(八月十六日/温水視点)
十一時、開場。
最初の一時間で、六十二部出た。
六十二部という数字を、俺は、たぶん一生忘れない。
去年の一日ぶんが、九十部である。
それを、一時間で三分の二までいった。
十一時四十分の時点で、俺は状況が理解できていなかった。
「馬剃さん」
「はい」
「なんか、人が来てるんだけど」
「来ていますね」
「なんで?」
「見本誌です」
彼女は、列を見ながら答えた。
「開いてあるページを、変えました」
「え」
「面積グラフのページです。通路から見えるように、角度をつけて立ててあります」
「……いつ」
「設営中に。ご相談せずに変更しました。申し訳ありません」
「いや、いいけど」
「通りかかった方が、足を止めます。足を止めた方は、見本誌を手に取ります。手に取った方は、七割ほど購入されます」
「数えてるの?」
「記録は取ります」
「なんの記録」
「通過人数と、停止人数と、購入人数です」
「それ、いま数えながら売ってるの」
「並行処理ですっ」
……この人、開場から四十分で、うちのブースの転換率を出している。
途中、「既刊はありますか」と聞かれた。
「すみません、今年は新刊だけで」
「じゃあ来年、これが既刊になったやつを」
「……残ってたら」
残らない予定である。隣で、売り子が小さくうなずいた。
結論から言うと、百五十部は、十三時四十分に完売した。
俺の島は、そんなに人が来るところではない。
評論・情報の、しかもライトノベルの統計である。
毎年、十二時までに三十部出れば上出来だった。
今年は、十一時十二分に、列ができた。
列の理由は、二つある。
一つは、グラフである。
見本誌を立ててあるページを、彼女が変えた。
開場前に、彼女が「ここを開いておきましょう」と言って、面積グラフのページを見せる形にした。
通りかかった人が、足を止める。
止まって、見本誌を手に取る。取ると、たいてい買う。
もう一つは、言うまでもない。
「五百円になります。ありがとうございます」
天愛星さんは、恐ろしく速かった。
釣銭を出す手が、速い。
列の三人先まで見ていて、千円札の人と五百円玉の人を、先に分けている。
途中から、俺は本を取るだけになった。
取るだけになったので、手が空いた。
空いた視線が、隣にいった。
天愛星さんは、背筋をまっすぐにして座っていた。
釣銭を渡すとき、両手を添える。
渡し終わると、相手の目を見て、小さく頭を下げる。角度は、毎回同じである。
猫耳の下で、まとめた髪が少し揺れていた。
うなじに、小さなホクロがある。
十六年前と、同じ場所である。
……当たり前だ。ホクロは動かない。
動かないと分かっているのに、俺は、同じ場所にあることを確認していた。
――生徒会室だ。
十六年前、申請書を持っていくたびに、この人はこの姿勢で座っていた。
書類に向かうときの背筋と、紙をそろえる指と、真剣なときに少しだけ寄る眉。
全部、同じだった。
十六年、ちゃんと経っている。
経っているのに、隣の横顔だけが、経っていなかった。
……いや、違う。
経っている。
経った上で、同じなのだ。それは、たぶん、変わっていないことより重い。
俺は、そこで自分の思考に気づいて、頭の中のラノベの棚を探した。
「文化祭で売り子をするヒロインに見とれる主人公」は、あるあるの構図である。
あるあるなので、処理できるはずだった。
できなかった。
この売り子は、俺の棚の、どこにもいなかった。
「温水さん」
「はい」
「手が、止まっています」
「……すみません」
「三冊、遅れています」
「はい」
「温水さん」
「はい」
「なにを、見ておられましたか」
「……見てないです」
「本日、二回目の『見ていない』ですっ」
「数えてるんだ」
「数えますっ」
俺は、本を取る作業に戻った。
戻ったが、遅れた三冊ぶんの理由は、言わなかった。
列の中に、去年も来てくれた常連の方がいた。
「今年、様子が違いますね」
「グラフが、よくなったんで」
俺は、そう答えた。借り物の言葉である。
「温水さん」
「うん」
「残り四十二部です」
「え、もう?」
「十二時三十分の時点で、四十二部です。あと一時間で切れます」
「……」
「頒布制限をかけますか」
「かけない」
「よろしいのですか」
「並んでくれた人に、一冊ずつ渡したい」
「……承知しました」
「あと、そのほうが気持ちいいから」
「……それも、記録します」
「最後尾札は、どなたが持つのですか」
「並んでる人の最後の人。渡すと、みんな普通に持ってくれる」
「……初対面の方に、札を」
「持ってくれるんだよ、これが」
「不思議な場所です」
「不思議かな」
「役所で、初対面の方に何かを預けたことは、十年で一度もありません」
「まあ、そうだろうね」
「ここは、預けますね」
「預けるね」
「では、完売時のアナウンス文を用意します」
「用意するんだ」
「列の最後尾の方に、事前にお伝えする必要があります」
「文面は」
「『まもなく頒布終了です。おおよそ、あと二十名様で完売いたします』」
「おおよそ、が入るんだ」
「断定して外すと、信用に関わりますので」
「役所っぽい」
「役所で覚えました」
「使いどころが独特だな」
「応用ですっ」
この人は、たぶん、コミケの運営をやらせても優秀である。
十二時前、鉄道の方が「西のカレー、四十分待ちだそうです」と情報をくれた。
「並ばれるのですか」
「並ばないです。これが昼です」
「昼食は、四十分待つ価値がある行事では」
「ないです。本が優先なんで」
「……理解しました」
俺は、鞄からゼリー飲料を出した。
「……それが、昼ですか」
「コミケの昼です」
「文化ですか」
「文化です」
「では、来年は、私が用意します」
「来年」
「――仮定の話ですっ」
十二時を過ぎたあたりで、両隣の方が声をかけてきた。
「温水さん、今年すごいですね」
「なんか、そうみたいで」
「あと、その、そちらの方は」
「あ、うちの、えっと」
――なんだ。
俺は、そこで詰まった。
同僚である。
同僚だが、「同僚がチカピョンの格好でうちの売り子をやっています」という説明は、成立しない。
「売り子の馬剃と申します。本日はよろしくお願いいたします」
天愛星さんが、座ったまま、きれいに頭を下げた。
鉄道の方も、ダムの方も、少し姿勢を正した。
「あ、はい、こちらこそ」
「あの、なにかありましたら、お声がけください」
「はい」
……名刺を出さなくてよかった。
出しかねない人である。
「馬剃さん」
「はい」
「名刺、持ってきてる?」
「持参しております」
「なんで」
「万が一です」
「万が一って、この前〇・〇一パーセントって言ってましたよね」
「本日は、三パーセントと見積もっております」
「上がってる」
「場所が場所ですので」
十二時半に、交代で昼休憩を取ることにした。
「四十五分で戻ります」
「一時間でいいよ」
「四十五分です」
彼女は、そう言って、立ち上がった。
立ち上がる前に、手帳を確認していた。
開いたページに、会場の見取り図が貼ってあった。丸が、十九個ついていた。
「馬剃さん、それ」
「昼食の、経路の確認です」
「丸、十九個あるけど」
「……経路上の、確認事項です」
チカピョンが、島と島のあいだを、まっすぐ歩いていった。
迷いのない歩き方だった。
初めて来た場所の、歩き方ではなかった。
四十四分後、彼女は戻ってきた。
両手に、紙袋が三つあった。
ぱんぱんである。
あと、鼻の下に、赤い筋が一本あった。
「……昼飯は」
「摂りました。ゼリー飲料を、立ち止まって」
「歩きながらじゃなくて」
「歩行中の飲食は、推奨されていません」
「そこは守るんだ」
「はい」
「あと、馬剃さん」
「はい」
「鼻血、出てます」
「……」
彼女の手が、止まった。
止まって、それから、鞄からポケットティッシュが出てきた。
出てくるまで、一秒かからなかった。
「出ていません」
「もう拭いてるじゃん」
「……乾燥です」
「八月だよ」
「会場の空調による、乾燥です」
「今日の東ホール、たぶん湿度八十あるけどな」
「……個人の乾燥です」
「個人の乾燥ってなに」
「――う、うるさいですねっ!」
声が、ひっくり返った。
入試広報課の職員が、東京ビッグサイトの東ホールで、立ち上がっていた。
立ち上がった拍子に、パイプ椅子が後ろに倒れた。
がしゃん。
東ホールの喧騒の中で、その一連だけが、やけにくっきり通った。
両隣の島が、そろってこちらを見た。
「乾燥ですっ! 乾燥ですし、それ以上でもそれ以下でもありませんっ! 私の鼻腔の状態は、私の管轄ですっ!」
「管轄」
「管轄ですっ!」
天愛星さんは、かあっ、と首まで赤くなって、それから、ぴん、と背筋を伸ばした。
伸ばしてから、椅子が倒れていることに気づいた。
気づいて、そろそろと起こした。
起こして、座った。
「……失礼しました。ただいまのは、記録しないでください」
「してないよ」
「頭の中もです」
「そこまで没収されるんですか」
「没収しますっ」
「没収の根拠は」
「――ありませんっ」
「ないんだ」
「ありませんが、しますっ」
彼女は、ティッシュを小さく畳んで、まっすぐ前を見た。
耳が、赤かった。
鼻血の余りでは、ないと思う。
俺は、それ以上、追及しなかった。
しなかったが、一つだけ思い出していた。
この人の鼻血を見るのは、十六年ぶり、二回目である。
一回目は体育館の壇上で、全校生徒の前だった。あのときは、絶叫がついていた。
今回は、無言である。
……静かになったぶん、たぶん、こっちのほうが重症である。
俺は、紙袋に目をやった。
いちばん上の袋から、サークル名の入った紙が見えていた。
見覚えのある名前だった。正確には、名前ではなく、そのジャンルに見覚えがあった。
俺は、五年この会場にいる。
どの島が何の島かくらいは、分かる。
「……それは」
「調査です」
「調査」
「業務外の、個人的な調査です」
「調査で、鼻血が出る?」
天愛星さんの肩が、びくっ、と跳ねた。
跳ねて、紙袋を両手で抱えこんだ。
抱えこんでから、抱えこんだことに自分で気づいて、そろそろと下ろした。
「……体質です」
「体質」
「昔からの体質です。ご存じのはずですが」
「まあ、知ってるけど」
「では、話は終わりです」
「何冊」
「……二十四冊です」
「即答なんだ」
「精算のためです。合計、一万八千四百円でした」
「聞いてないです」
「一冊あたり、七百六十六円です」
「割らなくていい」
「単価は、重要な指標ですっ」
「その単価、俺に報告する必要ある?」
「…………」
「ないよね」
「……ありませんっ」
彼女は、紙袋を机の下の、いちばん奥に置いた。
置き方が、丁寧だった。
荷物というより、預かり物の置き方だった。
「というか、初めて来たのに、よく場所が分かったね」
「Webカタログを、事前に確認しました」
「確認って、どのくらい」
「……三晩です」
「三晩」
「チェックは五十七サークルでした。本日は時間の都合で、十九に絞りました」
「絞ってそれなんだ」
「優先順位づけは、業務の基本です」
「業務外なんだよね、それ」
「……基本は、応用できます」
彼女は、鞄からアルミの小袋を出した。
破って、中身を口に入れて、ペットボトルの水で流しこんだ。
粉だった。
「なにそれ」
「薬です」
「なんの」
「……漢方です」
「体調悪いの」
「悪くありません」
「じゃあ、なんで」
「……予防です」
「なんの予防?」
「…………」
彼女は、空になった小袋を、丁寧に四つ折りにして鞄に戻した。
捨てなかった。
この会場のごみ箱は、たしかに混んでいる。混んでいるが、そういう理由でないことは、たぶん俺にも分かる。
「馬剃さん」
「はい」
「それ、いつから飲んでるの」
「十六年前からですっ」
「即答」
「即答です」
「大声」
「……申し訳ありません」
小袋に、印刷された文字が見えた。
読めなかったふりをした。
読めたのだが、読めなかったことにするほうが、たぶん、この場のためである。
俺は、それ以上、何も聞かなかった。
聞かなかったが、一つだけ分かったことがある。
この人の四十五分は、俺の一日ぶんくらい濃い。
途中、写真を求められたのは、六回だった。
六回とも、彼女は同じ対応をした。
「申し訳ありません。サークルスペース内での撮影はできかねます。コスプレエリアでしたら、十四時以降でしたら伺えます」
六人のうち、四人が「あ、はい」と言って、そのまま本を買っていった。
一人だけ、少し粘った方がいた。
俺が立ち上がろうとしたら、彼女が先に言った。
「恐れ入りますが、ここは頒布の場です。後ろにお並びの方がいらっしゃいますので」
その人は、頭を下げて、離れていった。
……強い。
この人は、十六年前も強かった。
高校の廊下で、上級生を三人止めているのを見たことがある。
最後の一冊が出る三人前で、彼女が静かに立ち上がった。
「恐れ入ります。まもなく頒布終了です。おおよそ、あと三名様で完売いたします」
列から、小さく「おおー」と声が上がった。
三名様は、全員お買い上げだった。
十三時四十分、完売。
俺は、空になった机を見ていた。
五年やっていて、完売は初めてだった。
完売の札を出すと、鉄道の方とダムの方が、小さく拍手をくれた。
「これは、慣例ですか」
「慣例です」
天愛星さんが、慣例、と小さく繰り返した。
四月の居酒屋で、この人がいちばん憎んでいた単語である。ここでは、拍手の意味だった。
精算の前に、俺は隣へダム本を買いに行った。
「新刊ください」
「温水さん、完売おめでとうございます」
「どうも。そちらは」
「あと六十部です」
「……」
「ダムは、これからなんで」
「これから、ですか」
「放流は、午後なんで」
「……名言ですね」
「名言ですかね」
「手帳に、書きます」
「書くんだ」
名言なのかどうかは、分からなかった。
「馬剃さん」
「はい」
「完売した」
「はい」
「初めてだ」
「そうですか」
「五年で初めて」
「……そうですか」
天愛星さんは、釣銭の計算をしていた。
電卓を叩きながら、こちらを見なかった。
俺は、空になった机を見た。
五年、この机の上には、必ず本が残っていた。
三十部とか、四十部とか。
残ったぶんを鞄に詰めて、りんかい線で持って帰って、押し入れに入れる。
それが、俺の八月十六日だった。
今年は、何もない。
布と、釣銭箱と、「完売」の札しかない。
……この人が、来たからだ。
二か月ぶんの手作業を三時間で潰して、十七本の折れ線を五色にして、六十三項目のよくある質問を全部読んだ人が、いま、隣で電卓を叩いている。
見本誌の角度を変えたのも、列を整理したのも、この人である。
頭の中で、なにかが決壊した。
「馬剃さん」
「はい」
「ありがとうございました」
「……いえ」
「本当に、ありがとうございました」
「二回、言わなく――」
最後まで、聞かなかった。
「いや、本当に、ありがとう! なんとお礼を言ったらいいか!」
「……」
「完売だよ! 五年で初めてなんだ!」
「……はい」
「グラフ! あのグラフだよ! あれ、六分だろ! 六分!」
「……六分です」
「六分!」
「……はい」
「見本誌の角度も! 俺、五年、まっすぐ立ててたんだよ! まっすぐ!」
「……はい」
「二か月ぶんが三時間だよ! 俺の二か月が!」
「……あの」
「よくある質問も六十三項目! 六十三!」
「……温水さん」
「なに!」
「……手が」
「手?」
「手です」
俺は、下を見た。
俺の両手が、彼女の右手を握って、上下に振っていた。
電卓が、かたかた鳴っている。
ぶんぶん、である。
いつからかは、分からない。
――で、俺はその手を離して、両腕を広げて、そのまま彼女を抱きしめた。
一連の動作である。
途中に、思考はなかった。
十二年ぶんの社会人経験と、三十四年ぶんの人生と、十六年ぶんの分別が、そのとき全部、席を外していた。
猫耳が、俺の顎に当たった。
エプロンの生地が、腕の内側で、かさ、と鳴った。
石鹸の匂いがした。
十六年前、階段の下で嗅いだのと、同じ匂いである。
あのとき俺は、その匂いを、頭の中のラノベの棚に押しこんで処理した。
いまは、処理できない。
目の高さに、首筋があった。
白い襟の、少し上。
小さなホクロが、一つある。
十六年前と、同じ場所である。
天愛星さんは、動かなかった。
一秒、動かなかった。
二秒目に、彼女の両腕が、俺の背中のあたりで行き場を失って止まった。
三秒目に、耳が赤くなった。
――あ。
俺の思考が、戻ってきた。
戻ってきて、状況を確認した。
一、俺はいま、同僚を抱きしめている。
二、場所は東京ビッグサイトの東ホールである。
三、両隣に、五年目の顔なじみが二人いる。
四、四月一日に、俺は課の全員の前で「知り合い程度です」と言った。
……整理したら、今日二度目の悪化をした。
「――っ」
俺は、腕を離した。
離して、両手を、肩の高さまで上げた。
上げたのは、何かの本能である。
「ごっ、ごめんっ!」
「……」
「いまの、その、わざとじゃなくて」
「……」
「いや、わざとではあるんだけど、意図としては」
――#MeToo案件だ。
「違いますっ」
「え」
「#MeToo案件では、ありませんっ!」
「……声、出てた?」
「出ておりましたっ!」
「いや、でも、これ、完全にそれだって」
「該当しませんっ!」
「手を握って、上下に振って、そのあと抱きしめたよ。抱きしめたんだよ」
「――当事者が、該当しないと申し上げておりますっ!」
「就業規則の、何条だっけ」
「ハラスメント防止規程第四条ですっ」
「即答」
「即答ですっ」
「なんで知ってんの」
「――暗記しておりますからっ!」
「月曜、相談窓口に自分から行く」
「行かないでください」
「先に申告したほうが、心証がいいんだよ」
「行かないでくださいっ!」
「委員会が立ち上がったら、俺は」
「立ち上がりませんっ!」
「立ち上がらないの」
「立ち上がりませんっ! 申立人が、おりませんっ!」
……申立人。
「馬剃さん」
「はいっ」
「申立人、いないの」
「――おりませんっ!」
天愛星さんは、その右手を左手で包んで、机の下に隠した。
隠してから、こちらを見た。
顔が、赤いというより、湯気の出そうな色だった。
「温水さんっ」
「はい」
「ただいまのは、業務上の必要が、ありましたかっ!」
「ないです」
「ないんですかっ!」
「ないな」
「ないのに、なぜっ!」
「嬉しかったから」
「…………」
「馬剃さん?」
「――そういうのが、いけないんですっ!」
「怒られてる」
「怒っておりませんっ!」
「怒ってるって」
「あなたは、いつもそうですっ! 人の、こ、心の準備の、外側から来ますっ!」
「心の準備」
「要りますっ! 私には、要るんですっ!」
天愛星さんは、両手で顔を扇いだ。
扇いで、ペットボトルの水を三口飲んだ。
飲んで、まだ赤かった。
「……失礼しました。ただいまのは、記録しないでください」
「今日、二回目だよ、それ」
「二回、申し上げますっ」
「馬剃さん」
「なんですかっ」
「まだ赤いよ」
「――赤くありませんっ!」
「怒ってる理由、聞いてもいい?」
「お答えできませんっ!」
「今日、二回目だな、それも」
「二回目ですっ!」
「あと」
「まだあるんですかっ」
「その猫耳としっぽ、触らせて」
「セ、セクハラですっ!!」
「いや、衣装だから」
「衣装は、私が着ておりますっ!」
「あ、そうか」
「そうかで済む話では、ありませんっ!」
「じゃあ、耳だけ」
「減っておりませんっ!」
「委員会、立ち上がる?」
「――立ち上げますっ! 申立人が、できましたっ!」
立ち上がった。
三分前に、立ち上がらないと言った委員会が、立ち上がった。
彼女は、しっぽを両手で押さえて、椅子ごと三十センチ下がった。
彼女は、電卓を持ち直した。
持ち直して、叩きはじめた。
叩く指が、一度、同じキーを二回押した。
押してから、全部消して、最初からやり直していた。
やり直して、また間違えた。
二回目のことは、俺も、見なかったことにする。
「売上、七万五千円です。うち釣銭準備金が五万ですので」
「馬剃さん」
「はい」
「そこ、あとでいい」
「精算は、当日中が原則です」
「原則は分かるけど」
「では、三分お待ちください」
三分後、彼女は電卓を置いた。
置いて、両手を膝の上にそろえた。
「……終わりました」
「はい」
「あの」
「はい」
「楽しかったです」
俺は、返事ができなかった。
「私、こういう場所に来たのは、初めてです」
「……そうだよね」
「生まれて、初めてです」
「うん」
「人が、多いですね」
「多いな」
「あんなに人がいるのに、誰も、他人のことをどうこう言いません」
「言わないな」
「……不思議です」
俺は、その言葉に、少し詰まった。
この人が十年いた場所は、たぶん、逆だったのだと思う。
人がいて、その人たちが、他人のことをどうこう言う場所。
「ここ、誰が何着てても、誰も気にしないから」
「はい」
「本の内容も、誰も否定しない。買うか、買わないかだけだから」
「……いい場所ですね」
「いい場所だよ」
「……もっと、早く来ればよかったです」
俺は、そのとき、いろんなことを同時に考えた。
この人は、高校三年間、生徒会にいた。
大学四年間、勉強していた。
文科省で十年、深夜二時に語尾を直していた。
その十七年のあいだ、この場所は毎年二回、ここにあった。
来られたはずである。
誰にも止められていない。
……いや。
止められてはいない。
ただ、来る理由が、なかったのだと思う。
今日、この人には、理由があった。
理由は、俺だった。
その事実を、俺は、たぶん、まだうまく持てていない。
東ホールの天井は、高い。
人の声が全部混ざって、上のほうで一つの音になっている。
その音が、ずっと降ってきている。
俺は、五年、この音の下にいる。
この人は、十六年、この音を知らなかった。
「馬剃さん」
「はい」
「来年も、来る?」
言ってから、俺は、自分が何を言ったのかを理解した。
来年である。
この人が来年もここにいるかどうかは、分からない。
俺が来年もここにいるかどうかも、分からない。
なのに、俺は、来年の話をした。
天愛星さんは、猫耳を少し直した。
「……にゃあ」
俺は、空になった机に、額をつけた。
つけたまま、しばらく動かなかった。
周りが、うるさかった。
うるさいのに、頭の中は、やけに静かだった。
――言った。
言いやがった。
十六年前も、この人は言った。
放課後の廊下で、二期の衣装で、震える声で。
あのとき、この人は先に宣言していた。
「にゃんとかは言いませんけど」と、自分から言った。
言って、最後に、言った。
あれは、手段だった。
目的があって、そのために出された音である。
推薦人がほしくて、俺の弱いところを正確に撃ってきた。
実際、効いた。効いて、俺は壇上に立った。
いま、この人は、何も頼んでいない。
頼みごとではない、と、自分で言った。
頼んでいないのに、言った。
……手段ではない「にゃあ」を、俺は、初めて聞いた。
「温水さん」
「……うん」
「顔を上げてください」
「無理」
「撤収の時間です」
「あと三分」
「三分後には、次の方が来ます」
正論だった。
俺は、顔を上げた。
目の前に、三期のチカピョンがいた。
入試広報課の、職員である。
撤収は、二十分で終わる。
布をたたむとき、彼女が反対側の端を持った。
両端を持って、真ん中で合わせる。
合わせたところで、指が、触れた。
〇・二秒である。
「……失礼しました」
「いや、こっちこそ」
「私が持ちます」
「軽いから、いいって」
「持ちますっ」
布は、たぶん三百グラムくらいだった。
三百グラムを、この人は両手で抱えて運んだ。
「馬剃さん」
「はい」
「これ」
俺は、机の上に一冊だけ残った見本誌を差しだした。
「完売したから、馬剃さんの分がない」
「……」
「見本誌でよければ」
天愛星さんは、それを両手で受け取った。
受け取って、それから、鞄を開けた。
開けて、財布を出した。
「五百円です」
「いらないよ」
「頒布価格です」
「売り子は、一冊もらえるんだよ。毎年の慣例で」
「…………」
「慣例です」
彼女の手が、財布を持ったまま止まった。
止まって、そろそろと閉じた。
「……いただきます」
「どうぞ」
「……頂戴、いたします」
「二回言ったな」
「二回、言いました」
二回言うときのこの人は、たいてい、嘘をつくか、本当のことを言うかのどちらかである。
今日は、後者だと思う。
俺は、そこで、聞かなくてもいいことを聞いた。
「馬剃さん」
「はい」
「さっきの」
「なんでしょうか」
「さっきの、あれ」
「存じません」
「言ったよね」
「言っておりません」
「言ったって」
「記録に、残っておりませんっ」
「俺の頭の中に残ってる」
「――没収しますっ」
「根拠は」
「ありませんっ!」
天愛星さんは、猫耳を外した。
外して、両手で持った。
持ったまま、しばらく、床のあたりを見ていた。
それから、聞こえるか聞こえないかの声で、言った。
「……『はい』と、申し上げました」
東ホールの音が、遠くなった。
三千人が動いている場所で、音が遠くなるということが、あるらしい。
「馬剃さん」
「はい」
「もう一回」
「――お断りしますっ!」
彼女は、猫耳をかぶり直した。
かぶり直して、九回目の位置調整をして、それから、まっすぐこちらを向いた。
「十四時以降と、六名の方に申し上げました」
「あー、言ってたね」
「参ります。約束ですので」
「うん」
「……荷物を、見ていてください」
「見てる」
厚底のブーツが、島と島のあいだを、まっすぐ歩いていった。
背中が、真っ赤だった。
俺は、頭の中のラノベの棚に、もう一度手を伸ばした。
伸ばして、途中でやめた。
……閉めよう。
俺は、たぶん、そのとき決定的に何かを諦めた。
諦めたのが何だったのかは、この日は、まだ分からなかった。
分からないまま、俺は、机に残った「完売」の札を鞄にしまった。
来年も、たぶん、俺はここにいる。
……たぶん、一人ではない。
根拠はない。
根拠はないが、あの人は四月から、根拠のないことを一度も言っていない。
――今日、一回だけ、言った。
猫の鳴き真似で、言った。