(八月九日/馬剃視点)
八月九日、午前四時五十分。
私は目を開けた。
目覚ましは五時に設定してある。
鳴る前に起きるのは、この一週間で四回目だった。
枕元のスマートフォンを見る。
通知が二件。どちらも天気アプリだった。
『午後、雷雨の可能性があります』
私は、それを二回読んだ。
オープンキャンパス当日である。
部屋は、片付いていない。
いつもどおりである。
ただ、この一週間で、床の見えている面積は少し増えた。
増えた理由は、単に、家に帰る時間が減ったからだ。散らかす時間もなくなった。
私はスーツを着て、髪をまとめて、鏡の前に立った。
三回、口角を確認した。
一回目は、上がらなかった。
二回目も、上がらなかった。
三回目で、なんとか上がった。
上がったが、鏡の中の顔は、笑っているというより、歯を見せているだけだった。
……人前に出る顔ではない。
私は、もう一度やった。四回目である。
四回目は、数えないことにした。
この一週間、私は毎晩、進行台本を読み上げていた。
部屋の中で、床の見えている場所に立って、声を出した。
隣に人が住んでいるので、大きな声は出せない。
出せないので、口の形だけで読んだ日もあった。
十二枚の台本は、もう覚えている。
覚えているが、それでは足りないことも、私は知っている。
覚えていたのに、六月三日に、私は止まったからだ。
「……大丈夫」
声に出してみた。
声は、出た。
午前六時三十分、大学着。
正門を入った瞬間、私は足を止めた。
人が、いる。
六時半である。
開場は九時である。
なのに、正門から本部棟までの道に、青いTシャツを着た学生が、ざっと五十人はいた。
案内板を立てている。
のぼりを差している。矢印のシールを地面に貼っている。
「おはようございまーす!」
通りかかった学生が、私に向かって頭を下げた。
名前も知らない学生である。
向こうも、私が誰か知らないはずだ。
「……おはようございます」
私は、反射で頭を下げ返した。
下げてから、腰の角度が三十度になっていたことに気づいた。
……朝の六時半に、学生に三十度である。
私は、そっと背筋を戻した。
本部棟の一階に、本部が設置されていた。
長机が十。無線機が四十台。名簿。地図。プログラム。
ホワイトボードに、今日のタイムテーブルが手書きで貼ってある。
その前に、温水主任が立っていた。
青いTシャツを着ていた。
「馬剃さん、おはようございます」
「……おはようございます」
「早いですね」
「六時半です」
「俺、五時半です」
「何時に寝られたんですか」
「覚えてないです」
「寝てください」
「馬剃さんもです」
「私は寝ました。四時間」
「それ、寝たって言わないんだよなあ」
「四時間は、睡眠ですっ」
「根拠は」
「厚生労働省の指針では、成人に推奨される睡眠は六時間以上です」
「足りてないじゃないですか」
「…………」
「馬剃さん」
「……根拠を出す相手を、間違えました」
「間違えましたね」
その横に、柏木部長がいた。
同じ青いTシャツを着ていた。
サイズが合っていない。腹のあたりが張っている。
「あ、馬剃さんおはよう!」
「おはようございます。部長も、お早いんですね」
「俺、今日は駐車場だから」
……駐車場。
私は、聞き間違いかと思った。
「温水君、俺なにやればいい?」
柏木部長が、温水主任に聞いた。
「部長、第二駐車場です。八時からバスが入るんで、一台目が来る前に、コーンの位置を最終確認してください」
「了解」
「あと、九時十分に一回本部に戻ってきてください。開会挨拶の直前確認します」
「はい」
「部長、挨拶の原稿は」
「持ってる持ってる。ポケットに」
「ポケットに入れると、汗で滲みます」
「去年、滲んだんだよなあ」
「なので今年は、クリアファイルに入れてください」
「用意いいな!」
「五年目なんで」
「温水君、俺、去年より誘導うまくなってるからな」
「知ってます。去年、バス会社さんに褒められてました」
「だろ!」
柏木部長が、無線機を腰につけて、走っていった。
私は、その背中を見ていた。
昨日、この人は、私に「馬剃さん、無理しないでね」と言った。
私の上司の、そのまた上司である。この大学の入試広報の最終責任者である。
その人が、いま、部下である主任に持ち場を指定されて、返事をして、走っていった。
「馬剃さん」
「……はい」
「顔、すごいことになってます」
「……失礼しました」
私は、そのTシャツを見た。
胸に、今年のデザインが入っている。
白抜きで、大学のロゴと、開催日と、その下に小さく何か書いてある。
「温水主任」
「はい」
「そのTシャツの下の文字は」
「『今日、ここに来た全員を、絶対に迷子にさせない』です」
「……長いですね」
「学生スタッフのリーダーが決めました。俺、止めたんですけど」
「なぜ止められたのですか」
「長いんで」
私は、少し笑った。
笑ったのは、この日、たぶん最初で最後だった。
本部のホワイトボードには、今日の時刻が全部書き出してある。
六時三十分、スタッフ集合。
八時、全体ミーティング。
九時、開場。
十時三十分、全体説明会・第一回。
十二時、昼休憩(交代制)。
十五時、全体説明会・第二回。
十六時、終了。
十六時十分、撤収開始。
右端に、赤いマーカーで一行だけ足してあった。
『雨天時→屋外誘導は一階ロビーに集約』
字が、雑だった。
この人の字である。
書かれたのは、たぶん、今朝の五時半から六時のあいだだ。
「あ、馬剃さんおはようございます!」
本部の奥から、大貫君が出てきた。
彼も青いTシャツを着ていた。
着ているというより、Tシャツに着られていた。サイズが一つ大きい。
「大貫君、そのTシャツ」
「Lしか残ってなかったんですよ」
「Mは」
「学生スタッフに全部持っていかれました」
「なぜですか」
「かわいいからです」
彼は、当然のように言った。
「サイズの希望は、事前に取られなかったのですか」
「取りました」
「では、なぜ」
「希望どおりに発注しても、学生が自分のサイズじゃないほうを選ぶんですよ」
「なぜですか」
「大きいほうがかわいいらしいです」
「……理解が及びません」
「俺も及んでないです」
「馬剃さんのぶんもありますよ。Sで取っときました」
「……私も、着るのですか」
「着ますよ。全員着ます」
「私、司会ですが」
「司会も着ます。去年、温水さんも着てました」
「壇上で、ですか」
「壇上でです」
「サイズの交換は」
「できません。Sは、それが最後の一枚です」
「……責任重大ですね」
「Tシャツにですか」
「大貫君は、本日の担当は」
「本部付きです。あと、二号館の中継トラブル対応です」
「トラブルは、起きるのですか」
「毎年一回は起きます」
「……起きるのですか」
「起きます。今年はもう、起きる気しかしてないです」
私は、温水主任のほうを見た。
彼は、無線機の電池を入れ替えながら、目を合わせずに言った。
「一年目の学生スタッフに『なんで職員だけ違う服なんですか』って言われたんですよ」
「……それで」
「それで」
私は、Sサイズを受け取った。
袋が、思ったより軽かった。
軽いのに、両手で持っていた。
更衣室で着替えて、鏡を見た。
鏡の中に、大学のロゴ入りTシャツを着た自分がいた。
……悪くない、と思った。
思ったことは、誰にも言わなかった。
言わなかったのに、本部に戻った瞬間、大貫君が言った。
「あ、似合いますね」
「……そうですか」
「めっちゃ似合います」
「そう、ですか」
「馬剃さん、いま二回言いましたよ」
「言っておりませんっ」
「言いました。しかも二回目、声のトーンが下がってました」
「下がっておりませんっ」
「温水さん、いま馬剃さん、めっちゃ嬉しそうでしたよね」
「見てないです」
「見てましたって」
「見てないです」
――助かった。
助かったが、この人はいま、確実に見ていた。
午前八時、全体ミーティング。
三百人の学生スタッフが、大講堂に集まった。
八百席の大講堂が、三分の一以上、青で埋まった。
壇上に立ったのは、温水主任だった。
「おはようございます。実行委員長の温水です」
――実行委員長。
名目上の実行委員長は、広報委員長の宮里副学長である。
要項にもそう書いてある。
だが、この場でその名前を出す人は、一人もいない。
教員も、事務局も、学生も、全員、この人を見ている。
マイクを持った温水主任が、続けた。
「今日、来る人が三千人です。うち、初めてこの大学に来る人が、たぶん二千五百人以上です」
三百人が、静かになった。
「その人たちにとって、今日、最初に喋る大学の人間は、たぶん皆さんです。俺じゃないです」
私は、後ろの壁際に立って、それを見ていた。
「で、お願いが一個あります」
温水主任が、指を一本立てた。
「今日、絶対に『分かりません』って言わないでください」
学生が、少しざわついた。
「言い方の話です。分からないことは、絶対にあります。三百人いて、全部答えられるわけないんで」
「そういうときは、『調べてきます』って言って、本部に来てください。俺がいます」
「『分かりません』は、その場で終わります。『調べてきます』は、続きます」
後ろのほうで、学生が一人「俺、去年五回調べに行きましたー」と言って、笑いが起きた。
「今年は三回に抑えてください」
「えー、減るんですか」
「減らしてください」
「じゃあ四回で」
「交渉しないでください」
また笑いが起きた。
三百人が、うなずいた。
――ああ。
私は、そのとき、胸のあたりが、じん、と熱くなった。
この人は、五年間、これを言ってきたのだ。
三百人の学生に、毎年。
九時、開場。
『本部、東門です。開場前から、もう五十人並んでます』
「了解。九時ちょうどで開けてください。列は二列で」
開場から一時間で、私は本部に三回呼ばれた。
三回とも、温水主任のそばにいるためである。
本部の長机の中央に、彼が座っていた。
座って、無線機を三台、机に並べていた。
一台が学生スタッフ用、一台が事務局用、一台が施設課と守衛室用である。
その前に、人が来る。
「温水さん、ちょっといい?」
最初に来たのは、権田先生だった。
白衣ではなく、開襟シャツを着ている。五十八歳の物理学科教授である。
「先生、おはようございます」
「模擬授業さ、三号館の二〇一じゃなくて、実験室のほうでやりたいんだけど」
「駄目です」
即答だった。
私は、思わず二人を見比べた。
「なんでだよ」
「実験室、定員三十六です。今日、申込みが六十二入ってます」
「立ち見でいいだろ」
「消防法です」
「うっ」
「先生、去年も同じやり取りをしましたよね」
「したっけ」
「しました。七月九日です」
「日付までかよ」
「あと、実験室に入れると、動線が理学部の見学ルートと交差します。九時四十分から十時十分のあいだ、あそこ、二百人通ります」
権田先生は、二秒くらい黙った。
「……分かった」
「すいません」
「いや、いい。聞いた俺が悪い」
「先生、二〇一の後ろに実験器具だけ運びます。見せるだけならできます」
「お、いいの?」
「十分で運びます。学生に運ばせるんで」
「悪いな」
「いえ」
「あと温水さん、液体窒素は」
「駄目です」
「即答かよ」
「即答です」
「なんで駄目なんだ」
「去年、先生がバナナで釘を打とうとしたからです」
「あれは実演だ」
「高校生が真似します」
「真似できんだろ、あんなもん」
「先生、去年それをおっしゃって、そのあと問い合わせが十七件来ました」
「うっ」
「本日二回目のうっ、です」
「数えとるのか」
権田先生は、機嫌よく出ていった。
私は、そこで、ようやく息をした。
――断った。
教授の要望を、即答で断った。
断って、そのあと三秒で代案を出して、相手を機嫌よく帰した。
文科省では、こうはならない。
あそこでは、断るときには必ず段取りが要る。上に上げて、根回しをして、書面にして、そのうえで断る。
断ったあと、三か月くらい空気が悪くなる。
ここでは、二秒で終わった。
「温水主任」
「はい」
「いまの、断って大丈夫なんですか」
「大丈夫です」
「権田先生は、その、気難しいと伺っていますが」
「気難しいですよ」
彼は、無線に一言返してから、こちらを向いた。
「でも、あの人、今日は俺に聞きに来たでしょ」
「はい」
「聞きに来た時点で、断られる可能性があると思ってるんです。だから、断っても怒らない」
「……」
「怒るのは、聞かずにやった人が止められたときです」
そのあと一時間で、同じことが十一回あった。
文学部の先生が、配布資料を追加したいと言ってきた。
「二百部です。置けますか」
「置けます。十時までに二〇三へお願いします」
「温水さん、模擬授業の開始、十分ずらせない?」
「駄目です」
「じゃあ五分」
「駄目です」
「三分」
「先生、それ交渉じゃなくて値切りです」
工学部の先生が、笑いながら帰っていった。
「温水さん、東門の案内、二人増やしていいですか」
「いいです。二年目の子を混ぜてください」
「分かりましたー」
学生スタッフのリーダーが、走っていった。
業者が、機材の搬入口を変えたいと言ってきた。
「東口に変えられません?」
「駄目です。そこ、救急車の動線なんで」
「じゃあ、台車二台で回します」
「それでお願いします」
全部、即答だった。
そして、そのあいだに、無線が鳴り続けていた。
『本部、鷲尾です。学食体験、行列が階段まで伸びてます』
「了解。学生二人回します。整理券に切り替えてください」
『了解』
――鷲尾課長が、「了解」と言った。
私は、無線機を見ていた。
あの人が、この人に、「了解」と言った。
「馬剃さん」
「はい」
「そろそろ、大講堂に入ってください」
「……はい」
「十時十五分に袖にいてもらえれば大丈夫です」
「はい」
「あと」
彼は、無線機を持ったまま、こちらを見た。
「今日、俺、袖には行けないです」
「……はい」
「本部を離れられないんで」
「存じております」
午前十時三十分。
全体説明会、第一回。
大講堂の袖に立ったとき、私は、自分の心臓の音が聞こえた。
どくどく、と鳴っていた。
カーテンの隙間から、客席が見える。
埋まっていた。
八百席のうち、七百は埋まっている。
後ろのほうに立ち見が出ている。
――八百人。
私は、役所で、もっと大きな会議に出たことがある。
三百人の会場で説明したこともあるし、記者会見の後ろに立っていたこともある。
でも、あれは違う。
あそこにいたのは、全員、仕事で来ている大人だった。
説明が下手でも、資料を読めば分かる人たちだった。
ここにいるのは、高校生である。
資料を読まない。
興味がなければ、スマートフォンを見る。
そして、この八百人のうちの何人かは、今日の四十分で、進路を変える。
――重い。
私は、手元の進行台本を握っていた。
握って、それから、開いた。
一枚目に、私の字ではない字で、一行だけ書き足してある。
『時計だけ見てればいいです』
昨日の夕方、私が席を外しているあいだに書かれたものだった。
――時計だけ見てればいいです。
司会の仕事の九割は、時刻の管理である。
それは、七月一日に、私が言ったことだった。
この人は、それを覚えていて、そのまま返してきた。
私の言葉で、私を落ち着かせようとしている。
……ずるい、と思った。
思ったら、少しだけ、指の震えが止まった。
私は、それを二回読んだ。
読んで、台本を閉じた。
「馬剃さん」
舞台袖の照明が、私の横で少し揺れた。
温水主任が立っていた。
――来た。
本部を離れられないと言った人が、来ていた。
「二分前です」
「はい」
「いけます?」
「いけます」
「はい」
彼は、それだけ言って、下がった。
――行ってしまう。
私は、思わず振り返った。
「あの、温水主任」
「はい」
「どちらへ」
「客席の後ろです」
「……舞台袖ではないのですか」
温水主任は、少し考えるような顔をした。
「袖にいると、馬剃さんが俺のほう見るんで」
「見ません」
「見ますよ」
「見ません」
「じゃあ、後ろにいます」
「本部は、よろしいのですか」
「十分だけ抜けました」
「……十分」
「無線は持ってます」
彼は、そのまま出ていった。
――十分。
三千人が動いている二日間の、指揮官の十分である。
その十分を、この人は、私が壇上に立つために使った。
私は、そのことを、たぶん、あとで考える。
いまは、考えている場合ではない。
結論から言うと、第一回は、無事に終わった。
三十八分。台本どおり。
登壇者は三人。学長挨拶が四分、入試部長の説明が十二分、学生代表のスピーチが八分。
私が喋ったのは、合計で六分ほどである。
定型文だけだった。
空きは、一度も出なかった。
全員が、予定どおりの時間で終わった。
拍手のなかで幕が下りたとき、私は、膝から力が抜けそうになった。
「馬剃さーん!」
舞台袖に、学生スタッフが二人立っていた。
二人とも、青いTシャツである。
「めっちゃよかったです!」
「……ありがとうございます」
「声、聞きやすかったです。去年の温水さん、早口だったんで」
「そうなのですか」
「早いです。あの人、三分の説明を二分半でやります」
「……なるほど」
「馬剃さん、ちゃんと待ってくれるんで。分かりやすかったです」
「…………」
「あれ、馬剃さん?」
「……いえ」
「えっ、泣いてます?」
「泣いておりませんっ」
「す、すいません」
「謝らないでくださいっ。目に、埃が」
「この講堂、朝に清掃入ってますよ」
「……清掃の、粉塵ですっ」
「あと、来年もやるんですか? 司会」
「……未定です」
「やってほしいです! 温水さんより聞きやすいんで」
「それは、ご本人には言わないでおいてください」
私は、その言葉を、二回、頭の中で再生した。
待つ。
私は、待てない人間だと思っていた。
沈黙が怖くて、〇・八秒で埋めたくなる人間だと。
でも、壇上では、待っていたらしい。
……なぜだろう。
答えは、すぐに出た。
台本に、書いてあったからである。
『登壇者が着席するまで、次の案内に入らない』
三年前に、誰かが書いた一行だった。
――終わった。
舞台袖で、私は一度だけ、壁に手をついた。
ついてから、すぐに離した。
誰も見ていない。
見ていないはずだが、この建物には、たぶん一人だけ、見る人がいる。
昼休憩は、十二時から四十分だった。
本部で弁当を受け取るとき、担当の学生から「余りが十二個出てます」と報告が入った。
「学生スタッフに回してください」
温水主任が、即答した。
「三百人に、十二個ですが」
「じゃんけんが始まるんで、大丈夫です」
「……始まるのですか」
「毎年始まります」
本部の外で、本当にじゃんけんの声が上がりはじめた。
「温水主任」
「はい」
「三百人で十二個を分ける場合、勝率は四パーセントです」
「そうですね」
「なぜ、あれほど盛り上がれるのですか」
「四パーセントだからですよ」
「……」
「百パーセント当たるじゃんけんは、誰もやらないんで」
私は、その言葉を、弁当の蓋を開けながら二回反芻した。
私は弁当を持って、中庭のベンチに座った。
八月の日差しが、白かった。
テントの下で、学生スタッフが交代で休んでいる。
「――えっ、ぬっくん!?」
声が、飛んできた。
中庭の反対側だった。
温水主任が、無線機を持って立っていた。
その前に、日焼けした女性が一人。
背が高い。
ジャージの上下で、キャップをかぶっていた。首にストップウォッチをかけている。
その後ろに、高校生が三人。全員、陸上部らしい体つきをしていた。
――焼塩さん。
私は、弁当の蓋を閉じた。
「え、なんで。なんでここにいるの」
「働いてるんだよ」
「ここで!?」
「ここで」
「うわ、うわうわうわ」
焼塩さんは、その場で三回くらい跳ねた。
「あー、でもちょっと老けたね」
「そう?」
「うん。目のとこ」
「余計なお世話だ」
私は、ベンチから立ち上がった。
立ち上がってから、少し迷った。
行くべきか。
行かないべきか。
あの人は、私のことを覚えているだろうか。
覚えている。
たぶん、覚えている。
あの人が私を呼ぶときは、いつも「馬ちゃん」だった。
初めてそう呼ばれたとき、私は「馬……? えっ、それ私ですか?」と聞き返した。
聞き返したのに、その日から一度も変わらなかった。
結局、あの人には、二年間、一度も名前で呼ばれなかった。
「あー!」
目が、合った。
「馬ちゃん!」
やはり、そうだった。
十六年、一文字も変わっていない。
「……その呼び方も、変わらないんですね」
「え、なんかまずい?」
「まずくはありませんが、私は馬ではありません」
「知ってるよ」
「ご存じでしたか」
「うん。でも馬ちゃんだよ」
理屈が通っていない。
通っていないのに、この人が言うと、なぜか成立してしまう。
「ご無沙汰しております」
「うわ、変わってない! 喋り方が全然変わってない!」
「……恐れ入ります」
「褒めてないよ!」
「焼塩さんは、本日はどちらから」
「学校から。駅からは走った」
「……走った」
「バスより四分速いんだよね、ここ」
後ろの高校生が、小声で「先生、バスと勝負してました」と言った。
「勝負じゃない。計測」
首のストップウォッチを見せられた。
計測なら仕方がない。……いや、仕方なくはない。
焼塩さんは、私の両手を握った。
握って、上下に振った。
ぶんぶん、と振られた。
私の腕は、肩から先が、他人のもののように揺れていた。
私は、それに、うまく対応できなかった。
「え、なに、二人とも同じとこで働いてんの」
「はい」
「同じ課で」
「はい」
「てか、何年ぶり?」
「十六年と四か月です」
「細かっ!」
「なんで?」
「……偶然です」
「うそだー」
「本当です」
「ぬっくん、ほんと?」
「本当」
「ふうん」
焼塩さんは、腕を組んだ。
「あたし、偶然って言葉、あんまり信じないんだよね」
「なぜですか」
「陸上やってると、偶然で速くなる人いないから」
私は、その言い方に、少し虚を突かれた。
「あー、でも、偶然もあるか。怪我とかは偶然だし」
焼塩さんは、あっさり前言を撤回した。
「じゃ、偶然でいいや」
「……よろしいのですか」
「いいよ。二人が困ってないなら」
困ってはいない。
困ってはいないが、簡単でもない。
私は、そう思った。
思ったが、口には出さなかった。
「馬ちゃん、いまの仕事、楽しい?」
「……はい」
「〇・五秒あった」
「即答でした」
「あたし、コンマは測れるんだよね」
ストップウォッチの人に言われると、反論のしようがない。
焼塩さんは、私と温水主任を交互に見て、それから、にやりと笑った。
「ふうん」
「なんだよ」
「べつにー」
「焼塩さん」
「なに」
「いまの『ふうん』は、なんですか」
「べつにー」
「二回目です」
「馬ちゃん、顔赤いよ」
「暑いからですっ」
「屋内だよ、ここ」
「空調による、個人差ですっ」
「なにそれ」
私は、両手で顔を扇いだ。
ぱたぱた、と扇いで、まったく涼しくならないことを、五回目で確認した。
私は、パンプスの先で、床に小さく円を描いていた。
途中で内側に折れる、あの描き方である。
――「の」の字だ。
中学のとき、担任に「馬剃さん、足」と言われて、はじめて自覚した癖である。
自覚してから十八年、一度も直っていない。
私は、足を止めた。
止めたところで、焼塩さんはとっくに見ていた。
「馬ちゃん、それ高校のときもやってたよ」
「やっていませんっ」
「生徒会室の前で、めっちゃやってた」
「…………」
「誰かと喋ったあとに」
「――やっていませんっ!」
声が、中庭に響いた。
テントの下の学生スタッフが、三人こちらを見た。
私は、姿勢を正した。
「……失礼しました」
「いま、めっちゃ大きい声出たね」
「出ておりませんっ」
「出たよ。あたし、耳もいいんだよね」
「耳と足だけで生きていらっしゃるのですか」
「うん」
「……肯定されました」
横で、温水主任が、無線機を口元に当てたまま、口の端を〇・三秒だけ上げた。
「温水主任」
「はい」
「いま、笑われましたね」
「笑ってないです」
「〇・三秒、上がりました」
「馬剃さん、その計測、俺が教えたやつじゃないですよね」
「その話は、結構ですっ」
背後で、高校生の一人が「先生、時間」と言った。
「あ、やば。ごめん、あたし引率なの」
「引率?」
「うち、高校のコーチやってて。今日、この子たちにトラック見せに来た」
焼塩さんは、キャップのつばを直した。
「ここ、全天候の四百あるでしょ。この辺だと、見学できるとこ少なくて」
「あるな」
「三年生。二人、うち受けたいって」
私は、その言葉に、はっとした。
「あ、そうだ。馬ちゃん、こまちゃんのこと知ってる?」
焼塩さんが、唐突に言った。
「小鞠さんですか」
「そうそう。本出してるの」
「存じております」
「えっ、知ってんの!」
「四年前に、志喜屋先輩から伺いました」
「あー、シキちゃんね。あの人、なんでも知ってるんだよ」
焼塩さんが、笑った。
それから、温水主任のほうを向いた。
「ぬっくんは?」
少し、間があった。
「……最近、知った」
「えー!」
焼塩さんの声が、中庭に響いた。
「なんで!? ぬっくん、めっちゃ本読むじゃん!」
「読んでたよ。五冊」
「読んでたのに知らなかったの!?」
「知らなかった」
「うわー」
焼塩さんは、両手で顔を覆った。
覆って、指の隙間から言った。
「ぬっくん、そういうとこだよ」
私は、その言葉を聞いて、少しだけ、息を止めた。
八奈見さんの口癖である。
この人も、使うのか。
あるいは、あの三年間、あの部屋にいた全員が、この人に対して同じことを思っていたのかもしれない。
「あの、焼塩さん」
「はい?」
「スポーツ系の入試についてでしたら、資料をお持ちします」
「え、いいの?」
「私の担当です」
焼塩さんが、少し目を丸くした。
それから、笑った。
「馬ちゃん、かっこいいじゃん」
私は、返事に困った。
「ね、馬ちゃん、走らない?」
「走りません」
「速そうなのに」
「速くありません」
「測ってみないと分かんないよ」
「測りません」
「五十メートルだけ」
「パンプスですっ」
「脱げばいいじゃん」
「大学の中庭で、職員が裸足で走るのですか」
「あたしは走るよ」
「あなたは走るでしょうねっ」
困っている私の横で、温水主任が言った。
「馬剃さん、いま昼休憩ですよ」
「業務です」
「休憩です」
「業務です」
「……はい」
「勝ちました」
「何にですか」
「なんでもありません」
焼塩さんが、大声で笑った。
笑って、「じゃ、またね!」と手を振って、生徒たちのほうへ走っていった。
歩けば二十秒の距離である。
……あの人は、たぶん一生あれである。
午後になって、空が変わった。
十三時四十分ごろから、雲が出た。
十四時、遠くで音がした。
本部の無線が、少し忙しくなった。
『施設課より本部、屋外の誘導は屋内に切り替えてください』
『了解』
『陸上競技場、見学中止。学生スタッフは全員回収』
私は、午後の全体説明会の準備をしていた。
第二回は十五時からである。
「馬剃さん」
「はい」
「たぶん降ります」
「はい」
「馬剃さん、傘は」
「折りたたみを、二本持ってきました」
「二本」
「一本は、予備です」
「……誰の」
「予備は、予備です」
「馬剃さん」
「はい」
「その予備、けっこう大きくないですか」
「規格品です」
「柄、紺ですよね」
「……色に、意味はありませんっ」
「なにも言ってないですけど」
「言おうとされました」
「言おうとしてないです」
「その顔は、言おうとしている顔ですっ」
「どの顔ですか」
「…………」
「降っても、説明会はやります。中止しません」
「はい」
「あと、傘の忘れ物が三百本出ます」
「……三百」
「去年の実績です。全部、遺失物として三か月保管します」
「規程どおりですね」
「規程どおりです」
「あと、一個だけ」
温水主任は、ホワイトボードの前で言った。
「うちの三号館、去年、雷で一回落ちてます」
「……落ちる、と申しますと」
「電気です」
「停電、ですか」
「三分くらい」
「復旧が三分という根拠は」
「去年の実測です」
「一昨年は」
「落ちてないです」
「……標本数が、一ですね」
「一です。でも、会場では言い切っていいです」
「なぜですか」
「数字は、言い切ると効くんで」
私は、その言葉を、うまく処理できなかった。
「非常灯は点きます。あと、非常用のマイクは別系統なんで、たぶん生きます」
「たぶん」
「たぶんです」
「確実ではないのですね」
「確実ではないです」
温水主任は、無線機を腰に付け直した。
「馬剃さん」
「はい」
「去年、落ちたときの担当、俺です」
「……はい」
「三分、何喋ったと思います?」
「存じません」
「俺も覚えてないです」
私は、思わず彼を見た。
「覚えていないのですか」
「覚えてないです。ただ、終わったあと、学生スタッフに『温水さん、めっちゃ普通でしたね』って言われました」
「普通」
「普通です。それでいいんですよ」
彼は、無線機のスイッチを確認した。
「馬剃さん」
「はい」
「もし落ちたら、そのまま喋ってください」
「マイクが死んでても、そのまま喋ってください」
私は、彼を見た。
「……八百人に、地声でですか」
「はい」
「届きません」
「届きます」
「あの講堂、天井が高いんで。地声のほうが、意外と通ります」
彼は、そう言って、出ていった。
十五時二分。
第二回が始まった。
窓の外は、もう暗かった。
雨の音が、天井から聞こえていた。
客席は、第一回より多かった。
立ち見が、後ろに二列できていた。
学長挨拶。四分。
入試部長の説明。十二分。
順調だった。
十五時二十四分。
学生代表のスピーチが始まって、二分ほど経ったとき。
――どん。
建物が、揺れた。
同時に、消えた。
照明が、全部。
悲鳴が、上がった。
八百人の悲鳴というのは、思ったより低い音がする。
「きゃっ」ではない。
「うわ」でもない。
地面のほうから、ざあ、と押し寄せてくる音だった。
非常灯が点いた。
緑色の光が、通路の足元に、点々と。
舞台の上は、ほとんど真っ暗だった。
壇上の学生代表が、立ち尽くしている。
マイクを持ったまま、動けなくなっている。
三年生の男子学生である。
朝のミーティングで、一番前に座っていた子だった。
私は、袖から小声で呼んだ。
「――こちらへ」
彼が、こちらを向いた。
「大丈夫です。ゆっくり、こちらへ」
「あ、はい」
彼が、袖に下がってきた。
下がってきて、私の横で、小さく言った。
「すみません、俺、頭真っ白で」
「よくあることです」
「馬剃さん、平気なんですか」
私は、その質問に、答えられなかった。
――マイク。
私は、袖から一歩出た。
自分のマイクのスイッチを入れた。
入らなかった。
死んでいる。
――どうしよう。
私は、手に持った進行台本を見た。
見えなかった。
暗すぎて、文字が一つも見えなかった。
ざわめきが、大きくなっていく。
誰かが立ち上がった。
どこかで、スマートフォンのライトが点いた。
その光が、また一つ、二つと増えていく。
――十六年前。
あの日、私は原稿を捨てた。
志喜屋先輩が舞台を乗っ取って、段取りが全部飛んで、体育館がぐちゃぐちゃになった。
そのあと、私は舞台袖で、こう言ったらしい。
――じゃあ私も、やりたいようにするしかないですね。
覚えていない。
一文字も、覚えていない。
覚えていないのに、この人は、六月に、こう言った。
――あそこからが、一番よかったです。
あれは、事故ではなかった。
私が、決めたことだった。
私は、台本を、床に置いた。
舞台の中央まで、歩いた。
息を、吸った。
「――みなさん、落ち着いてください」
声が、出た。
自分の声が、講堂の天井に当たって、返ってきた。
届いている。
「入試広報課の馬剃と申します。ただいま、落雷により停電が発生しました」
ざわめきが、少し下がった。
「非常灯は点灯しております。座席にお座りのまま、お待ちください」
「本学の三号館は、昨年も同様の停電が発生しております。そのときの復旧は、三分でした」
――三分。
この数字を、私は今日の十四時に聞いた。
聞いておいてよかった、と、心の底から思った。
「三分で戻る見込みです。恐れ入りますが、その場でお待ちください」
ざわめきが、止まった。
――止まった。
私は、そこで、次に何を言えばいいのか分からなくなった。
三分。
あと、二分四十秒くらいある。
――四分の練習を、私はした。
カラオケボックスで。
八個、作った。
学食のカレー。
裏門の猫。
図書館の地下四階。
入学式で電車を乗り間違えた学生。
正門の桜。
二号館のエレベーター。
学生スタッフの応募。
私は、口を開いた。
「――みなさん、この大学の学食のカレーが、五年前にレシピを変えたことをご存じでしょうか」
誰かが、笑った。
一人が笑って、それから、三人くらいが笑った。
二分四十秒、私は喋った。
喋りながら、私は、客席を見ていた。
非常灯の緑と、スマートフォンのライトの白で、顔がぼんやり見える。
前から三列目の女子生徒が、隣の子の腕を掴んでいた。掴んだまま、こちらを見ていた。
その子の手が、少しずつ、緩んでいくのが分かった。
――そうか。
私は、そのとき、初めて理解した。
この四分は、私が喋るための四分ではない。
あの子の手が緩むための四分である。
中身は、なんでもいい。
カレーでも、猫でもいい。
喋っている人間が焦っていないと分かれば、会場は落ち着く。
七月に、この人はそう言った。
私は、そのとき、意味が分かっていなかった。
カレーの話をして、学生新聞の見出しの話をして、それから、裏門の猫の話をした。
猫の名前が「ハカセ」であること。
名付けたのが理学部の学生であること。
去年、その学生が卒業するときに、ハカセの世話の引き継ぎ書が作られたこと。
引き継ぎ書がA4で三枚あること。
「――なお、そのうち一枚は、まるごと『機嫌が悪い日の見分け方』です」
一枚のところで、また笑いが起きた。
――七月に、私はこの話を、二十分かけて調べた。
あのとき、この人は「猫だぞ」と言った。
言いながら、結局、二十分付き合った。
いま、私はその二十分で、八百人を笑わせている。
照明が戻ったのは、その直後だった。
ぱっ、と講堂が明るくなった。
拍手が、起きた。
私は、それを、舞台の中央で聞いていた。
――客席の、いちばん後ろ。
立っている人がいた。
青いTシャツを着ていた。
拍手は、していなかった。
ただ、こちらを見ていた。
私は、目を逸らした。
逸らさないと、たぶん、顔が保てなかった。
逸らした先で、袖から学生代表の彼が戻ってきた。
「続き、やらせてください」
「どうぞ。……大丈夫ですか」
「はい。もう、真っ白じゃないんで」
彼は演台に戻って、スピーチの続きを始めた。
あとで聞いた話だが、あの三分のあいだ、この人は客席の後ろにいた。
いて、何もしなかったらしい。
施設課に連絡したのは、二階の別のスタッフだった。
中継が落ちた二号館の四百人を落ち着かせたのは、大貫君だった。
実行委員長は、動かなかった。
この人は、後ろの壁のところに立って、ただ舞台を見ていた。
「なぜ、何もされなかったのですか」
あとで、私はそう聞いた。
「馬剃さんが喋ってたんで」
彼は、そう答えた。
「あそこで俺が動くと、客席が『職員が動いた』って思うんですよ。そしたら、みんな不安になります」
「二号館は、大貫君が」
「あいつ、そういうの得意なんで」
「二号館では、何をされていたのですか」
「クイズ大会をやってたらしいです」
「クイズ」
「校歌の歌詞から三問」
「……なぜ校歌なんですか」
「あいつに聞いてください」
「聞きました」
「早い」
「『校歌なら誰も答えられないので、全員が平等に盛り上がる』とのことです」
「あいつ、たまに賢いんですよ」
「たまに、ですか」
「たまにです」
「指示は」
「してないです。無線で『任せた』って一言だけ」
「返信は、なんと」
「『了解っす』でした」
「五文字ですね」
「数えるの、移りましたね」
――一言。
三百人の学生と、六十八人の事務局と、十一学部の教員を動かしている人が、あの三分間にした指示は、たった一言だった。
「……では、動かないのが仕事だと」
「そうです。あのとき、いちばん楽な仕事してました」
嘘だ、と私は思った。
いちばん楽な仕事ではない。
八百人がざわめいている真っ暗な講堂の後ろで、何もせずに立っているのは、たぶん、いちばん難しい。
十六時、終了。
「本部より全体へ。本日の運営、終了します。お疲れさまでした」
最後の無線が入って、三百個の「お疲れさまでしたー」が、あちこちから返ってきた。
「……全員、返すのですか」
「返すんですよ、これが」
撤収は、一時間半かかった。
看板をたたみ、のぼりを抜き、シールを剥がし、無線機を回収する。
学生スタッフが解散したのが、十七時四十分だった。
最後の一人が「お疲れさまでしたー!」と言って、正門を出ていった。
「解散の挨拶は、されないのですか」
「しないです。俺が締めると、俺の一日になっちゃうんで」
「……どなたの一日なのですか」
「学生の、です。最後の一言は、学生リーダーのやつなんで」
「本日の来場者数、速報値が出ています。三千百十二人です」
「去年より六十三人多いですね」
「……なぜ、即答できるんですか」
「去年の数字は覚えてるんで」
「私も暗記しましたが、引き算に〇・五秒かかりました」
「張り合わないでください」
「張り合っておりません」
「いま〇・五秒って言いましたよね」
「事実の報告です」
「報告先は」
「……特に、ありません」
「じゃあ張り合ってるじゃないですか」
「…………」
「馬剃さん」
「はい」
「大講堂、鍵閉めるんで、一緒に来てもらえます?」
「はい」
誰もいない大講堂は、広かった。
八百の座席が、全部、空いていた。
舞台の上に、片付け忘れた進行台本が一部だけ落ちていた。
私が床に置いたやつだった。
私は、それを拾った。
「馬剃さん」
「はい」
「今日、めちゃくちゃよかったです」
私は、台本を持ったまま、動けなくなった。
「カレーと猫、両方使いましたね」
「……はい」
「三分持たせるつもりが、二分四十秒で笑い取ってました」
「……たまたまです」
「たまたまじゃないです」
温水主任は、客席の一番前の椅子に座った。
座って、舞台を見上げた。
「馬剃さん」
「はい」
「十六年前と、同じでしたよ」
――ああ。
私は、その言葉を、たぶん、今日ずっと待っていた。
「あの」
「はい」
「十六年前の私は、何を喋っていたのでしょうか」
温水主任が、少し驚いた顔をした。
「覚えてないんですか」
「一言も」
「……えっと」
彼は、少し天井を見た。
「たしか、ヒーローの話でした」
「ヒーロー」
「はい。『私はヒーローにはなれない。だけど、ヒーローを支えることはできる』って」
私は、舞台の上で、しばらく黙っていた。
「……そんなことを、言いましたか」
「言いました」
「私が」
「馬剃さんが」
覚えていない。
一文字も、覚えていない。
でも、この人は覚えている。
十六年、覚えていた。
「あれ、俺、いまでも使ってます」
「え」
「オープンキャンパスの朝の、学生スタッフのミーティングで」
私は、動けなくなった。
今朝、この人は、三百人に向かってこう言った。
――今日、来る人にとって、最初に喋る大学の人間は、皆さんです。俺じゃないです。
同じだった。
言い方が違うだけで、中身が、まったく同じだった。
私は、口を押さえた。
押さえないと、たぶん、変な声が出そうだった。
昼の休憩のあと、もう一つ、別のことがあった。
十三時十分。
個別相談のブースで、私は、六月の会場で会った母娘と、もう一度会った。
埼玉の高校の、三年生。
やりたいことが決まらないと言っていた子。
人前で喋るのが嫌だと言った子。
「……あの、六月に、お話しした」
「覚えております」
私は、即答した。
実際、覚えていた。
手帳に、逐語で書いてある。
その子は、少しうつむいて、それから言った。
「あのとき、決まってないのが七割って言ってもらって」
「はい」
「それで、今日、来ました」
私は、その言葉を、うまく受け取れなかった。
「ありがとうございます」
私は、そう言った。
言ってから、それでは足りない気がして、もう一度言った。
「来てくださって、ありがとうございます」
その子は、二十分ほど、学部の話を聞いた。
帰りぎわに、こう聞いた。
「あの」
「はい」
「馬剃さんは、なんで、いまのお仕事を選んだんですか」
私は、答えた。
「大学で学ぶ方の、最初の入り口に立つ仕事だからです」
嘘ではない。
一文字も、嘘ではない。
その子は「ありがとうございました」と言って、母親と帰っていった。
もう一つ、その子は言った。
「あと、あの」
「はい」
「六月に、『やりたくないこと』を聞かれたじゃないですか」
「はい」
「あれ、家で言われたことなくて」
その子は、母親のほうを一度見た。
「やりたいこと、ばっかり聞かれるんで」
「……そうですね」
「だから、その、聞いてもらえて」
言葉が、そこで止まった。
止まったので、私は待った。
待つのは、得意ではない。
私は、沈黙が〇・八秒を超えると、埋めたくなる人間である。
それでも、待った。
「……嬉しかったです」
私は、その一言を、たぶん一生忘れない。
「ありがとうございます」
私は、そう言った。
「私も、聞かれたことがなかったので」
言ってから、しまった、と思った。
余計なことを言った。
その子は、少し目を丸くして、それから、小さく笑った。
私は、そのあと、五分ほど、椅子に座っていた。
嘘ではない。
でも、あれは、答えではなかった。
私は、あの子に、本当のことを言わなかった。
私が、なぜここにいるのか。
なぜ、四十歳になる前に、二十三社受けて、内定一つで、ここに来たのか。
言えるわけがない。
初対面の高校生に、言えるわけがない。
……では、誰になら言えるのか。
答えは、そのとき、すでに出ていた。
出ていたが、私はそれを、午後のあいだずっと、見ないようにしていた。
見ないようにして、八百人の前に立って、停電して、カレーと猫の話をした。
「馬剃さん?」
温水主任の声で、私は我に返った。
誰もいない大講堂だった。
彼は、まだ、一番前の椅子に座っていた。
「鍵、閉めますね」
「……はい」
私は、舞台の上に立っていた。
台本を、両手で持っていた。
心臓が、どくどく、と鳴りはじめた。
今日、八百人の前に立ったときより、速かった。
「温水さん」
私は、そう呼んだ。
彼が、立ち上がりかけて、止まった。
「はい」
「私が、文部科学省を辞めた本当の理由を」
「――聞きますか」