大学職員の僕たち   作:房吉

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~11敗目~ 東ホール、し-32b(後編)

 (八月十六日/温水視点)

 

 十一時、開場。

 

 最初の一時間で、六十二部出た。

 

 六十二部という数字を、俺は、たぶん一生忘れない。

 

 去年の一日ぶんが、九十部である。

 それを、一時間で三分の二までいった。

 

 十一時四十分の時点で、俺は状況が理解できていなかった。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「なんか、人が来てるんだけど」

 

「来ていますね」

 

「なんで?」

 

「見本誌です」

 

 彼女は、列を見ながら答えた。

 

「開いてあるページを、変えました」

 

「え」

 

「面積グラフのページです。通路から見えるように、角度をつけて立ててあります」

 

「……いつ」

 

「設営中に。ご相談せずに変更しました。申し訳ありません」

 

「いや、いいけど」

 

「通りかかった方が、足を止めます。足を止めた方は、見本誌を手に取ります。手に取った方は、七割ほど購入されます」

 

「数えてるの?」

 

「記録は取ります」

 

「なんの記録」

 

「通過人数と、停止人数と、購入人数です」

 

「それ、いま数えながら売ってるの」

 

「並行処理ですっ」

 

 ……この人、開場から四十分で、うちのブースの転換率を出している。

 

 途中、「既刊はありますか」と聞かれた。

 

「すみません、今年は新刊だけで」

 

「じゃあ来年、これが既刊になったやつを」

 

「……残ってたら」

 

 残らない予定である。隣で、売り子が小さくうなずいた。

 

 結論から言うと、百五十部は、十三時四十分に完売した。

 

 俺の島は、そんなに人が来るところではない。

 

 評論・情報の、しかもライトノベルの統計である。

 毎年、十二時までに三十部出れば上出来だった。

 

 今年は、十一時十二分に、列ができた。

 

 列の理由は、二つある。

 

 一つは、グラフである。

 

 見本誌を立ててあるページを、彼女が変えた。

 開場前に、彼女が「ここを開いておきましょう」と言って、面積グラフのページを見せる形にした。

 

 通りかかった人が、足を止める。

 止まって、見本誌を手に取る。取ると、たいてい買う。

 

 もう一つは、言うまでもない。

 

「五百円になります。ありがとうございます」

 

 天愛星さんは、恐ろしく速かった。

 

 釣銭を出す手が、速い。

 列の三人先まで見ていて、千円札の人と五百円玉の人を、先に分けている。

 

 途中から、俺は本を取るだけになった。

 

 取るだけになったので、手が空いた。

 

 空いた視線が、隣にいった。

 

 

 

 

 天愛星さんは、背筋をまっすぐにして座っていた。

 

 釣銭を渡すとき、両手を添える。

 渡し終わると、相手の目を見て、小さく頭を下げる。角度は、毎回同じである。

 

 猫耳の下で、まとめた髪が少し揺れていた。

 

 うなじに、小さなホクロがある。

 

 十六年前と、同じ場所である。

 

 ……当たり前だ。ホクロは動かない。

 

 動かないと分かっているのに、俺は、同じ場所にあることを確認していた。

 

 

 

 

 ――生徒会室だ。

 

 

 

 

 十六年前、申請書を持っていくたびに、この人はこの姿勢で座っていた。

 

 書類に向かうときの背筋と、紙をそろえる指と、真剣なときに少しだけ寄る眉。

 

 全部、同じだった。

 

 十六年、ちゃんと経っている。

 

 経っているのに、隣の横顔だけが、経っていなかった。

 

 ……いや、違う。

 

 経っている。

 経った上で、同じなのだ。それは、たぶん、変わっていないことより重い。

 

 

 

 

 俺は、そこで自分の思考に気づいて、頭の中のラノベの棚を探した。

 

 「文化祭で売り子をするヒロインに見とれる主人公」は、あるあるの構図である。

 あるあるなので、処理できるはずだった。

 

 できなかった。

 

 この売り子は、俺の棚の、どこにもいなかった。

 

 

 

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「手が、止まっています」

 

「……すみません」

 

「三冊、遅れています」

 

「はい」

 

「温水さん」

 

「はい」

 

「なにを、見ておられましたか」

 

「……見てないです」

 

「本日、二回目の『見ていない』ですっ」

 

「数えてるんだ」

 

「数えますっ」

 

 俺は、本を取る作業に戻った。

 

 戻ったが、遅れた三冊ぶんの理由は、言わなかった。

 

 列の中に、去年も来てくれた常連の方がいた。

 

「今年、様子が違いますね」

 

「グラフが、よくなったんで」

 

 俺は、そう答えた。借り物の言葉である。

 

「温水さん」

 

「うん」

 

「残り四十二部です」

 

「え、もう?」

 

「十二時三十分の時点で、四十二部です。あと一時間で切れます」

 

「……」

 

「頒布制限をかけますか」

 

「かけない」

 

「よろしいのですか」

 

「並んでくれた人に、一冊ずつ渡したい」

 

「……承知しました」

 

「あと、そのほうが気持ちいいから」

 

「……それも、記録します」

 

「最後尾札は、どなたが持つのですか」

 

「並んでる人の最後の人。渡すと、みんな普通に持ってくれる」

 

「……初対面の方に、札を」

 

「持ってくれるんだよ、これが」

 

「不思議な場所です」

 

「不思議かな」

 

「役所で、初対面の方に何かを預けたことは、十年で一度もありません」

 

「まあ、そうだろうね」

 

「ここは、預けますね」

 

「預けるね」

 

「では、完売時のアナウンス文を用意します」

 

「用意するんだ」

 

「列の最後尾の方に、事前にお伝えする必要があります」

 

「文面は」

 

「『まもなく頒布終了です。おおよそ、あと二十名様で完売いたします』」

 

「おおよそ、が入るんだ」

 

「断定して外すと、信用に関わりますので」

 

「役所っぽい」

 

「役所で覚えました」

 

「使いどころが独特だな」

 

「応用ですっ」

 

 この人は、たぶん、コミケの運営をやらせても優秀である。

 

 十二時前、鉄道の方が「西のカレー、四十分待ちだそうです」と情報をくれた。

 

「並ばれるのですか」

 

「並ばないです。これが昼です」

 

「昼食は、四十分待つ価値がある行事では」

 

「ないです。本が優先なんで」

 

「……理解しました」

 

 俺は、鞄からゼリー飲料を出した。

 

「……それが、昼ですか」

 

「コミケの昼です」

 

「文化ですか」

 

「文化です」

 

「では、来年は、私が用意します」

 

「来年」

 

「――仮定の話ですっ」

 

 十二時を過ぎたあたりで、両隣の方が声をかけてきた。

 

「温水さん、今年すごいですね」

 

「なんか、そうみたいで」

 

「あと、その、そちらの方は」

 

「あ、うちの、えっと」

 

 ――なんだ。

 

 俺は、そこで詰まった。

 

 同僚である。

 同僚だが、「同僚がチカピョンの格好でうちの売り子をやっています」という説明は、成立しない。

 

「売り子の馬剃と申します。本日はよろしくお願いいたします」

 

 天愛星さんが、座ったまま、きれいに頭を下げた。

 

 鉄道の方も、ダムの方も、少し姿勢を正した。

 

「あ、はい、こちらこそ」

 

「あの、なにかありましたら、お声がけください」

 

「はい」

 

 ……名刺を出さなくてよかった。

 

 出しかねない人である。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「名刺、持ってきてる?」

 

「持参しております」

 

「なんで」

 

「万が一です」

 

「万が一って、この前〇・〇一パーセントって言ってましたよね」

 

「本日は、三パーセントと見積もっております」

 

「上がってる」

 

「場所が場所ですので」

 

 

 

 

 十二時半に、交代で昼休憩を取ることにした。

 

「四十五分で戻ります」

 

「一時間でいいよ」

 

「四十五分です」

 

 彼女は、そう言って、立ち上がった。

 

 立ち上がる前に、手帳を確認していた。

 開いたページに、会場の見取り図が貼ってあった。丸が、十九個ついていた。

 

「馬剃さん、それ」

 

「昼食の、経路の確認です」

 

「丸、十九個あるけど」

 

「……経路上の、確認事項です」

 

 チカピョンが、島と島のあいだを、まっすぐ歩いていった。

 

 迷いのない歩き方だった。

 初めて来た場所の、歩き方ではなかった。

 

 

 

 

 四十四分後、彼女は戻ってきた。

 

 

 

 

 両手に、紙袋が三つあった。

 

 ぱんぱんである。

 

 あと、鼻の下に、赤い筋が一本あった。

 

 

 

 

「……昼飯は」

 

「摂りました。ゼリー飲料を、立ち止まって」

 

「歩きながらじゃなくて」

 

「歩行中の飲食は、推奨されていません」

 

「そこは守るんだ」

 

「はい」

 

「あと、馬剃さん」

 

「はい」

 

「鼻血、出てます」

 

「……」

 

 彼女の手が、止まった。

 

 止まって、それから、鞄からポケットティッシュが出てきた。

 出てくるまで、一秒かからなかった。

 

「出ていません」

 

「もう拭いてるじゃん」

 

「……乾燥です」

 

「八月だよ」

 

「会場の空調による、乾燥です」

 

「今日の東ホール、たぶん湿度八十あるけどな」

 

「……個人の乾燥です」

 

「個人の乾燥ってなに」

 

 

 

 

「――う、うるさいですねっ!」

 

 

 

 

 声が、ひっくり返った。

 

 入試広報課の職員が、東京ビッグサイトの東ホールで、立ち上がっていた。

 

 立ち上がった拍子に、パイプ椅子が後ろに倒れた。

 

 がしゃん。

 

 東ホールの喧騒の中で、その一連だけが、やけにくっきり通った。

 両隣の島が、そろってこちらを見た。

 

「乾燥ですっ! 乾燥ですし、それ以上でもそれ以下でもありませんっ! 私の鼻腔の状態は、私の管轄ですっ!」

 

「管轄」

 

「管轄ですっ!」

 

 天愛星さんは、かあっ、と首まで赤くなって、それから、ぴん、と背筋を伸ばした。

 

 伸ばしてから、椅子が倒れていることに気づいた。

 

 気づいて、そろそろと起こした。

 

 起こして、座った。

 

「……失礼しました。ただいまのは、記録しないでください」

 

「してないよ」

 

「頭の中もです」

 

「そこまで没収されるんですか」

 

「没収しますっ」

 

「没収の根拠は」

 

「――ありませんっ」

 

「ないんだ」

 

「ありませんが、しますっ」

 

 彼女は、ティッシュを小さく畳んで、まっすぐ前を見た。

 

 耳が、赤かった。

 鼻血の余りでは、ないと思う。

 

 俺は、それ以上、追及しなかった。

 

 しなかったが、一つだけ思い出していた。

 

 この人の鼻血を見るのは、十六年ぶり、二回目である。

 一回目は体育館の壇上で、全校生徒の前だった。あのときは、絶叫がついていた。

 

 今回は、無言である。

 

 ……静かになったぶん、たぶん、こっちのほうが重症である。

 

 俺は、紙袋に目をやった。

 

 いちばん上の袋から、サークル名の入った紙が見えていた。

 見覚えのある名前だった。正確には、名前ではなく、そのジャンルに見覚えがあった。

 

 俺は、五年この会場にいる。

 どの島が何の島かくらいは、分かる。

 

「……それは」

 

「調査です」

 

「調査」

 

「業務外の、個人的な調査です」

 

「調査で、鼻血が出る?」

 

 天愛星さんの肩が、びくっ、と跳ねた。

 

 跳ねて、紙袋を両手で抱えこんだ。

 抱えこんでから、抱えこんだことに自分で気づいて、そろそろと下ろした。

 

「……体質です」

 

「体質」

 

「昔からの体質です。ご存じのはずですが」

 

「まあ、知ってるけど」

 

「では、話は終わりです」

 

「何冊」

 

「……二十四冊です」

 

「即答なんだ」

 

「精算のためです。合計、一万八千四百円でした」

 

「聞いてないです」

 

「一冊あたり、七百六十六円です」

 

「割らなくていい」

 

「単価は、重要な指標ですっ」

 

「その単価、俺に報告する必要ある?」

 

「…………」

 

「ないよね」

 

「……ありませんっ」

 

 彼女は、紙袋を机の下の、いちばん奥に置いた。

 

 置き方が、丁寧だった。

 荷物というより、預かり物の置き方だった。

 

「というか、初めて来たのに、よく場所が分かったね」

 

「Webカタログを、事前に確認しました」

 

「確認って、どのくらい」

 

「……三晩です」

 

「三晩」

 

「チェックは五十七サークルでした。本日は時間の都合で、十九に絞りました」

 

「絞ってそれなんだ」

 

「優先順位づけは、業務の基本です」

 

「業務外なんだよね、それ」

 

「……基本は、応用できます」

 

 

 

 

 彼女は、鞄からアルミの小袋を出した。

 

 破って、中身を口に入れて、ペットボトルの水で流しこんだ。

 

 粉だった。

 

「なにそれ」

 

「薬です」

 

「なんの」

 

「……漢方です」

 

「体調悪いの」

 

「悪くありません」

 

「じゃあ、なんで」

 

 

 

 

「……予防です」

 

 

 

 

「なんの予防?」

 

「…………」

 

 彼女は、空になった小袋を、丁寧に四つ折りにして鞄に戻した。

 

 捨てなかった。

 この会場のごみ箱は、たしかに混んでいる。混んでいるが、そういう理由でないことは、たぶん俺にも分かる。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「それ、いつから飲んでるの」

 

「十六年前からですっ」

 

「即答」

 

「即答です」

 

「大声」

 

「……申し訳ありません」

 

 

 

 

 小袋に、印刷された文字が見えた。

 

 読めなかったふりをした。

 読めたのだが、読めなかったことにするほうが、たぶん、この場のためである。

 

 俺は、それ以上、何も聞かなかった。

 

 聞かなかったが、一つだけ分かったことがある。

 この人の四十五分は、俺の一日ぶんくらい濃い。

 

 

 

 

 途中、写真を求められたのは、六回だった。

 

 六回とも、彼女は同じ対応をした。

 

「申し訳ありません。サークルスペース内での撮影はできかねます。コスプレエリアでしたら、十四時以降でしたら伺えます」

 

 六人のうち、四人が「あ、はい」と言って、そのまま本を買っていった。

 

 一人だけ、少し粘った方がいた。

 

 俺が立ち上がろうとしたら、彼女が先に言った。

 

「恐れ入りますが、ここは頒布の場です。後ろにお並びの方がいらっしゃいますので」

 

 その人は、頭を下げて、離れていった。

 

 ……強い。

 

 この人は、十六年前も強かった。

 高校の廊下で、上級生を三人止めているのを見たことがある。

 

 最後の一冊が出る三人前で、彼女が静かに立ち上がった。

 

「恐れ入ります。まもなく頒布終了です。おおよそ、あと三名様で完売いたします」

 

 列から、小さく「おおー」と声が上がった。

 三名様は、全員お買い上げだった。

 

 

 

 

 十三時四十分、完売。

 

 俺は、空になった机を見ていた。

 

 五年やっていて、完売は初めてだった。

 

 完売の札を出すと、鉄道の方とダムの方が、小さく拍手をくれた。

 

「これは、慣例ですか」

 

「慣例です」

 

 天愛星さんが、慣例、と小さく繰り返した。

 四月の居酒屋で、この人がいちばん憎んでいた単語である。ここでは、拍手の意味だった。

 

 精算の前に、俺は隣へダム本を買いに行った。

 

「新刊ください」

 

「温水さん、完売おめでとうございます」

 

「どうも。そちらは」

 

「あと六十部です」

 

「……」

 

「ダムは、これからなんで」

 

「これから、ですか」

 

「放流は、午後なんで」

 

「……名言ですね」

 

「名言ですかね」

 

「手帳に、書きます」

 

「書くんだ」

 

 名言なのかどうかは、分からなかった。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「完売した」

 

「はい」

 

「初めてだ」

 

「そうですか」

 

「五年で初めて」

 

「……そうですか」

 

 天愛星さんは、釣銭の計算をしていた。

 

 電卓を叩きながら、こちらを見なかった。

 

 俺は、空になった机を見た。

 

 五年、この机の上には、必ず本が残っていた。

 

 三十部とか、四十部とか。

 残ったぶんを鞄に詰めて、りんかい線で持って帰って、押し入れに入れる。

 

 それが、俺の八月十六日だった。

 

 今年は、何もない。

 

 布と、釣銭箱と、「完売」の札しかない。

 

 

 

 

 ……この人が、来たからだ。

 

 

 

 

 二か月ぶんの手作業を三時間で潰して、十七本の折れ線を五色にして、六十三項目のよくある質問を全部読んだ人が、いま、隣で電卓を叩いている。

 

 見本誌の角度を変えたのも、列を整理したのも、この人である。

 

 頭の中で、なにかが決壊した。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「ありがとうございました」

 

「……いえ」

 

「本当に、ありがとうございました」

 

「二回、言わなく――」

 

 最後まで、聞かなかった。

 

「いや、本当に、ありがとう! なんとお礼を言ったらいいか!」

 

「……」

 

「完売だよ! 五年で初めてなんだ!」

 

「……はい」

 

「グラフ! あのグラフだよ! あれ、六分だろ! 六分!」

 

「……六分です」

 

「六分!」

 

「……はい」

 

「見本誌の角度も! 俺、五年、まっすぐ立ててたんだよ! まっすぐ!」

 

「……はい」

 

「二か月ぶんが三時間だよ! 俺の二か月が!」

 

「……あの」

 

「よくある質問も六十三項目! 六十三!」

 

「……温水さん」

 

「なに!」

 

「……手が」

 

「手?」

 

「手です」

 

 俺は、下を見た。

 

 俺の両手が、彼女の右手を握って、上下に振っていた。

 

 電卓が、かたかた鳴っている。

 

 ぶんぶん、である。

 

 いつからかは、分からない。

 

 ――で、俺はその手を離して、両腕を広げて、そのまま彼女を抱きしめた。

 

 

 

 

 一連の動作である。

 

 

 

 

 途中に、思考はなかった。

 

 十二年ぶんの社会人経験と、三十四年ぶんの人生と、十六年ぶんの分別が、そのとき全部、席を外していた。

 

 猫耳が、俺の顎に当たった。

 

 エプロンの生地が、腕の内側で、かさ、と鳴った。

 

 

 

 

 石鹸の匂いがした。

 

 

 

 

 十六年前、階段の下で嗅いだのと、同じ匂いである。

 

 あのとき俺は、その匂いを、頭の中のラノベの棚に押しこんで処理した。

 

 いまは、処理できない。

 

 目の高さに、首筋があった。

 

 白い襟の、少し上。

 

 小さなホクロが、一つある。

 

 

 

 

 十六年前と、同じ場所である。

 

 

 

 

 天愛星さんは、動かなかった。

 

 一秒、動かなかった。

 

 二秒目に、彼女の両腕が、俺の背中のあたりで行き場を失って止まった。

 

 三秒目に、耳が赤くなった。

 

 

 

 

 ――あ。

 

 

 

 

 俺の思考が、戻ってきた。

 

 戻ってきて、状況を確認した。

 

 一、俺はいま、同僚を抱きしめている。

 二、場所は東京ビッグサイトの東ホールである。

 三、両隣に、五年目の顔なじみが二人いる。

 四、四月一日に、俺は課の全員の前で「知り合い程度です」と言った。

 

 ……整理したら、今日二度目の悪化をした。

 

「――っ」

 

 俺は、腕を離した。

 

 離して、両手を、肩の高さまで上げた。

 

 上げたのは、何かの本能である。

 

「ごっ、ごめんっ!」

 

「……」

 

「いまの、その、わざとじゃなくて」

 

「……」

 

「いや、わざとではあるんだけど、意図としては」

 

 

 

 

 ――#MeToo案件だ。

 

 

 

 

「違いますっ」

 

「え」

 

「#MeToo案件では、ありませんっ!」

 

「……声、出てた?」

 

「出ておりましたっ!」

 

「いや、でも、これ、完全にそれだって」

 

「該当しませんっ!」

 

「手を握って、上下に振って、そのあと抱きしめたよ。抱きしめたんだよ」

 

「――当事者が、該当しないと申し上げておりますっ!」

 

「就業規則の、何条だっけ」

 

「ハラスメント防止規程第四条ですっ」

 

「即答」

 

「即答ですっ」

 

「なんで知ってんの」

 

「――暗記しておりますからっ!」

 

「月曜、相談窓口に自分から行く」

 

「行かないでください」

 

「先に申告したほうが、心証がいいんだよ」

 

「行かないでくださいっ!」

 

「委員会が立ち上がったら、俺は」

 

「立ち上がりませんっ!」

 

「立ち上がらないの」

 

「立ち上がりませんっ! 申立人が、おりませんっ!」

 

 

 

 

 ……申立人。

 

 

 

 

「馬剃さん」

 

「はいっ」

 

「申立人、いないの」

 

「――おりませんっ!」

 

 天愛星さんは、その右手を左手で包んで、机の下に隠した。

 

 隠してから、こちらを見た。

 

 顔が、赤いというより、湯気の出そうな色だった。

 

「温水さんっ」

 

「はい」

 

「ただいまのは、業務上の必要が、ありましたかっ!」

 

「ないです」

 

「ないんですかっ!」

 

「ないな」

 

「ないのに、なぜっ!」

 

「嬉しかったから」

 

「…………」

 

「馬剃さん?」

 

「――そういうのが、いけないんですっ!」

 

「怒られてる」

 

「怒っておりませんっ!」

 

「怒ってるって」

 

「あなたは、いつもそうですっ! 人の、こ、心の準備の、外側から来ますっ!」

 

「心の準備」

 

「要りますっ! 私には、要るんですっ!」

 

 天愛星さんは、両手で顔を扇いだ。

 

 扇いで、ペットボトルの水を三口飲んだ。

 

 飲んで、まだ赤かった。

 

「……失礼しました。ただいまのは、記録しないでください」

 

「今日、二回目だよ、それ」

 

「二回、申し上げますっ」

 

「馬剃さん」

 

「なんですかっ」

 

「まだ赤いよ」

 

「――赤くありませんっ!」

 

「怒ってる理由、聞いてもいい?」

 

「お答えできませんっ!」

 

「今日、二回目だな、それも」

 

「二回目ですっ!」

 

「あと」

 

「まだあるんですかっ」

 

「その猫耳としっぽ、触らせて」

 

 

 

 

「セ、セクハラですっ!!」

 

 

 

 

「いや、衣装だから」

 

「衣装は、私が着ておりますっ!」

 

「あ、そうか」

 

「そうかで済む話では、ありませんっ!」

 

「じゃあ、耳だけ」

 

「減っておりませんっ!」

 

「委員会、立ち上がる?」

 

「――立ち上げますっ! 申立人が、できましたっ!」

 

 

 

 

 立ち上がった。

 

 

 

 

 三分前に、立ち上がらないと言った委員会が、立ち上がった。

 

 彼女は、しっぽを両手で押さえて、椅子ごと三十センチ下がった。

 

 彼女は、電卓を持ち直した。

 

 持ち直して、叩きはじめた。

 

 叩く指が、一度、同じキーを二回押した。

 

 押してから、全部消して、最初からやり直していた。

 

 やり直して、また間違えた。

 

 二回目のことは、俺も、見なかったことにする。

 

「売上、七万五千円です。うち釣銭準備金が五万ですので」

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「そこ、あとでいい」

 

「精算は、当日中が原則です」

 

「原則は分かるけど」

 

「では、三分お待ちください」

 

 三分後、彼女は電卓を置いた。

 

 置いて、両手を膝の上にそろえた。

 

「……終わりました」

 

「はい」

 

「あの」

 

「はい」

 

 

 

 

「楽しかったです」

 

 

 

 

 俺は、返事ができなかった。

 

「私、こういう場所に来たのは、初めてです」

 

「……そうだよね」

 

「生まれて、初めてです」

 

「うん」

 

「人が、多いですね」

 

「多いな」

 

「あんなに人がいるのに、誰も、他人のことをどうこう言いません」

 

「言わないな」

 

「……不思議です」

 

 俺は、その言葉に、少し詰まった。

 

 この人が十年いた場所は、たぶん、逆だったのだと思う。

 

 人がいて、その人たちが、他人のことをどうこう言う場所。

 

「ここ、誰が何着てても、誰も気にしないから」

 

「はい」

 

「本の内容も、誰も否定しない。買うか、買わないかだけだから」

 

「……いい場所ですね」

 

「いい場所だよ」

 

「……もっと、早く来ればよかったです」

 

 俺は、そのとき、いろんなことを同時に考えた。

 

 この人は、高校三年間、生徒会にいた。

 大学四年間、勉強していた。

 文科省で十年、深夜二時に語尾を直していた。

 

 その十七年のあいだ、この場所は毎年二回、ここにあった。

 

 来られたはずである。

 

 誰にも止められていない。

 

 ……いや。

 

 止められてはいない。

 ただ、来る理由が、なかったのだと思う。

 

 今日、この人には、理由があった。

 

 理由は、俺だった。

 

 その事実を、俺は、たぶん、まだうまく持てていない。

 

 東ホールの天井は、高い。

 

 人の声が全部混ざって、上のほうで一つの音になっている。

 その音が、ずっと降ってきている。

 

 俺は、五年、この音の下にいる。

 

 この人は、十六年、この音を知らなかった。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「来年も、来る?」

 

 言ってから、俺は、自分が何を言ったのかを理解した。

 

 来年である。

 

 この人が来年もここにいるかどうかは、分からない。

 俺が来年もここにいるかどうかも、分からない。

 

 なのに、俺は、来年の話をした。

 

 天愛星さんは、猫耳を少し直した。

 

 

 

 

「……にゃあ」

 

 

 

 

 俺は、空になった机に、額をつけた。

 

 つけたまま、しばらく動かなかった。

 

 周りが、うるさかった。

 

 うるさいのに、頭の中は、やけに静かだった。

 

 

 

 

 ――言った。

 

 言いやがった。

 

 

 

 

 十六年前も、この人は言った。

 

 放課後の廊下で、二期の衣装で、震える声で。

 

 あのとき、この人は先に宣言していた。

 「にゃんとかは言いませんけど」と、自分から言った。

 

 言って、最後に、言った。

 

 

 

 

 あれは、手段だった。

 

 

 

 

 目的があって、そのために出された音である。

 推薦人がほしくて、俺の弱いところを正確に撃ってきた。

 

 実際、効いた。効いて、俺は壇上に立った。

 

 いま、この人は、何も頼んでいない。

 

 頼みごとではない、と、自分で言った。

 

 頼んでいないのに、言った。

 

 

 

 

 ……手段ではない「にゃあ」を、俺は、初めて聞いた。

 

「温水さん」

 

「……うん」

 

「顔を上げてください」

 

「無理」

 

「撤収の時間です」

 

「あと三分」

 

「三分後には、次の方が来ます」

 

 正論だった。

 

 俺は、顔を上げた。

 

 目の前に、三期のチカピョンがいた。

 

 入試広報課の、職員である。

 

 

 

 

 撤収は、二十分で終わる。

 

 布をたたむとき、彼女が反対側の端を持った。

 

 両端を持って、真ん中で合わせる。

 合わせたところで、指が、触れた。

 

 〇・二秒である。

 

「……失礼しました」

 

「いや、こっちこそ」

 

「私が持ちます」

 

「軽いから、いいって」

 

「持ちますっ」

 

 布は、たぶん三百グラムくらいだった。

 

 三百グラムを、この人は両手で抱えて運んだ。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「これ」

 

 俺は、机の上に一冊だけ残った見本誌を差しだした。

 

「完売したから、馬剃さんの分がない」

 

「……」

 

「見本誌でよければ」

 

 天愛星さんは、それを両手で受け取った。

 

 受け取って、それから、鞄を開けた。

 開けて、財布を出した。

 

「五百円です」

 

「いらないよ」

 

「頒布価格です」

 

「売り子は、一冊もらえるんだよ。毎年の慣例で」

 

「…………」

 

「慣例です」

 

 彼女の手が、財布を持ったまま止まった。

 

 止まって、そろそろと閉じた。

 

「……いただきます」

 

「どうぞ」

 

「……頂戴、いたします」

 

「二回言ったな」

 

「二回、言いました」

 

 二回言うときのこの人は、たいてい、嘘をつくか、本当のことを言うかのどちらかである。

 

 今日は、後者だと思う。

 

 

 

 

 俺は、そこで、聞かなくてもいいことを聞いた。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「さっきの」

 

「なんでしょうか」

 

「さっきの、あれ」

 

「存じません」

 

「言ったよね」

 

「言っておりません」

 

「言ったって」

 

「記録に、残っておりませんっ」

 

「俺の頭の中に残ってる」

 

「――没収しますっ」

 

「根拠は」

 

「ありませんっ!」

 

 天愛星さんは、猫耳を外した。

 

 外して、両手で持った。

 

 持ったまま、しばらく、床のあたりを見ていた。

 

 

 

 

 それから、聞こえるか聞こえないかの声で、言った。

 

 

 

 

「……『はい』と、申し上げました」

 

 

 

 

 東ホールの音が、遠くなった。

 

 三千人が動いている場所で、音が遠くなるということが、あるらしい。

 

「馬剃さん」

 

「はい」

 

「もう一回」

 

「――お断りしますっ!」

 

 彼女は、猫耳をかぶり直した。

 

 かぶり直して、九回目の位置調整をして、それから、まっすぐこちらを向いた。

 

「十四時以降と、六名の方に申し上げました」

 

「あー、言ってたね」

 

「参ります。約束ですので」

 

「うん」

 

「……荷物を、見ていてください」

 

「見てる」

 

 厚底のブーツが、島と島のあいだを、まっすぐ歩いていった。

 

 背中が、真っ赤だった。

 

 俺は、頭の中のラノベの棚に、もう一度手を伸ばした。

 

 伸ばして、途中でやめた。

 

 ……閉めよう。

 

 

 

 

 俺は、たぶん、そのとき決定的に何かを諦めた。

 

 

 

 

 諦めたのが何だったのかは、この日は、まだ分からなかった。

 

 分からないまま、俺は、机に残った「完売」の札を鞄にしまった。

 

 来年も、たぶん、俺はここにいる。

 

 ……たぶん、一人ではない。

 

 根拠はない。

 

 根拠はないが、あの人は四月から、根拠のないことを一度も言っていない。

 

 

 

 

 ――今日、一回だけ、言った。

 

 

 

 

 猫の鳴き真似で、言った。

 

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