二人いると、必ず止まる」
「……はい」
「それで、次の年から課長が『二日間は温水君が上』って決めました。部長も、それでいいって」
「柏木部長は、それを」
「『俺、駐車場でいいよ』って言いました」
あの人は、そういう人である。
声が大きくて、悪気がなくて、そして、必要なときに一切揉めない。
「教員の方々は」
「先生方も同じです。当日と前日は、全部俺に聞いてきます」
「……先生方が」
「模擬授業の教室を変えたいとか、機材を追加したいとか、そういうのが二日間で三十件くらい来ます。全部、俺が可否を出します」
「断ることも」
「あります。去年、権田先生に三回断りました」
「……三回」
「三回目で『分かった』って言われました」
天愛星さんは、その全部を書き取っていた。
書き取り終えて、ペンを置いて、それから小さく言った。
「……その二日間、あなたは、なんなんですか」
俺は、少し考えた。
「なんでしょうね」
「役職ではありませんよね」
「役職じゃないです。主任のままです」
「給与も」
「変わらないです」
「……」
「ただ、あの二日は、俺が止めたら全部止まるんで」
これは、うちの大学が特別なわけではない。
大学のイベントというのは、たいてい、名目上の長が教員で、実際に動かすのが事務局である。
教員は本業が教育と研究なので、それでいい。
ただ、うちのオープンキャンパスは、少し規模が大きい。
教員が十一学部ぶん動く。
事務局が六十八人動く。
学生が三百人動く。
その三つを、同時に、同じ方向に向けなければならない。
教員には教員の理屈があり、事務には事務の手続きがあり、学生には学生の都合がある。
全部違う。全部違うものを、八月九日の一日に集める。
俺は、それを五年やっている。
「温水主任」
「はい」
「その三つを、統括されているのですか」
「まあ、そうなりますね」
「教員も」
「教員も」
「……先生方は、事務局の指示を聞かれるんですか」
いい質問だった。
「聞かないですよ」
「では」
「だから、指示はしないです」
俺は、要項を閉じた。
「お願いします。四月から、一人ずつ、順番に」
俺が入試広報課に来て、二年目のことである。
当時の課長に呼ばれて、「温水君、今年のオープンキャンパス、実行委員長やって」と言われた。
俺は「無理です」と即答した。
即答したのに、なぜかやることになった。
その年、俺は七月に十二キロ痩せて、八月に八キロ戻した。
オープンキャンパスというのは、要するに、一日だけの巨大なイベントである。
やることは、全部同じだ。
人を集めて、案内して、説明して、帰す。
ただ、それを一日で三千人ぶんやる。
準備は、四月から始まっている。
教員に模擬授業を依頼して、断られて、別の教員に依頼して、また断られて、三人目で決まる。
その三人目が、七月末に「やっぱり学会と重なった」と言ってくる。
施設課に空調の試運転を依頼する。
守衛室に当日の動線を伝える。近隣に案内文を配る。バス会社に増便を頼む。
そして、学生スタッフが三百人いる。
「三百人って、どうやって集めるのですか」
「募集します。毎年六百人くらい応募が来ます」
「六百」
「うち、学生がやたら来たがるんですよ」
俺は報告書のページをめくった。
「タダで昼飯が出るのと、あと、Tシャツがもらえるんで」
「……Tシャツ」
「毎年デザインが変わります。あれ、けっこう本気で作ってます」
「本気、と申しますと」
「三年前、デザインが不評だった年があって、応募が六百から四百に減りました」
「……Tシャツで、二百人ですか」
「Tシャツで二百人です。学生は正直なんで」
天愛星さんが、手帳に書いた。
「なぜ、それが動機になるのでしょうか」
「その年しか着られないからです」
「……」
「二年前のTシャツを着てる学生を見ると、あ、こいつ去年もやってたんだな、って分かるんですよ」
「で、馬剃さん」
「はい」
「今年、全体説明会の司会、お願いしていいですか」
天愛星さんの動きが、止まった。
「司会、と申しますと」
「全体説明会です。午前と午後、二回」
「……会場は」
「三号館の大講堂です」
「収容人数は」
「八百です」
「三千人来場されるのですよね」
「来ます」
「八百では、入りません」
「入らないです。なので、二号館の大教室に中継します。あっちが四百」
「それでも千二百です」
「全員は来ないんですよ、全体説明会には」
俺は指を折った。
「学部別プログラムに直行する子と、施設見学に行く子と、あと学食だけ食べて帰る子がいます」
「……学食だけ」
「毎年います。うちのカレー、うまいんで」
天愛星さんは、報告書を机に置いた。
置いてから、両手を膝の上に戻した。
「八百人の前で、進行を」
「そうですね」
「……壇上で、ですか」
「壇上です」
俺は、そこで少し早口になった。
「あ、断ってもらって全然大丈夫です。俺、五年連続でやってるんで、今年も俺がやります。ただ、鷲尾課長が、六月の会場での馬剃さんを見てて、それで一回聞いてみろって」
「やります」
即答だった。
「え」
「やります」
「あの、いま俺、断っていいって」
「やります」
天愛星さんは、まっすぐ前を見ていた。
まっすぐ前を見て、両手を膝の上で握っていた。
握っている指が、白かった。
――ああ。
この人は、怖いときほど、即答する。
考える時間を作ると、断る理由が見つかってしまうからだ。
だから、見つかる前に、口に出す。
俺は、それを知っている。
知っているのに、どうすればいいのかは、分からなかった。
「じゃあ、原稿……あ、いや」
「進行台本は、必要です」
「ですね」
「司会は、時刻の管理が主目的です。台本を読まない司会は、事故を起こします」
「そうですね」
「ただ」
天愛星さんが、そこで一度、言葉を切った。
「台本と台本のあいだが、読めません」
――そこか。
俺は、去年の進行台本を開いた。
A4で十二枚。
時刻が左端に、内容が中央に、担当者が右端に書いてある。
これを作ったのは、俺である。
三年前に作って、そのあと毎年、日付と登壇者名だけ差し替えて使っている。
我ながら、いい台本だと思う。
いい台本というのは、要するに、読めば誰でも同じ進行ができる台本のことだ。
全体説明会の台本は、九割が定型文である。
開会の挨拶、登壇者の紹介、次のプログラムの案内、閉会。全部、書いてあるとおりに読めばいい。
残りの一割が、書いていない。
登壇者が予定より三分早く終わったとき。
機材が動かないとき。
前のプログラムが押して、五分遅れているとき。
そういうときに、司会は、書いていないことを喋る。
去年、俺はそれを、たしか四回やった。
「馬剃さん」
「はい」
「その一割を、練習しましょう」
「はい」
問題は、また場所だった。
七月は試験期間で、学食が二十時まで営業している。
八奈見さんに電話をしたら、「あー、七月は無理。閉店二十時で、片付け二十一時半だもん」と言われた。
空き教室は、試験と補講と、そのあと採点で埋まっている。
会議室は、七月中旬から入試委員会と教授会が連続で入る。
「ないですね」
「ないですね」
「七月二十二日の、第三会議室が空いております」
「そこ、十七時から入試委員会です」
「……十六時三十分から十七時まででしたら」
「三十分で何をするんですか」
「三十分あれば、定型文の部分は通せます」
「馬剃さん」
「はい」
「それ、三十分ずつ何回もやる気ですよね」
「……八回です」
「増えた」
俺と天愛星さんは、施設予約システムの画面を、二人で睨んでいた。
七月の予定表が、ほぼ全部、灰色で埋まっている。
ちなみに、この状況を課長に相談すれば、たぶん解決する。
鷲尾課長が「打ち合わせで使うから」と一言言えば、会議室は取れる。
取れるが、そうすると「何の打ち合わせ?」という話になる。
なるので、相談しない。
相談しない理由を、俺は自分の中で「大したことではないから」と処理していた。
処理していたが、処理しきれていない自覚もあった。
「……温水主任」
「はい」
「以前、私が申し上げた案があります」
俺は、画面から目を離さずに答えた。
「却下したやつですよね」
「はい」
「防音で、時間で借りられて、個室のやつ」
「はい」
「……あのとき主任は、『それはちょっと』とだけおっしゃいました」
「言いましたね」
「理由を、述べられませんでした」
「述べてないです」
「述べていただけますか」
「述べたくないです」
「一か月、気になっておりましたっ!」
「一か月」
「一か月ですっ! 毎朝、通勤の電車で三分ずつ考えましたっ! 合計で九十分ですっ!」
「計算しないでください」
「計算ではありません。事実の集計ですっ」
俺は、しばらく画面を見ていた。
六月に却下した理由は、はっきりしている。
男性職員と女性職員が、平日の夜に二人でカラオケボックスに入って、無給で発表練習をする。
この絵面を鷲尾課長に説明できる自信が、俺には一ミリもなかった。
いまはどうか。
……変わっていない。
変わっていないが、七月三十一日までに、この人を八百人の前に立たせなければならない。
「行きましょうか」
「はい」
七月七日、月曜日、十八時。
大学から三駅離れた駅前の、雑居ビルの四階だった。
三駅というのは、俺が決めた。
二駅では足りない。
四月に一度、二駅の店を選んで、それを本人に見抜かれている。
ビルの前で、俺は一度、足を止めた。
看板が、派手だった。
ピンクと黄色で、割引の告知が三枚重ねて貼ってある。夜の七時前で、高校生らしい集団が二組、入っていった。
――冷静に考えよう。
俺は、そう思った。
男性職員が、同じ課の女性職員を、平日の夜にカラオケボックスへ連れていく。
目的は、業務の練習である。無給である。
目的が正当であることと、絵面が正当であることは、別の問題だ。
仮に、いま、この瞬間に大貫が通りかかったとする。
あいつは、たぶん、翌日には課の全員に話す。悪気なく。
悪気がないぶん、止められない。
「温水主任」
「はい」
「入らないのですか」
「入る」
「では、なぜ止まっていらっしゃるのですか」
「……人生を振り返ってた」
「全部ですか」
「全部」
「では、四階です」
天愛星さんは、先にエレベーターのボタンを押した。
エレベーターを降りると、受付があって、若い店員が「いらっしゃいませー」と言った。
「ご利用、何名様ですか」
「二名です」
「お時間は」
「三時間で」
「フリータイムのほうがお得ですけどー」
「あ、じゃあ、それで」
天愛星さんは、俺の半歩後ろに立っていた。
立ったまま、店内の掲示物を読んでいた。
「温水主任」
「はい」
「フリータイムの終了時刻は、翌朝五時と掲示されております」
「そこまでいないです」
「確認は必要です」
「馬剃さん」
「はい」
「声、ちょっと大きい」
「…………失礼しました」
天愛星さんの耳が、かあっ、と赤くなった。
店員は、にこにこしていた。
この子は、たぶん、いろんな二人組を見ている。
受付で名前を書くとき、俺は一瞬、手が止まった。
備考欄に「ご利用目的」という欄がある。
当然、書かなくていい欄である。
書かなくていいのに、俺は三秒くらい、そこを見ていた。
「温水主任」
「はい」
「そこは、任意記入です」
「知ってる」
「書かれるのですか」
「書かない」
「なぜですか」
「なんて書くんですか、これ」
「……業務」
「業務って書いてあるカラオケ、店の人がびっくりするでしょ」
「事実です」
「事実だけど書かない」
「事実を書かない理由が、私には分かりません」
「……いつか分かります」
「いまでは、いけませんか」
「いまは駄目です」
部屋は、四〇二号室だった。
六人用である。
L字のソファと、机が二つ。壁一面がモニタで、隅にマイクが二本立ててある。
天愛星さんは、部屋に入るなり、壁の掲示に近づいた。
「温水主任」
「はい」
「ご利用規約が掲示されています」
「そうだな」
「延長料金の起算点が、三十分単位です」
「うん」
「ドリンクバーが料金に含まれると記載されていますが、含まれるのはソフトドリンクのみです」
「そうだな」
「アルコールは別料金です」
「飲まないから」
「確認は必要です」
彼女は、それからマイクを一本手に取った。
取って、鞄からウェットティッシュを出して、拭きはじめた。
「馬剃さん」
「はい」
「それ、たぶん、店の人が拭いてる」
「拭いていても、拭きます」
「二重だぞ」
「二重で困る人はいません」
「馬剃さん、その綿棒どこから出したんですか」
「常備しております」
「常備」
「鞄には、常備すべきものが十四点あります」
「十四」
「ご入用でしたら、一覧をお渡しします」
「いらないです」
困りはしないが。
俺は、その様子を三十秒くらい見ていた。
マイクの網の目のところを、綿棒で処理しはじめたところで、俺は声をかけた。
「馬剃さん」
「はい」
「今日、歌わないよな」
「歌いません」
「じゃあ、なんでそこまで」
天愛星さんの手が、止まった。
「……手が、勝手に」
「そっか」
「気にしないでください」
俺は、ソファの端に座った。
座って、天井を見た。
――十六年前と、完全に同じだ。
あのときも、この人は部屋に入るなり、料金表を読んでいた。
俺は「早く始めようよ」と言って、無視された。
その日、俺たちは三時間勉強して、最後に一曲だけ歌った。
「では、始めましょう」
「はい」
最初の三十分は、順調だった。
定型文の部分を、彼女は完璧に読んだ。
速度も、間の取り方も、俺より上手かった。
問題は、そのあとである。
「はい、じゃあ次。いま、二番目の登壇者が予定より四分早く終わった」
「はい」
「次のプログラムまで、四分空く。どうぞ」
天愛星さんが、マイクを持った。
持って、ぴたり、と止まった。
「……」
「四分」
「……はい」
「三分五十秒」
「……」
「三分四十秒」
「秒読みはやめてください」
「え、緊張感出るかと思って」
「出ます。出ますが、そういう緊張感ではありません」
「じゃあ、どういう緊張感ならいいんですか」
「……緊張感に、種類の指定はできません」
「いま自分で二種類あるって言いましたよね」
「言っておりませんっ」
「言った」
「……言いました」
彼女は、マイクを膝の上に下ろした。
「何を、喋ればいいのでしょうか」
「なんでもいい」
「なんでも、が一番困ります」
「だよな」
この人は、たぶん、頭の中には千個くらい話題を持っている。
法令の改正の経緯も、学校基本調査の推移も、この大学の設置認可の年月も、全部言える。
言えるのに、四分が埋まらない。
埋まらない理由は、選べないからだ。
八百人の前で「いま、この場に必要な一つ」を選ぶ。
その作業が、この人には、たぶん、いちばん難しい。
……それは、俺が一番得意なやつだった。
得意なのに、俺は、それを説明できない。
説明できないものを、十日で人に渡すのは、けっこう難しい。
俺は、机の上のリモコンを手に取った。
手に取って、意味もなく画面を送った。
――さて。
この四分は、俺の場合、何を喋っているだろうか。
思い出そうとして、俺は少し困った。
覚えていないのだ。
毎年やっているのに、何を喋ったか一つも覚えていない。
台本にないことは、記録にも残らない。
「馬剃さん」
「はい」
「去年、俺、なに喋ったと思う?」
「存じません」
「俺も覚えてない」
「……」
「たぶん天気の話とか、学食のカレーがうまいとか、そういうの」
「それで、八百人が」
「持つ」
「持ちませんよ」
「持つんだって」
俺はリモコンを置いた。
「四分を埋めるのが目的じゃないんだよ」
「といいますと」
「八百人に『この人がいるから大丈夫だ』って思わせるのが目的」
天愛星さんが、こちらを見た。
「中身はなんでもいい。喋ってる人が焦ってないって分かれば、会場は落ち着く」
「……焦っていない人間が、必要なのですね」
「そう」
「私は、焦ります」
「知ってる」
「知っているなら、なぜ司会を私に」
「焦ってるように見えないから」
天愛星さんが、こちらを見た。
「見えないんですか」
「見えない。今日だって、規約読んでるときは、完全に落ち着いて見えた」
「あれは、落ち着いていたわけでは」
「そう。落ち着いてなかったよね」
「……はい」
「でも、そう見えた。八百人には、それで足りる」
天愛星さんが、口を半分開けたまま止まった。
「……いま、褒められたのでしょうか」
「褒めた」
「分かりにくいです」
「じゃあ、分かりやすく言います」
「けっこうです」
「馬剃さんは、落ち着いて見えるし、たぶんうちの課で八百人の前に立てる職員のなかで一番」
「けっこうですっ」
「まだ途中ですけど」
「途中で、けっこうですっ」
天愛星さんは、マイクを両手で持ったまま、下を向いていた。
耳が、赤かった。
この人は、褒められるのが下手である。
下手というより、受け取り方を知らない。受け取れないので、遮る。
俺は、少し考えた。
「じゃあ、こうしよう」
俺はスマホを取りだした。
「ネタを五個作ろう。四分ぶんのやつを、五個」
「……用意するのですか」
「用意する」
「それは、原稿では」
「原稿だな」
天愛星さんが、目を細めた。
「捨てろとおっしゃったのは、あなたです」
「捨てたのは二十分の説明の原稿。四分の雑談は別」
「どう別なんですか」
「雑談は、覚えてないと出ないから」
「……理屈が、通っていません」
「通ってない」
「認めるんですか」
「認める。でも正しい」
「正しくありません」
「正しいんだって」
天愛星さんが、リモコンを机に置いた。
置いた、というより、たたきつけた。
ごとん、と低い音がして、机のグラスが一センチ跳ねた。
それから、彼女は立ち上がった。
「――だいたいですねっ!」
声が、防音の壁で一回跳ね返って、戻ってきた。
防音というのは外に漏れないという意味であって、中で小さくなるという意味ではない。
俺は、その事実を、いま初めて実感した。
「六月に原稿を捨てろとおっしゃったのは、主任ですっ! 私は三日かけて作った十二枚を、あなたに言われて全部捨てましたっ! 捨てたあと、二晩眠れませんでしたっ! それをいまになって『四分ぶんを五個用意しろ』と! これは原稿ですっ! どこからどう見ても原稿ですっ! 原稿でないとおっしゃるのでしたら、原稿の定義を提示してくださいっ! 法令でも通達でも、局長通知でも構いませんっ!」
一息だった。
息継ぎが、どこにも入っていなかった。
入試広報課の職員が、月曜の夜のカラオケボックスの四〇二号室で、原稿の定義を求めている。
俺は、ソファの背に少し体重を預けた。
「……馬剃さん」
「なんですかっ」
「マイク、持ったままです」
天愛星さんの手の中で、マイクが、ぼそ、と息の音を拾った。
拾った音が、壁一面のスピーカーから、部屋いっぱいに返ってきた。
「…………」
「けっこう響いてましたよ」
「……何デシベルほど」
「知らないです」
「……計測しておくべきでした」
「そこじゃないです」
天愛星さんは、マイクを両手で持ち直して、そっと机に戻した。
戻して、座って、それから、両手で顔を覆った。
「……申し訳ありません」
「いえ」
「取り乱しました」
「取り乱してました」
「そこは、否定してください」
「嘘は、よくないんで」
「…………」
耳が、赤かった。
顔を覆っているので、見えるのは耳だけである。
見えるところが全部赤いということは、たぶん、見えないところも赤い。
天愛星さんは、しばらく黙っていた。
黙って、それから、手帳を開いた。
「……五個、伺います」
ネタ作りは、意外と難航した。
難航した理由は、はっきりしている。
この人が、一個ごとに事実確認をするからだ。
「学食のカレーの話です。何がおもしろいのですか」
「うちのカレー、五年前にレシピが変わってるんですよ。で、当時の学生が学生新聞で抗議記事を書いた」
「本当ですか」
「本当です。バックナンバーあります」
「では、確認します」
「いま?」
「事実でない話を八百人にするわけには参りません」
彼女はスマホで学生新聞のアーカイブを開いて、三分で記事を見つけた。
「……ありました」
「あったでしょ」
「見出しが『カレー、還れ』です」
「そうそう、それです」
「センスがあります」
「ありますよね」
「この学生は、いま何をされているのでしょうか」
「知らないです」
「気になります」
「気になるんだ」
「気になります。『カレー、還れ』と書いた人間が、その後どう生きたのか」
「重い話になってきたな」
「重くありません。関心ですっ」
結局、その日、俺たちは八個作った。
学食のカレーの話。
大学の裏門にいる猫の話。
図書館の地下四階の話。
入学式の日に電車を乗り間違えて隣県まで行った学生の話。
うちの正門の桜が、実は植えられたのが十二年前だという話。
二号館のエレベーターだけ、なぜか異様に遅い話。
学生スタッフの募集に毎年三百人応募が来る話。
権田先生の写真の話。
「最後のは、使えません」
「使えない?」
「教授個人の容姿に関する話題です」
「あー」
「削除します」
「はい」
「あと、猫の話ですが」
「うん」
「品種は何でしょうか」
「知らん」
「推定年齢は」
「知らん」
「不妊手術の有無は」
「馬剃さん」
「はい」
「猫だぞ」
「猫ですが、事実です」
「事実だけど、八百人はそこまで求めてない」
「求められてから調べたのでは遅いのでは」
「求められないって」
「万が一があります」
「馬剃さん、万が一って、何パーセントですか」
「〇・〇一パーセントです」
「じゃあ調べなくていいでしょ」
「〇・〇一は、ゼロではありませんっ」
「そこで声を張るんですね」
「張りますっ! 〇・〇一パーセントというのは、一万回に一回ですっ! 全体説明会は年に二回、五年で十回、二十五年で五十回、私が定年まで勤めれば六十回を超えますっ! その六十回のうち一度も猫について問われないと、主任は断言できるんですかっ!」
「できます」
「なぜですかっ」
「猫だからです」
「理由になっておりませんっ!」
俺は、ウーロン茶を一口飲んだ。
この人は、怒りながら暗算をする。
怒りと計算が同時に走っていて、しかも計算のほうが精度を落とさない。
「馬剃さん」
「なんですかっ」
「いま、怒りながら六十まで数えましたよね」
天愛星さんの動きが、止まった。
「……計算は、しておりません」
「定年まで出てましたけど」
「…………」
「暗算、速いですね」
「……その話は、いま関係ありませんっ」
万が一、大講堂の八百人が、裏門の猫の去勢について挙手で質問してくる。
俺は、その光景を三秒くらい想像した。
想像して、笑ってしまった。
「なぜ笑うんですか」
「いや、うん、調べよう」
「そうしましょう」
結局、俺たちはそのあと二十分かけて、裏門の猫について調べた。
分かったのは、名前が「ハカセ」であることと、去年その世話をしていた理学部の学生が卒業したことと、引き継ぎ書がA4で三枚あることだった。
「三枚」
「三枚です」
「なにが書いてあんの、それ」
「ご飯の時間と、触っていい場所と、あと」
天愛星さんが、画面をスクロールした。
「『機嫌が悪い日の見分け方』が、一枚ぶんあります」
「一枚?」
「一枚です」
俺は、天井を仰いだ。
「……それ、使おう」
「使えますか」
「使える。めちゃくちゃ使える」
天愛星さんが、手帳に丸をつけた。
つけかたが、少し嬉しそうだった。
二十時四十分。
三時間パックの残りが、二十分になっていた。
「馬剃さん、そろそろ出ましょうか」
「はい」
彼女は、鞄に手帳をしまった。
しまって、それから、リモコンを見た。
見ていた。
三秒くらい。
「馬剃さん?」
「いえ」
「なんですか」
「……いえ」
俺は、リモコンを彼女のほうに滑らせた。
「二十分あるんで」
天愛星さんが、リモコンを取った。
取って、それから、しばらく画面を触っていた。
検索している。
文字を打っては消し、打っては消している。
俺は、天井を見ていた。
見ないほうがいい気がしたからだ。
「……温水主任」
「はい」
「一曲だけ、歌ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「笑わないでください」
「笑わない」
前奏が、流れた。
――え。
俺は、天井から目を戻した。
モニタに、タイトルが出ていた。
『二人合わせてハタチだから、いますぐお嫁にいけますよ?』
オープニングテーマ。
「え」
「歌います」
「え、待って」
「歌います」
「アニメ、見たの?」
「見ました」
「いつ」
「二〇一二年です」
「即答ですね」
「記録は取ります」
天愛星さんは、マイクを持って立ち上がった。
――歌った。
うまかった。
いや、うまいというか、正確だった。
音程が外れない。リズムがずれない。歌詞を一文字も間違えない。
抑揚が、控えめだが、ちゃんとついている。
立ち方が、ちょっと司会っぽかった。
一番が終わって、間奏に入ったところで、彼女が動いた。
机の上の、二本目のマイクを取った。
取って、こっちに差しだしてきた。
「……え」
「サビです」
「サビ」
「合いの手が、入ります」
「入るんですか」
「入ります。二〇一二年当時、動画サイトのコメント欄が、全部これで埋まっておりました」
「……コメント欄」
「……いえ」
いま、この人、余計なことを言ったな。
俺は、そこを掘るべきかどうかを〇・五秒だけ考えて、やめた。
サビが来る。
「温水主任」
「はい」
「『ハタチ』のところで、お願いします」
「どこですか」
「聞けば分かります」
俺は、マイクを受け取った。
――聞けば分かった。
分かるどころではなかった。
あの曲は、サビの頭が四回とも「ハタチ」で始まる。
しかも、頭の一拍前に隙間がある。埋めてくれと言わんばかりの隙間だ。
一回目は、半拍遅れた。
「ハタチ」
二回目で、合った。
「ハタチ!」
三回目で、俺は、たぶん完全に十八歳に戻っていた。
「ハタチ!」
四回目の直前で、天愛星さんが、こちらに掌を差しだした。
――知ってる。
オープニング映像の、サビの終わりに出るやつだ。
左右から手を出して、画面の真ん中で合わせる。
俺は、一瞬だけ迷った。
迷って、合わせた。
ぱん、と乾いた音が鳴った。
「ハタチ!」
二番に入って、彼女は普通に歌い続けた。
俺は、マイクを持ったまま、次のサビを待っていた。
間奏で、天愛星さんが、こっちを見た。
「……ふふ」
「なんですか」
「温水さん、お上手じゃないですか」
――温水さん。
俺は、たぶん、変な声を出した。
「へ」と「は」の中間くらいの音だった。
自分でも、あとから思い出したくない種類の音である。
天愛星さんが、そこで、はっとした顔をした。
「……失礼しました。温水主任」
「あ、はい」
「業務外ではありますが、呼称は統一すべきですので」
「はい」
「……いまのは、忘れてくださいっ」
「なにをですか」
「……なんでもありませんっ」
彼女はマイクを両手で持ち直して、二番のサビに間に合わせた。
俺は、四回とも入れた。
――十六年前。
この人と、俺は、カラオケボックスに三時間いた。
あの日、俺たちは古文の参考書を広げて、英単語を四十七個やった。
やって、残り時間が十分になったとき、この人が突然、一曲だけ入れた。
『ギリギリアウトな女たち』の、一期オープニングテーマ。
俺が当時、部室でさんざん話していたアニメである。
この人は、マイクを二本立てて、一本を俺に両手で押しつけた。
理由は「時間が余りましたので」だった。
歌ったのは、俺である。
この人は、歌わなかった。
歌わずに、サビの頭だけ、二本目のマイクで合いの手を入れた。
入れ方が、完璧だった。
最後のサビで、この人は掌を差しだしてきた。
俺は、一瞬だけ迷って、合わせた。
合わせながら、俺は、何かに気付きかけていた。
気付きかけて、曲が終わる前に、気付かなかったことにした。
十六年前から、俺は思考の止め方だけは上手かった。
……なんで生徒会の風紀のかたまりが、ギリアウの合いの手を完璧に把握しているのか。
その疑問を、俺は十六年、置きっぱなしにしている。
いま、目の前で、この人がまた一曲入れた。
十六年前は、俺が見ていたアニメの曲だった。
今日は、俺が没収された本の曲である。
この人はこの十六年、たぶん何度もカラオケに行っている。
文科省時代の飲み会でも行っただろうし、そのたびに、これを歌ったわけでもないだろう。
でも。
この曲を選んだのは、今日である。
俺の目の前で、この曲を選んだのは、今日だ。
歌い終わって、彼女はマイクを置いた。
置く手が、ほんの少しだけ震えていた。
俺も、置いた。
置いてから、自分がまだ握っていたことに気づいた。
彼女は座って、ウーロン茶を飲んだ。
部屋が、急に静かになった。
次の曲は入っていない。
画面が、待機中の映像に戻って、店の広告が流れはじめた。
俺は、その広告を見ていた。
見ていないと、たぶん、彼女のほうを見てしまう。
「……あの」
「はい」
「なんで、見たの?」
天愛星さんは、グラスを両手で持っていた。
「……気になったので」
「気になった」
「はい」
「十六年、タイトルの意味が分からないって言ってたよな」
「はい」
「アニメ見ても分からなかったの?」
「分かりませんでした」
「じゃあ、なんで最後まで見たんだよ」
天愛星さんは、答えなかった。
答えずに、グラスの氷を、指で少し押した。
「……全十二話です」
「はい」
「二期もあります」
「あるな」
「そちらも、見ました」
俺は、何も言えなかった。
時計を見ると、残り四分だった。
「馬剃さん」
「はい」
「四分ある」
「……はい」
「なんか喋って」
「無茶を言わないでください」
天愛星さんが、少し笑った。
店を出たのは、二十一時十分だった。
七月の夜は、蒸していた。
ビルの前の道に打ち水の跡があって、そこだけ空気が違った。
駅までの道で、天愛星さんは何も喋らなかった。
俺も、何も喋らなかった。
喋ることは、山ほどあった。
なんでアニメを二期まで見たのか、とか。十六年、あのタイトルのことをどれくらいの頻度で思い出していたのか、とか。
全部、聞かなかった。
聞いたら、この人はたぶん答える。
答えられたら、俺は、そのあとどうすればいいのか分からない。
改札の前で、彼女が振り返った。
「本日は、ありがとうございました」
「いえ」
「来週も、お願いできますでしょうか」
「はい」
「……よろしいのですか」
「いいですよ」
――いい。
俺は、そう答えた。
答えてから、自分が一秒も迷わなかったことに気づいた。
六月に、言い訳は切れている。
OJTでもないし、独り立ちの支援でもない。彼女はもう合格している。
なのに、俺は一秒で「いいですよ」と言った。
……司会の練習だからだ。
俺は、そう考えた。
全体説明会の司会は、当日の進行の要である。
事故が起きたら、責任は課にある。だから、経験者が支援するのは当然だ。
うん。それだ。
俺は、ホームで、自分に言い訳をしていた。
七月十六日、水曜日。
昼休みの休憩室で、俺はスマホを見ていた。
見ていたのは、印刷所の締切一覧である。
「温水主任」
「うわ」
振り返ると、天愛星さんが立っていた。
「なぜ驚かれるんですか」
「いや、なんでもないです」
「画面を隠されましたね」
「隠してないです」
「隠しました」
「隠してないです」
「では、見せてください」
「見せません」
「隠しておられないのでしたら、見せられるはずです」
「論理がおかしい」
「おかしくありません」
この人は、こういうときだけ、異様に踏みこんでくる。
「……印刷所です」
「いんさつじょ」
「同人誌の。八月の、その、あれの」
「コミックマーケットですね」
「はい」
「締切は」
「七月二十八日です」
天愛星さんが、電卓を叩いた。
叩かなくても分かる計算だと思う。
「本日は七月十六日です」
「はい」
「十二日ですね」
「はい」
「オープンキャンパスの準備と、完全に重なります」
「重なります」
「原稿の進捗は」
「……四割です」
天愛星さんが、腕を組んだ。
「温水主任」
「はい」
「一つ、確認させてください」
「はい」
「本日から締切まで、休日は四日あります」
「あります」
「そのうち、七月十九日と二十日は、オープンキャンパスのリハーサルです」
「あります」
「二十六日は、学生スタッフの研修です」
「……あります」
「残りは、二十七日の一日のみですね」
俺は、天井を見た。
「これは業務外の事項ですので、私が申し上げる筋ではありませんが」
「はい」
「四割で十二日は、無理です」
「無理ですね」
「毎年、こうなるのですか」
「毎年こうなります」
「……学習は」
「しないです」
「なぜですか」
「六月と七月に仕事のピークが来るからです」
「では、なぜ夏に出されるのですか」
「夏しかないんですよ、俺の場合」
俺は、スマホを机に置いた。
「冬は入試です。一月から三月は、たぶん人間として一番向いてない時期なんで」
「では、年に一回」
「年に一回です。十二年で、十一回出てます」
「一回、落とされていますね」
「落としました。三年前です」
「なにがあったのですか」
「……理学部の入試の日程が変更になって」
天愛星さんが、少し黙った。
「業務、ですか」
「業務です」
「……」
「別に、いいんですよ。落としても誰も死なないんで」
俺はそう言った。
言ったあと、少しだけ、言い方が乾きすぎたかなと思った。
天愛星さんは、深く息を吐いた。
「何を作られるのですか」
「え」
「同人誌です。何を作られるのですか」
俺は、少し迷った。
迷って、答えた。
「今年は、ライトノベルのレーベル別の刊行点数の推移をまとめてます。二〇〇〇年から去年まで」
「……統計ですか」
「統計です」
「小説では、ないのですか」
「書けないです」
俺は、自販機で買ってきた缶コーヒーを開けた。
ブラックである。
この一か月、俺は休憩室で必ずブラックを買っている。
前は微糖だった。いつ変えたのかは、自分でもよく覚えていない。
「昔、一回だけ書こうとして、三行でやめました」
「三行」
「三行です」
「なぜ、おやめになったんですか」
「……なんか、自分のことが書いてありそうで」
天愛星さんが、動きを止めた。
俺は、缶を口に運んだ。
「だから、俺は数えるほうです。人が書いたやつを、数えて、並べる」
「……」
「向いてるんですよ、そういうのが」
しばらく、休憩室の空調の音だけがしていた。
「温水主任」
「はい」
「私、一冊だけ、持っています」
彼女は、そう言って、休憩室を出ていった。
戻ってきたとき、手に文庫本を持っていた。
カバーがかかっていない。
カバーをかけずに、そのまま持ち歩いているらしい。
背が、少し焼けていた。
――かけないんだ。
俺は、そう思った。
思ってから、なんでそんなことを思ったのか、自分でも分からなくなった。
本にカバーをかけるかどうかは、個人の自由である。
俺はかける派だ。かける派だが、それは俺が中学のときに車内でラノベを読んでいて母親に見られたからで、要するに個別の事情である。
この人が、どういう本にカバーをかけて、どういう本にかけないのか。
……知らないな。
俺は、そこで考えるのをやめた。
「これです」
差しだす手が、一度、止まった。
止まって、それから、両手で渡された。
俺は、それを受け取った。
手のひらに、少し温かかった。
鞄の中に、ずっと入っていたのだと思う。
カバーがないのに、角が傷んでいない。丁寧に持ち歩いている人の本だ。
表紙のイラストに、見覚えがあった。
――知ってる。
持っている。
「あ、これ、俺も持ってます」
「そうですか」
「デビュー作ですよね。四年前の」
「はい」
「シリーズ、いま五冊出てます」
「六冊です。先月出ました」
「え、出た?」
「出ました」
「うわ、知らなかった。帰りに買います」
天愛星さんは、俺の手元の本を見ていた。
「温水主任」
「はい」
「私、この作者さん、知ってます」
俺は、本を持ったまま、動けなかった。
「え」
「知っています」
「……知ってるって」
「志喜屋先輩から、四年前に伺いました」
昼休み終了のチャイムが鳴った。
天愛星さんは、俺の手から本を取って、鞄に入れた。
「では、午後もよろしくお願いいたします」
「あ、はい」
「オープンキャンパスの学生スタッフの名簿、十四時までにお渡しします」
「はい」
彼女は、そのまま休憩室を出ていった。
俺は、その場に立っていた。
その日の夜、俺は自分の部屋の本棚の前に座った。
左から三段目に、そのシリーズがある。
一冊、二冊、三冊、四冊、五冊。
全部、発売日に買っている。
全部、面白かった。三巻がいちばん好きだ。
俺は、一巻を抜いて、奥付を開いた。
著者名が、印刷されている。
筆名だった。
――四年間。
俺は、この本を四年間、読んでいた。
読んで、面白いと思って、続きを買って、それを五回繰り返した。
誰が書いたのかを、一度も、調べなかった。
俺は、本を閉じた。
閉じて、しばらく、表紙を見ていた。
あいつは、書いていた。
俺が東京に来て、大学に入って、就職して、病院に四年いて、会計課に三年いて、入試広報課に五年いるあいだ。
あいつは、書いていた。
高校のとき、あの部室で、原稿用紙の上でずっと止まっていた人が。
スマホを取りだして、著者名を検索した。
公式のページが出てきた。
プロフィールが三行だけ載っている。
愛知県出身。
二〇二一年、第◯回新人賞受賞。
趣味は読書。
それだけだった。
写真はない。
インタビュー記事が二本あって、どちらも顔は出ていない。
俺は、検索の画面を閉じた。
――知らなくていいことだった。
そう思おうとして、無理だった。
四年前。
俺は、新刊のコーナーでこの本を手に取った。
あらすじを読んで、レジに持っていった。
その日、うちの課は入学式の準備をしていた。
残業が三十分あって、俺はそのあと本屋に寄って、帰りの電車で一章目を読んだ。
面白かった。
その夜、俺は自分の同人誌用のメモに、こう書いている。
『新人。地の文が固いが、会話の間が異様にうまい。次巻買う』
地の文が固い。
俺は、そのメモを四年ぶりに開いて、しばらく見ていた。
『地の文が固いが、会話の間が異様にうまい』
我ながら、ひどい書き方である。
褒めているのか、けなしているのか、自分でも分からない。
ただ、四年前の俺は、たしかにこの本を面白いと思った。
面白いと思って、次の巻を買った。それを五回繰り返した。
それは、たぶん、悪いことではない。
あいつの地の文は、昔から固かった。
部誌に載せた最初の短編も、そうだった。
俺は、それを読んで、たしか「もっと削ったほうがいい」と言った。
あいつは怒って、三日くらい口をきかなかった。
俺は、スマホを置いた。
置いて、本棚の三段目を、もう一度見た。
五冊、並んでいる。
六冊目は、まだ買っていない。
――明日、買おう。
俺は、そう思った。
思って、そのあと、もう一つ思った。
あの人は、四年前から知っていた。
知っていて、四年間、俺に言わなかった。
言わなかった理由は、たぶん、簡単だ。
言う相手がいなかったからだ。俺は十六年、誰とも連絡を取っていなかった。
――で。
今日、言った。
言えるようになったのは、この三か月半で、何かが変わったからである。
変えたのは、たぶん、俺ではない。
俺は、飲みに誘って、電話を代わって、会議を止めて、二十分の練習に付き合っただけだ。
……それ以外に、何かしただろうか。
俺は、本棚の前で、しばらく座っていた。
窓の外で、蝉が鳴きはじめていた。
七月の、いちばん最初の一匹だった。