(七月十七日〜八月十六日/温水視点)
「お礼をさせてください」
「いや、いいって」
「させてください」
「いいって」
「させてください」
「三回目です」
「四回目まで行きます」
「予告するんだ」
「予告は、誠意です」
七月十七日、木曜日、十七時二十分。
俺は鞄を持ったまま、席の横に立っていた。
立ったまま、十分が経っていた。
「なぜ拒否されるんですか」
「拒否っていうか」
「模擬プレゼンの件です」
「あれは業務」
「就業時間外でした」
「……」
「無給でした」
「……」
「秘密でした」
「三つ並べるなって」
「四つ目もあります」
「まだあるの」
「『私は、あなたに何も返していません』」
「それ、事実の話じゃないよね」
「事実ですっ」
「感想だろ、それ」
「――事実ですっ!」
声が、フロアに響いた。
定時から二十分過ぎた入試広報課である。
人はいない。いないが、この人の声はよく通る。
天愛星さんは、そこで、自分の声量に気づいた顔をした。
「……失礼しました」
「いや、いいけど」
「ですが、撤回はしません」
「撤回しないんだ」
「音量だけ、撤回します」
天愛星さんは、椅子を回して、完全にこちらを向いていた。
この体勢になった彼女は、動かない。
六月の十日間で、俺はそれを学習している。
「じゃあ、飯でも奢って」
「安いです」
「安くないって。俺、けっこう食べるから」
「オープンキャンパスの件もあります」
「あれも業務」
「司会を任せていただきました」
「任せたっていうか、押しつけたっていうか」
「八百人の前に立たせていただきました」
――言い方。
俺は、天井を見た。
この人は、感謝を「させていただきました」の形で言う。
言われると、断りにくい。断ると、こっちが相手の感謝を拒否したことになる。
文科省で覚えたやつだろうか。
それとも、生徒会か。
「では、伺います」
「うん」
「いま、いちばんお困りのことは何ですか」
俺は、二秒だけ迷った。
迷って、口が滑った。
「……原稿が、四割」
天愛星さんの目が、すっと細くなった。
「締切は」
「七月二十八日」
「本日は十七日です」
「うん」
「十一日ですね」
「……うん」
「承知しました」
「え」
「本日から、参ります」
「いや、待って」
「どちらへ伺えばよろしいですか」
「待って待って」
「大学の休憩室でよろしいでしょうか。それとも、カラオケボックス――」
「馬剃さん!」
俺は、声を上げた。
上げてから、周りを見た。
誰もいなかった。よかった。
「あの、これ、完全に趣味だから」
「存じております」
「大学の仕事じゃないから」
「存じております」
「手伝ってもらうようなもんじゃないって」
「その判断は、私がします」
天愛星さんは、鞄を持って立ち上がった。
「温水さん」
「うん」
「六月に、あなたは私に、十日間、無給で付き合いました」
「……はい」
「あれは、あなたの判断でした」
「はい」
「今回は、私の判断です」
……理屈が、通っている。
通っているのが、いちばん困る。
同人誌を作るというのは、要するに、締切と戦う行為である。
毎年、俺は同じことを言っている。
「今年は早めにやる」
「今年は七月頭に八割いく」
「今年こそ余裕を持つ」
十一回言って、十一回守れなかった。
理由は、六月と七月に仕事のピークが来るからだ。
六月に十七件の相談会があって、七月にオープンキャンパスの準備がある。
言い訳としては、たぶん、七割くらい正当である。
残りの三割は、単に俺が先延ばしにする人間だからだ。
七月十七日、十九時。
俺の家である。
いや、正確には、家ではない。
一人暮らしなので、人を上げること自体は、理論上、可能である。
問題は、押し入れだった。
押し入れの下段に、十一年ぶんの売れ残りが積んである。
その手前に、去年出しそびれた段ボールが四つある。
あそこを開けた人間は、たぶん、二度と俺の顔を見ない。
選んだのは、駅前のファミリーレストランだった。
電源のある席がある店を、俺は都内で四軒知っている。
「Wi-Fiは」
「ある」
「電源は」
「窓際の四席だけ」
「では、そこにしましょう」
俺は、ノートパソコンを開いた。
画面に出ているのは、エクセルである。
行が、四千二百ある。
「……これは」
「今年の本のデータ」
「四千二百行」
「二〇〇〇年から去年までの、ライトノベルの刊行データ。レーベル別、月別」
天愛星さんが、画面に顔を近づけた。
「出典は」
「出版年鑑と、各社のサイトと、あと個人の方が公開してるデータベース」
「三種類の突合を、手作業で?」
「手作業」
「……四千二百行を」
「四千二百行」
天愛星さんが、俺を見た。
「なぜ、そのようなことを」
「趣味だから」
「なぜ、関数を使わないんですか」
「使えないから」
「……エクセルは、十二年お使いですよね」
「使ってる」
「関数を、使わずに」
「電卓で」
「電卓」
「あと、指」
「…………」
「馬剃さん、いま、なにか言いたそうな顔してる」
「しておりません」
「してる」
「……して、おりますっ」
「言っていいよ」
「もったいないですっ! 二か月ですっ! 二か月というのは、一年の六分の一ですっ! あなたは一年の六分の一を、関数一本で片づく作業に使ったんですっ!」
「言い方がすごい」
「事実ですっ」
「事実だけど、俺、けっこう楽しかったよ」
「…………」
「馬剃さん?」
「……そういうことを、言わないでくださいっ」
「なんで怒られてるの」
「怒っておりませんっ」
「――お預かりします」
その日から十一日間で、俺の同人誌の質は、たぶん、五年ぶんくらい上がった。
まず、彼女は突合を三時間で終わらせた。
俺が二か月かけていた作業である。
やり方を聞いたら、「キーを揃えて、条件付き書式で差分を出しただけです」と言われた。
言われても、俺には分からない。
「馬剃さん」
「はい」
「それ、俺が二か月かけたやつ」
「はい」
「三時間だな」
「はい」
「……」
「温水さん」
「うん」
「二か月かけて手作業をされたことに、意味がなかったわけではありません」
「フォローが優しい」
「事実です。手で触ったから、どこが怪しいかを覚えていらっしゃいます」
――そういう言い方をする。
この人は、人の無駄を、無駄と言わない。
六月に、俺は彼女の四十枚を捨てさせた。
捨てさせて、「中身は捨てないです」と言った。
同じことを、いま、やり返されている。
「温水さん」
「うん」
「十四か所、不一致があります」
「え」
「うち九か所は、出版年鑑側の誤りです。ISBNから確認しました」
「……ISBN」
「残り五か所は、あなたの入力ミスです」
「あ、うん」
「二〇一七年に、三か所集中しています」
――二〇一七年。
俺は、その年に何をしていたかを思い出そうとした。
思い出した。
大学病院の医事課にいた年である。
あの年、俺は毎日、診療報酬の点数を数えていた。
数えながら、家に帰って、また数字を打っていた。
三か所間違えるくらい、しても仕方ない。
「……直す」
「直しました」
「早い」
「三分です」
二日目には、グラフの話になった。
「温水さん、この折れ線は、何を示すものですか」
「レーベル別の刊行点数の推移」
「レーベルが、十七本入っています」
「十七レーベルあるから」
「読めません」
「読めないかな」
「読めません。人間の目は、折れ線を五本までしか追えません」
俺は、画面を見た。
たしかに、読めなかった。
五年間、俺はこのグラフを載せている。
五年間、誰にも「読めない」と言われたことがなかった。
……言われなかっただけか。
「では、どうすれば」
「上位五本を線にして、残りは面で積みます」
「面」
「面積グラフです。合計の推移と、上位の内訳が同時に見えます」
「……作れます?」
「作れます」
六分で、できた。
六分である。
俺は、去年、そのグラフを作るのに二時間かけた。
かけて、十七本の折れ線を引いて、それを「見づらいけど、まあ、データだから」と思って載せた。
俺は、その画面を、たぶん一分くらい見ていた。
二十四年ぶんの棒が、静かに積み上がっていた。
色が、五色しかない。
五色しかないのに、去年の十七本より、はるかに多くのことが分かる。
二〇〇〇年から二十四年ぶんの、業界の呼吸が、そこにあった。
二〇〇六年から二〇一二年にかけて膨らんで、そこから細くなって、二〇一九年でもう一度膨らんで、いままた細くなっている。
俺が言いたかったのは、これである。
五年間、俺はこれを言いたくて、読めない折れ線を十七本引いていた。
「馬剃さん」
「はい」
「……すごいな」
「グラフです」
「グラフだけど」
「エクセルの標準機能です」
「そうなんだけど」
天愛星さんは、こちらを見なかった。
見ないまま、次のシートを開いた。
耳が、少し赤かった。
七月二十二日、火曜日。
この日から、彼女は本文を読みはじめた。
「温水さん」
「うん」
「この序文ですが」
「はい」
「読者は、誰でしょうか」
……出た。
これは、六月に俺が彼女に言ったやつである。
「えっと、この本を買う人」
「その方は、なぜこの本を買うのでしょうか」
「……データが見たいから?」
「では、なぜあなたのデータでなければならないのですか」
俺は、コーラを一口飲んだ。
答えは、ある。
あるが、言葉になっていない。
「……たぶん、公式の統計だと、レーベルの気配が出ないんだよ」
「気配」
「うん。数字は出るんだけど、どのレーベルがどの時期に何をやろうとしてたかが、出ない」
「あなたのデータには、出ると」
「出るように、並べてるつもり」
天愛星さんが、ペンを置いた。
「それを、序文に書いてください」
「え」
「いま、あなたが言ったことを、そのまま書いてください」
「……いま?」
「いまです。三分以内に。考えると、悪くなります」
――言い方が、俺だ。
十一日間、俺たちはファミリーレストランに七回通った。
残りの四日は、大学の休憩室である。
休憩室は二十一時に施錠されるので、それまでしかいられない。
七回目には、店員に顔を覚えられていた。
「いつもの窓際、空いてますよ」
「あ、どうも」
「……『いつもの』に、なりましたね」
「なったね」
「常連の定義を満たしています。週三回以上の来店が二週間」
「その定義、どこの」
「私です」
「出典、全部そこなんだよなあ」
「信頼できる出典です」
「自分で言うんだ」
「では、反証をどうぞ」
「反証」
「週三回未満で常連と呼ばれる事例を、一件でも」
「……うちの近所のラーメン屋、月一で名前覚えられてる」
「頻度ではなく、顔の印象です。それは定義外ですっ」
「定義、いま増えた?」
「補足しましたっ」
「補足は、あとから足すもんじゃないんだよなあ」
「――役所は、いつも、あとから足しますっ」
「開き直った」
「……失礼しました」
この人は、追いこまれると、いた場所のせいにする。
役所のせいにして、それから、自分で自分の襟を正す。
四月からずっと、この順番である。
「温水さん」
「うん」
「では、伺いますが」
「うん」
「あなたは、この店の常連ですか」
「常連ではないな。今年で三軒目だし」
「……三軒目」
「毎年、店を変えてる。同じ店に三年通うと、なんか、居づらくて」
「なぜですか」
「顔を覚えられるから」
「…………」
「馬剃さん?」
「……今年は、覚えられましたね」
「覚えられたね」
「私が、一緒だったからです」
「そうだね」
「……いえ、いまのは」
「取り消さないよ」
「取り消してくださいっ」
「他に、誰も言ってくれませんので」
「……」
「いまのは、忘れてください」
「忘れない」
「忘れてくださいっ」
彼女は、一度も「疲れた」と言わなかった。
俺は三回言った。
三回目のとき、彼女は画面から顔も上げずに言った。
「疲れたと口に出すと、二割増しで疲れます」
「その数字の出典は」
「私です」
途中で一回だけ、変な会話があった。
七月二十四日の、二十二時ごろである。
「温水さん」
「うん」
「この本は、毎年、何部ほど出るのですか」
「去年が、九十部」
「九十」
「持ちこみが百二十で、残ったのが三十」
「……残るのですか」
「残る。だいたい毎年」
天愛星さんが、ペンを止めた。
「残った本は、どうされるんですか」
「家にある」
「何年ぶんですか」
「……十一年ぶん」
「十一年」
「押し入れ」
彼女は、しばらく黙っていた。
「温水さん」
「うん」
「今年は、残らないと思います」
「なんで」
「グラフが、よくなりましたので」
俺は、そのとき、少し笑ってしまった。
この人は、自分がやったことを「グラフが」と言う。
「私が」とは言わない。
四月からずっとそうだ。
七月二十八日、月曜日、二十三時四十分。
「温水さん、入稿前の最終確認を」
「した」
「ページ番号の順序は」
「見た」
「奥付の発行日は」
「……」
「奥付の、発行日は」
「……見てない」
見たら、去年の日付だった。
「なってなかった。去年のままだった」
「毎年の事故です、それは」
「なんで知ってるの」
「印刷所のよくある質問に、太字で書いてありました」
「よくある質問、読んだんですか」
「全項目、読みました」
「何項目」
「六十三項目です」
「俺、五年読んでない」
「読んでください」
「読まないな」
「読んでくださいっ」
入稿ボタンを押した。
押した瞬間、俺は椅子の背にもたれた。
「……終わった」
「お疲れさまでした」
「馬剃さん」
「はい」
「ありがとうございました」
「いえ」
「本当に、ありがとうございました」
「二回言わなくて結構です」
彼女は、そう言って、ノートパソコンを閉じた。
閉じてから、一つだけ聞いてきた。
「当日は、いつですか」
「八月十六日」
「場所は」
「東京ビッグサイト」
「何時からですか」
「一般入場が十一時。設営は八時から」
俺は、そこで一応、言った。
「馬剃さん、来なくていいからね」
「行きません」
「そう」
「行きません」
「二回言ったな」
「二回言いました」
「なんで二回」
「一回では、信じていただけないかと思いまして」
「三回言うと本当になるって、前に俺が言いましたよね」
「……二回で、止めました」
「なんで」
「…………」
「馬剃さん」
「その質問には、お答えできませんっ」
二回言った。
しかも、二回言った理由まで説明した。
俺は、そのとき、少しだけ変だなと思った。
この人は、嘘をつくときに、余計な情報を足す。
――というのは、四月に俺が言われたことである。
言われたのは俺のほうだが、たぶん、この癖は人類共通だ。
思ったが、眠かったので、考えなかった。
八月九日のオープンキャンパスは、無事に終わった。
三千百十二人が来て、三千百十二人が帰った。
救急搬送ゼロ、迷子ゼロ、事故ゼロである。
落雷で三分停電したが、あれは事故にカウントしない。
俺は、あの三分間、客席の後ろにいた。
いて、何もしなかった。
正確には、無線に一回だけ喋った。
二号館の中継が落ちたので、大貫に「任せた」と言った。
それだけである。
三千人が動いている日の、実行委員長の三分間の仕事が、それだった。
舞台の上で、あの人が台本を床に置くのが見えた。
置いて、中央まで歩いて、息を吸って、そして喋りだした。
地声だった。
届いていた。
あのとき、俺は、たぶん一回、泣きそうになった。
いい大人が、真っ暗な講堂の後ろで、部下の司会を見て泣きそうになる。
絵面としては最悪である。
誰も見ていなかったので、なかったことにした。
撤収のあと、大講堂で二人になったとき、俺は「めちゃくちゃよかったです」と言った。
言えたのは、それだけである。
言いたかったことは、たぶん、あと五つくらいあった。
五つとも、言わなかった。
言わないまま、八月十六日になった。
八月十六日、土曜日。
六時四十分、りんかい線。
この時間の電車には、独特の空気がある。
スーツの人がいない。
全員、大きい荷物を持っていて、全員、目的地が同じである。
俺は五年、この電車に乗っている。
この日のために、有給を一日も使っていない。
八月十六日は土曜日だった。
つまり、俺は五年間、この日を「たまたま土日にあたる日」として過ごしている。
平日にあたる年もある。
その年は、有給を取る。取るときに、理由は書かない。うちは書かなくていい。
電車の中で、俺は一度、スマホを見た。
通知は、なかった。
……見た自分に、少し呆れた。
東ホールの、し-32b。
スペースは、机の半分である。
九十センチの半分で、四十五センチ。
俺の島は、評論・情報のジャンルだった。
右隣が鉄道の時刻表を研究している方で、左隣が全国のダムの放流量をまとめている方である。
両隣とも、五年目の顔なじみだ。
「温水さん、おはようございます」
「おはようございます。今年も暑いですね」
「今年は空調が効いてますよ」
「本当ですか」
「嘘です」
ダム側の方が、差し入れだと言って、塩タブレットを一粒くれた。
「今年の新刊は、放流量ですか」
「ダムカードの配布実績に方向転換しました」
「攻めましたね」
「攻めました」
あとで一冊、買いに行くことにする。五年目の慣例である。
設営は、二十分で終わる。
布を敷いて、見本誌を立てて、値札を出して、釣銭を確認する。
持ちこんだのは、百五十部だった。
去年が九十部で、一昨年が八十部である。
今年は多めに刷った。理由は、グラフがよくなったからだ。
刷る数を決めるとき、俺は三日迷った。
百二十にするか、百五十にするか。
差は、三十部である。単価にして、六千円くらいだ。
三日迷って、百五十にした。
迷った理由は、金ではない。
残ったときに、押し入れが十二年ぶんになるからである。
……あと、もう一つある。
「今年は、残らないと思います」と言った人がいた。
あの人が言うと、なんというか、そうなりそうな気がしたのだ。
根拠はない。
根拠はないが、あの人は四月から、根拠のないことを一度も言っていない。
十時五十分。
あと十分で開場である。
俺は、椅子に座って、ペットボトルの水を飲んでいた。
「――温水さん」
顔を上げた。
俺の思考が、止まった。
ピンクだった。
ピンクの、なんというか、ワンピースというか、上下というか。
スカートの丈が短くて、その下に白いタイツがあって、足元が厚底のブーツだった。
肩に、白いファーがついている。
そこまでは、チカピョンである。
三期の、チカピョンである。
問題は、その上だった。
白い、エプロンがあった。
フリルのついた、白いエプロンである。
袖口に、白いカフス。
首元に、黒いリボン。
腰のうしろで、エプロンの紐が大きく結ばれていて、その結び目の下から、しっぽが出ていた。
頭に、猫耳がついている。
そして、髪が、両側で結ばれていた。
耳の上のあたりで、小さく。
――ツーサイドアップ。
俺の手から、ペットボトルが落ちた。
落ちて、床で二回跳ねて、通路のほうへ転がっていった。
俺は、それを拾おうとして立ち上がった。
立ち上がった膝が、机の裏を叩いた。
机の上の釣銭箱が跳ねた。
じゃらじゃら、である。
五百円玉が四十枚、東ホールの床に、放射状に散っていった。
俺は、それを見ていた。
見ていたが、拾わなかった。
拾えなかった。
――家に、フィギュアがある。
三期のチカピョンである。
去年の秋に買った。
買って、そのまま飾っておけばよかったものを、俺は十二月に、猫耳としっぽとエプロンのパーツを別のメーカーから取り寄せて、着せ替えた。
二時間かかった。
二時間かけながら、俺は自分に「資料である」と言い聞かせた。
資料ではない。
あれは、欲望である。
画像フォルダの枚数については、いま数えない。
その欲望が、いま、東ホールの通路に立っている。
しかも、本人である。
「……馬剃さん」
「はい」
「え」
「はい」
「え?」
天愛星さんは、まっすぐ立っていた。
入試広報課の馬剃天愛星が、コミックマーケットの東ホールで、まっすぐ立っていた。
立ったまま、床の五百円玉を見た。
「……お拾いします」
「あ、うん」
「四十枚です」
「数えたの」
「音で、分かります」
「行かないって、二回言ったよな」
「言いました」
「二回」
「二回です」
「嘘だったの?」
「嘘です」
即答だった。
「……その、格好は」
「アニメ『ギリギリアウトな女たち』の、チカピョンです」
「知ってる」
「三期のバージョンです」
「知ってるって!」
「……猫耳と、しっぽと、エプロンつきの」
「知って――待って」
「はい」
「三期に、メイド回あったっけ」
「ありません」
「ないよね」
「ありませんので、追加しました」
「追加」
「追加ですっ」
「なんで」
「……仕様です」
「誰が決めた仕様」
「――私ですっ」
出典は、いつも、そこである。
――知ってる。
十六年前、この人は、これを着て俺の前に立ち塞がった。
選挙の前だった。
あのとき着ていたのは、二期の衣装である。青いやつだ。
あの日のことを、俺は、たぶん正確に覚えている。
放課後の廊下だった。
俺は帰ろうとしていて、曲がり角の向こうに、それが立っていた。
最初、何かのイベントかと思った。
思って、次に、それが誰かを理解して、それから、三秒くらい脳が止まった。
あのとき、この人は、耳まで赤かった。
赤いまま、頼みごとをした。
いま、この人は、赤くなっていない。
……いや。
よく見ると、耳が、少し赤かった。
三期は、去年やった。
衣装が、変わっている。
「なんで、三期」
「二期の衣装は、もう手元にありませんので」
「いや、そうじゃなくて」
「三期は、昨年放送されました。現行のバージョンで臨むのが適切だと判断しました」
「適切」
「はい」
「どこで手に入れたんだよ」
「発注しました」
「発注」
「オーダーメイドです」
「……いくらしたの」
「申し上げられません」
俺は、椅子に座り直した。
座り直して、両手で顔を覆った。
――落ち着け。
俺は、自分に言った。
状況を整理する。
一、今日は八月十六日である。
二、ここは東京ビッグサイトの東ホールである。
三、俺の隣に、女性が一人、三期のチカピョンの猫耳メイド版という、この世に存在しない格好で立っている。
四、その人は、俺の職場の同僚である。
五、四月一日に、俺は課の全員の前で「知り合い程度です」と言った。
……整理したら、悪化した。
「馬剃さん」
「はい」
「コスプレって、登録が要るんだけど」
「済ませました」
「え」
「更衣室で着替えました。登録番号は――」
「いい、もういい」
「登録料は、四百円でした」
「そこは言うんだ」
「事実ですので」
「衣装の値段は」
「申し上げられません」
「情報の出し方に差がある」
「四百円は、公表されている金額ですので」
「衣装は」
「公表されておりません」
「誰も公表しないよ、そんなの」
「……ですので、申し上げられませんっ」
「いくらだったの」
「五桁ですっ」
「桁だけ言った」
「桁までが、限界ですっ」
俺は、そこで、目線を落とした。
落とした先に、しっぽがあった。
――付け根。
十六年前、俺は同じ疑問を持った。
ツワブキ祭の朝、生徒会室である。
志喜屋先輩にはめられて猫耳メイド服を着せられた副会長が、耳まで赤くして立っていた。
あのとき俺が考えていたのは、しっぽの付け根の構造についてである。
考えて、聞けなかった。
十六年、その案件は未処理のまま俺の中に残っている。
俺の未処理案件のうち、たぶん、いちばん古い。
「――どこを、見ておられますかっ!」
しっぽが、両手で押さえられた。
押さえて、半歩下がられた。
「見てない」
「見ておられましたっ」
「見てないって」
「四秒ですっ」
「四秒」
「〇・五秒なら、視線の移動です。四秒は、凝視ですっ」
「基準が細かい」
「細かくしないと、こういうときに困りますっ!」
「困る場面が想定されてたんだ」
「――想定しておりましたっ!」
「想定したのに、来たんだ」
「…………」
「馬剃さん」
「その質問には、お答えできませんっ」
「規約は熟読しました。撮影については、サークルスペース内での撮影は不可です。ご希望の方には、コスプレエリアへの移動をご案内します」
完璧だった。
この人は、コミックマーケットの参加者マナーを、たぶん、俺より読みこんでいる。
「あの、馬剃さん」
「はい」
「なんで、来たの」
天愛星さんは、少し黙った。
「売り子です」
「いや、そうじゃなくて」
「本日は、売り子として参りました。会計と、在庫管理と、列の整理を担当します」
「そうじゃなくて」
「……」
「なんで、その格好で来たんだよ」
開場十分前のアナウンスが流れた。
天愛星さんは、猫耳を少し直した。
その仕草が、慣れていた。
「それ、直すの何回目」
「……七回目です」
「数えてるんだ」
「耳は、ずれます」
「そういう知見はいらない」
「重要な知見です」
「なんで重要なの」
「ずれた状態で人前に立つのは、キャラクターに失礼です」
「キャラクターに」
「失礼ですっ」
「馬剃さん、それ、けっこうオタクの言い方だよ」
「…………」
「あ、いま黙った」
「黙っておりませんっ」
「黙ってたって」
「……〇・八秒以内でしたので、沈黙には該当しませんっ」
「基準があるんだ」
「あります」
更衣室から歩いてくるあいだに、たぶん、何度もやったのだと思う。
「十六年前」
「はい」
「私は、これを着て、あなたに頼みごとをしました」
「……うん」
「今日は、頼みごとではありません」
彼女は、そう言って、俺の隣のパイプ椅子に座った。
「返しに来ました」
俺は、その言葉に、何も返せなかった。
返せないまま、開場のブザーが鳴った。
東ホールが、一斉に音を立てはじめた。
この瞬間の音を、俺は五年、知っている。
拍手と、足音と、放送と、それが全部混ざって、天井のあたりで一つになる音である。
天愛星さんが、背筋を伸ばした。
「温水さん」
「うん」
「頒布価格は」
「五百円」
「釣銭は」
「五百円玉が四十枚と、千円札が三十枚」
「不足します」
「え」
「百五十部です。五百円玉が四十枚では、確実に足りません」
――あ。
「両替に行きます。三分で戻ります」
「ああ、うん」
「その間、あなた一人になります」
「大丈夫。毎年一人だから」
天愛星さんは、そこで一度、止まった。
「……毎年、お一人なんですね」
「一人」
「五年間」
「五年間」
彼女は、それだけ聞いて、走っていった。
厚底のブーツで、東ホールを走っていった。