大学職員の僕たち   作:房吉

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~10敗目~ 八百人と、一人

 (八月九日/馬剃視点)

 

 八月九日、午前四時五十分。

 

 私は目を開けた。

 

 目覚ましは五時に設定してある。

 鳴る前に起きるのは、この一週間で四回目だった。

 

 枕元のスマートフォンを見る。

 通知が二件。どちらも天気アプリだった。

 

 『午後、雷雨の可能性があります』

 

 私は、それを二回読んだ。

 

 オープンキャンパス当日である。

 

 部屋は、片付いていない。

 いつもどおりである。

 

 ただ、この一週間で、床の見えている面積は少し増えた。

 増えた理由は、単に、家に帰る時間が減ったからだ。散らかす時間もなくなった。

 

 私はスーツを着て、髪をまとめて、鏡の前に立った。

 

 三回、口角を確認した。

 

 一回目は、上がらなかった。

 二回目も、上がらなかった。

 

 三回目で、なんとか上がった。

 上がったが、鏡の中の顔は、笑っているというより、歯を見せているだけだった。

 

 ……人前に出る顔ではない。

 

 私は、もう一度やった。四回目である。

 

 四回目は、数えないことにした。

 

 この一週間、私は毎晩、進行台本を読み上げていた。

 

 部屋の中で、床の見えている場所に立って、声を出した。

 

 隣に人が住んでいるので、大きな声は出せない。

 出せないので、口の形だけで読んだ日もあった。

 

 十二枚の台本は、もう覚えている。

 覚えているが、それでは足りないことも、私は知っている。

 

 覚えていたのに、六月三日に、私は止まったからだ。

 

「……大丈夫」

 

 声に出してみた。

 

 声は、出た。

 

 

 

 

 午前六時三十分、大学着。

 

 正門を入った瞬間、私は足を止めた。

 

 人が、いる。

 

 六時半である。

 開場は九時である。

 

 なのに、正門から本部棟までの道に、青いTシャツを着た学生が、ざっと五十人はいた。

 

 案内板を立てている。

 のぼりを差している。矢印のシールを地面に貼っている。

 

「おはようございまーす!」

 

 通りかかった学生が、私に向かって頭を下げた。

 

 名前も知らない学生である。

 向こうも、私が誰か知らないはずだ。

 

「……おはようございます」

 

 私は、反射で頭を下げ返した。

 

 下げてから、腰の角度が三十度になっていたことに気づいた。

 

 ……朝の六時半に、学生に三十度である。

 

 私は、そっと背筋を戻した。

 

 

 

 

 本部棟の一階に、本部が設置されていた。

 

 長机が十。無線機が四十台。名簿。地図。プログラム。

 ホワイトボードに、今日のタイムテーブルが手書きで貼ってある。

 

 その前に、温水主任が立っていた。

 

 青いTシャツを着ていた。

 

「馬剃さん、おはようございます」

 

「……おはようございます」

 

「早いですね」

 

「六時半です」

 

「俺、五時半です」

 

「何時に寝られたんですか」

 

「覚えてないです」

 

「寝てください」

 

「馬剃さんもです」

 

「私は寝ました。四時間」

 

「それ、寝たって言わないんだよなあ」

 

「四時間は、睡眠ですっ」

 

「根拠は」

 

「厚生労働省の指針では、成人に推奨される睡眠は六時間以上です」

 

「足りてないじゃないですか」

 

「…………」

 

「馬剃さん」

 

「……根拠を出す相手を、間違えました」

 

「間違えましたね」

 

 その横に、柏木部長がいた。

 

 同じ青いTシャツを着ていた。

 サイズが合っていない。腹のあたりが張っている。

 

「あ、馬剃さんおはよう!」

 

「おはようございます。部長も、お早いんですね」

 

「俺、今日は駐車場だから」

 

 ……駐車場。

 

 私は、聞き間違いかと思った。

 

「温水君、俺なにやればいい?」

 

 柏木部長が、温水主任に聞いた。

 

「部長、第二駐車場です。八時からバスが入るんで、一台目が来る前に、コーンの位置を最終確認してください」

 

「了解」

 

「あと、九時十分に一回本部に戻ってきてください。開会挨拶の直前確認します」

 

「はい」

 

「部長、挨拶の原稿は」

 

「持ってる持ってる。ポケットに」

 

「ポケットに入れると、汗で滲みます」

 

「去年、滲んだんだよなあ」

 

「なので今年は、クリアファイルに入れてください」

 

「用意いいな!」

 

「五年目なんで」

 

「温水君、俺、去年より誘導うまくなってるからな」

 

「知ってます。去年、バス会社さんに褒められてました」

 

「だろ!」

 

 柏木部長が、無線機を腰につけて、走っていった。

 

 私は、その背中を見ていた。

 

 昨日、この人は、私に「馬剃さん、無理しないでね」と言った。

 私の上司の、そのまた上司である。この大学の入試広報の最終責任者である。

 

 その人が、いま、部下である主任に持ち場を指定されて、返事をして、走っていった。

 

「馬剃さん」

 

「……はい」

 

「顔、すごいことになってます」

 

「……失礼しました」

 

 私は、そのTシャツを見た。

 

 胸に、今年のデザインが入っている。

 白抜きで、大学のロゴと、開催日と、その下に小さく何か書いてある。

 

「温水主任」

 

「はい」

 

「そのTシャツの下の文字は」

 

「『今日、ここに来た全員を、絶対に迷子にさせない』です」

 

「……長いですね」

 

「学生スタッフのリーダーが決めました。俺、止めたんですけど」

 

「なぜ止められたのですか」

 

「長いんで」

 

 私は、少し笑った。

 

 笑ったのは、この日、たぶん最初で最後だった。

 

 本部のホワイトボードには、今日の時刻が全部書き出してある。

 

 六時三十分、スタッフ集合。

 八時、全体ミーティング。

 九時、開場。

 十時三十分、全体説明会・第一回。

 十二時、昼休憩(交代制)。

 十五時、全体説明会・第二回。

 十六時、終了。

 十六時十分、撤収開始。

 

 右端に、赤いマーカーで一行だけ足してあった。

 

 『雨天時→屋外誘導は一階ロビーに集約』

 

 字が、雑だった。

 この人の字である。

 

 書かれたのは、たぶん、今朝の五時半から六時のあいだだ。

 

「あ、馬剃さんおはようございます!」

 

 本部の奥から、大貫君が出てきた。

 

 彼も青いTシャツを着ていた。

 着ているというより、Tシャツに着られていた。サイズが一つ大きい。

 

「大貫君、そのTシャツ」

 

「Lしか残ってなかったんですよ」

 

「Mは」

 

「学生スタッフに全部持っていかれました」

 

「なぜですか」

 

「かわいいからです」

 

 彼は、当然のように言った。

 

「サイズの希望は、事前に取られなかったのですか」

 

「取りました」

 

「では、なぜ」

 

「希望どおりに発注しても、学生が自分のサイズじゃないほうを選ぶんですよ」

 

「なぜですか」

 

「大きいほうがかわいいらしいです」

 

「……理解が及びません」

 

「俺も及んでないです」

 

「馬剃さんのぶんもありますよ。Sで取っときました」

 

「……私も、着るのですか」

 

「着ますよ。全員着ます」

 

「私、司会ですが」

 

「司会も着ます。去年、温水さんも着てました」

 

「壇上で、ですか」

 

「壇上でです」

 

「サイズの交換は」

 

「できません。Sは、それが最後の一枚です」

 

「……責任重大ですね」

 

「Tシャツにですか」

 

「大貫君は、本日の担当は」

 

「本部付きです。あと、二号館の中継トラブル対応です」

 

「トラブルは、起きるのですか」

 

「毎年一回は起きます」

 

「……起きるのですか」

 

「起きます。今年はもう、起きる気しかしてないです」

 

 私は、温水主任のほうを見た。

 

 彼は、無線機の電池を入れ替えながら、目を合わせずに言った。

 

「一年目の学生スタッフに『なんで職員だけ違う服なんですか』って言われたんですよ」

 

「……それで」

 

「それで」

 

 私は、Sサイズを受け取った。

 

 袋が、思ったより軽かった。

 

 軽いのに、両手で持っていた。

 

 更衣室で着替えて、鏡を見た。

 

 鏡の中に、大学のロゴ入りTシャツを着た自分がいた。

 

 ……悪くない、と思った。

 思ったことは、誰にも言わなかった。

 

 言わなかったのに、本部に戻った瞬間、大貫君が言った。

 

「あ、似合いますね」

 

「……そうですか」

 

「めっちゃ似合います」

 

「そう、ですか」

 

「馬剃さん、いま二回言いましたよ」

 

「言っておりませんっ」

 

「言いました。しかも二回目、声のトーンが下がってました」

 

「下がっておりませんっ」

 

「温水さん、いま馬剃さん、めっちゃ嬉しそうでしたよね」

 

「見てないです」

 

「見てましたって」

 

「見てないです」

 

 ――助かった。

 

 助かったが、この人はいま、確実に見ていた。

 

 

 

 

 午前八時、全体ミーティング。

 

 三百人の学生スタッフが、大講堂に集まった。

 

 八百席の大講堂が、三分の一以上、青で埋まった。

 

 壇上に立ったのは、温水主任だった。

 

「おはようございます。実行委員長の温水です」

 

 ――実行委員長。

 

 名目上の実行委員長は、広報委員長の宮里副学長である。

 要項にもそう書いてある。

 

 だが、この場でその名前を出す人は、一人もいない。

 

 教員も、事務局も、学生も、全員、この人を見ている。

 

 マイクを持った温水主任が、続けた。

 

「今日、来る人が三千人です。うち、初めてこの大学に来る人が、たぶん二千五百人以上です」

 

 三百人が、静かになった。

 

「その人たちにとって、今日、最初に喋る大学の人間は、たぶん皆さんです。俺じゃないです」

 

 私は、後ろの壁際に立って、それを見ていた。

 

「で、お願いが一個あります」

 

 温水主任が、指を一本立てた。

 

「今日、絶対に『分かりません』って言わないでください」

 

 学生が、少しざわついた。

 

「言い方の話です。分からないことは、絶対にあります。三百人いて、全部答えられるわけないんで」

 

「そういうときは、『調べてきます』って言って、本部に来てください。俺がいます」

 

「『分かりません』は、その場で終わります。『調べてきます』は、続きます」

 

 後ろのほうで、学生が一人「俺、去年五回調べに行きましたー」と言って、笑いが起きた。

 

「今年は三回に抑えてください」

 

「えー、減るんですか」

 

「減らしてください」

 

「じゃあ四回で」

 

「交渉しないでください」

 

 また笑いが起きた。

 

 三百人が、うなずいた。

 

 ――ああ。

 

 私は、そのとき、胸のあたりが、じん、と熱くなった。

 

 この人は、五年間、これを言ってきたのだ。

 

 三百人の学生に、毎年。

 

 

 

 

 九時、開場。

 

『本部、東門です。開場前から、もう五十人並んでます』

 

「了解。九時ちょうどで開けてください。列は二列で」

 

 開場から一時間で、私は本部に三回呼ばれた。

 

 三回とも、温水主任のそばにいるためである。

 

 本部の長机の中央に、彼が座っていた。

 

 座って、無線機を三台、机に並べていた。

 一台が学生スタッフ用、一台が事務局用、一台が施設課と守衛室用である。

 

 その前に、人が来る。

 

「温水さん、ちょっといい?」

 

 最初に来たのは、権田先生だった。

 

 白衣ではなく、開襟シャツを着ている。五十八歳の物理学科教授である。

 

「先生、おはようございます」

 

「模擬授業さ、三号館の二〇一じゃなくて、実験室のほうでやりたいんだけど」

 

「駄目です」

 

 即答だった。

 

 私は、思わず二人を見比べた。

 

「なんでだよ」

 

「実験室、定員三十六です。今日、申込みが六十二入ってます」

 

「立ち見でいいだろ」

 

「消防法です」

 

「うっ」

 

「先生、去年も同じやり取りをしましたよね」

 

「したっけ」

 

「しました。七月九日です」

 

「日付までかよ」

 

「あと、実験室に入れると、動線が理学部の見学ルートと交差します。九時四十分から十時十分のあいだ、あそこ、二百人通ります」

 

 権田先生は、二秒くらい黙った。

 

「……分かった」

 

「すいません」

 

「いや、いい。聞いた俺が悪い」

 

「先生、二〇一の後ろに実験器具だけ運びます。見せるだけならできます」

 

「お、いいの?」

 

「十分で運びます。学生に運ばせるんで」

 

「悪いな」

 

「いえ」

 

「あと温水さん、液体窒素は」

 

「駄目です」

 

「即答かよ」

 

「即答です」

 

「なんで駄目なんだ」

 

「去年、先生がバナナで釘を打とうとしたからです」

 

「あれは実演だ」

 

「高校生が真似します」

 

「真似できんだろ、あんなもん」

 

「先生、去年それをおっしゃって、そのあと問い合わせが十七件来ました」

 

「うっ」

 

「本日二回目のうっ、です」

 

「数えとるのか」

 

 権田先生は、機嫌よく出ていった。

 

 私は、そこで、ようやく息をした。

 

 ――断った。

 

 教授の要望を、即答で断った。

 

 断って、そのあと三秒で代案を出して、相手を機嫌よく帰した。

 

 文科省では、こうはならない。

 

 あそこでは、断るときには必ず段取りが要る。上に上げて、根回しをして、書面にして、そのうえで断る。

 断ったあと、三か月くらい空気が悪くなる。

 

 ここでは、二秒で終わった。

 

「温水主任」

 

「はい」

 

「いまの、断って大丈夫なんですか」

 

「大丈夫です」

 

「権田先生は、その、気難しいと伺っていますが」

 

「気難しいですよ」

 

 彼は、無線に一言返してから、こちらを向いた。

 

「でも、あの人、今日は俺に聞きに来たでしょ」

 

「はい」

 

「聞きに来た時点で、断られる可能性があると思ってるんです。だから、断っても怒らない」

 

「……」

 

「怒るのは、聞かずにやった人が止められたときです」

 

 

 

 

 そのあと一時間で、同じことが十一回あった。

 

 文学部の先生が、配布資料を追加したいと言ってきた。

 

「二百部です。置けますか」

 

「置けます。十時までに二〇三へお願いします」

 

「温水さん、模擬授業の開始、十分ずらせない?」

 

「駄目です」

 

「じゃあ五分」

 

「駄目です」

 

「三分」

 

「先生、それ交渉じゃなくて値切りです」

 

 工学部の先生が、笑いながら帰っていった。

 

「温水さん、東門の案内、二人増やしていいですか」

 

「いいです。二年目の子を混ぜてください」

 

「分かりましたー」

 

 学生スタッフのリーダーが、走っていった。

 

 業者が、機材の搬入口を変えたいと言ってきた。

 

「東口に変えられません?」

 

「駄目です。そこ、救急車の動線なんで」

 

「じゃあ、台車二台で回します」

 

「それでお願いします」

 

 全部、即答だった。

 

 そして、そのあいだに、無線が鳴り続けていた。

 

『本部、鷲尾です。学食体験、行列が階段まで伸びてます』

 

「了解。学生二人回します。整理券に切り替えてください」

 

『了解』

 

 ――鷲尾課長が、「了解」と言った。

 

 私は、無線機を見ていた。

 

 あの人が、この人に、「了解」と言った。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「そろそろ、大講堂に入ってください」

 

「……はい」

 

「十時十五分に袖にいてもらえれば大丈夫です」

 

「はい」

 

「あと」

 

 彼は、無線機を持ったまま、こちらを見た。

 

「今日、俺、袖には行けないです」

 

「……はい」

 

「本部を離れられないんで」

 

「存じております」

 

 

 

 

 午前十時三十分。

 

 全体説明会、第一回。

 

 大講堂の袖に立ったとき、私は、自分の心臓の音が聞こえた。

 

 どくどく、と鳴っていた。

 

 カーテンの隙間から、客席が見える。

 

 埋まっていた。

 

 八百席のうち、七百は埋まっている。

 後ろのほうに立ち見が出ている。

 

 ――八百人。

 

 私は、役所で、もっと大きな会議に出たことがある。

 

 三百人の会場で説明したこともあるし、記者会見の後ろに立っていたこともある。

 

 でも、あれは違う。

 

 あそこにいたのは、全員、仕事で来ている大人だった。

 説明が下手でも、資料を読めば分かる人たちだった。

 

 ここにいるのは、高校生である。

 

 資料を読まない。

 興味がなければ、スマートフォンを見る。

 

 そして、この八百人のうちの何人かは、今日の四十分で、進路を変える。

 

 ――重い。

 

 私は、手元の進行台本を握っていた。

 

 握って、それから、開いた。

 

 一枚目に、私の字ではない字で、一行だけ書き足してある。

 

 

 

 

 『時計だけ見てればいいです』

 

 

 

 

 昨日の夕方、私が席を外しているあいだに書かれたものだった。

 

 ――時計だけ見てればいいです。

 

 司会の仕事の九割は、時刻の管理である。

 

 それは、七月一日に、私が言ったことだった。

 

 この人は、それを覚えていて、そのまま返してきた。

 私の言葉で、私を落ち着かせようとしている。

 

 ……ずるい、と思った。

 

 思ったら、少しだけ、指の震えが止まった。

 

 私は、それを二回読んだ。

 

 読んで、台本を閉じた。

 

「馬剃さん」

 

 舞台袖の照明が、私の横で少し揺れた。

 

 温水主任が立っていた。

 

 ――来た。

 

 本部を離れられないと言った人が、来ていた。

 

「二分前です」

 

「はい」

 

「いけます?」

 

「いけます」

 

「はい」

 

 彼は、それだけ言って、下がった。

 

 ――行ってしまう。

 

 私は、思わず振り返った。

 

「あの、温水主任」

 

「はい」

 

「どちらへ」

 

「客席の後ろです」

 

「……舞台袖ではないのですか」

 

 温水主任は、少し考えるような顔をした。

 

「袖にいると、馬剃さんが俺のほう見るんで」

 

 

 

 

「見ません」

 

「見ますよ」

 

「見ません」

 

「じゃあ、後ろにいます」

 

「本部は、よろしいのですか」

 

「十分だけ抜けました」

 

「……十分」

 

「無線は持ってます」

 

 彼は、そのまま出ていった。

 

 ――十分。

 

 三千人が動いている二日間の、指揮官の十分である。

 

 その十分を、この人は、私が壇上に立つために使った。

 

 私は、そのことを、たぶん、あとで考える。

 

 いまは、考えている場合ではない。

 

 

 

 

 結論から言うと、第一回は、無事に終わった。

 

 三十八分。台本どおり。

 

 登壇者は三人。学長挨拶が四分、入試部長の説明が十二分、学生代表のスピーチが八分。

 私が喋ったのは、合計で六分ほどである。

 

 定型文だけだった。

 

 空きは、一度も出なかった。

 全員が、予定どおりの時間で終わった。

 

 拍手のなかで幕が下りたとき、私は、膝から力が抜けそうになった。

 

「馬剃さーん!」

 

 舞台袖に、学生スタッフが二人立っていた。

 

 二人とも、青いTシャツである。

 

「めっちゃよかったです!」

 

「……ありがとうございます」

 

「声、聞きやすかったです。去年の温水さん、早口だったんで」

 

「そうなのですか」

 

「早いです。あの人、三分の説明を二分半でやります」

 

「……なるほど」

 

「馬剃さん、ちゃんと待ってくれるんで。分かりやすかったです」

 

「…………」

 

「あれ、馬剃さん?」

 

「……いえ」

 

「えっ、泣いてます?」

 

「泣いておりませんっ」

 

「す、すいません」

 

「謝らないでくださいっ。目に、埃が」

 

「この講堂、朝に清掃入ってますよ」

 

「……清掃の、粉塵ですっ」

 

「あと、来年もやるんですか? 司会」

 

「……未定です」

 

「やってほしいです! 温水さんより聞きやすいんで」

 

「それは、ご本人には言わないでおいてください」

 

 私は、その言葉を、二回、頭の中で再生した。

 

 待つ。

 

 私は、待てない人間だと思っていた。

 沈黙が怖くて、〇・八秒で埋めたくなる人間だと。

 

 でも、壇上では、待っていたらしい。

 

 ……なぜだろう。

 

 答えは、すぐに出た。

 

 台本に、書いてあったからである。

 

 『登壇者が着席するまで、次の案内に入らない』

 

 三年前に、誰かが書いた一行だった。

 

 ――終わった。

 

 舞台袖で、私は一度だけ、壁に手をついた。

 

 ついてから、すぐに離した。

 

 誰も見ていない。

 見ていないはずだが、この建物には、たぶん一人だけ、見る人がいる。

 

 

 

 

 昼休憩は、十二時から四十分だった。

 

 本部で弁当を受け取るとき、担当の学生から「余りが十二個出てます」と報告が入った。

 

「学生スタッフに回してください」

 

 温水主任が、即答した。

 

「三百人に、十二個ですが」

 

「じゃんけんが始まるんで、大丈夫です」

 

「……始まるのですか」

 

「毎年始まります」

 

 本部の外で、本当にじゃんけんの声が上がりはじめた。

 

「温水主任」

 

「はい」

 

「三百人で十二個を分ける場合、勝率は四パーセントです」

 

「そうですね」

 

「なぜ、あれほど盛り上がれるのですか」

 

「四パーセントだからですよ」

 

「……」

 

「百パーセント当たるじゃんけんは、誰もやらないんで」

 

 私は、その言葉を、弁当の蓋を開けながら二回反芻した。

 

 私は弁当を持って、中庭のベンチに座った。

 

 八月の日差しが、白かった。

 テントの下で、学生スタッフが交代で休んでいる。

 

「――えっ、ぬっくん!?」

 

 声が、飛んできた。

 

 中庭の反対側だった。

 

 温水主任が、無線機を持って立っていた。

 その前に、日焼けした女性が一人。

 

 背が高い。

 ジャージの上下で、キャップをかぶっていた。首にストップウォッチをかけている。

 

 その後ろに、高校生が三人。全員、陸上部らしい体つきをしていた。

 

 ――焼塩さん。

 

 私は、弁当の蓋を閉じた。

 

「え、なんで。なんでここにいるの」

 

「働いてるんだよ」

 

「ここで!?」

 

「ここで」

 

「うわ、うわうわうわ」

 

 焼塩さんは、その場で三回くらい跳ねた。

 

「あー、でもちょっと老けたね」

 

「そう?」

 

「うん。目のとこ」

 

「余計なお世話だ」

 

 私は、ベンチから立ち上がった。

 

 立ち上がってから、少し迷った。

 

 行くべきか。

 行かないべきか。

 

 あの人は、私のことを覚えているだろうか。

 

 覚えている。

 たぶん、覚えている。

 

 あの人が私を呼ぶときは、いつも「馬ちゃん」だった。

 

 初めてそう呼ばれたとき、私は「馬……? えっ、それ私ですか?」と聞き返した。

 聞き返したのに、その日から一度も変わらなかった。

 

 結局、あの人には、二年間、一度も名前で呼ばれなかった。

 

「あー!」

 

 目が、合った。

 

「馬ちゃん!」

 

 やはり、そうだった。

 

 十六年、一文字も変わっていない。

 

「……その呼び方も、変わらないんですね」

 

「え、なんかまずい?」

 

「まずくはありませんが、私は馬ではありません」

 

「知ってるよ」

 

「ご存じでしたか」

 

「うん。でも馬ちゃんだよ」

 

 理屈が通っていない。

 

 通っていないのに、この人が言うと、なぜか成立してしまう。

 

「ご無沙汰しております」

 

「うわ、変わってない! 喋り方が全然変わってない!」

 

「……恐れ入ります」

 

「褒めてないよ!」

 

「焼塩さんは、本日はどちらから」

 

「学校から。駅からは走った」

 

「……走った」

 

「バスより四分速いんだよね、ここ」

 

 後ろの高校生が、小声で「先生、バスと勝負してました」と言った。

 

「勝負じゃない。計測」

 

 首のストップウォッチを見せられた。

 計測なら仕方がない。……いや、仕方なくはない。

 

 焼塩さんは、私の両手を握った。

 

 握って、上下に振った。

 

 ぶんぶん、と振られた。

 

 私の腕は、肩から先が、他人のもののように揺れていた。

 

 私は、それに、うまく対応できなかった。

 

「え、なに、二人とも同じとこで働いてんの」

 

「はい」

 

「同じ課で」

 

「はい」

 

「てか、何年ぶり?」

 

「十六年と四か月です」

 

「細かっ!」

 

「なんで?」

 

「……偶然です」

 

「うそだー」

 

「本当です」

 

「ぬっくん、ほんと?」

 

「本当」

 

「ふうん」

 

 焼塩さんは、腕を組んだ。

 

「あたし、偶然って言葉、あんまり信じないんだよね」

 

「なぜですか」

 

「陸上やってると、偶然で速くなる人いないから」

 

 私は、その言い方に、少し虚を突かれた。

 

「あー、でも、偶然もあるか。怪我とかは偶然だし」

 

 焼塩さんは、あっさり前言を撤回した。

 

「じゃ、偶然でいいや」

 

「……よろしいのですか」

 

「いいよ。二人が困ってないなら」

 

 困ってはいない。

 

 困ってはいないが、簡単でもない。

 

 私は、そう思った。

 思ったが、口には出さなかった。

 

「馬ちゃん、いまの仕事、楽しい?」

 

「……はい」

 

「〇・五秒あった」

 

「即答でした」

 

「あたし、コンマは測れるんだよね」

 

 ストップウォッチの人に言われると、反論のしようがない。

 

 焼塩さんは、私と温水主任を交互に見て、それから、にやりと笑った。

 

「ふうん」

 

「なんだよ」

 

「べつにー」

 

「焼塩さん」

 

「なに」

 

「いまの『ふうん』は、なんですか」

 

「べつにー」

 

「二回目です」

 

「馬ちゃん、顔赤いよ」

 

「暑いからですっ」

 

「屋内だよ、ここ」

 

「空調による、個人差ですっ」

 

「なにそれ」

 

 私は、両手で顔を扇いだ。

 ぱたぱた、と扇いで、まったく涼しくならないことを、五回目で確認した。

 

 

 

 

 私は、パンプスの先で、床に小さく円を描いていた。

 

 途中で内側に折れる、あの描き方である。

 

 ――「の」の字だ。

 

 中学のとき、担任に「馬剃さん、足」と言われて、はじめて自覚した癖である。

 自覚してから十八年、一度も直っていない。

 

 私は、足を止めた。

 

 止めたところで、焼塩さんはとっくに見ていた。

 

「馬ちゃん、それ高校のときもやってたよ」

 

「やっていませんっ」

 

「生徒会室の前で、めっちゃやってた」

 

「…………」

 

「誰かと喋ったあとに」

 

「――やっていませんっ!」

 

 声が、中庭に響いた。

 

 テントの下の学生スタッフが、三人こちらを見た。

 

 私は、姿勢を正した。

 

「……失礼しました」

 

「いま、めっちゃ大きい声出たね」

 

「出ておりませんっ」

 

「出たよ。あたし、耳もいいんだよね」

 

「耳と足だけで生きていらっしゃるのですか」

 

「うん」

 

「……肯定されました」

 

 横で、温水主任が、無線機を口元に当てたまま、口の端を〇・三秒だけ上げた。

 

「温水主任」

 

「はい」

 

「いま、笑われましたね」

 

「笑ってないです」

 

「〇・三秒、上がりました」

 

「馬剃さん、その計測、俺が教えたやつじゃないですよね」

 

「その話は、結構ですっ」

 

 背後で、高校生の一人が「先生、時間」と言った。

 

「あ、やば。ごめん、あたし引率なの」

 

「引率?」

 

「うち、高校のコーチやってて。今日、この子たちにトラック見せに来た」

 

 焼塩さんは、キャップのつばを直した。

 

「ここ、全天候の四百あるでしょ。この辺だと、見学できるとこ少なくて」

 

「あるな」

 

「三年生。二人、うち受けたいって」

 

 私は、その言葉に、はっとした。

 

「あ、そうだ。馬ちゃん、こまちゃんのこと知ってる?」

 

 焼塩さんが、唐突に言った。

 

「小鞠さんですか」

 

「そうそう。本出してるの」

 

「存じております」

 

「えっ、知ってんの!」

 

「四年前に、志喜屋先輩から伺いました」

 

「あー、シキちゃんね。あの人、なんでも知ってるんだよ」

 

 焼塩さんが、笑った。

 

 それから、温水主任のほうを向いた。

 

「ぬっくんは?」

 

 少し、間があった。

 

「……最近、知った」

 

「えー!」

 

 焼塩さんの声が、中庭に響いた。

 

「なんで!? ぬっくん、めっちゃ本読むじゃん!」

 

「読んでたよ。五冊」

 

「読んでたのに知らなかったの!?」

 

「知らなかった」

 

「うわー」

 

 焼塩さんは、両手で顔を覆った。

 

 覆って、指の隙間から言った。

 

「ぬっくん、そういうとこだよ」

 

 私は、その言葉を聞いて、少しだけ、息を止めた。

 

 八奈見さんの口癖である。

 

 この人も、使うのか。

 

 あるいは、あの三年間、あの部屋にいた全員が、この人に対して同じことを思っていたのかもしれない。

 

「あの、焼塩さん」

 

「はい?」

 

「スポーツ系の入試についてでしたら、資料をお持ちします」

 

「え、いいの?」

 

「私の担当です」

 

 焼塩さんが、少し目を丸くした。

 

 それから、笑った。

 

「馬ちゃん、かっこいいじゃん」

 

 私は、返事に困った。

 

「ね、馬ちゃん、走らない?」

 

「走りません」

 

「速そうなのに」

 

「速くありません」

 

「測ってみないと分かんないよ」

 

「測りません」

 

「五十メートルだけ」

 

「パンプスですっ」

 

「脱げばいいじゃん」

 

「大学の中庭で、職員が裸足で走るのですか」

 

「あたしは走るよ」

 

「あなたは走るでしょうねっ」

 

 困っている私の横で、温水主任が言った。

 

「馬剃さん、いま昼休憩ですよ」

 

「業務です」

 

「休憩です」

 

「業務です」

 

「……はい」

 

「勝ちました」

 

「何にですか」

 

「なんでもありません」

 

 焼塩さんが、大声で笑った。

 

 笑って、「じゃ、またね!」と手を振って、生徒たちのほうへ走っていった。

 

 歩けば二十秒の距離である。

 ……あの人は、たぶん一生あれである。

 

 

 

 

 午後になって、空が変わった。

 

 十三時四十分ごろから、雲が出た。

 

 十四時、遠くで音がした。

 

 本部の無線が、少し忙しくなった。

 

『施設課より本部、屋外の誘導は屋内に切り替えてください』

『了解』

『陸上競技場、見学中止。学生スタッフは全員回収』

 

 私は、午後の全体説明会の準備をしていた。

 

 第二回は十五時からである。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「たぶん降ります」

 

「はい」

 

「馬剃さん、傘は」

 

「折りたたみを、二本持ってきました」

 

「二本」

 

「一本は、予備です」

 

「……誰の」

 

「予備は、予備です」

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「その予備、けっこう大きくないですか」

 

「規格品です」

 

「柄、紺ですよね」

 

「……色に、意味はありませんっ」

 

「なにも言ってないですけど」

 

「言おうとされました」

 

「言おうとしてないです」

 

「その顔は、言おうとしている顔ですっ」

 

「どの顔ですか」

 

「…………」

 

「降っても、説明会はやります。中止しません」

 

「はい」

 

「あと、傘の忘れ物が三百本出ます」

 

「……三百」

 

「去年の実績です。全部、遺失物として三か月保管します」

 

「規程どおりですね」

 

「規程どおりです」

 

「あと、一個だけ」

 

 温水主任は、ホワイトボードの前で言った。

 

「うちの三号館、去年、雷で一回落ちてます」

 

「……落ちる、と申しますと」

 

「電気です」

 

「停電、ですか」

 

「三分くらい」

 

「復旧が三分という根拠は」

 

「去年の実測です」

 

「一昨年は」

 

「落ちてないです」

 

「……標本数が、一ですね」

 

「一です。でも、会場では言い切っていいです」

 

「なぜですか」

 

「数字は、言い切ると効くんで」

 

 私は、その言葉を、うまく処理できなかった。

 

「非常灯は点きます。あと、非常用のマイクは別系統なんで、たぶん生きます」

 

「たぶん」

 

「たぶんです」

 

「確実ではないのですね」

 

「確実ではないです」

 

 温水主任は、無線機を腰に付け直した。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「去年、落ちたときの担当、俺です」

 

「……はい」

 

「三分、何喋ったと思います?」

 

「存じません」

 

「俺も覚えてないです」

 

 私は、思わず彼を見た。

 

「覚えていないのですか」

 

「覚えてないです。ただ、終わったあと、学生スタッフに『温水さん、めっちゃ普通でしたね』って言われました」

 

「普通」

 

「普通です。それでいいんですよ」

 

 彼は、無線機のスイッチを確認した。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「もし落ちたら、そのまま喋ってください」

 

「マイクが死んでても、そのまま喋ってください」

 

 私は、彼を見た。

 

「……八百人に、地声でですか」

 

「はい」

 

「届きません」

 

「届きます」

 

「あの講堂、天井が高いんで。地声のほうが、意外と通ります」

 

 彼は、そう言って、出ていった。

 

 

 

 

 十五時二分。

 

 第二回が始まった。

 

 窓の外は、もう暗かった。

 雨の音が、天井から聞こえていた。

 

 客席は、第一回より多かった。

 立ち見が、後ろに二列できていた。

 

 学長挨拶。四分。

 入試部長の説明。十二分。

 

 順調だった。

 

 十五時二十四分。

 

 学生代表のスピーチが始まって、二分ほど経ったとき。

 

 

 

 

 ――どん。

 

 

 

 

 建物が、揺れた。

 

 同時に、消えた。

 

 照明が、全部。

 

 

 

 

 悲鳴が、上がった。

 

 八百人の悲鳴というのは、思ったより低い音がする。

 

 「きゃっ」ではない。

 「うわ」でもない。

 

 地面のほうから、ざあ、と押し寄せてくる音だった。

 

 非常灯が点いた。

 

 緑色の光が、通路の足元に、点々と。

 

 舞台の上は、ほとんど真っ暗だった。

 

 壇上の学生代表が、立ち尽くしている。

 マイクを持ったまま、動けなくなっている。

 

 三年生の男子学生である。

 朝のミーティングで、一番前に座っていた子だった。

 

 私は、袖から小声で呼んだ。

 

「――こちらへ」

 

 彼が、こちらを向いた。

 

「大丈夫です。ゆっくり、こちらへ」

 

「あ、はい」

 

 彼が、袖に下がってきた。

 

 下がってきて、私の横で、小さく言った。

 

「すみません、俺、頭真っ白で」

 

「よくあることです」

 

「馬剃さん、平気なんですか」

 

 私は、その質問に、答えられなかった。

 

 ――マイク。

 

 私は、袖から一歩出た。

 

 自分のマイクのスイッチを入れた。

 

 入らなかった。

 

 死んでいる。

 

 ――どうしよう。

 

 私は、手に持った進行台本を見た。

 

 見えなかった。

 

 暗すぎて、文字が一つも見えなかった。

 

 ざわめきが、大きくなっていく。

 

 誰かが立ち上がった。

 どこかで、スマートフォンのライトが点いた。

 

 その光が、また一つ、二つと増えていく。

 

 ――十六年前。

 

 あの日、私は原稿を捨てた。

 

 志喜屋先輩が舞台を乗っ取って、段取りが全部飛んで、体育館がぐちゃぐちゃになった。

 

 そのあと、私は舞台袖で、こう言ったらしい。

 

 ――じゃあ私も、やりたいようにするしかないですね。

 

 覚えていない。

 一文字も、覚えていない。

 

 覚えていないのに、この人は、六月に、こう言った。

 

 ――あそこからが、一番よかったです。

 

 あれは、事故ではなかった。

 

 私が、決めたことだった。

 

 私は、台本を、床に置いた。

 

 舞台の中央まで、歩いた。

 

 息を、吸った。

 

 

 

 

「――みなさん、落ち着いてください」

 

 

 

 

 声が、出た。

 

 自分の声が、講堂の天井に当たって、返ってきた。

 

 届いている。

 

「入試広報課の馬剃と申します。ただいま、落雷により停電が発生しました」

 

 ざわめきが、少し下がった。

 

「非常灯は点灯しております。座席にお座りのまま、お待ちください」

 

「本学の三号館は、昨年も同様の停電が発生しております。そのときの復旧は、三分でした」

 

 ――三分。

 

 この数字を、私は今日の十四時に聞いた。

 

 聞いておいてよかった、と、心の底から思った。

 

「三分で戻る見込みです。恐れ入りますが、その場でお待ちください」

 

 ざわめきが、止まった。

 

 ――止まった。

 

 私は、そこで、次に何を言えばいいのか分からなくなった。

 

 三分。

 

 あと、二分四十秒くらいある。

 

 ――四分の練習を、私はした。

 

 カラオケボックスで。

 八個、作った。

 

 学食のカレー。

 裏門の猫。

 図書館の地下四階。

 入学式で電車を乗り間違えた学生。

 正門の桜。

 二号館のエレベーター。

 学生スタッフの応募。

 

 私は、口を開いた。

 

 

 

 

「――みなさん、この大学の学食のカレーが、五年前にレシピを変えたことをご存じでしょうか」

 

 

 

 

 誰かが、笑った。

 

 一人が笑って、それから、三人くらいが笑った。

 

 二分四十秒、私は喋った。

 

 喋りながら、私は、客席を見ていた。

 

 非常灯の緑と、スマートフォンのライトの白で、顔がぼんやり見える。

 前から三列目の女子生徒が、隣の子の腕を掴んでいた。掴んだまま、こちらを見ていた。

 

 その子の手が、少しずつ、緩んでいくのが分かった。

 

 ――そうか。

 

 私は、そのとき、初めて理解した。

 

 この四分は、私が喋るための四分ではない。

 

 あの子の手が緩むための四分である。

 

 中身は、なんでもいい。

 カレーでも、猫でもいい。

 

 喋っている人間が焦っていないと分かれば、会場は落ち着く。

 

 七月に、この人はそう言った。

 私は、そのとき、意味が分かっていなかった。

 

 カレーの話をして、学生新聞の見出しの話をして、それから、裏門の猫の話をした。

 

 猫の名前が「ハカセ」であること。

 名付けたのが理学部の学生であること。

 去年、その学生が卒業するときに、ハカセの世話の引き継ぎ書が作られたこと。

 

 引き継ぎ書がA4で三枚あること。

 

「――なお、そのうち一枚は、まるごと『機嫌が悪い日の見分け方』です」

 

 一枚のところで、また笑いが起きた。

 

 ――七月に、私はこの話を、二十分かけて調べた。

 

 あのとき、この人は「猫だぞ」と言った。

 言いながら、結局、二十分付き合った。

 

 いま、私はその二十分で、八百人を笑わせている。

 

 照明が戻ったのは、その直後だった。

 

 ぱっ、と講堂が明るくなった。

 

 拍手が、起きた。

 

 私は、それを、舞台の中央で聞いていた。

 

 

 

 

 ――客席の、いちばん後ろ。

 

 立っている人がいた。

 

 青いTシャツを着ていた。

 

 拍手は、していなかった。

 

 ただ、こちらを見ていた。

 

 私は、目を逸らした。

 

 逸らさないと、たぶん、顔が保てなかった。

 

 逸らした先で、袖から学生代表の彼が戻ってきた。

 

「続き、やらせてください」

 

「どうぞ。……大丈夫ですか」

 

「はい。もう、真っ白じゃないんで」

 

 彼は演台に戻って、スピーチの続きを始めた。

 

 あとで聞いた話だが、あの三分のあいだ、この人は客席の後ろにいた。

 

 いて、何もしなかったらしい。

 

 施設課に連絡したのは、二階の別のスタッフだった。

 中継が落ちた二号館の四百人を落ち着かせたのは、大貫君だった。

 

 実行委員長は、動かなかった。

 

 この人は、後ろの壁のところに立って、ただ舞台を見ていた。

 

「なぜ、何もされなかったのですか」

 

 あとで、私はそう聞いた。

 

「馬剃さんが喋ってたんで」

 

 彼は、そう答えた。

 

「あそこで俺が動くと、客席が『職員が動いた』って思うんですよ。そしたら、みんな不安になります」

 

「二号館は、大貫君が」

 

「あいつ、そういうの得意なんで」

 

「二号館では、何をされていたのですか」

 

「クイズ大会をやってたらしいです」

 

「クイズ」

 

「校歌の歌詞から三問」

 

「……なぜ校歌なんですか」

 

「あいつに聞いてください」

 

「聞きました」

 

「早い」

 

「『校歌なら誰も答えられないので、全員が平等に盛り上がる』とのことです」

 

「あいつ、たまに賢いんですよ」

 

「たまに、ですか」

 

「たまにです」

 

「指示は」

 

「してないです。無線で『任せた』って一言だけ」

 

「返信は、なんと」

 

「『了解っす』でした」

 

「五文字ですね」

 

「数えるの、移りましたね」

 

 ――一言。

 

 三百人の学生と、六十八人の事務局と、十一学部の教員を動かしている人が、あの三分間にした指示は、たった一言だった。

 

「……では、動かないのが仕事だと」

 

「そうです。あのとき、いちばん楽な仕事してました」

 

 嘘だ、と私は思った。

 

 いちばん楽な仕事ではない。

 

 八百人がざわめいている真っ暗な講堂の後ろで、何もせずに立っているのは、たぶん、いちばん難しい。

 

 

 

 

 十六時、終了。

 

「本部より全体へ。本日の運営、終了します。お疲れさまでした」

 

 最後の無線が入って、三百個の「お疲れさまでしたー」が、あちこちから返ってきた。

 

「……全員、返すのですか」

 

「返すんですよ、これが」

 

 撤収は、一時間半かかった。

 

 看板をたたみ、のぼりを抜き、シールを剥がし、無線機を回収する。

 学生スタッフが解散したのが、十七時四十分だった。

 

 最後の一人が「お疲れさまでしたー!」と言って、正門を出ていった。

 

「解散の挨拶は、されないのですか」

 

「しないです。俺が締めると、俺の一日になっちゃうんで」

 

「……どなたの一日なのですか」

 

「学生の、です。最後の一言は、学生リーダーのやつなんで」

 

「本日の来場者数、速報値が出ています。三千百十二人です」

 

「去年より六十三人多いですね」

 

「……なぜ、即答できるんですか」

 

「去年の数字は覚えてるんで」

 

「私も暗記しましたが、引き算に〇・五秒かかりました」

 

「張り合わないでください」

 

「張り合っておりません」

 

「いま〇・五秒って言いましたよね」

 

「事実の報告です」

 

「報告先は」

 

「……特に、ありません」

 

「じゃあ張り合ってるじゃないですか」

 

「…………」

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「大講堂、鍵閉めるんで、一緒に来てもらえます?」

 

「はい」

 

 誰もいない大講堂は、広かった。

 

 八百の座席が、全部、空いていた。

 

 舞台の上に、片付け忘れた進行台本が一部だけ落ちていた。

 私が床に置いたやつだった。

 

 私は、それを拾った。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「今日、めちゃくちゃよかったです」

 

 私は、台本を持ったまま、動けなくなった。

 

「カレーと猫、両方使いましたね」

 

「……はい」

 

「三分持たせるつもりが、二分四十秒で笑い取ってました」

 

「……たまたまです」

 

「たまたまじゃないです」

 

 温水主任は、客席の一番前の椅子に座った。

 

 座って、舞台を見上げた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「十六年前と、同じでしたよ」

 

 

 

 

 ――ああ。

 

 

 

 

 私は、その言葉を、たぶん、今日ずっと待っていた。

 

「あの」

 

「はい」

 

「十六年前の私は、何を喋っていたのでしょうか」

 

 温水主任が、少し驚いた顔をした。

 

「覚えてないんですか」

 

「一言も」

 

「……えっと」

 

 彼は、少し天井を見た。

 

「たしか、ヒーローの話でした」

 

「ヒーロー」

 

「はい。『私はヒーローにはなれない。だけど、ヒーローを支えることはできる』って」

 

 私は、舞台の上で、しばらく黙っていた。

 

「……そんなことを、言いましたか」

 

「言いました」

 

「私が」

 

「馬剃さんが」

 

 覚えていない。

 

 一文字も、覚えていない。

 

 でも、この人は覚えている。

 

 十六年、覚えていた。

 

「あれ、俺、いまでも使ってます」

 

「え」

 

「オープンキャンパスの朝の、学生スタッフのミーティングで」

 

 私は、動けなくなった。

 

 今朝、この人は、三百人に向かってこう言った。

 

 ――今日、来る人にとって、最初に喋る大学の人間は、皆さんです。俺じゃないです。

 

 同じだった。

 

 言い方が違うだけで、中身が、まったく同じだった。

 

 私は、口を押さえた。

 

 押さえないと、たぶん、変な声が出そうだった。

 

 

 

 

 昼の休憩のあと、もう一つ、別のことがあった。

 

 十三時十分。

 

 個別相談のブースで、私は、六月の会場で会った母娘と、もう一度会った。

 

 埼玉の高校の、三年生。

 やりたいことが決まらないと言っていた子。

 

 人前で喋るのが嫌だと言った子。

 

「……あの、六月に、お話しした」

 

「覚えております」

 

 私は、即答した。

 

 実際、覚えていた。

 手帳に、逐語で書いてある。

 

 その子は、少しうつむいて、それから言った。

 

「あのとき、決まってないのが七割って言ってもらって」

 

「はい」

 

「それで、今日、来ました」

 

 私は、その言葉を、うまく受け取れなかった。

 

「ありがとうございます」

 

 私は、そう言った。

 

 言ってから、それでは足りない気がして、もう一度言った。

 

「来てくださって、ありがとうございます」

 

 その子は、二十分ほど、学部の話を聞いた。

 

 帰りぎわに、こう聞いた。

 

「あの」

 

「はい」

 

「馬剃さんは、なんで、いまのお仕事を選んだんですか」

 

 私は、答えた。

 

「大学で学ぶ方の、最初の入り口に立つ仕事だからです」

 

 嘘ではない。

 

 一文字も、嘘ではない。

 

 その子は「ありがとうございました」と言って、母親と帰っていった。

 

 もう一つ、その子は言った。

 

「あと、あの」

 

「はい」

 

「六月に、『やりたくないこと』を聞かれたじゃないですか」

 

「はい」

 

「あれ、家で言われたことなくて」

 

 その子は、母親のほうを一度見た。

 

「やりたいこと、ばっかり聞かれるんで」

 

「……そうですね」

 

「だから、その、聞いてもらえて」

 

 言葉が、そこで止まった。

 

 止まったので、私は待った。

 

 待つのは、得意ではない。

 私は、沈黙が〇・八秒を超えると、埋めたくなる人間である。

 

 それでも、待った。

 

「……嬉しかったです」

 

 私は、その一言を、たぶん一生忘れない。

 

「ありがとうございます」

 

 私は、そう言った。

 

「私も、聞かれたことがなかったので」

 

 言ってから、しまった、と思った。

 

 余計なことを言った。

 

 その子は、少し目を丸くして、それから、小さく笑った。

 

 私は、そのあと、五分ほど、椅子に座っていた。

 

 嘘ではない。

 

 でも、あれは、答えではなかった。

 

 私は、あの子に、本当のことを言わなかった。

 

 私が、なぜここにいるのか。

 なぜ、四十歳になる前に、二十三社受けて、内定一つで、ここに来たのか。

 

 言えるわけがない。

 

 初対面の高校生に、言えるわけがない。

 

 ……では、誰になら言えるのか。

 

 答えは、そのとき、すでに出ていた。

 

 出ていたが、私はそれを、午後のあいだずっと、見ないようにしていた。

 

 見ないようにして、八百人の前に立って、停電して、カレーと猫の話をした。

 

「馬剃さん?」

 

 温水主任の声で、私は我に返った。

 

 誰もいない大講堂だった。

 

 彼は、まだ、一番前の椅子に座っていた。

 

「鍵、閉めますね」

 

「……はい」

 

 私は、舞台の上に立っていた。

 

 台本を、両手で持っていた。

 

 心臓が、どくどく、と鳴りはじめた。

 

 今日、八百人の前に立ったときより、速かった。

 

「温水さん」

 

 私は、そう呼んだ。

 

 彼が、立ち上がりかけて、止まった。

 

「はい」

 

「私が、文部科学省を辞めた本当の理由を」

 

 

 

 

「――聞きますか」

 

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