大学職員の僕たち   作:房吉

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~11敗目~ 東ホール、し-32b(前編)

 (七月十七日〜八月十六日/温水視点)

 

「お礼をさせてください」

 

「いや、いいって」

 

「させてください」

 

「いいって」

 

「させてください」

 

「三回目です」

 

「四回目まで行きます」

 

「予告するんだ」

 

「予告は、誠意です」

 

 七月十七日、木曜日、十七時二十分。

 

 俺は鞄を持ったまま、席の横に立っていた。

 立ったまま、十分が経っていた。

 

「なぜ拒否されるんですか」

 

「拒否っていうか」

 

「模擬プレゼンの件です」

 

「あれは業務」

 

「就業時間外でした」

 

「……」

 

「無給でした」

 

「……」

 

「秘密でした」

 

「三つ並べるなって」

 

「四つ目もあります」

 

「まだあるの」

 

「『私は、あなたに何も返していません』」

 

「それ、事実の話じゃないよね」

 

「事実ですっ」

 

「感想だろ、それ」

 

「――事実ですっ!」

 

 声が、フロアに響いた。

 

 定時から二十分過ぎた入試広報課である。

 人はいない。いないが、この人の声はよく通る。

 

 天愛星さんは、そこで、自分の声量に気づいた顔をした。

 

「……失礼しました」

 

「いや、いいけど」

 

「ですが、撤回はしません」

 

「撤回しないんだ」

 

「音量だけ、撤回します」

 

 天愛星さんは、椅子を回して、完全にこちらを向いていた。

 

 この体勢になった彼女は、動かない。

 六月の十日間で、俺はそれを学習している。

 

「じゃあ、飯でも奢って」

 

「安いです」

 

「安くないって。俺、けっこう食べるから」

 

「オープンキャンパスの件もあります」

 

「あれも業務」

 

「司会を任せていただきました」

 

「任せたっていうか、押しつけたっていうか」

 

「八百人の前に立たせていただきました」

 

 ――言い方。

 

 俺は、天井を見た。

 

 この人は、感謝を「させていただきました」の形で言う。

 言われると、断りにくい。断ると、こっちが相手の感謝を拒否したことになる。

 

 文科省で覚えたやつだろうか。

 それとも、生徒会か。

 

「では、伺います」

 

「うん」

 

「いま、いちばんお困りのことは何ですか」

 

 俺は、二秒だけ迷った。

 

 迷って、口が滑った。

 

「……原稿が、四割」

 

 天愛星さんの目が、すっと細くなった。

 

「締切は」

 

「七月二十八日」

 

「本日は十七日です」

 

「うん」

 

「十一日ですね」

 

「……うん」

 

「承知しました」

 

「え」

 

「本日から、参ります」

 

「いや、待って」

 

「どちらへ伺えばよろしいですか」

 

「待って待って」

 

「大学の休憩室でよろしいでしょうか。それとも、カラオケボックス――」

 

「馬剃さん!」

 

 俺は、声を上げた。

 

 上げてから、周りを見た。

 誰もいなかった。よかった。

 

「あの、これ、完全に趣味だから」

 

「存じております」

 

「大学の仕事じゃないから」

 

「存じております」

 

「手伝ってもらうようなもんじゃないって」

 

「その判断は、私がします」

 

 天愛星さんは、鞄を持って立ち上がった。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「六月に、あなたは私に、十日間、無給で付き合いました」

 

「……はい」

 

「あれは、あなたの判断でした」

 

「はい」

 

「今回は、私の判断です」

 

 ……理屈が、通っている。

 

 通っているのが、いちばん困る。

 

 同人誌を作るというのは、要するに、締切と戦う行為である。

 

 毎年、俺は同じことを言っている。

 

 「今年は早めにやる」

 「今年は七月頭に八割いく」

 「今年こそ余裕を持つ」

 

 十一回言って、十一回守れなかった。

 

 理由は、六月と七月に仕事のピークが来るからだ。

 六月に十七件の相談会があって、七月にオープンキャンパスの準備がある。

 

 言い訳としては、たぶん、七割くらい正当である。

 

 残りの三割は、単に俺が先延ばしにする人間だからだ。

 

 

 

 

 七月十七日、十九時。

 

 俺の家である。

 

 いや、正確には、家ではない。

 

 一人暮らしなので、人を上げること自体は、理論上、可能である。

 

 問題は、押し入れだった。

 

 押し入れの下段に、十一年ぶんの売れ残りが積んである。

 その手前に、去年出しそびれた段ボールが四つある。

 

 あそこを開けた人間は、たぶん、二度と俺の顔を見ない。

 

 選んだのは、駅前のファミリーレストランだった。

 電源のある席がある店を、俺は都内で四軒知っている。

 

「Wi-Fiは」

 

「ある」

 

「電源は」

 

「窓際の四席だけ」

 

「では、そこにしましょう」

 

 俺は、ノートパソコンを開いた。

 

 画面に出ているのは、エクセルである。

 

 行が、四千二百ある。

 

「……これは」

 

「今年の本のデータ」

 

「四千二百行」

 

「二〇〇〇年から去年までの、ライトノベルの刊行データ。レーベル別、月別」

 

 天愛星さんが、画面に顔を近づけた。

 

「出典は」

 

「出版年鑑と、各社のサイトと、あと個人の方が公開してるデータベース」

 

「三種類の突合を、手作業で?」

 

「手作業」

 

「……四千二百行を」

 

「四千二百行」

 

 天愛星さんが、俺を見た。

 

「なぜ、そのようなことを」

 

「趣味だから」

 

「なぜ、関数を使わないんですか」

 

「使えないから」

 

「……エクセルは、十二年お使いですよね」

 

「使ってる」

 

「関数を、使わずに」

 

「電卓で」

 

「電卓」

 

「あと、指」

 

「…………」

 

「馬剃さん、いま、なにか言いたそうな顔してる」

 

「しておりません」

 

「してる」

 

「……して、おりますっ」

 

「言っていいよ」

 

「もったいないですっ! 二か月ですっ! 二か月というのは、一年の六分の一ですっ! あなたは一年の六分の一を、関数一本で片づく作業に使ったんですっ!」

 

「言い方がすごい」

 

「事実ですっ」

 

「事実だけど、俺、けっこう楽しかったよ」

 

「…………」

 

「馬剃さん?」

 

「……そういうことを、言わないでくださいっ」

 

「なんで怒られてるの」

 

「怒っておりませんっ」

 

 

 

 

「――お預かりします」

 

 

 

 

 その日から十一日間で、俺の同人誌の質は、たぶん、五年ぶんくらい上がった。

 

 まず、彼女は突合を三時間で終わらせた。

 

 俺が二か月かけていた作業である。

 

 やり方を聞いたら、「キーを揃えて、条件付き書式で差分を出しただけです」と言われた。

 言われても、俺には分からない。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「それ、俺が二か月かけたやつ」

 

「はい」

 

「三時間だな」

 

「はい」

 

「……」

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「二か月かけて手作業をされたことに、意味がなかったわけではありません」

 

「フォローが優しい」

 

「事実です。手で触ったから、どこが怪しいかを覚えていらっしゃいます」

 

 ――そういう言い方をする。

 

 この人は、人の無駄を、無駄と言わない。

 

 六月に、俺は彼女の四十枚を捨てさせた。

 捨てさせて、「中身は捨てないです」と言った。

 

 同じことを、いま、やり返されている。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「十四か所、不一致があります」

 

「え」

 

「うち九か所は、出版年鑑側の誤りです。ISBNから確認しました」

 

「……ISBN」

 

「残り五か所は、あなたの入力ミスです」

 

「あ、うん」

 

「二〇一七年に、三か所集中しています」

 

 ――二〇一七年。

 

 俺は、その年に何をしていたかを思い出そうとした。

 

 思い出した。

 大学病院の医事課にいた年である。

 

 あの年、俺は毎日、診療報酬の点数を数えていた。

 数えながら、家に帰って、また数字を打っていた。

 

 三か所間違えるくらい、しても仕方ない。

 

「……直す」

 

「直しました」

 

「早い」

 

「三分です」

 

 

 

 

 二日目には、グラフの話になった。

 

「温水さん、この折れ線は、何を示すものですか」

 

「レーベル別の刊行点数の推移」

 

「レーベルが、十七本入っています」

 

「十七レーベルあるから」

 

「読めません」

 

「読めないかな」

 

「読めません。人間の目は、折れ線を五本までしか追えません」

 

 俺は、画面を見た。

 

 たしかに、読めなかった。

 

 五年間、俺はこのグラフを載せている。

 五年間、誰にも「読めない」と言われたことがなかった。

 

 ……言われなかっただけか。

 

「では、どうすれば」

 

「上位五本を線にして、残りは面で積みます」

 

「面」

 

「面積グラフです。合計の推移と、上位の内訳が同時に見えます」

 

「……作れます?」

 

「作れます」

 

 六分で、できた。

 

 六分である。

 

 俺は、去年、そのグラフを作るのに二時間かけた。

 かけて、十七本の折れ線を引いて、それを「見づらいけど、まあ、データだから」と思って載せた。

 

 俺は、その画面を、たぶん一分くらい見ていた。

 

 二十四年ぶんの棒が、静かに積み上がっていた。

 

 色が、五色しかない。

 五色しかないのに、去年の十七本より、はるかに多くのことが分かる。

 

 二〇〇〇年から二十四年ぶんの、業界の呼吸が、そこにあった。

 

 二〇〇六年から二〇一二年にかけて膨らんで、そこから細くなって、二〇一九年でもう一度膨らんで、いままた細くなっている。

 

 俺が言いたかったのは、これである。

 

 五年間、俺はこれを言いたくて、読めない折れ線を十七本引いていた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「……すごいな」

 

「グラフです」

 

「グラフだけど」

 

「エクセルの標準機能です」

 

「そうなんだけど」

 

 天愛星さんは、こちらを見なかった。

 

 見ないまま、次のシートを開いた。

 

 耳が、少し赤かった。

 

 

 

 

 七月二十二日、火曜日。

 

 この日から、彼女は本文を読みはじめた。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「この序文ですが」

 

「はい」

 

「読者は、誰でしょうか」

 

 ……出た。

 

 これは、六月に俺が彼女に言ったやつである。

 

「えっと、この本を買う人」

 

「その方は、なぜこの本を買うのでしょうか」

 

「……データが見たいから?」

 

「では、なぜあなたのデータでなければならないのですか」

 

 俺は、コーラを一口飲んだ。

 

 答えは、ある。

 

 あるが、言葉になっていない。

 

「……たぶん、公式の統計だと、レーベルの気配が出ないんだよ」

 

「気配」

 

「うん。数字は出るんだけど、どのレーベルがどの時期に何をやろうとしてたかが、出ない」

 

「あなたのデータには、出ると」

 

「出るように、並べてるつもり」

 

 天愛星さんが、ペンを置いた。

 

「それを、序文に書いてください」

 

「え」

 

「いま、あなたが言ったことを、そのまま書いてください」

 

「……いま?」

 

「いまです。三分以内に。考えると、悪くなります」

 

 ――言い方が、俺だ。

 

 

 

 

 十一日間、俺たちはファミリーレストランに七回通った。

 

 残りの四日は、大学の休憩室である。

 休憩室は二十一時に施錠されるので、それまでしかいられない。

 

 七回目には、店員に顔を覚えられていた。

 

「いつもの窓際、空いてますよ」

 

「あ、どうも」

 

「……『いつもの』に、なりましたね」

 

「なったね」

 

「常連の定義を満たしています。週三回以上の来店が二週間」

 

「その定義、どこの」

 

「私です」

 

「出典、全部そこなんだよなあ」

 

「信頼できる出典です」

 

「自分で言うんだ」

 

「では、反証をどうぞ」

 

「反証」

 

「週三回未満で常連と呼ばれる事例を、一件でも」

 

「……うちの近所のラーメン屋、月一で名前覚えられてる」

 

「頻度ではなく、顔の印象です。それは定義外ですっ」

 

「定義、いま増えた?」

 

「補足しましたっ」

 

「補足は、あとから足すもんじゃないんだよなあ」

 

「――役所は、いつも、あとから足しますっ」

 

「開き直った」

 

「……失礼しました」

 

 この人は、追いこまれると、いた場所のせいにする。

 

 役所のせいにして、それから、自分で自分の襟を正す。

 

 四月からずっと、この順番である。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「では、伺いますが」

 

「うん」

 

「あなたは、この店の常連ですか」

 

「常連ではないな。今年で三軒目だし」

 

「……三軒目」

 

「毎年、店を変えてる。同じ店に三年通うと、なんか、居づらくて」

 

「なぜですか」

 

「顔を覚えられるから」

 

「…………」

 

「馬剃さん?」

 

「……今年は、覚えられましたね」

 

「覚えられたね」

 

「私が、一緒だったからです」

 

「そうだね」

 

「……いえ、いまのは」

 

「取り消さないよ」

 

「取り消してくださいっ」

 

「他に、誰も言ってくれませんので」

 

「……」

 

「いまのは、忘れてください」

 

「忘れない」

 

「忘れてくださいっ」

 

 彼女は、一度も「疲れた」と言わなかった。

 

 俺は三回言った。

 三回目のとき、彼女は画面から顔も上げずに言った。

 

「疲れたと口に出すと、二割増しで疲れます」

 

「その数字の出典は」

 

「私です」

 

 途中で一回だけ、変な会話があった。

 

 七月二十四日の、二十二時ごろである。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「この本は、毎年、何部ほど出るのですか」

 

「去年が、九十部」

 

「九十」

 

「持ちこみが百二十で、残ったのが三十」

 

「……残るのですか」

 

「残る。だいたい毎年」

 

 天愛星さんが、ペンを止めた。

 

「残った本は、どうされるんですか」

 

「家にある」

 

「何年ぶんですか」

 

「……十一年ぶん」

 

「十一年」

 

「押し入れ」

 

 彼女は、しばらく黙っていた。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「今年は、残らないと思います」

 

「なんで」

 

「グラフが、よくなりましたので」

 

 俺は、そのとき、少し笑ってしまった。

 

 この人は、自分がやったことを「グラフが」と言う。

 「私が」とは言わない。

 

 四月からずっとそうだ。

 

 

 

 

 七月二十八日、月曜日、二十三時四十分。

 

「温水さん、入稿前の最終確認を」

 

「した」

 

「ページ番号の順序は」

 

「見た」

 

「奥付の発行日は」

 

「……」

 

「奥付の、発行日は」

 

「……見てない」

 

 見たら、去年の日付だった。

 

「なってなかった。去年のままだった」

 

「毎年の事故です、それは」

 

「なんで知ってるの」

 

「印刷所のよくある質問に、太字で書いてありました」

 

「よくある質問、読んだんですか」

 

「全項目、読みました」

 

「何項目」

 

「六十三項目です」

 

「俺、五年読んでない」

 

「読んでください」

 

「読まないな」

 

「読んでくださいっ」

 

 入稿ボタンを押した。

 

 押した瞬間、俺は椅子の背にもたれた。

 

「……終わった」

 

「お疲れさまでした」

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「ありがとうございました」

 

「いえ」

 

「本当に、ありがとうございました」

 

「二回言わなくて結構です」

 

 彼女は、そう言って、ノートパソコンを閉じた。

 

 閉じてから、一つだけ聞いてきた。

 

「当日は、いつですか」

 

「八月十六日」

 

「場所は」

 

「東京ビッグサイト」

 

「何時からですか」

 

「一般入場が十一時。設営は八時から」

 

 俺は、そこで一応、言った。

 

「馬剃さん、来なくていいからね」

 

「行きません」

 

「そう」

 

「行きません」

 

「二回言ったな」

 

「二回言いました」

 

「なんで二回」

 

「一回では、信じていただけないかと思いまして」

 

「三回言うと本当になるって、前に俺が言いましたよね」

 

「……二回で、止めました」

 

「なんで」

 

「…………」

 

「馬剃さん」

 

「その質問には、お答えできませんっ」

 

 二回言った。

 

 しかも、二回言った理由まで説明した。

 

 俺は、そのとき、少しだけ変だなと思った。

 

 この人は、嘘をつくときに、余計な情報を足す。

 

 ――というのは、四月に俺が言われたことである。

 言われたのは俺のほうだが、たぶん、この癖は人類共通だ。

 

 思ったが、眠かったので、考えなかった。

 

 

 

 

 八月九日のオープンキャンパスは、無事に終わった。

 

 三千百十二人が来て、三千百十二人が帰った。

 救急搬送ゼロ、迷子ゼロ、事故ゼロである。

 

 落雷で三分停電したが、あれは事故にカウントしない。

 

 俺は、あの三分間、客席の後ろにいた。

 

 いて、何もしなかった。

 

 正確には、無線に一回だけ喋った。

 

 二号館の中継が落ちたので、大貫に「任せた」と言った。

 それだけである。

 

 三千人が動いている日の、実行委員長の三分間の仕事が、それだった。

 

 舞台の上で、あの人が台本を床に置くのが見えた。

 

 置いて、中央まで歩いて、息を吸って、そして喋りだした。

 

 地声だった。

 

 届いていた。

 

 あのとき、俺は、たぶん一回、泣きそうになった。

 

 いい大人が、真っ暗な講堂の後ろで、部下の司会を見て泣きそうになる。

 

 絵面としては最悪である。

 

 誰も見ていなかったので、なかったことにした。

 

 撤収のあと、大講堂で二人になったとき、俺は「めちゃくちゃよかったです」と言った。

 

 言えたのは、それだけである。

 

 言いたかったことは、たぶん、あと五つくらいあった。

 

 五つとも、言わなかった。

 

 言わないまま、八月十六日になった。

 

 

 

 

 八月十六日、土曜日。

 

 六時四十分、りんかい線。

 

 この時間の電車には、独特の空気がある。

 

 スーツの人がいない。

 全員、大きい荷物を持っていて、全員、目的地が同じである。

 

 俺は五年、この電車に乗っている。

 

 この日のために、有給を一日も使っていない。

 

 八月十六日は土曜日だった。

 つまり、俺は五年間、この日を「たまたま土日にあたる日」として過ごしている。

 

 平日にあたる年もある。

 その年は、有給を取る。取るときに、理由は書かない。うちは書かなくていい。

 

 電車の中で、俺は一度、スマホを見た。

 

 通知は、なかった。

 

 ……見た自分に、少し呆れた。

 

 東ホールの、し-32b。

 

 スペースは、机の半分である。

 九十センチの半分で、四十五センチ。

 

 俺の島は、評論・情報のジャンルだった。

 右隣が鉄道の時刻表を研究している方で、左隣が全国のダムの放流量をまとめている方である。

 

 両隣とも、五年目の顔なじみだ。

 

「温水さん、おはようございます」

 

「おはようございます。今年も暑いですね」

 

「今年は空調が効いてますよ」

 

「本当ですか」

 

「嘘です」

 

 ダム側の方が、差し入れだと言って、塩タブレットを一粒くれた。

 

「今年の新刊は、放流量ですか」

 

「ダムカードの配布実績に方向転換しました」

 

「攻めましたね」

 

「攻めました」

 

 あとで一冊、買いに行くことにする。五年目の慣例である。

 

 設営は、二十分で終わる。

 

 布を敷いて、見本誌を立てて、値札を出して、釣銭を確認する。

 

 持ちこんだのは、百五十部だった。

 

 去年が九十部で、一昨年が八十部である。

 今年は多めに刷った。理由は、グラフがよくなったからだ。

 

 刷る数を決めるとき、俺は三日迷った。

 

 百二十にするか、百五十にするか。

 差は、三十部である。単価にして、六千円くらいだ。

 

 三日迷って、百五十にした。

 

 迷った理由は、金ではない。

 残ったときに、押し入れが十二年ぶんになるからである。

 

 ……あと、もう一つある。

 

 「今年は、残らないと思います」と言った人がいた。

 

 あの人が言うと、なんというか、そうなりそうな気がしたのだ。

 

 根拠はない。

 根拠はないが、あの人は四月から、根拠のないことを一度も言っていない。

 

 

 

 

 十時五十分。

 

 あと十分で開場である。

 

 俺は、椅子に座って、ペットボトルの水を飲んでいた。

 

「――温水さん」

 

 顔を上げた。

 

 俺の思考が、止まった。

 

 

 

 

 ピンクだった。

 

 ピンクの、なんというか、ワンピースというか、上下というか。

 スカートの丈が短くて、その下に白いタイツがあって、足元が厚底のブーツだった。

 

 肩に、白いファーがついている。

 

 そこまでは、チカピョンである。

 

 三期の、チカピョンである。

 

 問題は、その上だった。

 

 

 

 

 白い、エプロンがあった。

 

 

 

 

 フリルのついた、白いエプロンである。

 

 袖口に、白いカフス。

 首元に、黒いリボン。

 

 腰のうしろで、エプロンの紐が大きく結ばれていて、その結び目の下から、しっぽが出ていた。

 

 頭に、猫耳がついている。

 

 そして、髪が、両側で結ばれていた。

 

 耳の上のあたりで、小さく。

 

 

 

 

 ――ツーサイドアップ。

 

 

 

 

 俺の手から、ペットボトルが落ちた。

 

 落ちて、床で二回跳ねて、通路のほうへ転がっていった。

 

 俺は、それを拾おうとして立ち上がった。

 

 立ち上がった膝が、机の裏を叩いた。

 

 机の上の釣銭箱が跳ねた。

 

 

 

 

 じゃらじゃら、である。

 

 

 

 

 五百円玉が四十枚、東ホールの床に、放射状に散っていった。

 

 俺は、それを見ていた。

 

 見ていたが、拾わなかった。

 

 拾えなかった。

 

 

 

 

 ――家に、フィギュアがある。

 

 

 

 

 三期のチカピョンである。

 

 去年の秋に買った。

 買って、そのまま飾っておけばよかったものを、俺は十二月に、猫耳としっぽとエプロンのパーツを別のメーカーから取り寄せて、着せ替えた。

 

 二時間かかった。

 

 二時間かけながら、俺は自分に「資料である」と言い聞かせた。

 

 資料ではない。

 

 あれは、欲望である。

 

 画像フォルダの枚数については、いま数えない。

 

 

 

 

 その欲望が、いま、東ホールの通路に立っている。

 

 

 

 

 しかも、本人である。

 

「……馬剃さん」

 

「はい」

 

「え」

 

「はい」

 

「え?」

 

 天愛星さんは、まっすぐ立っていた。

 

 入試広報課の馬剃天愛星が、コミックマーケットの東ホールで、まっすぐ立っていた。

 

 立ったまま、床の五百円玉を見た。

 

「……お拾いします」

 

「あ、うん」

 

「四十枚です」

 

「数えたの」

 

「音で、分かります」

 

「行かないって、二回言ったよな」

 

「言いました」

 

「二回」

 

「二回です」

 

「嘘だったの?」

 

「嘘です」

 

 即答だった。

 

「……その、格好は」

 

「アニメ『ギリギリアウトな女たち』の、チカピョンです」

 

「知ってる」

 

「三期のバージョンです」

 

「知ってるって!」

 

「……猫耳と、しっぽと、エプロンつきの」

 

「知って――待って」

 

「はい」

 

「三期に、メイド回あったっけ」

 

「ありません」

 

「ないよね」

 

「ありませんので、追加しました」

 

「追加」

 

「追加ですっ」

 

「なんで」

 

「……仕様です」

 

「誰が決めた仕様」

 

「――私ですっ」

 

 出典は、いつも、そこである。

 

 ――知ってる。

 

 十六年前、この人は、これを着て俺の前に立ち塞がった。

 

 選挙の前だった。

 あのとき着ていたのは、二期の衣装である。青いやつだ。

 

 あの日のことを、俺は、たぶん正確に覚えている。

 

 放課後の廊下だった。

 俺は帰ろうとしていて、曲がり角の向こうに、それが立っていた。

 

 最初、何かのイベントかと思った。

 思って、次に、それが誰かを理解して、それから、三秒くらい脳が止まった。

 

 あのとき、この人は、耳まで赤かった。

 

 赤いまま、頼みごとをした。

 

 いま、この人は、赤くなっていない。

 

 ……いや。

 

 よく見ると、耳が、少し赤かった。

 

 三期は、去年やった。

 

 衣装が、変わっている。

 

「なんで、三期」

 

「二期の衣装は、もう手元にありませんので」

 

「いや、そうじゃなくて」

 

「三期は、昨年放送されました。現行のバージョンで臨むのが適切だと判断しました」

 

「適切」

 

「はい」

 

「どこで手に入れたんだよ」

 

「発注しました」

 

「発注」

 

「オーダーメイドです」

 

「……いくらしたの」

 

「申し上げられません」

 

 俺は、椅子に座り直した。

 

 座り直して、両手で顔を覆った。

 

 ――落ち着け。

 

 俺は、自分に言った。

 

 状況を整理する。

 

 一、今日は八月十六日である。

 二、ここは東京ビッグサイトの東ホールである。

 三、俺の隣に、女性が一人、三期のチカピョンの猫耳メイド版という、この世に存在しない格好で立っている。

 四、その人は、俺の職場の同僚である。

 五、四月一日に、俺は課の全員の前で「知り合い程度です」と言った。

 

 ……整理したら、悪化した。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「コスプレって、登録が要るんだけど」

 

「済ませました」

 

「え」

 

「更衣室で着替えました。登録番号は――」

 

「いい、もういい」

 

「登録料は、四百円でした」

 

「そこは言うんだ」

 

「事実ですので」

 

「衣装の値段は」

 

「申し上げられません」

 

「情報の出し方に差がある」

 

「四百円は、公表されている金額ですので」

 

「衣装は」

 

「公表されておりません」

 

「誰も公表しないよ、そんなの」

 

「……ですので、申し上げられませんっ」

 

「いくらだったの」

 

「五桁ですっ」

 

「桁だけ言った」

 

「桁までが、限界ですっ」

 

 俺は、そこで、目線を落とした。

 

 落とした先に、しっぽがあった。

 

 

 

 

 ――付け根。

 

 

 

 

 十六年前、俺は同じ疑問を持った。

 

 ツワブキ祭の朝、生徒会室である。

 

 志喜屋先輩にはめられて猫耳メイド服を着せられた副会長が、耳まで赤くして立っていた。

 あのとき俺が考えていたのは、しっぽの付け根の構造についてである。

 

 考えて、聞けなかった。

 

 十六年、その案件は未処理のまま俺の中に残っている。

 

 俺の未処理案件のうち、たぶん、いちばん古い。

 

「――どこを、見ておられますかっ!」

 

 しっぽが、両手で押さえられた。

 

 押さえて、半歩下がられた。

 

「見てない」

 

「見ておられましたっ」

 

「見てないって」

 

「四秒ですっ」

 

「四秒」

 

「〇・五秒なら、視線の移動です。四秒は、凝視ですっ」

 

「基準が細かい」

 

「細かくしないと、こういうときに困りますっ!」

 

「困る場面が想定されてたんだ」

 

「――想定しておりましたっ!」

 

「想定したのに、来たんだ」

 

「…………」

 

「馬剃さん」

 

「その質問には、お答えできませんっ」

 

「規約は熟読しました。撮影については、サークルスペース内での撮影は不可です。ご希望の方には、コスプレエリアへの移動をご案内します」

 

 完璧だった。

 

 この人は、コミックマーケットの参加者マナーを、たぶん、俺より読みこんでいる。

 

「あの、馬剃さん」

 

「はい」

 

「なんで、来たの」

 

 天愛星さんは、少し黙った。

 

「売り子です」

 

「いや、そうじゃなくて」

 

「本日は、売り子として参りました。会計と、在庫管理と、列の整理を担当します」

 

「そうじゃなくて」

 

「……」

 

「なんで、その格好で来たんだよ」

 

 開場十分前のアナウンスが流れた。

 

 天愛星さんは、猫耳を少し直した。

 

 その仕草が、慣れていた。

 

「それ、直すの何回目」

 

「……七回目です」

 

「数えてるんだ」

 

「耳は、ずれます」

 

「そういう知見はいらない」

 

「重要な知見です」

 

「なんで重要なの」

 

「ずれた状態で人前に立つのは、キャラクターに失礼です」

 

「キャラクターに」

 

「失礼ですっ」

 

「馬剃さん、それ、けっこうオタクの言い方だよ」

 

「…………」

 

「あ、いま黙った」

 

「黙っておりませんっ」

 

「黙ってたって」

 

「……〇・八秒以内でしたので、沈黙には該当しませんっ」

 

「基準があるんだ」

 

「あります」

 

 更衣室から歩いてくるあいだに、たぶん、何度もやったのだと思う。

 

「十六年前」

 

「はい」

 

「私は、これを着て、あなたに頼みごとをしました」

 

「……うん」

 

「今日は、頼みごとではありません」

 

 彼女は、そう言って、俺の隣のパイプ椅子に座った。

 

 

 

 

「返しに来ました」

 

 

 

 

 俺は、その言葉に、何も返せなかった。

 

 返せないまま、開場のブザーが鳴った。

 

 東ホールが、一斉に音を立てはじめた。

 

 この瞬間の音を、俺は五年、知っている。

 拍手と、足音と、放送と、それが全部混ざって、天井のあたりで一つになる音である。

 

 天愛星さんが、背筋を伸ばした。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「頒布価格は」

 

「五百円」

 

「釣銭は」

 

「五百円玉が四十枚と、千円札が三十枚」

 

「不足します」

 

「え」

 

「百五十部です。五百円玉が四十枚では、確実に足りません」

 

 ――あ。

 

「両替に行きます。三分で戻ります」

 

「ああ、うん」

 

「その間、あなた一人になります」

 

「大丈夫。毎年一人だから」

 

 

 

 

 天愛星さんは、そこで一度、止まった。

 

「……毎年、お一人なんですね」

 

「一人」

 

「五年間」

 

「五年間」

 

 彼女は、それだけ聞いて、走っていった。

 

 厚底のブーツで、東ホールを走っていった。

 

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